日の光をカーテンでさえぎられたほの暗い部屋の中。
必要最小限の物しか置いてないその手狭な部屋の一角を占めるベッドの上で、1人の老人が眠っていた。
だが、その眠りは、到底穏やかなものとは思えない。
呼吸は荒く、その皺だらけの震える手は何かにすがるように天に伸ばされ、その額にはびっしりと脂汗が
浮かんでいる。
深く眉間に刻まれた皺は、まさに苦悶の一言につきた。
と、不意に老人が跳ね起き、何かに怯えるようにせわしなく周囲を見回し……そして、やっとのことで
それまで老人を苦しめていたものが夢であったことを確認すると、深く息を吐き出した。
「お目覚めかね、ドクトル?」
ふと、人の声がした。
ドクトルと呼ばれた老人が声をしたほうに目を向けると、そこには薄暗い闇の中に溶け込むかのような、
部屋に唯一の椅子に腰掛けた1人の黒衣の紳士の姿があった。
果たして、いつからそこにいたのであろうか……黒衣の男性は、それまで読んでいた本にしおりを挟んで
閉じると、ようやくこちらに顔を向け、優雅に立ち上がる。
老人は、この男を知っていた。
かつて老人と敵対し、そして老人の過ちをたった4人で食い止めたうちの1人。
「ギヨーム……といったか?」
名を呼ばれた眼鏡の男は、薄く笑い優雅に一礼した。
「随分とうなされていた様だが、悪い夢でも見ていたのかね?」
「ああ……いや、ちがうな。みていたのはわし自身の宿業だ」
ギヨームから手渡されたコップの水を一気に煽り、ドクトルは深いため息をつく。
「山住が、ダンテが、ゼノンが、ヴェアヴォルフが……そしてわしが今まで手がけてきた改造兵士たちが、
その実験台となった者たちが、私を責めるのだよ。
お前はなぜ、地獄に来ないのか、と……」
ギヨームは何も言わない。ただ、眼鏡の奥の静かな瞳で、ドクトルを見つめる。
そんなギヨームに、ドクトルはすがりつくような視線を向ける。
「なあ……わしは、いつまで償い続ければいいのだ?!
あの日、あの男に償えと言われた。償って償って償い続けろと言われた。
だがな、いくら償おうと、人の命を救おうと奔走しようとも、我が悪夢は……わしの宿業は消えない!」
ギヨームは知っていた。この、誰も出自も名も知らぬ老人が必死に医療行為を行う姿を、周囲から
「鬼気迫る」「まるで何かに怯えているかのように」と称されていることを。
そしてその責め苦のような過酷な活動の末に過労を起こし、こうしていまベッドに伏していることを。
不意に伸びたドクトルの手が、ギヨームの胸座を掴む。
いや……すがりついた、といったほうが正しい。
「わしのささやかな償いに対し……わしの犯してきた罪は大きすぎる!!」
まさに、「血を吐く」というが相応しいドクトルの悲痛な声だった。
ギヨームはあくまで無言。自身の胸座を掴まれていることなど気付かぬかのように、静かにドクトルを
見下ろす。
不意に、憑き物が落ちたかのように、ドクトルの手がギヨームの胸元から離れた。
「いや……わしにそんなことを言う資格などないことはわかっている」
俯いたドクトルは、か細い声を絞り出す。
「わしの犯した罪は……償っても償いきれるものではないのだから」
ドクトル皺だらけの手が、自身の顔を覆う。
「実はな……さっき話した悪夢には、続きがあるのだよ」
ギヨームは無言で、話を先を促すかのように視線を送る。その視線を知ってか知らずか、ドクトルは
静かに言葉を続ける。
「わしの周囲に今までの実験台たちが迫ってくる。わしはそれに抗う術など持たぬ。ただ震えて、断罪の時を
待つだけだ。
だが……そんな彼らの前に、立ちふさがる男がいるのだ。
大きな背中で。
ただ、悠然と。
そして、肩越しにこちらを振り返り、笑いかけるのだ。
晴れやかに。
爽やかに。
太陽のように輝かしく、な」
「…………………………」
