801 :
名無しさん@お腹いっぱい。:
豊饒の海、第一巻「春の雪」が映画化されたけれど、微妙でした。
聡子ぉぉぉ
803 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/28(土) 10:49:52
>>797 英霊の声、憂国
小説が苦手な人は、論文、評論のがお勧めです。
ナルシシズム論、ファシズム論など面白いよ。
804 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/02/28(土) 10:55:26
小説は一流、評論は超一流と言われてる。
805 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/05(木) 23:12:28
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。
この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。
ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。
この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。
どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。
では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。
自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。
もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。
三島由紀夫
「愛国心」より
806 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/05(木) 23:14:31
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。
もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。
従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。
だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。
三島由紀夫
「愛国心」より
807 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/05(木) 23:15:30
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。
アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、
移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。
国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。
観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。
三島由紀夫
「愛国心」より
808 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/05(木) 23:16:29
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく日本に恋してゐる。
これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが)
しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。
われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間にこの心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。
かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。
三島由紀夫
「愛国心」より
809 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/05(木) 23:17:34
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。
しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。
さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。
一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。
さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。
三島由紀夫
「愛国心」より
811 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 23:00:58
一九六七年(昭和四十二年)春、四十二歳の三島氏は一人で四十五日間、自衛隊に体験入隊し、国防の必要性を感じ、祖国防衛隊的な組織を作ろうと政治家や財界人に働きかけたのですが成功しませんでした。
三島氏は自ら学生を集め、自衛隊に体験入隊させて祖国防衛隊を作り、のちに「楯の会」という名前を付けました。
三島氏は熱心に働きかけたのに本気にならなかった多くの財界人を見て、「財界人は一見、天皇主義者だけで、利益のために簡単に変節する連中だ」と絶望していました。
井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より
812 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 23:01:38
三島氏は政治活動で最も大切なのは「金銭の出どころ」だと言っていました。
約百名とはいえ、「楯の会」運動を続けるための費用はすべて三島氏個人が負担しており、外部に寄付を依頼することはありませんでした。
三島氏の事件から六年後の一九七六年(昭和五十一年)に明るみに出た「ロッキード事件」では、「自称愛国者」児玉誉士夫氏は米国ロッキード社と田中角栄首相のパイプ役として働き、アメリカ側から巨額の謝礼を受けていたことが判明し、愛国者の仮面を剥がされました。
三島氏は大卒の初任給が五万円以下の時代に、年間八百万円もの私財を「楯の会」のために使い、外部に資金援助を一切依頼せず、運動の純粋性を守り通したのでした。
三島氏が自ら自衛隊に体験入隊したあと、「祖国防衛隊構想」を財界人に説いて回ったそうですが、資本家たちは一見「天皇主義者」のように見えても、自己の経済的利益のためなら簡単に裏切る人々だと実感したそうで、以後、財界の資金援助を受けようとはしませんでした。
井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より
813 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/03/18(水) 23:02:40
「楯の会」はたった百名の小さな組織でしたが権力に媚びることなく、既成右翼との接触もなく終わったのは資金の出どころが明確だったおかげだと思います。
三島氏の金銭に対する考え方は清潔で、納税することは国民として当たり前で、「自分の払った税金が自衛隊の戦闘機のタイヤ一本分くらいになっていると思うと嬉しく思うし、税金は安いくらいだと思う」と言っていました。
以前に瑶子夫人からお聞きしたところによると、インドへ旅行した折に大理石の美しいテーブルを見つけ、名前を入れてもらう約束で注文したらしいのですが、
奥さんが半額だけ現地で払い、残りは商品が着いてから払えばと勧めたのに、「僕はそんなのは嫌だ」と言って全額を現地で払ったそうです。
注文後、一年ほど商品が着かず、奥さんは心配したそうですが、無事到着し、今も南馬込の三島邸の庭先に置かれていると思います。
井上豊夫
「果し得ていない約束 三島由紀夫が遺せしもの」より
374 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 21:38:01
>「葉隠」の説く武士道を考える
> -「葉隠」武士道の犬死理論の陥穽-
>著作と責任/佐藤弘弥
http://www.st.rim.or.jp/~success/hagakure_ye.html 佐藤弘弥なる視野狭窄な御仁による珍葉隠論。
珍文章のしょっぱなから、ヒステリックなオナニー全開である。
「ヤンキースのマツイ」のたとえだとか、
そこらの中学2年生も感涙にむせびそうな、すばらしい思考のお綴りである。
この特大場外ホームラン級の知性が書いた小児的ファンタジーが
ネットで上位にひっかかり、目に★な方も多いだろうから、
とりあえずこのスレで駆除しておく。
377 名前:日本@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 22:47:23
>>.374
佐藤弘弥(笑)
空き樽は音が高いっていうか、キジも鳴かずば打たれまいに・・・
閑古鳥が鳴くサヨ系じゃんじゃんで市民記者を
しょぼしょぼやってればええのに(笑)
【検索ワード】
葉隠、佐藤弘弥、馬鹿、思い込みの禿しい爺さん、三島由紀夫
武士道、山本常朝、田代陣基、新渡戸稲造
815 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/04(土) 02:55:04
三島の美意識に殉じる死に様はお見事の一語に尽きる。
816 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/14(火) 01:26:28
週刊新潮の゛「美智子さまと三島由紀夫」のお見合いは「小料理屋」で行われた゛という記事。
毎日新聞のバンコック特派員だった徳岡孝夫氏が昭和42年インドからの帰途そこに立ち寄った三島から ゛僕は美智子さんとお見合いしたことがあるんですよ゛と聞いたそうです。
「家族一緒に歌舞伎座かどこかで芝居を見て、食事をしたんだそうです」と徳岡氏は述べています。
如何なタイトルかと思い精読していませんが徳岡氏は三島評伝『五衰の人』にバンコックでの三島について詳しく(悪所通いの件まで)書いていますが、美智子さまとのお見合いの話がその時三島から出たと書かれていたか手元にないのでわかりません。
記事のタイトルにある「小料理屋」とは銀座六丁目の小さいながらも高級官僚御用達だった割烹「井上」で、ここの女将がかつて新潮の記者に「三島さんと美智子さまはウチの二階でお見合いしたんだよ」と語っていたそうです。
徳岡氏の話と繋げると三島と美智子さまは歌舞伎座からこの「井上」に回ったのでしょうか。「井上」は平成五年の時点で土地と建物が塩尻市に寄付されていますからもう営業はしていません。
817 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/04/14(火) 11:43:58
三島由紀夫の長女と皇太子浩宮殿下は同級生
818 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 00:41:13
たいていの気取つたエチケット講座には、洋食の作法として、「スープは決して音を立てて吸つてはいけません」などと、おごそかに戒めてゐます。
子供のときから味噌汁を音を立ててのみ、お薄茶もおしまひのときにはチューッと吸い込む作法に馴れて来たものに、むりやり西洋人の作法を押しつけようといふのです。
…エチケット講座の担当者たちを見ればわかりますが、彼らは私にとつては格別尊敬すべき人たちとも思へません。
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのですが、こんなものに影響をうけた女性は、スープを音を立てて吸ふ男を、頭から野蛮人と決めてしまひます。
それなら、あんなフォークやナイフといふ凶器で食事をする人は、みんな野蛮人ではないでせうか?
