40代が聞いた戦争体験

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432名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:16:00
親父やお袋は戦争の話は嫌がって教えてくれなかったから
近所の爺さん達にせがんで聞かせてもらったけど
どの爺さんも興が乗ってくると、話がデカクなってきて
「大砲の弾に飛び乗って敵地に突撃した」とか「B29を石を投げて落とした」
とか「現地の女にモテまくって困った」とか言い出すしまつだったな。
433名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:19:05
両親は戦地の体験こそないが、もう少しで死ぬところだった体験や、日本領だった
当時の朝鮮の雰囲気の記憶がある。

>>431
好きで大和男児なんかには生まれてきちゃおらん
434名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/09(木) 21:19:52
大阪か足立区の爺さんみたいだな
435名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/10(金) 00:30:59
436名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 09:20:49
今戦争あったら困るな
437名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 11:06:13
>>436
いや、こちらに飛び火さえしなければ儲かる可能性を秘めているのは、昔からのならわし。
ま、最近はテロだとか核だとか生物兵器だとかでうまくはいかないだろうが。
438名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 11:53:05
親父が朝鮮特需で、今の地所買ったおれがいますよ。
つーか、バブルのとき危なかった。
439名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/18(土) 14:26:38
どこでも大量破壊兵器が飛んで来る状態では、特需も糞も無い。
440名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/19(日) 08:14:56
20年ほど前、お菓子関係の営業をしていた時、ある県のお菓子屋さんの
おじいさんに聞いた話。
戦争中、陸軍の師団が近かったため、慰問袋に入れるお菓子(生姜板だった
らしい)を作ってたお菓子屋が近くにあったそうだ。
その菓子屋の親父が軍人さんに袖の下を渡して注文を貰ってたそうだが、
当時、砂糖なんか手に入らず同業者が休業していく中、そこは軍から砂糖
をどんどん供給して貰っていたそうだ、まあ、ある意味軍需工場状態。
終戦を迎えた時、その菓子屋の倉庫には山のように砂糖が積み上げられ、
その砂糖で戦後ボロ儲けをして現在誰でも知ってるような大会社になった
、と言っていた。でもどう考えてもあの時代、あれだけの砂糖を持って
いるというのはおかしな話だったようで、あそこは軍人と連んで日本中の
砂糖を集めていた、とそのおじいさんはまだ怒っていた。
戦争末期、兵隊さんや国民が苦しんでた時代に、私腹を肥やすことしか
考えてなかった軍人や商人もかなりいたんだろう。
441名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 09:37:31
戦争って人間心理が如実に出てきますね。
442名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:12:02
人の喧嘩の延長線上にある国同士の喧嘩で、普通にあることなんだけどもね。
最後は犠牲者に献花すると。

戦争はおこるものだから放棄するという考え方だからこそ、戦争を嫌うことなく、
国民一丸となって戦争を研究する必要があるのでは、と小6でいって担任に右翼といわれたなぁ。


443名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:44:23
立派に右翼だ藁
444名無しさん@お腹いっぱい。:2006/03/32(土) 10:48:45
また、スレッドの主旨からそれて行きそうな予感がします。
良スレなのでみなさん自粛をお願いします。
445名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 17:53:58
既に将官クラスは平成の初年で皆鬼籍に入ったと言
われている。
戦後61年が経ち、少年兵を抜きにすれば、そろそろ
最若年の現役兵でも80歳になろうとしている・・・。

地獄のような戦場で、殺し殺された過酷な体験は、
肉親を前にして語ることは憚られるかも知れない。
しかし、勇気を出して、是非語って欲しいし、聞
きたいものだ。
残された時間はあまり多くはない。





446名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/02(日) 18:45:34
三笠宮さんが騎兵少佐だから、ひょっとして最後の佐官かとドキドキしていますが。
大正13年生まれの伯父が上等兵で終戦だったな。
447名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/11(火) 05:01:02
もっと聞きたい。
448名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 06:38:15
話せる人がだんだんいなくなる。
先週友人祖父が亡くなったので、公職追放経験者の知り合いがいなくなった。
戦前から仏印蘭印でブイブイ言っていた方だから手記とか録音残すようにお願いしていたのだが、
「間違ったことはしていないから、弁解することはない」っつて断られた。
449名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 21:26:11
>>430
旧日本軍は強姦、輪姦を無くす為に従軍慰安婦を作ったのだが
結局駄目だった
450名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/14(金) 21:33:25
これスレ立てした奴探しとりますけ、心当たりがあったら自治スレまで知らしてチョ
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451名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/15(土) 09:53:46
>>449
それのもとの話を書いた方が、作り話だと謝罪したんだが。
煽った朝日新聞は黙して語らず。
452名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/16(日) 13:14:30
俺の親父、少飛15期出身。昭和3年生で8年前がんで死んだ。
飛行兵で機種は戦闘機。とはいっても九七戦。
軍歴を本人の話と戦友会発行の写真集や文集を基にちょっとまとめてみた。

