【懐疑論】論理的虚構世界内存在【実姉帝国主義】

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1論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
2学生さんは名前がない:2009/03/01(日) 04:15:14 ID:OyCRmbBv0
なるほどヒッポロ系ニャポーンか
3論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 04:20:11 ID:Ay0FFtnK0
愚禿深海はまだいるか?
4論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 04:20:58 ID:Ay0FFtnK0
愚禿深海は、ホッカルとともに私が知っている数少ないコテハンの一人だ。
5論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 04:22:05 ID:Ay0FFtnK0
観念は具現化するは消滅したようだ。
6学生さんは名前がない:2009/03/01(日) 04:24:08 ID:Hm8dV0iUO
関羽がすきなやつか
7論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 05:07:32 ID:Ay0FFtnK0
そうだ。
しかし、そういう覚え方もあるのか。
http://erosion.tsuchigumo.com/archive/lewd-carnal-chamber.html
これは、私が現在欲情している淫乱肉便器候補生の一覧表である。
8論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 05:08:29 ID:Ay0FFtnK0
私も2009年3月13日で26歳になる。
もう大学生ではないということだ。
9学生さんは名前がない(神戸市):2009/03/01(日) 05:16:24 ID:m6Z2xabL0
ぐはげはどっか留学したとかなんとか
10論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 05:24:30 ID:Ay0FFtnK0
意外だ。
外国に行って何をするつもりなんだ。
11論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 06:49:24 ID:Ay0FFtnK0
さて、と。
開始するぞ。
12蓋 ◆BUvzujjnv2 :2009/03/01(日) 06:59:41 ID:L0dLYUFpO
だれこいつ?
13確認 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:03:01 ID:Ay0FFtnK0
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14懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:10:08 ID:Ay0FFtnK0
  ここでは懐疑論について述べるが、ここで言う懐疑論とは、絶対確実に正しいことを探求するための、あるいは絶対確実に正しいこ
とについての探求を補助するための方法論である。前者と後者とでは若干の違いが生じるが、基本的には誤謬に陥らないようにするた
めに、対象を徹底して解体していく作業を指すと考えてもらえればよい。したがって、無謬主義の立場をとることになる。
  さて、理想的な懐疑の過程は下記に示すとおりである。


  (1) 提示された立場ならびにそれと相反する立場のほかに採用し得る立場の有無を検証する。
   ⇒ここでは真偽決定不能という立場はとりあえず措いておく。
  (2) 案出された(真偽決定不能という立場を除く)すべての立場に対して、自説以外のすべての説が誤っていることの論証を通した、
自説の間接的な正しさの確認のみならず、自説の正しさの直接的な論証を要請する。
   ⇒前者の、自説の間接的論証のみでは不十分である。これは、自説以外のすべての立場が絶対確実に誤っていることが、自説が
絶対確実に正しいこと、あるいは自説が絶対確実に誤っていないことを必ずしも保証しないからにほかならない。非Aが反Aのみから構
成されているとは限らないことを考慮に入れるならば、2つの立場しか検討しない場合には特に注意を要する。また、実際には、(1)で
無視した、真偽決定不能という立場が考えられる場合もあるかもしれないのである。
  (3a) (2)によって消滅せずに残った立場が絶対確実に正しいと判明する。
  (3b) (2)によってすべての立場が消滅した場合には、真偽が原理的に決定不能であることが絶対確実に正しいと判明する。


  私が、まず問いを立てることにしようと考えた主要な動機として、一般人による「独断の多用」と「不用意な自然主義」に対する違
和感がある。
  前者は、自らが抱いている、あるいは自らの帰属集団において共有されている感覚や感情(たとえば「〜はつまらない」、「〜は気
持ち悪い」といったような信念)を論証抜きに正しいと信じたり、主張したりすること(ただし感覚報告や感情報告を除く)である。
言い換えるならば、論理的根拠の代わりに心理的根拠を用いて自説こそが正しいと断じることである。他方、後者については、「私的
な感覚や感情から、集団になって犯罪者を攻撃する」という行為には絶対確実に正しいという趣旨の主張などに見受けられる。たとえ
ば、「特定の条件を満たした者を攻撃したくなる、あるいは攻撃すること」が人間であれば回避することのできない物理的/生理的な
ことであるということが科学によって保証されていたとしても、それが当該行為(ここでは攻撃すること)が正しいことの論理的根拠
にはなるまい。言い換えるならば、両者には懸隔がある。それは、科学によって解明されること、あるいは科学が説明することが「仕
組み」であるからにほかならない。
先の例においては、科学は、せいぜい人がどのようにして「攻撃してもよい」、ならびに/あるいは「攻撃しなければならない」とい
う信念を持つようになるかというところまでしか回答を与えられず、したがってそうした信念を持つことが正しいということを保証し
ないのである。
15懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:11:43 ID:Ay0FFtnK0
  また、人間が引き起こす対立には理論上の身分が同等のものが多いように思われる。たとえば、「芸術はすばらしい」という主張と
「芸術はくだらない」という主張の対立においては、両者ともに感覚ならびに/あるいは感情を報告しているに過ぎない。そこでは、
互いに自らの側の感覚や感情を直ちに正当化するのに終始しているのである。これと似ている、別の種類の対立もある。たとえば、一
神教と科学あるいは左翼と右翼という対立においては、それらの対立に登場するもの以外の立場を取り得る可能性があるにもかかわら
ず、「相手のこういう点が誤っていることから、相手の考え方は隘路となっているので、自らが正しい」という論じ方がよくなされる。
しかし、これらはいずれも誤りである。数学について考えてみればそのことがよく分かるであろう。数学においては、「1+1の答えは2と
3のどちらかというところから出発し、2の相手である3を採用した場合にどのような不具合が起こるか」などといったことは検討されな
いのである。それは、たとえ1+1が3でないことを証明することができたとしても、それだけで1+1が2であることの証拠にはならないから
にほかならない。
  こうしたことから懐疑論の重要性が理解される。懐疑論は対立する両者に等しく自らを絶対評価すること〔自らの正しさ直接的に論
証すること〕を要求する1ので、懐疑論によって消滅させられずに残った立場が絶対確実に正しいと言えるようになるのである。あるい
は、両者ともに消滅するという事態も十分に考えられるが、その場合、「〜という信念または命題が正しいということを正当化するこ
とはできない」、「〜という信念または命題が誤っているということを正当化することはできない」という2つの、互いに矛盾しない結
論が同時に成立することになる。これは、言い換えるならば、真偽を決定することは原理的に不可能であるということである。(なお、
「真偽が決定不能である」とは「真偽はない」ということではないことに注意してもらいたい。)
  また、懐疑論は別の論理的根拠からも要請される。それは、多くの人びとがそれぞれ独断的に前提している基礎的立場〔世界了解〕
のいずれが絶対確実に正しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しないためである。
このことは次のことから導かれる。Aという立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。
しかし、これは(無)矛盾律に反する。したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論
証なしには成り立たない2。(これについては、建築とのアナロジーで考えれば分かりやすい。すなわち、基礎工事を行わずして1階部分
をつくったり、土台と1階をつくらずして2階部分を空中でつくったりすることは、論理的にはともかくとして物理的にはできないのである。)
16懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:13:45 ID:Ay0FFtnK0
  ここで、この部分についてもう少し踏み込んだ議論を示すことにしよう。