ギヨームは、その言葉から1人の男を思い浮かべる。「快男児」という呼び名がこれ以上ないほどに
似合う、かつて苦楽を共にした友を。
「わしは、なんと罪深いのか……夢とは、自身の深層心理の現れと言う。
わしは自身の償いきれぬ罪を自覚する一方……救われたい、救ってほしいと願ってしまっているのだよ!」
再びの、血を吐くような懺悔の言葉。
「よいではありませぬか」
ギヨームの静かな声に、ドクトルは顔を上げる。見ればギヨームは、静かに優しく笑っている。
「最初は成り行きで旅をともにしただけだった。
だがそれ以降も彼と苦楽を共にしたのは、彼の非道を許さず弱者を見捨てない、彼のまっすぐな魂に
感化されたからともいえるでしょう。
言ってみれば……そう、『私たちの中にも、"快男児"はいた』のですよ。
そして。
あなたの夢の中に彼が現れたというのなら。
『あなたの中にも、"快男児"はいた』、と言うことなのでしょう」
「わしの中に……あの男が?」
ドクトルは、呆然と呟く。そんなドクトルに、ギヨームは優しく言葉を続ける。
「確かに、あなたの犯した罪は大きい。
しかし、あなたの中にもまた、"快男児"がいるというのならば……
あなたはもう、救われるべき人だ」
「だが、しかし!!」
ギヨームの、優しい言葉。その甘美な救いの言葉に、すがりつきたい思いはあれど。
そうしてしまえば、一層の罪を背負ってしまうといわんばかりに、怯えた声を上げるドクトル。
「わしの罪の大きさは! わし程度の償いでは、到底補いきれぬ!」
「たしかに、そうでしょうね」
あっさりと。
ごく軽く、ドクトルの言葉を肯定するギヨーム。
前言を覆すかのようなその言葉に、どういうことかと訝しがるドクトル。
そんなドクトルを尻目に、ギヨームは窓辺に向かい、勢いカーテンを開け放った。
「……………!」
その光の眩しさに、手をかざして目を細めるドクトル。やがて目が慣れると、彼らのいる二階の窓から
見下ろすそこには凄惨な……彼にとって見慣れた光景が広がっていた。
一言で言えば、野戦病院。
いや、病院とは表現したが、単に広場に毛布をしいただけの、お粗末な代物だ。
だがそれでも、窓から階下に見落とせる限りに、負傷した人々が無数に広がっていた。
戦火は絶えども、その残した爪あとは大きい。
いまだ治療を受けられず、血を流すままに苦痛に呻く男がいる。
ベッドの母親にすがりつき、泣き叫ぶ子供がいる。
全身を包帯に包まれた男がいる。
ほかにも、ありとあらゆる患者が存在し、そんな彼らを救うには人手も物資も食料も衣糧も場所も
時間も足りない。
「さてドクトル、これを見てどう思いますかね?」
「どうとは……それは、地獄絵図と言うほかないのではないのかね? わしの宿業の連鎖の末さ」
自嘲気味に答えるドクトル。
そんなドクトルに、しかしギヨームは笑って首を振る。
「そうにも見えます。ですが……」
そう言って、ギヨームの指し示す先には。
「私には、それだけとは思えないのですよ」
見れば。
苦痛に呻く患者の元に駆け寄り、その命を救わんと全力を尽くす医師の姿がある。
泣き叫ぶ子供に笑いかけ、元気付けようとする看護婦がいる。
治療が済み、一命を取り留めた患者のことをわが事のように喜び、しかし休む間もなく次の患者の元へと
駆け出す医師の姿がある。
敵もなく、味方もなく。
国籍も宗教も人種も関係なく。
人手が足りないこと、物資が足りないこと、そのほか諸々の悪条件を言い訳にせず、自らにできることを
全力で行なおうとする……そこにあるのは、ただただ命を救いたいと願う、まさに人間の尊厳の姿。
ただ自分の罪に怯え、そこから逃げるように医療行為を行う自分とはまるで違う、輝かしい姿だった。
「それが、どうしたというのかね?」
そんな光景から目を逸らすように俯き、低い声で切って捨てるドクトル。