三島由紀夫
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
819 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 00:42:38
たまたまここへスープの音の話を持ち出したのは、私の最も尊敬する先輩が、二人まで、すさまじい音を立ててスープを吸ふ。
二人とも外国をまはつて来た人ですが、外国のどこかの都市の、気取つたレストランで、もし御両人が相会してスープを吸つたら、さぞや壮観だらうと思はれる。
御両人とも日本最高の頭脳に属するが、スープを音を立てて吸つたりすることは、日本最高の頭脳たることを少しもさまたげないのである。
そればかりではない。私は両氏を見てゐると、あれだけあたりかまはずズーズー音を立ててスープを吸へたら、あのくらい頭がよくなるんじやないかと思ふことがある。
――事はスープだけにとどまらない。或る中世芸能の研究家が、私の目の前でナイフに肉をのせて、御丁寧に刃のほうを下唇へあてがつて、口の中へ肉をほうり込むところを見たが、
これなんかは、いつ口が切れやしないかと相手をヒヤヒヤさせて、スリルを満喫させる点だけでも功徳といふものである。
三島由紀夫
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
820 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 00:46:17
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
静まり返つた高級レストランのどまん中で、突如怪音を発して、ズズズーッとスープをすすることは、社会的勇気であります。
お上品とは最大多数の決めることで、千万人といへども我ゆかんといふ人は、たいてい下品に見られる。社会的羊ではないといふ第一の証明が、このスープをすする怪音であります。
三島由紀夫
「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
821 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/10(日) 00:46:44
三島由紀夫 と大沢悠里の関係を
解り安く説明してくれ
できないだろな
ふふふ
822 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/17(日) 22:38:17
<NHKの実態>
NHKには内部に22の共産党支部があり、
昭和63年の調査では東京都下だけでも、
98名以上のキャスター、アナウンサー、ディレクター等が共産党員であることが確認されている。
この共産党員数は、テレビ朝日やTBSと並んでテレビ業界の上位3位に入るものである。
つまりNHKが反日左翼史観プロパガンダ番組を放送し続けるのも、
共産党の指示に沿ってのことなのだ。
自由主義国で公共放送を共産主義勢力に支配されているのは、
日本と韓国、この2カ国だけである。
(中略)NHKは自虐史観とのワンセットでの対中従属もひどく、
例えば平成12年春にNHKが特集として放送した『ダライ・ラマ』では、
中共のチベット侵略をなんと「人民解放軍の進駐」と言い換え、
チベット民衆の独立運動に対する中共の弾圧を「鎮圧」と呼び、
あげくは「チベット動乱はチベット仏教こそがその紛争原因だ」と解説するに至っている。
明らかな侵略者たる中共を「解放者」として位置づけたこの番組は、
黒を白と言いくるめる中共のプロパガンダ放送そのものである(487頁)
<つくる会のHPより抜粋>
823 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/20(水) 23:52:28
824 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/30(土) 00:53:08
西郷さん。
明治の政治家で、今もなほ「さん」づけで呼ばれてゐる人は、貴方一人です。
その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の目で見られたかもしれないが、
後代の人たちから何らなつかしく敬慕されることがありません。
あなたは賊として死んだが、すべての日本人は、あなたをもつとも代表的な日本人として見てゐます。
(中略)
…あなたの心の美しさが、夜明けの光りのやうに、私の中ではつきりしてくる時が来ました。
時代といふよりも、年齢のせゐかもしれません。
とはいへそれは、日本人の中にひそむもつとも危険な要素と結びついた美しさです。
この美しさをみとめるとき、われわれは否応なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでせう。
三島由紀夫
「銅像との対話――西郷隆盛」より
825 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/30(土) 00:53:53
あなたは涙を知つてをり、力を知つてをり、力の空しさを知つてをり、理想の脆さを知つてゐました。
それから、責任とは何か、人の信にこたへるとは何か、といふことを知つてゐました。
知つてゐて、行ひました。
この銅像の持つてゐる或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するやうな気がします。
……………………。
三島君。
おいどんはそんな偉物ではごわせん。人並みの人間でごわす。
敬天愛人は凡人の道でごわす。あんたにもそれがわかりかけてきたのではごわせんか?
三島由紀夫
「銅像との対話――西郷隆盛」より
826 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/30(土) 02:42:11
>>84 超亀だけど、胴体の写真は初めて見たわ
なにこれ、あたしより華奢な体じゃないのよ
どう見ても女の死体よこれは
しかもなにこのバレリーナのような足は
あたしが首なしで死んだら肥満男として扱われるわきっと
827 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/10(水) 11:13:52
ウワーッと両手で顔をおほつて、その指のあひだから、こはごはながめて
「イヤだア」とかなんとか言つてゐる手合ひを野次馬といふ。
私に対する否定的意見は、すべてこの種の野次馬の意見で、
私はともあれ、交通事故なのだ。
三島由紀夫
「感想 広域重要人物きき込み捜査『エッ!三島由紀夫??』」より
828 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/10(水) 11:39:25
ここのスレは勉強になるおf(^_^
829 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 10:30:00
三島由紀夫、本名平岡公威氏は、府中市多摩霊園十区一種十三側三十二番、平岡家の墓碑の元においでになる。
…私が墓参に行くと、かつては真紅であったろうと思われる薔薇がドライフラワー状態になって手向けられてあった。
…「真紅の薔薇」には忘れ得ぬ記憶がある。
昭和四十五年十一月二十五日。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹された翌日、検死の済んだ御遺体が、詰めかけた人々で騒然としている御自宅に戻られた。
パテオに屹立していたアポロンの立像の脚元に三十本余りの真紅の薔薇が文字どおり放り投げられて散乱していた。
鎌倉の御自宅から駆けつけて来られた川端康成氏が線香をあげられたあと、その光景を凝っと視ておられ
「薔薇って怖いね」と私の耳許で呟やかれた掠れ声が今も鮮明である。眼に薔薇の炎。耳に巨匠の声。――
増田元臣
「美しい人間の本性」より
830 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 10:31:19
三島さんの交誼を頂く事になったきっかけは、私が未だ慶應義塾大学の塾生だった時である。
私は幼年期から映画に取り憑かれており、塾生でありながら、増田貴光というペンネームで書いていた
「映画の友」という月刊誌の寄稿文を映画好きの三島さんが読んで下さった事にある。
その月の私のコラムは「ヴィスコンティの美は禁色にあり」と題したもので、その時初めて手紙を頂いた。
手紙の御礼に御自宅に赴いた私を、三島さんは楽しげにもてなして下さった。
…数日後三島さんから二通目の手紙が届いた。差し出し名は平岡公威となっており、その内容はざっと次のようなものだった。
「今後、君と付き合ってゆくにあたり、先生という敬称はやめて欲しい。君との友情に距離感が生じるようで寂しいではないか――」
そして文通するについての差し出し名は平岡公威にする、と書かれてあった。
以来私も三島さんへの手紙は本名の増田元臣とした。
増田元臣
「美しい人間の本性」より
831 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 10:32:08
私が映画評論家として米国に滞在していた時、「憂国」の映画が完成したという連絡を頂き、急遽帰国した。
原作、脚本、監督、主演すべて三島さん自身の作品だった。
三島さんは私独りの為に、三島さんと親交の深かった葛井欣士郎氏の劇場で「憂国」を観せて下さった。
試写が了り私が泣き濡れた顔で廊下に出て行くと、葛井氏となにやら談笑していた三島さんが驚かれた様子で、
「ほとんどが割腹シーンで占められているこの映画で、何故そのように悲しむのか」と訊かれたので、
