1 :
大人の名無しさん:
ミシマワールドへどうぞ
2 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:40:34 ID:30hiTSRM
皆さんは月に一つぺん位、大きな入道雲を御覧になるでせう。入道雲はおどけた人のやうな顔を
してゐます。あれは、淋しく弟と暮らしてゐるお母さんを笑はせてなぐさめるために、
月に一度来るときには必らずお面をかぶつて来る男の子の姿なのです。
一度あのお面をとつて見たいものですね。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳(推定)「大空のお婆さん」より
悲しみといふものを喜劇によそほはうとするのは人間の特権だ。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「彩絵硝子」より
死のもたらす不在はそのすみずみまでが、あらけない不吉な確信にみたされてゐる。それは
はげしい風のやうにすべてをそのなかに見失はせてしまふ。だがそこからは再びなにものも
生れてはこないのであらうか。それらのおもひでを耕す鍬を人はもう失くしてしまつたので
あらうか。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「青垣山の物語」より
ほんのつまらぬ動機からも、子供にありがちな移り気と飽きつぽさは、なにかおおきな意味を
みつけたがるものでございます。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「祈りの日記」より
3 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:41:37 ID:30hiTSRM
女は愛するだけが最大の幸福だ――何といふ腹だゝしい定理であらう。
いかさま恋といふものは自分の想像も及ばないやうな深いところに現はれて来るものなのである。
真実の恋とは自分では気付かないものなのだ。恋の最初の身振はいささかの無理を伴つて来る。
人々は強ひて、自分の狂ほしい気持をその深い井戸のなかへもつて行かうとする。
恋は保護色であらゆる色のなかにしみいつてゐるものなのだ。すべての女たちのやうに
恋人に対してわれ知らず自分の印象をよく見せようにしてゐる天性が彼女のなかに果して
少しもなかつたか。恋といふものは決して裸かでは為されないものである。身につけあつてゐる
さまざまな鎧がいつか鎧ではなくなつて、それが攻撃の道具となり手引となり、身体の
一部と相手に思はせるやうになるものなのだ。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より
4 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:42:04 ID:30hiTSRM
恋のはじめといふものは鞦韆(ぶらんこ)の下の花のやうなものである。自分で鞦韆を
うごかしておきながら、花をつむことの難しさに、わざと大きくゆらして花をとりたい気持を
自分自身に隠さうと見栄を張るのだ。
愛情の爆発でない嫉妬といつたら、形式的な虚栄(みえ)の混つたものではないだらうか。
わづかにのこつた薄い愛情からも嫉妬は炎え出すものであるが、愛情が薄ければうすいほど、
その形式的な気持や虚栄が濃くなつてくるものとはいへないだらうか。世の人の、
「最も激しい嫉妬」といふものこそ純粋な嫉妬の姿なのである。
恋敵への嫉妬は帰するところ、盗人への怒りである。恋人への嫉妬はそんな単純なものではない。
寛容と憤怒、失望と敗者の自己嫌悪、その他のあらゆるものが激し合ひ融け合ひ、彼あるひは
彼女の上に注ぎかゝる。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「心のかゞやき」より
5 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:45:19 ID:30hiTSRM
儂がまだまだずつと若い頃のことぢや。勿論、こんなに腰も曲つて居らんでな。白いひげなんか、
一つもなかつた時分ぢや。いつ頃のことか忘れて了うたが、その晩は全く妙な夜ぢやつた。
月はうまさうな朧月ぢやつたとおぼえとる。星が沢山々々儂の家の屋根にあつまつての、
まるで話しでもしとるやうぢや。
儂はひよんな事ぢやと思うたから、下駄をつつかけて庭へ出て、一生懸命星を見とつたが、
どうも不思議でならん。それでな、上を見て、ぼんやりしとつた所が、おやおや何と
気味の悪いことぢや、足下の叢から人の声が聞えてござらつしやる。
じーつと見て居つたらの。竜胆(りんだう)の葉のかげで、小人どもが踊つてゐるのぢや。
真中に、角力の土俵のやうなものが有つて、一人が踊ると、踊らん小人らは恰好をなほしたり、
注意したりして、まあ、やかましいのなんのつてお話にならんのぢやが、その中の一人が
こんなことを言ひよつたのぢや。
『今晩“萩ヶ丘”でやる舞踏会はな、十二時きつかり始まるで、それまでによう練習
しとかんといかん』
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「緑色の夜」より
6 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:45:53 ID:30hiTSRM
なんというたらいゝぢやらうか。
その綺麗なことこと。錦の布の金糸、銀糸をほどいて、それを細う切り、ぱアーつと
散らばしたやうぢや。
気の早い連中がこんなにも多いと見えて、未だ一時間あるのにもう踊りのけいこをしとる。
大分長い間たつた。十二時十分前頃にな。ほれ、珍客どもが揃つてござつたわ。
湖底の洞にすむ竜の背中で暮してゐる小人は、竜のキラキラする鱗をつづつて作つた
甲冑のやうな洋服を着て来居つた。
橄欖(かんらん)の木に居る妖精は、葉の面を剥いで仕立てた、つやのある、天鵞絨
(ビロード)のやうなのを、大きな樹の叉に住まつて山蚕を飼つとる小人は、そのまゆで
こしらへた良い肌ざはりの絹の衣裳を着て来るのぢや。
水晶の沢山ある山に住んどる奴は赤い木の実をつぶして染めた紅衣裳に、水晶の粉を
ちりばめて来たが、まあ、その美しかつたことと云つたら。口では話せんわい。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「緑色の夜」より
7 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:46:59 ID:30hiTSRM
自然に対する病的な、憧憬や、執着が子供にもある。否、それは、大人より強烈な場合がある。
彼は充分に笑つてから、まだお腹の隅で、くつくつと笑つてゐるのを押へて、ポケットから
白いボールを出し、空高く投げた。
青空だ。
青空が、ボールについて、上つて行く、そして恐ろしい勢で落ちてくる。彼はそのボールを
受けると、青空を我がものにしたやうに喜んだ。それから、彼は、思ひ切り切り空気を吸つた。
秋彦は、室内や町の中でこんな空気を吸つたことはなかつた。否吸つたと云ふより、
食べたのだ。不思議な味をし、香りをした空気を、青空を、それから、雲を、彼は口の中に
押し込んだ。その味や香りが、どこから湧き出て来るのかわからなかつた。併し彼は、
今その源がわかつたやうな気がする。再び、喜びが湧いて来た。空気の味と香りの源を
確かめたのは、最も大きな喜びであるに違ひない。
それから、秋彦は、大地の躍動を知つた。大地は心臓の鼓動の様に踊り始め、秋彦の足も
自然にそれに伴つた。森羅万象は音楽を奏し始めた。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「酸模(すかんぽう)――秋彦の幼き思ひ出」より
8 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:47:19 ID:30hiTSRM
――僧よお汝(まへ)は今まで他人をまねて悟りを開かうとした。併しそんないやしい考へで
得られよう筈がない。私はそこで痩せこけた老人に身を変へてお汝を悟りのいとぐちへ
導いたのだ。行きなさい、明日の朝、お前は悟りを得ることだらう――朝開が稲妻のやうに
迫つて来た。太陽は光を得五条の光が閃いた。
――そして坊主は悟りを得た。
それから坊主いや聖人のもとへ一人の小さな男の子がどこからともなく入つて来た。
坊主はそれを極端に可愛がつた。
翌々年聖人はねはんに入つた。聖人は男の子に苦しい息の下から遺言した。――庵の縁の下に
大きな函がある。それをあけなさい。私のお汝への遺産ぢや。お汝の子孫はその遺産を以て
栄え栄えるであらう――
男の子は泣き乍ら、函をあけて見た。中に大きな石があつた。石の上に墨黒々と信念の二字が
かいてあるのみだつた。男の子はいぶかしく思つて石の下をさぐつて見たが何もなかつた。
只石の下面に字があつた――この石にかじりつきて働き働くべし、怠ることなかれ――
平岡公威(三島由紀夫)13歳「座禅物語」より
9 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:50:36 ID:30hiTSRM
「いつはりならぬ実在」なぞといふものは、ほんたうにこの世に在つてよいものだらうか。
おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。
また実在は天から堕ちて翼を失つた天使であらう、なにごとにもまして哀しいのは、
それが翼をもたないことだ。
そこはあまりにあかるくて、あたかもま夜なかのやうだつた。蜜蜂たちはそのまつ昼間の
よるのなかをとんでゐた。かれらの金色の印度の獣のやうな毛皮をきらめかせながら、
たくさんの夜光虫のやうに。
苧菟はあるいた。彼はあるいた。泡だつた軽快な海のやうに光つてゐる花々のむれに足を
すくはれて。……
彼は水いろのきれいな焔のやうな眩暈を感じてゐた。
ほんたうの生とは、もしやふたつの死のもつとも鞏(かた)い結び合ひだけからうまれ出る
ものかもしれない。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「苧菟と瑪耶」より
10 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:50:54 ID:30hiTSRM
蓋をあけることは何らかの意味でひとつの解放だ。蓋のなかみをとりだすことよりも
なかみを蔵つておくことの方が本来だと人はおもつてゐるのだが、蓋にしてみれば
あけられた時の方がありのまゝの姿でなくてはならない。蓋の希みがそれをあけたとき
迸しるだらう。
ひとたび出逢つた魂が、もういちどもつと遥かな場所で出会ふためには、どれだけの苦悩や
痛みが必要とされることか。魂の経めぐるみちは荊棘(けいきよく)にみたされてゐるだらう。
まことや、あららかな影の思ひ出の死は、死がかなたの死のなかへ誘ひよせつゝいつか
それと結合してうみ出す至高の生にくらべれば、おろかしい偽りの姿にすぎぬかもしれぬ。
なぜなら死とは、この世に於てよりもより勁(つよ)くあの世にあつて結び合ふことが
たやすいから。……
平岡公威(三島由紀夫)17歳「苧菟と瑪耶」より
11 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 12:51:14 ID:30hiTSRM
苧菟は手紙をかいた。彼はそれをふだんつかはない抽出(ひきだし)のおくふかく納れておいた。
なぜといつて無くなるはずのないものがなくなること、――あの神かくしとよばれてゐる神の
ふしぎな遊戯によつて、そんな品物は多分、それを必要としてゐるある死人のところへ
届けられるのにちがひない、と苧菟は幼ないころから信じて来たから。彼はそれを待つた、
この唯一の発信法を。
星をみてゐるとき、人の心のなかではにはかに香り高い夜風がわき立つだらう。しづかに
森や湖や街のうへを移つてゆく夜の雲がたゞよひだすだらう。そのとき星ははじめて、
すべてのものへ露のやうにしとゞに降りてくるだらう。あのみえない神の縄につながれた絵図の
あひだから、ひとつひとつの星座が、こよなく雅やかにつぎつぎと崩れだすだらう。
星はその日から人々のあらゆる胸に住まふだらう。かつて人々が神のやうにうつくしく
やさしかつた日が、そんな風にしてふたゝび還つてくるかもしれない。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「苧菟と瑪耶」より
12 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 16:44:38 ID:30hiTSRM
追憶は「現在」のもつとも清純な証なのだ。愛だとかそれから献身だとか、そんな現実に
おくためにはあまりに清純すぎるやうな感情は、追憶なしにはそれを占つたり、それに
正しい意味を索(もと)めたりすることはできはしないのだ。それは落葉をかきわけて
さがした泉が、はじめて青空をうつすやうなものである。泉のうへにおちちらばつて
ゐたところで、落葉たちは決して空を映すことはできないのだから。
わたしたちには実におほぜいの祖先がゐる。かれらはちやうど美しい憧れのやうに
わたしたちのなかに住まふこともあれば、歯がゆく、きびしい距離のむかうに立つてゐる
こともすくなくない。
祖先はしばしば、ふしぎな方法でわれわれと邂逅する。ひとはそれを疑ふかもしれない。
だがそれは真実なのだ。
三島由紀夫16歳「花ざかりの森」より
13 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 16:45:09 ID:30hiTSRM
今日、祖先たちはわたしどもの心臓があまりにさまざまのもので囲まれてゐるので、
そのなかに住ひを索めることができない。かれらはかなしさうに、そはそはと時計のやうに
そのまはりをまはつてゐる。こんなにも厳しいものと美しいものとが離ればなれになつて
しまつた時代を、かれらは夢みることさへできなかつた。いま、かれらは、天と地がはじめて
別れあつた日のやうなこの別離を、心から哀しがつてゐる。厳しいものはもう粗鬆な
雑ぱくな岩石の性質をそなへてゐるにすぎない。それからまた、美は秀麗な奔馬である。
かつて霧ふりそそぐ朝のそらにむかつて、たけだけしく嘶くまゝに、それはじつと制せられ
抑へられてゐた。そんな時だけ、馬は無垢でたぐひなくやさしかつた。
真の矜恃はたけだけしくない。それは若笹のやうに小心だ。そんな自信や確信のなさを、
またしてもひとびとは非難するかもしれぬ。しかしいとも高貴なものはいとも強いものから、
すなはちこの世にある限りにおいて小さく、いうに美しいものから生れてくる。
三島由紀夫16歳「花ざかりの森」より
14 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 16:45:33 ID:30hiTSRM
わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川の
どの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものは
けふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて
語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。
ああ、あの川。わたしにはそれが解る。祖先たちからわたしにつづいたこのひとつの黙契。
その憧れはあるところでひそみ或るところで隠れてゐる。だが、死んでゐるのではない。
古い籬(まがき)の薔薇が、けふ尚生きてゐるやうに。祖母と母において、川は地下を
ながれた。父において、それはせせらぎになつた。わたしにおいて、――ああそれが
滔々とした大川にならないでなににならう、綾織るものゝやうに、神の祝唄(ほぎうた)のやうに。
三島由紀夫16歳「花ざかりの森」より
15 :
大人の名無しさん:2011/01/05(水) 16:45:56 ID:30hiTSRM
そこからは旧い町並がひとめにみわたされた。町のあちらに疎らな影絵の松林がみえ、
海が、うつくしく盆盤にたたへたやうにしづかに光つてゐた。小手鞠の花のやうなものが
二つ三つちらばつてゆるやかに移つてゆくとみえたのは白帆であつた。
老婦人は毅然としてゐた。白髪がこころもちたゆたうてゐる。おだやかな銀いろの縁をかがつて。
じつとだまつてたつたまま、……ああ涙ぐんでゐるのか。祈つてゐるのか。それすら
わからない。……
まらうどはふとふりむいて、風にゆれさわぐ樫の高みが、さあーつと退いてゆく際に、
眩ゆくのぞかれるまつ白な空をながめた。なぜともしれぬいらだたしい不安に胸がせまつて。
「死」にとなりあはせのやうにまらうどは感じたかもしれない、生(いのち)がきはまつて
独楽(こま)の澄むやうな静謐、いはば死に似た静謐ととなりあはせに。……
三島由紀夫16歳「花ざかりの森」より
16 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 11:19:12 ID:qk6AcQDy
「やあ子」が泊りに来るときはその八畳の中央に床をならべた。康子の「す」の音がうすつぺらな感じを与へるので、
「やあ子」といふ彼女の撫肩そつくりな発音の愛称を、私は好いた。風呂から上るとこの小さな女の子は、洋服を
きちんと畳んで枕許におくので、おまんはそれを模範として私にも所謂「いゝ癖」をつけさせようとした。
癪にさはつて私がいふのである。
「お床にいれる方があつたかくなるからボクがいれてあげよう、やあちやん」
気のいゝ彼女はこの親切にさからへない。翌朝、私の床のなかに筋目も何もなくなつたしわくちやな洋服を
見出だして、おまんは憤慨し、やあ子は泣き出すのだつた。
大人つぽく肱で頬つぺたを支へながら、やあ子は心臓を下にし、私は左肩を上にして向ひあひ、お互に床ふかく
埋つて千代紙みたいな会話を交はした。それは千代紙のやうに稚拙な色をもち、金粉をかけ、皺がより、断片的な、
子供特有のあの会話の型式なのだ。私は「天井の木目」がこはくなくてすむところから、かうした夜々を好きに思つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
17 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 11:19:33 ID:qk6AcQDy
ひどく心配さうな目附で彼女が云ふのである。「沙漠のね」
「沙漠の?」
「なんだつたかしら」
「え?……」
「ラクダにのつかつて」
「隊商!」
「隊商がね、ラクダでザックザックつてくるでせう。その音がとほくからきこえるの」
「ほんたう?」
「やめようとおもつてもきこえるの。上をむくときこえないけれど枕を耳にあてるときこえてよ。近くなつて
くるわよ、だんだん」
「きこえない」
「あらへんね。やあ子とおんなじ方むいたら?」
「きこえない」
「へんね、やあ子ずつときこえてゝよ。また近くなつた……こはあーい」
さう云ふなり彼女は耳をおさへて私の床へはひつてきた。私は強がらないわけにはいかなくなり、
「大丈夫」とおまんの口真似をするのだつた。
その幻聴はやあ子の貧血の前駆症状だつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
18 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 11:19:59 ID:qk6AcQDy
玩具をみるときの子供の目つきは、ちやうど美しくめづらしい石をみつけたときの原始人の目付に似てゐる。
子供が大人からその玩具の使用法をおそはつて暫く無意識に何度もねぢを廻しては殆ど目的のぼやけた「興味」を
傾けたのち、はじめて子供はその玩具の本当の使用法を知るに到るのだ。玩具は玩具函のなかにあるものではない。
玩具は子供のなかにゐるものなのだ。母親たちはわづか二、三日でその玩具の機械(からくり)をまはさなく
なつた子供に悲観してはならない。玩具がもつてゐる不変の機械作用は、ほんの外面のものに過ぎないのだ。
玩具を了解する瞬間に子供にとつてそれは有形のものではなくなり、無形の抽象物……即ち消極的に生活の一部を
支配し、ある重要なつとめを有(も)つものと変る。かくして私のまはりの透明体の城壁の一部――それを
見透かすときあらゆる生物が植物のやうにみえ、あらゆる事物が不自然に拡大されてみえる城壁の一部として、
その玩具があらたに加はつたのを、私はすぐさま感じた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
19 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 11:20:23 ID:qk6AcQDy
召使たちの別棟は、塀近い御長屋風の二階建で、おまんは塀へむいた二階の二間を占有してゐた。私の部屋の傍から、
長い覆附の渡廊下が、その棟に続いてゐた。祭の日に行列の通る時刻を予め問ひ合はせ、その半時ばかり前から、
おまんが私を迎ひに来るのだつた。これといつて刺戟のない日々に引き比べて、その前の晩、私はなかなか
ねつかれなかつた。ことにおまんが自分の部屋を「仕度し」にいつてゐる小一時間、私はひとりでそこへ行つて
了つてはつまらない気がするので、あのお年玉を待つときそつくりな気持でおまんの迎ひを待ちこがれてゐた。
倦怠と焦慮の様子は、両者とも時間をもてあましてゐる点で大へんよく似てゐるものである。(中略)
おまんの袖に抱かれるやうにして、「御前様にみつかりなさると大変でございますよ」いふおまんの声に
せきたてられて、一気に駈けぬける廊下は長かつた。杜鵑花(さつき)の植込の、非常に赤いのが目に残つた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
20 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 11:20:48 ID:qk6AcQDy
几帳面で綺麗好きなおまんは、自分の部屋へ私が来るといふので、女の部屋特有な調度類は皆片附けて、隅々まで
掃除したうへ、道路に面した窓を一杯にあけはなしておいてくれた。なかんづく懐かしかつたのは、その時
用意してくれるウエファースだつた。ふだんの「お茶」にはウエファースなぞあまりつかないのに、祭のたびに
おまんが揃へておいてくれるのは決つてウエファースだつた。それも子供じみた秘密な儀式の、たのしい
「しきたり」の一つになつた。
私は窓ぎはにちよこなんとすわつて、祭のさきぶれの、ひどくあけつぱなしな雑踏をながめながら、うすい
九重(ここのへ)に頻りにウエファースをひたしては喰べてゐた。さうしてゐる私は、また自分の背中いつぱいに
注がれてゐる、いとしくてたまらないといふおまんの目附をあたゝかく感じて幸福に思つた。
疎らな竹藪と丈の高いひばの並木は街道のざわめきをよく見せた。裏二階はどこも開け放され、物干は満員だつた。
乾物のいろどりの間に、人の顔がいつぱい詰つてゐるのがゴシック模様のやうだつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「幼年時」より
21 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 21:58:42 ID:g9ssSrHz
ユッキーに俺の菊門をズンズン攻めて貰う夢を見た。
22 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 23:41:04 ID:qk6AcQDy
焼けた河原から河原へ大きな橋がかゝつてゐて、その下を清い多摩川の流れが、昨日の雨に水量を増して大速力で
走つて居ました。
私も河の中を海へ海へと走つてゐました。ところが“流れ”は私達“水”を海へ運んで行きはしませんでした。
陽はかんかんと照りつけて、私達の冷たい体も、ぽかぽかとあたゝかくなりました。両側の河岸では、麦藁帽子を
被つた人々が、呑気さうに、けれども如何にも暑さうに釣をして居ました。白いペンキで塗つた新らしいボートが
するすると水面をすべつて行くのも気持のよいものでしたが、古い昔からの渡船がのんびりと、ろを動かし動かし、
眠さうに走つて行くのも何となくいゝ気持になりました。
やがて、私達はごうごうといふ音を立てゝ、何やら暗い所へ入つて了ひました。
これは、かねがね噂に聞いた“海”といふものではなささうでした。第一、しほつからくもありませんし、
《常に頭の上にある》と云ふ太陽さへ、今はどこにも見出だせません。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
23 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 23:41:32 ID:qk6AcQDy
体が何度か上へ押し上げられ、激しく落とされました。随分長い時間でしたが、やつと日の目を見ることが出来ました。
そこは、浄水池といふところでした。けれども、暫くの間でまた暗い暗い道に入らねばなりませんでした。
道は私達の前居た多摩川とは比べものにならない程窄(せま)くて、ひどく曲りくねつてゐるものですから、
体のもまれやうが大変でした。
やがて妙な音がして私達の体がぐぐつと押し上げられました。
そして、せまい器の中へ納まりました。
さて私達が浄水池へ行つて体を見た時にはあんなにすきとほつて美しかつたのが、今、水道の口金から出て、
器へ入つた拍子に、真白で、すきとほらなくなつて了ひました。
それは、お米をといでゐる女中さんが、お釜の中へ私達を入れたのでした。その為、ぬかにそまつてこんなに
なつて了つたのです。
私は絶えず掻きまはしてゐる女中さんの手の間から、台所の中を見まはしました。向側に瓦斯があつて、薬鑵が
のつかり、白い湯気を一杯出してゐました。私が湯気と云ふものを見たのは、これが始めてでした。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
24 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 23:42:03 ID:qk6AcQDy
面白くなつて一生懸命覗いてゐますと、すぐ私達を、じやあつと捨てゝ了ひました。
捨てられた私達(水)は、白い体のまゝいやな臭ひのする下水へと急がねばなりませんでした。下水には、
黒い大きな泥溝鼠が、我物顔に走つてゐました。
泥溝鼠は新入の私達を迎へて、私達の流れる速さと同じにかけながら、白い私に話しかけました。
「君は多摩川で、鼠の死んだのを見かけなかつたかね」
私は多摩川をそんな汚ない所に思はれるのがいやでしたので、返事をしないで居ましたが、彼は更に云ひました。
「実は僕の弟が、三人とも居なくなつて了つたのでね」私達はそれを聞いて、少し可哀さうになつたとは云ふものゝ、
この下水と多摩川とがつながつてゐるやうに考へてゐる泥溝鼠を可笑しくもなりましたので「そのうちに、
さがし出して上げませう」と云つて別れました。
やがて下水は、大きな深い穴で終りました。そしてまた、暗い鉄管の中を通つて行きました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
25 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 23:42:29 ID:qk6AcQDy
闇の中にぽつんと明るい点が見えたと思つたのは、嬉しいこと、河へ注いでゐる出口でした。私達の流れは急に
早くなりました。そしてボシャンといふ音を立てゝ川に落ちこみました。
川は広かつた。そして水はきれいでした。ゆるやかにゆるやかに私達は動き、そして、ふつと自分の体を見たら、
多くの水が混り合つて、すつかり元のやうに美しく透通つてゐたではありませんか。
それからの毎日毎日は楽しい時がつゞきました。
ある時はかはいゝ鵞鳥の子が大勢で泳ぎました。
又、小さな子供が笹舟を、そのやはらかい紅葉(もみぢ)のやうな手で作つて、そつと水に浮ばせたときも
ありました。私はさゝぶねを乗せて、ごくゆつくりと歩いてあげました。
小さな子供は、赤いほゝをしてゐて、それはそれは可愛く、さゝぶねが流れるのを追つて面白さうにかけました。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
26 :
大人の名無しさん:2011/01/06(木) 23:43:04 ID:qk6AcQDy
それは春のことでした。いつの間にか河底で生れた鮎の子は、元気にかろやかに泳ぎました。河辺には荻が茂つて、
私達はするすると、荻の間を進みました。
やがて朝の霧がうすくうすくわからないやうにはつてゐる向うに、土も、それから樹も、丘も山も何も見えないのに
気付いたのです。
そして、なんとなくしほつからくなつて来たやうに思へます。
海へ出たのでした。私は、あんなに多摩川からすぐ海へ行つた友達をうらやましがりましたが、海へ出るのに
こんな方法もあつたのでした。
春の日は、水面、もう海面である私達の頭に、金色のこてをあてました。こてにかゝつた髪のうねりは次第に
高まつて、始めて知つた波となつて、白砂の浜にうちつけました。
私は、気持よく、ゆりかごにのつたやうに、波打つてゐたのです。
平岡公威(三島由紀夫)10〜11歳「“水”の身の上話」より
28 :
大人の名無しさん:2011/01/07(金) 16:26:17 ID:4Uu6D0EU
川端やお堀端やどれもこれも同じ顔立をしてゐるところがふるさとのかなしい人々を思はせるゆがんだ軒並や、
築泥や舟板塀だのに沿うて走つてゐる電車は、ハンドルをまはしつゞけると何度も同じ汽車が鉄橋のうへに
出てくるあの玩具にも似て、かうした退屈な町ではどの電車も一台だと信じてうたがはぬだらうと思はれるほど、
みな同じにいたましくペンキが褪せ、いつしんにはしつてゐた。お客の影は、ものゝ二三人しかみえない。
凸凹なみどりのシイトが、まのびした長さでひろがつてゐる。わたしはかうした町へきてふるい空々(ガラガラ)な
電車にのるたびに、もう何年もあはぬなつかしい人にあへるやうな気がしてならない。稚ないころすでに
としとつてゐたそれらの人たちは、あるひはもうこの世にゐないのかもしれないけれど、昔よりもつと若い、
さうして古風な皃立(かほだち)に地味な小紋の着物をきた束髪の姿で、おせんかなにかの土産包を片手にしながら
よろよろと急な乗降口を、のぼつてくるやうな気がしてならない。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より
29 :
大人の名無しさん:2011/01/07(金) 16:26:43 ID:4Uu6D0EU
髪を高い「行方不明」に結ひあげたあの上品な吃りのお婆さんは、祖父時代の芸者あがりの富士見町の秋江さんは、
それからいつも植木をみやげにもつてくる昔道楽ものでならしたといふへうきんな小父さんは、いつたいどこへ
行つてしまつたのだらう。聞かぬ名前のひつそりとした停留所を、わき目もふらず電車がすぎてしまふと、
その停留所ちかくの町の一廓にあゝいふ人々の表札がのきごとにかけつらねてあるやうな気がする。生垣や
ひくい板塀ごしに、さういふひとたちのひいてゐるもう拙なくなつた三味線の音が、なにかおどけたものゝやうに
きこえてきはしないか。……だがその停留所をすーつとすぎてしまつたことに、悔いやのこり惜しさを感じつゝも、
何だかそれをみきはめずにおいたことが、ひどく安心なやうな気持がうまれてくる。と、それにしたがつて益々
つよい色彩でさうした空想がにじみ出てくるのであつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より
30 :
大人の名無しさん:2011/01/07(金) 16:27:16 ID:4Uu6D0EU
ひとむかしまへ西片町時代の奉公人であつたのが、すこしへんになつて暇をやつてからといふもの、ちかごろは
大分よくなつたと毎年々々たづねてくるその男に、幼な心にも「まだヘンだ」といふ気持をすぐかんじた。
勝手口から女中連を大声でからかひながら、それでも小綺麗な唐草の棉風呂敷片手にはひつてきて、奥へ挨拶に
ゆくまではよいのだが。……
「けふらは大奥様のお好きな枝豆をうんともつてめえりやした」といふ。この寒さに枝豆もないものだと祖母が
おもつてゐると、すばやく兼さんは包をあけひろげてゐた。中味といふのが汚ない菜つ葉と小如露と、子供の
バイである。みるなり「そらいつもの兼さんがはじまつた」と祖母と女中が笑ひくづれるのへ「ほうれ女房め
いれまちがひしよつたわい」と頭をかきながら一旦調子をあはせるものゝ、またすぐけろりとして十五、六分
話しこんだすゑ、ふいにかへつてゆくのであつた。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より
31 :
大人の名無しさん:2011/01/07(金) 16:27:35 ID:4Uu6D0EU
落語の「堀之内」を地でゆくやうだと、奉公人たちは笑ひあつたが、その兼さんも、「死んだ」といふあやふやな
風聞(うはさ)ばかりのこして、祖母の死後つひぞ姿をみせなくなつてしまつた。
どこの河畔の何町だかすつかりわすれたあひかはらずガラ空きの電車に足をふみいれてぎくりとした。
古半纏(ふるはんてん)の兼さんがこつちむきにすわつてゐるのだ。妙なことにひとのかほさへみれば
「坊ッさ、大きなられましたなあ」と大声でいふ筈のが、目の前にみてゐながら声ひとつかけようとしない。
大体目のピントがすつかりはづれてゐるのだ。少々頬のあたりなど狂暴でうすきみわるかつた。前歯が一本
戸まどひして、唇の間からたれてゐた。胃癌になつた鷄といふ感じがした。車掌が前をとほると首にぶらさげた
合財袋から無意識的に小銭をとりだす。なれつこになつてゐるとみえて車掌はつりを袋のなかへおしこんだ。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より
32 :
大人の名無しさん:2011/01/07(金) 16:27:56 ID:4Uu6D0EU
終点で下車してわたしはしばらく尾(つ)けてやらうとおもつて、ちやうど同じ方向であるのをさいはひに川端を
あるいていつた。川に映つた空のなかには燻製のやうな太陽がいぶつて流れてゐた。空にうつつたその川のやうに、
曇天のなかにひときは濃い、ひとすぢの雲が澱んでゐた。半纏を柳と平行になびかせてうつむきながら狂人は
あるいた。それがふいに立ち止つたのでわたしはびつくりした。
川のなかをそはそはのぞきこんでゐる。
ときふに膝をたゝいて廻れ右をして、おどろくわたしを尻目にもかけず、すたすた目のまへをすどほりし、
折から今来た方向へ走つてゆくかへりの電車にとびのつて了つたのである。この一幅のカリカチュアのなかの自分に
苦笑してふりかへつたわたしの視界を、電車はいつもの暗い音をひゞかせながら、不器用にとほのいて行つた。……
平岡公威(三島由紀夫)15歳「でんしや」より
33 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:29:52 ID:lyBKhgIa
お父さんが大阪へ転任したので、それからちよいちよい関西旅行をするやうになつたある夏のこと、お父さんは
わたくしをお役所へつれていつてくれました。仔熊をみたいとせがんだからです。その仔熊は――若しおぼえて
いらしたら、大阪の新聞や、その社のコドモニュウス映画で、ごらんになつた方々も、ずいぶん多い筈だと思ひます。
お父さんは仔熊をうつした写真を、よく東京へもつてきました。お役所の女のひとだのお父さんだのが、
眩しいやうなコンクリイトの空地のうへで、熊にお菓子をやつてゐるところでした。さうしてどの写真の熊も
チンチンをして一寸首をかしげて、まだ小つぽけな両手の爪を、全部だらしなく出してゐました。
赤か、それとも派手な模様のリボンを、首につけてやりたいやうでした。
お役所のAさんは話してくれました。
「あんまり深い山でも有名な山でもありませんけど、大阪近県の山おくで、きこりが木をきつてゐたのです。
するとどつかで、コリッコリッといふ音がしてきました。…
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
34 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:30:14 ID:lyBKhgIa
(中略)
ふいに明るいところへ来て眩しかつたものか、目をしよぼしよぼさせた仔熊が、耳だのあるかないかわからないほどな
尻尾だのをぴくぴくうごかして、両手でつかんだきいろい木片をコリッコリッと噛みながら出てまゐりました。
さきほどからの音はこの音だつたんです。
おいしくもなさゝうなその木片を、さも大事さうにカジつたりシャブつたりなめたりしてゐるのをみると、
きこりはかはいらしくつてふきだしさうになる一方、大へんかはいさうにも思ひました。きつとたべるものが
なくなつたので空きぬいたお腹をだますために、そんなものをかじつてゐたのに相違ないのです。きこりは熊を
抱き上げました。すると真暗な、小さな革コップをかぶせたやうな鼻先を、しきりにきこりのえりだのふところだのに
つつこみました。手を出してやるとふんふんといひながら、ふざけるつもりか喰へ物と思つたのか、そつと
やはらかく指をかみます。
ありあはせの縄で傍らの木にひとまづつないでおき、お弁当なんぞを分けてやつたのち、仕事がすむとそれを抱へて、
村里へ下りてゆきました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話
35 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:30:36 ID:lyBKhgIa
(中略)
営林署の大竹さんがあるいてきました。
『へ、だんな熊ッ子です』ときこりは、いちぶしじゆうつかまへた話をしました。どれどれとわらひながら
大竹さんは熊を抱かうとして手をのばしました。すると口にくはへてゐた煙草をおとしてしまひました。大竹さんが
ちよつと惜しさうにしてそれをみますと、熊も心配さうな顔をして、自分が落し物をしたやうに下をみました。
大竹さんはアハヽハと笑ひました……」
Aさんはそこまで話して自分もをかしさうに笑ひながら、
「営林署でゆづりうけてそれから大阪の、この営林局へつれてこられたんですよ……」といひました。
背のひくい女のひとゝAさんとの案内で、わたくしは熊を見に行きました。廊下の両側にはタイプライタアの音が
つつかゝるやうにやかましく響いてゐました。(中略)
小さいドアをあけて二三段下りると、地べたへぢかの屋根付廊下がまはりを囲み、バラックがみえてゐて、
ちよつとペンキの匂ひもする、一面セメントのたゝきのやゝ広い場処へ出ました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
36 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:31:04 ID:lyBKhgIa
仔熊はそのはじつこの岩乗な檻のなかでオォン・ウォンとないてゐました。営林局へ来てからといふもの世話を
一ト手に引き受けていちばん懐かれてゐる小使さんが、わたくしたちを待つてゐました。(中略)
やがて小使さんが小さな金だらひに御飯でつくつた糊をたんといれたのをもつてきて、をりの戸をあけますと、
熊はなれなれしく小使さんにすりつきました。それをいれてやるとみるまにパクパクたべてしまひましたが、
いよいよ手が要用になつて前脚でたらひを抱へ、顔をすつかりつつこんで隅から隅まできれいにしてしまひました。
お食後には林檎をひとつやりました。一寸爪先で皮をむくやうなまねをしましたけれども、思ひ直したやうに
ガブリとかみついて芯から何からみなたべてしまひました。
「熊を出しませう」と小使さんが云ひました。わたくしはもうちつとも熊がこはくなくなつてゐましたから、
ニコニコ笑ひました。
「あんよはお上手」なんぞと言はれながら小使さんに前脚を持たれると熊は困つたやうな顔をして立つたまんま
危なつかしげに出てきました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
37 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:31:26 ID:lyBKhgIa
足の裏のぶよぶよした灰色が、そのとき日に光つてまつしろに濡れてみえました。鎖をつけて小使さんが引つぱつて
あるきました。
「また梯子のぼりさせようぜ」と云つて別の小使さんが梯子をもつてきて屋根にかけました。満腹で御機嫌に
なつたので、熊は云ふとほりになりました。ウヴォオンと呟やいて梯子のまへにチンチンすると、屋根のうへの方を
まぶしげに眺めながら、手招きしつづけてゐるやうな前脚をそつと梯子にかけ、それからはすらすらと三四段
上りました。
もうそれ以上はのぼれないとわかると熊は恨めしさうにトタン屋根のまぶしい反射を見上げて、かへりはひどく
用心ぶかく下りてきました。
……そのときむかうの出口から給仕さんがやつてきました。「お父さんがお呼びですよ」
……わたくしは何度も何度も熊のはうを見ながら、のこりをしさうにその扉の前の段段を上つてゆきました。
熊はねぶられたやうな眩しい目付をして一寸わたくしを見ましたが、なんだつまらないと云つた顔付で、また
むかうを向いて歩いて行きました。……
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
38 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:33:39 ID:lyBKhgIa
(中略)
あるときお父さんが大阪からかへつてきて夕食のときに申しました。
「あの仔熊は室垣さんとこへ払下げちやつたよ」
「まあ何につかふんでせう、まさか毛皮にするんぢやないんでせうね」とお母さんがいひました。(中略)
室垣さんといふのはお父さんの高等学校時代からのお友達で、温泉の会社をやつてゐました。その会社では
温泉地に宿屋なんぞを経営してゐるのださうで、そんなところへ仔熊は買はれて行つたものとみえます。
「こんどつから大阪行つてもつまんないな」とわたくしが言ひましたらお母さんは、
「熊の毛皮は冬ころしたんぢやないと毛がぬけてだめなんですつて」と別なことをいひ出しました。それをきくと
なんだかあの仔熊はどうしても皮をはがれなけりやならないやうな気がして来て可哀さうで御飯がたべられませんので、
水ばかりのんで流しこんでゐました。
お父さんは新聞に夢中になつて活字のうへにひとつごはん粒をこぼしました……。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
39 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:34:00 ID:lyBKhgIa
十二月のなかごろに室垣さんは久し振りにたづねてきました。そしてあしたから××といふ山の温泉へいきませうと
いひました。お正月もそこですごすつもりで、学校が早くお休みになつたわたくしはお父さんと室垣さんとで
さきに行き、妹や弟たちもお休みになつてから、お母さんといつしよにやつてくることになりました。(中略)
駅には宿の番頭さんや二、三人のひとが迎へに来てゐました。鈴蘭灯がつゞいてゐる町をぬけると、そのへんは
大へん静かでした。早くも梅のつぼみがふくらんでゐました。宿はまつしろい谷川をみおろして、古びた土橋の
よこにたつてゐました。
わたくしはお風呂にはひるまへに、熊をみにいきました。
「さあさあどうぞ、こちらですわ」とお女将さんが案内してくれました。いちど玄関においてお客さまにみせて
ゐたのですが、おびえてちゞこまつてばかりゐるので、人の少ないこつちの内庭へ、移したのだといつてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
40 :
大人の名無しさん:2011/01/08(土) 14:34:25 ID:lyBKhgIa
それは宿屋から渡り廊下でつゞいてゐるお女将さんたちの家の、ごく内輪な庭で、茶梅(ささんくわ)の白と
鴾(とき)いろの花が、落ちついた濃みどりの葉のあひだに、少しちりかけてゐました。文鳥がかつてありました。
三万を棟に囲まれた庭の隅に、営林局のころよりはずつとしやれた檻にいれられて熊はゐました。銅板に彫つた
トミィといふ名札がうちつけてあるところをみると、この仔熊も「トミィ君」になつたとみえます。わたくしが
トミィ、トミィや、と呼びますと、寄つてきて前とおんなじのクスンクスンフンフンをやりましたから、
かはいらしくてだつこしてみたくさへなりましたが、何分大へん大きくなつてゐてかみつかれる心配もなくは
なささうでした。
おかみさんは、
「オヤオヤはじめてン人には見向きもしないのにお坊ちやんばかりには大へんな甘つたれですわ」と云つてゐました。
わたくしがさいしよにそれを見たとき感じたのがほんとになつて、熊は首にまつ赤な絞りの首巻をしてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)15歳「仔熊の話」より
41 :
大人の名無しさん:2011/01/09(日) 20:39:10 ID:s3/rKAxl
祖母は神経痛のために風にあたるのを嫌つたので、障子は悉く閉め切られ、光は殆ど得られなかつた。
わたしは祖父のところへ行き、書籍をよみをはつたのをうかゞつて「おぢいさまはこんなに暖かいのに何故
こたつなんかに這入つていらつしやるの」と言ふと、祖父は小さく笑ひ乍ら私を見た。わたしは炬燵蒲団の上に
細々と砕けてこぼれてゐる正午に近い陽光を指さした。祖父とわたしとでゆつくりと庭へ下りる前にわたしは、
祖母の居間の障子をそうおつと明け放つた。風は草の葉を揺がす程もなく、祖母は徐ろに庭先を眺めた。そこには
新緑が春光に反射されて、さふあいやのやうな光を放ち、庭木は逞ましい腕をさしのべて蒼穹に向つて伸び
行きつゝあつた。その木の間に真赤なひらひらするものが、こまかい枝々をとほして見えた。祖母が何ときいたので、
山椿ですよ、と答へた。まあ、山椿! もう山椿が咲き出す時分になつたかねえ。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より
42 :
大人の名無しさん:2011/01/09(日) 20:41:13 ID:s3/rKAxl
わたしはその下に行つて、手頃な小枝を二三本手折つた。びろうどのやうな不透明な柔かさがしつとりと指先に
吸ひついた。――祖母は女中に一輪差を持つてこさして自分がさし、顔をそうーつと花のそばへ持つて行つた。
葩一枚一枚には、春光がすつかりしみ込んでゐた。祖母の面(おもて)は、眼(まなこ)は俄かに若々しくなり
再び一輪差の中からそれをとり出していつまでももてあそんだ。
祖父は涼亭(ちん)へ行つて了つたので、わたし一人芝生の上にとりのこされた。芝の匂ひはむせるやうに
激しくて、一匹の蟻がよたよたと嬰子のやうな恰好して歩いて来た。怪我をしてゐるらしかつた。わたしは急に
いとほしくなり、そうおつと掌にのせてやつて蠢(うご)めいてゐる小さな生物の生命のよろこびをたのしんだ。
祖父は涼亭の石段をことことと下りて来た。
平岡公威(三島由紀夫)13歳「春光」より
43 :
大人の名無しさん:2011/01/10(月) 17:27:31 ID:+bAOXv++
天地の混沌がわかたれてのちも懸橋はひとつ残つた。さうしてその懸橋は永くつづいて日本民族の上に永遠に
跨(またが)つてゐる。これが神(かん)ながらの道である。こと程さ様に神ながらの道は、日本人の
「いのち」の力が必然的に齎(もたら)した「まこと」の展開である。(中略)
神ながらの道に於ては神の世界への進出は、飛躍を伴はぬのである。そして地上の発展そのものがすでに神の
世界への「向上」となつてゐるのである。かるが故に「神ながらの道」は地上と高天原との懸橋であり得るのである。
神ながらの道の根本理念であるところの「まことごゝろ」は人間本然のものでありながら日本人に於て最も
顕著に見られる。それは豊葦原之邦(とよあしはらのくに)の創造の精神である。この「土」の創造は一点の
私心もない純粋な「まことごゝろ」を以てなされた。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
44 :
大人の名無しさん:2011/01/10(月) 17:27:56 ID:+bAOXv++
「まことごゝろ」は又、古事記を貫ぬき万葉を貫ぬく精神である。鏡――天照大神(あまてらすおほみかみ)に
依つて象徴せられた精神である。すべての向上の土台たり得べき、強固にして美くしい「信ずる心」であり
「道を践(ふ)む心」である。虚心のうちにあはされた澎湃(はうはい)たる積極的なる心である。かゝる
積極と消極との融合がかもしだしたたぐひない「まことごゝろ」は、又わが国独特の愛国主義をつくり出した。
それは「忠」であつた。忠は積極のきはまりの白熱した宗教的心情であると同時に、虚心に通ずる消極の
きはまりであつた。
かゝる「忠」の精神が「神ながらの道」をよびだし、又「神ながらの道」が忠をよびだすのである。かくて
神ながらの道はすべての道のうちで最も雄大な、且つ最も純粋な宗教思想であり国家精神であつて、かくの如く
宗教と国家との合一した例は、わが国に於てはじめて見られるのである。
平岡公威(三島由紀夫)16歳「惟神(かんながら)之道」より
45 :
大人の名無しさん:2011/01/11(火) 17:09:21 ID:OH8SWygy
まことに小鳥の死はその飛翔の永生を妨げることはできない。中絶はたゞ散歩者が何気なく歩みを止めるやうに
意味のない刹那にすぎない。喪失がありありと証ししてみせるのは喪失それ自身ではなくして輝やかしい存在の
意義である。喪失はそれによつて最早単なる喪失ではなく喪失を獲得したものとして二重の喪失者となるのである。
それは再び中絶と死と別離と、すべて流転するものゝ運命をわが身に得て、欣然輪廻の行列に加はるのである。
別離が抑(そもそも)何であらうか。歴史は別離の夥しい集積であるにも不拘(かかはらず)、いつも逢着として、
生起として語られて来たではないか。会者必離とはその裏に更に生々たる喜びを隠した教へであつた。
別離はたゞ契機として、人がなほ深き場所に於て逢ひ、なほ深き地に於て行ずるために、例へていはゞ、池水が
前よりも更に深い静穏に還るやうにと刹那投ぜられた小石にすぎない。それはそれより前にあつたものゝ存在の意義を
比喩としつゝ、それより後に来るものゝ存在を築くのである。即ち別離それ自体が一層深い意味に於ける逢会であつた。
私は不朽を信ずる者である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「別れ」より
46 :
大人の名無しさん:2011/01/14(金) 19:44:18 ID:1mXhZygk
ひとりひとりの胸にそんなにまで切ない憧れをのこして行つたかなしみは、その哀しみのゆゑに
はるかな、たとしへもなく美しい悔いを悼歌のやうにかなでた。だれが悔いる責を負ふ人で
あつたらう。さうした悔いのなかには、ねぎごとに似たふしぎな美しさが聳えだしたと、
そんな風に人はだれにむかつて云はう――。
三島由紀夫18歳「世々に残さん」より
年齢はいつも橋であると同時にそれの架る谷間でもある。昔の彼は谷底を見ずに飛越す。
今のエスガイは飛越さうとする時に谷底を見る。しかし可能性の限局ではないのだ。
エスガイは可能性の輪のなかへ入つたのだ。はじめて彼は可能性を己が所有とした。
昔の彼であつたなら、それを彼が、可能性の虜になつてゐる。としか信ぜぬやうな仕方で、
エスガイは輪へ踏み入ることにより、真に輪の外へ出るのではないのか。
三島由紀夫20歳「エスガイの狩」より
47 :
大人の名無しさん:2011/01/14(金) 19:49:35 ID:1mXhZygk
往時より、月を見て暮らした人、透視術に淫した人は、疲労困憊して狂気か死への途を
辿るといはれる。さやうな疲れは人間の能力を超えたものへの懲罰であり、同時に深く
人性の底に根ざした疲れである。
死すべき時は選びえずともどうして死所を選びえぬことがあらう。
三島由紀夫20歳「中世」より
夢想は私の飛翔を、一度だつて妨げはしなかつた。
夢想への耽溺から夢想への勇気へ私は出た。……とまれ耽溺といふ過程を経なければ
獲得できない或る種の勇気があるものである。
最早私には動かすことのできない不思議な満足があつた。水泳は覚えずにかへつて来て
しまつたものの、人間が容易に人に伝へ得ないあの一つの真実、後年私がそれを求めて
さすらひ、おそらくそれとひきかへでなら、命さへ惜しまぬであらう一つの真実を、私は
覚えて来たからである。
三島由紀夫20歳「岬にての物語」より
48 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:25:26 ID:GMwGFnwm
他者との距離、それから彼は遁れえない。距離がまづそこにある。そこから彼は始まるから。
距離とは世にも玄妙なものである。梅の香はあやない闇のなかにひろがる。薫こそは
距離なのである。しづかな昼を熟れてゆく果実は距離である。なぜなら熟れるとは距離だから。
年少であることは何といふ厳しい恩寵であらう。まして熟し得る機能を信ずるくらゐ、
宇宙的な、生命の苦しみがあらうか。
一つの薔薇が花咲くことは輪廻の大きな慰めである。これのみによつて殺人者は耐へる。
彼は未知へと飛ばぬ。彼の胸のところで、いつも何かが、その跳躍をさまたげる。
その跳躍を支へてゐる。やさしくまた無情に。恰かも花のさかりにも澄み切つた青さを
すてないあの蕚(うてな)のやうに。それは支へてゐる。花々が胡蝶のやうに飛び立たぬために。
三島由紀夫19歳「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」より
49 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:28:41 ID:GMwGFnwm
王子をゆりうごかした愛は、合(みあは)しせんと念(おも)ふ愛であつた。鹿が狩手の矢も
おそれずに牝鹿が姿をかくした谷間へと荊棘(いばら)をふみしだいて馳せ下りる愛であり、
つがひの鳩を死ぬまで森の小暗い塒(ねぐら)にむすびつける愛であつた。その愛の前に
死のおそれはなく、その愛の叶はぬときは手も下さずに死ぬことができた。王子も亦、
死が驟雨のやうにふりそそいでくるのを待つばかりである。どのみち徒らにわたしは死ぬ、
と王子は考へた。死をおそれぬものが何故罪をおそれるのか?