しかし、ギヨームは気付いていた。その声に含まれる、かすかな、ドクトル自身でも気付かぬほんの
かすかな羨望に。
ただただ純粋に人々を救わんとする彼らの姿を、ドクトルが眩しく見ていることに。
そしてギヨームは、言葉をつむぐ。
「この野戦病院は、あなたが発端だそうですね?」
力なく、ギヨームの言葉に頷く。
この光景の発端が自分。それは事実だ。何の面白みもない、単なる事実だ。
あの日以来、贖罪のために場所を問わず、時を問わず医療行為に奔走してきた。
敵もなく、味方もなく。
国籍も宗教も人種も関係なく。
貪るように、と言う表現が似つかわしいくらいに、ただただ医療行為を行ってきた。
最初は、変わり者と笑うものばかりだった。
だがいつしか、そんな彼に頼るものが現れた。
応援し援助する者たちが現れた。
彼の傍らで、彼と同様の行為を行うものが現れた。
その評判を聞きつけて頼るものがやってきて。
さらにその評判を聞きつけて援助者達が現れて。
その末が、いま階下に広がる、野戦病院モドキだ。
しかし、しょせん個人の力には限りある。
押し寄せる人々に対し、人手も物資も時間も、あまりにも足りなすぎる。
いや、例えそれが十分であったとしても、彼に救える人間はあまりに少ない。
自身の犯してきた罪に対し、あまりにも少なすぎる!
「お分かりになりませんか、ドクトル?」
窓辺から振り返り、芝居がかった仕草で両の手を広げるギヨーム。
逆行の中に浮かぶそのシルエットは、さながら一枚の宗教画であるかのように神々しい。
「彼らは、財産も、名誉も、地位も、何も求めていない。
何の得にもならない、危険で過酷なだけのこの場所で――
ただ純真に、ただ崇高に、命を救わんと奔走している。
やがて彼らは、世界へと旅立っていくでしょう。
より多くの人々を救わんと。
より多くの幸せを守らんと。
そしてその崇高な姿に共感した人々が、
彼らを応援し、
彼らを手助けし、
彼らと手を取り合い、
彼らの志を受け継ぐでしょう。
……本当に、まだおわかりになりませんか、ドクトル?」
逆光の中で、ギヨームの口元が優しく微笑んだのが見えた気がした。
「そんな彼らの原点こそが、あなただと言うことに」
このわしが……原点?
ドクトルは、ぼんやりとギヨームの言葉の意味を考えた。
「ここであなたが救った人々は、さて何人でしょうかね? 100人? 200人?
確かに、あなたがやってきたことを考えれば、あまりにささやかな数だ。
しかし、そうやって貴方が救った命は、確実に存在する。
何の見返りも求めず、ただひたすらに命を救ってきた貴方の姿を胸に焼き付けた人々が、確かに存在する。
あなたのその姿に、崇高なる人間のあるべき姿を見出した人々が、確固として存在する。
そんな彼らが、世界中に散って、彼らの崇高な魂の命ずるままに、人々を救うでしょう。
そんな彼らの姿はまた、それを見届けたものの目に、救われた人々の胸に、
崇高な魂の姿となって残るでしょう。
そしてまた、そんな崇高な魂を受け継いだ彼らもまた、他人を救わんと活動を開始するでしょう。
そんな彼らの原点が、あなただ。
あなた自身が救った人間は、ほんの僅かかもしれない。
だが、献身的に人々を救わんとするあなたの姿を原点とするもの達が、あなたの行為を受け継ぎ、
より多くの人々を救う。
そんな彼らを姿を原点とするものが、彼らの志を受け継ぎ、さらに多くの人々を救う。
あなたには償いきれずとも、その後を継ぐ者が。
それでも足りなければ、さらにそのあとを継ぐ者達が。
いつかあなたの罪を補って余りある、多くの命を救ってくれることでしょう。
そして……」
ふと気付くと、外の様子が変わっていた。
なにやら騒がしい。いや、もとから場所が場所だけに罵声じみた矢継ぎ早のやりとりは日常茶飯事だが、
今回のそれはまたそれとは違ったものだった。
―――応援が到着したぞ!!
