暑くないですか?
>152
その通りですね。歴史とは雄大なる人間物語ですから、時には弱者が強者を
圧迫したりと、私たち常人の想像をはるかに越える事柄が起きても何ら
不思議ではありません。
私たちが沛で暮らしていた時も、秦が始皇帝の言うように万世まで続くと
思っておりましたから、その秦を高祖を長にした私たちが滅ぼすなど全く
想像の域を越えていました。
もしや、あなたも近い未来において国の頂点に昇り詰めるかもしれませんよ。
>154
我ら漢人の着る服はゆったりとした物が多いので、この時期は特に暑いの
ですよ。まして長安は夏では四十度を越えるのも珍しくないので、余計
鬱陶しく感じます。
とはいえ、宰相たる者が他人や部下の前でだらしなく素肌を晒すなど、
下手したら弾劾の口実を作りかねないので、已む無くこうしているのです
が、自由な服を着れる皆さんが羨ましい限りですよ・・・
>153
『私を…。殺して…。』少女は力なく微笑んだ。
村人たちを夜な夜な惨殺した魔物の正体は、劉邦が憧れ、韓信が
愛する項羽だったのだ!
虐待の中、微笑む事しか許されなかった少女の内に隠された涙。
その悲しみにつけいり、巣食った悪魔が二人を襲う!
果たして劉邦は憧れの項羽を殺す事が出来るのか!
次回!!”マーナセナリティ!〜傭兵〜”『夢見る様に微笑んで』。
御期待下さい。
「お兄ちゃん…。、やっぱり…お兄ちゃんのことが…」
月下に浮かび上がる義妹・項羽の幼い肢体。
兄・韓信は、その白い素肌に目を奪われた。
「いけない…」そう思いつつも、韓信の唇は項羽を求める。
屋根裏で二人を窺う劉邦の気配に気付かずに…。
いっかつ浪漫ぽるの第一弾!【項羽の口唇】好評上映中!
???・・・これな何でしょうか?
158 :
以上、自作自演でした。:03/08/18 16:16
下役人時代で嫌な事とかありましたか?
遅くなって申し訳ありません。早速答える事にします。
>157
不謹慎かもしれませんが、私もつい失笑してしまいました。
当時なら不敬の罪は免れないでしょうが、皆さんの時代なら単なる余興として
扱えますからね。157さんも、楽しまれると良いでしょう。
>158
沛で役人生活をしていた頃は、地元の上役や同僚とそれなりに交際していま
したが、時に中央もしくは他の地方から赴任した上役と衝突した事もありま
した。
沛の風習やしきたりに無知なのが多いので、意見しても無視されるか、下手
したら猛反発されるのも少なくなかったでしたね。
結局、格下の私が謝罪して事なきを得ましたが、つくづく主君に諫言した
古今の名臣は自分とは程遠い物だと思い知った物です。
貧しかった頃、何を食べてますか?
酒は飲むんですか?
なんど、劉邦を殴りたいと思いました?
>160
沛にいた頃ですな。主に粟、キビなどの雑穀を主食としていました。
皆さんの良く食べられる米は主に南方で食されていたので、それほど
良くは食べませんでしたね。
おかずでは、野菜類が中心で、たまに食べる魚や肉がご馳走扱いでした。
高祖に紹介された樊噲(はんかい)殿が屠殺(主に犬)に携わっていた
ので、その関係でよく売れ残りを分けてもらっていましたから、肉と言
えば犬でした。味は悪くないのですが雑食動物なので臭いがきつかった
のを覚えています。
>161
勿論飲みますよ。沛時代でも、よく高祖に誘われて馴染みの酒屋で杯を
酌み交わしたものです。尤も酒豪の高祖に付き合って飲むのは些か苦し
い物がありましたが。何せ私が一杯飲む間に、三杯、四杯と飲むのです
から。
酒と言えば、昔、夏(か)の禹(う)王が酒を献上され、それを飲んだ
際に美味と褒めながら、酒で国を滅ぼす君主が出るだろうと言われた話
が伝わっていましたが、高祖の大酒を諫める臣下がよく引き合いに出し
ていました。
酒と言う者は時には薬となり毒にもなる複雑な代物ですから、深く溺れ
てはならないのでしょうね。私も皆さんも気をつけましょう。
>162
畏れ多い事を言うものではありません!皇帝たる高祖に手を上げるなど
臣の身で考えられる事ではありませんよ。
・・・ですが、それでは悪いので本当の所を独り言で出します。いいで
すか!あくまでも独り言ですからね。
まだ私が役人で高祖が無頼漢の時でしたが、勤務中の私を無理矢理誘っ
て酒屋に繰り出したり、何度注意しても一向に素行を改めない高祖に、
何度か拳を振るおうとした事がありましたよ。
ですが、多くの仲間を従えるだけあって腕には自信のあった高祖を私が
殴れるはずも無く、結局一度もその様な事はありませんでした。
恩と怨を忘れない高祖の事です。もし私が殴ったら何らかの形で皇帝即
位時に返されたかもしれません。
165 :
以上、自作自演でした。:03/08/23 03:46
項羽てバカ?
