【】中平卓馬の写真論【】

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>>671
写真について@写す(本人不在)→A撮る(本人在宅)→B写る(本人無我)なら、
俺はほぼBだ。もちろん、生み出す人であり、観る人でもある。

<中平卓馬小論>
写真とは「あるがままの事物の姿」であり、写真家とは「無私性でアノニマスな撮り手」であるべきだ、
というのが中平の核心的な写真論なのだろう。
 しかし、それであるがゆえに、写真の根源的な魅力であるはずの無意識のノイズ(等価的受用)や、
闇の中に溶解する 強烈な光の触覚性(中平「来るべき言葉のために」の写真郡が全面そうだ)の描写までも否定することは、
不自由で自己満足的な狭苦しい呪縛的タコツボ写真論に他ならないだろう。
現に中平は自己呪縛の結果、タコツボから出られないタコのままである。
*自己意識の解体を経ない日常的な単なる見たままなどは縁起の現観ではない。

 写真とは何かを問うことが、中平のように自己とは・生きるとは何かを問うことと等しいと捉え、
かつそれぞれの生の多様性を認めるならば、写真の多様性を認めることも当然だろう。

森山のようにペラペラ叙情グラフィックでもいいのである。