この世で愛を知りそめるとは、人の心の不幸を知りそめることでございませうか。
わが身の幸もわが身の不幸も忘れるほどに。
三島由紀夫21歳「軽王子と衣通姫」より
50 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:29:03 ID:GMwGFnwm
たとひ人の申しますやうに恋がうつろひやすいものでありませうとも、大和の群山(むらやま)に
のこる雪が、夏冬をたえずうつりかはりながら、仰ぐ人にはいつもかはらぬ雪とみえますやうに、
うつろひやすいものはうつろひやすいものへとうけつがれてゆくでございませう。
恋の中のうつろひやすいものは恋ではなく、人が恋ではないと思つてゐるうつろはぬものが
実は恋なのではないでせうか。
はげしい歓びに身も心も酔うてをります時ほど、もし二人のうちの一人が死にその歓びが
空しくなつたらと思ふ怖れが高まりました。二人の恋の久遠を希ふ時ほど、地の底で
みひらかれる暗いあやしい眼を二人ながら見ました。あなたさまはわたくし共が愛を
信じないとてお誡(いまし)め遊ばしませうが、時にはわれから愛を信じまいと
力(つと)めたことさへございました。せい一杯信じまいと力めましても、やはり恋は
わたくし共の目の前に立つてをりました。
三島由紀夫21歳「軽王子と衣通姫」より
51 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:29:30 ID:GMwGFnwm
わたくし共の間にはいつも二人の仲人、恋と別れとが据つてをります。それは一人の仲人の
二つの顔かとも存ぜられます。別れを辛いものといたしますのも恋ゆゑ、その辛さに
耐へてゆけますのも恋ゆゑでございますから。
自在な力に誘はれて運命もわが手中にと感じる時、却つて人は運命のけはしい斜面を
快い速さで辷りおちつゝあるのである。
女性は悲しみを内に貯へ、時を得てはそれを悉く喜びの黄金や真珠に変へてしまふことも
できるといふ。しかし男子の悲しみはいつまで置いても悲しみである。
凡ては前に戻る。消え去つたと思はれるものも元在つた処へ還つて来る。
三島由紀夫21歳「軽王子と衣通姫」より
52 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:48:28 ID:GMwGFnwm
接吻をしようと決心した男が、恋文ひとつ書く勇気もないといふことほど滑稽な矛盾が
あらうかしら。事実僕は、小説を読んでも、一人の蕩児が手れん手くだを用ひて遂に女を
ものにする筋より、夢のやうな衝動に襲われた女が見も知らぬ男の頸にすがりつくやうな
場面の方に惹かれがちな年頃であつた。
小説の主人公は一度はかならずさういふ女にめぐりあつて仮の契を結ぶ。しかし実際の
人生で、男がまづめぐりあふ女は、そんな女であることは滅多にないのだ。若い女は
自分の清純をこそねがへ、相手の男の清純をそれほどねがひはしない。これは当然でもあり、
矛盾でもある。
三島由紀夫21歳「恋と別離と」より
お嬢さん方、詩人とお附き合ひなさい。何故つて詩人ほど安全な人種はありませんから。
三島由紀夫22歳「接吻」より
「彼女の死を選択したことは、よく考へてみると、俺自身の死を選択したことでもあつたのだ。
人生よ、さらば!」
――つまりこれが失恋自殺といふ奴である。
三島由紀夫22歳「哲学」より
53 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:49:34 ID:GMwGFnwm
やさしい心根をもつゆゑに、人の冷たい仕打にも誠実であらうとする。誠実は練磨された。
ほとんど虚偽と見まがふばかりに。
事件といふものは見事な秩序をもつてゐるものである。日常生活よりもはるかに見事な。
三島由紀夫20歳「サーカス」より
美しい女と二人きりで歩いてゐる男は頼もしげにみえるのだが、女二人にはさまれて
歩いてゐる男は道化じみる。
三島由紀夫22歳「春子」より
若い女といふものは誰かに見られてゐると知つてから窮屈になるのではない。ふいに体が
固くなるので、誰かに見詰められてゐることがわかるのだが。
三島由紀夫22歳「白鳥」より
54 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:53:41 ID:GMwGFnwm
抑々(そもそも)人間性の底には或るどうにもならない清純さが存在するのであります。
古代人がこれについて深く思ひを致したならば恐らく神性と名付けるでありませう。
かゝる清純さは、本能的なもの無意志的なものと固く結びついてをるのでありまして、
或る時は社会的拘束の凡て、――就中(なかんづく)道徳的準縄の凡てをも、やすやすと
超越し逸脱し得るやうに考へらるゝのであります。さればこそそれは恒常の人間生活の
評価の前に立つ時、殆んど清純と反対の評語――邪悪、破廉恥、厚顔、淫乱、等の汚名をば
浴びせらるゝことを寡(すくな)しとしませぬ。
実に純粋とは、青春の苦役でもあるのであります。
三島由紀夫21歳「贋ドン・ファン記」より
55 :
大人の名無しさん:2011/01/16(日) 11:54:11 ID:GMwGFnwm
あの慌しい少年時代が私にはたのしいもの美しいものとして思ひ返すことができぬ。
「燦爛とここかしこ、陽の光洩れ落ちたれど」とボオドレエルは歌つてゐる。「わが青春は
おしなべて、晦闇の嵐なりけり」。少年時代の思ひ出は不思議なくらゐ悲劇化されてゐる。
なぜ成長してゆくことが、そして成長そのものの思ひ出が、悲劇でなければならないのか。
私には今もなほ、それがわからない。誰にもわかるまい。老年の謐かな智恵が、あの秋の末に
よくある乾いた明るさを伴つて、我々の上に落ちかゝることがある日には、ふとした加減で、
私にもわかるやうになるかもしれない。だがわかつても、その時には、何の意味も
なくなつてゐるであらう。
三島由紀夫21歳「煙草」より
56 :
大人の名無しさん:2011/01/17(月) 12:31:42 ID:lqdL3Gwd
われらが一ト度幸福のなかへ入ると、何をしようと幸福の方でわれらを捕へて放さぬやうに
みえる。しかしわれらの意識せぬ別の力が、いつのまにかわれらを幸福から放逐して
くれるのである。
花には心がある。万象の心の中でも人の心に最も触れやすい心は之である。人が花を
愛づる時、花がなぜその愛に応へ得ぬことがあらう。花の愛は人に愛の誠を教へた。
女には婦徳を、男には平和を。光源氏が世にありし頃、女はなほ花と分ちがたい名を
持ち心を持つてゐた。恋歌は花をうたふ風体の上乗なるものであつた。しかも四時の花は
天候や季節に左右されることなく、極寒の梅も手に触るればあたゝかに、大暑の百合も
人の心に涼風を通はす。
三島由紀夫20歳「菖蒲前」より
57 :
大人の名無しさん:2011/01/17(月) 12:32:09 ID:lqdL3Gwd
否、所謂(いはゆる)花の心は花にもなく人にもない。花を見、且つは触れ、且つは
そを愛でて歌詠む時、人の魂はあくがれ出で花のなかへはひつてゆく。花へはひつた人の心は
水に映れる月のやうに、漣が来れば砕けるが月が傾けば影も傾く。その間に目に見えぬ
糸があり、月と潮の満干のやうな黙契があると思ふのは、誤ち抱いた妄想にすぎぬ。
人の心が人の心のまゝになることに何の不思議があらう。鏡の影が像の儘(まま)に
動くとてなど怪しむことやある。花の心は人の心の分身である。人の心が立去るとき
花にも心は失はれる。
苦しみをはじめて得た人はなほその苦しみを味方に引入れて共に住むことを知らない。
その敵たらんと好んで力(つと)め、苦しみは益々耐へがたいものになる。
三島由紀夫20歳「菖蒲前」より
58 :
大人の名無しさん:2011/01/17(月) 19:45:33 ID:lqdL3Gwd
中世欧羅巴(ヨーロッパ)の騎士たちは戦争のみならず日常生活の随所に織り込まれる
決闘によつてたえず生命の危険にさらされてゐた。それは古今東西変はらない女たるものの
天賦の危険、即ち貞操の危険と相頡頏するものであつた。つまり男女の危険率が平等であつたのだ。
さういふ時、女は自分の貞操を、男が自分の生命を考へるやうに考へただらうと思はれる。
貞操は自分の意志では守りがたいもので、運命の力に委ねられてゐると感じたに相違ない。
また貞操は貞操なるが故に守らるべきものではなく、それ以上の目的の為には喜んで
投げ出されるべきであつた。と同時に、男がつまらない意地や賭事に生命を弄ぶことが
あるやうに、女もそれ以外に賭ける財産がないではないのに、一番見栄えのする貞操を、
軽い手慰みに賭けて悔いないこともあつたにちがひない。その勇敢、その勇気が、かくして
時には異様に荘厳な光輝を放つたことがあつたかもしれない。……
余裕は反省を絞め殺してしまふものだ。
三島由紀夫22歳「夜の仕度」より
59 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 11:58:09 ID:lonBdGjk
極端に自分の感情を秘密にしたがる性格の持主は、一見どこまでも傷つかぬ第三者として
身を全うすることができるかとみえる。ところがかういふ人物の心の中にこそ、現代の
綺譚と神秘が住み、思ひがけない古風な悲劇へとそれらが彼を連れ込むのである。彼の
固く閉ざされた心の暗室は、古い物語にある古城や土牢の役割をつとめる。彼と他人との
間の心の溝は、古(いにし)への冒険者が泳ぎわたつた暗い危険な堀割ともなるであらう。
外的な事件からばかり成立つてゐた浪漫的悲劇が、その外的な事件の道具立を失つて、
心の内部に移されると、それは外部から見てはドン・キホーテ的喜劇にすぎなくなつた。
そこに悲劇の現代的意義があるのである。
確信がないといふ確信はいちばん動かしがたいものを持つてゐる。
三島由紀夫「盗賊」より
60 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 11:58:30 ID:lonBdGjk
男には屡々(しばしば)見るが女にはきはめて稀なのが偽悪者である。と同時に真の偽善者も
亦、女の中にこれを見出だすのはむつかしい。女は自分以外のものにはなれないのである。
といふより実にお手軽に「自分自身」になりきるのだ。宗教が女性を収攬しやすい理由は
茲(ここ)にある。
彼は年齢の効用を弁へてゐなかつた。女の心に全く無智な者として振舞ひながらその心に
触れてゆくやり方は青年の特権であるべきなのに。
愛といふものは共有物の性質をもつてゐて所有の限界があいまいなばかりに多くの不幸を
巻き起すのであるらしい。彼は虔(つつ)ましく自分の愛だけを信じてゐるつもりだつた。
かくしてしらぬまに、彼が美子の中に存在すると仮定してゐる彼への愛の方を、もつと
多量に信じてゐたのだ。
ある人にあつては独占欲が嫉妬をあふり、ある人は嫉妬によつて独占欲を意識する。
三島由紀夫「盗賊」より
61 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 11:58:45 ID:lonBdGjk
嫉妬こそ生きる力だ。だが魂が未熟なままに生ひ育つた人のなかには、苦しむことを知つて
嫉妬することを知らない人が往々ある。彼は嫉妬といふ見かけは危険でその実安全な感情を、
もつと微妙で高尚な、それだけ、はるかに、危険な感情と好んですりかへてしまふのだ。
我々が深部に於て用意されてゐる大きな変革に気附くまでには時間がかかる。夢心地の裡に
汽車を乗りかへる。窓の外に移る見知らぬ風景を見ることによつてはじめて我々は汽車を
乗りかへたことに気附くのである。……さうした意味の風景を今彼は見てゐるのではなからうか。
それは直接にのぞくよりも、もつと的確に内部をのぞかせる。否彼が見てゐるのは彼の
内部に他ならぬかもしれないのだ。
ある動機から盗賊になつたり死を決心したりする人間が、まるで別人のやうになつて
了ふのは確かに物語のまやかしだ。むしろ決心によつて彼は前よりも一段と本来の彼に
立還るのではないか。
三島由紀夫「盗賊」より
62 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 11:59:00 ID:lonBdGjk
死を人は生の絵具を以てしか描きだすことができない。生の最も純粋な絵具を以てしか。
たとひ自殺の決心がどのやうな鞏固(きようこ)なものであらうと、人は生前に、一刹那でも
死者の眼でこの地上を見ることはできぬ筈だつた。どんなに厳密に死のためにのみ
計画された行為であつても、それは生の範疇をのがれることができぬ筈だつた。してみれば、
自殺とは錬金術のやうに、生といふ鉛から死といふ黄金を作り出さうとねがふ徒(あだ)な
のぞみであらうか。かつて世界に、本当の意味での自殺に成功した人間があるだらうか。
われわれの科学はまだ生命をつくりだすことができない。従つてまた死をつくりだすことも
できないわけだ。生ばかりを材料にして死を造らうとは、麻布や穀物やチーズをまぜて
三週間醗酵させれば鼠が出来ると考へた中世の学者にも、をさをさ劣らぬ頭のよさだ。
三島由紀夫「盗賊」より
63 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 11:59:14 ID:lonBdGjk
皮肉な微笑は、かへつて屡々(しばしば)純潔な少女が、自分でもその微笑の意味を
知らずに、何の気なしに浮かべてゐることがあるものだ。
いかに純潔がそれ自身を守るために賦与した苦痛の属性が大きからうと、喜びの本質を
もつた行為のなかで、その喜びを裏切ることが出来るだらうか。清子が無知だからといふ
ことは言訳にならない。無知はこのやうな時にこそ本然の智恵のかがやきを放つ筈だ。
手を握られた清子の眉にあらはれたのは、前よりも確実な、およそ喜びのもたらす苦痛とは
縁のない苦痛だつた。もつとも端的に男の矜りを傷つけるやうな苦痛だつた。
周囲の人々は明秀をがんじがらめにしてゐるつもりで、彼の形骸をがんじがらめにして
ゐるのだつた。彼は別の場所に立つて、彼の宿命を彼自身の手で選んだのである。いはば
人は死を自らの手で選ぶことの他に、自己自身を選ぶ方法を持たないのである。生を
選ばうとして、人は夥しい「他」をしかつかまないではないか。
三島由紀夫「盗賊」より
64 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 16:25:03 ID:lonBdGjk
自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を
自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは
紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。――生きて
ゆかうとする常人は、自己の理解しうる限界にαを加へたものとして死を了解する。
このαは単なる安全弁にすぎないのだが、彼はそこに正に深淵が介在するのだと思つてゐる。
むしろ深淵は、自殺しようとする人間の思考の浮薄さと浅墓さにこそ潜むものかもしれないのに。
人間の想像力の展開には永い時間を要するもので、咄嗟の場合には、人は想像力の貧しさに
苦しむものだつた。直感といふものは人との交渉によつてしか養はれぬものだつた。
それは本来想像力とは無縁のものだつた。
私は生きてゐるうちはあの人を愛することを止めることはできません。この愛の貴重さが
はつきりとわかるだけに、私はもう、生きてゐることの夥しい浪費に耐へられなくなりました。
死といふことは生の浪費ではありませんわね。死は倹(つま)しいものです。
三島由紀夫「盗賊」より
65 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 16:25:29 ID:lonBdGjk
「何のために生きてゐるかわからないから生きてゐられるんだわ」――彼女は寧ろ
かう言ひたかつたのだ。『私と藤村さんとは何のために生きてゐるかはつきり知つて
しまつたから死ぬのだが、もしかしたらそれが現在の刻々を一番よく生きてゐる生き方かも
しれない』と。
ふと目をあげて明秀が見たのは、柔らかに白い清子の咽喉元だ。さすがに明秀も胸の
をのゝきを止めえなかつた。清子に別れに来たあの日、彼はそれを美しと見たではないか。
解けない算術を彼は繰り返した。その白い咽喉+銀の短刀。それが=血潮と死、といふ風に
どうしてならうか。白と銀とからいかにして赤が生れえよう。彼女はこの算術を誤つたのでは
なからうか。
勝気な眉をあげて清子は明秀の愕いた様子をにこやかに眺めてゐた。彼女は殉教者のやうに
矜り高くみえた。彼女のなかには明秀が今まで知らずにゐたもう一つの建築が聳えだした。
夕日の地平線にけだかい伽藍が立ち現はれて来るやうに。
三島由紀夫「盗賊」より
66 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 16:25:52 ID:lonBdGjk
清子をしてこのやうな優雅な凶器を自分の咽喉へあてがはうとさせた殆ど原始的な諸力こそ
明秀が冀(こひねが)ひ待ち希んでゐたものではなかつたか。その力を何の気なしに
すらすらと己が身に宿してゐる清子その人が、彼には嫉(ねた)ましくさへ思はれた。
所詮清子は女なのだ。何気なく何物かを宿し、その宿したものに対して忠実なのは女だ。
彼女の矜りの表情は彼女の知らないところに由来してゐる。
夏は、退屈な近代人に僅かながら物語的な熱情をよびさます。一時の仮のそれにせよ、
別離は物語的感情である。もう一寸のところで可能になりさうな事柄を可能にして
くれる作用が潜んでゐるやうに感じられる。
必要に迫られて、人は孤独を愛するやうになるらしい。孤独の美しさも、必要であることの
美しさに他ならないかもしれないのだ。
三島由紀夫「盗賊」より
67 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 16:26:20 ID:lonBdGjk
地球といふ天体は喋りながらまはつてゐる月だつた。喋りつづけてゐるおかげで、人間は
地球がもうすつかり冷却して月とかはりなくなつてゐることに気附かない。しかも
地球といふ天体は洒落気のある奴で、皆が気附かなければそれなりに、そしらぬ顔をして
廻りつづけてゐるのだつた。
彼らがひつきりなしに喋つてゐるのも、畢竟、生からのがれようとしての悪あがきだ。
彼らは正に生きてゐる。しかもたえず生の偸安をしか思ひめぐらさない。生を避けることに
よつて生に媚態を呈してゐるこんな生き方は、時としてあの古代の牧歌に歌はれた少女の
媚態のやうに、うひうひしく美しく見えることがないではない。
決して生をのがれまいとする生き方は、自ら死へ歩み入る他はないのだらうか。生への
媚態なしにわれわれは生きえぬのだらうか。丁度眠りをとらぬこと七日に及べば死が
訪れると謂はれてゐるやうに、たえざる生の覚醒と生の意識とは早晩人を死へ送り込まずには
措かぬものだらうか。
莫迦げ切つた目的のために死ぬことが出来るのも若さの一つの特権である。
三島由紀夫22歳「盗賊」より
68 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 22:09:17 ID:lonBdGjk
少年といふものが彼らの年齢特有の脆弱さを意識して反対の「粗雑さ」に憧れる傾向を、
亘理は冷眼視してゐるやうに思はれるのだつた。彼はむしろ脆弱さを守らうとしてゐた。
自分自身であらうとする青年は青年同士の間で尊敬される。しかし自分自身であらうと
する少年は少年たちの迫害に会ふのである。少年は一刻でも他の何物かであらうと
努力すべきであつた。
三島由紀夫23歳「殉教」より
下手な恋文しか書けない人に、『恋文を書く必要がない』といふ幸福を一生あたへ
つづけること、それが結婚生活といふものなのですからね。
男は女と別れたら、よし御夫婦でも、女を自分の『昔の女』とか『別れた妻』とか
『昔の恋人』とかいふ別の新鮮な偶像に仕立てて、そのコッピーをちやんと自分のところに
とつておかうとする甘つたるい欲望から脱けきれないものです。
三島由紀夫22歳「親切な男」より
不安は奇体に人の顔つきを若々しくする。
三島由紀夫23歳「毒薬の社会的効用について」より
69 :
大人の名無しさん:2011/01/20(木) 22:10:34 ID:lonBdGjk
女を知らない体がどうして不幸なものですか。わたしの体を知つた男はみんな不幸になる
ばかりだわ。わたしお兄様をお可哀想になんて言へないことよ。
三島由紀夫22歳「家族合せ」より
精力はともすると物憂げな外見を装ひたがるものである。
同情といふ感情は一種の恐怖心で、自分に大して関係のないものが関係をもちさうに
なるのを惧(おそ)れるあまり、先手を打つて、同情といふ不良導体でつながれた関係を
もたうとする感情だ。
事件といふものが一種の古典的性格をもつてゐることは、古典といふものが年月の経過と
共に一種の事件的性格を帯びるのと似通つてゐる。事件も古典と同じやうに、さまざまの
語り変へが可能である。
三島由紀夫24歳「親切な機械」より
どんな卑近な情熱でも、そこには何らかの自己放棄を伴ふものだ。
良心は人を眠らせないが、罪は熟睡させるのである。
三島由紀夫24歳「孝経」より
70 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:37:06 ID:dlMp/9oM
絶望は卑怯な方法である。目前の不幸なり困難なりにぶつかつて絶望するとき、人は
もし絶望しなかつたら更にぶつかつたであらう一層大きな不幸や困難から身を守るのだ。
絶望する者は結局、不幸や困難を愛することを知らないのだ。そして絶望と妥協した範囲だけの
不幸や困難を愛するのだ。そのとき彼は、絶望そのものにだけは絶望しえない自分を
見出だすだらう。なぜなら絶望といふ前提をとり除いたら彼の現在の存在理由はなく、
また同時に絶望によつてしか現在の存在理由を失はしめえないと考へるとき、彼は新たな
第二の絶望のために何らかの行動の原理をたのまざるをえないだらう。それが他ならぬ
希望ではあるまいか。
この世のありとあらゆる不幸と困難を心から愛し、あらゆる不幸と困難に対して扉を
とざすことのないものこそ、希望と憧憬、この生への意慾の二つの美しい支柱である。
人間もまた向日葵のやうにたえず太陽のはうへ顔を向けてゐたいと希ふものだ。夜のあひだ
向日葵は夢みてゐる。それは夜になれば太陽の光が彼の内面にだけ差し入つて来るからだ。
三島由紀夫「人間喜劇」より
71 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:37:32 ID:dlMp/9oM
目前の汚れた小さな水たまりに目を奪はれて、お前も海の水の青さを疑つてはならないぞ。
どんな世の中にならうとも、女の美しさは操の高さの他にはないのだ。男の値打も、
醜く低い心の人たちに屈しない高い潔らかな精神を保つか否かにあるのだ。さういふ
磨き上げられた高い心が、結局永い目で見れば、世のため人のために何ものよりも役立つのだ。
人の心はいつかは太陽へ向ふやうに、神がお定め下すつたのだからな。
不幸や悲しみの滅びないことを信じる人だけが、幸福も滅びないことを知ることができる
わけなのね。
何もかも失くした時こそ、何もかも在りうる時なのです。
人が自分のことでない喜びをよろこんでゐる表情ほど美しいものはありませんね。
三島由紀夫「人間喜劇」より
72 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:37:58 ID:dlMp/9oM
自分の不幸だけを忘れようとするのは烏滸(をこ)のわざですよ。もしあなたが不幸に
会はれたら世界中の不幸を忘れてしまふ覚悟をなさることです。私のことなんぞ当分
お考へになるには及びません。又いつかきつとお考へになる時は来るのですから。そして
一旦世界中の不幸を忘れる必要に迫られた人だけが、世界中の不幸の慰め手になることが
できるのです。それを不幸への愛と呼びませうかね。愛するためにはまづ忘れることが必要です。
あなたは希望をお忘れにならぬ。これは若い人として美しいことです。しかし希望を
お忘れになつたときに、あなたの希望への愛も本当に生きてくるでせう。それは絶望を
忘れた人の、絶望への愛と似通つて来ます。ともかくお生きなさい。そしてお忘れなさい。
それが愛するといふことです。
どんな世の中が来ようとも誠実と愛とは貴く、情熱は美しいものだと頑固に疑はない。
そのどれもが人間にだけ出来るものなのだから。
三島由紀夫23歳「人間喜劇」より
73 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:38:36 ID:dlMp/9oM
郁子の死は法会に集つた人々の心のなかに広野の景観に似たゆたかな眺めを与へはじめてゐた。
死といふ事実は、いつも目の前に突然あらはれた山壁のやうに、あとに残された人たちには
思はれる。その人たちの不安が、できる限り短時日に山壁の頂きを究めてしまはうと
その人たちをかり立てる。かれらは頂きへ、かれらの観念のなかの「死の山」の頂きへ
かけ上る。そこで人たちは山のむかうにひろがる野の景観に心くつろぎ、あの突然目の前に
そそり立つた死の影響からのがれえたことを喜ぶのだ。しかし死はほんたうはそこからこそ
はじまるものだつた。死の眺めはそこではじめて展(ひら)けて来る筈だつた。光に
あふれた野の花と野生の果樹となだらかな起伏の景観を、人々はこれこそ死の眺めとは
思はず眺めてゐるのだつた。
三島由紀夫23歳「罪びと」より
74 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:47:42 ID:dlMp/9oM
繁子は明けがたまでこの二つの床のどちらにも落着けず、たえず枕と寝床とをとりかへながら
眠りを待つた。しかし一人で二つの床に寝ることはだれにもできない。目をさまして繁子が
毎朝かたはらに見出すものが、寝乱れた、しかも墓のやうに冷たく空しい「もう一つの床」で
あつても致方はなかつた。
不快な予感のやうな目覚めである。朝は怖ろしかつた。それは病人にとつての夜のやうな
朝だつた。繁子は残酷な忌はしい夢からさめた。口の中が血の匂ひでいつぱいのやうに
感じられた。悪夢の中の流血の印象が口にのこつたのではあるまいか。さうではなかつた。
月のもののその日には、繁子はさういふ感じがして目をさますのが常だつた。その日一日は
何を喰べても血の味がした。
――引揚の酸鼻な光景を目にして以来、自分の部屋には赤いものを一切置かせぬほど
過敏になつた繁子なのに、夢の中での流血は容赦もなかつた。奉天で際会した終戦から
内地へかへるまでの異様な情景を、夢は執拗にくりかへした。
三島由紀夫「獅子」より
75 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:47:58 ID:dlMp/9oM
八月末にソヴィエトの軍隊が入つて来た。(中略)寿雄夫妻は親雄を抱いて安奉線に乗つて引き揚げの旅についた。
その列車が匪賊に襲はれたのが、宮原といふ駅の附近だ。逃げ場を失つた乗客たちは、
荒野のそこかしこに水を湛へてゐる窪地へ下りた。それらの沼には葦に似て丈の高い草が
群生して水面一米突(メートル)の叢を諸所に浮かべてゐるので、水に体をひたせば
身は隠せた。(中略)
沼は依然森閑としてゐた。しかしおそらく水面から首だけ出してゐた数人の死傷者は声を
立てるひまもなしに沈んだのである。五十米足らず離れた向うの叢から荒い波紋がひろがり、
そのあたりの水が紅潮したのでもそれがわかる。雨に濡れた煉瓦の色だ。――そのとき
沼の遠い周辺に三四人の狙撃兵が姿をあらはした。次の銃声のまへに笑ひ声に似た鋭い悲鳴が
遠くで起つた。こんな風にして鴨猟のスポーツが、それこそ本物の阿鼻叫喚がはじまつた。
襲撃がをはつて、朝まだきに走り出した列車の一隅に腰を下ろして、あの惨劇の行はれた
沼沢地のかがやきを背後に見たとき繁子は失神した。
三島由紀夫「獅子」より
76 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:48:24 ID:dlMp/9oM
彼は何らかの情熱が働らかないところではおそろしく不手際になる男だつた。繁子に
冷たくなるにつれて彼の不手際な一面が押し出されて来るので、繁子はむしろさういふ
八方破れの彼に愛を感じだした。それは矛盾にみちた悲劇的な愛だつた。彼の巧みな
手れん手くだに乗ぜられた女が、やがて彼の愛が冷め、その冷めた愛を糊塗しようとする
彼の手くだの巧みさを見たとしたら、おそらく興ざめて別離はたやすくなるにちがひない。
しかし愛の冷却に伴ふさまざまな困難を一つとして切抜けかねる彼の意外な不器用さが、
女のなかに母性的な別種の愛をめざめさせ、それがますます別離を困難にすることは
ありうることだ。
嫉妬は透視する力だ。
「君にとつて大事なことは僕が恒子さんを愛してゐるかどうかといふ問題だらう。それに
比べれば一緒の宿に泊つたといふ事実が一体何だらう」
「愛の問題ではないのです。女には事実のはうがもつと大切です」
三島由紀夫「獅子」より
77 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:48:42 ID:dlMp/9oM
「…奥さん、あなたの悩みも亦季節のやうなものであります。烈しい夏のやうなものです。
夏の日照が秋の稔りを約束します。そして稲の一ト穂一ト穂は、自分一人がさうした
烈しい日光に焼かれてゐると思つてゐるが、実は誰もがさうなのです。この季節の中では
人は凡て不幸になります。あなたの悩みもその稔りある不幸の一つの形にすぎないのです」
「でもこの苦しみは私のものです。他の誰のものでもありません」
「御自分の苦しみをそんなに大事にしてはなりません」
「それは私に『生きてゐる勿(な)』と仰言ることでございます」
皮肉は何といふ美味なつまみものであらう。殊に酒精分の強い洋酒の場合は。
凡て悪への悲しげな意慾が完全に欠如してゐるこのやうな人間、(それこそ悪それ自体)が
地上から滅び去るとはどんなによいことであらう。さういふ善意が滅びることは、どれほど
地上の明るさを増すことだらう。
三島由紀夫「獅子」より
78 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:50:10 ID:dlMp/9oM
椅子から体がずり落ちて床に倒れた。生きてゐる間は巧く隠し了せてゐたこの女の地声が
いよいよ聴かれるのだ。それはゲエといつたりウーフといつたりウギャアといつたりする
声である。乳房や頬や胴を猫のやうに椅子の脚や卓の脚にすりつける。顔に塗りたくつた
真蒼な白粉が彼女によく似合ふ。彼女は頭を怖ろしい音を立てて床へぶつける。白い太腿が
蜘蛛のやうな動きで這ひまはつてゐる。そこにじつとりとにじみ出た汗は、目のさめる
やうな平静さだ。
――彼女と卓一つへだてて彼女の父も、熱心に同じ踊りを踊り狂つてゐるのだつた。彼の
呻き声は笑ひ声と同様に無意味である。「苦悩する人」といふ凡そ場ちがひの役処を彼が
引受けてゐるのは気の毒だ。仔犬のやうな目を必死にあいたりつぶつたりしてゐるが、
一体何が見えるといふのか。彼自身の苦悩でさへもう見えはせぬ。彼は口から善意の
固まりのやうな大きな血反吐をやつとのことで吐き出して眠りにつく。さうでもしなければ
安眠できまいといふことを彼はやうやく覚つたのである。
――繁子は毒の及ぼす効力をこのやうにまざまざと想像することができた。
三島由紀夫「獅子」より
79 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 11:52:09 ID:dlMp/9oM
「良人を苦しめる」といふことが、いつしかその原因も目的も忘れられて、彼女にとつては
生れながらにもつてゐた一つの思考のやうに思はれた。だからそれは容易に彼女の自己抛棄を
可能にした。道徳的な顧慮も亦、きはめて愛とよく似た構造をもつこの自己抛棄の前に
崩れ去つた。良人を苦しめるためになら、彼女自身のあらゆる喜び(そのなかには良人から
何らかの形で今尚享けてゐる喜びも入るのだが)を犠牲にしても悔いてはならない。
それは一種の道徳律に似てゐるのだ。なぜならそれは平気で彼女の本然の欲求を踏み躙つて
ゆくからだつた。
しかしこのやうな繁子の不埒な生き方は、見やうによつては最も危険のすくないそれかも
しれぬのである。危険なのは「幸福」の思考ではあるまいか。この世に戦争をもたらし、
悪しき希望を、偽物の明日を、夜鳴き鶏を、残虐きはまる侵略をもたらすものこそ
「幸福」の思考なのである。繁子は幸福には目もくれなかつた。その意味で彼女は
もう一つの高度の安寧秩序に奉仕してゐたのかもしれなかつた。
三島由紀夫23歳「獅子」より
80 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 16:59:33 ID:dlMp/9oM
待つといふ感情は微妙なものです。それは人の生活に、落着かない不満足な感じと同時に、
待つことそれ自身の言ふにいはれぬ甘美な満足をもたらすからです。
明日の遠足がよいお天気であるやうにとねがふ子供は、その明日がお天気であつただけで、
もはや遠足そのものの与へる愉しみの十中八九を味はひつくしてゐるのです。よいお天気の
朝を見ただけで、彼の満足の大半は、成就されたも同じことです。
仏の花を買ひにゆくといふ殊勝な用事を彼にうちあけることが、私には何故かしら
嬉しかつたのです。私は悪戯をする子供の気持よりも、修身のお点のよいことをねがふ
子供の気持のはうが、ずつと恋心に近いことを知るのでした。まして恋といふものは、
そつのない調和よりも、むしろ情緒のある不釣合のはうを好くものです。
三島由紀夫23歳「不実な洋傘」より
81 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 17:03:25 ID:dlMp/9oM
女が生活に介入してくることによつて、人は煩瑣(はんさ)を愛するやうになる。
男女関係は或る意味では極めて事務的なたのしみだ。
男を事務的な目附で眺めることができるのは既婚の女の特権である。公私混同には
持つてこいの特権だ。
幸福の話題は罪のやうに人を疲らせる。
悪徳の虚栄心が悪徳そのものの邪魔立てをする。「魂の純潔」なるものを保たせようと
するならば、少くとも青年には、美徳の虚栄心よりも悪徳の虚栄心の方が有効なのである。
曇つた空を見てゐると、人間の習慣とか因襲とか規則とかいふものはあそこから落ちて
来たのではないかと思はれるのである。曇つた日は曇つた他の日と寸分ちがはない。
何が似てゐると云つて、人間の世界にはこれほど似てゐるものはない。人はこんな残酷な
相似に耐へられたものではない。
三島由紀夫「慈善」より
82 :
大人の名無しさん:2011/01/21(金) 17:03:51 ID:dlMp/9oM
いちばん高貴で美しい「忘却」といふ作用がいちばん醜くて愚劣な「習慣」といふ作用と
いつも結びついてゐること以上の不合理はない。
戦争が道徳を失はせたといふのは嘘だ。道徳はいつどこにでもころがつてゐる。しかし
運動をするものに運動神経が必要とされるやうに、道徳的な神経がなくては道徳は
つかまらない。戦争が失はせたのは道徳的神経だ。この神経なしには人は道徳的な行為を
することができぬ。従つてまた真の意味の不徳に到達することもできぬ筈だつた。
絶対に無道徳な貞節といふものが可能ではあるまいか。絶対に道徳を知らないで道徳に
奉仕することができはすまいか。無道徳といふ無限定が、その無限定のために、やすやすと
不徳乃至(ないし)道徳といふ限定に包まれうるものならば、象が大きすぎるといふ理由で
鼠に負けるならば。
三島由紀夫23歳「慈善」より
83 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:07:48 ID:SGg1wRyI
不吉な宝石によつて投げかけられる凶運の翳といふものを人々はもはや信じまい。尤も
さういふ不信が現代の誤謬でないとは誰も言へまい。現代人は自分の外部に、すべて内部の
観念の対応物をしかみとめない。宝石などといふ純粋物質の存在をみとめない。しかし
人間の内部と全く対応しない一物質を、古代の人たちは物質と呼ばずに運命と呼んだのでは
なからうか。精神のうちでも決して具象化されない純粋な精神が、外部に存在して、
ただ一つの純粋物質としてわれわれの内部を脅やかすに至つたのではあるまいか。
死、生、社会、戦争、愛、すべてをわれわれは内部を通じて理解する。しかし決して
われわれの内部を通過しないところの精神の「原形」が、外部からただ一つの純粋物質として
