>>456 論を「他人である親の人生」のみに依拠し、また同性愛者の中絶が可能になったとき
何が起こるのかを考えない態度は、「想像力」が豊かとは言えない。
自身の存在を否定する考え方を容認する、という事は「寛容」とは言わない。
つまり、その主張には偏りがある。であるのに「想像力と寛容さ」があれば
こちらに賛同するはず、と論点先取して持論を一般化させたがっている。
人を動かすのは明快な理論であるべき。 君の態度は、現代人として如何なものか。
>>464 この詭弁に疑問をぶつけてみよう。
>論を「他人である親の人生」のみに依拠し、
Q.「親」というだけで、見過ごされている人権の問題に焦点を当てるのは、当然ではないか?
「同性愛の子」の人権は既に語られ始めているのに。やっぱり想像力が足りないのでは。
>また同性愛者の中絶が可能になったとき
>何が起こるのかを考えない態度は、「想像力」が豊かとは言えない。
Q.既に中絶を解禁されている例にダウン症がある。この疾病への差別があるので、
ダウン症児の人数は減っているだろう。しかし、それでもダウン症児を産んでもよい
としている人もいる。又、宗教的に中絶を忌避する人も居る。社会には色々な立場の人が
住んでいる訳だ。としたならば、中絶を考える際に、個人の幸福を尊重する事こそ肝要である
とは考えないのか? どの様な立場の人でも幸せになれる社会でなければならないのに、
その幸せを法で規制するのはいかがなものか(同性愛児は中絶されないという既得権を
守りたいだけなのか)?
>自身の存在を否定する考え方を容認する、という事は「寛容」とは言わない。
Q.それは色々な考えの人が住んでいる社会においては我侭ではないのか? 自分の生き方で
他人の生き方までも“過度に”縛って良いものかを考えるべきでは?(中絶は、同性愛者自身の
生き方を“過度には”縛っていない。が、中絶に寛容にならない人は“過度に”他人を縛っている。
中絶をされることを容認されている障害児に失礼だろう。)
>つまり、その主張には偏りがある。であるのに「想像力と寛容さ」があれば
>こちらに賛同するはず、と論点先取して持論を一般化させたがっている。
Q.いや、単にあなたの想像力が乏しく、情が無く、且つ、個人主義の社会を理解していないが
為に、他人を不幸にしている既得権益にしがみ付きたがっているヒトデナシではないかと
理解しているが、違うのか?
>人を動かすのは明快な理論であるべき。 君の態度は、現代人として如何なものか。
Q.理論は一面でしかない。君には人間らしい“情”が無いのですか?