  ◆ある事件の加害者とされる者を擁護する言明に対して
   ⇒「おまえが被害者になっても同じことが言えるということだな。さっさと同じ目に遭え。」

  (a) 前半部分について
  彼が同様の状況に陥ったときに同じことが言えないとしても、そのことと彼による加害者擁護言明の真理値に関連性はない。もしこ
れに関連性があるならば、たとえば下記2点のような事態が起こり得る。
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていないことのみから『1+1=2』が誤りであることが帰結する」
   ○「すべての人間が『1+1=2』であると信じていることのみから『1+1=2』が正しいことが帰結する」

  (b) 後半部分について
  自らの、あるいは自らが属する共同体に共有されている感覚や感情、およびそこから帰結する規範を盲目的に正しいと信じ、その押
しつけを行っている。この種の者は、そうした感覚や感情に合致するか否かで何ごとかを判断するので、自らの言うことは必ず正しい
という主張を含んでいることになる。したがって、たとえばある事態について酷いという感想を持たない場合には、(ある事件の加害
者とされる者を擁護する言明に噛み付いた場合とは違い)その事態について酷いという感想を持って不満をぶつける者を否定する。

  ◆ある事件の加害者とされる者に対する量刑に不服がある場合
   ⇒「裁判官は遺族感情を無視している。」

  繰り返しになるが、感覚や感情によってあることが正しくなるならば、その感覚や感情と相容れない感覚や感情に依拠した立場もそ
れ以外の根拠を持ち出さなくとも正しくなるはずである。しかし、こうした事態は(無)矛盾律に反するために成立しない。
  また、 直接的被害者の被った害を受けて苦しむ(すなわち間接的に苦しむ)という行為に対しては、当該行為者の主観によってそ
の苦痛は消滅もしくは軽減されるという考え方とシステムによって決定されているのであるから間接的に苦痛を感じる行為者の自由と
いうわけではないという考え方の2つが想定されるであろう。しかしながら、いずれを採用したとしても、その仮説に基づく世界了解に
おいては、間接的被害者の立場に立脚したと一般に判断されるような見解は誤っていると言える。なぜならば、前者の考え方によれば、
犯人が加害者であるがゆえに攻撃を受け、したがって被害者に転じるという、犯人の自己認識が退けられる代わりに、第三者が間接的
被害者と判断する何者かもまた被害者足りえず、後者の考え方によれば、間接的被害者なるものが実際に被害者であることがシステム
的に決定されているのと同様に、自らが加害者であるとともに被害者であると判断している犯人の主張もまたシステム(により決定さ
れているという仮説)により正しくなるからである。それゆえ、「遺族感情を裁判に持ち込まねばならない」といったような言明は誤
っていると帰結することができるであろう。
17懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:17:44 ID:Ay0FFtnK0
  しかしながら、これまでに述べてきた議論には3つの欠点がある。以下で、それを洗い出すことにする。

  (1) 懐疑論においては、人間や人間社会は人間の意識や言語から独立して存在することができるという前提、したがって正当性を担
保するのは人間社会を包括する何かであるという前提が採用されている。そして、その一般的な形式が世界である。すなわち、世界が
他のものやことを根拠づけていると考えるのである。しかし、そうであるとすれば、世界が人間社会を包括しているように、他の何か
がその世界を包括しないならば、人間社会を直接的に包括する世界による根拠づけは、心理的根拠と同様の独断と化す。したがって、
人間社会を直接的に包括する世界を包括する世界が要請される。しかし、これについても同じことが言えるため、無限後退という隘路
に入っていくことになる。要するに、懐疑論において正当性を担保すると想定されているものは、独断か、または無限後退のいずれか
の誤謬の所産なのである。