「この映画は三島さんのダイイング・メッセージと解釈致しましたので」と私はお応えした。
その事があって以来、私は三島さんとの数々の思い出で日々を送った。
増田元臣
「美しい人間の本性」より
832 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/16(火) 10:33:00
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとのコンタクトの時が一致して、
私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。
しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、容易に理解することは出来ないだろう。
増田元臣
「美しい人間の本性」より
833 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 10:46:25
庭はどこかで終る。庭には必ず果てがある。これは王者にとつては、たしかに不吉な予感である。
空間的支配の終末は、統治の終末に他ならないからだ。ヴェルサイユ宮の庭や、これに類似した庭を見るたびに、
私は日本の、王者の庭ですらはるかに規模の小さい圧縮された庭、例外的に壮大な修学院離宮ですら
借景にたよつてゐるやうな庭の持つ意味を、考へずにはゐられない。
おそらく日本の庭の持つ秘密は、「終らない庭」「果てしのない庭」の発明にあつて、それは時間の流れを
庭に導入したことによるのではないか。
仙洞御所の庭にも、あの岬の石組ひとつですら、空間支配よりも時間の導入の味はひがあることは前に述べた。
それから何よりも、あの幾多の橋である。
水と橋とは、日本の庭では、流れ来り流れ去るものの二つの要素で、地上の径をゆく者は橋を渡らねばならず、
水は又、橋の下をくぐつて流れなければならぬ。
三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より
834 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 10:47:08
橋は、西洋式庭園でよく使はれる庭へひろびろと展開する大階段とは、いかにも対蹠的な意味を担つてゐる。
大階段は空間を命令し押しひろげるが、橋は必ず此岸から彼岸へ渡すのであり、しかも日本の庭園の橋は、
どちらが此岸でありどちらが彼岸であるとも規定しないから、庭をめぐる時間は従つて可逆性を持つことになる。
時間がとらへられると共に、時間の不可逆性が否定されるのである。
すなはち、われわれはその橋を渡つて、未来へゆくこともでき、過去へ立ち戻ることもでき、しかも橋を央にして、
未来と過去とはいつでも交換可能なものとなるのだ。
西洋の庭にも、空間支配と空間離脱の、二つの相矛盾する傾向はあるけれど、離脱する方向は一方的であり、
憧憬は不可視のものへ向ひ、波打つバロックのリズムは、つひに到達しえないものへの憧憬を歌つて終る。
しかし日本の庭は、離脱して、又やすやすと帰つて来るのである。
三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より
835 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 10:50:39
日本の庭をめぐつて、一つの橋にさしかかるとき、われわれはこの庭を歩みながら
尋めゆくものが、何だらうかと考へるうちに、しらぬ間に足は橋を渡つてゐて、
「ああ、自分は記憶を求めてゐるのだな」
と気がつくことがある。そのとき記憶は、橋の彼方の薮かげに、たとへば一輪の萎んだ残花のやうに、
きつと身をひそめてゐるにちがひないと感じられる。
しかし、又この喜びは裏切られる。
自分はたしかに庭を奥深く進んで行つて、暗い記憶に行き当る筈であつたのに、ひとたび橋を渡ると、
そこには思ひがけない明るい展望がひらけ、自分は未来へ、未知へと踏み入つてゐることに気づくからだ。
三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より
836 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 10:52:18
かうして、庭は果てしのない、決して終らない庭になる。
見られた庭は、見返す庭になり、観照の庭は行動の庭になり、又、その逆転がただちにつづく。
庭にひたつて、庭を一つの道行としか感じなかつた心が、いつのまにか、ある一点で、自分はまぎれもなく
外側から庭を見てゐる存在にすぎないと気がつくのである。
われわれは音楽を体験するやうに、生を体験するやうに、日本の庭を体験することができる。
又、生をあざむかれるやうに、日本の庭にあざむかれることができる。
西洋の庭は決して体験できない。それはすでに個々人の体験の余地のない隅々まで予定され解析された一体系なのである。
ヴェルサイユの庭を見れば、幾何学上の定理の美しさを知るであらう。
三島由紀夫
「『仙洞御所』序文」より
837 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/10(金) 20:48:44
<トピック>
文化放送の現社長があの事件の日、現場で音を拾った記者だった。
「東京新聞」(7月9日付け)文化欄のカラー特集。
自衛隊に「乱入」して隊員を集めさせ、バルコニーから演説した三島由紀夫の音声を現場に一番乗りして録音していた文化放送の記者がいた。
それが現社長の三木博氏。
誰かが演説しているというので、自衛隊に入っても静かなので、おりよく行き交った自衛官から話を聞こうとしたら、「静聴せい、静聴せいと言ったらわからんのか」と呶鳴る声あり、慌ててバルコニーの真下に駆けつけ、木切れにくくりつけたマイクで音を拾ったそうな。
そのときも声の主が三島であることに気がつくに時間がかかった。
ニュースパレード五十周年の特番として再演される(毎日曜午前520)
838 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/21(火) 22:15:04
横尾(忠則)番記者として働きはじめた頃に、三島由紀夫とも親しくなった。
平凡パンチ誌で三島の悪口を書くという企画があり、他の編集者は担当したくない様子だったので、
自分が名乗りでた。すぐ三島に電話をし、「今回は三島さんの悪口を書く企画ですが…」
と正直に打ち明けて取材を申し込んだのが、三島の好感をよんだらしい。
三島は人気実力ともにトップの作家でありながら、ハリウッドスターのようなオーラを発していた。
三島はこれまで見たこともないような光り輝く“創造物”という感じであった。
パンダとかマダガスカル島の横っ飛びのベローシファカのようにいつ会っても新鮮な驚異を与えてくれた。
椎根和
「オーラな人々」より
839 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/21(火) 22:15:45
…オーラを発する人々ということでは、やはり六〇年代後半の、三島、横尾、寺山、玉三郎、土方たちは
超弩級であった。彼らのそばにいるだけで、異世界に連れていかれそうな気分になった。
そのどこかに連れさられるという不安感が、悦楽味であった。
モノの時代に入ると、そばにいるだけで、異界へつれていってくれそうなスターはいなくなった。
…ぼくは、三島の最後の三年間を剣道の弟子として稽古をつけてもらい、一緒に学生デモ視察へ行き、
ボーリングをし、白亜の三島邸へ何度も行った。
三島は、文学の方では、大ベストセラーを何作も書き、今なら流行語大賞受賞まちがいなしの
国民的喝采をあつめた。
そういう文学的才能以外にも、新しい才能を発見する眼力があった。
横尾忠則、坂東玉三郎、美輪明宏、澁澤龍彦らは、三島の紹介によって市民権を得た、といってよい。
椎根和
「オーラな人々」より
840 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/28(火) 09:44:29
ってか、ただのゲイだろ
841 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/29(水) 12:42:28
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。
林房雄
「悲しみの琴」より
842 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/29(水) 12:43:53
彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。
林房雄
「悲しみの琴」より
843 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/08(土) 21:06:54
だから何なんだよ。テメーの意見述べろよ。引用ばかりしてるんじゃねーよ。
844 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/12(水) 11:51:11
<お知らせ> 憂国忌は11月25日 午后六時開場、六時半開演。
会場は永田町の「星陵会館」ホールです。
シンポジウムのパネリストが内定しました
司会 富岡幸一郎(文藝評論家)
西部 邁 (評論家)
西村幸祐 (ジャーナリスト)
杉原志啓 (歴史研究家)
の各氏を予定します。
知らなかった記述がかなりある。ありがてえ
