癌闘病ブログ 35

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165がんと闘う名無しさん
火に行く彼女

特に湖水が小さく光っている。古庭の水の腐った泉水を月夜に見るような色である。
湖水の向こう岸の林が静かに燃え上っている。火は見る見る拡がって行く。山火事らしい。
岸を玩具のように走る蒸気ポンプが鮮やかに水面に映っている。
坂を黒くして人群れが果てしなく上がってくる。
気がつくと、あたりの空気が静かに乾いたように明るい。
坂の下の下町一帯は穂の海である。
彼女がいっぱいの人群れをすいすいと分けて一人坂を下っていく。坂を下っていいくのは彼女唯一人である。
不思議に音のない世界である。
火の海に向かって真っすぐに進む彼女を見て、私はたまらない気持ちになる。
その時、言葉ではなしに彼女の心持と、実にはっきりと会話を交わす。
「どうしてお前だけ坂を下りていくのだ。火で死ぬためか。」
「死にとうはございません。でも、西のほうにはあなたのお家がございます。ですから、私は東にまいります。」
ほのおでいっぱいの私の視野に黒い一点の彼女の姿を、私の目を刺す痛みのように感じて、私は目が覚めた。
目尻に涙が流れていた。

私の家のある方角に向かって歩くのも嫌だと彼女が言うのは、もう私にも分かっていた。彼女がなんと考えようと、
それはいい。しかし私のほうは、理性に鞭打って、彼女の私に対する感情が冷え切ったものと、表面ではあきらめ
ていたにしても、彼女の感情のどこかに私のための一滴があると、実際の彼女とは関係なく、ただ私自分勝手に
思っていたかったのであった。そういう自分を手ひどく冷笑しながらも、ひそかに生かしておきたかったのであった。
ところが、こんな夢を見るようでは、彼女の好意が微塵も私にないものと、私自身の心の隅々まで信じ切ってしまって
いるのであろうか。
夢は私の感情である。夢の中の彼女の感情は、私がこしらえた彼女の感情である。私の感情である。そして夢には
感情の強がりや見栄がないのに。
そう思って私は寂しかった。