呉に甘寧あらば、魏に牛金ありよ!
>165
しっ!何て事を申されるのですか。壁に耳ありと言いますよ。
皆さんの世では、魯公の欠点があからさまに表現されてますが、我々
にとっては、恐れるべき存在にして、偉大なる勇将でした。
そんなお方を悪しざまに罵るのは、165さん自身のためにも良くあり
ませんよ。
>166
この間に見せてもらった三国時代の武将ですな。一国に一人いるかど
うかの猛将が互いに戦比べをするのは、皆さんの大いに好む話でしょ
うね。戦場に立った経験の無い私でも興奮します。
もし、宜しければ、その二方の話を詳しく聞かせていただけないでし
ょうか?
蕭何 ◆XqrDqbQCBA って何様のつもり?
韓に張良あらば、楚に范増ありよ!
漢に蕭何あらば、秦に李斯ありよ!
漢に呂后あらば、秦に趙高ありよ!
>165
コロス。
171 :
以上、自作自演でした。:03/08/24 21:33
>169
楚と漢を例えてたのになぜに急に秦と漢になるのかね?
>168 曹参殿
申し訳ありません。高祖と魯公の留守を守る身としては些か
出すぎていたようです。曹参殿がご不快になられるのも無理
無い事かと。
ですが、他に人のいない以上、私が皆さんの質問に答えなけ
ればならぬので、どうか了承してください。
>169
人物の比較ですか。張良殿と范増殿に関してはおおむね同意
ですが、私と李斯殿とでは、学識や経験で大きく私が劣って
いると思いますが、その点は如何でしょうか?
最後の皇后陛下と趙高とでは、少し問題があるのでは・・・
>170 項羽(魯公)様
おお!魯公様。聞かれていましたか。
お怒りも尤ですが、165さんも、既に前非を悔いておられるので、
どうか坑埋めだけは御勘弁を!
>171
私が推測するに、時代が近いからではないでしょうか?
秦の勃興時に生を受けた者が多い漢の諸臣にとって、李斯殿ら秦
の人物は色々と参考になる存在でしたから。
そういう意味では169さんの比較の仕方は当を得ていると思いますよ。
陳余と張耳の関係って案外脆いものでしたよね・・・
刎頚の交わりって、あんなに簡単に壊れていく関係なのでしょうか?
>174
そうですね。刎頚の交わりの元祖である、藺相如(りんしょうじょ)と
廉頗(れんぱ)は故国である趙を守るという共通の目的があって結びま
したが、陳余(ちんよ)殿と張耳(ちょうじ)殿は個人的な友情として
交わりました。
貧困の頃はとても固い絆でしたが、国家や軍事に関わるようになってか
らいさかいを起こし疎遠になり、ついには憎み合う関係にまでなりまし
たな。
富貴権力は一種の魔物と言いますが、それに魅せられた犠牲者なのでは
ないでしょうか。
つくづく人と人との関係は難しいものだと思い知らされる話ですね。
174さんもご友人との関係で何かとお悩みがあるかも知れませんが、
これらの話を教訓として、胸にしまっていただければ、お二人の事柄も
無駄にならないと思います。
176 :
以上、自作自演でした。:03/08/30 21:17
覇者と王者、どちらが良いでしょうか?
177 :
以上、自作自演でした。:03/08/30 22:57
時は皆さんの事情に関わらず、無情に流れ行く。
これに抗うか。それとも従いますか?
