【ネギま!】4番 綾瀬夕映萌えスレッド【第20章】

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391名無しかわいいよ名無し
「それにしても困ったものですね、夕映さんには」
ネギ先生がそう仰った時、私はカバーをはめたオマルの上で、両足を踏ん張ってうんうんと呻きながら考えた。
困ったものだとは失敬です、おもてなしに新鮮な糞をひりだそうと力んでいる所へ、その客人から水を差されたのでは堪ったもんじゃありません。
「生憎と糞のストックを切らしていたものですから――」
「そういう事を言っているのではないんですけれどね」
「ではどういう意味で仰ったのですか」と私は踏ん張るのを止めて、先生の顔をきっと見返した。
先生は困ったような顔であさっての方を向かれてしまう。

今日の先生は珍しくラフな格好である。
半ズボンなどを履いている所はいかにも年相応の少年らしく見える。
その足をテーブルの前で行儀よく折りたたみ、手元に分厚い本を広げ、時おり捜し物でもするかのように何枚も頁をめくられる。
私はその本が一体何であるのか気になって仕方なかった。
「先生は相変わらず勉強熱心なのですね。そのお手持ちの本は何でしょう?
 私と話す間も時折、目線をそちらに向けていらっしゃるようですが」
「これですか。いえ、何て事はないんです。
 しいて云えば円滑なコミュニケーションを図るための――」
とネギ先生は何でもない顔をして、そそくさと本を仕舞い込まれる。
この暑い中を突然訪れ、そのまま澄まして本を読み始めるというのは、誰の目にも奇妙だろうと思う。
「私もその位突拍子もないキャラ作りをすれば少しは人気が出るでしょうか――どうもここ最近、誌上での人気投票結果が芳しくないものですから。
 このままではモブキャラ並の扱いをされるのではないかと、そう考えるだけで心細くなってくるです」
「いえ。良かれ悪かれ、夕映さん程個性のあるキャラは他に居ないと思いますよ。本当にね」
とネギ先生は主役なだけあって余裕のある受け答えをされる。
「お気遣いは結構です。
 やっぱりエヴァさんのように強烈なキャラ立ちでなければ、いつかは飽きられてしまう運命にあるのでしょうね。
 もういっその事出番を貰えるなら色モノ・ネタキャラでも構わない、とさえ思うです」
と実際のところを白状する。
「自覚がないというのは本当に怖いですねぇ」
と先生は仰り、ほぅとため息を一つ吐かれた。

先程からどうも会話が噛み合っていないように思われる。
今日の先生はどうかしている。
なんの理由もなしに突然押しかけて、何か含むものがあるのかとそれとなく話題を差し向けてみても、全く乗ってはこない。
気のない受け答えをして、すぐ手元の本に視線を落としてしまう。
その本も仕舞い込んでしまってからは、こちらを見るような見ないような定まらない目つきをして、卓上のジュースに口をつけたりストローで氷をかき回したりするばかりだった。

あの本だ。
あの本に、先生の一連の行動、その全ての答えがあると思う。
何としてでも覗いてやりたい。
けれども、本を仕舞ったバッグは先生の膝元に置かれていて、時々はそれを気にしているような仕草も見受けられる。
だから気づかれないようにそっと本だけを抜き取るというのは難しい。

だがしかし、そろそろ頃合いのはずだ。
「んっ……!ゆ、夕映さん、済みませんがちょっとお手あらぁぁぁっ」
と言い切らぬ内に先生は便所へと駆け込んでしまわれた。
戸が閉まると間髪入れず、ぷりぷりぷりりりっと可愛らしい音が漏れてくる。

先生にお出ししたジュースは特製の下剤入りであった。
アレをやると数十分はトイレから出てこられない。
私はわざと落ち着き払って咳を一度、オマルから降りると物音立たぬよう先生のバッグを手に取って、ジッパーをゆっくりと開けていった。

先生が仕舞い込んだ本には書店のカバーが取り付けられていた。
よくある茶色の紙カバーで、私はこの類のカバーの安っぽさを嫌悪していたので少し強引に引きはがしてやる。
すると、白の表紙に黒字で『異常者との対話』と銘打たれて――異常者?