―――補給物資と食料もだ!
―――これで持ちこたえられる!!
漏れ伝わってくる、そんな歓喜の声。
それを背に、ギヨームは不敵に笑う。
「そしてそれを、私が守る。
あなたが原点となった救いの連鎖を、我がギヨーム財団が全面的にバックアップする。
灯されたばかりの希望の火を、私が決して消させない。
……おめでとう、ドクトル。
あなたの贖罪は、未来において果たされることが確約された」
「お、お、お、お……」
それは、甘美な言葉だった。おもわず、すがりつきたくなる。
だがドクトルには、それができない。
自らの罪の意識が、自分が救われることを拒否してしまう。
――そんな不器用な姿に、ギヨームはやれやれといわんばかりに嘆息とともに苦笑いする。
ギヨームは大股に歩き、出口へ向かった。
「……まぁ、色々話したがね、別に難しく考える必要はないのだよ」
そして、一気に扉を開け放つ。
「わわ!」「きゃっ!」「いて」「……重い」
そこに倒れこんでくる、子供の一団。
ドクトルはそちらに顔を向ける。どうやら、扉の向こうでひしめき合うように待っていたらしい。
ギヨームは屈みこむと、倒れた子供たちを助け起こす。
「あ、あの……」「……ごめんなさい」
いたずらを見つけられたかのように萎縮する子供たちに、ギヨームは優しく微笑みかける。
「怪我はなかったかい? おじさんのお話はもう終わりだ。いくといい」
「うん!」
その言葉を待っていたかのように、子供たちはわれ先にへと室内へなだれ込む。
そんな子供たちの背中を微笑ましく見送ってから、ギヨームは立ち上がり、その場をあとにする。
―――だいじょうぶ、せんせい?
―――せんせい、いたくない? いたくない?
―――せんせい、はやくよくなってね!
―――ドクトルありがとう! お母さんもうだいじょうぶだって!
―――僕のお父さんも、昨日目を覚ましたよ!
―――あのねあのね、お花つんできたの。ドクトルにあげるね!
―――ドクトル、僕もお仕事手伝ってるんだよ! それでね、僕も将来はドクトルみたいになるんだ!
―――………あれ? ドクトル泣いてるの?
―――ドクトル、泣いてるのに笑ってる。ヘンなドクトルー。
そんな声を背中に聞きながら、ギヨームは呟く。
「これが答えというのも、アリではないかな」
―――後年。
ひとりの老人が、とある小さな病院で息を引き取った。
第二次世界大戦時から戦後復興期にかけ、戦争で被害を受けた者たちを、人種国籍を問わず
救済し続けた人物である。
戦傷や疫病に苦しむ人々、貧困や差別に苦しむ人々。
そういった人々に、老人は我が身を省みることなく、救済の手を差し伸べ続けてきたのだ。
死の間際、病床に数多くの人々が感謝の言葉を述べに訪れた。
現在に至るまで、その老人の名と出自は不明のままであるが……
多くの人々に見守られて逝った老人の顔は、穏やかなものであったと言う。
そして、そんな彼の残した『種』が、受け継がれ、同じ志を持つものたちと寄り添い、
「国境なき医師団」として結実するのは1971年のフランスでのことである。
――その設立の影に、ギヨーム財団の尽力があったことを知る者は少ない。