  (2) 懐疑論によれば、まず何よりも基礎的立場の正しさの確定が必要であるということになるが、この考え方には2種類の疑問が生
じる。1つは、基礎的立場の確定に必要な議論においては、基礎的立場が確定していない以上、より上位の議論を参照せざるを得ないが、
他方で基礎的立場が確定していない段階におけるより上位の議論が空虚になると考えるのであれば、そうした独断的前提を採用した議
論を参照して確定される基礎的立場にもまた独断が入り込むことになるというものである。(ただし、矛盾律と否定的背理法/消極的
背理法からのみ何かが導き出されるならば、この問題は解消される。)そしてもう1つは、基礎的立場の正しさを確定することが必要で
あることを論証する際に利用されていた背理法が正しいならば、「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されている
ことになるというものである。また、仮に同一視するのが正しいとしても、その論理的根拠はどのようなものであろうか。

  (3a) 懐疑論は論理学に依拠して進められる。しかし、論理学は、前提や結論、さらにはそれらの文を構成する各要素(主として語
彙や文法)については何も述べず、推論と呼ばれる過程/関係性しか扱わない。ところで、前提の正しさや前提を構成する文の各要素
の使用法の正しさを論証しようと思うならば別の前提を持ち出さなければならなくなる。こうして必ず完全性がない部分が現れ続ける
という無限後退に陥るか、または循環論法3が生起するようになるか、そうでなければどこかで独断的に基礎を決定せざるを得ない。
18懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:18:46 ID:Ay0FFtnK0
  (3b) 懐疑論は徹底的に懐疑することを標榜している。そして、徹底的な懐疑は、結局「〜とは何か」という問いに収斂する。むろん
他の種類の問いもあるが、1つずつすべてを疑っていくという立場では、その疑問文で扱われているすべての語が分からないという前提
のうえで議論が開始されるはずであるから、結局は左の問いの形に落ち着くことになる。しかし実際には、「何」という語、「〜とは
何か」という文法、さらにはそもそも「疑う」という語、「分かる」および「分からない」などの、懐疑論の出発点において必要とな
ってくる基礎的な語についても分からないのである。したがって、他の何にも依拠しないという無根拠の状態からでは、思考を開始す
ることができない。すなわち、懐疑することができるには少なくとも「何」を初めとするいくつかの語やそれらの語を使用するための
いくつかの文法を独断的に前提せねばならない。このことから、言語は「独断の共有化」、「共有された独断」によって成立している
と言える。
  これは(3a)とも密接に関係しているが、問題は日常言語がどこまで効いてくるかということであると思う。より具体的には、日常言
語が独断から逃れられないとするならば、演繹という語が日常言語である以上、演繹それ自体もまた独断により成立しているというこ
となのか、それとも演繹という語とその語によってわれわれが想起している関係性それ自体〔論理的関係性〕は独立に存在することに
なるのかということである。また、後者の考え方がただ1つの立場からのみ言われるもの(具体的に想定しているのは真理の対応説)で
あるかどうか、さらにはそもそも具体的にいかなることを言っているのかも分からない。

  以上より、「すべてを疑おうとする者は疑うところまで辿り着けない」という、ヴィトゲンシュタインによる懐疑論論駁が導出され
る。結局、無前提では、出発することも、終点に行き着くこともないのである。すなわち、言語の制約を受けている以上、言語と切り
離して何かが存在したり、成立したりするということはあり得ない。すべては人が人の言語によって規定・設定したり、構築・制作し
たりしている。それも、しばしば想定される人間社会の内側と外側などというものは単なる幻想に過ぎず、そこにはただ人間社会=人
間の言語しかないのであるから、正当化を担保するものは人間社会=人間の言語であるとする構成主義的立場が正しいと言える。
  しかし、本当にそうだろうか。その場合、すべての語について、有象無象の独断的議論に見られるように、感覚や感情による規定を
行い、根拠づけが成功すると考えるならば、それは他者(たとえばこの私)がそれとは異なる(しかも相容れない)感覚や感情により
規定、根拠づけを行うことによって、両者の理論上の身分は同等になるという、すでに述べた懐疑論からの議論が再登場することにな
る。あるいは、これもすでに見たように、「すべての人間が『1+1=2』が誤りであると信じていることのみから『1+1=2』が誤りである
ことが帰結する」などといったように、「正しいこと」と「正しいと信じること」が同一であるということになってしまう。
  それでは、いくつかの語などについては独断を無視するほかないという立場はどうであろうか。この立場の問題点は、なぜそのいく
つかの語などについて独断が許容されて、そのほかの語などについて独断が許容され得ないのかというものである。そこにいかなる基
準があるのかということについて論証することができない限り、先に挙げた、すべての語について独断を許容する立場と同じ隘路が待
ち受けているのである。(しかし、この立場を徹底すると再び懐疑論が論駁されることになる……。)
19懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:21:17 ID:Ay0FFtnK0
  注  釈

