雨の中行き逢ったアタシを、矢澤さんは近くのコーヒーショップに誘ってくれた。
初めて矢澤さんとふたりきりで過ごした、夢のような時間。
アタシはもう、恋をしていた。
交換したケータイの番号とアドレス。
何気ないメッセージのやり取り。 一緒に見に行った、花の展覧会。 逢う度に、高まっていく気持ち。
矢澤さんも同じ気持ちだと打ち明けられたときは、死んでもいいとさえ思った。
――そうして、矢澤さんと身も心も結ばれたあと、アタシは知ったのだ。
アタシと出逢う以前から、矢澤さんは姉の恋人で、ふたりが大学卒業後に、結婚の約束をしていたことを。
「……、矢澤サンは、なんて?」
二本目のタバコを灰皿にねじ込んで、アイツが言った。
(隠していたことは謝る。本当に済まないと思っている。けど、君への気持ちに嘘偽りはない。詩月さんとは別れる。僕を信じて、ついてきて欲しい)
真実を知ったアタシに、矢澤さんが告げた言葉。
「なるほど。それで、葉月ちゃんはどう答えたの?」
「……」
すべてを捨てて、矢澤さんと生きる道もあった。
姉の存在もアタシの年齢も、全部乗り越えられる、その覚悟があると、矢澤さんは言ってくれた。
痛いほど伝わってきた、矢澤さんの想い。
信じられなかったワケじゃない。
でも。
「…アタシには、選べなかった」「どうして?」
怖かったから。
姉がずっとアタシに示してくれていた愛情と信頼を、失ってしまうことが。
美琴に出逢うまでは、姉だけが拠り所だった。
その姉の恋人を奪うことになるのだ。
矢澤さんと生きることを選んだら、アタシは本当に、矢澤さん以外のなにもかもを失ってしまう。
「そのくらい愛してたんじゃないの? なにもかも捨ててもいいと、思えるくらいに」
「……、でも、アタシには、わからなかった」「なにが?」
「本当はアタシ、知ってたのかもしれない。矢澤さんがお姉ちゃんの恋人だったこと」
「……」「気づいてて、だから、お姉ちゃんの大切なひとだから、奪って、お姉ちゃんを苦しめたいと思ったのかもしれない」
アタシはずっと、姉を憎み続けていたのかもしれない。
矢澤さんの気持ちに応えたいという想いの裏側にあるのは、姉への憎悪なのかもしれない。
自分自身に対するその疑いを、アタシはどうしても、捨て切れなかった。
けど、本当は――。
矢澤さんの嘘を赦せなかったという、それだけのことだったのかもしれない。
留学を終えて帰国した美琴が見たのは、矢澤さんを拒絶したことで、ぼろぼろになっていたアタシだった。
後悔に後悔を重ねて、本当はなにを後悔しているのかもわからなくなっていたアタシのために、美琴は数ヶ月の間、ただ、ずっと寄り添っていてくれた。
自分の留学が今度のことの原因だと思って、美琴は自分を責めていたのだ。
バレエのレッスンより、アタシと一緒にいることを優先した美琴。
アタシはそのとき、初めて、心の底から信じることができた。
距離なんて関係ない。
どんなに遠く離れていようと、立場の違いに隔てられていようと、美琴はアタシにとっての、アタシは美琴にとっての、唯一無二の存在なのだと。
ほかにはなにもいらない、望まない。
だから、アタシは癒えないままの傷を封印した。
いつか、美琴が心置きなく、世界の舞台へと羽ばたいていけるように。
二度と美琴に、悲しみの涙を見せはしないと。
そう、誓ったのに――。