1人の優れたアーティストとして十分な敏感さを、彼は間違いなく持っている。
だが、彼はいつも楽しそうでない。
自分を見失うのがとても怖い、と言うのだ。
今、うまく行きすぎているからと。
――シルビア・チャン
1989年にフーロンと契約してから18年、その関係は変わらず、
どんな誘惑も彼を動かすことはなかった。
相変わらず人見知りで、プロモーションが嫌いで、写真を撮られるのが嫌いで、
大勢の人のいる場所では気詰まりでしかたがない。
人気者になり、自分の意思を通せるようになると、
世間への露出は人気に反してどんどん減っていった。
しかし、控えめなその態度は、決して彼の魅力をそぐことなく、
かえって神秘的なイメージをつくりあげ、ますます人は彼を追いかける。
彼の消息は1年間もわからないことさえあるが、
それでも人気投票では、依然としてトップの座に座り続ける。
だが、金城武はこれを成功とは決して考えていない。
「何が成功なんだろう?
この仕事での成功の定義って、賞を取ることなんだろうか?
問題は賞を取れば成功なのか、それともいくら稼いだか、量で計れるのか。
稼げば成功と言えるんだろうか?
ぼくのことなら、もし、いつか楽観的な人間になれたら、それが成功だな」
彼は自分を悲観的な人間だと言う。
何事に対しても、まず一番悪い面を考えてしまう。
「ぼくには、いつも、どんなものも自分のものじゃないというような感じがある。
生活もそうだし、恋愛もそう。すべては無常。
万事無常だと知りながら、
それでもその無常のものを、争って手に入れようとするんだ」
もしかすると、母親も祖母も仏を信じている人だったから、
金城武も仏と解き難い縁に結ばれているのかもしれない。
「あるとき、母親に連れられてお参りに行き、バスで家に帰る途中、
母はお参りに使った数珠をぼくの手にもたせた。
ぼくは、いつもと全然違い、バスで走り回らなかっただけでなく、
一言も言わず、静かに席に座っていた。時々、何か呟いたりして。
母もとても不思議なことに思った」
20歳の誕生日を過ぎたとき、自分はもう大人だと強く感じた金城武は、
多くのことに、別の見方をするようになった。
例えば、絶対とは、いったい何なのか?
「今日、正しいと考えることが、明日は間違っているとわかるかもしれない。
例えば酒を飲んでいる男女を見かけて、みだらだと思うかもしれない。
でも、そこにいて、彼らの話していることを聞いたら、
実は思っていたのとは全然違うということがわかるようにね。
人はただ習慣で自分の基準をあてはめ、物事を見ているに過ぎない。
しかし世界は多元的なもので、ある物事には必ず良い面と悪い面の両方がある。
ほとんどのことは一時的なものなんだ」
「君のいた永遠」の撮影中、シルビア・チャンは彼に『荘子』を読ませた。
ところがなんと、彼は余計うつうつとしてしまったのだ。
「読んでから、ますますいろいろ考えるようになり、
考えれば考えるほど気持ちが重くなった。
『なぜ』が、ドミノが倒れるように次から次へと襲ってきた」
金城武は、不意に身を正すと笑った。
その笑顔は、自分がなぜこんなことを話すのか、
不思議がっているかのようだった。
スターの恋人選びの条件を、人は聞きたがる。
一緒に仕事をした監督をどう思うか、
ここの天気風土人情をどう思うか、聞きたがる。
けれども彼がそこに座って眉をちょっとひそめ、
「何物も自分のものでない」感覚を語るとき、我々は、
学校時代の経験にしろ成長後の恋愛にしろ、
世界が彼にあまりにも早く無常を見せてしまったことを感じる。
この過去の経験が、彼の目に遙かな深さを増しはしたけれど、
単純な喜びをさらに得にくくさせてもいる。
数年前、金城武はインドに聖地巡礼に出かけ、仏教に帰依することを決めた。
「ぼくの帰依は何かを求めたいと思ったからでは全然ない。
帰依したからってお経を唱えるわけじゃない。ものぐさな人間だから」