異常者とは誰の事だろう。
私か。私が異常者。はん、まさか。何を馬鹿な。
頁をぱらぱらと捲るがどうも手元が落ち着かない。
気づくと指先がぷるぷる震えていた。
何故震えるのだろうと、体から剥離した意識の片隅で考える。
考えながらも捲っていく。
392名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:36:58 ID:t5VvzvFi

表題の通り、その本には所謂"異常者達"と如何にして意思の疎通を図るのか、その手段・手順がケース毎に事細かに記載されていた。
そうして、私の手がとあるページでぴたりと止まった。
私の目は、赤いペンで頁の隅に書かれたメモ――おそらくはネギ先生が記したものであろう――に釘付けとなった。
『7月11日、精神病院で夕映さんを診察の予定。課題は如何にして夕映さんを病院まで連れて行くか』
7月11日……今日の日付だ。
ここに書かれたものは今日の予定であり、則ち先生は私を病院に連れて行くつもりで部屋を訪れた事になる。

そう思い至った途端、涙がぶわっと溢れかえった。
あぁっ先生、何故ですか。
よりにもよってあなたが、有ろう事か私を異常者扱いしていただなんて!

私は暫くの間声を殺して泣き続けた。
泣きやんだ後は目元をハンカチで綺麗に拭って、おまるの上に腰かけて先生が出てくるのを待った。
濡れたハンカチはそのままゴミ箱に放り投げた。
ネギ先生のスーツの柄と密かに合わせて購入したものだった。

そうして、トイレの水を流す音がして、漸く先生が居間へと戻ってきた。
オマルの上に掛けたままの私を見やって、ほぅと再びため息を吐かれる。
「いやぁ、失礼しました。何故だか急にお腹の調子が悪くなって……」
「そうですか、良くあることですよ」
と私は気のない返事をして、すっと立つと、台所から新しいコップを持ち出して飲み物を注いでやった。
黄金色の液体がなみなみと湛えられたそれを見て、先生は露骨に顔をしかめられた。
「さ、どうぞ。汗もかかれた事でしょうし、ぐぐいっと一気にお飲み下さい」
先生は卓上に置かれたコップを手に取ろうとしなかった。
「さぁさぁ、遠慮無くお飲み下さい」
「このコップはなかなか造りがいいですね。底にプリントされたロゴにも上品さが感じられます」
と口をつけない代わりにコップを褒めだした。
「先生、何故コップを口にしようとはしないのです」
「あ、いえ、その……今は未だ喉が渇いていないかな〜なんて」
「コップの中身が気になるのでしょう?」
じっと先生の顔を凝視する。
先生は狼狽えて視線をあちこちに這わせている。
これは先生が何か言い訳を考える際の癖だった。
「いや、いや。そのですね……えぇと、あまりに黄色いので、ちょっと着色料が気になったと言いますか、ほら、最近健康ブームでしょう、あれに影響されてそういうの気になってるん」
「嘘でしょうっ!」
と私は突如大きな声を出した。
先生はすっかり驚かされてしまって、無言のままこちらを見つめている。
「本当の事を言って下さいです」と今度は低い声で言った。
小さな声だと云うのに、部屋中隅々にまで響き渡ったような気がした。
先生の顔が急に蒼白としてきた。
「夕映さん、落ち着いてください。落ち着きましょう」
と腫れ物を扱うような素振りでやんわりと言われる。
やはり私を異常者としか認識されてはいないのだ。
私は何だか、大声をあげて笑いだしたくなった。
「話をしましょう」と先生は同じ調子で言われる。
「アッ、ハハハハハハハハハハハッ、ハハハハハハッハハハハハハハハハ」
と私は無理やりな笑い声をあげて、その笑い声の空虚さに悲しさが募って笑うのをぴたりと止めた。
私の哄笑の木霊がいつまでも不自然に響くように思われた。
先生はもう面食らって、今にも腰を抜かしてしまいそうだった。
真っ青な顔で怯えたような気配を見せているけれど、私も大概真っ青な顔をしているのだろうなと思う。
それ位先生に異常者扱いされた衝撃は大きい、とても耐えられそうにない。