846 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2009/08/30(日) 15:27:30
三島がノーベル文学賞取ってたらあの事件はなかったかもしれないな
847 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/31(月) 22:45:32
ノーベル賞候補になる前から自衛隊に体験入隊して防衛隊作ってるから、あんまり関係ないと思う。
むしろ舞台装置としてより効果を上げた事でしょう>ノーベル賞
849 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 14:17:41
シャアは正しいということがよく分かった
850 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 23:56:47
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。
これは私が十代の頃、三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。
襖越しに耳にした「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より
851 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/02(水) 23:57:40
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。
三島さんはいつもどおりの笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。
奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く悲しみに沈んでいた。
天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。
神西敦子
「三島夫妻と二つの亀」より
852 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/08(火) 12:08:12
三島さんのこと少し判ってきたことがある。
…イランとか、近東イスラム教の国家っていうのは、祭政一致でしょ。
あの振舞いは西欧からは不可解なはずなんです。
でも、ぼくは戦争中の天皇というものを見ていると非常によく判る。
あれで類推すれば、もの凄くよく判る面があります。
アジア的な部分で、ラマ教とか、イスラムとか、生き神さまを作っといて、それを置いとくわけですね。
…三島さんは、多分、ぼくの考えですけれども、インドへ行って、インドにおけるイスラム教の
あり方みたいなものを見て、仏教も混こうしているわけでしょう。
そこの所で、天皇というものを国際的観点から再評価したと思います。
それがぼくは三島さんの自殺当時判らなかったのです。
…三島さんが国際的な視野を持ってきて、インドとか近東とかそういう所の祭政一致的考え方、
それだと思うんです。それ以外に日本なんて意味ないよと考えたとぼくは思うんです。
吉本隆明
「映画芸術」誌上、小川徹との対談より
853 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/11(金) 22:37:42
アメリカの大神殿というべきWTCに旅客機が突っこみ、赤い炎に包まれながら超高層ビルが崩れ落ちていった日、
あの9・11を忘れる人はどこにもいないだろう。
もう一つ、同じような分岐点がある。
作家・三島由紀夫が割腹自殺したとき、自分がどこで何をしていたか、たちどころに思いだせるはずだ。
…一九七〇年、長距離バスでイランの砂漠をよぎっていたときのことだ。
まわりの乗客たちはモスリムの人々ばかりだった。
…モスリムは一日に五回の礼拝を欠かさない。その時間がやってくると、屋根を踏みならす音が響いてくる。
…運転手がしぶしぶエンジンを止めると、乗客たちは屋根や窓から飛びだし、いっせいに砂漠へ走っていく。
そして四つん這いになり、焼けついた砂に額を押しつけながらアッラーの神に祈る。
車内に残っているのは、運転手と、ぼくと、イギリス人だけだった。礼拝が延々とつづいているとき、
「ユキオ・ミシマのハラキリについてどう思うか?」唐突に、若いイギリス人が語りかけてきた。
ぼくはしばらく考えてから答えた。
「ああ、映画の話だろう」
「いや、ほんとうにハラキリしたんだよ」と読みかけのNewsweekを差しだしてきた。
…窓の外ではモスリムの人々が真昼の砂漠にひれ伏しながらアッラーの神に祈っている。
そして、ふるさとの日本では「天皇陛下万歳!」と叫びつつ、三島由紀夫が切腹したのだという。茫然となった。
…アフガニスタン、パキスタンを過ぎてインドに入り、カルカッタの日本領事館の新聞でついに確かめることができた。
切断された首が床に据えられていた。
金とセックスと食い物しかない日本で、一つの精神がらんらんと燃える虎のような眼でこちらを見すえていた。
宮内勝典
「混成化する世界へ」より
854 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/11(金) 22:39:00
それから二十数年が過ぎて、かれが切腹した市ヶ谷駐屯地の総監室を訪ねることができた。
…三島由紀夫が日本刀をふりおろしたときの刀傷が、飴色のドアの上に残っていた。
…モスリムの人々が礼拝する砂漠で三島由紀夫の自決を知ったのだが、偶然とはいえ、イスラム原理主義者たちと、
かれの思想には、通低するものがあると思われてならない。
…アッラーの神のような超越性のない日本で、かれは天皇に固執した。文化を防衛しようとした。
むろん肯定できないが、三島由紀夫の文学そのものをぼくは畏敬している。
恥ずかしいがあえて洩らせば、十代の頃、かれの文章をノートに筆写していた。
…紙数が尽きたから結語を述べよう。ぼくもまた西欧近代に追随したくはない。
だがそれを拒むナショナリストにもなりたくない。ぼくは混成化していく世界を生きたいと思う。
宮内勝典
「混成化する世界へ」より
855 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/12(土) 23:34:49
なんでこのきちがい首切って死んだのきもちわりい
自殺するならサメに食われて後片付けはぶけよ
856 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/21(月) 12:52:22
857 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/09/27(日) 11:27:47
三島由紀夫研究会「公開講座」(第234回)
とき 9月28日(月曜) 午後六時半
ところ 市ヶ谷「アルカディア市ヶ谷」(私学会館)四階会議室
講師 河内孝(元毎日新聞中部本社代表、ジャーナリスト)
演題 「青嵐会と三島由紀夫」
会費 おひとり2000円(会員&学生1000円)。
(かわちたかし氏は慶応大学卒業後、毎日新聞政治部、ワシントン支局長などを経て中部本社代表。
『新聞社 破綻したビジネスモデル』(新潮新書)はベストセラーに。
最新作『血の政治 青嵐会という物語』(同)では、改憲を誓って結盟した政策グループ『青嵐会』の誕生秘話から、
「真夏の通り雨」のように消え去って、中川一郎自裁にいたる軌跡を追求され、なかでも三島由紀夫の思想的影響力がどれほどのものだったかを振り返ります)。
858 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/04(日) 12:39:34
三島由紀夫と青嵐会@@@(三島由紀夫研究会メルマガ抜粋)
「青嵐会を代表する九人」とは、石原慎太郎、中尾栄一、中山正暉、藤尾正行、三塚博、渡辺美智雄、玉置和郎、中川一郎です。
翌年の1974年浪曼は、『青嵐会からの直言 この国難は乗り切れる』を発刊して、湊徹郎以下八人の主張も世に問うています。
さて河内氏はまずプロジェクターを使い、中川家から借りだして撮影した青嵐会の署名簿を映し出した。
それは中尾栄一により「青嵐会誓詞」と墨書され、青い蔦かずら模様の絹で表装された血判入りのものです。
青嵐会と命名したのは石原慎太郎で、「青嵐とは寒冷前線のこと。つまり夏に烈しく夕立ちを降らせて、世の中を爽やかに変えて過ぎる嵐」の意です。
この誓詞に「断固血判すべし」と強硬だったのは、石原慎太郎、中尾栄一、浜田幸一の三人でした。
言い出しっぺは石原で、楯の会の創設メンバーから、三島がその結成時(昭和43年)、会員十人と血判を交わしていたことを密かに聞き知っていたのです。
三島が自決してから二年半後に結成された青嵐会は、三島と直接の結びつきはありませんが、
青嵐会結成時の興奮と盛り上がりの周囲にいた人々は「三島が放った炎が燃え移ったような」熱気を感じていたのでした。
859 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/04(日) 12:41:58
河内氏は、青嵐会結成に至るまでの戦後政治史を概説して、青嵐会が生まれた時代背景を説き明かし、その一つのルーツに三島由紀夫の割腹があると述べました。
ほかの二つは、「戦後抑圧された健全なナショナリズムの発露」と「農本主義の情念」です。
青嵐会は結成から半年後の昭和49年(1974年)1月26日武道館で国民集会を開催しました。
名古屋からは二村化学工業の二村社長が二千人を引き連れ参加し、韓国在日の民団にも「朝鮮服は着ないで出席せよ」との動員令がかかり、