1 懐疑論は対立する両者に等しく自らの正しさを直接的に論証することを要求する。
  しかし、相対主義の場合には注意が必要である。真性の相対主義者は、相対主義の主張を他者に押しつけないし、その必要性もない
〔そのようにしなくとも相対主義は成立する〕と考える。相対主義は、それを主張する者にとってのみの真理なのであり、それ以外の
者にとってどうであるかということは問題でないのである。したがって、「生きる意味」について、「個人的には〜というのが生きる
意味だが、それをほかの人がどう思うかとか、それが普遍的なものかどうかとかはどうでもいい」という主観的な見解のみを持ってい
る人と同質であると言うことができる。言い換えるならば感覚あるいは感情の報告と同質であり、そこには議論が成立する余地はない。
この見方は、相対主義を採用すればコミュニケーションが成立しないとする、おそらく一般的であろう見解と軌を一にしているため、
こうした理解の仕方をしてよいと思われる。
  ということは、相対主義こそが正しい考え方である〔相対主義を採用せざるを得ない〕という立場を採用した場合、そのほかの立場
とは異なり、自身以外の立場の不可能性を論証することによってのみ自身〔相対主義〕こそが正しいということが判明するということ
になる。(これに対して、相対主義以外の立場をとる場合には、相対主義の不可能性を論証する必要があるほか、自身の正しさの直接
的論証が要請されるということはすでに見たとおりである。)要するに、同じ非明晰主義であるとは言え、超心理学、神秘主義、心霊
主義、東洋思想等々とは異なり、どうやら相対主義の場合には「正当性の探究をしているにもかかわらず、自身が正当化している考え
を論証することができない、あるいはそれ以前に論証しようとしないこと」が「不当な正当化を行っていること」にはならないようで
ある。
  なお、ある立場が絶対確実に正しいと言えるためには直接的論証が必要であると述べたが、ここでのある立場には「ある立場を批判
するという立場」は含まれない。単にある立場の誤謬を指摘することに終始する場合には、自らが積極的な主張を行っているのではな
いため、彼の採用している立場はないと考えられる。(より厳密には、判断留保という立場であるが、これは消去法の結果として立ち
現れる〔懐疑論を遂行する場合に必然的に採用することになる〕種類のものである。)

2 もっとも基礎となる立場をまず決定せねばならない。
  なお、基礎的な議論が終わった次に待ち受けているのは、その枠組みのなかにあるどの枠組みが正しいかという議論である。たとえ
ば、絶対主義が正しいということになったときには、実在論が正しいのか、観念論が正しいのか、それとも……となる。さらに、実在
論が正しいとなれば、素朴実在論が正しいのか、科学的実在論が正しいのか、それとも……となる。さらに、科学的実在論が正しいと
なれば、……。そしてようやく最後に、より具体的な個別の問題について、正当化することのできる枠組みに依拠すればどのような解
を与えることができるのかと考えることができるようになるのである。
20懐疑論とその限界 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:21:41 ID:Ay0FFtnK0
3 循環論法
  たとえば、AからZという、互いに異なる言明があり、AからはBを、BからはCを、CからはDを、……YからはZをそれぞれ演繹的に導き
出すことができると仮定した場合、それら隣接する言明同士の繋がりやAとZとの繋がりなどは絶対に正しいと言える。しかし、Aという
言明はいかにして正当化されるのであろうか。この問いに対して、ZからAを演繹的に導くことができると仮定したときに循環論法〔論
点先取り〕が生じる。(そのような仮定を行わない場合には無限後退に陥り、さらに無限後退を回避しようとすればAの正当性を独断す
ることになる。)それは、ZがYによって、YがXによって、XがWによって、……BがAによって論証されるといったように先ほどとは逆の
流れを辿っていけば理解することができる。その結果はAの正当性はZによって保証されるということになるが、最初の仮定ではAがZの
正当性を保証していたのであった。また、そうした体系をαとし、それとは別の体系βからAを演繹することができるとしよう。しかし、
体系βにおいても、上記で示した、体系αにおける問題と同様のことが生じるため、結局はせいぜい循環論法止まりで、悪くすれば無
限後退や独断に陥る結果となる。(この種の循環論法で構成される体系あるいは体系群を支持するのが全体論あるいは外在主義的整合
主義と呼ばれる立場であろうか。)
21実践上の矛盾を巡って ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:24:20 ID:Ay0FFtnK0
  以下に、かつて私が批判していた「実践上の矛盾」を巡る顛末を述べる。なお、私が実践上の矛盾であるとしていた具体例について
は、省略する。

  ◇実践上の矛盾と私が呼ぶものは、行為間の整合性の有無によって判定される、言い換えるならば批判対象が採用している理論を基
準として彼の行為を裁定するので、理論とは独立に成立する。
  ◇しかしながら、行為の観察には独断がつきまとう。
  ◇この独断をすべて排除するには、認識論と存在論についての絶対確実に正しい回答が要請される。
  ◆したがって、実際には理論に依存しているということが帰結する。
  ◇また、私は、その過程〔すべての基礎となる認識論と存在論についての結論〕を迂回したうえで、批判対象がどのような行為を行
っているかを判断していたのであったが、他方で私が行っていた提唱は、「すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しく
なることはない」1というものであった。
  ◇ということは、独断を批判していたはずの私こそが独断に陥っているということになり、したがって私もまた実践上の矛盾を抱え
ているのである。
  ◇実は、ここに重要点がある。それは、私が実践上の矛盾に陥っていると判断できるのはただ私のみであるという点である。
  ◇なぜならば、他者が私のその行為について判断したならば、先ほど私が他者の行為について判断したのと同じできごとが生じるた
めである。
  ◆それゆえ、実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることなのであるということが導か
れる。
  ○というのが「実践上の矛盾」を巡る議論であったが、上で見たようにこの方法が理論に依存すると言うならば、懐疑論へと繋がっ
ていくことになる。
  ●したがって、下記の注釈1の最後の疑問が生じ、さらには「終わらない独断」(「懐疑論とその限界」で取り扱っている問題)か
ら抜け出せなくなる。
  ●また、後者を言い換えるならば(私が批判していた「独断の多用」ではなく)「独断という概念の多用」と呼ぶべき誤謬に陥ると
いうことになろうが、そうであるならば「実践上の矛盾にまつわる判断は、誰にとっても自分自身の行為についてのみ行い得ることな
のである」という批判もまた、言語という公共的なものを使用しておきながら、それを私的な使用法へと改変している点で成功しない
議論であると言うことができる。
22実践上の矛盾を巡って ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 07:25:48 ID:Ay0FFtnK0
  ○なお、先述したとおり、「実践上の矛盾」についての批判は理論ではなく、実践に対して適用されるという考えに支えられていた。
  ○しかし、たとえ「ある信念や命題が絶対確実に誤っている」(理論が誤っている)としても、そのことのみから「その信念や命題
を絶対確実に正しいと主張すること」が絶対確実に誤っている(誤った理論を実践しようとすることは誤っている)と結論づけること
はできない。
  ○言い換えるならば前者は一階に属しており、後者は二階に属しているために、一階の結論を他のいかなるものも媒介せずに直ちに
二階の結論として再利用することはできない。
  ●ここからも、「実践上の矛盾」にまつわる問題が、単に行為間の整合性の問題で完結するものではなく、理論(ここでは一階と二
階の対立)の問題になるということが分かる。