18・10・5〜19・3・21 太刀洗飛行学校(甘木生徒隊)
19・3・22〜19・7・24 太刀洗飛行学校(隈ノ庄教育隊)
19・8・21 シンガポールに到着。
19・12・6 ジャワのスラカルタ・パリギー等にて飛行訓練後、第36教育飛行隊(ジャワ・マラン)に合流。
20・2・28 第26練成飛行隊(ジャワ・マラン)に改称。
20・6・15 第34教育飛行隊(ジャワ・チレボン)に転属。
20・7・10 転属者は「内地特攻要員」としてジャワ・バンドンに集結。
20・7・15 特別攻撃隊に編成改正。「七生昭久隊」と呼称。
20・7・29 5編隊に分かれ、九七重・百式重等でバンドンを離陸。
その後、シンガポール・カラン→プノンペン→上海→朝鮮半島・連浦→日本。
東京に着いたのがちょうど昭和20年8月15日だったとのこと。

太刀飛では第4中隊だった。第3中隊には↓この人たちがいた。
ttp://aploda.org/dl.php?mode=pass&file_id=0000001247

武装解除を受けずにそのまま実家に帰ってきたので飛行帽が家にある。
ttp://aploda.org/dl.php?mode=pass&file_id=0000001248
親父は飛行服や落下傘帯もあったはずと言ってたが健在行方不明w
飛行服は記憶ないが、落下傘帯なら自分も子供の頃なんとなく見た記憶がある。

かつての少年兵ですら、生き残っている人は少ないんじゃなかろうか。
453名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/16(日) 13:27:36
454名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/30(日) 06:02:19
保守しとく。
455名無しさん@お腹いっぱい。:2006/04/30(日) 06:08:27
ロシア語を習いに行っていて、クラスにもと抑留者の人たちがたくさんいました。
「自分は関東軍でスパイ活動をしていた。」とか、「抑留中に映画『シベリア物語』にエキストラで出たとか。
抑留体験者は、その人によってソ連嫌いと親ソ派の二つに分かれるけど、習いに来る人はやはり親ソ派だった。
毎年夏には墓参にいくとか。刺激されて、あれこれ抑留体験を読んだけど、かなり悲惨なはずなのに、みなさん、
結構みんな明るかった。というか、個性が強かった。私は内心「そりゃ、この人なら生き残るわナー」と思っていた。
456名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/05(金) 15:41:00
「いいか、犬はよく煮込まないとまずい」
「電柱の埋まっている部分はタールがしみているのでよく燃える。」
「蛙も蛇もぶつ切りにしちゃえば大丈夫」

戦争になったときに役立つらしい祖父の教え
457名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/07(日) 23:05:19
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-onisaburo.html

北から来るぞ。神は気(け)もない時から知らせておくから、よくこの神示、心にしめておれよ。
458名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:34:36
終戦の日まであと3カ月あげ。
459名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/14(日) 22:53:46
つーか、
実質8月15日に戦争は終わっていないんだよね。
8月18日にソ連軍が占守島に攻め込んできて、白旗掲げた軍使殺したりして
8月21日占守島に日ソ両軍が停戦しても、満州や沖縄では散発的に戦闘しているし
アメリカの学生に聞いたら9月2日の 降伏文書調印じゃないか終戦といえるのはっつってた。
で、9月3日がソ連・中国にとっての対日勝利の日、この日ルソン島の日本軍降伏。
ちなみに国際法上は1951年のサンフランシスコ講和条約まで戦争状態。
調印していないソ連とは、まだ戦争中、は、ソ連がなくなったから、勝ったのか日本。


460名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/19(金) 22:05:02
隣のじいさんが入院した。
見舞いに行ったら、同室のじいさんに「宮本大尉殿!」と呼ばれた。
461名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 05:41:29
もっとないの?
462名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 05:43:40
だれかアウシュビッツの体験談とか聞いて人いない?
463名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 06:25:45
映画「僕の大事なコレクション」観てくれ。
自分の祖父の命を救ってくれた女性を探しに、ウクライナまで
出かけてゆく、ユダヤ系アメリカ人青年の話。

ロード・オブ・ザ・リングのフロドが主役やっとる。


464名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 07:04:44
南京にいた大伯父が最後にあったときに、
私たちは戦争はしたが、虐殺したのは中共。
465名無しさん@お腹いっぱい。:2006/05/28(日) 08:23:12
母がカラフトに渡って帰ってくる時に
前か後の船が撃破されたと聞いた。
母が乗船していたら私は生まれてない。
466名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 09:46:44
8月15日以降も結構しずめられてんだよね、輸送船。
取引先の社長は入営前に小学校のプールで着衣水泳の練習したとか。
ちなみにそのプールって母校のなんだが戦後の写真見ると焼け野原にプールだけ写っている。
467名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 09:57:52
うちの父親は海沿いの町で育ったのだが
小学校1年生のころ体育の授業で浜から1KMの海で船から落とされて泳いで帰ったそうだ。
意図として「将来海軍行ったら泳げなくては駄目だ」と先生が言った。
おかげで30代のころ海水浴に行くと2〜3KM泳いでいた。
468名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/03(土) 10:15:58
浜から2キロくらい離れた島まで泳いでいって帰ってこられると
女郎屋に連れてってもらえたとか。
469名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 01:30:33
女郎蜘蛛って凄いネーミングですよね
470名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 10:08:13
昭和14年に徴兵検査で合格し、そのまま招集されて大陸の戦線に動員された伯父は
シベリアに抑留され、帰国したのは昭和22年だった。

