◇そう思うでしょ? NO.7◇

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391名無しさん@お腹いっぱい。
例えば、一つの水槽の中・・

沢山の種類の魚が共存するとする
それぞれ性格や行動はバラバラ
足並みを揃えようとするが言葉が通じない

気の弱い魚は隅でじっとしている
行動派の魚は水槽を動き回る
慎重な魚は周りの様子を見ながら時々泳ぐ

それでもおいしそうな餌が水面に浮かぶと
どこからともなく魚達が姿を現し満腹になり、またそれぞれの場所に戻る・・・

そんな環境でも魚は育つ
やがて水槽は窮屈になってくる
酸素不足になってくる
知恵のある魚は水面に近い位置で呼吸する
耐える力のある魚は浅い息をしながらじっと動かない
弱いものは息絶え絶えになる

水槽から飛び出てしまうのが楽であるが
おいしい餌の時間が恋しい・・・

ひとつの場所を共有するとは、こういう事じゃないかな。。

いつかみんなが同じ方向を向いて
大きな水槽でのんびり泳ぐことができるように
それぞれの位置に居たらいいと思います。

長文ですみませんでした。
392名無しさん@お腹いっぱい。:2006/02/14(火) 20:06:18
>>391
ひょい、っと
姉妹スレから拾った言葉を使ってみるw

★「あ」と「い」のあいだにあるもの ★


そのあいだにあるもの、って何だろーね。

ずっと昔、「もっと光を!」って言い遺して逝った発明家がいたけれど
この世を去るときは、だんだん世界が暗くなっていくのかなと
子どものころにはちょっぴり怖かったです。

でも、ふと振り返ると
20世紀の最大の功罪って、「何にでも光を当てた」ことかと思われてくる。
世界は自由と民主主義の光によって闇を駆逐し
知られていなかった秘境をつぎつぎに開拓し、
科学は、原始的な因習や魔術を抹消した。

でも・・
そのサーチライトはそんなにも必要なものだったんだろうか?
わたしたちがもしもふだん、じつは闇を歩く者なのだとして、
怖れや不安やくるしみに耐えきれず
手に提げた懐中電灯であっちやこっちを照らし出すとき
光の当たるそこはつねに、ひときわ明瞭な存在を示し
それ以外の辺りを、より、深い闇へと暗転させる。

もしも
20世紀の人間にもうすこしの勇気があったなら
わたしたちは自分のチカラでサーチライトをときにはOFFして
しばらくすると闇に慣れてくるもの
この眼で、肉眼で
うっすらと浮上する「全体」とでもいうべき世界を見留めることのほうを選んだろう。

「あ」と「い」のあいだにあるもの。
それは、灯りを消して、うっすらと浮上するもの。

もうとっくに、21世紀だよ。

見えている者が、見えているほかの者とそっと目配せし、
おたがいに信じて安らえる世界へ。