われわれを支配するのではあるまいか。ともすると宝石は、精神の唯一の実質ではなからうか。
三島由紀夫「宝石売買」より
84 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:08:40 ID:SGg1wRyI
報いとは何だらう。そんなものがあつてよいだらうか。報いといふ考へ方は、いま悪果を
うけてゐる者が、むかしの悪因の花々しさに思ひを通はす、殊勝らしい身振にすぎぬではないか。
貴族とは没落といふ一つの観念を誰よりも鮮やかに生きる類ひの人間であつた。たとへば
「出世」といふ行為を離れてはありえぬ「出世」といふ観念を人は純粋に生きることが
できないが、そこへゆくと、没落といふ観念はもともと没落といふ行為とは縁もゆかりも
ないものなのである。没落を生きてゐるのではなく、「失敗した出世」を生きてゐることに
ならう。没落といふ観念を全的に生きるためには、決して没落してはならなかつた。
落下の危険なしにサーカスは考へられないが、本当に落ちてしまつたらそれはもはや
サーカスではなくて、一つの椿事にすぎないのと同じやうに。
三島由紀夫「宝石売買」より
85 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:08:54 ID:SGg1wRyI
女性のもつ人道的感情はきはめて麗はしいもので、多くの場合、審美的でさへあるのである。
「素敵な指環ですね」――指環に見入つてゐる彼の顔を何の気なしに見上げた久子は、
それかあらぬか、居たゝまれない羞恥を感じた。女の宝石をほめるのは、面と向つて
その体をほめるやうなものではなからうか。宝石への誉め言葉が時あつてふしぎな官能の
歓びを女に与へるのはそのためだ。
この青年が持してゐる幸子の男友達にふさはしい軽薄な態度は、決して真底から軽薄に
なる筈もないといふ自信をもつた人間のそれかもしれない。さう久子は考へてみた。
そのせゐでこの人は自分の軽薄さを実に軽薄に扱ふ術を心得てゐる。真底から軽薄な人間の
遠く及ばない完全無欠な軽薄さだ。つまり真底から軽薄な人間は自分の軽薄さの自己弁護に
ついてだけは真剣にならざるをえないのだから。その範囲で彼の軽薄さは不完全なものに
ならざるをえないのだから。
三島由紀夫「宝石売買」より
86 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:09:07 ID:SGg1wRyI
「僕にはね、観崇寺さん、五千円といふ名の方がずつと美しく感じられるのです。値踏み
といふ行為が、人間にできるいちばん打算のない行為だとわかつて来ましたのでね。
打算のない愛情とよく言ひますが、打算のないことを証明するものは、打算を証明する
ものと同様に、『お金』の他にはありません。打算があつてこそ『打算のない行為』も
あるのですから、いちばん純粋な『打算のない行為』は打算の中にしかありえないわけです。
夜があつてこそ昼があるのだから、昼といふ観念には『夜でない』といふ観念が含まれ、
その観念の最も純粋な生ける形態は夜の只中にしかないやうに、又いはば、深海魚が陸地に
引き揚げられて形がかはつてゐるのに、さういふ深海魚をしか見ることのできない人間が、
夜の中になく夜の外にある昼のみを昼と呼び、打算の中になく打算の外にある『打算なき行為』
だけを『打算なき行為』とよぶ誤ちを犯してゐるわけなのです」
三島由紀夫「宝石売買」より
87 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:09:20 ID:SGg1wRyI
「さうして値踏みといへば、五千円といふまちがへやうもない名前をつけてやる行為です。
世間一般でよぶ鷲の剥製といふ名の代りに、値踏みをする人は五千円といふ特別誂への名で
よびかけます。すると鷲の剥製は、魔法の名で呼ばれたつかはしめの鳥のやうに歩き出して
彼に近づいてくるのです。
動機は何でも結構。たはむれの動機でも、自分の財布と睨めつくらをした上でも、明日の
利潤を胸算用したあげくでも、何でも結構。ただ五千円といふ名はあらゆる動機を離れて
鷲の剥製の属性になつてしまつたのです。人形に魂を吹き入れて『立て!』といふとき、
魔女たちはこれに似た感情を味はひはしないでせうか。人は値踏みによつてのみ対象に
生命を賦与(あた)へることができるのです。これ以上打算のない行為があるでせうか」
三島由紀夫「宝石売買」より
88 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:11:37 ID:SGg1wRyI
「何度失敗してもまた未練らしく試みられて際限がないあの錬金術同様に、打算のない
行為といふものは、何度失敗しても飽きることなく求められて来ました。はじめそれは
精神の世界で探されました。宗教がさうですね。お互ひが真に孤独でなければ出来ない行為は、
精神の世界では、愛がその最高のものであり、もしかしたら唯一のものかもしれません。
そこで打算のない行為の原型が愛に求められました。しかし残念なことに、愛は対象の
属性には決してなりえないといふ法則が発見されたのです。これがつまり基督の昇天です。
彼の愛は人間の属性になるには耐へなかつた。孤独の属性になるには耐へなかつた。
そこで人々は精神に代つて『打算のない行為』を演じてくれるものを鉦や太鼓で探し
まはりました。ある古伝説の残してくれた証拠によれば、それは物質だといふのですが、
誰もまだそれがお金だといふことははづかしくて言へないのです。尊敬してゐるものを
褒めるといふ芸当はなかなか出来るものではありませんからね」
三島由紀夫「宝石売買」より
89 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:11:56 ID:SGg1wRyI
「どうしてそんなにお儲けになりたいの」
「儲けるといふことはお金から『必要さ』といふ弱点を除いてくれますから」
「『必要さ』はお金の弱点ではございませんわ」
「…わたくし共は子供のときから、この世のお金といふものが、たつた一つの宝石を
買ふためにあるのだといふことを知つてをりました。宝石を買ふために、どんな僅かな
お金もわたくし共には必要で、その必要なことがお金を美しくしてゐると考へてゐました。
ですからこの宝石を売ることは、世の中からもう一度あの美しいお金をとりもどす
ためなのよ。…」
「もつとお怒りなさい。牧原君が許婚だなんて嘘でせう」
「あら、あたくしそんなに嘘つきにみえまして? 嘘つきにみえる方が正直にみえるより
得ではなくつて? だつて安心して本当のことが言へますもの。…」
三島由紀夫23歳「宝石売買」より
90 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:41:08 ID:SGg1wRyI
神さまが仰言いました。
「ここまで他人に荒されちや大変だ。わしはだから人間世界へ電報を打たうと思ふんぢやよ。
『わしはもう居ない。わしはもう決してどこにも存在しない』とね」
三島由紀夫24歳「天国に結ぶ恋」より
野外演習の払暁戦で、富士の裾野に身を伏せてながめやつた箱根の山々の稜線の薄明を
思ひ出した。明星が消え残つてゐた。それは事実、ふしぎに大きく、ふしぎにかがやかしく
見えた。ピタゴラスが言つたといふ「天体の奏でる微妙な音楽」の、最後までかすかに
尾を引く嚠喨(りうりやう)たる笛の音のやうなかがやきであつた。
名人は演能のさなかにも、幾度かこの星のやうな笛の音を美しい仮面の下からきくのであらう。
それは薄明の山上にあるやうに、老いた名人の感官に、大きな、身近な、手をのばせば
とどく星の存在を、たえず触知させてゐるにちがひない。
三島由紀夫24歳「星」より
堕落したつもりで彼は一向に堕落してゐなかつた。一人の女しか知らないことがどうして
堕落であらう。
三島由紀夫24歳「退屈な旅」より
91 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:41:39 ID:SGg1wRyI
夥しい薔薇は衰へた高貴な詩人の顔へ花冠を向けてゐた。彼らの本質を歌ひ、彼らの存在の
核心を透視した不朽の詩人の顔に向つてゐた。被造物のうちでも最も精妙な最も神秘な
美しい存在が、この詩人の何ものも希はない深い無為の瞳の澄明の前に、われにもあらず
嘗て己れの秘密を売つたのであつた。薔薇はリルケの美しい詩のなかで裏返された
いたましい喪失の存在に化した。それは認識の手によつてではなく、運命を共有する一つの
宇宙的な魂の手で、あばかれた羞恥と苦痛なのである。苦痛の思ひ出は、微風のやうに繁みを
ゆるがした。薔薇は詩人にその名を呼ばれたものの受苦の上に、詩人をも誘はうと試みた。
リルケの瞳は、恰かもまどろんでゐると見える見事な一輪の薔薇にとどまつた。
葉は蝕まれてゐず、咲具合も頃合である。花弁は深く包まれてゐてしかも艶やかに
倦(たゆ)げである。心もち重みにうなだれ、リルケの目に対してゐた。
三島由紀夫24歳「薔薇」より
92 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:46:01 ID:SGg1wRyI
矜りのない人間に自殺は出来ない。同様に傷つけられた自負心は人をたやすく死へ
みちびき入れるものである。
「幸福」などといふ怖るべき観念が人心に宿つて殺人罪を使嗾(しそう)する結果にならぬやう、
私は一社会人の立場に立つて衷心より切望する次第である。
三島由紀夫24歳「幸福といふ病気の療法」より
人生といふものはまるで脈絡もない条理もない感動に充ちてゐる、感動は私たちの心の
トンネルを通過する急行列車のやうに過ぎてゐるのだ、何も残らない、永久に感動する心は
永久に純潔な心だ。
心の共有とはなんといふ容易な事柄でせう。黙つてさへゐれば人間の心は永久に一人一人の
共有物でありませう。黙つてさへゐれば思ふままに相手を創造することができます。
相手は私の中で創造られ、私に似て来ます。本当の真実は孤独なものです。愛のためなら
何故真実が要りませう。愛はいつでも真実を敵に廻すべきではないでせうか。
三島由紀夫24歳「舞台稽古」より
93 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 11:49:29 ID:SGg1wRyI
世間といふものは、女と似てゐて案外母性的なところを持つてゐるのである。それは
自分にむけられる外々(よそよそ)しい謙遜よりも、自分を傷つけない程度に中和された
無邪気な腕白のはうを好むものである。
巌(いはほ)のやうな顔が愛くるしい笑ひ方をした。強欲な人間は、よくこんな愛くるしい
笑ひ方をするものである。強欲といふものは童心の一種だからであらうか。
残り惜しさの理由は、使ひ慣れたといふ点にしかない。しかしかけがへのない感じは、
これだけの理由で十分であつた。おそらくこれ以上の理由は見つかるまい。
田舎の有力者ほどひがみやすい人種はないのである。
よく眠る人間には不眠をこぼす人間はいつでも多少芝居がかつた滑稽なものに映る。
死のしらせは同情より先に連帯的な或る種の感動で人を結ぶものである。
三島由紀夫24歳「訃音」より
94 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 12:04:52 ID:SGg1wRyI
「莫迦な女ですね」――伊原を殊更薄暗い壁際の椅子へ導きながら曽我が言つた。彼の
煙草を持つ指は脂(やに)のためにほとんど瑪瑙いろになつて、しじゆう繊細に慄へてゐた。
「自分を莫迦だと知つてゐるだけになほ始末がわるい。女といふものは、自分を莫迦だと
知る瞬間に、それがわかるくらゐ自分は利巧な女だといふ循環論法に陥るのですね」
かういふ小説風な物言ひに伊原は苛々した。下手な絵描きに限つて絵描きらしく見えることを
好むものである。
そのさなかにゐては軽蔑をしか彼に教へなかつたあの人たちの身の持ち崩し方が、かうして
思ひ出すと、古代彫刻のトルソオの美しさだけは確かに保つてゐたやうに思はれて来る。
闊葉樹の落葉をさはやかに踏みしだきながら、彼は靴底の舗道に崩れる枯葉の音に
焔のやうな・何かしら燃え上るものの響を聞いた。しかし彼の意固地な厚い脣が抵抗して
呟いた。
『いや、あそこには魔がゐる。魔はやさしい面持でわれわれに誘ひをかける。だが彼らが
住むことのできるのは夜に於てだけだ……』
三島由紀夫「魔群の通過」より
95 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 12:05:13 ID:SGg1wRyI
中年の女といふものは若い女を見るのに苛酷な道学者の目しか持たぬ点に於て女学校の
修身の先生も奔放な生活を送つてゐる富裕な有閑マダムもかはりはない。
「厭世的な作家?」――伊原には自分を楽天的な事業家と言はれたやうにそれが響いて
聞き咎めた。「そんなものはありはしないよ。認められない作家はみんな厭世家だし、
認められた作家は長寿の秘訣として厭世主義を信奉するだけだ。とりたてて厭世的な
作家なんてありはしない。彼らとてオレンヂは好きなんだ。オレンヂの滓(かす)が
きらひなだけだ。この点で厭世家でない人間があるものかね」
曽我はいかにも俗物を嘲笑ふらしいヒロイックな表情で伊原の顔を見つめてゐたが、
その濡れた脣の少年のやうな紅さが、今はじめて見るもののやうに伊原の目を見張らせた。
それはこの間接照明の思はせぶりな暗さの中で、何か紅い貴重な宝石のやうに燦めいてゐた。
三島由紀夫24歳「魔群の通過」より
96 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:12:09 ID:SGg1wRyI
頽廃した純潔は、世の凡ゆる頽廃のうちでも、いちばん悪質の頽廃だ。
愛の奥処には、寸分たがはず相手に似たいといふ不可能な熱望が流れてゐはしないだらうか?
この熱望が人を駆つて、不可能を反対の極から可能にしようとねがふあの悲劇的な離反に
みちびくのではなからうか? つまり相愛のものが完全に相似のものになりえぬ以上、
むしろお互ひに些かも似まいと力め、かうした離反をそのまま媚態に役立てるやうな心の
組織(システム)があるのではないか? しかも悲しむべきことに、相似は瞬間の幻影のまま
終るのである。なぜなら愛する少女は果敢になり、愛する少年は内気になるにせよ、
かれらは似ようとしていつかお互ひの存在をとほりぬけ、彼方へ、――もはや対象のない
彼方へ、飛び去るほかはないからである。
旅の仕度に忙殺されてゐる時ほど、われわれが旅を隅々まで完全に所有してゐる時はない。
三島由紀夫「仮面の告白」より
97 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:12:24 ID:SGg1wRyI
……下手なピアノの音を私はきいた。
(中略)
そのピアノの音色には、手帖を見ながら作つた不出来なお菓子のやうな心易さがあり、
私は私で、かう訊ねずにはゐられなかつた。
「年は?」
「十八。僕のすぐ下の妹だ」
と草野がこたへた。
――きけばきくほど、十八歳の、夢みがちな、しかもまだ自分の美しさをそれと知らない、
指さきにまだ稚なさの残つたピアノの音である。私はそのおさらひがいつまでもつづけ
られることをねがつた。願事は叶へられた。私の心の中にこのピアノの音はそれから五年後の
今日までつづいたのである。何度私はそれを錯覚だと信じようとしたことか。何度私の理性が
この錯覚を嘲つたことか。何度私の弱さが私の自己欺瞞を笑つたことか。それにもかかはらず、
ピアノの音は私を支配し、もし宿命といふ言葉から厭味な持味が省かれうるとすれば、
この音は正しく私にとつて宿命的なものとなつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より
98 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:12:39 ID:SGg1wRyI
想像しうる限りの事態が平気で起るやうな毎日なので、却つてわれわれの空想力が貧しく
されてしまつてゐた。たとへば一家全滅の想像は、銀座の店頭に洋酒の罎がズラリと並んだり、
銀座の夜空にネオンサインが明滅したりすることを想像するよりもずつと容易いので、
易きに就くだけのことだつた。抵抗を感じない想像力といふものは、たとひそれがどんなに
冷酷な相貌を帯びようと、心の冷たさとは無縁のものである。それは怠惰ななまぬるい精神の
一つのあらはれにすぎなかつた。
かへりの汽車は憂鬱だつた。駅で落ち合つた大庭氏も、打つてかはつて沈黙を守つた。
皆が例の「骨肉の情愛」といふもの、ふだんは隠れた内側が裏返しにされてひりひり
痛むやうな感想の虜になつた体だつた。おそらくお互ひに会へばそれ以外に示しやうのない
裸かの心で、かれらは息子や兄や孫や弟に会つたあげく、その裸かの心がお互ひの無益な
出血を誇示するにすぎない空しさに気づいたのだつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より
99 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:12:58 ID:SGg1wRyI
驟雨がやみ、夕日が室内へさし入つた。
園子の目と唇がかがやいた。その美しさが私自身の無力感に飜訳されて私にのしかかつた。
するとこの苦しい思ひが逆に彼女の存在をはかなげに見せた。
「僕たちだつて」――と私が言ひ出すのだつた。「いつまで生きてゐられるかわからない。
今警報が鳴るとするでせう。その飛行機は、僕たちに当る直撃弾を積んでゐるのかも
しれないんです」
「どんなにいいかしら」――彼女はスコッチ縞のスカアトの襞を戯れに折り重ねてゐたが、
かう言ひながら顔をあげたとき、かすかな生毛(うぶげ)の光りが頬をふちどつた。
「何かかう……、音のしない飛行機が来て、かうしてゐるとき、直撃弾を落してくれたら、
……さうお思ひにならない?」
これは言つてゐる園子自身も気のつかない愛の告白だつた。
三島由紀夫「仮面の告白」より
100 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:13:18 ID:SGg1wRyI
ロマネスクな性格といふものには、精神の作用に対する微妙な不信がはびこつてゐて、
それが往々夢想といふ一種の不倫な行為へみちびくのである。夢想は、人の考へてゐるやうに
精神の作用であるのではない。それはむしろ精神からの逃避である。
半月形の襟で区切られた彼女の胸は白かつた。目がさめるほどに! さうしてゐる時の
彼女の微笑には、ジュリエットの頬を染めたあの「淫らな血」が感じられた。処女だけに
似つかはしい種類の淫蕩さといふものがある。それは成熟した女の淫蕩とはことかはり、
微風のやうに人を酔はせる。それは何か可愛らしい悪趣味の一種である。たとへば赤ん坊を
くすぐるのが大好きだと謂つたたぐひの。
私の心がふと幸福に酔ひかけるのはかうした瞬間だつた。すでに久しいあひだ、私は
幸福といふ禁断の果実に近づかずにゐた。だがそれが今私を物悲しい執拗さで誘惑してゐた。
私は園子を深淵のやうに感じた。
三島由紀夫「仮面の告白」より
101 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 17:15:18 ID:SGg1wRyI
私は体を離して一瞬悲しげな目で園子を見た。彼女がこの時の私の目を見たら、彼女は
言ひがたい愛の表示を読んだ筈だつた。それはそのやうな愛が人間にとつて可能であるか
どうか誰も断言しえないやうな愛だつた。
傷を負つた人間は間に合はせの繃帯が必ずしも清潔であることを要求しない。
潔癖さといふものは、欲望の命ずる一種のわがままだ。
好奇心には道徳がないのである。もしかするとそれは人間のもちうるもつとも不徳な
欲望かもしれない。
少女時代から彼女の自慢話が私は好きだつた。謙遜すぎる女は高慢な女と同様に魅力の
ないものである。
人間の情熱があらゆる背理の上に立つ力をもつとすれば、情熱それ自身の背理の上にだつて、
立つ力がないとは言ひ切れまい。
三島由紀夫24歳「仮面の告白」より
102 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 23:29:36 ID:SGg1wRyI
不在といふものは、存在よりももつと精妙な原料から、もつと精選された素材から成立つて
ゐるやうに思はれる。楠といざ顔をつき合はせてみると、郁子は今までの自分の不安も、
遊び友達が一人来ないので歌留多あそびをはじめることができずにゐる子供の寂しさに
すぎなかつたのではないかと疑つた。
凡庸な人間といふものは喋り方一つで哲学者に見えるものだ。
どこかひどく凡庸なところがないと哲学者にはなれない。
手もちぶたさになつた沢田が炬燵の柱を指で叩きだした。いつのまにか郁子も亦、自分の指が
同じやうに炬燵の柱を叩いてゐるのに気づいて、すこし熱くなつた指環の感じられる指を
炬燵蒲団からさりげなく抜いた。
若さといふものは笑ひでさへ真摯な笑ひで、およそ滑稽に見せようとしても見せられない
その真摯さは、ほとんど退屈にちかいものと言つてよろしく、中年よりも老年よりも遥かに
安定度の高い頑固な年齢であつた。
三島由紀夫「純白の夜」より
103 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 23:30:00 ID:SGg1wRyI
明治時代にはあだし男の接吻に会つて自殺を選んだ貞淑な夫人があつた。現代ではそんな
女が見当らないのは、人が云ふやうに貞淑の観念の推移ではなくて、快感の絶対量の
推移であるやうに思はれる。ストイックな時代に人々が生れ合はせれば、一度の接吻に
死を賭けることもできるのだが、生憎今日のわれわれはそれほど無上の接吻を経験しえない
だけのことである。どつちが不感症の時代であらうか?
どんな女にも、苦悩に対する共感の趣味があるものだが、それは苦悩といふものが本来
男性的な能力だからである。
秘密は人を多忙にする。怠け者は秘密を持つこともできず、秘密と附合ふこともできない。
秘密を手なづける方法は一つしかない。すなはち膝の上で眠らせてしまふ方法である。
感情には、だまかしうる傾斜の限度がある。その限度の中では、人はなほ平衡の幻影に
身を委す。といふよりは、傾斜してみえる森や家並の外界に非を鳴らして、自分自身が
傾きつつあることに気がつかない。
三島由紀夫「純白の夜」より
104 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 23:30:58 ID:SGg1wRyI
粗暴な快楽が純粋でないのは、その快楽が「必要とされてゐる」からであり、別の微妙な
快楽は、不必要なだけに純粋なのだ。
貞淑といふものは、頑癬(たむし)のやうな安心感だ。彼女は手紙といいあひびきといひ、
あれほどにも惑乱を露はにした一連の行動を、あとで顧みて、何一つ疾(や)ましいところは
ないのだと是認するのであつた。彼女は冷静に行動し、何一つ手落ちがなかつたことを
自分に言ひきかせながら、或る日のこと楠と気軽に接吻した。
不安はむしろ勝利者の所有(もの)だ。連戦連勝の拳闘選手の頭からは、敗北といふ一個の
新鮮な観念が片時も離れない。彼は敗北を生活してゐるのである。羅馬(ローマ)の格闘士は、
こんな風にして、死を生活したことであらう。
恋愛とは、勿論、仏蘭西(フランス)の詩人が言つたやうに一つの拷問である。どちらが
より多く相手を苦しめることができるか試してみませう、とメリメエがその女友達へ
出した手紙のなかで書いてゐる。
三島由紀夫25歳「純白の夜」より
105 :
大人の名無しさん:2011/01/22(土) 23:32:41 ID:SGg1wRyI
『女御がみまかつてから、私は蝉の抜殻のやうだ』と帝は考へられた。『何ものも私を
慰めないし、何ものも私を力づけない。この地上で確かなものといつたら、それは何なのだ。
人間が三度三度食事をするといふことか? 地上の確かさはそれに尽きるのか?
それだのに、さういふ確かさうなものを見、その確かさに安心してゐる人たちを見ると、
私は笑ひたくなる。女御がゐたときは一刻も永遠のやうに思はれた。幸福な一刻だつたからだ。
今でもやはり、永遠のやうに思はれる一刻がある。不幸な一刻、退屈な耐へがたい一刻だからだ。
してみると、時といふもの、私たちの生きてゐることの唯一の仕方がない理由といふものも、
こんなにあやふやな当てにならないものであらうか? 「時」は私たちの生きてゐることの
徒(あだ)な所以(ゆゑん)をいひきかせるために流れてゐるのであらうか?
三島由紀夫25歳「花山院」より
106 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:10:42 ID:n9n3gKpI
表現といふことは生に対する一つの特権であると共に生に於ける一つの放棄に他ならぬこと、
言葉をもつことは生に対する負目(ひけめ)のあらはれであり同時に生への復讐でも
ありうること、肉体の美しさに対して精神の本質的な醜さは言葉の美のみがこれを
償ひうること、言葉は精神の肉体への郷愁であること、肉体の美のうつろひやすさに
いつか言葉の美の永遠性が打ち克たうとする欲望こそ表現の欲望であること、――かうした
さまざまな判断を次郎は事もなげに採集した。彼は肉体を鍛へるやうに言葉を鍛へた。
文体に意を須(もち)ひ、それが希臘彫刻の的確な線に似ることを念願とした。
古代彫刻の青年像に見られる額から鼻へかけてのなだらかな流線は、自然そのままの
模写ではない。いはばそれは自然がわれわれにむかつて約束してゐる美の具現である。
本当の意味での創造である。すべての自然のなかには創造されたいといふ意志、深い
祈念をこめた叫びがある。
三島由紀夫「火山の休暇」より
107 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:11:01 ID:n9n3gKpI
…この刹那の落日は彼を感動させたのである。
『われわれの生も……』と次郎は考へた。『われわれが考へるよりはもつと壮大であり、
想像と思念と行動が及ぶかぎりをこえて壮麗なものであるにちがひない。さればこそ
それは現実ではないんだ。さればこそそれは表現を要求するんだ。この廻りくどい緩慢な
行為を要求するんだ。表現によつて、われわれは生へ還つてゆく。芸術家が死のあとまでも
生きのこるのはそのためだ。しかも表現といふ行為は、芸術家の生活は、何といふ緩慢な
死だらう。精神が肉体を模倣し、肉体が自然を模倣する、つまり自然を――死を模倣する。
自然は死だ。そのとき芸術家は死の限りなく近くに、言ひかへれば、表現された生の
限りなく近くにゐるのだなあ。芸術家にとつては、だから絶望は無意味だ。絶望する暇が
あつたら、表現しなければならぬ。なぜかといつて、どんな絶望も、生を前にして表現が
感じなければならぬこの自己の無力感、おのれの非力を隅々まで感じるこの壮麗な歓喜と
比べれば何ほどのことがあらう。……』
三島由紀夫「火山の休暇」より
108 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:11:23 ID:n9n3gKpI
それにしても、火山は休んでゐるのに、次々と自殺者が船に乗つて、はるばる東京から
この島まで来て、噴火口に身を投ずるのは何故であらう。火山は休業中だ。地獄へ行つても
休業中といふ札が貼つてあるかもしれない。地獄の大通りを歩いて行つても、酒屋も
理髪店もホテルも八百屋も魚屋も公会堂も劇場も、ことごとく休業中といふ札を戸口に
貼つてゐるかもしれない。死んだ人間は、休業中の火山へとびこんで、休業中の地獄へ
行つて、休業中の大通りを歩いて、結局どこまで行つても泊めてもらふことができない
かもしれない。さて、それから先、どこへ行けばよいのであらう。……それにもかかはらず、
空虚な火口へ身を投ずるために、次々と、人は船に乗つてここの島を訪れるのである。
結局、地獄はなくなつたのではなからうか。現代の地獄は、地獄が存在しないことでは
あるまいか。現代の怖ろしい特質はここにあるのではなからうか。さもなければあれほど
人々が地獄を呼び求め、ありもせぬ地獄を翹望(げうばう)する気持が次郎にはわからない。
三島由紀夫24歳「火山の休暇」より
109 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:18:54 ID:n9n3gKpI
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。
良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫26歳「家庭裁判」より
久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫24歳「鴛鴦」より
不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫25歳「修学旅行」より
110 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:27:59 ID:n9n3gKpI
潔癖な人間には却つて何事もピンセットで扱ふことに習熟したやうな或る鷹揚さ、緩慢さが
備はるものだ。
罪といふものの謙遜な性質を人は容易に恕(ゆる)すが、秘密といふものの尊大な性質を
人は恕さない。
三島由紀夫24歳「果実」より
寡黙な人間は、寡黙な秘密を持つものである。
恋人同士といふものは仕馴れた役者のやうに、予め手順を考へた舞台装置の上で愛し合ふ
ものである。
悪意がないといふことは一向弁明にならない。善意も、無心も、十分人を殺すことの
できる刃物である。
三島由紀夫25歳「日曜日」より
占領時代は屈辱の時代である。虚偽の時代である。面従背反と、肉体的および精神的売淫と、
策謀と譎詐の時代である。
三島由紀夫28歳「江口初女覚書」より
111 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 11:32:43 ID:n9n3gKpI
われわれのひそかな願望は、叶へられると却つて裏切られたやうに感じる傾きがある。
少女の驕慢な心は、概ね不測の脆さと隣り合せに住んでをり、むしろ脆さの鎧である。
空想といふものは、一種専制的な秩序をもつてゐる。
三島由紀夫25歳「遠乗会」より
人生経験は多くの場合恋愛に一定の理論を与へるが、人は自分の立てた理論を他人に
強ひこそすれ、自分は又してもその理論に背いて躓(つまづ)くのを承知で行動する。
生活とは凡庸な発見である。いつもすでに誰かが先にしてしまつた発見である。
お互ひが見えてゐて見えない。手をのばせば触れることができて触れ合はない。ところが
さういふ理想的な「他人」はこの世にはないのだ。滑稽なことだが、屍体にならなければ、
人は「親密な他人」になれない。
吝嗇といふものは一種の見張りであり、陰謀であり、結社であり、油断のならない正義の
熱情である。
絶望的な浪費癖にくらべると、吝嗇は実に無我で謙遜である。
三島由紀夫25歳「牝犬」より
112 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 16:30:01 ID:n9n3gKpI
素足で歩いては足が傷ついてしまふ。歩くためには靴が要るやうに、生きてゆくためには
何か出来合ひの「思ひ込み」が要つた。
悦子は明日に繋ぐべき希望を探した。何か、極く小さな、どんなありきたりな希望でもよい。
それがなくては、人は明日のはうへ生き延びることができない。明日にのこつてゐる
繕ひものとか、明日立つことになつてゐる旅行の切符とか、明日飲むことにしてある罎の
のこりの僅かな酒とか、さういふものを人は明日のために喜捨する。そして夜明けを
迎へることを許される。
……雲がとほりすぎる。野面が翳つて、風景はまるで意味の変つたものになる。……人生にも、
一見、存在しさうに思はれるこの種の変化。ほんのちよつと眺め方を変へただけで、
人生が別のものにもなりうるやうなかうした変化。悦子は居ながらにしてかういふ変化が
可能であると信ずるほどに傲慢だつた。所詮人間の目が野猪の目にでも化(な)り変ること
なしには仕遂げられないこの種の変化。……彼女はまだ肯(うべな)はうとしない。
われわれが人間の目を持つかぎり、どのやうに眺め変へても、所詮は同じ答が出るだけだ
といふことを。
三島由紀夫「愛の渇き」より
113 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 16:30:21 ID:n9n3gKpI
何もかも見かけの世の中だ。平和も見かけなら不景気も見かけ、してみれば、戦争も
見かけなら好景気も見かけ、この見かけの世界で多く人が生死してをる。人間だから
生死は当然のことです。これは当然のことだ。しかしこんな見かけだけの世界では、
そこに命を賭けるに足るものが見つからない。さうでせう、『見かけ』に命を賭けては
道化になる。しかも私といふ人間は命を賭けねば仕事のできない男です。いや、私ばかりが
さうなのぢやない。苟(いやしく)も仕事をしようとすれば、命を賭けずに本当の仕事が
できるものではない。私はさう思ひます。
生れのよい人間は滅多に風流になんぞ染つたりはせぬものだ。
われわれはむしろ、自分が待ちのぞんでゐたものに裏切られるよりも、力(つと)めて
軽んじてゐたものに裏切られることで、より深く傷つくものだ。それは背中から刺された
匕首(あいくち)だ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
114 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 16:30:37 ID:n9n3gKpI
人生が生きるに値ひしないと考へることは容易いが、それだけにまた、生きるに値ひしない
といふことを考へないでゐることは、多少とも鋭敏な感受性をもつた人には困難であり、
他ならぬこの困難が悦子の幸福の根拠であつた。
この世の情熱は希望によつてのみ腐蝕される。
ある人たちにとつては生きることがいかにも容易であり、ある人にとつてはいかにも困難である。
人種的差別よりももつと甚だしいこの不公平に、悦子は何ら抵抗を感じなかつた。
『容易なはうがいいにきまつてゐる』と彼女は考へた。『なぜかといへば、生きることが
容易な人は、その容易なことを生きる上の言訳になどしないからだ。それといふのに、
困難のはうはすぐ生きる上の言訳にされてしまふ。
三島由紀夫「愛の渇き」より
115 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 16:31:05 ID:n9n3gKpI
生きることが難しいなどといふことは何も自慢になどなりはしないのだ。わたしたちが
生の内にあらゆる困難を見出す能力は、ある意味ではわたしたちの生を人並に容易にする
ために役立つてゐる能力なのだ。なぜといつて、この能力がなかつたら、わたしたちに
とつての生は、困難でも容易でもないつるつるした足がかりのない真空の球になつてしまふ。
この能力は生がさう見られることを遮(さまた)げる能力であり、生が決してそんな風に
見えては来ない容易な人種の、あづかり知らぬ能力であるとはいへ、それは何ら格別な
能力ではなく、ただの日常必需品にすぎないのだ。人生の秤をごまかして、必要以上に
重く見せた人は、地獄で罰を受ける。そんなごまかしをしなくつても、生は衣服のやうに
意識されない重みであつて、外套を着て肩が凝るのは病人なのだ。私が人より重い衣裳を
身にまとはなければならないのは、たまたま私の精神が、雪国に生れてそこに住んでゐるからの
ことにすぎぬ。私にとつて生きることの困難は、私を護つてくれる鎧にすぎないのだ』
三島由紀夫「愛の渇き」より
116 :
大人の名無しさん:2011/01/23(日) 16:31:31 ID:n9n3gKpI
下から上を見たときも、上から下を見たときも、階級意識といふものは嫉妬の代替物に
なりうるのだ。
人生には何事も可能であるかのやうに信じられる瞬間が幾度かあり、この瞬間におそらく人は
普段の目が見ることのできない多くのものを瞥見し、それらが一度忘却の底に横たはつたのちも、
折にふれては蘇つて、世界の苦痛と歓喜のおどろくべき豊饒さを、再びわれわれに向つて
暗示するのであるが、運命的なこの瞬間を避けることは誰にもできず、そのために
どんな人間も自分の目が見得る以上のものを見てしまつたといふ不幸を避けえないのである。
偏見でない道徳などといふものがあるだらうか?
