>>202 >男は苦悩していた。
>彼女と文を交わすようになって、もうどれくらい経っただろう。
>当世一の風流人、などと噂される男だ。
>付き合った女性は数知れず。
>彼の恋の浮き名は、いつだって京中の挨拶がわりになっている。
>それなのに・・・
>彼女だけは、特別なのだ。
>移り香がほんのり香る、趣味のいい薄紙にしたためられた、たおやかな文字。
>高い教養と、それでいて世間ずれしていない感覚がにじみ出る、やわらかな和歌。
>手の届く人でないとわかっているのに・・・いや、わかっているからこそ、
>つのる想いは燃えさかる。
>なんとか説き伏せた女房に手引きをさせて、辿り着いたかの女性の部屋に
>簾越しに香る、薫衣の香の香り。
>いつもの文に残っている香より数倍も強い、華やかで上品な香が、男を酔わせたのかもしれない。
>決して触れないと固く誓わされた御簾を、男は狂おしく跳ね上げた。
>・・・なんという瞳、なんという唇。
>想像を遙かに上回る彼女の美しさに、男は言葉を失った。
>無言で立ちすくむ男を見上げる彼女の唇が、やわらかに男の名を紡ぐ。
>・・・なんという声、なんという響き。
>気付いたときには、男は彼女をかき抱いていた。
>男の腕に加わるかすかな重み。無防備に預けられた彼女の細い身体。
>これこそが、愛のことばではないか。
>「何もかも、任せて下さると・・・・この私に」
>囁くような男の声。腕の中のぬくもりは、そのときかすかに震えた気がした。
>警護の厳しいその大きな屋敷を、どのように抜け出してきたのか、男は思い出せない。
>ただただ夢中に辿り着いた牛車に控えていた従者達の困った顔の記憶だけが、やたらに鮮明だ。
>この畏れ多い逃走劇に関わりたくないという気持ちが明白な従者達を、牛車と共に帰すと、
>男の愛馬と乳兄弟だけが残った。
>「・・・まったく、貴方というお人は・・・」
>乳兄弟はいつもの笑顔で馬を引き、彼女を乗せるのを手伝った。
>月のない、暗い夜だった。