努力したい人は努力し、断念したい人は断念する。 それでいいではないか。
ここで飛躍を厭わずフランシス・フクヤマが『人間の終り』
で論じるバイオテクノロジーの問題ともからめて言えば、
20世紀が限りない延命を目指した世紀だったのに対し、
21世紀の課題はそれへの反省であり、具体的にいって、たとえば安楽死施設、
さらには自殺(幇助)施設の合法化であると思う。
生きたい人は生き、死にたい人は死ぬ。それでいいではないか。
ニーチェは「最後の人間」について「少量の毒をときどき飲む。
それで気持ちのいい夢が見られる。そして最後には多くの毒を。
それによって気持ちよく死んでいく」と書いている。
かれの侮蔑にもかかわらず、私はそれも悪くない選択肢だと思わずにはいられないのだ。
もちろん、私はいますぐ死にたいというのではない。
大江健三郎の『憂い顔の童子』で「母親が生きている間は自殺できない」
という主人公の強迫観念が主題化されていたが、
これはすでに父を喪った私にも大変よくわかる。
幸い、私はきわめて凡庸な常識人なので、倫理と言うより礼節の問題として。
母より先に自殺するつもりはない。
おちんちんびろーん、まで読んだ
3 :
学生さんは名前がない:
代行ありがとうございます