あまりに永い苦悩は人を愚かにする。苦悩によつて愚かにされた人は、もう歓喜を疑ふことが
できない。
嫉妬の情熱は事実上の証拠で動かされぬ点においては、むしろ理想主義者の情熱に近づく
のである。
衝動によつて美しくされ、熱望によつて眩ゆくされた若者の表情ほどに、美しいものが
この世にあらうか。
三島由紀夫25歳「愛の渇き」より
117 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 10:33:46 ID:YNfTzPBg
感傷といふものが女性的な特質のやうに考へられてゐるのは明らかに誤解である。
感傷的といふことは男性的といふことなのだ。それは単純で荒削りな男が自分の心に
無意識に施す粉黛である。
われわれは、なかなかそれと気がつかないが、自分といちばん良く似てゐる人間なるがゆゑに、
父親を憎たらしく思ふのである。
男性は本質を愛し、女性は習慣を愛するのだ。
凡ゆる愛国心にはナルシスがひそんでゐるので、凡ゆる愛国心は美しい制服を必要とする
ものらしい。
客観的幸福などといふものはそもそも言葉の矛盾である。
経済学の学説なんぞといふものは、どつちみち如意棒のやうなもので、エイッと声をかけて、
耳へ入るだけの小ささに変へてしまへばやすやすと握りつぶせるのである。そもそも
唯物論は、『金で買へないものは何もない、どんな形の幸福も金で買へる』といふ
資本主義的偏見の私生児なのである。
物質は決して人間の幸福に役立たぬ。
三島由紀夫「青の時代」より
118 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 10:34:02 ID:YNfTzPBg
戦争といふ奴は、人間の背丈を伸ばしもしなけりやあ縮めもしないからね。
戦争も平和もいろんな悪意と善意のこんぐらかつた状態で、善悪どつちが勝つたといふことも
ありはしない。悪意がうまく使はれれば平和になるし、下手に使はれれば戦争になるだけだ。
男が金をほしがるのはつまり女が金をほしがるからだといふのは真理だな。そのためにも
まづわれわれは、生きなければならん。
感動すまいとする分析家は、感動以上の誤りを犯す場合がままあるのだ。
近代が発明したもろもろの幻影のうちで、「社会」といふやつはもつとも人間的な幻影だ。
人間の原型は、もはや個人のなかには求められず社会のなかにしか求められない。
原始人のやうに健康に欲望を追求し、原始人のやうに生き、動き、愛し、眠るのは、
近代においては「社会」なのである。新聞の三面記事が争つて読まれるのは、この原始人の
朝な朝なの生態と消息を知らうとする欲望である。つまり下婢にだけ似つかはしい欲望である。
そしてその出世の野心は、たかだか少しでも主人に似たいといふ野心にすぎない。
三島由紀夫「青の時代」より
119 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 10:34:21 ID:YNfTzPBg
過度の軽蔑はほとんど恐怖とかはりがない。
インフレーション以来、あらゆる価値は名目的なものになり、小金をもつてゐれば誰でも
社長や専務になれ、女は毛皮の外套さへもつてゐればみんな上流の奥様でとほり、世間は
かうした仮装に容易に欺されることを以て一種の仮想の秩序を維持して来たのであつた。
だから演技による瞞著(まんちやく)は今の社会に対する礼法(エチケット)である。
人助けは実に気持のよいものであり、殊に利潤の上る人助けと来たらたまらない。
人間、正道を歩むのは却つて不安なものだ。
すべての人の上に厚意が落ちかかる日があるやうに、すべての人の上に悪意が落ちかかる
日があるものだ。
人間の弱さは強さと同一のものであり、美点は欠点の別な側面だといふ考へに達するためには、
年をとらなければならない。
三島由紀夫「青の時代」より
120 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 10:34:46 ID:YNfTzPBg
『人間的な遣り方といふものは』と誠は考へた。『人に馬鹿にされまいといふ馬鹿げた
用心から、完全に免かれた一部分を生活のなかにもつことだ』
あなたはせいぜい人生を馬鹿にしてゐるつもりでゐるが、人生が悪戯つ子をゆるすやうに
微笑を以てあなたを恕(ゆる)してゐることに気がつかないんです。さういつまでも人間を
愛さないで生きてゆけるものぢやありませんよ。愛される危険を避ける道は、愛することの
ほかにはないからね。
忘れる才能をもつた人は、はじめから物事を考へてやつたりしはいたしません。さういふ
人たちは目的よりはやく行為を忘れ、行為のむかう側でいつも昼寝をしてゐられるおかげで、
よく太つて真赤な頬をしています。
しばしば人を愛してゐることに気がつくのが遅れるやうに、われわれは憎悪の確認についても、
ともするとなほざりな態度をとる。さういふときわれわれは自分の感情の怠惰を憎らしく
思ふのである。
確かに人間の存在の意味には、存在の意識によつて存在を亡ぼし、存在の無意識あるひは
無意味によつて存在の使命を果す一種の摂理が働らいてゐるにちがひない。
三島由紀夫25歳「青の時代
121 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 13:29:55 ID:YNfTzPBg
一つの戯曲が現はれ、その上演が決定されると、配役の決定を待つ俳優たちは、自分の発見し、
自分に最適と思はれる一つの役を、現実に生活しはじめるのである。
夕方になると気がふさぐのは、人間だつて鳥だつて獣だつておんなじですわ。それをね、
仰々しく虚無だの絶望だのつて、可笑しうございますわ。もしかすると人間特有の感情なんて、
みんながさう思つてゐるものの百分の一ぐらゐしかないのかもしれないわ。自然の感情が
いちばん大きいんだ、と私思ひましてよ。あるときは自分がお猿になつたり、また
あるときは鳩になつたり……
人間の感情に絶対的な権力をもつてゐる男が、やはり人間の感情の持主だといふことは
変なことである。
三島由紀夫「女流立志伝」より
122 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 13:30:16 ID:YNfTzPBg
芝居といふものは大奥のやうな秘密主義の上に築かれてゐる。なぜ秘密にするのかといふと
大した理由はない。秘密は芝居のたのしみの歴然たる一部なのである。芝居の当事者は、
子供にやるお年玉を新年まで見つけられないやうに戸棚の奥に隠しておく親の心理で
行動するのであるが、お年玉をのぞかうと一生懸命になる子供をあざむくたのしみは、
いざ手渡されてみてそのお年玉の貧弱さにおどろく子供の失望とは、全く無関係に発展する。
劇場といふところは、大きな向日葵のやうなものである。舞台はいつも太陽のはうへ、
観客のはうへ顔を向けてゐる。花弁も、雄しべも、雌しべも、その炎えるやうな黄いろも、
すべてが観客席へ向つてひらいてゐる。楽屋や事務所は、茎であり、あるひは根である。
とはいふものの見えない糸がいつもそれらの部屋の貌(かほ)を観客席のはうへ向けて
ゐるせゐで、さういふ部屋にゐるときも、俳優たちが、ふと壁のはうを気にする仕草を
見せるのを、見てゐるのはたのしいものである。
三島由紀夫26歳「女流立志伝」より
123 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 13:34:50 ID:YNfTzPBg
まことに海も山も時であつた。人の目に映つたこの世のさまざまな事象は、一旦記憶の世界へ
投げ込まれるや、時の秩序に組み入れられた存在に他ならぬ。そこにあるものは、時の海、
時の山脈に他ならぬ。波はもはや浜辺に打ち寄せてゐる青い海水ではない。時の水に
充たされた海には、時の潮(うしほ)が時のつきせぬ波を波立ててゐるにすぎない。
そのとき海が却つてその本質を、その流転の本質を露(あら)はにするのである。
人間もまた時間の形をしてゐる。これだけが人間のほぼ確実な信頼するに足る外形である。
この世には自分の形を忘れることのできる人とできない人との二つの種族がある。
三島由紀夫「偉大な姉妹」より
124 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 13:35:12 ID:YNfTzPBg
歌舞伎役者の顔こそ偉大でなければならない。大首物の役者絵は、悉く奇怪な偉大さを
持つた顔を描いてゐる。その偉大さには一種の不均衡と過剰がある。拡大された感情、
誇張された悲哀を包むその輪廓は、均斉を保たうがためにこの悲哀や歓喜の内容に戦ひを
挑んでゐる。美の伝達力として重んぜられたこの偉大さは、歌舞伎が考へたやうな美の
必然的な形式なのである。そこでは美と偉大の結婚は世にも自然であつた。美が一個の
犠牲の観念であり、偉大が一個の宗教的観念となることによつて、この婚姻が成り立つた。
大首物の錦絵の顔は、偉大に蝕まれた美のあらはな病患を語つてゐる。
もし罪といふものがあるなら、それは罪の行為が飛び去つたあとの真白な空白にすぎぬだらう。
罪ほど清浄な観念はないだらう。
三島由紀夫26歳「偉大な姉妹」より
125 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 13:47:53 ID:YNfTzPBg
愛とは目的をもたない神秘的な洞察力がわれわれを居たたまれなくさせる感情のやうにも
思はれ、一個の想像力のやうにも思はれ、本質的に一つの「解釈」にすぎないやうにも思はれる。
三島由紀夫26歳「椅子」より
よその女の美貌に同意する義務は、どこの奥さんにだつてない筈だ。
コンパスで描いたやうに丸い。口があどけなくて、目は清らかである。悪いことを何にも
知らないやうなかういふ顔ほど、男の目から見て神秘的に見えるものはない。
三島由紀夫27歳「金魚と奥様」より
一度男の目が決して自分を見ないと決めてしまつてから、人生はどんなに生き易くなつた
ことだらう! 彼女は男の教授にでも、づけづけとものを言ふ。相手に彼女の「性」を
感じさせないのをむしろエチケットと思つてゐるからで、世間が考へるやうに、老嬢は
必ずしもわれしらず中性化してゐるのではない。
三島由紀夫27歳「二人の老嬢」より
126 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:01:33 ID:YNfTzPBg
彼は青年にならうといふころ、皮肉(シニシズム)の洋服を誂へた。誰しも少年時には
自分に似合ふだらうと考へる柄の洋服である。次郎はしばらくこの新調の服を身に纏つて
得意であつた。……やがてこの服が自分に少しも似合はないことに気付いた。ある朝
街角の鏡の中で、女が新らしい皺を目の下に見出して絶望するやうに。……いや、この比喩は
妥当でない。次郎は皮肉の洋服が彼の年齢の弱味を隠すあまりに、年齢に対して彼が
負うてゐる筈の義務をも忽(ゆるが)せにさせることを覚つたのである。今年の夏にいたつて、
皮肉は彼の滑稽さを救ふどころか、もつと性悪な滑稽さに、つまりあらゆる感情を
笑殺してきたので滑稽の仮面を被つた八百長の感情しか生れて来ないといふ滑稽さに、
彼を陥れつつあるのをまざまざと見たのである。
次郎は黙視を学んだ。滑稽であるまいとしても詮ないことだ。彼自身の滑稽さを恕(ゆる)す
ところから始めねばならぬ。われわれ自身の崇高さを育てようがためには、滑稽さをも
同時に育てなければならぬ……。
三島由紀夫「死の島」より
127 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:01:48 ID:YNfTzPBg
風景もまた音楽のやうなものである。一度その中へ足を踏み入れると、それはもはや透明で
複雑な奥行を持つた一個の純粋な体験に化するのである。
『目くばせをしたぞ』と次郎は自分の舟がその間を辷りゆきつつある二つの小島を仰ぎ
見ながら呟いた。『たしかに今、この二つの島は目くばせをした。島と島とが葉ごもりの
煌めきで以て目くばせをするのを僕は今たしかに見たぞ。……それもその筈だ。彼らには
僕たち人間の目が映すもののすがたが笑止と思はれるに相違ない。彼らこそこの水上の風景が
虚偽であることを知つてゐる。島と島との離隔は仮の姿にすぎず、島といふその名詞でさへ
架空のものにすぎないことを知つてゐる。水底の確乎たる起伏だけが真実のものだといふ
ことを知つてゐる。僕たちの目が現象の世界をしか見ることが出来ないのを、彼らは
目まぜして嗤(わら)つてゐるのだ』
三島由紀夫「死の島」より
128 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:02:13 ID:YNfTzPBg
…今、次郎は音楽が、……生れながらに完全な形式をそなへた存在が……、彼を訪れる姿を
見たのである。
『形式とは』と次郎は考へた。『僕にとつては残酷さの決心だつた。しかしあの島の形式の
優美なことは、およそ僕の決心と似ても似つかない。ああ、あの島は形式の美徳で僕を
負かす。あれは僕の内部へ優雅な行幸(みゆき)のやうに入つて来る。……』
『あの雨上りの街路のやうな小島は、その街路を雨後に這ひ出した甲虫のやうなつややかな
乗用車が連なつて疾駆することもなく、永遠に人の住まない空つぽな街の街路であるに
とどまるだらう』――次郎は遠ざかる島影を見ながら、かう心に呟いた。『きつとさうだらう。
人間の関与を拒むやうな美が、愛の解熱剤として時には必要だ』――それは葡萄に手の
届かなかつた狐の尤もらしい弁疏(べんそ)であつた。
三島由紀夫26歳「死の島」より
129 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:08:19 ID:YNfTzPBg
相似といふものは一種甘美なものだ。ただ似てゐるといふだけで、その相似たものの
あひだには、無言の諒解(りようかい)や、口に出さなくても通ふ思ひや、静かな信頼が
存在してゐるやうに思はれる。
葉子ははじめ入らないつもりでゐたが、杉男が入るといふので、その真似をしたのである。
少女はかういふ咄嗟の場合にも好きな人の模倣を忘れない。模倣が少女の愛の形式であり、
これが中年女の愛し方ともつとも差異の顕著な点である。
この翼さへなかつたら彼の人生は、少なくとも七割方は軽やかになつたかもしれないのに。
翼は地上を歩くのには適してゐない。
三島由紀夫26歳「翼」より
人間の野心といふものは衆にぬきん出ようとする欲望だが、幸福といふものは皆と同じに
なりたいといふ欲求だ。
三島由紀夫27歳「クロスワード・パズル」より
130 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:10:17 ID:YNfTzPBg
妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくもので
あるのに、夢はひとつの習慣になつて、今日まで規則正しくつづいてゐる。
私たちの憐れみの感情は、何かしら未知なもの、不可解なものに対する懸橋なのである。
それらのものに私たちは憧憬によつてつながり、あるひは憐れみによつてつながる。
憧憬と憐れみとは、不可解なものに対する子供らしい柔かな感情の両面だつた。
よく遠くの森で梟(ふくろふ)が鳴く声を、寝床のなかで耳をすましてきいてゐると、
子供の私は動物界の自由に対する童話的な憧れの気持と、暗い森の奥の木の洞から目を
丸くみひらいて歌ひつづけてゐなければならないあの小さな「生あるもの」への憐れみの
気持とを、併せ感じた。
霊魂といふものに、やはり生の形を与へないことには、私たちの想像の翼は羽搏かないの
かもしれない。
三島由紀夫26歳「朝顔」より
131 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 14:12:03 ID:YNfTzPBg
悲哀が人を愉しませてゐるさまは気味のわるいものである。
「泥棒! 泥棒!」かういふ呼称は本当は妙である。「大臣! 大臣!」とよぶときは、
相手の大臣を呼ぶにすぎないだらう。しかし「泥棒!」とよぶときに、われわれは
不特定多数の意見、乃至は輿論(よろん)に呼びかけてゐるのである。
小肥りのした体格、福徳円満の相、かういふ相は人相見の確信とはちがつて、しばしば
酷薄な性格の仮面になる。独逸の或る有名な殺人犯は、また有名な慈善家と同一人で
あることがわかつて捕へられた。彼はいつもにこやかな微笑で貧民たちに慕はれてゐた。
その貧民の一人を、彼はけちな報復の動機で殺してゐたのである。彼は殺人と慈善との
この二つの行為のあひだに、何らの因果をみとめてゐなかつた。
大ていわれわれが醜いと考へるものは、われわれ自身がそれを醜いと考へたい必要から
生れたものである。
三島由紀夫26歳「手長姫」より
132 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 16:43:06 ID:YNfTzPBg
ああ、誰のあとをついて行つても、愛のために命を賭けたり、死の危険を冒したりすることは
ないんだわ。男の人たちは二言目には時代がわるいの社会がわるいのとこぼしてゐるけれど、
自分の目のなかに情熱をもたないことが、いちばん悪いことだとは気づいてゐない。
退屈する人は、どこか退屈に己惚れてゐるやうなところがあるわ。
夫婦と同様に、清浄な恋人同志にも、倦怠期といふものはあるものだつた。
「しかし狩人は義士ぢやございません」と黒川氏は、にこにこしながら言つた。「狩人の
ねらふのは獣であつて、仇ではございません。獲物であつて、相手の悪意ではございません。
熊に悪意を想像したら、私共は容易に射てなくなります。ただの獣だと思へばこそ、
追ひもし、射てもするのです。昆虫採集家は害虫だからといふ理由で昆虫を、つかまへは
いたしますまい」
三島由紀夫26歳「夏子の冒険」より
133 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:20:28 ID:YNfTzPBg
女はあらゆる価値を感性の泥沼に引きずり下ろしてしまふ。女は主義といふものを全く
理解しない。『何々主義的』といふところまではわかるが、『何々主義』といふものは
わからない。主義ばかりではない。独創性がないから、雰囲気をさへ理解しない。
わかるのは匂ひだけだ。
女のもつ性的魅力、媚態の本能、あらゆる性的牽引の才能は、女の無用であることの証拠である。
有用なものは媚態を要しない。男が女に惹かれねばならぬことは何といふ損失であらう。
男の精神性に加へられた何といふ汚辱であらう。
最上の逃避の方法は、相手に出来るだけ近づくことである。
あらゆる文体は形容詞の部分から古くなると謂はれてゐる。つまり形容詞は肉体なのである。
青春なのである。
三島由紀夫「禁色」より
134 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:20:42 ID:YNfTzPBg
風呂に入るときに腕時計を外して入るやうに、女に向ふときは精神を外してゐないと、
忽ち錆びて使ひものにならなくなりますよ。それをやらなかつたので、私は無数の時計を
失くして、一生、時計の製造に追ひ立てられる始末になつたのです。錆時計が二十個
集まつたので、今度全集といふやつを出しました。
打算は愛によつて償はれると考へるのが青年の確信ですね。計算高い男ほど自分の純粋さに
どこかでよりかかつてゐるものです。
絶望は安息の一種である。
死人の目で見たときに、現世はいかに澄明にその機構を露はすことか! 他人の恋情は
いかにあやまりなく透視できることか! この偏見のない自在の中で、世界はいかに
小さな硝子の機械に変貌することか!
三島由紀夫「禁色」より
135 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:21:02 ID:YNfTzPBg
窓の外から眺める他人の不幸は、窓の中で見るそれよりも美しい。不幸はめつたに窓枠を
こえてまでわれわれにとびかかつてくるものではないからである。
決定的な瞬間といふものは、心の傷に対して医薬のやうに働らく場合がある。
本当の美とは人を黙らせるものであります。
美といふものは手を触れたら火傷をするやうなものだ。
「でも先生は若さがおきらひだ」
悠一はさらに断定的にさう言つた。
「美しくない若さはね。若さが美しいといふのはつまらぬ語呂合せだ。私の若さは醜く
かつたんだ。それは君には想像も及ばないことだ。私は生まれ変りたいと思ひつづけて
青春時代をすごしたからな」
「僕もです」
と悠一がうつむいたままふと言つた。
「それを言つてはいけない。それを言ふと、君はまあいはば禁忌を犯すことになるんだ。
君は決してさう言つてはならない宿命を選んだんだ。…」
三島由紀夫「禁色」より
136 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:21:17 ID:YNfTzPBg
男の目の中に欲望を見出す時ほど、女がおのれの幸福に酔ふ時はない。
思想を抱いてゐる男は、女の目にはもともと神秘的に見えるものである。女は死んでも
「青大将は俺の大好物だ」なんぞと言へないやうに出来てゐるからである。
家庭といふものはどこかに必ず何らかの不幸を孕んでゐるものだ。帆船を航路の上に
押しすすめる順風は、それを破滅にみちびく暴風と本質的には同じ風である。家庭や家族は
順風のやうな中和された不幸に押されて動いてゆくもので、家族をゑがいた多くの名画には、
華押のやうに、ひそんだ不幸が手落ちなく一隅に書き込まれてゐる。
人の不幸は何程かわれわれの幸福である。激しい恋愛の時々刻々の移りゆきではこの公式が
一等純粋な形をとる。
感情の或る種の詭計(きけい)の告白に当つて、女が示す放恣な陶酔の涙ほど、人の心を
うごかすものはない。
三島由紀夫「禁色」より
137 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:21:30 ID:YNfTzPBg
様式は芸術の生れながらの宿命である。作品による内的経験と人生経験とは、様式の
有無によつて次元を異にしてゐるものと考へなくてはならぬ。しかし人生経験のうちで
作品による内的経験にもつともちかいものが唯一つある。それは何かといふと、死の
与へる感動である。われわれは死を経験することができない。しかしその感動はしばしば
経験する。死の想念、家族の死、愛する者の死において経験する。つまり死とは生の唯一の
様式なのである。
芸術作品の感動がわれわれにあのやうに強く生を意識させるのは、それが死の感動だから
ではあるまいか。
表現といふ行為は、現実にまたがつて、そいつに止(とど)めを刺し、その息の根を止める行為だ。
女が髭を持つてゐないやうに、彼は年齢を持つてゐなかつた。
ナルシスは、その並々ならぬ誇りのために、却つて不出来な鏡を愛する場合がある。
不出来な鏡は少なくとも嫉妬を免れしめる。
三島由紀夫「禁色」より
138 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:24:39 ID:YNfTzPBg
彼女は自分が死ぬためには、すでに死についてあまりに多く考へすぎたことを感じてゐた。
かう感じだしたとき、人は死を免れる。といふのは、自殺はどんな高尚なそれも低級なそれも、
思考それ自体の自殺行為であり、およそ考へすぎなかつた自殺といふものは存在しない。
愛さないで体を委すといふことが、男にはあんなに易しいのに、女にはどうして難しいの
だらう。なぜそれを知ることが、娼婦だけにゆるされてゐるのだらう。
どんな思想も観念も、肉感をもたないものは、人を感動させない。
『君は僕が好きだ。僕も僕が好きだ。仲良くしませう』――これはエゴイストの愛情の
公理である。同時に、相思相愛の唯一の事例である。
しかしいつも勝利は凡庸さの側にある。
三島由紀夫「禁色」より
139 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:25:12 ID:YNfTzPBg
褒められた女は、精神的に、ほとんど売淫の当為を感じる。
女は決して征服されない。決して! 男が女に対する崇敬の念から凌辱を敢てする場合が
ままあるやうに、この上ない侮蔑の証しとして、女が男に身を任す場合もあるのだ。
愛する者はいつも寛大で、愛される者はいつも残酷さ。
人間をいちばん残酷にするのは、愛されてゐるといふ意識だよ。
現代では、われわれの教養の中から、かつてあれほど精細を極めてゐた悪徳に関する教養が、
根こそぎ葬り去られてしまつた。悪徳の形而上学は死んでしまひ、その滑稽さだけが残つて
笑ひものにされてゐる。(中略)
それは崇高なものが現代では無力で、滑稽なものにだけ野蛮な力があるといふ、浅墓な
近代主義の反映ではありませんかね。
三島由紀夫「禁色」より
140 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:25:29 ID:YNfTzPBg
精妙な悪は、粗雑な善よりも、美しいから道徳的なのです。古代の道徳は単純で力強かつたから、
崇高さはいつも精妙の側にあり、滑稽さはいつも粗雑の側にあつた。ところが現代では、
道徳が美学と離れた。道徳は卑賎な市民的原理によつて、凡庸と最大公約数の味方をします。
美は誇張の様式になり、古めかしくなり、崇高であるか、滑稽であるか、どちらかです。
この二つは、現代では、同じものをしか意味しません。…無道徳な似非(えせ)近代主義と
似非人間主義が、人間的欠陥を崇拝するといふ邪教を流布した。近代の芸術は、ドン・
キホーテ以来、滑稽崇拝のはうへ傾いてゐます。
人間性を引合ひに出さなければ自分が人間であるといふめども掴めないなんて、これこそ
倒錯そのものぢやありますまいか。本当は、人間が人間である以上、世間でふつうさうして
ゐるやうに、人間以外のもの、神だとか、物質だとか、科学的真理だとかを援用したがるはうが、
もつとずつと人間的ではありますまいか。
三島由紀夫「禁色」より
141 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:25:56 ID:YNfTzPBg
醒めることは、更に一層深い迷ひではないのか。どこへ向つて、何のために、われらは
醒めようと望むのか。人生が一つの迷妄である以上、この錯雑した始末に負へない迷妄のうちに、
よく秩序立ち論理づけられた人工的な迷妄を築くことこそ、もつとも賢明な覚醒ではないのか。
青春の死の耐へがたさに比べれば、肉体の死が何程のことがあらうか。多くの青春が
さうであるやうに、(何故かといふと青春を生きることはたえざる烈しい死であるから)
かれらの青春もいつも新たな破滅を夢みてゐた。死に臨んで美しい若者は莞爾たる筈であつた。
思想ははじめから、肉体の何らかの誇張の様式なのだ。大きな鼻を持つた男は、大きな鼻
といふ思想の持ち主であり、ぴくぴく動く耳を持つた男は、従つてまた、どう転んでみても、
畢竟するに、ぴくぴく動く耳といふ独創的な思想の持ち主である。
生活を侮蔑することによつて生活を固執すること、この奇妙な信条は、芸術行為を無限に
非実践的なものにしてしまふ。芸術によつて解決可能な事柄は存在しない。
三島由紀夫「禁色」より
142 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:27:23 ID:YNfTzPBg
俊輔の孤独は、それがそのまま深い制作の行為になつた。彼は夢想の悠一を築いた。
生に煩はされず、生に蝕まれない鉄壁の青春。あらゆる時の侵蝕に耐へる青春。
青春の一つの滴のしたたり、それがただちに結晶して、不死の水晶にならねばならぬ。
青春が無意識に生きることの莫大な浪費。収穫(とりいれ)を思はぬその一時期。生の破壊力と
生の創造力とが無意識のうちに釣合ふ至上の均衡。かかる均衡は造型されなければならぬ。……
愛は絶望からしか生まれない。精神対自然、かういふ了解不可能なものへの精神の運動が
愛なのだ。
精神はたえず疑問を作り出し、疑問を蓄へてゐなければならぬ。精神の創造力とは疑問を
創造する力なんだ。かうして精神の創造の究極の目標は、疑問そのもの、つまり自然を
創造することになる。それは不可能だ。しかし不可能へむかつていつも進むのが精神の方法なのだ。
精神は、……まあいはば、零を無限に集積して一に達しようとする衝動だといへるだらう。
三島由紀夫「禁色」より
143 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:31:34 ID:YNfTzPBg
美とは到達できない此岸(しがん)なのだ。さうではないか? 宗教はいつも彼岸を、
来世を距離の彼方に置く。しかし距離とは、人間的概念では、畢竟するに、到達の可能性なのだ。
科学と宗教とは距離の差にすぎない。六十八万光年の彼方にある大星雲は、やはり、到達の
可能性なのだよ。宗教は到達の幻影だし、科学は到達の技術だ。
美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前してをり、確乎として手に
触れることができる。われわれの官能が、それを味はひうるといふことが、美の前提条件だ。
官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。
なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮げるから。希臘人が彫刻でもつて
美を表現したのは、賢明な方法だつた。(中略)
此岸にあつて到達すべからざるもの。かう言へば、君にもよく納得がゆくだらう。美とは
人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあつて最も深く人間を
規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……
三島由紀夫「禁色」より
144 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:32:12 ID:YNfTzPBg
「この世には最高の瞬間といふものがある」――と俊輔は言つた。「この世における精神と
自然との和解、精神と自然との交合の瞬間だ。
その表現は、生きてゐるあひだの人間には不可能といふ他はない。生ける人間は、その瞬間を
おそらく味はふかもしれない。しかし表現することはできない。それは人間の能力をこえてゐる。
『人間はかくて超人間的なものを表現できない』と君は言ふのか? それはまちがひだ。
人間は真に人間的な究極の状態を表現できないのだ。人間が人間になる最高の瞬間を
表現できないのだ。
芸術家は万能ではないし、表現もまた万能ではない。表現はいつも二者択一を迫られてゐる。
表現か、行為か。愛の行為でも、人は行為を以てしか人を愛しえない。そしてあとから
それを表現する。
しかし真の重要な問題は、表現と行為との同時性が可能かといふことだ。それについては
人間は一つだけ知つてゐる。それは死なのだ。
三島由紀夫「禁色」より
145 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:32:32 ID:YNfTzPBg
死は行為だが、これほど一回的な究極的な行為はない。……さうだ、私は言ひまちがへた」
と俊輔は莞爾とした。
「死は事実にすぎぬ。行為の死は、自殺と言ひ直すべきだらう。人は自分の意志によつて
生れることはできぬが、意志によつて死ぬことはできる。これが古来のあらゆる自然哲学の
根本命題だ。しかし、死において、自殺といふ行為と、生の全的な表現との同時性が
可能であることは疑ひを容れない。最高の瞬間の表現は死に俟たねばならない。
これには逆証明が可能だと思はれる。
生者の表現の最高のものは、たかだか、最高の瞬間の次位に位するもの、生の全的な姿から
αを差引いたものなのだ。この表現に生のαが加はつて、それによつて生が完成されてゐる。
なぜかといへば、表現しつつも人は生きてをり、否定しえざるその生は表現から除外されてをり、
表現者は仮死を装つてゐるだけなのだ。
三島由紀夫「禁色」より
146 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:33:03 ID:YNfTzPBg
このα、これを人はいかに夢みたらう。芸術家の夢はいつもそこにかかつてゐる。
生が表現を稀(うす)めること、表現の真の的確さを奪ふこと、このことには誰しも
気がついてゐる。生者の考へる的確さは一つの的確さにすぎぬ。死者にとつては、われわれが
青いと思つてゐる空も、緑いろに煌めいてゐるかもしれないのだ。
ふしぎなことだ。かうして表現に絶望した生者を、又しても救ひに駆けつけて来るのは
美なのだ。生の不的確に断乎として踏みとどまらねばならぬ、と教へてくれる者は美なのだ。
ここにいたつて、美が官能性に、生に、縛られてをり、官能性の正確さをしか信奉しないことを
人に教へるといふ点で、その点でこそ正に、美が人間にとつて倫理的だといふことが
わかるだらう」
三島由紀夫26歳「禁色」より
147 :
大人の名無しさん:2011/01/24(月) 20:37:14 ID:YNfTzPBg
百ワットの裸電球を、田毎の月みたいに、それぞれのガラスの蓋にまばゆく映して、佃煮や
煮豆の箱がいつぱい並んでゐる。福神漬のにほひがする。そぼろ、するめ、わかめ、
むかしの日本人は、粗食と倹約の道徳に気がねをして、かういふちつぽけな、あたじけない
享楽的食品を、よくもいろいろと工夫発明したものである。
正義を行へ。弱きを護れ。
自分が若いころ闊歩できなかつた街は、何だか一生よそよそしいものである。
とにかく人生は柔道のやうには行かないものである。人生といふやつは、まるで人絹の
柔道着を着てゐるやうで、ツルツルすべつて、なかなか業(わざ)がきかないのであつた。
人生つて、右か左か二つの道しかないと思ふときには、ほんの二三段石段を上つて、
その上から見渡してみると、思はぬところに、別な道がひらけてるもんなのよ。さうなのよ。
人間には、自由だけですまないものがある。古い在り来りな、束縛を愛したい気持もある。
三島由紀夫27歳「につぽん製」より
148 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:37:36 ID:wPrbY4RF
どんな死でもあれ、死は一種の事務的な手続である。
一人死んでも、十人死んでも、同じ涙を流すほかに術がないのは不合理ではあるまいか?
涙を流すことが、泣くことが、何の感情の表現の目安になるといふのか?
われわれには死者に対してまだなすべき多くのことが残つてゐる。悔恨は愚行であり、
ああもできた、かうも出来たと思ひ煩らふのは詮ないことであるが、それは死者に対する
最後の人力の奉仕である。われわれは少しでも永いあひだ、死を人間的な事件、人間的な
劇の範囲に引止めておきたいと希(ねが)ふのである。
記憶はわれわれの意識の上に、時間をしばしば並行させ重複させる。
三島由紀夫「真夏の死」より
149 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:38:06 ID:wPrbY4RF
事実らしさといふことを超えて事実がありうるのはふしぎなことだ。子供が一人海で溺れれば、
誰しも在りうることと思ひ、事実らしいと思ふであらう。しかし三人となると滑稽だ。
しかし又、一万人となれば話は変つてくる。すべて過度なものには滑稽さがあるが、
と謂つて大天災や戦争は滑稽ではない。一人の死は厳粛であり、百万人の死は厳粛である。
一寸した過度、これが曲者なのである。
悲嘆の博愛を信じろと云つても困難である。悲しみは最もエゴイスティックな感情だからである。
自分たちは生きてをり、かれらは死んでゐる。それが朝子には、非常な悪事を働らいて
ゐるやうな心地がした。生きてゐるといふことは、何といふ残酷さだ。
彼女はもう一度、駅前の飲食店の赤い旗や、墓石屋の店先に堆く積まれた花崗岩の純白に
きらめく断面や、その煤けた二階の障子や、屋根瓦や、暮れなづむ空の陶器のやうな
燈明な青を見た。すべてのものがこんなにはつきり見えると朝子は思つた。この残酷な
生の実感には、深い、気も遠くなるほどの安堵があつた。
三島由紀夫「真夏の死」より
150 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:38:25 ID:wPrbY4RF
あれほどの不幸に遭ひながら、気違ひにならないといふ絶望、まだ正気のままでゐる
といふ絶望、人間の神経の強靭さに関する絶望、さういふものを朝子は隈なく味はつた。
(中略)われらを狂気から救ふものは何ものなのか? 生命力なのか? エゴイズムなのか?
狡さなのか? 人間の感受性の限界なのか? 狂気に対するわれわれの理解の不可能が、
われわれを狂気から救つてゐる唯一の力なのか? それともまた、人間には個人的な不幸しか
与へられず、生に対するどんな烈しい懲罰も、あらかじめ個人的な生の耐へうる度合に於て、
与へられてゐるのであらうか? すべては試煉にすぎないのであらうか? しかしただ
理解の錯誤がこの個人的な不幸のうちにも、しばしば理解を絶したものを空想するに
すぎないのであらうか?
事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、
そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
三島由紀夫「真夏の死」より
151 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:39:11 ID:wPrbY4RF
われわれの生には覚醒させる力だけがあるのではない。生は時には人を睡(ねむ)らせる。
よく生きる人はいつも目ざめてゐる人ではない。時には決然と眠ることのできる人である。
死が凍死せんとする人に抵抗しがたい眠りを与へるやうに、生も同じ処方を生きようと
する人に与へることがある。さういふとき生きようとする意志は、はからずもその意志の
死によつて生きる。
朝子を今襲つてゐるのは、この眠りであつた。支へきれない真摯、
固定しようとする誠実、かういふものの上を生はやすやすと軽やかに跳びこえる。もちろん
朝子が守らうとしたものは誠実ではない。守らうとしたのは、死の強ひた一瞬の感動が、
意識の中にいかに完全に生きたかといふ試問である。この試問は多分、死もわれわれの
生の一事件にすぎないといふ残酷な前提を、朝子の知らぬ間に必要としたのである。
男性は通例その移り気に於て女性よりも感傷的なものである。
三島由紀夫27歳「真夏の死」より
152 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:44:27 ID:wPrbY4RF
一寸ばかり芸術的な、一寸ばかり良心的な……。要するに、一寸ばかり、といふことは
何てけがらはしいんだ。
体力の旺盛な青年は、戦争の中に自殺の機会を見出だし、知的な虚弱な青年は、抵抗し、
生き延びたいと感じた。まことに自然である。平和な時代であつても、スポーツは青春の
過剰なエネルギーの自殺の演技であるし、知的な目ざめは、つかのまの解放へ急がうとする
自分の若い肉体に対する抵抗なのだ。それぞれの資質に応じ、抵抗が勝つか、自殺が勝つか
である。通念に反して、杉雄の体験したところでは、戦争は、精神主義時代ではなくて、
肉惑的な時代だつた。飛行機乗りになつた青年たちも、これに同感の意を表するだらうと
思はれる。
三島由紀夫「急停車」より
153 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:44:46 ID:wPrbY4RF
戦争の中に育つた一時代の青春といふものに、世間は無用の誤解をしてゐる、と杉雄は考へた。
戦争は畢竟するに、生ける著名な将軍のためのものではなく、死せる無名の若い兵士たちの
ものなのである。あとにのこされた母や恋人の悲嘆のためのものではなく、死んでゆく
若者自身のエゴイズムのためのものなのである。愕くべきことだが、人間の歴史は、
青春の過剰なエネルギーの徹底的なあますところのない活用の方途としては、まだ戦争以外の
ものを発明してはゐない。青年によつて成就された無血革命があるだらうか?
一刻のちには死ぬかもしれない。しかも今は健康で若くて全的に生きてゐる。かう感じる
ことの、目くるめくやうな感じは、何て甘かつたらう! あれはまるで阿片だ。悪習だ。
一度あの味を知ると、ほかのあらゆる生活が耐へがたくなつてしまふんだ。
三島由紀夫「急停車」より
154 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:45:28 ID:wPrbY4RF
杉雄は戦争中、家人の疎開のために要らなくなつた箪笥(たんす)を、道ばたに出して
投売りをしてゐるのを見た。ひどく廉(やす)かつたが、誰も買はなかつた。
『あれは全く箪笥だつた』と杉雄は思つた。
『明日は灰になるかもしれないが、むしろ、明日は灰になることがわかつてゐただけに、
あれは正真正銘の箪笥だつた。箪笥は道ばたの筵(むしろ)の上で初夏の陽を浴びてゐた。
桐の柾目は美しく落着いて、この箪笥の純良な原料をはつきりと日ざしのなかに誇示してゐた。
ああいふ明瞭な物質を人間は好かないのだ。あれは生活の中に置くには危険すぎるんだ。
もつとあいまいな、図太い存在、一個の永続性のある家具……さういふものに対してだけ
世間は金を払ふらしい』
彼は戯れに少年向のけばけばしい冒険雑誌の頁をめくる。各頁に色彩と行為が氾濫してゐる。
あらゆる人物は、疾走し、射ち、擲(なぐ)り、よろめき、あるひは倒れてゐる。
『俺も子供のころはこんな本に熱中したもんだ』と杉雄は思つた。男の子は誰もこんな本に
熱中する。成長する。成長してみると、行為はどこにも存在しないのだ。
三島由紀夫28歳「急停車」より
155 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 10:49:38 ID:wPrbY4RF
『奇蹟』は何と日常的な面構へをしてゐたらう!
ねえ、レイモン、君は見神者の疲労つて奴を知つてるか。神がかりの人間は、神が去つたあとで、
おそろしい疲労に襲はれるんださうだ。それはまるでいやな、嘔吐を催ほすやうな疲労で、
眠りもならない。神を見た人間は、視力の極致まで、人間能力の極致まで行つてかへつて来る。
ほんの一瞬間でも、そのために心霊の莫大なエネルギーを費つてしまふ。……君のいまの
不眠症は、『ドルヂェル伯の舞踏会』を書いた直接の結果にすぎないのさ。
僕が『天の手袋』と呼んでゐるものを君は識つてゐる筈だ。天は、手を汚さずに僕等に
触れる為めに、手袋をはめることが間々あるのだ。レイモン・ラディゲは天の手袋だつた。
彼の形は手袋のやうにぴつたりと天に合ふのだつた。天が手を抜くと、それは死だ。
……だから僕は、あらかじめ十分用心してゐたのだつた。初めから、僕には、ラディゲは
借りものであつて、やがて返さなければならないことが分つてゐた。……
生きてゐるといふことは一種の綱渡りだ。
三島由紀夫28歳「ラディゲの死」より
156 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 11:14:37 ID:wPrbY4RF
固さは脆さであります。
思想は多少に不拘(かかはらず)、暴力的性質を帯びるものである。
腕力こそは最初の思想である。もし腕力が最初に卵の殻を割らなかつたら、誰が卵を
食用に供しうるといふ思想を発明しえたでありませう。
三島由紀夫28歳「卵」より
高位の貴婦人であらうと、女である以上、愛されるといふことを抜きにしたいかなる権力も
徒である。
一体女には、世を捨てると云つたところで、自分のもつてゐるものを捨てることなど
出来はしない。男だけが、自分の現にもつてゐるものを捨てることができるのである。
三島由紀夫29歳「志賀寺上人の恋」より
健康で油ぎつた皮膚の人間には、みんな蠅のやうなところがある。蠅は腐敗を好むほど
健康なのだ。
貧乏には独特の匂ひがある。貧しい人たち同士はそれで嗅ぎわけるのだ。
三島由紀夫29歳「水音」より
157 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 11:15:11 ID:wPrbY4RF
常套句を口にする男は馬鹿に見えるだけだが、女の場合、それは年齢よりももつと美を
損なふのだ。
われわれ男性は、男のピアニストがどんなに偉くなり、男の政治家がどんなに成功しようと
放置つておくが、ただ同性だからといふ理由で、女の社会的進出をむやみと擁護したり
尻押ししたりする婦人たちがゐる。フランスの或る女流作家が、現代社会では、男性が、
男及び人間といふ二つの領域に采配をふるつてゐるのに、女性は、女といふ領域だけしか、
自分のものにしてゐないと云つてゐるのは正しい。
惚れない限り女には謎はないので、作為的な謎を使つて惚れさせようといふつもりなら、
原因と結果を取違へたものと言はなくてはならない。
外国にゐて日本人の男女が演ずる熱情には、何か郷愁とはちがつた場ちがひな、いたましい
ものがある。
三島由紀夫28歳「不満な女たち」より
158 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:12:09 ID:wPrbY4RF
われらの死後も朝な朝な東方から日が昇つて、われらの知悉してゐる世界を照らすといふ
確信は、幸福な確信である。しかしそれを確実だと信じる理由がわれわれにあるのか?
