雪ですが、みにっつ(みにりゅう)だけは絶対に潰さなきゃいけないと思う
恋愛ってさ、男からしたら二次的なものだと思うんだよね。
まずあるのは「SEXしたい」っていう欲求でさ、その中でも「好みの女の子」を当然望むよな。
だから、「好みの女の子」とSEXするために、その娘に恋してるだの好きだのと思うようにしてると思うんだよ
だってそうだろ?男はどんな女を見ても、外見が好みか好みじゃないかを最初に考えるだろ。少なくとも俺はそうだ。
それで外見が好みだったらSEXしたいって思う訳じゃん。「特定の一人」じゃなく、好みの娘だったら誰かれ構わずSEXしたいって思うだろ?
つまり、まず最初に「SEXしたい」という欲求があり、次にその欲求を満たすためにその娘に対し「恋愛感情」と呼ばれる感情を抱く訳だよ。
だから、「恋愛感情」なんてものは「SEXしたい」っていう欲求を綺麗にするための言葉だと思うのよね。恋なんてくだらない幻想だよ。
その実は、ただの性欲でしかないんだ。多くの人間が理想とする「恋愛」なんてものは、所詮現実世界には存在しないんだ。
それは架空の世界にしか存在しないと思う。アニメ、ゲーム、小説、映画などで描かれる「恋愛」は人間の理想なんだ。
多くの人間は、そんな恋愛に憧れ、現実世界においてそんな恋愛を体験したいと望み、自らを恋愛劇の役に当てはめて陶酔しているんだと思うんだ。
恋だ何だと騒いでる馬鹿は真実を知れ。
恋愛におけるボクの求める「ディスティニー」は、漫画とかアニメの中に存在する、「ディスティニー」であって、
それをリアル世界で求めるには、まず第一条件として相手が「処女」であることが求められるんだ。
リアルにおいては、この「処女」というファクターは、
『相手にとって、自分は世界にただ一人の、まさに運命の相手なのだ』という証明の一つのようなものなのかもしれないね。ボクにとって。
もちろん、2次元世界にも「非処女」はいる訳だけれど、それは2次元であることにより、予め「設定」として二人は「運命」づけられている訳だから
そんな証明はいらないよね。言わずもがなってヤツさ。
リアル世界では、ボクの求める「ディスティニー」なんてものは存在しないと思っているし、あったとしてもそれを実感することはできないよね。
付き合っている最中は、相手のことを「運命の相手」だと思うのかも知れないけど、別れたら、相手はまた別の人とSEXをするんだしね。
リアルでの恋愛なんて所詮は一時的なお遊び感覚でしかないと思うんだ。
単に、恋愛ドラマや少女漫画のキャラに自分を当てはめて恋愛劇に陶酔しているだけってね。
まぁ、つまり、もし仮にボクが3次元女性にディスティニーを求めた場合、前提条件である「処女」ではない女性は、
皆等しく、門前払いの「肉便器」であるという話なわけだね。
おいバカップルども。
お前の今付き合ってる相手は本当にお前の一番好きな相手なのかよ。
お前の今付き合ってる相手は本当にお前のことが一番好きなのかよ。
どっちから告白したのか知らねぇが、
お前が相手に告白したその時、相手の意中の相手は本当にお前だったのかよ。
お前らは本当に相思相愛なのかよ。
お前の付き合ってる相手は、お前に告白された時、本当は別に気になる相手がいなかったと言い切れるのかよ。
中学、高校の頃、お前らは、クラスや学年で一番格好良い男、一番可愛い女と付き合いたかったんじゃないのかよ。
お前らの心は常にイケメンや美少女に在ったんじゃないのかよ。
もし叶うのならば、クラス一格好良いイケメンやクラス一可愛い美少女と付き合いたかったんじゃないのかよ。
今はどうだ。お前は、付き合ってる相手の周囲の中で一番格好良いのかよ。一番可愛いのかよ。
外見の話だけじゃない。
お前は、お前と同レベルの顔偏差値の同性の中で、付き合ってる相手の最も好みの中身をしていると言い切れるのかよ。