レスリー・チャンを知ってますか?
韓信大元帥の傍に蒯通をつけたのは失策ではありませんか?
もともと軍略家としての韓信大元帥は有能ですが、
王質たるものは持ち合わせていないような気がします。性格的にも…
斉王になったのは蒯通がそそのかしたからだと思うんですが…
>176
両方。寧ろ覇王。
>176
理想的には王道でしょうが、私どもの生きた時代はそれを許しませんでした。
高祖は覇道で天下を取られ、その後に王道を目指されていましたが、同様の
諫言を陸賈(りくか)殿が申されました。いわゆる「馬上で天下を得ても馬
上で天下は治められない」ですな。こちらは文武の兼ね合いを述べた言葉で
すが、後の世まで天下を制御する術として伝わったそうで。
>177
時ですか。例えて言えば長江の流れのように多くの事柄や人の営みを見つめ
続けた雄大な存在ですね。我々が青史に名を残せたのも天から時に従った結
果かもしれません。いわゆる運命論になりますが、時はそれに従ってこそ人
に施しを与える物ではないでしょうか。
>178
え〜と・・確か皆さんの時代の役者でしたな。
詳しくは存じませんが、魯公を主題とした劇に絡んだ話を演じられたとか。
魯公の御名がはるか時を越えて映像となるとは、我々の時代では想像も出来
ませんでした。さぞ名のある役者だったのでしょうが、何でも不慮の死を遂
げられたとか・・残念な事です。
>179
韓信殿の王としての資質ですが、彼は一個の名将軍であり、それを
超えた物ではなかったかもしれませんが、蒯通の進言に迷われたの
も、それに当るでしょう。とは言え蒯通は韓信殿が斉にて独自で登
用した、いわば韓信殿直属の臣。臣が主に進言するのは非難できな
い事です。後に高祖もそれで蒯通を赦免しておりますから。
今思うに、蒯通の進言を拒絶した上で、疑惑を生む行動を慎まれた
なら、後の彼の運命も変わっていたでしょう。
>180 魯公
そういえば、魯公は従来の覇者の称号に代えて覇王と名乗られまし
たな。
多くの者に新しい時代が来たと言う感覚を与えましたが、それに充
分に応えられなかったのも魯公の敗因かもしれ・・・あわわ。口が
滑りました。お許しを・・・((((;゚Д゚))))
あぁ帝位を奪いてぇ。
>182
許す。別に俺を侮辱せんとした言葉ではないからな。
勝者として敗者の敗因を研究するは至極当然と言えよう。
まあ、俺にはそんなもの必要なかったがな。
それと、俺の敗因は天が劉邦に味方した点、この一点に尽きる。
他の敗因などありえん、肝に命じておけ。
荊軻は始皇帝暗殺に失敗しましたが
そのことについて何かありますか?
武将は個人的武勇と指揮能力どちらが優先されると考えますか?
孔明の遣いですよ!!
否、ちゃうんですわ。
なんで最後の2項目だけ秦にしたんやろって。
時代ちかしいっちゅうのんで比べるんやったら、最初から秦と漢にすればええだけやん。
楚は後の2項目は漢とタメ張れる奴おれへんってことかいな!?って思うタンですわ
>183 呂産殿
外戚である呂産殿が高位を望むのは分りますが、さすがに皇帝を求めるの
は不遜と申すしかありません。とは言え、密告の類は好みませぬので、聞
かなかった事にします。以後言動を慎まれるように。
>184 魯公
寛大な御言葉畏れ入ります。
確かに天命と申すべき敗因ですな。たまたま天が高祖に味方したと思いま
すな。敵対したとは言え、尊貴な方の評価は難しい所です。
>185
荊軻の一件は当時の我々では禁句でした。秦の始皇帝への反抗と受け止め
られなかったので。それに風の噂程度にしか聞きませんでした。
詳細な事柄を知ったのは、秦の文書を接収した際でしたが、それを読んで
多少の感慨を受けたのは事実です。義気に感じて国王暗殺を実行したので
すから。とは言え危急存亡の時と考えても、こうした一刺客に頼っての国
事は大手を振って受け入れられません。
>186
私は実戦の経験が無いので断定できませんが、韓信殿の例で考えると指揮
能力を重視します。確かに武勇に優れれば前線での活躍が出来ますが、そ
れでは常に討ち死にと言う危機も孕んでいます。
やはり本陣で指揮を取り勝利に導く方が良いでしょうね。
>187 孔明の遣い殿
前に見せていただいた時代に活躍された諸葛亮殿の使者ですな。
異なる時代を超えてよくぞいらっしゃいました。
聞くところによると何かと多忙だとか。せめて自信の健康には留意
されるようにとお伝えできませんか?
