彼はそのとき16歳、
見かけは、過去のどんなスターのタイプにもあてはまらない。
だが、私は確信した、私には彼が要る。
けれども彼には、芸能界に入ろうなんて考えはさらさらない。
私は言った、
「バイクを買いたいんじゃないの?
芸能界でアルバイトすれば、すぐ買えるようになるわよ」
――マネジャー、葛福鴻
「僕の名前は武です。お父さんがとても面白い話をしてくれました。
ぼくは11日に生まれたんですが、十と一を組み合わすと、士という字になるでしょう、
だからお父さんは、ぼくに武という名をつけて、
合わせると『武士』になるようにしたんです」
この小武士≠フ父親は、台湾に初めて日本のウナギを持ち込んだ、
日本の実業家だったが、その後1人の台湾女性と結婚すると、
台北の天母に居を構えた。
父親は仕事に忙しく、家庭を見る時間があまりなかった。
少年時代の武の目には、父はめったに会えない人で、
「でも心ではすごくぼくたちを愛していた。
帰ると決まって遊園地に連れて行ってくれた。
子どもの頃は、父はいかめしくて軽々しく笑顔を見せることがなかったのに、
今は大きな子どものようだ。
ぼくらは友達みたいに付き合っていて、秘密がない」
金城武と一番近しいのは、もちろん母親である。
母親は若い頃は有名な美人で、武は母親似てあり、2人の兄は父親似だ。
「母はしごく伝統的な女性で、家庭と子どもが何よりも大事。
世界一おいしい料理を作れる」
金城家の3兄弟は、みな社交的でないが、それは生来のものではなく、
環境からそうならざるを得なかったのだ。
母親と母方の祖母のもとで育った金城武は、7歳まで日本語が話せなかったが、
台湾にある日本人学校に入れられた。
学校では、同級生に台湾人だと言われ、相手にされなかった。
家に帰ると近所の子からは日本人だと言われ、遊んでもらえなかった。
そのため、もともとは明るい性格だったのに、内向的で自分を閉ざしがちな子になった。
一番よくしていたことは、自転車で西門町に行き、
龍門寺の界隈で1人でゲームに打ち込むことだ。
このような性格の少年だから、当然、自分の将来と
芸能人という職業を関連付けて考えたことなどない。
「大きくなったら、きっとスポーツマンになるんだと思っていました。
昔から球技がすきなんです。
サッカーやバスケットボールからバレーボールまで何でも。
ずっと学校代表チームの主力選手でしたよ」
それから数年後、金城武は台湾のアメリカン・スクール高等部に入学する。
その開放的で自由な雰囲気にとけこみ、
ようやく抑圧された子ども時代から抜け出し始めた。
15歳の年、金城武は同級生の母親に連れられて、ある飲料水のCMに出演したが、
まだ生活には大きな変化はなかった。
16歳のとき、バイクを買う金を家族からもらわなくてすむというためだけに、
彼はフーロンのオーナー、葛福鴻と契約を交わした。
これにより、芸能界にもう1人、短髪の、
まだ洗練されていない少年が加わることになった。
舞台でぎこちなく踊り、調子っぱずれな「温柔超人」を歌い、カメラの前に立ち、
大げさな身振りで笑えない喜劇を苦労して演じたのである。
金城武は自分の世界にこもる子どもで、人づき合いがヘタだった。
その上、小さい頃から、いくつもの言葉を覚えねばならなかったし、
中国語は正式に勉強したことがないので、
文法や形容詞をすぐに理解できない弱点があった。
それが、初めて出演したテレビドラマ「草地状元」で、
初めの頃、しょっちゅう怒鳴られる原因となったのである。
そのため、「ぼくはどこにいるんだ?」という何でもないセリフで、
なんと30回もNGを出されることになる。
だが、10数年後、誰もが注目する芸能界の大スターになるなどと、
誰が予想できただろう。
パイナップル缶を食べることをファッションに誌、ジョギングをプライベートな事柄にし、
まだ恋を知らない者に懐かしさを感じさせる。
彼には演技は必要ない。
顔色1つ変えずとも、我々はそこに人生の様々な面白さを味わい尽くすのだ。
いったい何人の女性が、
ひんやりとした街角で、彼のゆったりとしたコートの内に包まれ、
時間を止まらせて、彼の鼓動を聞いていられたらとの想像にふけったか、
知りたいものである。