口数が少ない人で、一番仲の良い弟(うちの親父)にも戦時中のことはほとんど喋らない。
苦労したんだろうねと言っても伯父は笑っているだけだった。
去年会った時に親父と伯父が昔話を始めたら戦時中の話になり
「俺は大陸で悪いことをたくさんやったよ。人もいっぱい殺した。
殺さなきゃ、こっちが殺されるんだから。
そりゃあ、むごい殺し方もしたよ」
と、突然話し始めた。

顔は笑っているように見えても眼は笑っていなかった。
聞いている俺も胸が痛くなるような言葉だった。
具体的な内容は言わなかったが、60年以上経って、初めて人に言うことができたのだろう。
「殺したんだ」と、何度も言った。
伯父の家から帰宅する途中で親父に尋ねたら、「初めて聞いた」と呟いた。

復員後、結婚して家庭を持ったが貧乏暮らしで苦労した伯父だが
恩給を貰うようになってからは、少しはゆとりのある生活もできるようになった。
ところが先日、コツコツ貯めた貯金を町の施設のためにごっそり寄付してしまった。
「やるな、伯父さん」と言ったら、「かわりに紙切れ1枚くれた」と、内閣総理大臣の名前の入った
表彰状を見せてくれた。
471名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/04(日) 14:47:41
シベリアは寒かったんだろうね、ワシは寒いのが嫌いだからシベリア生活を想像しただけでも涙がでます
472名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/08(木) 15:22:06
>>470
早く戻れてよかったね。
473名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 00:23:03
年に一回はすいとんさ食うだ。
474名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 06:10:42
戦争当時、母は川の近くに住んでいた。ショウイ弾を投下され火の海になり皆、川の中で死んでいたらしい。血の川。
475名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 07:53:41
昔の会社同僚に普段から差別偏見の強い人がいたんだが
その人の祖父もシベリア抑留帰りでシベリアの悪環境に加え
×人はこうだ△人はああだと差別偏見丸出しの戦争話を
昼休みに聞かされて引いた記憶がある。
同僚が貶していた人達は日本軍が酷い事をしたいわれる人達。

>>470のレスを読んで同じシベリア帰りでも兵士によって
都合の悪い事は忘れる人もいれば、一生忘れずに苦しみ続ける
人もいるんだなとあらためて思ったよ。
476名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/14(水) 09:01:54
470のおじさんが昭和22年にシベリアから帰ってこられたっていうのが、
沈黙の理由の一つのような気がする。
477名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/21(水) 20:59:43
>>475
もちっと、文章を整理されますように。
478名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 17:45:32
おろしあ生活が長かったんで・・・・・・
479名無しさん@お腹いっぱい。:2006/06/24(土) 18:20:47
おれのじいさんは南方戦線(どこだかは失念)の基地の整備をしてたらしい。
そこに米軍機が低空飛来してくると、塹壕(通称たこつぼと呼んだらしい)に向かって
一目散に逃げるんだが、飛行機好きのじいさんは、こともあろうに
米軍機見たさに、たこつぼから顔をひょこひょこだしては、ニヤニヤわくわくしてたそうな。
米軍機が帰ったあとも、同世代(20代前半)の戦友と戦闘機談義をこっそりしてたという。
もちろん、そのそばで死んでいく戦友もたくさんいたらしいが、
極度の緊張が連続すると、人間てのはあそこまで図太くなれるのかと我ながら感心したそうな。
480スキナー:2006/06/24(土) 18:32:30
10代の頃、雑誌の売ります買いますで、
丸スペシャルのバックナンバーを何十冊か1万円で
売ってもらったんだが、売ってくれた人が南方の
水上戦闘機の部隊で整備員をしていた方だった。
手紙をやりとりしていたとき50代だった。
その方がウォーターラインシリーズで情景写真を撮って、
それをコピーして作った写真集をもらった。重巡の前方に
着水した水上機の写真など、なかなかリアルだった.

もっといろいろ話を聞いておけばよかった。
前線の整備員ってものすごく苦労が多かったんだと思う。
481名無しさん@お腹いっぱい。
乗ってた戦艦が撃沈されて奇跡的に海に投げ出された人達が何日も漂流してた、声をかけたら下半身がサメに食われてて殆どの人が亡くなってた、その人はフンドシを下まで垂らしてたから(サメは自分より体の大きいものが苦手)九死に一生を得たらしい。この人達はすごい精神力。