次郎は愕然と、自分の周囲を見まはした。舟の影一つ見えない海、右方の湾、その彼方の
おぼろげな岬のさま、こんな風景もまた次郎がこれを見てゐないときには、変貌しないと
誰が断言できよう。
認識の中にぬくぬくと坐つてゐる人たちは、いつも認識によつて世界を所有し、世界を
確信してゐる。しかし芸術家は見なければならぬ。認識する代りに、ただ、見なければならぬ。
一度見てしまつたが最後、存在の不確かさは彼を囲繞(ゐねう)するのだ。
「僕は生れてからただの一度も退屈したことがないんだ。それだけが僕の猛烈な幸運なんだ」
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
159 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:12:25 ID:wPrbY4RF
「なぜ作中人物に自分の名前なんか使ふのさ」
「自分の名前は他人の所有物だからさ」
「言葉がすでに他人の所有物だ。それなら『私』だつていいぢやないか」
「なるほど言葉はみんなの共有物だが、『私』といふ言葉はもつとも仮構の共有物だと
思はないかね。誰も僕のことを、『おい、私』なんぞと呼びはしない。決してさう呼ばれない
といふ安心が、『私』の思ひ上りになり、はては権利になる」
「…君の思念の成立ちを描いて、誰がそれを君の思念だと保証するんだ」
「僕の思念、僕の思想、そんなものはありえないんだ。言葉によつて表現されたものは、
もうすでに、厳密には僕のものぢやない。僕はその瞬間に、他人とその思想を共有して
ゐるんだからね」
「では、表現以前の君だけが君のものだといふわけだね」
「それが堕落した世間で云ふ例の個性といふやつだ。ここまで云へばわかるだらう。
つまり個性といふものは決して存在しないんだ」
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
160 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:12:44 ID:wPrbY4RF
「しかし世界の旅へ出たときに、君は肉体を同伴して行かなかつたとは云ふまいね」
「当り前さ。肉体は個性より何百倍も重要だからね。僕は旅行鞄を忘れて行つても、
肉体を忘れて行くことはなかつたね」
「肉体には個性はないかね」
「肉体には類型があるだけだ。神はそれだけ肉体を大事にして、与へるべき自由を
節約したんだ。自由といふやつは精神にくれてやつた。こいつが精神の愛用する手ごろの
玩具さ。……肉体は一定の位置をいつも占めてゐる。世界の旅でいつも僕を愕かせたのは、
肉体が占めることを忘れないこの位置のふしぎさだつた。たとへば僕は夢にまで見た
希臘(ギリシャ)の廃墟に立つてゐた。そのとき僕の肉体が占めてゐたほどの確乎たる
僕の空間を僕の精神はかつて占めたことがなかつたんだ」
「つまり精神には形態がないんだね」
「さうだよ。だから精神は形態をもつやうに努力すべきなんだ」
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
161 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:12:59 ID:wPrbY4RF
「…結局、君は人間を見ないで、物質を見てきたやうな塩梅だね」
「考へても見たまへ。この地球の裏側に一つの町があつて、そこに人間たちの無数の
生活がある。僕は物を言はない人間の生活といふものが、物質のやうに謙虚なことを
学んだんだ」
「君は生命に触れなかつたのか」
「君はその指でもつて生命に触れるとでも言ひたげだね。猥褻だね。生命は指で触れる
もんぢやない。生命は生命で触れるものだ。丁度物質と物質が触れ合ふやうにね。それ以上の
どんな接触が可能だらう。……それにしても旅の思ひ出といふものは、情交の思ひ出と
よく似てゐる。事前の欲望を辿ることはもうできない代りに、その欲望は微妙に変質して
また目前にあるので、思ひ出の行為があたかも遡りうるやうな錯覚を与へる」
どうしても理解できないといふことが人間同士をつなぐ唯一の橋だ。
本当の若者といふものは、かれら自身こそ春なのだから、季節の春なぞには目もくれないで
ゐるべきなのだ。
三島由紀夫「旅の墓碑銘」より
162 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:13:34 ID:wPrbY4RF
「あれこそは正に、人間が人間を見る目つきだつたね」と私は言つた。
次郎は酒を一口ふくんで、笑つて言つた。
「正確に言へばかうさ。あの娘は僕たちが人間であることを、僕たちの人間的な感情を
期待したのさ。他人の目といふやつはもつと清潔さ。相手を物質としか見ないものな。
ところで、他人の目といふやつは、思ふほどザラにはないね。われわれを睨んでゐたときの
彼女の目に似た目なら、われわれの周囲にいくらでも見つかるけどね。家族の目、恋人の目、
仇敵の目、友人の目、愛犬の目、僕らに対して無関心になりたがつてゐる人々の目、
みんなこれだ。それから戦争中、電車の中で空襲警報が鳴りでもしたら、満員の乗客が、
全部あんな目つきでお互ひを見たもんだ。
戦争時代の思ひ出つて全く妙だね。他人が一人もいなかつた。他人らしい清潔な表情を
してゐるのは、路傍にころがつた焼死死体だけだつた」
三島由紀夫28歳「旅の墓碑銘」より
163 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:19:28 ID:wPrbY4RF
人間つて誰でも一つは妙な才能をもつてゐるものだわ。
期待してゐる人間の表情といふものは美しいものだ。そのとき人間はいちばん正直な
表情をしてゐる。自分のすべてを未来に委ね、白紙に還つてゐる表情である。
羞恥がなくて、汚濁もない少女の顔ほど、少年を戸惑はせるものはない。
自分の尊敬する人の話をすることは、いはば初心(うぶ)なフランスの少年が女の子の前で
ナポレオンの話をするのと同様に、持つて廻つた敬虔な愛の告白でもあるのだ。
三島由紀夫「恋の都」より
164 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:22:19 ID:wPrbY4RF
本当のヤクザといふものは、チンピラとちがつて、チャチな凄味を利かせたりしないものである。
映画に出てくる親分は大抵、へんな髭を生やして、妙に鋭い目つきをして、キザな仕立の
背広を着て、ニヤけたバカ丁寧な物の言ひ方をして、それでヤクザをカモフラージュした
つもりでゐるが、本当のヤクザのカモフラージュはもつとずつと巧い。
旧左翼の人に、却つて、如才のない人が多いのと同じことである。
今の世では時代おくれのあの思想は、いつも私の生きる糧だつた。天皇陛下への絶対の愛、
日本人としての絶対の矜り、理窟はどうあらうと、私は五郎さんの肉体を抱きしめるやうに、
あの人の思想を抱きしめて来たんだわ。弱りかかる心、現実を知つて利巧に妥協的になり
かかる心を抑へて、いつも私は心の底からアメリカを憎んでゐた。(中略)皮肉にも
アメリカ人たちの真只中で生活しながら、女の弱い力で、いつも皮肉な反抗をたくらんでゐた。
私は五郎さんを殺した屈辱的な敗戦を決して忘れなかつた。それ以後、私は一度もアメリカに
負けなかつた自信がある。
三島由紀夫「恋の都」より
165 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 16:22:45 ID:wPrbY4RF
自分の最初の判断、最初のねがひごと、そいつがいちばん正しいつてね。なまじ大人になつて
いろいろひねくりまはして考へると、却つて判断をあやまるもんだ。婿えらびをする能力
といふものは、もしかしたら、三十五歳の女より、十六歳の少女のはうが、ずつと豊富に
もつてゐるのかもしれないんだぜ。
君はまだ人生の後悔といふやつのおそろしい味を知らない。そいつは灰の味だ。灰を舐めて
ごらん。しかも毎日毎日舐めてごらん。もうこの世の中から味といふものは消えてしまふんだ。
何を食べても灰の味がする。後悔ほどやりきれないものはこの世の中にないだらう。
三島由紀夫28歳「恋の都」より
166 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 20:58:42 ID:wPrbY4RF
初江は気がついて、今まで丁度胸のところで凭れてゐたコンクリートの縁が、黒く
汚れてゐるのを見た。うつむいて、自分の胸を平手で叩いた。ほとんど固い支へを隠して
ゐたかのやうなセエタアの小高い盛上りは、乱暴に叩かれて微妙に揺れた。新治は感心して
それを眺めた。乳房は、打ちかかる彼女の平手に、却つてじやれてゐる小動物のやうに見えた。
若者はその運動の弾力のある柔らかさに感動した。はたかれた黒い一線の汚れは落ちた。
若者は彼をとりまくこの豊饒な自然と、彼自身との無上の調和を感じた。彼の深く吸ふ息は、
自然をつくりなす目に見えぬものの一部が、若者の体の深みにまで滲み入るやうに思はれ、
彼の聴く潮騒は、海の巨きな潮(うしほ)の流れが、彼の体内の若々しい血潮の流れと
調べを合はせてゐるやうに思はれた。新治は日々の生活に、別に音楽を必要としなかつたが、
自然がそのまま音楽の必要を充たしてゐたからに相違ない。
悪意は善意ほど遠路を行くことはできない。
三島由紀夫「潮騒」より
167 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 20:59:04 ID:wPrbY4RF
新治が女をたくさん知つてゐる若者だつたら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎の
むかうに立つてゐる初江の裸が、まぎれもない処女の体だといふことを見抜いたであらう。
決して色白とはいへない肌は、潮にたえず洗はれて滑らかに引締り、お互ひにはにかんで
ゐるかのやうに心もち顔を背け合つた一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐へる
広やかな胸の上に、薔薇いろの一双の蕾をもちあげてゐた。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
少女は息せいてはゐるが、清らかな弾んだ声で言つた。裸の若者は躊躇しなかつた。
爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまつしぐらに飛び込んだ。次の刹那に
その体は少女のすぐ前にあつた。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。前に赤い
セエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思つた。二人は抱き合つた。
少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
と少女が言つた。
三島由紀夫「潮騒」より
168 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 20:59:25 ID:wPrbY4RF
この乳房を見た女はもう疑ふことができない。それは決して男を知つた乳房ではなく、
まだやつと綻びかけたばかりで、それが一たん花ひらいたらどんなに美しからうと
思はれる胸なのである。
薔薇いろの蕾をもちあげてゐる小高い一双の丘のあひだには、よく日に灼けた、しかも
肌の繊細さと滑らかさと一脈の冷たさを失はない、早春の気を漂はせた谷間があつた。
四肢のととのつた発育と歩を合はせて、乳房の育ちも決して遅れをとつてはゐなかつた。
が、まだいくばくの固みを帯びたそのふくらみは、今や覚めぎはの眠りにゐて、ほんの
羽毛の一触、ほんの微風の愛撫で、目をさましさうに見えるのである。
俺はあの船の行方を知つてゐる。船の生活も、その艱難も、みんな知つてゐるんだ。
男は気力や。気力があればええのや。
三島由紀夫29歳「潮騒」より
169 :
大人の名無しさん:2011/01/25(火) 23:01:43 ID:wPrbY4RF
われわれの内的世界と言葉との最初の出会は、まつたく個性的なものが普遍的なものに
触れることでもあり、また普遍的なものによつて練磨されて個性的なものがはじめて所を
得ることでもある。
「彼女が僕の額をとても美しいつて言つてくれるんだ」(中略)
『ずいぶんおでこだな』と少年は思つた。少しも美しいといふ感想はなかつた。
『僕だつてとてもおでこだ。おでこは美しいといふのとはちがふ』
――そのとき少年は何かに目ざめたのである。恋愛とか人生とかの認識のうちに必ず
入つてくる滑稽な夾雑物、それなしには人生や恋のさなかを生きられないやうな滑稽な
夾雑物を見たのである。すなはち自分のおでこを美しいと思ひ込むこと。
もつと観念的にではあるが、少年も亦、似たやうな思ひ込みを抱いて、人生を生きつつ
あるのかもしれない。ひよつとすると、僕も生きてゐるのかもしれない。この考へには
ぞつとするやうなものがあつた。
三島由紀夫29歳「詩を書く少年」より
170 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:09:44 ID:krclM4NM
ついこの間も、寿産院事件があり、引きつづいて帝銀事件があつた。どちらの事件にも、
彼は別に関係がなかつた。当り前のことだ。一雄はそれを新聞で読んだだけだ。しかし
舞台上の事件と観客とが絶対に関係がないと言ひ切れるだらうか。
なんとなく、みんなが顔色のわるい顔をして、十分いきいきと、たのしくてたまらないやうに
暮してゐた。どんな行為にでも弁疏の自由があつた。辷り台を辷り下りるとき、子供は
どんなにうれしさうな顔をするか。辷り下りるといふことは素晴らしいことなのにちがひない。
重力の法則、この一般的な法則のなかで人は自由になる。その他の個別的な法則はどこかへ
飛んで行つてしまふ。
無秩序もまた、その人を魅する力において一個の法則である。それと絶縁して、その
自由だけをわがものにすることはできないだらうか?
人々は好い気になつて、悪い酒を呑んでは抒情的になつてゐた。メチール・アルコホル入りの
ウイスキイのおかげで、死んだり盲になつたりする人が大ぜいゐた。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
171 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:10:26 ID:krclM4NM
彼のまはりにはあけつぴろげな誘惑があつた。自殺するのはほんたうに簡単だ。自殺をすれば、
国民貯蓄課の属官たちはかう言ふにちがひない。『前途有為な青年がどうして自殺なんか
するのだらう』前途有為といふやつは、他人の僭越な判断だ。大体この二つの観念は必ずしも
矛盾しない。未来を確信するからこそ自殺する男もゐるのだ。朝のラッシュ・アワーの
電車に揉まれてゐて、一雄は誰も叫び出さないのをふしぎに思ふことがあつた。自分の体さへ
思ふままにならない。他人の圧力から、自分の腕をどうにか引つこ抜いて、背中の痒いところを
掻くことさへできない。誰もこんな状態を、秩序の状態だとは思はないだらう。しかし
誰もそれを変改できない。満員電車のなかの、押し黙つた多くの顔の底に、ひとつひとつ
無秩序が住んでゐて、それがお互ひに共鳴し、となりの男の無礼な尻の圧力を是認して
ゐるのだ。ああいふ共鳴は、一度共鳴してしまつたら、とても住みよくなるのだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
172 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:10:43 ID:krclM4NM
鍵のかかる音、あの輪郭のくつきりした小さな音を、一雄は自分の背後に聴いた。
『何て女だ』……彼は別に嘔気(はきけ)もしなかつた。レコードを替へるふりをした。
彼の背後で、そのとき外界が手ぎはよく、遮断された。
まだ宵の口だつた。彼の外界は、その鍵の音で、命令され、強圧され、料理されてしまつた。
途方もなく連続してゐたもの、たとへば、よく清涼飲料の商標にある、若い女が罎の口から
呑んでゐるその罎のレッテルに、また若い女が罎の口から呑んでゐる絵があり、その絵の中の
罎のレッテルにまた若い女が罎の口から呑んでゐる絵のある、(一雄の住んでゐる現実は
さういふ構造をもつてゐた、)無限につながつた現実の連鎖が、小気味よく絶たれてしまつた。
罎のレッテルの中の罎の、そのレッテルの中の罎の、そのレッテルの中の罎の、最後の
レッテルは空白になつた。彼は息がつけた。そしてのろのろと上着を脱いだ。
そのとき女のはうが鍵をかけたといふことはたしかに重要だつた。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
173 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:11:06 ID:krclM4NM
一雄は呑み干したココアの茶碗を置いた。雨は小降りになぞなつてゐなかつた。駅へ
下りてゆく人影が少くなつた。土曜日の午後がはじまつてゐた。『土曜日は人魚だ』と
一雄は思つた。『半ドンの正午のところをまんなかに、上半身は人間で、下半身は魚だ。
俺も魚の部分で、思ひきり泳いでいけないといふ法はないわけだな』
彼女はうるさいほど度々鏡を見た。何かの奇蹟で自分の知らない間に美人に変貌してゐるかも
しれないと思つて、一雄は醜い女もきらひではなかつた。本当に男を尊敬できるのは、
劣等感を持つた女だけだ。
女を抱くとき、われわれは大抵、顔か乳房か局部か太腿かをバラバラに抱いてゐるのだ。
それを総括する「肉体」といふ観念の下(もと)に。
犬だつて女のやうな表情をうかべることがある。むかし一雄が飼つてゐたジョリイはよく
こんな顔をしたものだ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
174 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:11:29 ID:krclM4NM
この世には無害な道楽なんて存在しないと考へたはうが賢明だ。
国民の自覚、といふ言葉で、誰も吹き出さなかつたのはふしぎだつた。「国民」とか
「自覚」とかの言葉には、場末で売つてゐる平べつたいコロッケ、藷(いも)と一緒に
古新聞の切れつぱしなんぞの入つてゐる冷たいコロッケのやうな、妙にユーモラスな
味はひがある。
地位を持つた男たちといふものは、少女みたいな感受性を持つてゐる。いつもでは困るが、
一寸した息抜きに、何でもない男から肩を叩かれると嬉しくなるのだ。
彼はふと自分が流行歌手になつてゐるところを想像した。マドロスの扮装をし、ドーランを塗り、
にやけた表情をする。この空想が彼を刺戟した。歌うたひにはみんな白痴的な素質がある。
歌をうたふといふことは、何か内面的なものの凝固を妨げるのだらう。或る流露感だけに
涵(ひた)つて生きる。そんなら何も人間の形をしてゐる必要はないのだ。この非流動的な、
ごつごつした、骨や肉や血や内蔵から成立つたぶざまな肉体といふもの。これが問題だ。
三島由紀夫「鍵のかかる部屋」より
175 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:13:11 ID:krclM4NM
廿九歳まで童貞でゐられるとはすばらしい才能だ。世界の半分を無瑕(むきず)でとつておく。
それまで女をドアの外に待たして、ゆつくり煙草を吹かしたり、国家財政を研究したり
してゐたのだ。
決して急がない男がゐるものだ。世間で彼は「自信のある男」と呼ばれる。蝿取紙のやうに
ぶらぶら揺れて待つてゐる。人生が蝿のやうに次々とくつつくのだ。かういふ男はどんなに
蝿を馬鹿と思ひ込んで、一生を終るだらう。事実は、蝿取紙に引つかからない利口な蝿も
ゐることはゐるのだが。
不死は、子や孫にうけつがれるなんて嘘だ。不死の観念は他人にうけつがれるのだ。
三島由紀夫29歳「鍵のかかる部屋」より
176 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:20:31 ID:krclM4NM
この世界には何かが欠けてゐる。たとしへなく大きなもので、しかも目に見えないものが
欠けてゐる。根本的な条件が欠けてゐるのだ。
銹(さ)びた鉄の水呑場は大そう高く、小さな男の児は母親に体をもちあげてもらつて、
足を宙に浮かして水を呑まねばならない。小さなとんがらかした唇が、不安定な様子で、
小まめに吹き出てゐる水に近づく。水は外れて、鼻孔に入つてしまつた。男の児は泣き出した。
こんな重大な蹉跌には、誰だつて泣くだけの値打がある。
自動車博覧会の雑沓の只中に、誰の才覚でこんな硝子の小さな箱が設けられたのだらう。
誰の才覚で、その硝子の内側に水が注がれ、金魚が放り込まれたのだらう、無意識の善意とか、
無意識の悪意とかいふものは本当にある。さういふものが考へつくのは、いつもかうしたことだ。
三島由紀夫29歳「博覧会」より
177 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:22:11 ID:krclM4NM
日本でも天の宇受売の命(うずめのみこと)がさうであるが、古来、踊りをやる人には、
多少常規を逸したところがある。かのイサドラ・ダンカンも、ギリシアを訪れて、アテネの
ゼウス神殿オリュンピエイオンで、突如として古代の霊感に搏たれ、月明りの下に全裸の姿で
一人踊り狂つたと伝へられる。
三島由紀夫29歳「芸術狐」より
戦前でも、ダム工事のための資金は、主としてアメリカの外資によつてゐたことを知つて
ゐる人は案外すくない。戦前から電力会社は、ダム建設のために一億数千万弗(ドル)の
社債を、アメリカへ売りに行つてゐたのである。
三島由紀夫30歳「山の魂」より
職人気質(かたぎ)といふものは今もあり、かういふ人たちの廉恥心、実直、正直、仕事熱心、
寡黙、仕事の出来栄えについての良心、などの美徳は、今も決して衰へてゐるのではない。
この物語の不幸は、ある女が、さういふ美徳を疑つてかかつたことから起つたのである。
だからわれわれは、もうなくなつてしまつたと世間で思はれてゐる美徳をも、信じるやうに
しなければならない。
三島由紀夫30歳「屋根を歩む」より
178 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:45:25 ID:krclM4NM
女はたえず美しいと言はれてゐることを、決してうるさくは感じないのである。
実際、美といふものは、崇拝と信仰によつて、はじめて到達しうるものかもしれない。
男の天才、女の美貌、これこそは神様のさづかりもので、あだやおろそかにはできんのだよ。
天才といふやつは、自分で自分が思ふやうにならず、この世の通常ののぞみは全部捨て
なければならん宿命に生まれついてゐる。美人も同様に不自由な存在なのさ。自分で
自分の美に一生奉仕しなければならんのだ。
美に対する女性の感受性は、凡庸でなければならなかつた。機関車を美しいと思ふやうでは
女もおしまひである。女にはまた、一定数の怖ろしいものがなければならず、蛇とか毛虫とか
船酔とか怪談とか、さういふものは心底から怖がらなければならぬ。夕日とか菫の花とか
風鈴とか美しい小鳥とか、さういふ凡庸な美に対する飽くことのない傾倒が、女性を真に
魅力あるものにするのである。
三島由紀夫「女神」より
179 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:45:42 ID:krclM4NM
何も人形のやうな美だけが美しいといふのではないが、個性美は飽きの来るものである。
もつとも大切なのは優雅だ。女の個性が優雅をはみ出すと大てい化物になつてしまふ。
一芸に秀でることはもつとも禁物だつた。美といふものは本来微妙な均衡の上にしか
成立たないものだから。
女をわれわれが美しいと思ふのは、欲望があるからですよ。ほんたうに欲望を去つて、
なほかつ女が美しく見えるかどうか、僕には、はなはだ疑問なんです。自然とか静物なら
美しさがよくわかるし、その美しさは多分贋物ぢやないでせう。しかし女はね。
僕はいはゆる美人を見ると、美しいなんて思つたことはありません。ただ欲望を感じるだけです。
不美人のはうが美といふ観念からすれば、純粋に美しいのかもしれません。何故つて、
醜い女なら、欲望なしに見ることができますからね。
三島由紀夫「女神」より
180 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:46:03 ID:krclM4NM
実に神秘なことだが、美といふものは第三者から見て快いのみならず、美しい者のお互に
とつても快いのである。お互が自分の美しさを知つてゐても、鏡によらずしてはそれを
見ることができないといふのは宿命的なことだ。自分が美しいといふ認識は、たえず自分から
逃げてゆくあいまいな不透明な認識であつた。結局この世では他人の美がすべてなのだ。
女の人には、自分で直観的に見た鏡が、いちばん気に入る肖像画なんです。それ以上の
ものはありませんよ。
四方八方を火にかこまれて、君は氷になつてれば大丈夫だと思つてゐるんでせう。
考へちがひも甚だしい。氷は火に溶かされてしまふんですよ。どんな厚い氷だつて。
いいですか。火に対抗するのには氷といふのはまちがひですよ。火には火、もつと強い、
もつと猛烈な火になることです。相手の火を滅ぼしてしまふくらいな猛火になることですよ。
さうしなければ、あなたの方が滅びます。
一つの悪い評判といふものは、十の悪い評判とつながつてゐるものなんです。
三島由紀夫29歳「女神」より
181 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 10:51:40 ID:krclM4NM
安里は自分がいつ信仰を失つたか、思ひ出すことができない。ただ、今もありありと
思ひ出すのは、いくら祈つても分かれなかつた夕映えの海の不思議である。奇蹟の幻影より
一層不可解なその事実。何のふしぎもなく、基督の幻をうけ入れた少年の心が、決して
分れようとしない夕焼の海に直面したときのあの不思議……。
安里は遠い稲村ヶ崎の海の一線を見る。信仰を失つた安里は、今はその海が二つに割れる
ことなどを信じない。しかし今も解せない神秘は、あのときの思ひも及ばぬ挫折、たうとう
分かれなかつた海の真紅の煌めきにひそんでゐる。
おそらく安里の一生にとつて、海がもし二つに分かれるならば、それはあの一瞬を措いては
なかつたのだ。さうした一瞬にあつてさへ、海が夕焼に燃えたまま黙々とひろがつてゐた
あの不思議……。
三島由紀夫30歳「海と夕焼」より
182 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:21:33 ID:krclM4NM
祖父は私慾のない人だつたが、たとへ単なる私慾も、程度が強まり輪郭がひろがれば、
人間のふしぎな本能から、無私の要素を含まずにはいられない。同時に無私の情熱も、
ちよつと弛んだ刹那には私慾に似るのだ。昇は祖父のうに自己放棄の達人を見た。
『しかし集中といふことは、夢中になるといふことぢやない。問題は持続だ……』
祖父は目的を弁(わきま)へなかつたが、自分の効用はいつも自覚してゐた。箒が、
「自分は物を掃くためにある」と確信してゐるあひだは、どんなことをしたつて箒は孤独に
ならない。
『孤独といふやつがいけない。空間的に結びつきのない人間が、時間的に持続するわけがない。
俺は何に結びつくことができるだらう』
まだ持たないものを思ひ描くことは人を酔はせるが、現に持つてゐるものはわれわれを
酔はせない。もし酔ふとしても、それは人工的な酔ひである。
しかしそもそも性慾とは、人間を愛することであらうか?
三島由紀夫「沈める滝」より
183 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:21:47 ID:krclM4NM
負と負を掛けて正になる数式のやうに、退屈した人間とのお喋りだけが、退屈した人間を、
正にその退屈から救ふのかもしれない。
誰をも愛することのできない二人がかうして会つたのだから、嘘からまことを、虚妄から
真実を作り出し、愛を合成することができるのではないか。負と負を掛け合はせて正を
生む数式のやうに。
遊び飽いた人間といふものには、一種独特の匂ひがある。遊び人同士はお互ひの嗅覚で
すぐそれを嗅ぎあてる。
なるほどあの文面には、やさしい真実を述べた部分もあつた。しかしそんな部分だけを
信じようといふ甘さは、もう俺にはない。信じるなら、仕方ないから、丸ごと信じなくちや。
なるほど、女の真実を信じることと、女の嘘を信じることは、まるきり同じことなんだ。
われわれは何も恋文の巧さに動かされはしない。われわれを動かすのは概してありきたりな、
しかし虚飾のない手紙である。
三島由紀夫「沈める滝」より
184 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:22:12 ID:krclM4NM
技術がもし完全に機械化される時代が来れば、人間の情熱は根絶やしにされ、精力は無用の
ものになるだらうから、科学技術の進歩にそそがれる情熱や精力は、かかる自己否定的な
側面をも持つてゐる。しかし幸ひにして、事態はまだそこまでは来てゐない。
ダム建設はこのやうな意味で、一種の象徴的な事業だと思はれた。われわれが山や川の、
自然のなほ未開拓な効用をうけとる。今日では幸ひに、われわれ自身の人間的能力である情熱や
精力の発揮の代償としてうけとるのだ。そして自然の効用が発掘しつくされ、地球が滓まで
利用されて荒廃の極に達するまでは、人間の情熱や精力は根絶やしにはされまいといふ確信が
昇にはあつた。
ダム建設の技術は、自然と人間との戦ひであると共に対話でもあり、自然の未知の効用を
掘り出すためにおのれの未知の人間的能力を自覚する一種の自己発見でなければならなかつた。
三島由紀夫「沈める滝」より
185 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:22:29 ID:krclM4NM
あの幸福な予定調和を失ひ、人間主義の下における使命感と分業の意識を失つた技術は、
孤独になりながらも、今日ではエヴェレスト征服にも似たかうした人間的な意味をもつ
やうになつた。
盲目になれる才能、……内に発見するためには盲目にならなければならない。昇は
「集中の才能」と云はうとして、さう云つたのであつた。彼はしかし見るだけの人間が、
決して行為しないのを知つてゐた。
昇はといへば、田代はその母親が子供に遠慮して恋を諦らめたときの絶望を、すこしも
斟酌してゐないのにおどろいた。どんな種類の愛情でも必ずエゴイズムの形をとる。
悲劇を演じるやうな見かけを持つて生れなかつた男が、悲劇を演じなければならないとは、
本当の悲劇である。
素朴な感情には本来素朴な表現形式がそなはつてゐるものである。
三島由紀夫「沈める滝」より
186 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:22:48 ID:krclM4NM
夕食後のストーヴのまはりのひとときは、朝から電灯をつけて暮す暗い一日のうちでも、
一等心のやすまる時刻である。にせものの夜の中から、本当の夜がはじまる。電灯のあかりは、
煌めきを増し、暖かみを帯びる。時折あけられる石炭の投入口から、のぞかれるストーヴの
焔は、新鮮な懐かしい火の色をしてゐる。
公衆を前にして自分の役を演ずることは容易ではないが、却つて孤独のはうがわれわれを、
われとわが役の意識せざる俳優にしてしまふのに力がある。
女たちの纏ふものは、みんな、藻だの、鱗だの、海に似たものを思ひ出させると昇は思つた。
しかし漂つてゐるのは磯の香ではない。ものうげな、濃密な、甘くて暗い匂ひである。
夜の匂ひといふよりは、女たちの時刻、午後の匂ひである。
「あなたはダムでした。感情の水を堰(せ)き、氾濫させてしまふのです。生きてゐるのが
怖ろしくなりました。さやうなら。顕子」
三島由紀夫「沈める滝」より
187 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:24:51 ID:krclM4NM
どんな分野にも、陰惨なほど真摯な権威者といふものが居り、金魚のことなら世界的権威で
あつたり、楔形(せつけい)文字についてはその人にきかなければならないと云ふやうな
人がゐる。普遍的であるべき科学的技術の世界にもさういふ人がゐて、神秘な力で、
ほかの人たちの上に、卓越してゐるのを見るのはふしぎなことである。
こんな種類の人間を押し進めてゆく情熱には、何か最初に、最低の線でしか社会と
つながるまいとする決意があつて、結果的には心ならずも、最高の線で社会とつながつて
しまふやうになるものだ。昇の途方もない明るさと朗らかさには、拒絶の身振に似たものがあつた。
出来上つてみると、岩壁の屏風を左右に控へたこの百五十米(メートル)の高堰堤は、
工事に携はらない人の心にも、当然の威圧感と一緒に、一種の解放感を与へずには措かなかつた。
時として精神の解放には、巨人的なもの、威圧的なもの、精神をほとんど押しつぶすやうな
ものが必要である。
「丁度俺の立つてゐるこの下のところに小さな滝があつたんだ」
三島由紀夫30歳「沈める滝」より
188 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:26:30 ID:krclM4NM
過度の男らしさといふものは、女には通じないものである。
敏夫は妹思ひ、妹は兄思ひで、ほとんど一心同体でした。一人が家出すれば、もう一人も
きつと家出したでせうし、敏夫が三津子に同情して家出したのやら、その反対やら、まるで
わかりませんわ。あの兄妹は、兄妹といふより恋人同士でした。そりやあお互ひに好き合つて
ゐました。あんな愛情は、きつと自分でも知らずに、血のつながつてゐないといふことの
ふしぎな直感から、生れたものにちがひありませんわ」
「でもあの二人は、永久にそれを知らずにすぎてしまふわけですわね。又いつか日本へ
かへつて、私たちの前に現はれでもしない限り」
「永久にですわね、先生。永久に兄妹の愛に終つてしまふんですわね。世界中で一等
愛し合つてゐる二人なのに、恋人にもなれず、夫婦にもなれずに」
「永久に清らかな愛のままで。……でもそれが不幸でせうか」
「さあ、不幸か幸福かそれはわかりません」
三島由紀夫30歳「幸福号出帆」より
189 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 15:34:20 ID:krclM4NM
たとへば医者はやはり人間を扱ふ職業だが、患者に対する同情に溺れてはならぬといふ
彼の自戒も、畢竟するところ、人間の病気を治すといふ医学の人間的な目的に包まれて、
一種の人間的な自戒だと考へることができるだらう。しかし文学はちがふ。芸術には
人間的な目的といふものはないのだ。
私は自分が幸福になるのを怖れた。幸福とは、人間的なものすべてとの親和の感情だからだ。
たとへ家族であつても、私と人間どもとの間には、越えてはならぬ境界があつた。さうだ。
小説家における人間的なものは、細菌学者における細菌に似てゐる。感染しないやうに、
ピンセットで扱はねばならぬ。言葉といふピンセットで。……しかし本当に細菌の秘密を
知るには、いつかそれに感染しなければならぬのかもしれないのだ。そして私は感染を、
つまり幸福になることを、怖れた。
若さはいろんなあやまちを犯すものだが、さうして犯すあやまちは人生に対する礼儀の
やうなものだ。
青年の文学的な思ひ込みなどは下らんものだ。実際下らんものだ。
三島由紀夫31歳「施餓鬼舟」より
190 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:22:39 ID:krclM4NM
どんな不キリョウな犬でも、飼ひ馴れれば、可愛くなる。
幸福といふものは、どうしてこんなに不安なのだらう!