ステージ真下の床に直に座ってもらうほどの満杯になり、二万人が集まりました。青嵐会は当日全国紙に次の文言の意見広告を張り出しました。
首相が訪ねたアジアの国で 日本の心 日の丸が 焼かれた その日を忘れない 道義をなくし 思想なき 日本をかれらは 許さない 自由の台湾切り捨て
共産主義の中国に おもねる日本を許さない エコノミックなアニマルと 怒る心が 日の丸焼いた 青嵐会こそ 日の丸を 力の限り 守り抜く 風のまにまに 目先をかえる 魂忘れた 政治なら 青嵐会は許さない・・・。
青嵐会の主張で際立っていたのは、自主独立の憲法制定、国家道義の高揚、教育正常化などでした。
そして結成時の血判と、自民党総務会での大暴れなどの烈しいパフォーマンスでした。マスコミは後者を報道し、世間の目もそれらにだけ集中しました。
860 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/04(日) 12:43:19
主張した政策は賛否分かれるものでしたが、彼らの論理は分かりやすく、行動原理はいたって明快で、人々の心を惹きつけるものでした。
今日政党が「改革」をさけび、ホームページに口当たりのいい政策を並べても、人々の血を騒がせた青嵐会が持っていた「何か」が欠け、シラけているのです。
ありていに言えば、青嵐会は面白かったのです。中川一郎夫人は「毎日が震度5のような日々で」「誰もが人間をむき出しにして、ドタン、バタンと烈しくぶつかりあっていた」と述懐し、
「そこにいくと今の方々は息子(中川昭一)もふくめて主人たちより頭もいいし、勉強もするけれど、まあ迫力というか、熱さはないわね」とチクリと刺しています。
戦前の「修身」を廃して、戦後どう生きたらいいかを学校も親も教えなくなった日本。
それがモラルの喪失と精神の亀裂をもたらしました。単位人口当たりの自殺者は、リトアニア、ベラルーシ、ロシア、スロベニア、ハンガリー、カザフスタン、ラトビアに次いで、日本は八番目です。
物質的に豊かな生活を享受している先進国の中で日本の自殺者が一番多いのです。
政権を取った民主党の、国民に只で高速道路を利用させ、一律にばら撒く子供手当などの政策は究極の金権体質だと、河内氏は指摘していました。
この講演を聴いていて、日本の政治にかつてあった、「何か」が戻らないまま、世界の中で埋没してゆく不安にとらわれました。
(了)
861 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 23:46:56
平成十年の春、私はある方を通して、三島由紀夫の学習院の中等科・高等科時代に、同校の先輩であり、
文学上の友人であった東文彦(本名・東健)に宛てた、多くの書簡を手にすることになった。
…この書簡の中味については、すでに解説で記したのでここでくりかえさないが、十代半ばからの、
まだどこか幼さを残す、平岡公威のその手紙の筆蹟を目にしたときの強い印象は、今も鮮明によみがえる。
後年の、作家・三島由紀夫の自筆原稿の見事な文字は写真で見たことがあったし、…短編小説「蘭陵王」の原稿の
完全復元版を私は持っていたので、そのほとんど直しのない楷書体の雄渾な手蹟は、天才のあかしのように見えた。
十代の手紙は、処女作「花ざかりの森」についての昭和十六年七月二十四日付の唯一の毛筆の書簡も含めて、
これもほとんど全て形の整った丁寧な文字で記されており、信頼する先輩にむけて、自らの堅忍不抜の
文学への思いを存分に披瀝している。
しかし、便箋をびっしりと埋めたその文字からは、やはり十代ならではの、初々しさと真摯さがうかがえた。
手紙の文面の、まさに天賦の才を、早熟に刻印した瞠目すべき内容とは、ときにちぐはぐとも見える、
その手蹟の生真面目さ、素朴さは、私にある哀しみのようなものを感じさせずにはおかなかった。
そうだ、この哀しみの感触こそ、自分が三島の文学のなかにずっと感じてきたものではないのか。
恋人であった園子と再会した「私」が、腕に牡丹の刺青のある半裸の男の肉体に、目をうばわれた瞬間を、
〈雷が落ちて生木が引裂かれるやうに〉と記した「仮面の告白」のラストシーン。
「真夏の死」の朝子がみせる、かつて愛児を呑み込んだ夏の海辺に戻って来て、放心したように〈何事かを待つてゐる表情〉。
金閣寺に火を放った主人公が、自分の死場所として夢みていた究境頂に入ろうとし、戸を叩くが、開かずに、
ためらわずに身を飜えして階を駈け下りる一瞬。
「三熊野詣」の藤宮先生が、熊野那智大社の境内で女の名を朱筆で記した櫛を、枝垂桜の下に埋めようとして、
爪で土を掻き出すところ。
富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より
862 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/05(月) 23:47:53
また、「英霊の声」の次のような一節。
〈だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。
何と云はうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだつた。この二度だけは、
陛下は人間であらせられるその深度のきはみにおいて、正に、神であらせられるべきだつた。…〉
そして「豊饒の海」最終巻、「天人五衰」の最後で本多繁邦が、奈良の月修寺の門跡となっている聡子に会うために
車を走らせながら、その夏空の下の景色に目をやったときの感慨……。
〈……目の前に光りと感じられてゐるものは、底知れぬほどの闇の陰画なのであらうか。
さう思つたとき本多は、自分の目が又しても事物の背後へ廻らうとしてゐるのを感じた。…〉
…三島の光彩陸離たる作品群は、戦後の日本文学を四半世紀にわたってかたちづくった。
その多才と意志強固な行動力は、あの割腹死に至るまで揺らぐことはなかった。
しかし、その生と文学の底には、この〈世界〉を、〈自分の手の上にそつと載せて護つておかなければ〉、
そうしなければならない宿命を負った少年の自意識の哀しみが、つねに通奏音としてあったのではないか。
自決の直前のインタビューに答えて、三島は「十代の思想」への回帰ということを、自らの口で語った。
〈ひとたび自分の本質がロマンティークだとわかると、どうしてもハイムケール(帰郷)するわけですね。
(中略)十代にいっちゃうのです。十代にいっちゃうと、いろんなものが、パンドラの箱みたいに、
ワーッと出てくるんです〉(「三島由紀夫 最後の言葉」)
私がその十代書簡の筆蹟のうえに見たものも、三島由紀夫=平岡公威のハイマート、すなわち源泉の感情であった。
その自我は、彼の帰郷の道行きであったともいえよう。
富岡幸一郎
「十代書簡、その手蹟」より
863 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 22:41:55
吉田満は、三島由紀夫の「死」を、青春の頂点において「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、
「いかに生きるか」の課題が許されなかった世代――そのような世代のひとつの死としてとらえ直してみせた。
あの自決がさまざまな意味を「異なる解明の糸口」を示していながら、実のところ戦争に散華した仲間と
同じ場所を求めての、死の選択であり、そのような願いによる決断であったという。
これはたんなる世代論だろうか。
三島由紀夫の生と文学を、あまりに単純な世代の「死」として単純化してしまうことになるのだろうか。
私はそうは思わない。
保田輿重郎は三島の自刃に際して「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、
何百年にわたる大事件となると思った」と記したが、もし仮にそうだったとしても、それは三島由紀夫という
個的な存在の、その生と死の劇的な問いかけゆえにではなく、その「死」が疑いもなく一つの世代の夥しい「顔」と
重なり合い、その死のなかに埋没することを懇望したものであったからではないか。
あの自決事件は、決して特異なものでも異常なものでもなく、あえていえば平凡な静謐さのなかにある。
そう思うとき、『豊饒の海』第一巻の冒頭で描かれた「セピア色のインキで印刷」された日露戦没の写真――
その風景を想起せずにはいられない。
富岡幸一郎
「仮面の神学」より
864 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/08(木) 22:43:35
…池田浩平や吉田満といった同世代の死者のなかにとらえるとき、戦後作家としての彼(三島)の仮面――
『仮面の告白』についての作家自身の注釈でいえば「肉づきの仮面」――の背後に隠されていた素顔が浮かびあがる。
戦後作家としての無数の華麗な「仮面」。
神学者の大木英夫は、三島由紀夫は、その文学は仮面をかぶることによって、「神学問題で灼けただれている
現実にも耐える」と正確に指摘した。
《そして死を避ける。しかし、彼の文学は、かえってその仮面が割れて、素顔が出て、神学問題に直面するところがある。
そして死が避けられなくなる。
さまざまな奇行と試行の紆余曲折を経て、ついに市ヶ谷への突貫となるのである》(「三島由紀夫における神の死の神学」)
『仮面の告白』が、『花ざかりの森』と彼の十代の青春の住処がであった「死の領域」への遺書であり、
まさに「死を避ける」ための人工の文学的仮面であったとすれば、最晩年に書かれたエッセイ『太陽と鉄』は、
「その仮面が割れて」いくところを詳細に辿ってみせた自己告白の書であった。
これまで何度も論じてきたように、そこに三島における「神学問題」が、すなわちあの「神の死」の問題が
露われているのはいうまでもない。
おそらく、日本における神学問題を最もラディカルに現実の光のなかに引きずり出したのが三島由紀夫である。