>188
そうでしたか。ご解説有難うございます。
私も自分で申しておきながら、些か腑に落ちぬ所があったので、
これで疑問が解けました。
もし、宜しければまた同じような趣旨の比較をお願いします。
鐘離昧をどう思うますか?
私って可愛そうよね?
>191 弱策殿
鍾離昧(しょうりばつ)殿ですか。魯公配下中でも指折りの勇将と
聞いていました。韓信殿と親しかったようで、よく話を伺ったもの
でしたよ。陳平殿の反間の計でも標的に入ってましたが一時的な効
果しかありませんでした。魯公によほど信頼されていたんでしょう。
後に韓信殿に匿われて意見の衝突で自殺されましたが、もし韓信殿
と組んで謀反を起こされたら、鎮圧は不可能だったかもしれません。
では、本日の最後に
>192 戚夫人様
うーん・・・仰るとおり貴女様の末路には憐みを催しますが、やはり
側室としての分を弁え、過大な懇願を高祖にされなければ、後の悲劇
は避けれらたかもしれません。皇后陛下は唯一の正室なのでしたから。
今となって如何ともしがたいですが、はるか後世まで悲劇の美女とし
て御名が伝わっている事だけでも良しと御考え頂けませんか?
>191
いい奴、話の判る奴だった。
あんな配下を持てた事を嬉しく思う。
あんな配下を一瞬でも疑った事が悔しいな…。
196 :
沛の居酒屋の婆:03/09/10 20:20
ちょいと!劉亭長の酒代のつけ、何時になったら払ってくれるんだい!?
季布についてどうおもいます?
>195 魯公
魯公にとって鐘離昧殿は優れた家臣と同時に戦友であったのでしょうか。
そのようなお優しい御言葉を頂いて、鐘離昧殿もさぞ満足されているで
しょう。君臣の絆とはこうあるべきですな。
>196 沛の居酒屋のご主人のお婆さん
ええ?あの頃のツケは高祖が入ると客が増えるからと全て棒引きにして
くれたはずでは・・・?
それに今更持ち出されても・・・高祖がおられないので代わりに私が支
払いましょう。
( ´д`)つ IIIII
>198
季布(きふ)殿も魯公の下で高祖を悩まされた勇将でしたが、侠家に
匿われ、夏侯嬰(かこうえい)殿の弁護で漢に仕えましたがさすがに
その節義と勇気は賞賛に値する物でした。
太后陛下が匈奴討伐を計画し、それに樊噲(はんかい)殿が賛成され
た時も、道理をもって反対されました。太后陛下の義弟にあたる樊噲
殿を斬るべしなどとは、普通の臣ではとても申せないでしょう。
200 :
以上、自作自演でした。:03/09/13 07:05
200げとー
>200
二百おめでとうございます。これからも宜しくお願いします。
私がここに常駐して初めてのキリ番なので、特別な思いがしますよ。
魯公も戻られて順調に進んでこれたのは、全て皆さんのおかげです。
私も漢王朝初代宰相の名に恥じぬよう全力で望む所存ですので、どうか
今後とも何かしらの質問を書いていただければ、これに過ぐる喜びは
ありません。
死は痛ましくもあり悲しくもあり、美しくもあり輝かしくもある。
>202
高祖の旗の下に集まった諸将には、功成り名を遂げて子孫に美田を
残された方もいましたが、逆に無念の討死をされた方も少なくありま
せん。
死を美と取るか否かは後世の評価奈何ですが、一つの基準だったのは
確かです。
韓信殿の御最後は明らかに前者ですね。類稀なる大才と共に消滅した
のは実に痛ましい事ですが、それに私が関わっていた事を思い出すと
自責の念が胸を突きます・・・