  注  釈

1 すべての信念や命題は論証を抜きにして絶対確実に正しくなることはない。
  この部分については、すでに2009年2月22日の「スマイリーキクチ事件要論」でも述べたとおりである。すなわち、どの世界了解が正
しいかということが判明しない限り、そのうえに成り立っている事態についての正しさも判明しない。これは次のことから導かれる。A
という立場が論証なしに正しくなるなら、反Aという立場も論証なしに正しくならねばなるまい。しかし、これは(無)矛盾律に反する。
したがって、少なくともこの世界においては成立しない。それゆえ、いかなる立場の正しさも論証なしには成り立たない。
  しかしながら、この議論からは「正しいこと」と「正しいと論証できること」とが同一視されているのではないか、同一視するのが
正しいとしてその論理的根拠は何かといった疑問が生じる。
23学生さんは名前がない:2009/03/01(日) 07:34:33 ID:JDuu7NHHO
ここまでつまらん奴久しぶりに見た
24じゅき ◆dkrR/1Do0s :2009/03/01(日) 09:10:46 ID:rTK4MkMRO
通過記念sage
25論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:12:19 ID:+WvfU+/q0
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能
性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入
したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooです
ら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能
性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考え
る。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはなら
ないことであるという可能性はある。)
26論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:13:10 ID:+WvfU+/q0
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」
と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダ
ウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、
そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべ
てを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を
他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版が
オリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記
録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」
ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したと
ころ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、
彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性
を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパ
ッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許
容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、
2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルート
で購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そし
て、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売
すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有
の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては
使えないと思う。
27論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:13:54 ID:+WvfU+/q0
  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、
マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為から
ファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売する
ことが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭
に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、した
がって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版で
あるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。
28意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:16:25 ID:+WvfU+/q0
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタ
ンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。
この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン
1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボ
タンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の
条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な
理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あ
るボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、か
つ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っている
のかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かって
いない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、
そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に
決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析
は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何
かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容であ
る対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかとい
うことが明晰ではないというものである。
29意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:17:12 ID:+WvfU+/q0
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然
「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可
能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するという
ことは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を
指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正
しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に
成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」とい
う言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲーム(television game)である。そのゲームでは、園
崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何
度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向し
てきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、
それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園
崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。
30意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:18:07 ID:+WvfU+/q0
  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそ
うなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記
の考え方はすべて独断になってしまうか……。
31現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:19:26 ID:+WvfU+/q0
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はど
こにも見当たらない。


【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如して
いると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的
にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの
世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測
選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。
32現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:20:02 ID:+WvfU+/q0
▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、
何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信
念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾
であると指摘することができる。

◇批判2:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚
になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないと
いう状況も可能であるという点が問題なのである。
33論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:22:40 ID:+WvfU+/q0
>>23