実際的な話かい? 民法第三部にみんな書いてあるよ。法律が全部で、人間は種々さまざまさ。
誰も他人に忠告なんて与へられやしないよ。だから法律が、結局、人間生活のすべてなんだ。
はじめ思想や主義を作るのは男の人でせうね。何しろ男はヒマだから。高倉さんだつて
うちの会長ですものね。でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあひなんてことを
考へないですむもの。
人間には憎んだり、戦つたり、勝つたり、さういふ原始的な感情がどうしても必要なんだ。
君たちのは温室の中の愛だよ。そんなものは今夜捨ててしまへ。
三島由紀夫「永すぎた春」より
191 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:23:02 ID:krclM4NM
毎日通る町の一軒が火事で焼け、やがて新築されても、その間の変化を全然気づかずに
毎日歩いてゐる人がある。元一氏の心境もこれに近かつたらう。しかるに宝部夫人は、
毎日同じ着物をつづけて着たことはなく、毎月同じ髪型をしてゐることはなかつたのである。
宝部夫人はそのことに多大の不服をとなへるわけでもなかつた。美しい身なりをして、
美しい顔で町を歩くことは、一種の都市美化運動だとでも考へてゐるらしく、それ以上の
野心は持たなかつた。
現実といふものは、袋小路かと思ふと、また妙な具合にひらけてくる。
自分が小説的事件の渦中に入つてしまふと、小説家ほど無力なものはない。
大体この「雲の上人」は、他人の心なんかわからない人間だつた。さういふ人間が小説を
書きだすとは不思議なことだが、おそらく他人の心のわかりすぎる人間は、小説なんか
書かないのであらう。
三島由紀夫「永すぎた春」より
192 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:23:29 ID:krclM4NM
家といふものは威張つて立つてゐても、案外脆くて、どこか一ヶ所を引張ると、他愛なく
ガラガラと崩れて来るものだつた。家が崩れるときに、青空にモウモウと上る土埃は、
彼ら少年に、自分たちの破壊の力を確信させた。建設よりも破壊のはうが、ずつと自分の
力の証拠を目のあたり見せてくれるものだつた。
皆が等分に幸福になる解決なんて、お伽噺にしかないんですもの。でも私、いつか兄も、
幸福になつてほしいと本気で思つてゐるの。
あつちには病人がをり、こつちにはもう数週間で結婚する二人がゐる。人生つてさうしたもんさ。
さうして朝は、誰にとつても朝なんだ。
他人のことを考へることが、私たちのことを考へることでもあるのね。
「兄さんにすまない、なんて言ひつこなしだな」
「さうだわ。誰にもすまないなんて思はない。幸福つて、素直に、ありがたく、腕いつぱいに
もらつていいものなのね」
三島由紀夫31歳「永すぎた春」より
193 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:29:19 ID:krclM4NM
吃りが、最初の音を発するために焦りにあせつてゐるあひだ、彼は内界の濃密な黐(もち)から
身を引き離さうとじたばたしてゐる小鳥にも似てゐる。やつと身を引き離したときには、
もう遅い。なるほど外界の現実は、私がじたばたしてゐるあひだ、手を休めて待つてゐて
くれるやうに思はれる場合がある。しかし待つてゐてくれる現実はもう新鮮な現実ではない。
私が手間をかけてやつと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれて
しまつた、……さうしてそれだけが私にふさはしく思はれる、鮮度の落ちた現実、半ば
腐臭を放つ現実が、横たはつてゐるばかりであつた。
何か拭ひがたい負け目を持つた少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考へるのは、
当然ではあるまいか。この世のどこかに、まだ私自身の知らない使命が私を待つてゐるやうな
気がした。
三島由紀夫「金閣寺」より
194 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:29:37 ID:krclM4NM
彼女は捕はれの狂女のやうに見えた。月の下に、その顔は動かなかつた。
私は今まで、あれほど拒否にあふれた顔を見たことがない。私は自分の顔を、世界から
拒まれた顔だと思つてゐる。しかるに有為子の顔は世界を拒んでゐた。月の光りはその額や
目や鼻筋や頬の上を容赦なく流れてゐたが、不動の顔はただその光りに洗はれてゐた。
一寸目を動かし、一寸口を動かせば、彼女が拒まうとしてゐる世界は、それを合図に、
そこから雪崩れ込んで来るだらう。
私は息を詰めてそれに見入つた。歴史はそこで中断され、未来へ向つても過去へ向つても、
何一つ語りかけない顔。さういふふしぎな顔を、われわれは、今伐り倒されたばかりの
切株の上に見ることがある。新鮮で、みづみづしい色を帯びてゐても、成長はそこで途絶え、
浴びるべき筈のなかつた風と日光を浴び、本来自分のものではない世界に突如として
曝されたその断面に、美しい木目が描いたふしぎな顔。ただ拒むために、こちらの世界へ
さし出されてゐる顔。……
三島由紀夫「金閣寺」より
195 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 20:30:00 ID:krclM4NM
鈍感な人たちは、血が流れなければ狼狽しない。が、血の流れたときは、悲劇は終つて
しまつたあとなのである。
夜空の月のやうに、金閣は暗黒時代の象徴として造られたのだつた。そこで私の夢想の金閣は、
その周囲に押しよせてゐる闇の背景を必要とした。闇のなかに、美しい細身の柱の構造が、
内から微光を放つて、じつと静かに坐つてゐた。人がこの建築にどんな言葉で語りかけても、
美しい金閣は、無言で、繊細な構造をあらはにして、周囲の闇に耐へてゐなければならぬ。
金閣はおびただしい夜を渡つてきた。いつ果てるともしれぬ航海。そして、昼の間といふもの、
このふしぎな船はそしらぬ顔で碇を下ろし、大ぜいの人が見物するのに委せ、夜が来ると
周囲の闇に勢ひを得て、その屋根を帆のやうにふくらませて出航したのである。
私が人生で最初にぶつかつた難問は、美といふことだつたと言つても過言ではない。
三島由紀夫「金閣寺」より
196 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:40:03 ID:krclM4NM
父の顔は初夏の花々に埋もれてゐた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きてゐた。
花々は井戸の底をのぞき込んでゐるやうだつた。なぜなら、死人の顔は生きてゐる顔の
持つてゐた存在の表面から無限に陥没し、われわれに向けられてゐた面の縁のやうなもの
だけを残して、二度と引き上げられないほどの奥のはうへ落つこちてゐたのだから。
物質といふものが、いかにわれわれから遠くに存在し、その存在の仕方が、いかにわれわれから
手の届かないものであるかといふことを、死顔ほど如実に語つてくれるものはなかつた。
対面などではなく、私はただ父の死顔を見てゐた。
屍はただ見られてゐる。私はただ見てゐる。見るといふこと、ふだん何の意識もなしに
してゐるとほり、見るといふことが、こんなに生ける者の権利の証明でもあり、残酷さの
表示でもありうるとは、私にとつて鮮やかな体験だつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
197 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:40:23 ID:krclM4NM
私といふ存在から吃りを差引いて、なほ私でありうるといふ発見を、鶴川のやさしさが私に教へた。
私はすつぱりと裸かにされた快さを隈なく味はつた。鶴川の長い睫にふちどられた目は、
私から吃りだけを漉し取つて、私を受け容れてゐた。それまでの私はといへば、吃りで
あることを無視されることは、それがそのまま、私といふ存在を抹殺されることだ、
と奇妙に信じ込んでゐたのだから。
私は今でもふしぎに思ふことがある。もともと私は暗黒の思想にとらはれてゐたのではなかつた。
私の関心、私に与へられた難問は美だけである筈だつた。しかし戦争が私に作用して、
暗黒の思想を抱かせたなどと思ふまい。美といふことだけを思ひつめると、人間はこの世で
最も暗黒な思想にしらずしらずぶつかるのである。人間は多分さういふ風に出来てゐるのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
198 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:43:46 ID:krclM4NM
京都では空襲に見舞はれなかつたが、一度工場から出張を命ぜられ、飛行機部品の発注書類を
持つて、大阪の親工場へ行つたとき、たまたま空襲があつて、腸の露出した工員が担架で
運ばれてゆく様を見たことがある。
なぜ露出した腸が凄惨なのだらう。何故人間の内側を見て、悚然として、目を覆つたり
しなければならないのであらう。何故血の流出が、人に衝撃を与へるのだらう。何故人間の
内臓が醜いのだらう。……それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質の
ものではないか。……私が自分の醜さを無に化するやうなかういふ考へ方を、鶴川から
教はつたと云つたら、彼はどんな顔をするだらうか? 内側と外側、たとへば人間を
薔薇の花のやうに内も外もないものとして眺めること、この考へがどうして非人間的に
見えてくるのであらうか? もし人間がその精神の内側と肉体の内側を、薔薇の花弁のやうに、
しなやかに飜へし、捲き返して、日光や五月の微風にさらすことができたとしたら……
三島由紀夫「金閣寺」より
199 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:44:06 ID:krclM4NM
『金閣と私との関係は絶たれたんだ』と私は考へた。『これで私と金閣とが同じ世界に
住んでゐるといふ夢想は崩れた。またもとの、もとよりのもつと望みのない事態がはじまる。
美がそこにをり、私はこちらにゐるといふ事態。この世のつづくかぎり渝(かは)らぬ
事態……』
敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の
焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、
永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した。金閣がそこに未来永劫存在するといふことを
語つてゐる永遠。
天から降つて来て、われわれの頬に、手に、腹に貼りついて、われわれを埋めてしまふ永遠。
この呪はしいもの。……さうだ。まはりの山々の蝉の声にも、終戦の日に、私はこの
呪詛のやうな永遠を聴いた。それが私を金いろの壁土に塗りこめてしまつてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より
200 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:44:24 ID:krclM4NM
戦争に敗けたからと云つて、決して私は不幸なのではなかつた。しかし老師のあの満ち足りた
幸福さうな顔は気にかかつた。
私は禅僧にも肉体のあることがふしぎでならなかつた。老師が女遊びをし尽したのは、
肉体を捨離して、肉を軽蔑するためだつたと思はれる。それなのに、その軽蔑された肉が
思ふまま栄養を吸つて、つやつやして、老師の精神を包んでゐるのはふしぎに思はれる。
よく馴らされた家畜のやうな温順な、謙譲な肉。和尚の精神にとつては、まさに妾のやうな
その肉……。
私にとつて、敗戦が何であつたかを言つておかなくてはならない。
それは解放ではなかつた。断じて解放ではなかつた。不変のもの、永遠なもの、日常のなかに
融け込んでゐる仏教的な時間の復活に他ならなかつた。
『世間の人たちが、生活と行動で悪を味はふなら、私は内界の悪に、できるだけ深く
沈んでやらう』
三島由紀夫「金閣寺」より
201 :
大人の名無しさん:2011/01/26(水) 22:44:52 ID:krclM4NM
「君は、未来のことに、何の不安も希望も持たへんのか?」
「持つてないんだ、何も。だつて、持つてゐて何になるんだ」
かう答へた鶴川の語調には、わづかな暗さも、投げやりな調子もなかつた。そのとき稲妻が、
彼の顔だちの唯一の繊細な部分である細いなだらかな眉を照らし出した。床屋がさうするままに、
鶴川は眉の上下を剃らせるらしかつた。そこで細い眉はいよいよ人工的に細く、眉の
はづれの一部に、剃りあとの仄かな青い翳を宿してゐた。
私はちらとその青さを見て、不安に搏たれた。この少年は私などとはちがつて、生命の
純潔な末端のところで燃えてゐるのだ。燃えるまでは、未来は隠されてゐる。未来の灯芯は
透明な冷たい油のなかに涵つてゐる。誰が自分の純潔と無垢を予見する必要があるだらう。
もし未来に純潔と無垢だけしか残されてゐないならば。
三島由紀夫「金閣寺」より
202 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:21:34 ID:+iOlM7yl
雪は私たちを少年らしい気持にさせる。
雪に包まれた金閣の美しさは、比べるものがなかつた。この吹き抜けの建築は、雪のなかに、
雪が吹き入るのに委せたまま、細身の柱を林立させて、すがすがしい素肌で立つてゐた。
どうして雪は吃らぬのか? と私は考へた。それは八つ手の葉に障(さや)るときなど、
吃つたやうに降つて、地に落ちることもあつた。しかし遮ぎるもののない空から、流麗に
落ちてくる雪を浴びてゐると、私の心の屈曲は忘れられ、音楽を浴びてゐるやうに、私の
精神はすなほな律動を取戻した。
事実、立体的な金閣は、雪のおかげで、何事をも挑みかけない平面的な金閣、画中の金閣に
なつてゐた。両岸の紅葉山の枯枝は、雪をほとんど支へ得ないで、その林はいつもよりも
裸かに見えた。をちこちの松に積む雪は壮麗だつた。池の氷の上にはさらに雪がつもり、
ふしぎにつもらぬ個所もあつて、白い大まかな斑(まだ)らは、装飾画の雲のやうに大胆に
ゑがかれてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より
203 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:21:52 ID:+iOlM7yl
肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持つてゐる。不具者も、美貌の女も、
見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追ひつめられて、
存在そのもので見返してゐる。見たはうが勝なのだ。
滑稽な外形を持つた男は、まちがつて自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知つてゐる。
もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなるのを
知つてゐるからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。
そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在してゐないといふ贅沢な不満から生まれるもの
ではないのか。
不安もない。愛も、ないのだ。世界は永久に停止してをり、同時に到達してゐるのだ。
この世界にわざわざ、「われわれの世界」と註する必要があるだらうか。俺はかくて、
世間の「愛」に関する迷蒙を一言の下に定義することができる。それは仮象が実相に
結びつかうとする迷蒙だと。
三島由紀夫「金閣寺」より
204 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:22:08 ID:+iOlM7yl
戦争中の安寧秩序は、人の非業の死の公開によつて保たれてゐたと思はないかね。
死刑の公開が行はれなくなつたのは、人心を殺伐ならしめると考へられたからださうだ。
ばかげた話さ。空襲中の死体を片附けてゐた人たちは、みんなやさしい快活な様子をしてゐた。
人の苦悶と血と断末魔の呻きを見ることは、人間を謙虚にし、人の心を繊細に、明るく、
和やかにするんだのに。俺たちが残虐になつたり、殺伐になつたりするのは、決して
そんなときではない。俺たちが突如として残虐になるのは、たとへばこんなうららかな
春の午後、よく刈り込まれた芝生の上に、木洩れ陽の戯れてゐるのをぼんやり眺めてゐる
ときのやうな、さういふ瞬間だと思はないかね。
世界中のありとあらゆる悪夢、歴史上のありとあらゆる悪夢はさういふ風にして生れたんだ。
しかし白日の下に、血みどろになつて悶絶する人の姿は、悪夢にはつきりした輪郭を与へ、
悪夢を物質化してしまふ。
三島由紀夫「金閣寺」より
205 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:22:43 ID:+iOlM7yl
隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、
私に断念を要求する権利があつたであらう。一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で
人生に触れることは不可能である。人生に対する行為の意味が、或る瞬間に対して忠実を誓ひ、
その瞬間を立止らせることにあるとすれば、おそらく金閣はこれを知悉してゐて、わづかの
あひだ私の疎外を取消し、金閣自らがさういふ瞬間に化身して、私の人生への渇望の虚しさを
知らせに来たのだと思はれる。人生に於て、永遠に化身した瞬間は、われわれを酔はせるが、
それはこのときの金閣のやうに、瞬間に化身した永遠の姿に比べれば、物の数でもないことを
金閣は知悉してゐた。美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのは
まさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、かうした毒の前には
ひとたまりもない。それは忽ちにして崩壊し、滅亡し、生そのものをも、滅亡の白茶けた
光りの下に露呈してしまふのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
206 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:23:01 ID:+iOlM7yl
禅は無相を体とするといはれ、自分の心が形も相もないものだと知ることがすなはち見性だと
いはれるが、無相をそのまま見るほどの見性の能力は、おそらくまた、形態の魅力に対して
極度に鋭敏でなければならない筈だ。形や相を無私の鋭敏さで見ることのできない者が、
どうして無形や無相をそれほどありありと見、ありありと知ることができよう。かくて
鶴川のやうに、そこに存在するだけで光りを放つてゐたもの、それに目も触れ手も触れる
ことのできたもの、いはば生のための生とも呼ぶべきものは、それが喪はれた今では、
その明瞭な形態が不明瞭な無形態のもつとも明確な比喩であり、その実在感が形のない虚無の
もつとも実在的な模型であり、彼その人がかうした比喩にすぎなかつたのではないかと思はれた。
たとへば、彼と五月の花々との似つかはしさ、ふさはしさは、他でもないこの五月の突然の
死によつて、彼の柩に投げこまれた花々との、似つかはしさ、ふさはしさなのであつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
207 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:26:52 ID:+iOlM7yl
狂人でなければ企てられない行為を罰するためには、事前にどうやつて狂人を嚇かすべきか。
おそらく狂人にしか読めない文字が必要になるだらう。……
柏木を深く知るにつれてわかつたことだが、彼は永保ちする美がきらひなのであつた。
たちまち消える音楽とか、数日のうちに枯れる活け花とか、彼の好みはさういふものに限られ、
建築や文学を憎んでゐた。彼が金閣へやって来たのも、月の照る間の金閣だけを索めて
来たのに相違なかつた。それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ! 吹奏者が成就する
その短かい美は、一定の時間を純粋な持続に変へ、確実に繰り返されず、蜉蝣のやうな短命な
生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものは
なく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかつた。
そして柏木が「御所車」を奏でをはつた瞬間に、音楽、この架空の生命は死に、彼の醜い
肉体と暗鬱な認識とは、少しも傷つけられずに変改されずに、又そこに残つてゐたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
208 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:27:16 ID:+iOlM7yl
柏木が美に索めてゐるものは、確実に慰藉ではなかつた! 言はず語らずのうちに、
私にはそれがわかつた。彼は自分の唇が尺八の歌口に吹きこむ息の、しばらくの間、
中空に成就する美のあとに、自分の内飜足と暗い認識が、前にもましてありありと新鮮に
残ることのはうを愛してゐたのだ。美の無益さ、美がわが体内をとほりすぎて跡形もないこと、
それが絶対に何ものをも変へぬこと、……柏木の愛したのはそれだつたのだ。美が私にとつても
そのやうなものであつたとしたら、私の人生はどんなに身軽になつてゐたことだらう。
……柏木の導くままに、何度となく、飽かずに私は試みた。顔は充血し、息は迫つて来た。
そのとき急に私が鳥になり、私の咽喉から鳥の啼声が洩れたかのやうに、尺八が野太い音の
一声をひびかせた。
「それだ」
と柏木が笑つて叫んだ。決して美しい音ではないが、同じ音は次々と出た。そのとき私は、
わがものとも思はれぬこの神秘な声音から、頭上の金銅の鳳凰の声を夢みてゐたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
209 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:27:45 ID:+iOlM7yl
美といふものは、さうだ、何と云つたらいいか、虫歯のやうなものなんだ。それは舌にさはり、
引つかかり、痛み、自分の存在を主張する。たうとう痛みにたへられなくなつて、歯医者に
抜いてもらふ。血まみれの小さな茶いろの汚れた歯を自分の掌にのせてみて、人は
かう言はないだらうか。『これか? こんなものだつたのか? 俺に痛みを与へ、俺に
たえずその存在を思ひわづらはせ、さうして俺の内部に頑固に根を張つてゐたものは、
今では死んだ物質にすぎぬ。しかしあれとこれとは本当に同じものだらうか? もしこれが
もともと俺の外部存在であつたのなら、どうして、いかなる因縁によつて、俺の内部に
結びつき、俺の痛みの根源になりえたのか? こいつの存在の根拠は何か? その根拠は
俺の内部にあつたのか? それともそれ自体にあつたのか? それにしても、俺から
抜きとられて俺の掌の上にあるこいつは、これは絶対に別物だ。断じてあれぢやあない』
三島由紀夫「金閣寺」より
210 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:29:44 ID:+iOlM7yl
あの山門の楼上から、遠い神秘な白い一点に見えたものは、このやうな一定の質量を
持つた肉ではなかつた。あの印象があまりに永く醗酵したために、目前の乳房は、
肉そのものであり、一個の物質にしかすぎなくなつた。しかしそれは何事かを愬へかけ、
誘ひかける肉ではなかつた。存在の味気ない証拠であり、生の全体から切り離されて、
ただそこに露呈されてあるものであつた。
まだ私は嘘をつかうとしてゐる。さうだ。眩暈に見舞はれたことはたしかだつた。だが
私の目はあまりにも詳さに見、乳房が女の乳房であることを通りすぎて、次第に無意味な
断片に変貌するまでの、逐一を見てしまつた。
……ふしぎはそれからである。何故ならかうしたいたましい経過の果てに、やうやくそれが
私の目に美しく見えだしたのである。美の不毛の不感の性質がそれに賦与されて、乳房は
私の目の前にありながら、徐々にそれ自体の原理の裡にとぢこもつた。薔薇が薔薇の原理に
とぢこもるやうに。
三島由紀夫「金閣寺」より
211 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:29:58 ID:+iOlM7yl
私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美を官能とを同時に見出すところよりも、はるかに
後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、……肉を乗り超え、……不感の
しかし不朽の物質になり、永遠につながるものになつた。
私の言はうとしてゐることを察してもらひたい。又そこに金閣が出現した。といふよりは、
乳房が金閣に変貌したのである。
「又もや私は人生から隔てられた!」と独言した。「又してもだ。金閣はどうして私を
護らうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする? なるほど
金閣は、私を堕地獄から救つてゐるのかもしれない。さうすることによつて金閣は私を、
地獄に堕ちた人間よりもつと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』にしてくれたのだ」
「いつかきつとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないやうに、いつか必ずお前を
わがものにしてやるぞ」
声はうつろに深夜の鏡湖池に谺(こだま)した。
三島由紀夫「金閣寺」より
212 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:39:05 ID:+iOlM7yl
総じて私の体験には一種の暗合がはたらき、鏡の廊下のやうに一つの影像は無限の奥まで
つづいて、新たに会ふ事物にも過去に見た事物の影がはつきりと射し、かうした相似に
みちびかれてしらずしらず廊下の奥、底知れぬ奥の間へ、踏み込んで行くやうな心地がしてゐた。
運命といふものに、われわれは突如としてぶつかるのではない。のちに死刑になるべき男は、
日頃ゆく道筋の電柱や踏切にも、たえず刑架の幻をゑがいて、その幻に親しんでゐる筈だ。
音楽は夢に似てゐる。と同時に、夢とは反対のもの、一段とたしかな覚醒の状態にも似てゐる。
音楽はそのどちらだらうか、と私は考へた。とまれ音楽は、この二つの反対のものを、
時には逆転させるやうな力を備へてゐた。そして自ら奏でる「御所車」の曲の調べに、
時たま私はやすやすと化身した。私の精神は音楽に化身するたのしみを
知つた。柏木とちがつて、音楽は私にとつて確実に慰藉だつたのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
213 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:39:21 ID:+iOlM7yl
光りの遍満のうちを金いろの羽を鳴らして飛んできた蜜蜂は、数多い夏菊の花から一つ選んで、
その前でしばらくたゆたうた。
私は蜂の目になつて見ようとした。菊は一点の瑕瑾(かきん)もない黄いろい端正な花弁を
ひろげてゐた。それは正に小さな金閣のやうに美しく、金閣のやうに完全だつたが、決して
金閣に変貌することはなく、夏菊の花の一輪にとどまつてゐた。さうだ、それは確乎たる菊、
一個の花、何ら形而上的なものの暗示を含まぬ一つの形態にとどまつてゐた。それは
このやうに存在の節度を保つことにより、溢れるばかりの魅惑を放ち、蜜蜂の欲望に
ふさはしいものになつてゐた。形のない、飛翔し、流れ、力動する欲望の前に、かうして
対象としての形態に身をひそめて息づいてゐることは、何といふ神秘だらう! 形態は
徐々に稀薄になり、破られさうになり、おののき顫(ふる)へてゐる。それもその筈、
菊の端正な形態は、蜜蜂の欲望をなぞつて作られたものであり、その美しさ自体が、
予感に向つて花ひらいたものなのだから。今こそは、生の中で形態の意味がかがやく瞬間なのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
214 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:39:37 ID:+iOlM7yl
形こそは、形のない流動する生の鋳型であり、同時に、形のない生の飛翔は、この世の
あらゆる形態の鋳型なのだ。……蜜蜂はかくて花の奥深く突き進み、花粉にまみれ、酩酊に
身を沈めた。蜜蜂を迎へ入れた夏菊の花が、それ自身、黄いろい豪奢な鎧を着けた蜂のやうに
なつて、今にも茎を離れて飛び翔たうとするかのやうに、はげしく身をゆすぶるのを私は見た。
私はほとんど光りと、光りの下に行はれてゐるこの営みとに眩暈を感じた。ふとして、又、
蜂の目を離れて私の目に還つたとき、これを眺めてゐる私の目が、丁度金閣の目の位置に
あるのを思つた。それはかうである。私が蜂の目であることをやめて私の目に還つたやうに、
生が私に迫つてくる刹那、私は私の目であることをやめて、金閣の目をわがものにしてしまふ。
そのとき正に、私と生との間に金閣が現はれるのだ、と。
三島由紀夫「金閣寺」より
215 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 10:40:05 ID:+iOlM7yl
……私は私の目に還つた。蜂と夏菊とは茫漠たる物の世界に、ただいはば「配列されてゐる」に
とどまつた。蜜蜂の飛翔や花の揺動は、風のそよぎと何ら変りがなかつた。この静止した
凍つた世界ではすべてが同格であり、あれほど魅惑を放つてゐた形態は死に絶えた。
菊はその形態によつてではなく、われわれが漠然と呼んでゐる「菊」といふ名によつて、
約束によつて美しいにすぎなかつた。私は蜂ではなかつたから菊に誘(いばな)はれもせず、
私は菊ではなかつたから蜂に慕はれもしなかつた。あらゆる形態と生の流動との、あのやうな
親和は消えた。世界は相対性の中へ打ち捨てられ、時間だけが動いてゐたのである。
永遠の、絶対的な金閣が出現し、私の目がその金閣の目に成り変るとき、世界はこのやうに
変貌することを、そしてその変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占有し、
その余のものを砂塵に帰してしまふことを、これ以上冗(くど)くは言ふまい。
三島由紀夫「金閣寺」より
216 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:02:01 ID:+iOlM7yl
この黒い尨犬は、かうした人ごみを行き馴れてゐるとみえ、華美な女のコートの間に
軍隊外套もまじる行人の足もとを、巧みにすり抜けてあちこちの店先に立ち寄つた。
犬は聖護院八ツ橋の昔にかはらぬ土産物の店の前で匂ひを嗅いだ。店のあかりのために
犬の顔がはじめて見えたが、片目が潰(つひ)え、潰えた目尻に固まつた目脂と血が
瑪瑙のやうである。無事なはうの目は直下の地面を見てゐる。尨犬の背のところどころが
引きつつて、それらの硬ばつた毛の束が際立つてゐる。
何故犬が私の関心を惹いたのか知らない。多分この明るい繁華な町並とはまるで別の世界を、
犬が頑なに裡に抱いて、さまよつてゐるのに惹かれたのかもしれない。嗅覚だけの暗い世界を
犬は歩いてをり、それは人間どもの町と二重になつて、むしろ灯火やレコードの唄声や
笑ひ声は、執拗な暗い匂ひのために脅やかされてゐた。なぜなら匂ひの秩序はもつと
確実であり、犬の湿つた足もとにまつはる尿の匂ひは、人間どもの内蔵や器官の放つ微かな
悪臭と、確実に繋がつてゐたからだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
217 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:02:14 ID:+iOlM7yl
あらゆるものが一瞬一瞬に私の内に生起し、又死に絶えた。あらゆる形をなさない思想が、
と云はうか。……重要なものが些末なものと手をつなぎ、今日新聞で読んだヨーロッパの
政治的事件が、目前の古下駄と切つても切れぬつながりがあるやうに思はれた。
私は一つの草の葉の尖端の鋭角について永いあひだ考へてゐたこともある。考へてゐたと
いふのは適当ではない。そのふしぎな些細な想念は決して持続せず、生きてゐるとも
死んでゐるともつかぬ私の感覚の上に、リフレインのやうに執拗に繰り返して現はれたのである。
なぜこの草の葉の尖端が、これほど鋭い鋭角でなければならないのか。もし鈍角であつたら、
草の種別は失はれ、自然はその一角から崩壊してしまはねばならないのか。自然の歯車の
極小のものを外してみて、自然全体を転覆させることができるのではないか。そして
その方法を、私は徒らにあれこれと考へたりした。
三島由紀夫「金閣寺」より
218 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:02:37 ID:+iOlM7yl
私は永いあひだ黙つてゐて、かう言つた。
「私をもうお見捨てになるのとちがひますか」
老師は即答しなかつた。やがて、
「さうまでして、まだ見捨てられたくないと思ふか」
私は答へなかつた。しばらくして、我知らず、吃りながら別事を言つた。
「老師は私のことを隅々まで知つてをられます。私も老師のことを知つてをるつもりで
ございます」
「知つてをるのがどうした」――和尚は暗い目になつた。「何にもならんことぢや。
益もない事ぢや」
私はこの時ほど現世を完全に見捨てた人の顔を見たことがない。生活の細目、金、女、
あらゆるものに一々手を汚しながら、これほどに現世を侮蔑してゐる人の顔を見たことがない。
……私は血色のよい温かみのある屍に触れたやうな嫌悪を感じた。
そのとき、自分のまはりにあるすべてのものから、しばらくでも遠ざかりたいといふ痛切な
感じが私に湧き起つた。老師の部屋を辞したのちも、たえずそれを考へたが、この考へは
ますます激しくなつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
219 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:02:52 ID:+iOlM7yl
「どこかへ、ぶらつと旅に出たいんだ」
「帰つて来るのか」
「多分……」
「何から遁れたいんだ」
「自分のまはりの凡てから逃げ出したい。自分のまはりのものがぷんぷん匂はしてゐる無力の
匂ひから。……老師も無力だ。ひどく無力なんだ。それもわかつた」
「金閣からもか」
「さうだよ。金閣からもだ」
「金閣も無力かね」
「金閣は無力ぢやない。決して無力ぢやない。しかし凡ての無力の根源なんだ」
「君の考へさうなことだ」
と柏木は、歩道を例の大袈裟な舞踏の足取で歩きながら、ひどく愉快さうに舌打ちした。
私は自分の思想に、社会の支援を仰ぐ気持はなかつた。世間でわかりやすく理解されるための
枠を、その思想に与へる気持もなかつた。何度も言ふやうに、理解されないといふことが、
私の存在理由だつたのである。
三島由紀夫「金閣寺」より
220 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:03:21 ID:+iOlM7yl
初冬の曇つた空の下に、冷たい微風が塩気を含んで、ひろい軍用道路を吹き通つてゐた。
海の匂ひといふよりは、無機質の、錆びた鉄のやうな匂ひがしてゐた。町の只中へ、深く
導かれてゐる運河のやうな狭隘な海、その死んだ水面、岸に繋がれたアメリカの小艦艇、
……ここにはたしかに平和があつたが、行き届きすぎた衛生管理が、かつての軍港の
雑然とした肉体的な活力を奪つて、街全体を病院のやうな感じに変へてゐた。
私はここで海と親しく会はうとは思はなかつた。ジープがうしろから来て面白半分に、
私を海へ突き落すかもしれなかつた。今にして思ふのだが、私の旅の衝動には海の暗示があり、
その海はおそらくこんな人工的な港の海ではなくて、幼時、成生岬の故郷で接してゐたやうな、
生れたままの姿の荒々しい海であつた。肌理の粗い、しじゆう怒気を含んでゐる、あの
苛立たしい裏日本の海なのであつた。
だから私は由良へ行かうとしてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より
221 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 16:04:53 ID:+iOlM7yl
それは正しく裏日本の海だつた! 私のあらゆる不幸と暗い思想の源泉、私のあらゆる醜さと
力との源泉だつた。海は荒れてゐた。波はつぎつぎとひまなく押し寄せ、今来る波と
次の波との間に、なめらかな灰色の深淵をのぞかせた。暗い沖の空に累々と重なる雲は、
重たさと繊細さを併せてゐた。
突然私にうかんで来た想念は、柏木が言ふやうに、残虐な想念だつたと云はうか?
とまれこの想念は、突如として私の裡に生れ、先程からひらめいてゐた意味を啓示し、
あかあかと私の内部を照らし出した。まだ私はそれを深く考へてもみず、光りに搏たれたやうに、
その想念に搏たれてゐるにすぎなかつた。しかし今までつひぞ思ひもしなかつたこの考へは、
生れると同時に、忽ち力を増し、巨きさを増した。むしろ私がそれに包まれた。その想念とは、
かうであつた。
『金閣を焼かなければならぬ』
三島由紀夫「金閣寺」より
222 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 22:56:50 ID:+iOlM7yl
なぜ私が金閣を焼かうといふ考へより先に、老師を殺さうといふ考へに達しなかつたのかと
自ら問うた。
それまでにも老師を殺さうといふ考へは全く浮ばぬではなかつたが、忽ちその無効が知れた。
何故ならよし老師を殺しても、あの坊主頭とあの無力の悪とは、次々と数かぎりなく、
闇の地平から現はれて来るのがわかつてゐたからである。
おしなべて生(しやう)あるものは、金閣のやうに厳密な一回性を持つてゐなかつた。
人間は自然のもろもろの属性の一部を受けもち、かけがへのきく方法でそれを伝播し、
繁殖するにすぎなかつた。殺人が対象の一回性を滅ぼすためならば、殺人とは永遠の
誤算である。私はさう考へた。そのやうにして金閣と人間存在とはますます明確な対比を示し、
一方では人間の滅びやすい姿から、却つて永生の幻がうかび、金閣の不壊の美しさから、
却つて滅びの可能性が漂つてきた。人間のやうにモータルなものは根絶することが
できないのだ。そして金閣のやうに不滅なものは消滅させることができるのだ。どうして人は
そこに気がつかぬのだらう。私の独創性は疑ふべくもなかつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
223 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 22:57:24 ID:+iOlM7yl
『金閣が焼けたら……、金閣が焼けたら、こいつらの世界は変貌し、生活の金科玉条は
くつがへされ、列車時刻表は混乱し、こいつらの法律は無効になるだらう』
再び私を、生活の魅惑、あるひは生活への嫉視が虜にしようとした。金閣を焼かずに、
寺を飛び出して、還俗して、私もかういふ風に生活に埋もれてしまふこともできるのだ。
……しかし忽ち、暗い力はよみがへつて私をそこから連れ出した。私はやはり金閣を
焼かねばならぬ。別誂への、私特製の、未開の生がそのときはじまるだらう。
小刻みにゆく塩垂れた帯の背を眺めながら、母を殊更醜くしてゐるものは何だと私は考へた。
母を醜くしてゐるのは、……それは希望だつた。湿つた淡紅色の、たえず痒みを与へる、
この世の何ものにも負けない、汚れた皮膚に巣喰つてゐる頑固な皮癬(ひぜん)のやうな希望、
不治の希望であつた。
三島由紀夫「金閣寺」より
224 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 22:57:41 ID:+iOlM7yl
そのころ火は火とお互ひに親しかつた。火はこのやうに細分され、おとしめられず、いつも
火は別の火と手を結び、無数の火を糾合することができた。人間もおそらくさうであつた。
火はどこにゐても別の火を呼ぶことができ、その声はすぐに届いた。寺々の炎上が失火や
類火や兵火によるものばかりで、放火の記録が残されてゐないのも、たとへ私のやうな男が
古い或る時代にゐたとしても、彼はただ息をひそめ身を隠して待つてゐればよかつたからなのだ。
寺々はいつの日か必ず焼けた。火は豊富で、放恣であつた。待つてさへゐれば、隙を
うかがつてゐた火が必ず蜂起して、火と火は手を携へ、仕遂げるべきことを仕遂げた。
金閣は実に稀な偶然によつて、火を免れたにずぎなかつた。火は自然に起り、滅亡と否定は
常態であり、建てられた伽藍は必ず焼かれ、仏教的原理と法則は厳密に地上を支配してゐた。
たとへ放火であつても、それはあまりにも自然に火の諸力に訴へたので、歴史家は誰もそれを
放火だとは思はなかつたのであらう。
三島由紀夫「金閣寺」より
225 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 22:57:59 ID:+iOlM7yl
「俺は君に知らせたかつたんだ。この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、
他のものは何一つ世界を変へないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、
変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、さうして永久に変貌するんだ。
それが何の役に立つかと君は言ふだらう。だがこの生を耐へるために、人間は認識の武器を
持つたのだと云はう。動物にはそんなものは要らない。動物には生を耐へるといふ意識なんか
ないからな。認識は生の耐へがたさがそのまま人間の武器になつたものだが、それで以て
耐へがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐へるのに別の方法があると思はないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかぢやない」と思はず私は、告白とすれすれの危険を
冒しながら言ひ返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」
三島由紀夫「金閣寺」より
226 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 22:58:23 ID:+iOlM7yl
趙州の言はうとしたことはかうだ。やはり彼は美が認識に守られて眠るべきものだといふことを
知つてゐた。しかし個々の認識、おのおのの認識といふものはないのだ。認識とは人間の
海でもあり、人間の野原でもあり、人間一般の存在の様態なのだ。彼はそれを言はうと
したんだと俺は思ふ。君は今や南泉を気取るのかね。……美的なもの、君の好きな美的なもの、
それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言ふ
『生に耐へるための別の方法』の幻影なんだ。本来そんなものはないとも云へるだらう。
云へるだらうが、この幻影を力強くし、能ふかぎりの現実性を賦与するのはやはり認識だよ。
認識にとつて美は決して慰藉ではない。女であり、妻でもあるだらうが、慰藉ではない。
しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生れる。
はかない、あぶくみたいな、どうしやうもないものだが、何ものかが生れる。世間で
芸術と呼んでゐるのはそれさ。
「美は……美的なものはもう僕にとつては怨敵なんだ」
三島由紀夫「金閣寺」より
227 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 23:02:09 ID:+iOlM7yl
火の幻にこのごろの私が、肉慾を感じるやうになつてゐたと云つたら、人は信じるだらうか?
私の生きる意志がすべて火に懸つてゐたのであれば、肉慾もそれに向ふのが自然ではなからうか?
そして私のその欲望が、火のなよやかな姿態を形づくり、焔は黒光りのする柱を透かして、
私に見られてゐることを意識して、やさしく身づくろひをするやうに思はれた。その手、
その肢、その胸はかよわかつた。
私はたしかに生きるために金閣を焼かうとしてゐるのだが、私のしてゐることは死の準備に
似てゐた。自殺を決意した童貞の男が、その前に廓へ行くやうに、私も廓へ行くのである。
安心するがいい。かういふ男の行為は一つの書式に署名するやうなもので、童貞を失つても、
彼は決して「ちがふ人間」などになりはしない。
私の足は捗らなくなつた。思ひあぐねた末には、一体金閣を焼くために童貞を捨てようとして
ゐるのか、童貞を失ふために金閣を焼かうとしてゐるのかわからなくなつた。そのとき、
意味もなしに「天歩艱難」といふ高貴な単語が心に浮び、「天歩艱難々々々々」と
くりかへし呟きながら歩いた。
三島由紀夫「金閣寺」より
228 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 23:04:34 ID:+iOlM7yl
薔薇の棘に指先を傷つけられたのが死の因(もと)になつた詩人のことが思ひ浮んだ。
そこらの凡庸な人間はそんなことでは死なない。しかし私は貴重な人間になつたのだから、
どんな運命的な死を招き寄せるか知れなかつた。指の傷は幸ひに膿を持たず、けふは
そこを押すと微かに痛むだけであつた。
五番町へ行くにつけても、私が衛生上の注意を怠らなかつたのは云ふまでもない。前日から、
顔を知られてゐない遠い薬屋まで行つて、私はゴム製品を買つておいた。粉つぽいその膜は
いかにも無気力な不健康な色をしてゐた。昨夜私はそのひとつを試してみた。茜いろの
クレパスで戯れに描いた仏画や、京都観光協会のカレンダーや、丁度仏頂尊勝陀羅尼のところが
あけられてゐる経文の禅林日課や、汚れた靴下や、笹くれ立つた畳や、……かうしたものの
只中に、私のものは、滑らかな灰いろの、目も鼻もない不吉な仏像のやうに立つてゐた。
その不快な姿が、今は語り伝へにだけ残つてゐるあの羅切といふ兇暴な行為を私に思ひ起させた。
三島由紀夫「金閣寺」より
229 :
大人の名無しさん:2011/01/27(木) 23:04:53 ID:+iOlM7yl
女は立上つて、私のそばへ来て、唇をまくり上げるやうに笑つて、私のジャンパアの腕に
少し触つた。
暗い古い階段を二階へのぼるあひだ、私はまた有為子のことを考へてゐた。何かこの時間、
この時間における世界を、彼女は留守にしてゐたのだといふ考へである。今ここに
留守である以上、今どこを探しても、有為子はゐないに相違なかつた。彼女はわれわれの世界の
そとの風呂屋かどこかへ、一寸入浴に出かけてゐるらしかつた。
私には有為子は生前から、さういふ二重の世界を自由に出入りしてゐたやうに思はれる。
あの悲劇的な事件のときも、彼女はこの世界を拒むかと思ふと、次には又受け容れてゐた。
死も有為子にとつては、かりそめの事件であつたかもしれない。彼女が金剛院の渡殿に
残した血は、朝、窓をあけると同時に飛び翔つた蝶が、窓枠に残して行つた鱗粉のやうなものに
すぎなかつたのかもしれない。
三島由紀夫「金閣寺」より
230 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:10:13 ID:kdkMPek6
私の現実生活における行為は、人とはちがつて、いつも想像の忠実な模倣に終る傾きがある。
想像といふのは適当ではない。むしろ私の源の記憶と云ひかへるべきだ。人生でいづれ私が
味はふことになるあらゆる体験は、もつとも輝やかしい形で、あらかじめ体験されて
ゐるといふ感じを、私は拭ふことができない。かうした肉の行為にしても、私は思ひ出せぬ時と
場所で、(多分有為子と)、もつと烈しい、もつと身のしびれる官能の悦びをすでに
味はつてゐるやうな気がする。それがあらゆる快さの泉をなしてゐて、現実の快さは、
そこから一掬の水を頒けてもらふにすぎないのである。
たしかに遠い過去に、私はどこかで、比(なら)びない壮麗な夕焼けを見てしまつたやうな
気がする。その後に見る夕焼けが、多かれ少なかれ色褪せて見えるのは私の罪だらうか?
三島由紀夫「金閣寺」より
231 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:10:26 ID:kdkMPek6
寺のかへるさ、私は今宵の買物について考へた。心の躍るやうな買物である。
刃物と薬とを、私は万一あるべき死の仕度に買つたのであるが、新らしい家庭を持つ男が何か
生活の設計を立てて、買ふ品物はさもあらうかと思はれるほど、それは私の心を娯しませた。
寺へかへつてからも、その二つのものに見飽かなかつた。鞘を払つて、小刀の刃を舐めてみる。
刃はたちまち曇り、舌には明確な冷たさの果てに、遠い甘味が感じられた。甘みはこの
薄い鋼の奥から、到達できない鋼の実質から、かすかに照り映えてくるやうに舌に伝はつた。
こんな明確な形、こんなに深い海の藍に似た鉄の光沢、……それが唾液と共にいつまでも
舌先にまつはる清冽な甘みを持つてゐる。やがてその甘みも遠ざかる。私の肉が、いつか
この甘みの迸りに酔ふ日のことを、私は愉しく考へた。死の空は明るくて、生の空と
同じやうに思はれた。そして私は暗い考へを忘れた。この世には苦痛は存在しないのだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
232 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:10:41 ID:kdkMPek6
……曇つた空からにじみ出た陽が、むしあつい靄のやうに古い町並に立ちこめてゐた。
汗はひそかに、私の背に突然冷たい糸を引いて流れた。大そう倦(だる)かつた。
菓子パンと私との関係。それは何だつたらう。行為に当面して精神がどれほど緊張と集中に
勇み立たうが、孤独なままに残された私の胃が、そこでもなほ、その孤独の保証を求める
だらうと私は予想してゐた。私の内蔵は、私のみすぼらしい、しかし決して馴れない飼犬の
やうに感じられた。私は知つてゐた。心がどんなに目ざめてゐようと、胃や腸や、これら
鈍感な臓器は、勝手になまぬるい日常性を夢みだすことを。
私は自分の胃が夢みるのを知つてゐた。菓子パンや最中を夢みるのを。私の精神が宝石を
夢みてゐるあひだも、それが頑なに、菓子パンや最中を夢みるのを。……いづれ菓子パンは、
私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだらう。
人々は言ふだらう。『あいつは腹が減つてゐたのだ。何と人間的なことだらう!』
三島由紀夫「金閣寺」より
233 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:11:01 ID:kdkMPek6
禅海和尚はさうではなかつた。彼が見たまま感じたままを言つてゐることがよくわかつた。
彼は自分の単純な強い目に映る事物に、ことさら意味を求めたりすることはなかつた。
意味はあつてもよく、なくてもよい。そして和尚が何より私に偉大に感じられたのは、
ものを見、たとへば私を見るのに、和尚の目だけが見る特別のものに頼つて異を樹てようとは
せず、他人が見るであらうとほりに見てゐることであつた。和尚にとつては単なる主観的世界は
意味がなかつた。私は和尚の言はんとするところがわかり、徐々に安らぎを覚えた。
私が他人に平凡に見える限りにおいて、私は平凡なのであり、どんな異常な行為を敢てしようと、
私の平凡さは、箕に漉(こ)された米のやうに残つてゐるのだつた。
私はいつかしら自分の身を、和尚の前に立つてゐる静かな葉叢の小さな樹のやうに思ひ做した。
「人に見られるとほりに生きてゐればよろしいのでせうか」
「さうも行くまい。しかし変つたことを仕出かせば、又人はそのやうに見てくれるのぢや。
世間は忘れつぽいでな」
三島由紀夫「金閣寺」より
234 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:11:15 ID:kdkMPek6
「人の見てゐる私と、私の考へてゐる私と、どちらが持続してゐるのでせうか」
「どちらもすぐ途絶えるのぢや。むりやり思ひ込んで持続させても、いつかは又途絶えるのぢや。
汽車が走つてゐるあひだ、乗客は止つてをる。汽車が止ると、乗客はそこから歩き出さねば
ならん。走るのも途絶え、休息も途絶える。死は最後の休息ぢやさうなが、それだとて、
いつまで続くか知れたものではない」
「私を見抜いて下さい」とたうとう私は言つた。「私は、お考へのやうな人間ではありません。
私の本心を見抜いて下さい」
和尚は盃を含んで、私をじつと見た。雨に濡れた鹿苑寺の大きな黒い瓦屋根のやうな沈黙の
重みが私の上に在つた。私は戦慄した。急に和尚が、世にも晴朗な笑ひ声を立てたのである。
「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらはれてをる」
和尚はさう言つた。私は完全に、残る隈なく理解されたと感じた。私ははじめて空白になつた。
その空白をめがけて滲み入る水のやうに、行為の勇気が新鮮に湧き立つた。
三島由紀夫「金閣寺」より
235 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:14:01 ID:kdkMPek6
私は口のなかで吃つてみた。一つの言葉はいつものやうに、まるで袋の中へ手をつつこんで
探すとき、他のものに引つかかつてなかなか出て来ない品物さながら、さんざん私をじらして
唇の上に現はれた。私の内界の重さと濃密さは、あたかもこの今の夜のやうで、言葉は
その深い夜の井戸から重い釣瓶のやうに軋りながら昇つて来る。
『もうぢきだ。もう少しの辛抱だ』と私は思つた。『私の内界と外界との間のこの
錆びついた鍵がみごとにあくのだ。内界と外界は吹き抜けになり、風はそこを自在に
吹きかよふやうになるのだ。釣瓶はかるがると羽搏(はばた)かんばかりにあがり、
すべてが広大な野の姿で私の前にひらけ、密室は滅びるのだ。……それはもう目の前にある。
すれすれのところで、私の手はもう届かうとしてゐる。……』
私は幸福に充たされて、一時間も闇の中に坐つてゐた。生れてから、この時ほど幸福だつた
ことはなかつたやうな気がする。……突然私は闇から立上つた。
三島由紀夫「金閣寺」より
236 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:14:15 ID:kdkMPek6
そのとき私は最後の別れを告げるつもりで金閣のはうを眺めたのである。
金閣は雨夜の闇におぼめいてをり、その輪郭は定かではなかつた。それは黒々と、まるで
夜がそこに結晶してゐるかのやうに立つてゐた。瞳を凝らして見ると、三階の究竟頂に
いたつて俄かに細まるその構造や、法水院と潮音洞の細身の柱の林も辛うじて見えた。
しかし嘗てあのやうに私を感動させた細部は、ひと色の闇の中に融け去つてゐた。
が、私の美の思ひ出が強まるにつれ、この暗黒は恣まに幻を描くことのできる下地になつた。
この暗いうづくまつた形態のうちに、私が美と考へたものの全貌がひそんでゐた。
思ひ出の力で、美の細部はひとつひとつ闇の中からきらめき出し、きらめきは伝播して、
つひには昼とも夜ともつかぬふしぎな時の光りの下に、金閣は徐々にはつきりと目に見える
ものになつた。これほど完全に細緻な姿で、金閣がその隅々まできらめいて、私の眼前に
立ち現はれたことはない。私は盲人の視力をわがものにしたかのやうだ。
三島由紀夫「金閣寺」より
237 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:14:51 ID:kdkMPek6
そして美は、これら各部の争ひや矛盾、あらゆる破調を統括して、なほその上に君臨してゐた!