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあっっっっっっっ!!!!!!!」と物凄い悲鳴を上げて、私は部屋の外へ飛び出した。
階段を駆け下り、寮の門を抜けて、がむしゃらに道を駆けていく。
先生は追ってこない。
いいのですか先生、私を野放しにして。私は異常者なんでしょう。
いいえ。違う。
私は気違いなんかじゃないっ。絶対に違う!
393名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:37:30 ID:t5VvzvFi



どこをどう走ったものか、すっかり日が暮れて真っ暗い道の上を、私はとぼとぼと惨めに歩いていた。
昼から曇天の空は次第に雲を厚く重ねて、今ではわずかな月明かりさえも遮られている。
道筋は10メートルの先ですら見通せない。
夜道を薄ぼけた街灯頼りに歩くのは心許ない、だが頼りない明かりも無いよりはましだったと思い知らされる――此処には街灯一つ点ってはいないのだ。
急に不安になって立ち止まる。
ちょろちょろと直ぐ脇で微かな水の流れる音がする。
生ぬるい風がさぁっと通り抜けて、左手を頭よりも高い所からさらさら葉の擦れる音が聞こえた。
そちらへ目を凝らしてみると、闇の中を更に暗い影がそびえ立っている。
ちょっとした林か森のようでもある。
そこではたと、この景観に見覚えがある事に気が付いた。
私の立っているこの場所は、麻帆良第三公園の裏通りなのではないか。
そう思って道脇の柵に目を這わすと、果たして『第三公園』と記された看板が掛けられている。
やはりそうだ。

この裏通りはいやに人気が無い。
日がな一日じめじめしており、晴れても曇っても変わらず陰気なままだ。
ましてや夜に訪れるなど初めての事である。
右手の柵の向こうにどぶ川があり、流れる水は油のようにどろりとしている。
時折ちゃぽんと云う水音が立つのは魚の仕業だろうか。
こんなどぶ川にも魚が棲めるものなのか。
ちょっと分からない。
しかし、魚の立てる音でないとしたら――私は急に身震いの起こる気がして、足早に歩を進めた。

道の先から話声が聞こえる。
私は反射的に道脇へ身を寄せた。
その声音に覚えがあったからだ。

――どうも、パルとのどかの二人らしい。
そういえば彼女達は朝早くから部屋を空けていた。
公園から帰ってくる所へ偶然出くわしたのだろうか。
とにかく、私は今の自分の姿を見られたくはなかった。
この暗さだから道の反対側を俯きながらいけば気づかれる事もないだろう、と腹を据える。
二人の足音がコツコツと近づいてくる。
「糞を漏らしては口にする変態もいるし」と聞こえて、私は我が耳を疑った。
今のはのどかの声だ。
「全く異常だよね、気違いなんだからしょうがない」とパルの声が続く。
二人が私の事を話しているのは明白だった。
足音が私の傍を素通りして見る見るうちに遠のいていく。

「糞を漏らしては口にする変態もいるし」と私は独り言のように繰り返してみた。最も信頼していた二人が私を気違い呼ばわりしたのである。
私の見えない所で散々異常者扱いされてきたに違いないのである。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっ!!!!!!!」
こんな馬鹿な話があって良いのか。
私は気違いなんかじゃないというのに。
いいえ、あるいは私は本当に気が狂っていたのでは。
そんな。まさか。違う。私はっ。本当に?

今度の疾走は長くは続かなかった。
大体私はとうに疲れ切っていたのである。
「ぜぇっ、はっ、ぜっ、はぁっ……」
裏通りを抜けた先には街灯がまばらに立ち並んでいた。
こちらへ進めばますます寮からは遠のく。
けれども戻ろうという気は全く起きない。
どうしていいか分からなかった。
月が見たいと思って空を見上げるが、月も星も何一つない、ただ厚い雲の影がうっすらと流れるばかりであった。
風が少し湿り気を帯びている。
一雨くるかも知れない。
394名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:38:01 ID:t5VvzvFi