  「論理ではなく感情が重要」論者、(自らにとって都合のいいときだけ)「人は論理だけで行動しているのではない」論者に対する
論駁の要点は以下のとおりである。

【主要】感情による正しさを主張する者は、その感情に対して、さらにはその感情が正しいという考えに対して「それは正しいか?」
と問うことができるということに気づいていない、もしくは無視している。
【補助1】ある感情を持っている(と思い込んでいる者)が自らの考えが正しいと主張したとしても、それとは異なる(しかも相容れな
い)感情を持っている(と思い込んでいる)者が、彼と同じように自らは正しいと主張した場合、両者の理論上の身分は同等となり、
原理的な決着はつかない。
  ↑を戦術的に活用すれば、ある感情を持っている者が自身の正しさを主張するのに対して、それが気に入らないという感情によって
反対意見を表明するだけで、両者の理論上の身分を同等にすることができる。
【補助2】「正しいか誤っているかはどうでもいい」と言う者は、「「正しいか誤っているかはどうでもいい」ということが正しい」と
暗に主張しているため、結局正しさを問題にしている。
【補助3】「感覚や感情が共有され得る」という信念、「多数派に共有されている感覚や感情こそが正しいのである」という信念、「多
数派に共有されている感覚や感情に従わねばならない」という規範(この規範の背後にあると思われる、「機能すると自らが思い込ん
でいること」が事実としても、価値としても正しいという信念、および「人類は存続せねばならない」などの規範を含む)はすべて独
断である。
【補足】「人は論理だけで行動しているのではない」という信念に含意される規範は独断である。
34論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:24:00 ID:+WvfU+/q0
  上述のような指摘を行うと出現するのが、動機を探ろうとする者(そして、魔術的な仕方で動機を発見し、嬉々として攻撃を加えて
くる者)である。
  しかしながら、ある考えや理論にとって、それらを提唱している者の動機こそが重要であるという考えは、「1+1」の答えが「2」で
あってほしいという動機によって「1+1=2」が成立するという考えを支持することになる。
  彼の考えが正しいとするならば、先述した【補助1】という袋小路に迷い込み、抜け出せなくなるだろう。
  したがって、動機によって正しいことが誤りになったり、誤りであることが正しいことになるなどということは決してない。(その
者の動機が何であれ、正しいことは正しいし、誤りは誤りである。)
  私には、実際に「1+1=2」というのが正しいかどうかは分からない。
  しかし、もし「1+1=2」が正しいならば、「1+1=2」であることを論証する(しかも公理のような独断を排除して!)ことに成功した
者が「1+1=3」という感覚を持っていたとしても(そして「1+1=2」という感覚を持っている者がただの1人もいないとしても)、
「1+1=2」は絶対確実に正しいと言える。
  動機の囚人となっている者は、感覚や感情の段階と理性の段階を区別せず、俗流心理学を奉ずる、誤った論者である。
35論理の重要性についての1節 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:29:50 ID:+WvfU+/q0
  最近知ったが、『ドラえもん』には「独裁者ボタン」という話があり、これは野比のび太が自分の嫌いな者を消すことのできるボタ
ンを用いて、次々と周囲の人を消していき、最終的には自分以外のすべての人を消した後に事の重大さに気づくというものだそうだ。
この例において、後にそんなことは不可能であるということが論証され、さらにその改訂可能性も完全に否定されたとしよう。ボタン
1つで人を消去できるような道具は実現し得ないという命題の絶対確実性が論証されたと仮定するということである。(なお、独裁者ボ
タンが効果を発揮するためには、その使用の際に、『DEATH NOTE』がそうであるように対象の顔や氏名を思い浮かべる必要がある等の
条件があったかもしれないが、それを持ち出すとさらにややこしくなるので、ここでは措いておく。)すると、その理論は「不可能な
理論」ということになり、その理論(もどき)に基づく、「独裁者ボタン」という話は空虚であると言えるであろう。こうして、「あ
るボタンを押せば人を消すことができる」理論は何も指示していないことになり、したがって対象の意図は空虚になる。
  少し話を戻して、制作者が「独裁者ボタン」という物語をつくる以前にそこで用いられている考えの不可能性が証明されており、か
つ制作者がそれについて理解している場合、彼は「独裁者ボタン」という物語をつくったものの、彼は自分がいったい何を言っている
のかを理解していないということになる。
  これら(具体的には、これまで述べてきた、物語制作時にすでに用いようとしている理論の不可能性が分かっている場合と分かって
いない場合のそれぞれにおける問題)に対して、虚構世界であるということのみを以って何も問題はないとする見方があろう。しかし、
そうであるならばいったいその虚構世界にはこの世界と異なるどのような理論体系が成立しているのか、そしてそれら理論体系相互に
決して矛盾はないということを示す必要があるのではないか。(その基準が厳しいとしても、少なくとも虚構世界一般についての分析
は必要であろう。)それらができないならば、自らが何を言っているのか理解していないということになる。そこではせいぜい、「何
かを意図しようという意図」、あるいは「何かを意図しているという思い込み」であるメタ意図は成立しても、その具体的な内容であ
る対象の意図は成立しないのである。
  ここには、さらなる問題が潜んでいる。それは、(ある装置を用いて)人を消すということがいったいいかなることであるのかとい
うことが明晰ではないというものである。
36意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:30:31 ID:+WvfU+/q0
  しかしながら、上の議論の運びには問題もある。私は、ある言明が何も指示しない場合もあるということを示唆したが、これは当然
「それが何であれ指示は常に成立する」という立場が絶対確実に正しいことを論証することができない以上、それに反する立場にも可
能性があるという程度のもので、厳密さはない。ここで問題となるのは、誰かが探究の結果として「われわれが指示に失敗するという
ことは不可能である」という命題の論証に成功した場合、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という私の言明がいったい何を
指示しているのかが分からなくなるということである。あるいは反対に、「われわれは指示に失敗する可能性がある」という命題の正
しさが論証された場合には、「誰かが探究の結果として『われわれが指示に失敗するということは不可能である』という命題の論証に
成功した場合、『われわれは指示に失敗する可能性がある』という私の言明がいったい何を指示していたのかが分からなくなる」とい
う言明が何ごとかを指示していることになるのであろうか。
  私がこの疑問を抱いたきっかけは『ひぐらしのなく頃に 祭』というテレビ・ゲーム(television game)である。そのゲームでは、園
崎魅音と園崎詩音という、これまで彼女たちに接してきた人びとにとって見分けがつかない一卵性双生児が登場するが、2人は途中で何
度か入れ替わったり、あるときからは入れ替わったまま生活することになり、おそらく2人が高校3年生のときに「園崎魅音」は転向し
てきた主人公と友人になる。
  このとき、われわれ(主人公を含む)はいったい園崎魅音ならびに/あるいは園崎詩音という固有名によって何を指示しているのか、
それとも何も指示していないのか。
  私が暫定的に提示した考えでは、上記の場合、少なくとも両者の区別が付いていない者にとっては、園崎魅音ならびに/あるいは園
崎詩音という固有名は何も指示することができていないことになるのであるが、果たしてこれは正しいのであろうか。
  なお、この例には、ある対象とある固有名との結びつきがいかにして正当化されるかという問題も潜んでいる。
37意図と指示 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:31:17 ID:+WvfU+/q0
  備  考