何故お前らは付き合っている。
それは“恋愛"がしたいがために、妥協しているからじゃないのかよ。
本当は他に付き合いたい人がいるのに、“恋愛"がしたいがために、必死に相手を“好きになろうとしている"んじゃないのかよ。
おいバカップルども。
お前らは、本当に相思相愛の元付き合っていると言えるのかよ。
人々が行っている“恋愛”という行為
何故、人々はそれぞれの内に持つ恋心を満たす行動として一様に“恋愛”という行為を選択することが可能なのか。
それは、“恋愛”という行為が恋心を満たす行為として確立されているからである。
“恋愛”という行為のモデル無くして人々は“恋愛”することはできないのだ。
では、現代人の“恋愛”のモデルは一体何処にあるのか。それは創作物の中に他ならない。
“恋愛”という事象を総体的に理解するためには、それはモデル化される必要がある。
そのモデル化されたモノが、小説、ドラマ、漫画、アニメ、ゲームなどの創作物である。
人々の“恋愛”という概念の枠組みを構成するのは創作物なのである。
ところで、人々が恋心を満たすために持つ「恋愛がしたい」という欲求
この、人々がしたいと望む“恋愛”とは、どのような“恋愛”なのだろうか。
“辛い恋愛”だろうか。“悲しい恋愛”だろうか。
否。人々がしたいと望むのは“運命的で、素敵で、幸せな恋愛”である。
では、この人々が望む“理想的な恋愛”のモデルとは何なのであろうか。
そう、それは創作物の中の“恋愛”である。
人間の想像から生まれた創作物は人々の理想の形でもある。
人々は創作物の中の“恋愛”に憧れ、そのような“恋愛”を体験したいと、実際に“恋愛”をするのである。
しかし、果たして現実の世界に人々が求める“恋愛”は存在しうるのだろうか。
彼らの理想は創作物であり、創作物は人間の理想である。
理想、それは現実的具体的なものの対極ないし究極に位置する到達不可能な絶対的なものである。
現実世界には人々が理想とする“恋愛”など存在し得ないのだ。
現実世界に存在する“恋愛”は妥協と思い込みの上に成り立っている自己陶酔のための紛い物でしかないのだ。
理想の“恋愛”の紛い物で自分を満足させる・・・これを擬似恋愛と呼ぶことは出来ないだろうか。
擬似恋愛、それは現実世界で恋愛できない人間が仮想世界で自分を慰めるためのものと思われている。
だが、理想の“恋愛”、つまり真の“恋愛”が現実世界ではなく仮想世界に存在するものならば、
擬似恋愛とは現実世界での恋愛の方ということにはならないだろうか。
本当に協調性がないのは体育会系
あいつらは人に合わせるんじゃなく、人を自分たち(体育会系)に合わせようとしているだけである。
奴らは小さい頃から、所属するスポーツチームのメンバーとばかり過ごしてきているから、
そのコミュニティ内の価値観でしか物事を考えられない。
よって、そのコミュニティ内の価値観と外れた行動をする人間を「協調性がない」と言い、
自分たちに合わせようとするのである。
小学生や中学生の頃は、頭脳よりも腕力が物を言う時期である。
そのような時期において、スポーツクラブのような集団に属し、
そのチームメイトと群れて行動していた彼らは、
スポーツをやっていない子供たちからすれば恐れの対象であり、
従って、彼ら体育会系は我が物顔で生活をすることができたのである。
その結果として、体育会系と呼ばれる尊大で傲慢、自分勝手な連中が出来上がってしまったのである。
一般的に体育会系は協調性のある人間だと思われがちだが、実際はそうではないのである。
彼らの協調性の範囲は、体育会系というコミュニティの中だけに限られたものであり、
その範囲から外れるものを協調性が無いと言い矯正、若しくは追放し、
勉強もせずに育った自分たちが不利にならぬよう徒党を組んで自分たちに都合の良いコミュニティを造り上げているだけなのである。