この道をこのまま行って大通りを右に曲がれば、雑居ビルの群生する地区に入る。
あまり良い噂の聞かれない場所だった。
中には『麻帆良のスラム』などと茶化す者もいる。
世事に疎い私はどうしてそんな地区が麻帆良に生まれたのか知らない。
ただそう云うものが麻帆良にも存在するという漠然とした知識だけがある。
そんなとりとめもない事を考える内に、私の足は麻帆良のスラムへと踏み込んでいた。

ちょっとした坂道を上っている。
私の精神は先程までの錯乱から徐々に立ち直りつつあった。
そうです。先生も二人も勘違いをしている、ただそれだけなのです。
何て事はありません。全ては誤解が生んだすれ違いに過ぎなかったのです。
そのはずです。ふふふ。私とした事がうっかり取り乱してしまいましたです。

そんな事を呟きながら細い坂道を上りおえると、赤の枠に、青の地を黄文字でくり抜いた奇抜な色遣いの看板が目に飛び込んでくる。
『大河内医院』とある。
診療科目には精神科が。
あぁそうです、ここで診察を受けて、私の精神に何ら異常の無い事を証明して貰ったら良いのではありませんか。
そうです、そうです。そうすれば先生と二人の誤解も晴れて解消されるです、何と素晴らしき名案。ふふふふふ。
などと一人呟きながら病院の門をくぐる。



「それで、本日はどういったご相談で」
「はい。ちょっとですね。
 私の周囲の人間との間で要らぬ誤解が生まれてしまいましてですね。
 ええ、それはもう完全な誤解です。はい。
 その誤解がもう、どうしようもない程ねじ曲がって、セーターの毛玉のようにこんがらがってしまいましてですね。
 それですっかり彼らにとっての私という人物像が正体を無くしてしまったようなものでありまして。
 いささか不服ではありますが、こうして精神科を受診して私の正常性を証明して見せたら良いのではないかと、ええ。はい。
 え?思い当たる節ですか?それは、ないとも言い切れないようにも思われると云いますかどうですか。
 ええ。いえ、もったいぶっている訳ではなくてですね。
 あのう、私は部屋に専用のオマルを持ち込んでおりまして。
 はい。そうです、あの、ウンコをするためのオマル。白鳥タイプのヤツです。
 あ、いえ、そのオマルがどうこうと云う訳ではなくて。
 そのう、オマルに出したウンコをですね、たまにその。
 ぺろりと。舐めてみたりなんかしてみたり。ええ。
 その時のルームメイトの反応を思い返すと、それが原因で誤解が生まれたのかなぁ、とも。はい。
 でも、これって、ごくごく普通の事ですよねぇ?ねっ?」
と一気にまくしたてて私は診察医の顔を伺った。
医師はおそらく年の頃40前後で、口ひげを生やし、顎の輪郭はややエラの張った男である。
眠そうな一重の目蓋をさらに細めて、私の話を聞き終えた後もじっと口を閉ざしたままでいる。
私は何だか急に心配になってきた。
私の話にどこかおかしな点でもあったろうか。
あるいは、黙して了見を定めている最中なのであろうか。
「あの……」
「綾瀬さん、でしたか」
「あ、はい」
逆に話しかけられる形となり、ちょっと戸惑う。
診断の結果ほど身を構えたくなるものはない。
「そうですね。今のお話を聞いた限りでは、何もおかしな所は無いように思われますねぇ」
「――やっぱりですか」
と安堵する事しきりである。
「何もおかしくはないですよ。
 嘗糞と云って、僕の故郷でもみんな当たり前のようにやる事です。
 かつては娯楽として、その味で糞の主を当てるなんて事もやっていたようですね」
「嘗糞――ですか」
聞き慣れない言葉である。
何処か遠い地方の、昔ながらの習慣と云った所だろうか。
395名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:38:34 ID:t5VvzvFi
「人中黄なんてものもあります。人糞を粉末にした民間薬の事です。
 糞の適度な摂取は体に良い影響を与えもするのですよ」
「大変素晴らしいではないですか」
「まぁ、何にせよ気にしない事です……周囲の方々の誤解もすぐに解けるでしょう。
 人糞の素晴らしさを説いてあげさえすればね」
お医者様が言うのだから間違いはないだろう。
ようやく腹の底のもやもやが消えてくれた。