多くの宗教学者が決して見ようとしなかったものを、語りえなかった根底的な「神」の問題を、三島は自らの生と文学と、
そしてあの苛烈な死によって語ってみせた。
いや、「神学問題に直面」したとき、「死が避けられなく」なった。
富岡幸一郎
「仮面の神学」より
865 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/09(金) 22:03:38
「東健兄を哭す」
十月八日の宵、秋雨にまじる虫のねのあはれにきこえるのに耳をすましてゐると、階下で電話が鳴つてゐる。
家のものがあたふたと梯子段をあがつてくる気配、なにがしにこちらもせきこんで、どこから?と声をかけると
「東さんが……お亡くなりに」「えッ」私は浮かした腰を思はず前へのめらせて、後は夢中で階段を駆け下り
電話にしがみついた。その電話で何をうかがひ、何をお答へしたか、皆目おぼえてゐない。
よみ路の方となられては、急いても甲斐ないものを見境なく、仕度もそこそこに雨の戸外へ出た。
渋谷駅までの暗い夜道をあるいてゆく時、私の頭は痺れたやうに、また何ものかに憑かれたやうに、ひたすらに
足をはやめさせるばかりであつた。さて何処へ、何をしに――さうした問は、ただ一つのおそろしい塊のやうになつて、
有無をいはせず私の心をおさへつけた。あらゆる心のはたらきを痴呆のやうに失はせてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
866 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/09(金) 22:07:12
「東健兄を哭す」
兄の御寿(みいのち)はみじかかつた。
おのが与へられたる寿命を天職に対して、兄ほどに誠実であり潔癖であり至純であつた人を寡聞にして私は知らない。
私は兄から、文学といふもののもつ雄々しさを教へられたのである。
文学は兄にとつてあるひは最後のものではなかつたかもしれぬ。しかし文学をとほしてする生き方が、やがて
最高の生き方たり得るといふ信仰を、身を以て示された兄の如きに親炙することによつて、わがゆく道のさきざきに
常にかがやく導きの火をもちうる倖せが、こよなく切に思はれるこの大御代にあつて、唯一の謝すべき人を失ふとは。
……兄は病床にありながら、戦に処する心構においては、これまた五体の健全な人間の、以て範とするに足るものであつた。
幾度かわれわれの、あるときなお先走りな、あるときは遅きに失した足取りは、却つて病床の兄の決してあやまたない
足取りのまへに、恥かしい思ひをしたのである。せめて勝利の日までの御寿をとまづ私はそれを惜しんだ。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
867 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/09(金) 22:08:21
「東健兄を哭す」
文学は兄にとつて禊であり道場であつた。
文学のなかでは一字一句の泣き言も愚痴も、いや病苦の片鱗だにも示されなかつた。平生の御手紙には尚更のことであつた。
そこに私はニイチェ風な高い悲しみを思ひゑがいたのであつたが、兄、神となりましし日、私は、つねに完全なる母君であられ、
今世に二なき悲しみにつきおとされになつた御母堂から、けつして愚痴を言はれなかつた四年間のまれまれに、
余人にとつてもおそらく肺腑をゑぐるものがあつたであらうそこはかとない御呟きを伝へ伺つて、ふともらされたその御呟き
――かうして治るのもわからずに文学をやつてゐるのは辛いなあ(誤伝なれば謹んで改めまゐらせん)――といふ一句を、
なにかたとしへもない真実が岩間をもれる泉のやうにのぞいたすがたと覚え、かつはかく守られねばならぬたをやかさが兄の
奥処にあり、守られたればこそ久遠に至純であつたその真実を思つて、文人の志の毅さとありがたさも今更に思ひ合はされ、
御母堂の御心事に想到し奉つても、暗涙をのまずにはゐられなかつたのである。
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
868 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/09(金) 22:09:32
「東健兄を哭す」
…初の御通夜、み榊、燭の火、虫のね、雨のおと、……私は言葉もなかつた。
平家物語のあれらのふしぎなほど美しい文章がしづかに胸に漣を立ててきた。……かくも深い悲しみのなかに
なほ文学のおもはれるのを、心のゆとりとしもいはばいへ。
兄だけはあの親しげななつかしい御目つきを、やさしく私に投げて肯いて下さるであらう。
御なきがらを安置まゐらせし御部屋は、ゆかり深くも、足掛け四年前、はじめて兄におめにかかつた御部屋であつた。
そして今か今かとその解かれるのをこひねがつた永い面会謝絶のあとで、まちこがれてゐた再度の対面は、
おなじお部屋の、だが決しておなじになりえぬ神のおもかげに向かつてなされた。
私はなにかひどく自分が老いづいた心地がしてならなかつた。
徳川義恭兄、ありしままなるおん顔ばせを写しまゐらせ給ふ。感にたへざるものあり。
みそなはせ義恭大人が露の筆
道芝の露のゆくへと知らざりし
つねならぬ秋灯とはなかなかに
――昭和十八年十月九日深更――
平岡公威(三島由紀夫)18歳の弔辞
同性愛サロンについて
同性愛者をはじめとするセクシュアルマイノリティが集い、独自の観点・視点から様々な事象を語る板です。
(同性愛とは直接関係のない芸能・音楽・テレビ・映画等の娯楽、日常生活、一般時事など)
セクシュアルマイノリティ(Lesbian, Gay, Bisexual and Transgender)限定の板です。
★次の行為は禁止です
* ブラウザクラッシャー・ウィルスコード等の貼付け・リンク。
* 同性愛者、その他の同性愛等に関する、差別、蔑視、挑発、誹謗中傷発言。
特定の人物や固定ハンドル、お店への叩き。
* 板違いである話題。801、ボーイズラブ、同人。実況。同性愛者になりきりで書込み。
同性愛者独自の視点で語れない内容。
* 単発質問スレッド。板を跨いだ重複スレッド。
以上の板の看板を見ればわかるように同性愛サロンは、非同性愛者、とくに腐女子と言われる人々の
書き込みをローカルルールで固く禁じている板です。
非同性愛者、腐女子の書き込み・スレ立てはそのまま板荒らし行為になります。
また、同一のスレタイ・内容のスレを多数の板へ板をまたいで乱立するのはガイドラインでもローカル
ルールでも二重に禁止されている違反行為です。
2ちゃんねるには書き込みするユーザーを制限している板もあります。
おすすめ、検索から書き込みするときには注意しましょう。
870 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/11(日) 21:45:11
ここゎ 引用が大杉
871 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/26(月) 23:33:09
報告
三島由紀夫研究会「公開講座」(第235回) 講師 高森明勅氏
演題 「三島由紀夫の天皇論」
(講師の高森明勅氏は、昭和32年岡山県倉敷市生まれ。当日はマイクを使わず、肉声が朗々と響き渡る名調子によって進められた)。
▲雷鳴轟いた三島事件の衝撃
私は個人的に三島由紀夫から大きな影響を受けたものの、三島そのものをテーマとして深く研究したことはない。
三島が指導したとされる楯の会の憲法論(女系の容認)については、その真偽に疑問があるが、その天皇観については今日から見て、特筆すべき価値がある。
冒頭、今回の講義のテーマが、以下の内容に沿って進められることが示された。
!) 三島は戦後思想のテーマとして天皇の重大性を先進的に捉えた思想家であった。
!) 天皇に対する切り口はたくさんあるが、祭祀の重要性を明快に強調した。
!) 天皇は秩序の側に手を差しのべつつ、反秩序、変革にも手を差しのべる。
!) 天皇論は後ろ向きに過去を向くことが多いが、三島は未来に向かっていち早く指摘した。
時代が進むとより天皇が重要になるという視点を持ったが、その後、こうした指摘は三島からはない。
私の父は昭和三年生まれ。特攻に出撃できず、17歳で終戦を向かえた。特攻に志願した17歳の選択は間違っていなかったと、生涯信じていた。
その父は、小学生の頃から、同期の桜を繰り返し聴かせた。そして、三島、森田の慰霊祭を、毎年欠かさず神社で催行した。
三島事件当日、私は岡山県倉敷の中学二年生であった。
11月25日の衝撃は、昨日のことのように覚えている。10年前雑誌「諸君!」のアンケートに応えたこの時の思いも、現在までまったく変わっていない。
それは雷鳴のごとき啓示であり、ものすごい戦慄であった。
その日、元文学少女とおぼしき担任の女教師は、「静かにしろ」と叫ぶなり、教室のテレビを生徒に見せた。そして口を極めて三島を罵倒した。
民主主義、命の大切さ、憲法を守ることの価値を強調した。そんな教師にむかっ腹が立った。もとより命の大切さはわかっている。その命を擲って訴えたことにこそ耳を傾けよ。
詳しいことはわからなかったが、命がけで伝えようとしたことの意味を考えた。
▲事件直後、三島本を買いに走った
その日下校すると、すぐに本屋に駆け込み、新潮文庫の「仮面の告白」と「金閣寺」を買った。商機に聡い書店では、一番目立つところに三島本特設コーナーを設置していた。
三島初体験となったこの二冊の作品は、ただし事件とはまったく結びつかない。むしろ三島作品を持っていることが親に知られることは、あたかも悪書を持っているのを見つかるような、後ろめたさを感じた。