それは濃紺池の紙本に一字一字を的確に金泥で書きしるした納経のやうに、無明の長夜に
金泥で築かれた建築であつたが、美が金閣そのものであるのか、それとも美は金閣を包む
この虚無の夜と等質なものなのかわからなかつた。おそらく美はそのどちらでもあつた。
細部でもあり全体でもあり、金閣でもあり金閣を包む夜でもあつた。
細部の美はそれ自体不安に充たされてゐた。それは完全を夢みながら完結を知らず、次の美、
未知の美へとそそのかされてゐた。そして予兆は予兆につながり、一つ一つのここには
存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の兆だつたのである。
虚無がこの美の構造だつたのだ。そこで美のこれらの細部の未完には、おのづと虚無の
予兆が含まれることになり、木割の細い繊細なこの建築は瓔珞(やうらく)が風に
ふるへるやうに、虚無の予感に慄へてゐた。
三島由紀夫「金閣寺」より
238 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:15:03 ID:kdkMPek6
その美しさは儔(たぐ)ひなかつた。そして私の甚だしい疲労がどこから来たかを私は
知つてゐた。美が最後の機会に又もやその力を揮つて、かつて何度となく私を襲つた無力感で
私を縛らうとしてゐるのである。私の手足は萎えた。今しがたまで行為の一歩手前にゐた私は、
そこから再びはるか遠く退いてゐた。
『私は行為の一歩手前まで準備したんだ』と私は呟いた。『行為そのものは完全に夢みられ、
私がその夢を完全に生きた以上、この上行為する必要があるだらうか。もはやそれは
無駄事ではあるまいか。
柏木の言つたことはおそらく本当だ。世界を変へるのは行為ではなくて認識だと彼は言つた。
そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだつた。
そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、
ひとへに、行為をしなくてもよいといふ最後の認識のためではなかつたか。
三島由紀夫「金閣寺」より
239 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:15:18 ID:kdkMPek6
見るがいい、今や行為は私にとつては一種の剰余物にすぎぬ。それは人生からはみ出し、
私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のやうに、私の前に在つて始動を待つてゐる。
その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないかのやうだ。ここまでが私であつて、
それから先は私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか』
金閣はなほ耀やいてゐた。あの「弱法師」の俊徳丸が見た日想観の景色のやうに。
俊徳丸は入日の影も舞ふ難波の海を、盲目の闇のなかに見たのであつた。曇りもなく、
淡路絵島、須磨明石、紀の海までも、夕日に照り映えてゐるのを見た。……
私の身は痺れたやうになり、しきりに涙が流れた。朝までこのままでゐて、人に発見されても
よかつた。私は一言も、弁疏の言葉を述べないだらう。
三島由紀夫「金閣寺」より
240 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 10:17:39 ID:kdkMPek6
……さて私は今まで永々と、幼時からの記憶の無力について述べて来たやうなものだが、
突然蘇つた記憶が起死回生の力をもたらすこともあるといふことを言はねばならぬ。
過去はわれわれを過去のはうへ引きずるばかりではない。過去の記憶の処々には、数こそ
少ないが、強い鋼の発条(ばね)があつて、それに現在のわれわれが触れると、発条は
たちまち伸びてわれわれを未来のはうへ弾き返すのである。
身は痺れたやうになりながら、心はどこかで記憶の中をまさぐつてゐた。何かの言葉が
うかんで消えた。心の手に届きさうにして、また隠れた。……その言葉が私を呼んでゐる。
おそらく私を鼓舞するために、私に近づかうとしてゐる。
言葉は私を、陥つてゐた無力から弾き出した。俄かに全身に力が溢れた。とはいへ、
心の一部は、これから私のやるべきことが徒爾だと執拗に告げてはゐたが、私の力は
無駄事を怖れなくなつた。徒爾であるから、私はやるべきであつた。
一ト仕事を終へて一服してゐる人がよくさう思ふやうに、生きようと私は思つた。
三島由紀夫31歳「金閣寺」より
241 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 12:33:50 ID:kdkMPek6
女方こそ、夢と現実との不倫の交はりから生れた子なのである。
三島由紀夫32歳「女方」より
人は病気を自分の特質にうまく合致させ、うまく着こなすこともできる。とりわけ永い
病気であればさうである。治英の調和に対する敏感な意識は、早くからこの病気をも
調和のなかに取り入れ、もともと持つてゐた性格の一部としてしまつたのかもしれなかつた。
過労を避けるといふその病気の要請は、陶酔や情熱を避けようとする彼の性向を、むしろ
力強く庇護するものであつたかもしれない。なぜなら後年私は、もつと血色もよく、
性向もまるでちがつた弁膜症の人たちを見たからである。
死の近い病人が無意識に死の予感にかられて、自分を愛してくれる人たちを別れ易くして
やるために、殊更自分を嫌はれ者にする、といふ言ひつたへには、たしかに或る種の
真実がある。病苦や焦燥のためだけではなくて、病人のつのる我儘には、生への執着以外の
別の動機がひそんでゐるやうに思はれる。
三島由紀夫32歳「貴顕」より
242 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 12:36:01 ID:kdkMPek6
映画の世界ほど、無意味な不公平の横行してゐるところはあるまい。外の世界なら、
多かれ少なかれ、伎倆の相違でランクがつけられ、羨望と嫉妬も、みんな身から出た錆だと
思ふほかはない。
映画の世界の不公平は、もつと絶対的なのである。かりに容貌の美醜でランクがつけられると
するなら、これは或る意味では才能と同じやうに、天賦のものだから文句のつけやうがない。
しかし映画界でスタアと下積みとを分けるものは、決して容貌の美醜や、肉体の優劣ではない。
もし諸君が撮影所へゆき、撮影現場を見学して、主役の男女優からしばらく目を外らし、
セットのかげで待機してゐる大部屋の人たちに目をそそげば、主役以上の美男美女を
わけなく発見するにちがひない。が、その人たちの多くは、一生はかない夢を抱いて、
埋もれてしまふ人たちなのである。
たとへばハリウッドの一映画会社で、個性的な顔のスタアが売り出されたとする。そのとき
セットのかげには、そのスタアによく似てゐるが、容貌も肉体もずつとすぐれた無名俳優が
かくれて歯ぎしりしてゐると思つていい。
三島由紀夫32歳「色好みの宮」より
243 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 13:36:48 ID:kdkMPek6
一部の大人が考へてゐるやうに、戦後の青年が一人残らず十代で童貞を失つてゐるなどといふ
莫迦げた憶測は、事実から遠いものだ。どんな時代だつて、青春の生きにくさは、
外部よりも内部にあるのだ。今日のやうに、青春を妨げる外部の障害の多い時代には、
内部の障害を気にしないでゐられるので、童貞を失はないまじめな青年の数は却つて
多いといふ逆の理窟だつて成立つ筈だ。
大体甘い物語には甘い考へがつきものなのは已むをえない。狂気といふものがもしこんなに
甘い物語を生むものなら、正気の僕たちは、正気では考へられない甘い空想を、それに
はなむけすべきではなからうか? それとも君は、僕の話が嘘つぱちだと云ふのぢやあるまいね。
三島由紀夫28歳「雛の宿」より
244 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 23:29:05 ID:kdkMPek6
現代においては、何の野心も持たぬといふことだけで、すでに優雅と呼んでもよからうから、
節子は優雅であつた。女にとつて優雅であることは、立派に美の代用をなすものである。
なぜなら男が憧れるのは、裏長屋の美女よりも、それほど美しくなくても、優雅な女のはうで
あるから。
あふれるばかりの精力を事業や理想の実現に向けてゐる肥つた醜い男などは何といふ滑稽な
代物であらう。みすぼらしい風采の世界的学者などは何といふ珍物であらう。仕事に
熱中してゐる男は美しく見えるとよく云はれるが、もともと美しくもない男が仕事に
熱中したつて何になるだらう。
女に友情がないといふのは嘘であつて、女は恋愛のやうに、友情をもひた隠しにして
しまふのである。その結果、女の友情は必ず共犯関係をひそめてゐる。
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属してゐる。
どんな驚天動地の大計画も、一旦心が決り準備が整ふと、それにとりかかる前に、或る休息に
似た気持が来るものである。
個性を愛することのできるのはむしろ友情の特権だ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
245 :
大人の名無しさん:2011/01/28(金) 23:29:36 ID:kdkMPek6
嫉妬の孤立感、その焦燥、そのあてどもない怒りを鎮める方法は一つしかなく、それは
嫉妬の当の対象、憎しみの当面の敵にむかつて、哀訴の手をさしのべることなのである。
はじめから、唯一の癒やし手はその当の敵のほかにはないことがわかつてゐる。自分に
傷を与へる敵の剣にすがつて、薬餌を求めるほかはないのである。
われわれが未来を怖れるのは、概して過去の堆積に照らして怖れるのである。恋が本当に
自由になるのは、たとへ一瞬でも思ひ出の絆から脱したときだ。
節子は考へはじめた。考へること、自己分析をすること、かういふことはみんな必要から
生れるのだ。
この世で一等強力なのは愛さない人間だね。
肉体の仕業はみんな嘘だと思つてしまへば簡単だが、それが習慣になつてしまへば、
習慣といふものには嘘も本当もない。精神を凌駕することのできるのは習慣といふ怪物だけ
なのだ。あなたも男も、この怪物の餌食なんだよ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
246 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:32:38 ID:cTzX9QL6
道徳は、習慣からの逃避もみとめないが、同時に、習慣への逃避も、それ以上にみとめて
ゐないのだ。道徳とは、人間と世界のこの悪循環を絶ち切つて、すべてのもの、あらゆる瞬間を、
決してくりかへされない一回きりのものにしようとする力なのだ。檻は二の次だ。ただ
人間は弱いから、こんな力をわがものとするために、どうしても檻を必要とするのだが、
世間ではこの檻だけを見て、檻の別名を道徳だと思つたりしてゐる。
習慣のおのおのの瞬間を、一回きりのものにすること、……ああ、倉越さん、私はことさら
あなたに難題を吹きかけてゐるのぢやない。ただ、この世界がいつまでもつづき、今日には
明日が、明日には明後日が永遠につづき、晴れたあとには雨が来、雨のあとには太陽が
照りかがやくといふ、自然の物理的法則からすつかり身を背けることが大切なのだ。
自然の法則になまじ目移りして、人間は人間であることを忘れ、習慣の奴隷になるか
逃避の王者になるかしてしまふ。自然はくりかへしてゐる。一回きりといふのは、人間の
唯一の特権なのだ。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
247 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:32:55 ID:cTzX9QL6
快楽はたしかにすばらしいものだ。思ふ存分しつくし、味はひつくすべきものだ。
さういふ快楽を知つてゐるとあなたはお言ひだらうが、明日を怖れてゐる快楽などは、
贋物でもあり、恥づべきものではないだらうか。
習慣からのがれようとする思案は、陰惨で、人を卑屈にするばかりだが、快楽を捨てようと
する意志は、人の矜りに媚び、自尊心に受け容れられやすい。
男は、一度高い精神の領域へ飛び去つてしまふと、もう存在であることをやめてしまへる!
女が一等惚れる羽目になるのは、自分に一等苦手な男相手でございますね。あなたばかりでは
ありません。誰もさうしたものです。そのおかげで私たちは自分の欠点、自分といふ人間の
足りないところを、よくよく知るやうになるのでございます。女は女の鑑(かがみ)には
なれません。いつも殿方が女の鑑になつてくれるのですね。それもつれない殿方が。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
248 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:33:31 ID:cTzX9QL6
情に負けるといふことが、結局女の最後の武器、もつとも手強い武器になります。情に
逆らつてはなりません。ことさら理を立てようとしてはなりません。情に負け、情に溺れて、
もう死ぬほかないと思ふときに、はじめて女には本来の智恵が湧いてまゐります。
一等怖れなければならないのは女たちのひそひそ話で、それに女は女の悩みを尊敬して
をりませんから、あなたのどんなまじめなお悩みも、お笑ひ草にされてしまひます。
それに奥様、女は恋に敗れた女に同情しながら、さういふ敗北者の噂をひろげるのが
大そう好きで、恋に勝つてばかりゐる女のことは、『不道徳な人』といふ一言で片附ける
だけなのでございます。いはば、さういふ勝利者は抽象的な不名誉だけで事がすみ、
細目にわたる具体的な不名誉は、お気の毒にも、不幸な敗北者の女が蒙ることになるのです。
世間を味方につけるといふことは奥様、とりもなほさず、世間に決して同情の涙を求めない
といふことなのです。
三島由紀夫「美徳のよろめき」より
249 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:33:59 ID:cTzX9QL6
秘密といふものはたのしいもので、悩みであらうが喜びであらうが、同じ色に塗りたくつて
しまひます。それに国家の機密なぞは平気で洩らしませうが、自分の秘密を大事に固く
守ることは、女にとつてはそれほど難事ではありません。
惚れすぎて苦しくなり、相手をむりにも軽蔑することで、その恋から逃げようとするのは、
拙ない初歩のやり方です。万に一つも巧くはまゐりません。ひたすらその方をうやまひ、
尊敬するやうになさいまし。お相手がどんなに卑劣な振舞をしても、なほかつ尊敬するやうに
なさいまし。さうしてゐれば、とたんにお相手はあなたの目に、つまらない人物に見えて
まゐります。
ただ盲目であるときはまだ救はれ易い。本当に危険なのは、われわれが自分の盲目を
意識しはじめて、それを楯に使ひだす場合である。
苦痛の明晰さには、何か魂に有益なものがある。どんな思想も、またどんな感覚も、
烈しい苦痛ほどの明晰さに達することはできない。よかれあしかれ、それは世界を直視させる。
三島由紀夫32歳「美徳のよろめき」より
250 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:36:53 ID:cTzX9QL6
過ちといふものは、美しいものが期待に反して犯す醜行のことである。
美貌といふものは、停車場や博物館と同様に共有物であり公的な存在なのである。それを
私することは公的の福祉に反することであり、停車場を買ひ占めようとするやうなものである。
各界の名士といふ人種が一堂に会する眺めは、一種奇怪である。彼らは要するに、
カメラマンに「自然な姿態」をとられるのに馴れた人種であるから、その言はうやうない
「自然な」態度には、どうすれば見物人から餌をもらへるかをよく知つてゐる動物園の
熊に似た超然ぶりが見られるのである。見物人を意識してゐない動物が、一匹でも動物園に
ゐたらお目にかかりたい。
名士は大抵「殿下」とか「閣下」とか「先生」とかいふ源氏名のついた娼婦であつて、
莫迦に忙しい口ぶりの男は二流であり、莫迦にゆつくりした喋り方をする男は一流である。
彼らは日常の多忙のために生理的な速度に変調を来して、道を歩くやうな歩度の喋り方は
出来なくなつてゐるので、彼らのお喋りは、自動車に乗つてゐるか、それとも興に乗つて
ゐるかどちらかであつた。
三島由紀夫「家庭裁判」より
251 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 10:37:10 ID:cTzX9QL6
美人の定義は沢山着れば着るほどますます裸かにみえる女のことである。
女の涙といふものは世間で最もやりきれないものの一つであるが、小鳥がとまつたかと
見る間に生む美しい空いろの卵のやうに、こんな風に涙がこぼれるのをみると、右近の心は
甚だ痛んだ。
良人は大ていのことを座興と思つてゐてよい特権をもつものである。
三島由紀夫26歳「家庭裁判」より
久一にとつて馬ほど愛すべき安全な玩具はなかつた。やさしい動物である。傷つきやすい
心を持ち、果敢な勇気を持ち、同時に怠けものの心と臆病さとを持つた動物である。
血走つた目はたまには、敵意や蔑みをあらはしこそすれ、一度忠誠を誓つた乗手のためには、
人間も及ばなぬ献身のまことを示した。
よく云はれることだが、サラブレッドの名馬は宛然一個の美術品である。
三島由紀夫24歳「鴛鴦」より
不道徳も清潔な限り美しいものである。
三島由紀夫25歳「修学旅行」より
252 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 19:49:15 ID:cTzX9QL6
苦悩や青春の焦燥を恥ぢるあまり、それを告白せぬことに馴れてしまつて、かれらは極度に
ストイックになつた。かれらは歯を喰ひしばつてゐた。実に愉しげな顔をして。この世に
苦悩などといふものの存在することを、絶対に信じないふりをしなくてはならぬ。白を
切りとほさなくてはならぬ。
あの一面の焼野原の広大なすがすがしい光りをいつまでもおぼえてゐて、過去の記憶に
照らして現在の街を眺めてゐる。きつとさうだ。……君は今すつかり修復された冷たい
コンクリートの道を歩きながら、足の下に灼けただれた土地の燠の火照りを感じなくては、
どことなく物足らず、新築のモダンな硝子張りのビルの中にも、焼跡に生えてゐた
たんぽぽの花を透視しなくては、淋しいにちがひない。でも君の好きなのはもう過去のものと
なつた破滅で、君には、その破滅を破滅のままに、手塩にかけて育て、洗ひ上げ、
完成したといふ誇りがある筈だ。
世界が必ず滅びるといふ確信がなかつたら、どうやつて生きてゆくことができるだらう。
三島由紀夫「鏡子の家」より
253 :
大人の名無しさん:2011/01/29(土) 19:49:31 ID:cTzX9QL6
「…君は過去の世界崩壊を夢み、俺は未来の世界崩壊を予知してゐる。さうしてその二つの
世界崩壊のあひだに、現在がちびりちびりと生き延びてゐる。その生き延び方は、卑怯で
しぶとくて、おそろしく無神経で、ひつきりなしにわれわれに、それが永久につづき永久に
生き延びるやうな幻影を抱かせるんだ。幻影はだんだんにひろまり、万人を麻痺させて、
今では現実と夢との堺目がなくなつたばかりか、この幻影のはうが現実だと、みんな思ひ
込んでしまつたんだ」
「あなただけがそれを幻影だと知つてゐるから、だから平気で嚥み込めるわけなのね」
「さうだよ。俺は本当の現実は、『崩壊寸前の世界』だといふことを知つてゐるから」
「どうして知つたの?」
「俺には見えるんだ。一寸目を据ゑて見れば、誰にも自分の行動の根拠が見えるんだよ。
ただ誰もそれを見ようとしないだけなんだ。俺にはそれを見る勇気があるし、それより先に、
俺の目にありありと見えて来るんだから仕方ない。遠い時計台の時計の針が、はつきり
見えてしまふみたいに」
三島由紀夫「鏡子の家」より
254 :
大人の名無しさん:2011/01/31(月) 19:50:47 ID:mcDWmLzg
詩才の欠如は人の信用を博する早道である。
どんなに辛苦を重ねても、浅い夢しか見ない人は浅い生をしか生きることができない。
狂人がある程度自分を狂人だと知つてゐるやうに、嫌はれるタイプの男は、ある程度、自分が
嫌はれることを知つてゐるのだが、狂人がさういふ自己認識にすこしも煩はされないやうに、
嫌はれてゐるといふ認識にすこしも煩はされないことが、嫌はれ型の真個の特質なのである。
人体でもつとも微妙なものは筋肉なのである!
思想は筋肉のやうに明瞭でなければならぬ。内面の闇に埋もれたあいまいな形をした
思想などよりも、筋肉が思想を代行したはうがはるかにましである。なぜなら筋肉は厳密に
個人に属しつつ、感情よりもずつと普遍的である点で、言葉に似てゐるけれど、言葉よりも
ずつと明晰である点で、言葉よりもすぐれた「思想の媒体」なのである。
三島由紀夫「鏡子の家」より
255 :
大人の名無しさん:2011/01/31(月) 19:51:01 ID:mcDWmLzg
『僕は詩人の顔と闘牛士の体とを持ちたい』と切に思つた。素朴さ、荒々しさ、野蛮、
などの支へが今の自分にすつかり欠けてゐるのを知つた。真に抒情的なものは、詩人の
面立(おもだち)と闘牛士の肉体との、稀な結合からだけしか生れないだらう。
今ただ一つたしかなことは、巨きな壁があり、その壁に鼻を突きつけて、四人が立つて
ゐるといふことなのである。
『俺はその壁をぶち割つてやるんだ』と峻吉は拳を握つて思つてゐた。
『俺はその壁を鏡に変へてしまふだらう』と収は怠惰な気持で思つた。
『俺はとにかくその壁に描くんだ。壁が風景や花々の壁画に変つてしまへば』と夏雄は
熱烈に考へた。
そして清一郎の考へてゐたことはかうである。
『俺はその壁になるんだ。俺がその壁自体に化けてしまふことだ』
『この世は必ず破滅にをはる。しかもその前に、輝かしい行動は、一瞬々々のうちに生れ、
一瞬々々のうちに死ぬ』
三島由紀夫「鏡子の家」より
256 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 12:07:17 ID:zDB385jr
芸術的才能といふものの裡にひそむ一種の抜きがたい暗さを嗅ぎ当てる点では、世俗的な
人たちの鼻もなかなか莫迦にしたものではない。才能とは宿命の一種であり、宿命といふものは
多かれ少なかれ、市民生活の敵なのである。それに生れつき身にそなはつたものだけで
人生を経営してゆくことは、女や貴族の生き方であり、市民の男の生き方ではなかつた。
どう時代が移らうとも、日本経済には不変の法則があり、いはば奇癖があつた。好況のときには
好い気持になつて使ひ果し、不況になるとヒステリックに貿易振興を叫び出すのであつた。
会社のタイム・レコーダアを莫迦らしいと思はない人が、どうして結納の三往復を
莫迦らしいなどと言ふことができよう。
女の裸体は猥褻なだけさ。美しいのは男の肉体に決まつてゐるさ。
神聖なものほど猥褻だ。だから恋愛より結婚のはうがずつと猥褻だ。
人は信じた思想のとほりの顔になる。
三島由紀夫「鏡子の家」より
257 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 12:07:33 ID:zDB385jr
どこの社会にも、誰が見ても不適任者と思はれる人が、そのくせ恰(あた)かも運命的に
そこに居据つてゐるのを見るものだ。
権力や金に倦き果てた老人のたしなむ芸術には、あらゆる玄人の芸術にとつて必須な、
あの世界に対する権力意志が忌避されてゐる。
芸術作品とは、目に見える美とはちがつて、目に見える美をおもてに示しながら、実は
それ自体は目に見えない、単なる時間的耐久性の保障なのである。作品の本質とは、
超時間性に他ならないのだ。
「……そこでは毎晩刃傷沙汰が起り、悲劇が起り、本当の恋の鞘当、本当の情熱、――ええ、
どんな俗悪な情熱でも、あなたがたの物知り顔よりは高級ですもの、――さういふ本当の情熱、
本当の憎しみ、本当の涙、本当の血が流れなくちやいけませんの」
男の精神的天才が決して女に理解されないやうに、男の肉体的天才も、女に理解されない
やうにできてゐる。
三島由紀夫「鏡子の家」より
258 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 22:51:17 ID:zDB385jr
ひどい暮しをしながら、生きてゐるだけでも仕合せだと思ふなんて、奴隷の考へね。
一方では、人並な安楽な暮しをして、生きてゐるのが仕合せだと思つてゐるのは、動物の
感じ方ね。世の中が、人間らしい感じ方、人間らしい考へ方をさせないように、みんなを
盲らにしてしまつたんです。
真暗か壁の前をうろうろして、せいぜい電気洗濯機やテレヴィジョンを買ふ夢を見る。
明日は何もないのに明日をたのしみにする。
通例、愛されない人間が、自ら進んで、ますます愛されない人間にならうとするのには
至当の理由がある。それは自分が愛されない根本原因から、できるだけ遠くまで逃げようと
するのである。
金でたのしみが買へないと思つてゐるのは、センチメンタルな金持だけです。
三島由紀夫「鏡子の家」より
259 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 22:51:34 ID:zDB385jr
天才とは美そのものの感受性をわがものにして、その類推から美を造型する人であつた。
かういふ手がかりが正にあの喜悦であつて、美にとつては、世界喪失は苦悩ではなくて
生誕の讃歌のやうなものなのだ。そこでは美がやさしい手で規定の存在を押しのけて、
その空席に腰を下ろすことに、何のためらひもありはしないのだ。いひかへれば天才の
感受性とは、人目にいかほど感じ易くみえようと、決して悲劇に到達しない特質を荷つて
ゐるのである。
『一人ぐらしの女が何の感情にも溺れないで生きてゐるといふのは大したことだわ』
と鏡子は自讃する。それといふのも、彼女はあらゆる情念と感覚を野放しにしておいて、
一切の軛を課さないでゐるからである。
ああ、他人こそ、犠(にへ)であり、かけがへのない実在なのだ。
『僕は死ぬだらう。血はどこまで高く吹き上がるだらう? 自分の血の噴水を、僕ははつきり
この目でたしかめることができるだらうか』
三島由紀夫「鏡子の家」より
260 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 22:55:31 ID:zDB385jr
他人の情念にしろ、希望にしろ、他人にあんまり興味を持ちすぎることは危険です。それは
こちらが考へもせず、想像もしないところへまで引きずつてゆき、つひには『他人の希望』の
代りに、『他人の運命』を背負ひ込む羽目になります。私たちは想像力と空想力だけで
我慢したはうがよささうですわ。それから先は宿命の領地なんです。
美しい者にならうといふ男の意志は、同じことをねがふ女の意志とはちがつて、必ず
『死の意志』なのだ。これはいかにも青年にふさはしいことだが、ふだんは青年自身が
恥ぢてゐてその秘密を明さない。
男の断末魔の手がつかむものが、星に充ちたがらんとした夜空や、荘厳な重い塩水に充ちた
海ではなくて、腰紐だの、長襦袢だの、まとはりつく髪だの、なよやかなパンティだので
あるといふことは、男の生涯のひとりぽつちの永い戦ひの記憶をすつかり台無しにして
しまふだけだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
261 :
大人の名無しさん:2011/02/02(水) 22:55:53 ID:zDB385jr
鏡子は大袈裟に、一つの時代が終つたと考へることがある。終る筈のない一つの時代が。
学校にゐたころ、休暇の終るときにはこんな気持がした。充ち足りた休暇の終りといふものが
あらう筈はない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。
大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。
人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。
徹底的な改宗。そして何よりも辛いのは、あれほど愛して来た廃墟を完全に否認すること。
目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも!
峻吉は不幸や不運を明るく眺め変へたり、一旦挫折した力の方向をやすやすと他へ転じようと
したりする、あの人生相談的な解決を憎んだ。決して悔悟しない人間になることが必要だ。
ちつぽけな希望に妥協して、この世界が、その希望の形のままに見えて来たらおしまひだ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
262 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 10:56:24 ID:Jm1G5g0Y
健康な青年にとつて、おそらく一等緊急な必要は『死』の思想だ。
青年にとつて反抗は生で、忠実は死だ。これはもう言ひ古されたことだ。ところで
青年にとつて、反抗が必要なのと同じくらい、忠実も必要で、美味しくて、甘い果実なんだ。
人間は自分の運命を選ぶものであつて、自分に似合ふ着物を着、自分に似合ふ悲劇を招来する。
死は常態であり、破滅は必ず来るのだ。
一つの思想が死ぬやうに見えても必ずよみがへり、一つの理想主義が死に絶えて又
新らしい形でよみがへる。しかも思想と思想は、殺し合ふことしか考へないのである。
が、清一郎は感じてゐた。これら再生の神話そのもの、復活の秘義そのものが、まぎれもない
世界崩壊の兆候なのだ、と。
人生といふ邪教、それは飛切りの邪教だわ。私はそれを信じることにしたの。生きようと
しないで生きること、現在といふ首なしの馬にまたがつて走ること、……そんなことは
怖ろしいことのやうに思へたけれど、邪教を信じてみればわけもないのよ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
263 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 10:56:39 ID:Jm1G5g0Y
神秘が一度心に抱かれると、われわれは、人間界の、人間精神の外れの外れまで、一息に
歩いて来てしまふ。そこの景観は独自なもので、すべての人間的なものは自分の背後に、
遠い都会の眺めのやうに一纏めの結晶にかがやいて見え、一方、自分の前には、目の
くらむやうな空無が屹立してゐる。(中略)
一度かういふ世界の果て、精神の辺境に立つたものなら、探検家や登山家もおそらく
さうだらうが、きはめて自然に、自分を人間の代表だと感じるだらう。神秘家たちの確信も
それと似たものだ。なぜならその場所で目に映る人間の姿とては、自分以外にはないからだ。
僕は画家だから、その地点を、魂などとは呼ばず、人間の縁と呼んでゐた。もし魂といふものが
あるなら、霊魂が存在するなら、それは人間の内部に奥深くひそむものではなくて、
人間の外部へ延ばした触手の先端、人間の一等外側の縁でなければならない。その輪郭、
その外縁をはみ出したら、もはや人間ではなくなるやうな、ぎりぎりの縁でなければならない。
三島由紀夫「鏡子の家」より
264 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 10:58:16 ID:Jm1G5g0Y
僕はありありと目に見える外界へ進んで行つた。その道をまつすぐ歩いてゆく。すると
当然のやうに、僕は神秘にぶつかつた。外部へ外部へと歩いて行つて、いつのまにか、
僕は人間の縁のところまで来てゐたのだ。
神秘家と知性の人とが、ここで背中合せになる。知性の人は、ここまで歩いてきて、
急に人間界のはうへ振向く。すると彼の目には人間界のすべてが小さな模型のやうに、
解釈しやすい数式のやうに見える。世界政治の動向も、経済の帰趨も、青年層の不平不満も、
芸術の行き詰りも、およそ人間精神の関与するものなら、彼には、簡単な数式のやうに
解けてしまひ、あいまいな謎はすこしも残さず、言葉は過度に明晰になる。……しかし
神秘家はここで決定的に人間界へ背を向けてしまひ、世界の解釈を放棄し、その言葉は
すみずみまでおどろな謎に充たされてしまふ。
三島由紀夫「鏡子の家」より
265 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 10:58:40 ID:Jm1G5g0Y
でも今になつてよく考へると、僕は結局、知性の人でもなく、神秘家でもなく、やはり
画家だつたのだと思ふ。過度の明晰も、暗い謎も、どちらも僕のものではなかつた。
人間の縁のところまで来たとき、僕は人間界へ背を向けることもできず、又人間界へ皮肉な
冷たい親和の微笑を以て振返つて君臨することもできず、ひたすら世界喪失の感情のなかに、
浮び漂つてゐたのだと思ふ。
僕の目は鎮魂玉に集中することはできず、おそるおそる周囲の闇のなかを見まはした。
するとそこには、同じ死と闇のなかに、世界喪失の感情に打ち砕かれて、漂つてゐる多くの
若者たちの顔が見えた。ここまで歩いてきたのは僕一人ではなかつた。そのなかには
血みどろな死顔も見え、傷ついた顔も、必死に目をみひらいてゐる顔も見えた。……
三島由紀夫「鏡子の家」より
266 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 20:05:26 ID:Jm1G5g0Y
花は実に清冽な姿をしてゐた。一点のけがれもなく、花弁の一枚一枚が今生まれたやうに
匂ひやかで、今まで蕾の中に固く畳まれてゐたあとは、旭をうけて微妙な起伏する線を、
花弁のおもてに正確にゑがいてゐた。(中略)
僕は飽かず水仙の花を眺めつづけた。花は徐々に僕の心に沁み渡り、そのみじんも
あいまいなところのない形態は、弦楽器の弾奏のやうに心に響き渡つた。
そのうちに僕は何だか、自分を裏切つてゐるやうな気がした。これは果して霊界の贈り物だらうか。
霊界のものが、これほど疑ひのない形象の完全さで、目の前に迫ることがあるだらうか。
すべて虚無に属する物事は、ああも思はれかうも思はれるといふ、心象のたよりなさによつて
世界が動揺する、その只中に現はれるものではないだらうか。僕の目が水仙を見、これが
疑ひもなく一茎の水仙であり、見る僕と見られる水仙とが、堅固な一つの世界に属してゐると
感じられる、これこそ現実の特徴ではないだらうか。するとこの水仙の花は、正しく
現実の花なのではないか。
三島由紀夫「鏡子の家」より
267 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 20:05:42 ID:Jm1G5g0Y
さう考へた僕は、一瞬言はうやうない気味のわるさにかられて、花を寝床の上に放り出さうと
したくらゐだ。僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられたのである。
……僕にはその花が急に生きてゐるやうに感じられた。それはただの物象でもなく、ただの
形態でもなかつた。おそらく中橋先生に言はせたら、僕はその瞬間、清らかな白い水仙の花を
透視して、透明になつた花の只中に花の霊魂を見たのだつたらう。永い艱苦の果てに先生が
竜を見たやうに、僕は水仙の霊魂を見たのだ、と先生は言つただらう。
しかし、僕の心はそのときはつきり、こんな考へから遠ざかつてゐた。もしこの水仙の花が
現実の花でなかつたら、僕がそもそもかうして存在して呼吸してゐる筈はないと考へられた。
僕は片手に水仙を持つたまま寝床から立つて、久しくあけない窓をあけに行つた。(中略)
風の加減で、雑多な物音もまじつてきこえる。すべてが今朝は洗はれてゐるやうに見える。
三島由紀夫「鏡子の家」より
268 :
大人の名無しさん:2011/02/03(木) 20:06:14 ID:Jm1G5g0Y
僕は君に哲学を語つてゐるのでもなければ、譬へ話を語つてゐるのではない。世間の人は、
現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で
展開されてゐる民族運動だの、政界の角逐だの、……さういふものばかりから成り立つて
ゐると考へがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いはば現実を
再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配してゐるのは、
他でもないこの一茎の水仙なのだ。
この白い傷つきやすい、霊魂そのもののやうに精神的に裸体の花、固いすつきりした緑の葉に
守られて身を正してゐる清冽な早春の花、これがすべての現実の中心であり、いはば
現実の核だといふことに僕は気づいた。世界はこの花のまはりにまはつてをり、人間の集団や
人間の都市はこの花のまはりに、規則正しく配列されてゐる。世界の果てで起るどんな現象も、
この花弁のかすかな戦(そよ)ぎから起り、波及して、やがて還つて来て、この花蕊に
ひつそりと再び静まるのだ。
三島由紀夫34歳「鏡子の家」より
269 :
大人の名無しさん:2011/02/04(金) 19:39:35 ID:9DhZ4r96
雪の中に、処女(をとめ)の肌のやうな花々が咲いてゐる。その雪の花は百合といふのだ。
百合は聖なる処女を意味する。更に、嬰子のやうな純潔な心を意味する。汝らはそれに
接吻するであらう。その夜、聖なる命が世に放たれるのだ。
いとしい娘よ。そなたは未だ持つてゐるだらう。わしのやつた五つの宝石函を。
その一つは、海のなかゝら、人魚たちが捧げ持つて来る真珠で満たされてゐる。
それらは、女たちの心をうつし取るたからだ。それらは牛乳の風呂で浴(ゆあ)みする
女の肌に似てゐる。牛乳の風呂で浴みする若い女の乳房のやうだ。真珠を月に向つて
透かして見るがよい。そなたの希ふ女の像や心が、その表面に映るであらう。それは殆ど、
三百を数へることだらう。そなたのまるい、すべすべした肩は、真珠が大変よくうつるだらう。
真珠は、なべての悲しみや、希ひをやぶられた女の秘かな歯噛みや、清純な諦めなどを
現はしてゐる。だから、真珠の曇りは清い曇りなのだ。
平岡公威(三島由紀夫)14歳「路程」より
270 :
大人の名無しさん:2011/02/05(土) 00:09:52 ID:MTctMKGi
僕たちにおそろしい妄想を見せるのは臆病といふ病気ですよ。僕たちを縛つてゐるのは
僕たち自身ぢやありませんか。みんな仮の名に、仮の姿におびえてゐるんです。
幸福な思ひ出は不幸な思ひ出よりも人を臆病にさせるものなのよ。
三島由紀夫24歳「灯台」より
恋と犬とはどつちが早く駆けるでせう。
さてどつちが早く汚れるでせう。
恋愛といふやつは本物を信じない感情の建築なんです。
笑ひなさい! いくらでも笑ひなさい! ……あんた方は笑ひながら死ぬだらう。
笑ひながら腐るだらう。儂はさうぢやない。……儂はさうぢやない。笑はれた人間は
死にはしない。……笑はれた人間は腐らない。
今の世の中で本当の恋を証拠立てるには、きつと足りないんだわ、そのために死んだだけでは。
三島由紀夫26歳「綾の鼓」より
271 :
大人の名無しさん:2011/02/05(土) 00:11:29 ID:MTctMKGi
共産主義は資本主義経済内部の一現象にすぎん。資本主義に出来たおできみたいなものだな。
いづれは凹まなければならんものだ。あれは「理想」といふものぢやない。
君にはわからない。おほぜいの盲人の中で、自分一人目がさめてゐると感じることが
どんな苦しみだか。気違ひの中で自分一人が正気だと感じ、大ぜいの馬鹿の中で自分一人が
利巧だと感じること、こいつは決して永保ちのする感じ方ぢやない。もし永保ちすれば、
それは偽物だね。
理想に殉ずるといふことは美しいことだ。
人間が作つたものは、大きければ大きいほど、広ければ広いほど、高ければ高いほど、
不安定になつてしまふ。
がむしやらにうどんを呑み込むやうに時間といふ奴をつるつる呑み込んで、いつか
そのうちに顎の下に山羊みたいなまつ白な毛が生えてくるのを待てばいいのさ。
人生といふ奴は毛生え薬だ、同時に脱毛剤さ。
三島由紀夫25歳「魔神礼拝」より
272 :
大人の名無しさん:2011/02/05(土) 23:37:19 ID:MTctMKGi
女はシャボン玉、お金もシャボン玉、名誉もシャボン玉、そのシャボン玉に映つてゐるのが
僕らの住んでゐる世界。
女の目のなかにはね、ときどき狼がとほりすぎるんだよ。
女の批評つて二つきりしかないぢやないか。「まあすてき」「あなたつてばかね」
この二つきりだ。
子供が生れる。こんなまつ暗な世界に。おふくろの腹の中のはうがまだしも明るいのに。
なんだつて好きこのんで、もつと暗いところへ出て来ようとするんだらう。
三島由紀夫25歳「邯鄲」より
お嬢さま、色恋は負けるたのしみでございますよ。
あたしあなたの、その不死身が憎らしいの。誰も愛さないから、誰からも傷を負はない。
お母様がさういふあなたをどんなに憎んでどんなに苦しんで来たか、よくわかつたわ。
苦しみを知らない人にかかつたら、どんな苦しみだつて、道化て見えるだけなのよ。
三島由紀夫26歳「只ほど高いものはない」より
273 :
大人の名無しさん:2011/02/05(土) 23:38:22 ID:MTctMKGi
むかし俗悪でなかつたものはない。時がたてば、又かはつてくる。
私を美しいと云つた男はみんな死んぢまつた。だから、今ぢや私はかう考へる。
私を美しいと云ふ男は、みんなきつと死ぬんだと。
どんな美人も年をとると醜女になるとお思ひだらう。ふふ、大まちかひだ。美人は
いつまでも美人だよ。今の私が醜くみえたら、そりやあ醜い美人といふだけだ。
一度美しかつたといふことは、何といふ重荷だらう。そりやあわかる。男も一度戦争へ行くと、
一生戦争の思ひ出話をするもんだ。
人間は死ぬために生きてるのぢやございません。
僕は又きつと君に会ふだらう、百年もすれば、おんなじところで……。
もう百年!