前提:
◇現在の魅音=本来の詩音
◇現在の詩音=本来の魅音


解釈:
◆生物学+法学→本来の魅音/現在の詩音が魅音(現在の日本人の多数派の常識より)
◆構成主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(ただし、多数派が当事者の双子とは反対の認識を持っている場合に限る)
◆(生物学+)外延主義→本来の魅音/現在の詩音が魅音(『虚構世界の存在論』より)
◆(生物学+)現象主義→本来の詩音/現在の魅音が魅音(『虚構世界の存在論』より)


# 「本来の」という語がすでに生物学(というよりも、彼女たちに対して生物学に基づく検査をしていない以上、生物学を用いればそ
うなるであろうという予想)を前提にしており、生物学(あるいは件の思い込み)が絶対確実であることは確定していないため、上記
の考え方はすべて独断になってしまうか……。


>>35の題名は、「論理の重要性についての1節」ではなく、「意図と指示」である。
38現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:31:41 ID:+WvfU+/q0
▽現実本位


◇批判:虚構作品は現実的でない。

◆応答:
【カテゴリー1】 一般的
  →虚構作品は現実(という虚構)以外の虚構を記述したものであるため、ただ現実のみを求めるならば虚構作品を求める必要性はど
こにも見当たらない。


【カテゴリー2】 原理的
  →両者はそれぞれに独立した自然さがあるため、現実の事態の評価基準に虚構世界の事態を持ち出して虚構世界が自然さを欠如して
いると言う、あるいは反対に虚構世界の事態の評価基準に現実の事態を持ち出して現実世界は自然さを欠如していると言うのは、端的
にトリヴィアルな言明である。(現実世界と虚構世界とでは、成立している理論が異なっているという可能性を無視している。)
  →対象を現実的であると感じるかどうかは人によって異なっている可能性があることをまったく無視している。
  →(実在論が正しいとして)対象を現実であると主張する者が言う現実が本当に現実であるかのということが疑問として残る。
  →↑とも対立する考えとして、現実は相対的であるというものがある。(敷衍すれば、一角獣が存在する世界からみた場合にはこの
世界こそが虚構である、あるいはこの世界は一角獣が存在する世界と同程度に虚構的であるということである。)
  →「現実的でない」という部分を「ご都合主義である」に変換した場合には、現実世界には観測選択効果が、虚構世界には美的観測
選択効果がそれぞれ働いていることから、両者は共通していると反論することができる。
39現実と虚構(作品)を巡る批判と応答 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:32:04 ID:+WvfU+/q0
▽虚構本位


◇批判1:虚構作品に理論は不要である。

◆応答1:
  →学術的に劣る考え方を採用している虚構作品(たとえば映画では『MATRIX』)を節操なく受け入れるならば、何でもありになるか、
何もないということになる。前者については、この世界のみならず、他のあらゆる世界においても「何でもありが成立する」という信
念が成立するかという問いを立てることができ、後者については、何もないにもかかわらず、何かを(物)語っているというのは矛盾
であると指摘することができる。

◇批判2:虚構作品においては、理論がなくとも意図が成立する。

◆応答2:
  →その意図は、対象の意図ではなく、メタ意図〔何かを意図しようという意図〕である。背景に理論がない場合、対象の意図は空虚
になる。

◇批判2b:現実世界においてすら、どのような理論が背後から現実世界を支えているか判明していない。

◆応答2b:
  →背景にある理論体系を示すことができない限り、虚構作品は無意味となる〔成立しない〕とは言っていない。理論が存在しないと
いう状況も可能であるという点が問題なのである。
40学生さんは名前がない:2009/03/01(日) 09:32:11 ID:+o4cNVhN0
television gameっておかしいよ
video game
41論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:33:03 ID:+WvfU+/q0
「正規ルートで購入したダウンロード版ソフトウェアは1回のみなら販売してもよかろう論」


  ダウンロード販売により購入した商品を販売することに対する私の解釈は以下のとおりである。(現行の法律と異なっている可能
性はある。)