学校では三島事件を題材にしたパネルディスカッションが開かれ、左翼的で二言目には米帝国主義が悪いという友人に、三島擁護の側に立つことを要請され、引き受ける。
当時、学校の中で、三島をほめる人間は一人しかいなかった。その結果、学校中の嫌われ者となり、女生徒からも後ろ指をさされ、暗い青春時代を送ることになる。
楯の会の阿部勉氏がリーダーだった「憲法研究会」がまとめた幻の三島憲法論は、三島メモを元に学生に討議させて、三島の死後に完成されたが、文体がつたなく三島本人の書いたものとは思われない。
ただし、男系を否定するという踏み込んだ問題提起を、阿部が思いつくとも思えない。この案が三島本人の考えか否かについては、今も判断に苦しんでいる。
戦後の保守、右翼は天皇の大切さをいいながら、ただ崇めているだけで、天皇の問題を真っ正面に据えて深く凝視してこなかった。
思想のメルクマークとなる、一体だれがいたであろうか。
三島は東大全共闘との討論で、「君たちが天皇と一言いえば、手を結ぶ」といった。
思想の究極において守るものとは何か。「尚武のこころ」で石原慎太郎氏と対談した三島は、最後に守るべきものの価値として三種の神器をあげて、最後は自分を守るという石原と根本的に食い違う。
石原は、三島の発言を冗談だと受けとめる。先の五輪誘致における皇室利用発言を見てもわかる通り、石原の皇室観はてんでだめである。
三島の憲法論は、九条に限定していない。それでは、米の軍事戦略に巻き込まれることになる。第一条で天皇に触れなければならないのはもちろんのこと、天皇の神聖を保証する条文を復活させなくてはならない。
この二つがセットにならなければ、日本の真の自立はない。
国家には福祉的価値と、自立的価値があるが、戦後の我が国は前者ばかりを大切にしてきた。後者の根拠こそ、天皇の祭祀であり、天皇の本質である。このことを三島は強調した。
国家元首には二種類あり、大統領のように選挙によって選ばれる者と、世襲によって継承される形がある。
また天皇は世襲君主として祭祀を行うことで、世俗君主とも区別される。国家元首+世襲君主+祭祀。これが天皇である。
福田恒存氏と対談で三島は、「お祭り、お祭り、お祭り、お祭り、それだけだ。これがぼくの天皇論の概略である」といった。
▲葦津珍彦氏の天皇論と温度差
葦津珍彦氏は、天皇とは、天下の祀り主であるといった。その葦津から私も嘗てアドバイスを受けたことがある。
昭和55年、三島論を書きたかったがうまく書けずに「自主防衛への序説」という論文を発表したところ、その文章から三島の影響を感じた葦津から「あまり三島から影響を受けないように」と編集部に電話があった。
両者には天皇の祭祀に対して温度差があった。
葦津にとって、三島の天皇無謬論は、多神教の神道の精神とは相容れない。三島は、226の決起の根拠における正当性としての天皇、という思想を展開している。
プリーストキング説く祭司王と天皇の祭祀とは違う。
プリーストキングによって説かれる祭司とは、五穀豊穣であれ雨乞いであれ、祈願の祭りを司ることであり、その地位は不安定で権威が低い。
現世利益の獲得によって尊敬を受け、利益がなければ非難、退場、追放、さらには殺害といった運命に陥る。
旧暦2月4日に執り行われていた律令時代最大の祭祀、祈年祭においては、神祇官、大臣以下の百官、全国の神社から神主の代表が集合するものの、天皇は出席されない。
祈年祭とは、その年の五穀豊穣を祈る祭りであるため、天皇は祈年祭には関与されない。
天皇最大の祭りとは、新嘗祭である。(かつては11月二番目の卯の日)。
このお祭りの最大の特色は、収穫が所与のものとして認識されていることである。新嘗祭においては、収穫の多少に左右されることはない。
このことによって、豊饒祈願のお祭りよりも高い権威を持つ。ここでは、新穀を天照大神に献げつつ、自らも召し上がる神人共食が行われる。
新嘗祭は宮中における第一の大祭であり、宮中三殿に隣接する神嘉殿にて執り行われる。
神嘉殿は、新嘗祭を行うためだけの建物である。また御装束も普段の祭祀においてお召しになる黄櫨染御枹(こうろぜんのごほう)ではなく、白の御枹をお召しになる。
天皇御自らが御給仕をし給い、そこで使われる器は、伊勢神宮で使用される素焼きの器より、さらに古い製法を用いて焼かれる。
ご即位に際しての大嘗祭では、大嘗宮が建てられるが、この建物も樹皮がついたままの柱を使用する等、より古い時代の様式が踏襲されている。
こうした点において、天皇の祭祀がプリーストキングの説く祭司よりも、もっと高い権威を持つことが理解できる。
中国の皇帝は徳を問われ、天変地異、不作、飢饉も皇帝の徳が足りないためと捉えられた。
それは現在の共産党とて同様である。
日本では、天皇が責任を問われることはない。
天皇はもっと高い位置におられるからである。
統治者として祭祀を行い、国をしらす、公平無私のお心を持つ。
明治憲法の第一条の原案は、「大日本帝国は万世一系の天皇のしらすところなり」であった。これこそが古代以来の天皇の統治権のあり方であった。これは時代に左右されるものではない。
▲石原都知事の天皇論は浅薄すぎないか
石原慎太郎氏は、産経新聞の日本よにおいて、天皇はただ祭りをしていれば良い。わざわざ被災地にお見舞いに行く必要はないといった。
宮中深く祈ればよいと、まるで三島の「英霊の声」から変な影響を受けたようなことをいっているが、例えば東京大地震が発生して、都民に大きな犠牲が出たときでも、東京都知事として天皇のお見舞いを断るのか。
国民、国家の統治者である天皇がお見舞いされることで、阪神淡路の人達は、本当に慰められ、励まされた。例え首相が100人出向いても適わない。こうしたことは、世俗の政治家にはなし得ない。
天皇は秩序の側に立ちつつ、大化の改新、建武の中興、明治維新といった歴史の節目においては、変革の側に手を差しのべた。
これら国史に留めた壮大な変革の歴史において、天皇は大変重要な役割を果たされた。
880 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/03(火) 11:51:05
882 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/24(火) 21:36:10
トピック
女優の若尾文子が三島と共演した「からっ風野郎」を回想
**************************
大物女優・若尾文子が三島由紀夫との交遊を回想している(日本経済新聞、11月11日、夕刊)。
若尾文子は三島原作の『永すぎた春』と『獣の戯れ』にも主演した。
映画「からっ風野郎」では三島と共演した。三島がやくざを演じ、若尾はそのやくざに妊娠させられるという娘の役だった。
監督は増村保造で、三島があまりに演技が下手なので「馬鹿、駄目駄目」と何度も連呼し、「本当にあんた、頭が良いんだろうか」とぼやいた由。
増村は東大卒、イタリアの映画センター留学後、溝口健二、市川昆の助監督を経た。しかも東大法学部時代、三島とは知人だったという。
さて、作家としては天才であっても映画は別世界。それでも三島は何回も呶鳴られながら、役をこなし、映画は完成。
若尾の文章はこう結ばれている。
「撮影が終わった後、『アメリカへ行くので、若尾さん、食事をご一緒したい』とのご招待があった。芝の増上寺の前のフランスレストランで、撮影の時の話などをいろいろとした。
その記念にとこの銀の燭台に、ロココ調のテーブルと椅子の三つ揃いでプレゼントを頂いた。夕食後、赤坂のナイトクラブに行き、お酒を少し飲み、ダンスを踊った。
ちょっとぎこちなく、時々、ぶつかり合いながらの感じで踊った。そして、『これで心残りなくアメリカに発てる』と仰った」。
そして自決まで十数年、若尾は三島と会うチャンスはなかった。文字通り『ラストダンス』となった。
心に残る文章でした。
(編集部)
今日は三島の命日
884 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/06(日) 22:20:13
885 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 16:18:27
テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところであるので、
どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。
私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。
子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。
三島由紀夫
「わが育児論」より
886 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 16:22:29
一、二年前から、ミリタリー・ルックの流行を横目に見ながら、私は「今に見てゐろ」と思つてゐた。
男にとつて最高のお洒落である軍服といふものを(もちろんパロディー《替唄》の意味でやつてゐることぐらゐは
私にもわかるが)およそ軍服には縁のないニヤけた長髪の、手足のひよろひよろした骨無しの蜘蛛男どもが、
得意げに着込んで、冒涜の限りを尽してゐるのが我慢ならなかつた。
本来、赤・金・緑などの派手な色調は、ピーコック・ルックを待つまでもなく、男の服飾の色彩である。
しかしそれには条件がある。闘牛士の派手な服装が、もし彼らの男らしい死の職業といふ裏附がなかつたら、
たちまち世にもニヤけたものになるやうに、男が男本来の派手な色彩を身につけるには、それなりの条件や
覚悟がある筈である。その条件や覚悟のない男が、社会の一匹の羊であることを証明するグレイ・フランネル・