さぁ気分よく寮へ戻ろうという段になって、病院の屋根を激しく叩き付ける水音に気が付いた。
しまった、と頭を抱える。
私は傘を持ってきてはいない。
「おや、夕立でしょうかね。……おっと、雷も鳴っているようです」
と思いの外近くに落ちた雷に医師は肩をすくめ、それから私の気色を窺うような素振りで、
「ところで、麻帆良学園女子中等学校に通われているという事ですが……失礼ながら、所属されているクラスはどちらで?」
と真面目な顔で聞いてくる。
「はぁ、3-Aに所属しておりますが」
「ほぅほう、なるほどなるほど――いえね、私の娘も奇遇にして、麻帆良学園女子中等学校に通っておるのでして」
「あ、ひょっとして……」
「ええ、3-A所属の大河内アキラは私の娘です――娘がお世話になっております」
「あぁ、いえ、こちらこそ」
何やら意外な展開になってきた。
まさか、ここがアキラさんのご実家だったとは。
医師は先程までよりも柔らかな顔つきで
「どうです、雨が止むまで奥の客間に上がっていかれませんか。
 私は勤務中の身ですのでお持てなしはできませんが……今日は土曜ですから、久しぶりにアキラが戻ってきているのです。
 お茶くらいは出させましょう」
 と言われる。
「あ、ですがご迷惑をおかけする訳には……」
と言いかけた所に再び雷鳴が轟く。
さっきよりもなお近い。
「……では、少しの間ご厄介になります」
私の返事に医師はニコニコしている。



診察室奥の廊下を通されて、少し先の突き当たりを曲がった右手に、洋風のリビングルームがシャンデリアの明かりを灯していた。
穏やかな光を背に、「いらっしゃい」と微笑みを浮かべたアキラさんが出迎えてくれる。

ソファに腰を下ろすと体がずぶずぶまで埋まった。
こんなに柔らかいソファに掛けたのは始めての事である。
北側の壁際には大きなプラズマTVが置かれ、その傍にはDVDプレイヤーやらスピーカーやらがずらっと並べられている。
実家ではさぞや良い暮らしをしているのだろう。

「どうぞ。紅茶でよかったかな」
「有り難く頂きますです」
アキラさんが煎れてくれた紅茶を一口啜って、遠くに雷の音を聞いている。
雨は思ったよりも早く止みそうだ。
だがそれよりも、私の関心はお茶受けの方に注がれていた。

なんと、紅茶に合わせてキムチ皿が並べられたのである。
胡瓜と白菜に混じって魚の切り身のようなものも見受けられる。
「――これは、また随分と珍しいお茶受けですね」
「ウリは美味しいと思う」
瓜とは胡瓜の事か。
彼女の家ではそう呼ぶのかも知れない。
郷に入っては郷に従えだ。
「確かに瓜は美味しそうだとは思いますが」
「でしょう?」
アキラさんはそう言ってニコニコしている。
少なくともからかっている訳ではなさそうだ。
396名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:39:06 ID:t5VvzvFi
口を付けないというのも悪いので、一つ摘まんでみる。
「うん?この味は……」
「その通り!さすが綾瀬さんだね」
何の事か分からない。
が、ともかく奇妙な、それでいて何処か懐かしい味が舌の上に広がったのである。
「洪濁と云う、私の故郷を代表する郷土料理でね。
 魚を積み肥の中に数日寝かせて作る発酵食品なんだ。
 キムチとの相性が良いから、混ぜて一緒に食べる事もある。
 綾瀬さんに出したのもそれだよ」
「大変素晴らしいではないですか」
私はこの味に、糞を調理して食する前衛的価値観に、そして何よりそれを肯とする精神的な懐の深さにすこぶる感動していた。
そうして自然とそれらを育んだ"故郷"への興味が沸いてきた。
彼女が先程から口にする故郷とは、一体どのような土地であるのか。
それを尋ねずにはいられなかった。
「ところでアキラさん、あなたが仰る故郷というのは一体……」
「うん。そんな事よりビデオでも見るニダ」
「にだ?」
何やら耳慣れない単語に思わず聞き返すが、アキラさんは構わず部屋のDVDプレイヤーを弄り始める。
するとゴムを引っ張って切断するようなプチンッと云う音が響いて、今まで真っ暗だったTVに次第に映像が浮かび上がってきた。
大きな白抜きの文字で『韓半島』と書かれている。
これから始まる映画のタイトルらしい。
「あの。お気持ちは有り難いのですが、そろそろ雨も止みそうな気配ですし……」
「そうかい?残念だな」
アキラさんはそう言ってプレーヤーの電源を落とす。
今さっきと違うブゥン……という音を立てて電源のランプが消えた。
「是非今度の機会に鑑賞させてくださいです。
 では、私はそろそろ"おいとま"するとしますです」
「それじゃ表まで送ってあげよう」
こうして私は大河内医院を後にした。
397名無しかわいいよ名無し:2006/07/29(土) 02:39:37 ID:t5VvzvFi



