トニー★レオンpart60

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222魅せられた名無しさん
彼はそのとき16歳、
見かけは、過去のどんなスターのタイプにもあてはまらない。
だが、私は確信した、私には彼が要る。
けれども彼には、芸能界に入ろうなんて考えはさらさらない。
私は言った、
「バイクを買いたいんじゃないの? 
芸能界でアルバイトすれば、すぐ買えるようになるわよ」
――マネジャー、葛福鴻

「僕の名前は武です。お父さんがとても面白い話をしてくれました。
ぼくは11日に生まれたんですが、十と一を組み合わすと、士という字になるでしょう、
だからお父さんは、ぼくに武という名をつけて、
合わせると『武士』になるようにしたんです」

この小武士≠フ父親は、台湾に初めて日本のウナギを持ち込んだ、
日本の実業家だったが、その後1人の台湾女性と結婚すると、
台北の天母に居を構えた。
父親は仕事に忙しく、家庭を見る時間があまりなかった。
少年時代の武の目には、父はめったに会えない人で、
「でも心ではすごくぼくたちを愛していた。
帰ると決まって遊園地に連れて行ってくれた。
子どもの頃は、父はいかめしくて軽々しく笑顔を見せることがなかったのに、
今は大きな子どものようだ。
ぼくらは友達みたいに付き合っていて、秘密がない」
223魅せられた名無しさん:2007/05/20(日) 01:19:09
金城武と一番近しいのは、もちろん母親である。
母親は若い頃は有名な美人で、武は母親似てあり、2人の兄は父親似だ。
「母はしごく伝統的な女性で、家庭と子どもが何よりも大事。
世界一おいしい料理を作れる」

金城家の3兄弟は、みな社交的でないが、それは生来のものではなく、
環境からそうならざるを得なかったのだ。
母親と母方の祖母のもとで育った金城武は、7歳まで日本語が話せなかったが、
台湾にある日本人学校に入れられた。
学校では、同級生に台湾人だと言われ、相手にされなかった。
家に帰ると近所の子からは日本人だと言われ、遊んでもらえなかった。
そのため、もともとは明るい性格だったのに、内向的で自分を閉ざしがちな子になった。
一番よくしていたことは、自転車で西門町に行き、
龍門寺の界隈で1人でゲームに打ち込むことだ。

このような性格の少年だから、当然、自分の将来と
芸能人という職業を関連付けて考えたことなどない。
「大きくなったら、きっとスポーツマンになるんだと思っていました。
昔から球技がすきなんです。
サッカーやバスケットボールからバレーボールまで何でも。
ずっと学校代表チームの主力選手でしたよ」
224魅せられた名無しさん:2007/05/20(日) 01:21:01
それから数年後、金城武は台湾のアメリカン・スクール高等部に入学する。
その開放的で自由な雰囲気にとけこみ、
ようやく抑圧された子ども時代から抜け出し始めた。

15歳の年、金城武は同級生の母親に連れられて、ある飲料水のCMに出演したが、
まだ生活には大きな変化はなかった。
16歳のとき、バイクを買う金を家族からもらわなくてすむというためだけに、
彼はフーロンのオーナー、葛福鴻と契約を交わした。
これにより、芸能界にもう1人、短髪の、
まだ洗練されていない少年が加わることになった。
舞台でぎこちなく踊り、調子っぱずれな「温柔超人」を歌い、カメラの前に立ち、
大げさな身振りで笑えない喜劇を苦労して演じたのである。

金城武は自分の世界にこもる子どもで、人づき合いがヘタだった。
その上、小さい頃から、いくつもの言葉を覚えねばならなかったし、
中国語は正式に勉強したことがないので、
文法や形容詞をすぐに理解できない弱点があった。
それが、初めて出演したテレビドラマ「草地状元」で、
初めの頃、しょっちゅう怒鳴られる原因となったのである。
そのため、「ぼくはどこにいるんだ?」という何でもないセリフで、
なんと30回もNGを出されることになる。
225魅せられた名無しさん:2007/05/20(日) 01:28:33
だが、10数年後、誰もが注目する芸能界の大スターになるなどと、
誰が予想できただろう。

パイナップル缶を食べることをファッションに誌、ジョギングをプライベートな事柄にし、
まだ恋を知らない者に懐かしさを感じさせる。
彼には演技は必要ない。
顔色1つ変えずとも、我々はそこに人生の様々な面白さを味わい尽くすのだ。
いったい何人の女性が、
ひんやりとした街角で、彼のゆったりとしたコートの内に包まれ、
時間を止まらせて、彼の鼓動を聞いていられたらとの想像にふけったか、
知りたいものである。