スーツを身に着けるのである。それは単に保身術、昆虫の保護色としての服装だ。しかるに軍服は昆虫で云へば
警戒色で、色は原色で、まづ目立たなければならないのである。
三島由紀夫
「軍服を着る男の条件」より
887 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/13(日) 16:23:16
そしてそれを着る条件とは、仕立のよい軍服のなかにギッチリ詰つた、鍛へぬいた筋肉質の肉体であり、
それを着る覚悟とは、まさかのときは命を捨てる覚悟である。アメリカでは、将軍といへども、腹が出て来て
軍服が似合はなくなると免職になるさうだ。
自衛隊に一ヶ月みつちり体験入隊をして、心身共に鍛へた大学生の集まりであるわれわれの「楯の会」では、
その一ヶ月の卒業祝に、この制服を贈ることにしてゐる。まづ中味を調べ、次に制服といふわけだ。
西武百貨店の堤清二社長の厚意が得られて、ド・ゴール大統領の洋服をデザインした名デザイナー五十嵐九十九氏の
デザインに成るこの凛々しい軍服が「楯の会」の制服になつた。帽章は私自らがデザインした。
町をこの制服を着た青年が歩いてゐたら、どうかゆつくり目をとめて眺めていただきたい。
三島由紀夫
「軍服を着る男の条件」より
888 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/18(金) 21:03:14
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
889 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/18(金) 21:04:10
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPのレコード盤が
残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。若しもあの日の前夜、
三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。
葛井欣士郎
「花ざかりの追憶」より
890 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 22:18:07
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。
原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
891 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 22:19:35
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』となぜ
侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。
原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
892 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/26(土) 22:20:23
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。
原竜一
「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
893 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/16(土) 20:02:59
894 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/25(月) 22:15:28
895 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/01(月) 22:25:14
2.2 「頑張れ日本!全国行動委員会」結成大会
& 日本解体阻止!外国人地方参政権阻止!全国総決起集会
平成22年2月2日(火) 於・日比谷公会堂
13時00分 開場
14時00分 第一部 「頑張れ日本!全国行動委員会」 結成大会
17時00分 第二部 「頑張れ日本!全国行動委員会」 日本解体阻止!外国人地方参政権阻止!全国総決起集会
20時00分 終了
主催
頑張れ日本!全国行動委員会(準備委員会)
草莽全国地方議員の会
日本文化チャンネル桜ニ千人委員会有志の会
http://www.ch-sakura.jp/topix/1360.html
897 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 23:40:57
事件の翌日から、あらゆるメディアはあなたの行動を醜聞として描くことに情熱を傾けることになりました。
…TVでは「右翼評論家」なる人物が高説を垂れ、政治家たちは狂気の沙汰だとあなたを批判していました。
日本共産党はファシズムに対する警戒を説き、新左翼の学生たちは唖然として言葉を喪失していたように思えます。
わたしにはそうした政治的発言のいっさいが愚劣に思えていました。わたしは書店に行って、そのとき第三巻まで
刊行されていた『豊饒の海』の連作を買い求め、十日間ほどで一気に読み終わりました。しばらくして最終巻の
『天人五衰』が刊行されると、これも勢いに任せて読破しました。(中略)
わたしはここに仕掛けられた巨大なアイロニーに眼が眩む気持ちを抱きました。と同時に、自分の死後に遺された
者たちはすべからくこのアイロニーを生きるべしという、あなたの呪いめいた遺言に、さて、その呪いを
どのように受け取り、自分の文脈のなかで理解してゆくことにしようかと、呆然たる気持ちを抱いていました。
四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より
898 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 23:41:21
今から考えてみると、「豊饒の海」が最後に突入していったのは、物事のすべてが「存在の耐えられない軽さ」を生き、
ノスタルジア(懐旧)とパスティッシュ(模倣)の原理のもとに操作されてゆく、ポストモダンの薄明のこと
だったような気がしています。わたしが大学生活を送った一九七〇年代は、十年間を通して、あなたの名前が
忌避され、排除されてきた時代でした。大学院の研究室でも、同級生どうしの会合でも、あなたの死のみならず、
その作品について言及することは場違いであり、できればあなたのような文学者が戦後日本に存在して
いなかったかのように振舞うのが、暗黙の了解であるような日々が続いていました。日本のポストモダン社会は、
三島由紀夫の不在によって、安心して自己実現を達成したのです。七〇年代と八〇年代を代表するイデオローグであった
山口昌男と蓮見重彦を考えてみたとき、それは明らかとなるでしょう。
四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より
899 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 23:41:47
山口はあなたが悲劇的なもの、崇高なものに魅惑されていたのとは対照的に、それらから意図的に距離を置き、
喜劇的なもの、道化的なものに焦点を当てました。そしてすべての知識が位階制度を超えて並置される地平を、
ユートピア的に実現しようと企てました。
一方の蓮見は、あなたと同じ学習院に学び、皇族と人脈的な関係をもつことにきわめて野心的な人物でしたが、
一貫してあなたを嫌っていることを公言していました。もっとも事物の表層を好むというニーチェ伝来の哲学を
喧伝するという点で、彼はあなたの屈折した後継者であったといえなくもありません。
あなたの全集が再び編集され、刊行されていなかった日記や書簡が公にされたり、…あなたの行動の全体が
次の世代によって再検討の対象となるようになったのは、二〇〇〇年代に入り、先の二人の知的扇動家の影響が
消え去ったことと、軌を一にしているのは、けっして偶然ではありません。
四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より
900 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2010/02/28(日) 23:42:26
(中略)三島さん、裕仁はあなたよりも十八年と二ヶ月ほど生き延びて、一九八九年に身罷りました。
彼が支配していた昭和という時代は、六十四年をもって終了しました。けれどもすでにそれ以前から、誰もがもはや
(公文書ででもないかぎり)昭和という年号などもはや存在していなくなったかのように振る舞っていました。
なるほど昭和も三十年代、四十年代までは、それなりに口にされると実感めいたものが浮かび上がってきました。
けれども昭和五十年代というのは、たとえその表現に過ちがないとしても、もはやいかなるイメージをも人々に
喚起しなくなっていました。ましてや短かった昭和六十年代など、そう書き記してみたところで、どのような
イメージも浮きあがってくるわけではありません。それは一九七〇年代、一九八〇年代という表現がいかにも
人口に膾炙しているのと、好対照です。わたしは、こうした年号の喚起力の衰退の原因のひとつは、三島さん、
あなたの割腹自殺にあったのではないかと睨んでいます。あなたは生命を賭けることで、裕仁の時間支配に
修復しようのない楔を打ち込もうとしたのではないでしょうか。
四方田犬彦
「時間に楔を打ち込んだ男」より