それから後、私と周囲の人達との溝はますます深まるように思われた。
先生や寮の二人に嘗糞の素晴らしさを説くも、それを境に彼らはろくに口もきいてはくれなくなった。

しかし、そんなものは今の私にとって些細な事に過ぎなかった。
大河内医院での出来事以来、私の関心の全ては彼らの故郷へと向けられていた。
つい先日などはアキラさんにお呼ばれして、"故郷"出身者達の集まりに参加させて頂いた。

そこで私は一人のマスメディアンと出会った。
井川と名乗るその業界人は赤日新聞で記事を書いているらしい。
赤ら顔で大変気さくな30半ばの男性だ。
彼はよれた薄いブルーのシャツに黒のスラックスを履いて、水割りのウィスキーを片手に陽気に話しかけてきた。
「やぁ、君が綾瀬ちゃんかい。アキラちゃんから聞いてるよ、洪濁が好物らしいじゃないか。
 いやいや、見所があるよ。アレは僕も大のお気に入りでね。
 部屋のオマルの中に漬け込んだ自家製のものを毎日のように食べているよ。
 とは云え、日本では市販されていないから必然的に各家庭で作るしかないんだけれどね。
 うん?そりゃあ僕だって市販されたら良いなぁとは思うさ。
 けれどね、この日本社会では洪濁なんてのは――食糞文化なんてものは、到底受け入れては貰えないのさ。
 そんな世の中を正したいという一念で新聞記者になったんだけれども、これがなかなかうまくいかない。
 まぁ世の中なんてのは急に変えられる物でもないからね、気長にやっていくよ。
 何?僕らの故郷へ行ってみたい?
 そうだなぁ……君はなかなか可愛いし、首領様を喜ばせる事もできそうだからね。そ
 の時が来たら僕達と一緒に故郷へ来たらいい、歓迎するよ。
 ところで土筆哲也って知ってるかい?うん、あのニュースキャスターの。
 彼は僕の知り合いでね、ついでに云うと糞尿哲学なんてものも実践してるそうだが、何でも君は哲学に興味があるらしいじゃないか。
 良かったら紹介しようか――」
とまあ、こんな具合である。
話している内に彼の顔はますます真っ赤になって、まるで旭日の旗のように見えた。
しかし彼は実のところ国粋主義に懐疑的で、むしろその政治思想は共産主義的ですらあった。
彼は会場で振る舞われたウィスキーに酔いながら、日本の本来あるべき姿と亜細亜――殊に極東亜細亜の平和について熱く語ったのである。
私はその思想にいたく感じ入りながら、いつしか彼らの故郷へと旅立つ日を夢見ていた。
故郷がどんな場所であるのか未だ詳しい事は知らない、彼らは頃合いを見てそのうち聞かせてくれるらしい。
首領様というのは村長あるいは部落の酋長のようなものだろうか。
ともかく、早くその時が来てくれたら良いと思う。
彼らの故郷はとても素晴らしい場所に違いない。
そう、例えて言うなら、『地上の楽園』のような……。