◆この出品物について、「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとの報告をした者がいる。
◆しかし私は、この出品物を金銭を支払って正規ルートで購入した。
◆仮に、この出品物が「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」であるとするならば、同じく金銭を支払って正規ルートで購入
したパッケージ版もまた「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」に当たると判断せねばなるまい。
◆しかしながら、現状ではそのようには判断されていない。
◆したがって、現状ではこの出品物は「海賊版など、第三者の著作権を侵害するもの」ではない。
(以上、背理法による論証)
◆さて、ダウンロード版は何度も販売することができる点でパッケージ版とは異なるのだという指摘もあろう。
◆言い換えるならば、この出品はパッケージ版のファイルをコピーして販売しているのと同型であるということである。
◆たしかに原理的にはそのとおりであるが、個別の事例で考えた場合にはその限りではない。
◆具体的には、製品版の販売と同様に、販売回数を1回に限定すればよいのである。
◆これに対しては、たとえば複数IDを持っていたり、Yahooから排除されるたびにIDを取り直したりするなどした場合には、Yahooです
ら何回販売しているかを把握できないとの反論があるかもしれない。
◆これにも異論はない。
◆しかしながら、ただそれだけの理由で排除が行われるならば、パッケージ版についても、たとえば他者から窃盗したものである可能
性がある、あるいは精巧な複製品の可能性があるなどとして排除されねばなるまい。
◆そうした可能性があるにもかかわらず製品版の出品は排除されていないというのが実情である。
◆それゆえ私は、ダウンロード版の販売についても、製品版の販売と同様に、出品者を信用するというのが整合的な立場であると考え
る。
(むろん、これは現状において整合性を保持する場合の帰結であって、パッケージ版を中古として払い下げること自体が行ってはなら
ないことであるという可能性はある。)
42論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:33:55 ID:+WvfU+/q0
  上では、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売すること」
と同型であるとしたが、実は厳密に言えばこの見方は誤っている。
  ダウンロード版とパッケージ版のいずれもが正規ルートで購入されているということを前提するならば、「正規ルートで購入したダ
ウンロード版」と「正規ルートで購入したパッケージ版」の身分が同値となる。ところで、パッケージ版のコピーを販売した場合には、
そのコピーの購入者が購入したコピー品を他者に販売することは禁じられている。また、そもそもパッケージ版のファイルを含むすべ
てを複製して販売することも禁じられている。他方、パッケージ版のコピーを自らが保有しておき、購入したパッケージ版それ自体を
他者に販売するという行為は、すでに見たように一般に広く行われており、現時点では容認されている。したがって、パッケージ版が
オリジナルであるかどうかは、そのソフトウェアのファイル群ではなく、ファイル群以外のパッケージ部分(外箱、内箱、ケース、記
録メディア、マニュアル等々の総体)において判断されていると考えられる。
  ここで、ダウンロード版の特殊性が浮かび上がってくる。上でパッケージ版について検討したとおり、少なくとも「商品としての」
ソフトウェア・ファイル群自体にはオリジナルがない。ということは、ファイル群のみの取引となるダウンロード版には、一見したと
ころ商品としてのオリジナルは存在しないことになるのである。しかしながら、これでは1人の者が1度その商品を購入しさえすれば、
彼が物理的に可能な範囲で無制限に配布できることになってしまう。したがって、パッケージ版に課せられている制限との間で整合性
を維持することができない。
  そこで、購入したパッケージ版を売却する際に制限として設けられていたことを思い出す必要がある。パッケージ版は、購入したパ
ッケージ版それ自体を販売する限りにおいて売却が認められていたのであった。すなわち、パッケージ版においては1回のみの販売が許
容されているのである。これをダウンロード版にも適用したとき、ダウンロード版は、それを手にした者がそれぞれ1回販売するか、
2回以上販売するかによって、パッケージ版と同値であるか、パッケージ版のコピーと同値であるかに分岐するという結論が得られる。
  それゆえ、「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」という事態は次の2つに区分されることになる。「正規ルート
で購入したダウンロード版を1回のみ販売すること」と「正規ルートで購入したダウンロード版を2回以上販売すること」である。そし
て、後者の場合には「正規ルートで購入したダウンロード版を販売すること」が「正規ルートで購入したパッケージ版のコピーを販売
すること」と同値になるが、前者の場合には同値でないと言うことができるのである。
  なお、ダウンロード版は価格が相対的に低いが、これは再販売が禁止されている代償であると言うよりは、単にパッケージ版に特有
の費用(製造に係る費用と流通に係る費用の両方)を抑えられるからであり、したがってダウンロード版の再販売禁止の根拠としては
使えないと思う。
43論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 09:34:28 ID:+WvfU+/q0
  要約版

◇パッケージ版のファイルをコピーしたものの販売やパッケージ版全体(ファイルのみならず、外箱、内箱、ケース、記録メディア、
マニュアル等々を含む総体)の複製品の販売を禁じているのは、ファイルに権利があると見なしているからであると思う。
◇つまり、本来のオリジナル性はファイルに帰属することになる。
◇しかし、製造会社が生産し、流通経路に乗せたパッケージ版それ自体の販売の連鎖はどこまでも容認されている。
◇このことから、私は「商品としては」ファイル以外の部分がオリジナルに当たると述べた。
◇ファイル以外の部分を「商品としての」オリジナル(識別符号)と見なすことによって、ファイル制作者の権利を侵害する行為から
ファイルを保護しているのである。
◇こうして、ダウンロード版販売禁止論者は、識別符号であるファイル以外を持たないために(1回の購入によって何度でも再販売する
ことが可能となる)ダウンロード版の販売は禁じられるべきなのであると考えていることが分かる。
◇しかし、これが問題なのは、正規ルートで金銭を支払って入手したという点では同じであるにもかかわらず、パッケージ版には冒頭
に挙げた制限付きでの販売を認め、ダウンロード版には問答無用で販売を認めないという立場が整合的でないからにほかならない。
◇しかも、販売は認められないと言いながら、製造業者から小売業者への販売は行われているのである。
◇正規ルートで金銭を代償にして購入した商品の販売が認められないならば、小売業者が消費者に販売することもまた禁じられ、した
がって製造業者が消費者に直接販売せねばなるまい。
◇また、パッケージ版でも1回の購入によって、あるいは購入すらせずに何度でも再販売することが可能である。
◇たとえば、本物と見紛うほどの複製品を許可なく製造する、他者から窃盗するなどの事態を想定せよ。
◇以上より、パッケージ版とダウンロード版との間の取り扱いに整合性を持たせるために、「正規ルートで購入したダウンロード版で
あるならば、1回のみの販売が容認されるべきである」ということが帰結する。
44論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 10:32:09 ID:ZGiYmbZ/0
45学生さんは名前がない:2009/03/01(日) 13:29:16 ID:Hm8dV0iUO
三四年前にいたやつだな
46論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 18:57:35 ID:vC9ltoTJ0
ageるぞ、ボケェ!
47論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/01(日) 20:36:10 ID:vC9ltoTJ0
48論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/02(月) 05:38:21 ID:kjP/KbOG0
49論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :2009/03/02(月) 05:39:39 ID:Cj2ujEcF0
50論理的虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc
飽きた。