三島由紀夫26歳「卒塔婆小町」より
274 :
大人の名無しさん:2011/02/06(日) 23:55:55 ID:aeT/mHUx
人生のいちばんはじめから、人間はずいぶんいろんなものを諦らめる。生れて来て何を
最初に教はるつて、それは「諦らめる」ことよ。そのうちに大人になつて不幸を幸福だと
思ふやうになつたり、何も希まないやうになつてしまふ。
幸福つて、何も感じないことなのよ。幸福つて、もつと鈍感なものよ。
幸福な人は、自分以外のことなんか夢にも考へないで生きてゆくんですよ。
一分間以上、人間が同じ強さで愛しつづけてゆくことなんか、不可能のやうな気があたしには
するの。愛するといふことは息を止めるやうなことだわ。一分間以上も息を止めてゐて
ごらんなさい、死んでしまふか、笑ひ出してしまふか、どつちかだわ。
愛するといふことは、息を止めることぢやなくて、息をしてゐるのとおんなじことよ。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
275 :
大人の名無しさん:2011/02/06(日) 23:57:10 ID:aeT/mHUx
恋愛といふやつは、単に熱なんです。脈搏なんです。情熱なんていふ誰も見たことのない
好加減な熱ぢやない、ちやんと体温計にあらはれる熱なんです。
恋愛といふのは、数なんです。それも函数(かんすう)なんです。五なら五、六なら六だけ
生へ近づく、それと同時に、おなじ数だけ死へ近づくといふ、函数なんです。
夜の空に太陽を探しだすのはむづかしい。向日葵が戸惑つてゐるのも無理はない。
……しかし夜は長くない。いづれ朝が来る。向日葵は朝になればにつこりする。
三島由紀夫「夜の向日葵」より
276 :
大人の名無しさん:2011/02/06(日) 23:58:00 ID:aeT/mHUx
あなたらしさつていふものは、あなたの考へてゐるやうに、人が勝手にあなたにつけた
仇名ぢやない。人が勝手にあなたの上に見た夢でもない。あなたらしさつていふものは、
あなたの運命なんだ。のがれるすべもないものなんだ。神さまの与へた役割なんだ。
人のために生きるのが偶像の運命ですよ。
あたくしは人造真珠なの。どこまで行つてもあたくしは造花なの。もしあたくしが豚だつたら、
真珠に嫉妬なんか感じはしないでせう。でも、人造真珠が自分を硝子にすぎないとしじゆう
思つてゐることは、豚が時たま自分のことを豚だと思つたりするのとは比べものにはならないの。
大丈夫よ、自分を本当の真珠だと信じてゐれば、硝子もいつかは真珠になるのよ。
三島由紀夫27歳「夜の向日葵」より
277 :
大人の名無しさん:2011/02/08(火) 12:23:12 ID:q82bUiMs
世間は鳩山新内閣が、その甘い猫撫で声で、デフレ対策を中断して、半病人の老宰相に対する
世間のセンチメンタルな同情に十分応へてくれるのを待つてゐた。
クリスマスになれば、養老院の老人みたいに、首相は孫たちにかこまれて讃美歌を歌ふだらう。
申訳ばかりの政治面に、鳩山首相の寝ぼけたやうな顔が載つてゐた。この半病人の、憐れな、
泣き虫の、たるんだ下唇をつき出した顔には、棚ざらしになつて埃をかぶつたやうな善意だけが
浮んでゐた。ぬるくなつた豆スープみたいな顔が、政治の嶮しい機械仕掛を完全におほひかくし、
感傷的な靄(もや)を世間いつぱいにひろげてゐた。
三島由紀夫「鏡子の家」より
278 :
大人の名無しさん:2011/02/09(水) 16:19:50 ID:m7rCCI/h
あたしも暴力はきらひだわ、でも女はか弱いものなのよ。か弱いものが暴力をもつのは
合理的なことだわ。象はおとなしいけど、蜂はすぐ刺すでしよ。
三島由紀夫26歳「溶けた天女」より
残酷だつて思ふのは人間だけだよ。小鳥だつて、花だつて、樹だつて、もつと残酷な世界に
しづかに生きてゐるんだ。ごらん、むかうの松林、樹といふ樹が、海風にさらされて、
ものも云はずに、しづかに立つてゐる。あの樹があんなに静かな様子をしてゐるのは、
人間よりももつと残酷な心を隠し持つてゐるからかもしれないんだ。それといふのも、
心なんかを想像してみるからなんだよ。心が在ると思ふからだよ。心がなければ、
残酷さなんて生れないんだ。
三島由紀夫30歳「三原色」より
279 :
大人の名無しさん:2011/02/09(水) 16:21:55 ID:m7rCCI/h
いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。いろんな存在の中に、同時にあたくしが
居たつて、ふしぎではないでせう。
高飛車な物言ひをするとき、女はいちばん誇りを失くしてゐるんです。女が女王さまに
憧れるのは、失くすことのできる誇りを、女王さまはいちばん沢山持つてゐるからだわ。
昼のあとに夜が来るやうに、苦しみはいづれ来ますわ。
六条:どうしてこの世に右と左が、一つのものに右側と左側があるんでせう。今あたくしは
あなたの右側にゐるわ。さうすると、あなたの心臓はもうあたくしから遠いんです。
もし左側にゐるとするわ。さうすると、あなたの右の横顔はもう見えないの。
光:僕は気体になつて、蒸発しちまふほかはないな。
六条:さうなの。あなたの右側にゐるとき、あたくしにはあなたの左側が嫉ましいの。
そこに誰かがきつと坐るやうな気がするの。
三島由紀夫29歳「葵上」より
280 :
大人の名無しさん:2011/02/10(木) 19:34:06 ID:Av77xieg
若いやつの死だけが、豪勢で、贅沢なのさ。だつてのこりの一生を一どきに使つちやふんだ
ものな。若いやつの死だけが美しいのさ。それはまあ一種の芸術だな。もつとも自然に
反してゐて、しかも自然の一つの状態なんだから。
デカダンばつかりですからね。それにみんな半病人ですから、自分の個体の存続にばかり
気をとられて、国の永遠の生命といふものを見失つてますからな。
喜んで国のために死ぬといふことと、真理探究とは、両立すると俺は思つてゐる。
人間つて、自分が思ひ込んだとほりのものになるものでねえ。ジャン・コクトオが面白い
ことを言つてゐる。「ヴィクトル・ユウゴオは、自らヴィクトル・ユウゴオだと信じた
狂人だつた」と。諸君はひよつとすると、自ら無気力だと信じてゐる狂人なんぢや
ありませんかね。
日本が敗けたことが何ともないのか。だから俺はインテリがきらひなんだ。きんたまの
ない男をインテリといふんだよ。きんたまがあつたら、祖国が野蛮人の前に膝を屈するのを
黙つて見てゐられるか。
三島由紀夫29歳「若人よ蘇れ」より
281 :
大人の名無しさん:2011/02/11(金) 11:58:11 ID:7vNBMo/N
凍てたる轍は危なやなう。
蹄は裂けて痛やなう。
もうおお、鼻輪は血ゆゑに濡れたわなう。
もうおお、なう、もうおお、なう。
三島由紀夫28歳「室町反魂香」より
猿源氏:…輿の内なる上臈を、一目見しより恋となり、あけくれ思ひ煩ひて、心もそぞろの
呼び声が、かくの始末にござりまする。
海老名:ウム、そんなら恋の病ゆゑ。
猿源氏:ハイ面目次第もござりませぬ。
海老名:これはまたおやぢにも似ぬ不甲斐のないせがれぢや。折ふし教へおきたるとほり、
恋の手引は、ナウ、それ敷島の道ぢや。物の本にも、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女(をとこをうな)の仲をも和らげ」とある。老いたりといへどもこの海老名、
せがれが恋歌の仲立は、胸三寸にあるわいやい。
猿源氏:チエエ忝(かたじけな)い、おやぢどの。なあみだぶつ。なあみだぶつ。
したが相手は雲の上人、こなたは卑しき鰯売、叶はぬ恋となりにけるかな。
三島由紀夫29歳「鰯売恋曳網」より
282 :
大人の名無しさん:2011/02/11(金) 11:59:34 ID:7vNBMo/N
ねえ、人間つて、待つたり待たせたりして生きてゆくものぢやない?
愛はみんな怖しいんですよ。愛には法則がありませんから。
三島由紀夫30歳「班女」より
贅沢や退屈のしみこんだ肉は、お酒のしみこんだ肉と同じで、腐りさうでなかなか腐らない。
希んだものが、もう希まなくなつたあとで得られても、その喜びは無理矢理自分に言つて
きかせるやうなものなんです。
人間つて決して不幸をたのしみに生きてゆくことなんかできませんのね。
目には目を、歯には歯を、さうして、寛大さには寛大さを。
人を恕すといふことは、こんなことだつたのか。こんなに楽なことだつたのか。……
そしてこんなに人間を無力にするものなのか。
世の中つて、真面目にしたことは大てい失敗するし、不真面目にしたことはうまく行く。
三島由紀夫30歳「白蟻の巣」より
283 :
大人の名無しさん:2011/02/11(金) 12:02:14 ID:7vNBMo/N
朝は、朝はなあ、自炊の朝飯を喰つて、軽い体操をして、晴れた日には、灯台の前の
空地の旗竿に、WAYの旗をあげる。W……A……Y。『汝の愉快なる航海を祈る』か。
朝風に旗がひらひらする。一寸した幸福。旗つてやつは、風がはらむと、幸福らしくなる。
しかし弔旗つてやつもあつたな。まあ、どつちでもいいや。幸福でも不幸でも、
旗つてやつは、感情に訴へるよ。心なんてあんなものだ。風をはらめば、ひらひら、ひらひら。
風がなければ死んでしまふ。内容は風だけなんだ。それだけなんだ。
三島由紀夫30歳「船の挨拶」より
死といふやつは、当り籖(くじ)のやうに身をひそめてゐるんです。
三島由紀夫31歳「大障碍」より
284 :
大人の名無しさん:2011/02/13(日) 00:02:38 ID:hSTIoILl
悲しい気持の人だけが、きれいな景色を眺める資格があるのではなくて? 幸福な人には
景色なんか要らないんです。
朝子:お答へにならないところを見ると、それが秘密だからといふばかりでなく、前以て
人に知られたくないやうな、花々しい立派なお仕事なのね。
久雄:とんでもない。恥知らずのやる仕事です。
朝子:殿方が命をかけてやらうとなさつてゐることを、御自分で卑下なすつたりしては
いけません。世間がどんな目で見ようと、よしんば法律の罪だらうと。
久雄:ではこれだけ申します。仰言るとほり僕は命を賭けてゐます。明日の太陽を仰げるか
どうかわかりません。しかしそれは無意味な行為で、歴史に小さな汚点(しみ)をつける
だけのことでせう。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
285 :
大人の名無しさん:2011/02/13(日) 00:03:45 ID:hSTIoILl
政府の大官や貴婦人方のお追従笑ひは、条約改正どころか、かれらの軽侮の念を強めて
ゐるだけだ。よろしいか、朝子さん。私は外国を廻つて知つてをるが、外国人は自尊心を
持つた人間、自尊心を持つ国民でなければ、決して尊敬しません。壮士の乱入は莫迦げた
ことかもしれん、しかし私はそれで政府に冷水を浴びせ、外国人に肝つ玉の据つた日本人も
ゐるぞといふところを見せてやれば、それで満足なのだ。
清原:あなたの髪、……この黒い髪、……会はないでゐた二十年といふもの、夜の闇が
夜毎に染めて、ますます黒く、ますます長く、ますますつややかになつたこの黒髪……。
朝子:この髪の夜は長くて、夜明けはいつ来るとも知れません。髪がすつかり白くなり、
私が女でなくなるときに、曙がその白髪を染めるのですわ。悩みもない、わづらひもない、
その一日に何もはじまる惧(おそ)れのない曙が。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
286 :
大人の名無しさん:2011/02/13(日) 00:07:27 ID:hSTIoILl
骨肉の情愛といふものは、一度その道を曲げられると、おそろしい憎悪に変はつてしまふ。
理解の通はぬ親子の間柄、兄弟の間柄は他人よりも遠くなる。
政治とは他人の憎悪を理解する能力なんだよ。この世を動かしてゐる百千百万の憎悪の
歯車を利用して、それで世間を動かすことなんだよ。愛情なんぞに比べれば、憎悪のはうが
ずつと力強く人間を動かしてゐるんだからね。
花作りといふものにはみんな復讐の匂ひがする。絵描きとか文士とか、芸術といふものは
みんなさうだ。ごく力の弱いものの憎悪が育てた大輪の菊なのさ。
この世には人間の信頼にまさる化物はないのだ。
政治の要請はかうだ。いいかね。政治には真理といふものはない。真理のないといふことを
政治は知つてをる。だから政治は真理の模造品を作らねばならんのだ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
287 :
大人の名無しさん:2011/02/13(日) 00:08:31 ID:hSTIoILl
僕の考へる旅はますます美しい、ますます空想的なものになつたんです。つまり汽車だの
船だのが要らない旅になつたんです。この虚偽に充たされた国にゐて、僕があるとき、
海のむかうの、平和で秩序正しく、つややかな果物がいつも実つて、日がいつも照り
かがやいてゐる国のことを心に浮べたとき、汽車だの船だのは、もう僕にはまだるつこしい。
僕がさういふ国を心に浮べたとき、まさにその瞬間からですよ、僕がもうその国に
居るのでなくては、その瞬間から、僕の空想してゐた果物の香りが現実の香りになり、
僕の夢みてゐた日光が頭の上にふり注いで来るのでなくては。……それでなくては、
もう間に合はないんです。
お嬢さん、教へてあげませう。武器といふものはね、男に論理を与へる一番強力な
道具なんですよ。
三島由紀夫「鹿鳴館」より
288 :
大人の名無しさん:2011/02/13(日) 00:09:46 ID:hSTIoILl
朝子:清原さんの仰言るやうに、あなたは成功した政治家でいらつしやる。何事も
思ひのままにおできになる。その上何をお求めになるんです。愛情ですつて?
滑稽ではございませんか。心ですつて? 可笑しくはございません? そんなものは
権力を持たない人間が、後生大事にしてゐるものですわ。乞食の子が大事にしてゐる
安い玩具まで、お欲しがりになることはありません。
影山:あなたは私を少しも理解しない。
影山:ごらん。好い歳をした連中が、腹の中では莫迦々々しさを噛みしめながら、
だんだん踊つてこちらへやつて来る。鹿鳴館。かういふ欺瞞が日本人をだんだん賢くして
行くんだからな。
朝子:一寸の我慢でございますね。いつはりの微笑も、いつはりの夜会も、そんなに
永つづきはいたしません。
影山:隠すのだ。たぶらかすのだ。外国人たちを、世界中を。
朝子:世界にもこんないつはりの、恥知らずのワルツはありますまい。
三島由紀夫31歳「鹿鳴館」より
289 :
大人の名無しさん:2011/02/14(月) 17:54:20 ID:OMp893fg
不満といふものはね、お嬢さん、この世の掟を引つくりかへし、自分の幸福をめちやめちやに
してしまふ毒薬ですよ。
自然と戦つて、勝つことなんかできやしないのだ。
三島由紀夫32歳「道成寺」より
もう一度仰言つて下さい。「許しませんよ」ああ、それこそ貴婦人の言葉だ。生れながらの
けだかい白い肌の言はせる言葉だ。私はその言葉が好きです。どうかもう一度……
三島由紀夫32歳「朝の躑躅」より
290 :
大人の名無しさん:2011/02/14(月) 17:58:03 ID:BbElzEJ5
291 :
大人の名無しさん:2011/02/15(火) 17:43:48 ID:/EXMvaf0
狸の銀:心づくしの狸汁で、帰りを待つが子分のつとめ、けふの狸はどうぢや知らぬ。
こりや上乗の狸ぢやわい。
鴉の権:肌あたたむる狸汁
梟の八:おんなじ肌のぬくもるにも
狐の拳:女と狸ぢや大きな相違
熊の胆:都恋しき朝夕なれど
狸の銀:ここの稼ぎもやめられぬ。
鴉の権:ハテ親分はもう帰られさうなものぢやなア。
鴉の権:蝦蟇丸(がままる)親分の
子分一同:おかへりだわい。
鴉の権:シテ今宵の首尾は?
蝦蟇丸:獲物も獲物、二つとない品ぢや。花嫁御寮を連れて戻つたわ。
鴉の権:見れば姿もあでやかに、月にたたずむ姫御前は、まことに菩薩か天人か、
拝んだだけで身がとろける。これは結構なお土産を、ヘイありがたう存じまする。
蝦蟇丸:たはけめ、貴様にやるものか。
鴉の権:そんならどなたの
子分一同:花嫁御寮か。
蝦蟇丸:わしのぢやわい。
鴉の権:モシ親分、それではすみますまい。
蝦蟇丸:何がすまぬ。
鴉の権:ぢやと申して、
蝦蟇丸:シーッ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫「むすめごのみ帯取池」より
292 :
大人の名無しさん:2011/02/15(火) 17:45:00 ID:/EXMvaf0
菊姫:こりや何の羹(あつもの)ぢやわいなア。
蝦蟇丸:腹中を温むるに、これに如(し)くものなしと古伝の羹、まづ召されい。
菊姫:何やら茶めいたものなれど
鴉の権:ハイ狸汁でござりまする。
菊姫:ヒエエ、狸ぢやとエ。
蝦蟇丸:コリャ姫の御気色直さんため、いつもの踊りを早う早う。
子分一同:ヘーイ。
蝦蟇丸:踊りのあとは盃事、用意の盃、早う持て。
狸の銀:ハア。
菊姫:いかい武張つたお盃、こりや又何のお盃事かいなう。
蝦蟇丸:言はずと知れた、三三九度ぢやわえ。
菊姫:山賊(やまだち)にも似ぬよい殿御と、思ひ定めて来し身なれば、今さらおどろく
いはれもなけれど、夫婦の固めの盃に、無粋な衆の列座もいかが、皆の衆退らしやんせ。
鴉の権:女房気取でぴんしやんと
梟の八:都をしばらく見ぬうちに
狐の拳:とんと近ごろの姫御前は
熊の胆:蓮葉なものでは
子分一同:あるめいか。
蝦蟇丸:何をつべこべ。退れ。退れ。
子分一同:ヘーイ。
三島由紀夫33歳「むすめごのみ帯取池」より
293 :
大人の名無しさん:2011/02/16(水) 13:28:04 ID:+IH1vCvH
今宵は望(もち)の橋渡り、七つの橋を願事(ねぎごと)の、心づくしに綿帽子、
三々九度も夢ならず。されどきびしき掟には、
かたき掟も守るべし。お供したやと心せく、二人を尻目にみなはただ、呆然として欲気なく、
小弓は色香も置きわすれ、お座敷がへりの空腹を、勝手馴れたる居催促。
月に芒(すすき)や猫じやらし、猫に小判と言ふものの、小判はほしや、老いづけば、
金よりほかにたよる瀬もなし、お金、お金、お金、お金ほしやの、お月さま。
金と意気地とどつちが大事、それもこの世はあなたまかせの、旦那次第や運次第、
松の太夫の位がほしや、春と秋との踊りにも主役になりたや、お月さま。
忘られぬ、ぬしが面影、映し画よりも、うつつに見たるお座敷で、二言三言交はせしが、
シネマスコープの恋となり。今は何でもハッピー・エンドがわが願ひ、恋よ恋、恋、
映し画になすな恋とは思へども、恋の成就を、お月さま。
三島由紀夫33歳「舞踊台本 橋づくし」より
294 :
大人の名無しさん:2011/02/18(金) 10:45:42 ID:6FjyE23V
世界といふものはね、こぼれやすいお皿に入つてゐるスープなの。みんなして、それが
こぼれないやうに、スープ皿のへりを支へてゐなければなりませんの。
僕はどこまでも行くんだよ。たくさんの雲が会議をひらいてゐるあの水平線まで……。
人間の住む屋根の下では、どんなことでも起るんだよ。
飲みのこしたコーヒーはだんだん冷えて、茶碗の底に後悔のやうに黒く残るの。それは
苦くて甘くて冷たくて、もう飲めやしないの。コーヒーは美味しいうちに飲んで、さうね、
何もかも美味しいうちに飲み干して、それから、「おはやう」を言ふときのやうに元気に、
「さよなら」を言はなければ……。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より
295 :
大人の名無しさん:2011/02/18(金) 10:47:20 ID:6FjyE23V
帝一:「さよなら」を言ふときも、「おはやう」を言ふやうに朗らかに、つて君言つたよね。
楓:ええ。
帝一:牛乳配達も来ない朝、窓のカーテンの隙間に朝の光りが、金いろの若草が生ひ
茂つたやうに見えもしない朝、鷄といふ鷄は殺されて時も告げない朝、……もし今が
朝だつたら、そんな朝だもの。どうして「おはやう」つて言ふだらう。そんな朝には誰だつて、
「さよなら」つて言ふだらう。さうして殺された鷄のために泣くだらう。
楓:ちらばつた血まみれの羽が、朝風にひらひら飛んでも、朝が来れば私たちは、
「おはやう」と言はなくては。
三島由紀夫「薔薇と海賊」より
296 :
大人の名無しさん:2011/02/18(金) 10:48:17 ID:6FjyE23V
定代の幽霊:薔薇は枯れることがございません。
勘次の幽霊:この世をしろしめす神様があきらめて、薔薇に王権をお譲りになつた。
定代の幽霊:これがそのしるしの薔薇、
勘次の幽霊:これがその久遠の薔薇でございます。
定代の幽霊:薔薇の外側はまた内側、
勘次の幽霊:薔薇こそは世界を包みます。
定代の幽霊:この中には月もこめられ、
勘次の幽霊:この中には星がみんな入つてをります。
定代の幽霊:これがこれからの地球儀になり、
勘次の幽霊:これがこれからの天文図になるのでございます。哲学も星占ひも、みんな
この凍つた花びらのなか、緋いろの一輪のなかに在るのでございます。
三島由紀夫33歳「薔薇と海賊」より
297 :
大人の名無しさん:2011/02/19(土) 11:50:10 ID:eOGD4HRw
大切なのは今といふ時間、今日といふこの日だよ。その点では遺憾ながら、人のいのちも
花のいのちも同じだ。同じなら、悲しむより楽しむことだよ。
楽しみといふものは死とおんなじで、世界の果てからわれわれを呼んでゐる。その輝やく声、
そのよく透る声に呼ばれたら最後、人はすぐさま席を立つて、出かけて行かなくちやならんのだ。
相容れないものが一つになり、反対のものがお互ひを照らす。それがつまり美といふものだ。
陽気な女の花見より、悲しんでゐる女の花見のはうが美しい。
三島由紀夫34歳「熊野」より
298 :
18歳の切腹:2011/02/19(土) 16:18:28 ID:1WYLhN+t
299 :
大人の名無しさん:2011/02/20(日) 19:40:12.88 ID:1oWQIIZJ
誰だつて空想する権利はありますわ。殊に弱い人たちなら。
余計なことを耳に入れず、忌はしいものを目に入れないでおくれ。知らずにゐず、
聴かずにゐたい。俺の目に見えないものは、存在しないも同様だからさ。
夢をどんどん現実のはうへ溢れ出させて、夢のとほりにこの世を変へてしまふがいい。
それ以外に悪い夢から治ることなんて覚束ない。さうぢやないこと?
喜んだ顔をしなくてはいけないから喜び、幸福さうに見せなくてはいけないから幸福に
なつたのよ。いつまでも羽根のきれいな蝶々になつてゐなくてはならないから、蝶々に
なつたのよ。
一度枯れた花は二度と枯れず、一度死んだ小鳥は二度と死なない。又咲く花又生れる小鳥は、
あれは別の世界のこと、私たちと何のゆかりもない世界のことなのよ。
淋しさといふものは人間の放つ臭気の一種だよ。
三島由紀夫34歳「熱帯樹」より
300 :
大人の名無しさん:2011/02/20(日) 19:41:34.79 ID:1oWQIIZJ
占領とは何だ。占領とはつまり、自分の国の幻滅のありたけをその国へ持ち込んで、
そこで幻滅のない国を夢みることだよ。
しばらく物を云はないで。……その窓にあなたのきれいな横顔がある。実に贅沢で、
豪華な横顔ですよ。あれだけの戦争を、いつときのシャワーみたいにくゞり抜けてきて、
日本の古い歴史の高価で淫蕩な血を伝へて本当の東洋の貴婦人らしいあなたの横顔がある。
伊津子:あなたは小さなかはいゝ箱庭を手にお入れになつたのね。でもさうやつて、
人を命令して従はすのつて、すてきでせうね。人をだましたり、人と相談したりして、
結局自分の思ふところへ引張つてゆくといふのは……何だか卑怯みたいね。
エヴァンス:それが民主々義といふもんです。
神様を信じてゐて悪いことをするはうが、信じてゐないでするよりもすてきぢやなくて。
三島由紀夫「女は占領されない」より
301 :
大人の名無しさん:2011/02/20(日) 19:43:45.75 ID:1oWQIIZJ
私、占領された日本の男の人たちから、「占領された」つていふ悲しい顔をとつてあげたいの。
哀れな、卑屈な、不如意な男の人たちの顔を、みんな私の顔みたいに、明るくて、呑気で、
のびのびした顔にしてあげたいの。だつて女といふものは、やすやす占領なんかされて
ゐないんですもの。
日本といふ国は、占領軍がゐたつてゐなくたつて、蜘蛛の巣におつこちた蝶みたいに、
何一つ思ひ切つたことはできないやうになつてるんだ。
僕のたくさんの上官も、その上に威張り返つてゐるマッカーサーも、いや、最高政策を
刻々ワシントンから指令して来るあのオールマイティの連合国委員会も、何一つ、誰一人、
絶対の意志と絶対の権力を持つてゐるやつはゐないんだ。すべては世界の潮流のまゝに
流されてゐる木切なんだ。大きい木切も、小さい木切も。……ごらん。夜の海のまつくらな面が、
ふくらんだり退いたりしてゐる。潮の流れが沖のとほくのはうからすべてを支配してゐる。
それに従つて木切は動く。そして自分で動いたと思つてゐる。……僕も木切にすぎない。
さうして君も……。
三島由紀夫「女は占領されない」より
302 :
大人の名無しさん:2011/02/20(日) 19:46:15.78 ID:1oWQIIZJ
エヴァンス:僕は一生わすれないだらう。
伊津子:私のことは忘れてもいいわ。たのしさだけはおぼえてゐてね。
エヴァンス:何もかも、僕は一生わすれないだらう。年をとると、何もかもがたのしい
夢のやうに思へてくるだらう。占領政策だの、焼趾だの、革新党内閣だのはみんな
忘れられて、広重の描いたやうな小さな可愛らしい日本だけが残るだらう。それだけが
僕の一生の夢、小さな幸福の思ひ出になるだらう。
伊津子:そのときなら私も安心して、絵の中の女になるでせう。白髪のおばあさんに
なつたときの私なら、喜んで今の私を、絵の中の女だと思ふでせう。
三島由紀夫34歳「女は占領されない」より
303 :
大人の名無しさん:2011/02/21(月) 16:53:11.96 ID:aivGQ/7Z
304 :
大人の名無しさん:2011/02/26(土) 12:29:40.29 ID:JMJVbzZl
僕らは嘗て在つたもの凡てを肯定する。そこに僕らの革命がはじまるのだ。僕らの肯定は諦観ではない。僕らの
肯定には残酷さがある。――僕らの数へ切れない喪失が正当を主張するなら、嘗ての凡ゆる獲得も亦正当で
ある筈だ。なぜなら歴史に於ける蓋然性の正義の主張は歴史の必然性の範疇をのがれることができないから。
僕らはもう過渡期といふ言葉を信じない。一体その過渡期をよぎつてどこの彼岸へ僕らは達するといふのか。
僕らは止められてゐる。僕らの刻々の態度決定はもはや単なる模索ではない。時空の凡ゆる制約が、僕らの目には
可能性の仮装としかみえない。僕らの形成の全条件、僕らをがんじがらめにしてゐる凡ての歴史的条件、――
そこに僕らはたえず僕らを無窮の星空へ放逐しようとする矛盾せる熱情を読むのである。決定されてゐるが故に
僕らの可能性は無限であり、止められてゐるが故に僕らの飛翔は永遠である。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
305 :
大人の名無しさん:2011/02/26(土) 12:30:07.70 ID:JMJVbzZl
(中略)
新らしさが「発見」であるとするならば、発見ほど既存を強く意識させるものはない筈だ。発見は「既存」の
革命であるが、それは既存そのものの本質的な変化ではなく、既存の現象的相対的変化に他ならない。既存の
革命といふよりも、既存の意味の革命といふべきだ。(中略)
読者は僕らがなぜ革命を云はうとするのか訝かるかもしれない。しかし手始めに僕らは、革命といふ概念の古さを
修正しようとかかつてゐるのだ。十八世紀以来使ひ古されたこの陳腐な概念そのものに、革命を与へることから
はじめるのだ。(中略)僕らは永遠への思慕を忘れかねて革命を欲求する。衝動のはげしさは革命の概念によつて
盲目にされはしない。熱情の血との併有。信仰と懐疑との美はしい共在。僕らは革命のスツルム・ウント・
ドランクを通じて、無風帯を留保しておくだらう。(中略)
熱情に対して、より低い次元の侵入を警戒せねばならない。あらゆる批判と警戒の冷水も、真の陶冶されたる熱情を
昂めこそすれ、決してもみ消してしまふものではない。むしろあらゆる冷血にも耐へうる熱情の強さに僕らは
誇りを感じるべきだ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
306 :
大人の名無しさん:2011/02/26(土) 12:30:38.03 ID:JMJVbzZl
(中略)
たえず高きを憧れる存在が同じくその存在にとつて本質的な他のものによつて掣肘される時醸し出される緊張は、
その存在から矛盾と衝突が取除かれ融和と協同のみが得られる所謂「完成」と之を比べる時、何れ劣らぬものを
もつてゐるのではあるまいか。形成とは本質的なるものの分裂とその対立緊張による刻々の決闘である。結果たる
勝敗を本質的なものとして固定的に考へるならそれは変様と過渡とにすぎぬが、併し真の普遍性と永遠性は
後者のなかに見出だされるかもしれないのだ。独創性は真の普遍性の海のなかでしか発見されぬ真珠である。
不変なるものは変様のうちにひそんでゐるかもしれない。僕らの若さはなるほど本質的なるものが分裂し互に
制約する点にもともと悲劇的なものであるといへるし、若さそれ自身が不吉であるとさへ感ぜられる。しかし
傍目には退屈なこの形成の過程は、それから生れ出る結果を俟つまでもなく、それがそのまま抽象されて評価に
耐へうる筈だ。未完的完結の形に於てその刹那刹那に終止する否定しがたい意味が見られる筈だ。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
307 :
大人の名無しさん:2011/02/26(土) 12:31:02.74 ID:JMJVbzZl
その外見上の未熟と不完全とにも不拘(かかはらず)、(壮年老年の文学が表現によつて定型化されるなら)、
若年の文学は表現を掣肘せんとする凡ゆる時間的空間的因子によつて定型化されるであらう。いはゞそれは
ネガティヴな、これまた貴重な表現型式であるといはねばならない。若年の文学的作品はその言語的表現以前の
評価の基準となりうべき、或るかけがへのない不吉な「確かさ」に満ちてゐるものだ。
かくて僕らは若年の権利を提言する。「たゞ若年に可能性をのみ発掘しようとする努力に終るな。なぜなら我々の
最も陥りやすい信仰の誤謬は、存在そのものを信仰してゐるつもりでその存在の可能性のみを信仰してゐることに
存するのだから」かくの如く僕らは主張し警告することを憚るまい。そしてこの時代の奔騰の前に、若者が或る
兇悪な意志で見戍られてゐることを知るであらう。新らしい時代を築かうとする若年には夭折の運命がある。
神の国を後にした古事記の王子(みこ)たちは、凡て若くして刃に血ぬられた。彼等と共に矜り高くその道を
歩むことを、恐らく僕らの運命も辞すまい。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「わが世代の革命」より
308 :
大人の名無しさん:2011/03/02(水) 10:18:49.28 ID:r4p4zVRz
○ 偉大な伝統的国家には二つの道しかない。異常な軟弱か異常な尚武か。それ自身健康無礙(むげ)なる状態は
存しない。伝統は野蛮と爛熟の二つを教へる。
○ 承詔必謹とは深刻なる反省の命令である。戦争熱旺(さか)んなりし国民が一朝にして平和熱へと転換する為に、
自己革命からの身軽な逃避が、この神聖な言葉で言訳されてはならない。
○ デモクラシイの一語に心盲ひて、政治家達ははや民衆への阿諛(あゆ)と迎合とに急がしい。併し真の戦争責任は
民衆とその愚昧とにある。源氏物語がその背後にある夥しい蒙昧の民の群衆に存立の礎をもつやうに、我々の
時代の文学もこの伝統的愚民にその大部分を負ふ。啓蒙以前が文学の故郷である。これら民衆の啓蒙は日本から
偉大な古典的文学の創造力を奪ふにのみ役立つであらう。――しかしさういふことはありえない。私は安心してゐる。
政治家は民衆の戦争責任を弾劾しない。彼らは、泰西人がアジアを怖るゝ如く、民衆をおそれてゐる。この畏怖に
我々の伝統的感情の凡てがある。その意味で我々は古来デモクラチックである。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
309 :
大人の名無しさん:2011/03/02(水) 10:19:20.51 ID:r4p4zVRz
○ 日本的非合理の温存のみが、百年後世界文化に貢献するであらう。
○ ナチスもデモクラシイも国の伝統的感情の一斑と調和するところあるために取入れられ又取入れられ得たので
あると思ふ。これを超えて、強制的に妥当せしめらるゝ時、ナチスが禍ありし如く、デモクラシイも禍あるものと
なるであらうと思ふ。
○ 偏見はなるたけない方がよい。しかしある種の偏見は大へん魅力的なものである。
○ 芸術家の資質は蝋燭に似てゐる。彼は燃焼によつて自己自身を透明な液体に変容せしめる。しかしその
融けたる蝋が人の住む空気の中に落ちてくると、それは多種多様な形をして再び蝋として凝化し固形化する。
これが詩人の作品である。即ち詩人の作品は詩人の身を削つて成つたものであり、又その構成分子は詩人の身に等しい。
それは詩人の分身である。しかしながら燃焼によつて変容せしめられたが故に、それは地上的なる形態を超えて
存在する。しかも地上的なる空気によつて冷やされ固められ乍ら。
○ 人生は夢なれば、妄想はいよいよ美し。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
310 :
大人の名無しさん:2011/03/02(水) 10:19:59.68 ID:r4p4zVRz
○ 退屈至極であつた学習院の学友諸君よ。諸君らに熱情ある友情の共感をもちつゞけることができるほど、僕は
健康な人間ではなかつた。君らがジャズを愛好するのもまだしも我慢できた。君らが一寸も本を読むといふことを
しらないで、殆ど気高くみえるほど無智なことにも我慢できた。だが僕には我慢ならなかつた。君らと会ふたびに、
暗黙の内に強いられたあの馬鹿話の義務を。つまり君たちが、おそろしく、さうだ慶応年間生れの老人よりも、
もつとおそろしく退屈であつたことを。――戦争が僕と君らを離れるやうに強いた。今では、昔より、僕は君らを
愛することができるだらう。尤も君らが僕の目の前にゐないことを前提としてだ。――なつかしい「描かれる」一族よ。
君たちは君たちの怠惰と、無智と、無批判の故に、描かれるべく相応に美しくなつてゐる筈だ。僕には「桜の園」の
作者となる義務があるだらう。(君らがゑがかれるために申分なく美しくなつた時代に)
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
311 :
大人の名無しさん:2011/03/02(水) 10:20:23.55 ID:r4p4zVRz
○ 流れる目こそ流されない目である。変様にあそぶ目こそ不変を見うべき目である。わたしはかゞやく変様の
一瞬をこの目でとらへた。おお、永遠に遁(に)げよ、そして永遠にわたしに寄添うてあれ。
○ 神界がもし完全なものならそれが発展の故にでなく、最初からあつたといふことは注目すべき事実だ。
○ どのやうな美しい物語にも慰さめられないとき、生れ出づるものは何であらうか。それを書いた瞬間に、
すべては奇蹟になり、すべては新たにはじめられ、丁度、朝警笛や荷車や鈴や軋りやあらゆる騒音が活々と
ゆすぶれだし、約束のやうに辷り出す、さういふ物語を私は書きたい。そしてそのやうな作品の成立がもはや
恵まれずとも怨まない。
平岡公威(三島由紀夫)昭和20年9月16日「戦後語録」より
きちがい
313 :
大人の名無しさん:2011/03/04(金) 11:05:03.16 ID:mSrnzE07
○ 私は悲しみのために色さへ蒼ざめ乍ら、自分の人との間に介在する塀の内側へ来て了ふのだつた。わたしは
その塀をどんなに悲しみ深くながめたらう。
しかしこのやうな、塀への愛情や憤怒や情熱は、君らの言葉では、それに当るものがない。君らはたゞ僕を
情熱なき人間と云つた。僕のマスクは君らの注文に応じてますます硬化した。僕の身悶えするやうな青春の苦悩が
君たちにはコレッポチもわからなかつた。
もし僕に子供が出来て、彼が天才の名にあこがれたら僕はどう云つて叱り、またいさめよう。彼にこんな暗い、
寂寞たる青春は与へたくない。
○ 天才がたゞその作物によつてのみ天才といはれるなら僕は明らかに天才でないだらう。天才がたゞ彼の
夭折によつてのみ天才といはれるなら、僕は尚天才ではないだろう。
しかし天才はたしかにある。それは僕である。それは凡人のあづかりしれぬ苦悩に昼となく夜となく悩みつゞける魂だ。
それは生れ乍ら悲劇の子だ。それは神の私生児だ。
○ 天才とは青春の虐殺者である。
平岡公威(三島由紀夫)推定20〜22歳「わが愛する人々への果し状」より
314 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:33:35.37 ID:sOAZEZiH
最初の特攻隊が比島に向つて出撃した。我々は近代的悲壮趣味の氾濫を巷に見、あるひは楽天的な神話引用の
讃美を街頭に聞いた。我々が逸早く直覚し祈つたものは何であつたか。我々には彼等の勲功を讃美する代りに、
彼等と共に祈願する術しか知らなかつた。彼等を対象とする代りに、彼等の傍に立たうとのみ努めた。真の
同時代人たるものゝ、それは権利であると思はれた。
特攻隊は一回にしては済まなかつた。それは二次、三次とくりかへされた。この時インテリゲンツの胸にのみ
真率な囁(ささや)きがあつたのを我々は知つてゐる。「一度ならよい。二度三度とつゞいては耐へられない。
もう止めてくれ」と。我々が久しくその乳臭から脱却すべく努力を続けて来た古風な幼拙なヒューマニズムが
こゝへ来て擡頭したのは何故であらうか。我々はこれを重要な瞬間と考へる。人間の本能的な好悪の感情に、
ヒューマニズムがある尤もらしい口実を与へるものにすぎないなら、それは倫理学の末裔と等しく、無意味にして
有害でさへあるであらう。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
315 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:34:06.50 ID:sOAZEZiH
しかし一切の価値判断を超越して、人間性の峻烈な発作を促す動力因は正統に存在せねばならない。誤解しては
ならない。国家の最高目的に対する客観的批判ではなく、その最高目的と人間性の発動に矛盾を生ずる時、既に
道義はなく、道徳は失はれることを云はんとするのである。人間性の発動は、戦争努力と同じ強さを以て執拗に
維持され、その外見上の「弱さ」を脱却せねばならない。この良き意思を欠く国民の前には報いが落ちるであらう。
即ち耐ふべきものを敢て耐ふることを止め、それと妥協し狎(な)れその深き義務より卑怯に遁(のが)れんと
する者には報いが到来するであらう。
我々が中世の究極に幾重にも折り畳まれた末世の幻影を見たのは、昭和廿年の初春であつた。人々は特攻隊に対して
早くもその生と死の(いみじくも夙に若林中隊長が警告した如き)現在の最も痛切喫緊な問題から目を覆ひ、
国家の勝利(否もはや個人的利己的に考へられたる勝利、最も悪質の仮面をかぶれる勝利願望)を声高に叫び、
彼等の敬虔なる祈願を捨てゝ、冒涜の語を放ち出した。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
316 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:34:30.41 ID:sOAZEZiH
彼等は戦術と称して神の座と称号を奪つた。彼等は特攻隊の精神をジャアナリズムによつて様式化して安堵し、
その効能を疑ひ、恰かも将棋の駒を動かすやうに特攻隊数千を動かす処の新戦術を、いとも明朗に謳歌したのである。
沖縄死守を失敗に終らしめたのはこの種の道義的弛緩、人間性の義務の不履行であつた。我々は自らに憤り、
又世人に憤つたのである。しかしこの唯一無二の機会をすら真の根本的反省にまで持ち来らすに至らなかつた。
軈(やが)て本土決戦が云々され、はじめて特攻隊は日常化されんとした。凡ての失望をありあまるほどもちながら、
自己への失望のみをもたない人々が、かゝる哀切な問題に直面したことには一片の皮肉がある。我々は現在現存の
刹那々々に我々をして態度決定せしめる生と死の問題に対して尚目覚むるところがなかつた。もし我々に死が
訪れたならそれは無生物の死であつたであらう。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
317 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:34:50.92 ID:sOAZEZiH
(中略)
沖縄の失陥によつて、その後の末世の極限を思はしむる大空襲のさなかで、我々がはじめて身近く考へ目賭したのは
「神国」の二字であつた。我々には神国といふ空前絶後の一理念が明確に把握されつゝあるが如く直感されたのである。
危機の意識がたゞその意識のみを意味するものなら、それは何者をも招来せぬであらう。たゞ幸ひにも、人間の
意識とは、その輪廓以外にあるものを朧ろげに知ることをも包含するのである。意識内容はむしろネガティヴであり、
意識なる作用そのものがポジティヴであると説明してよからうと思はれる。それは又、人間性の本質的な霊的な
叡智――神である。(中略)
我々が切なる祈願の裏に「神国」を意識しつゝあつた頃、戦争終結の交渉は進められてあり、人類史上その
惨禍たとふるものなき原子爆弾は広島市に投弾されソヴィエト政府は戦を宣するに至つた。かくて八月十五日正午、
異例なるかな、聖上御親(おんみづか)ら玉音をラヂオに響かし給うたのである。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
318 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:35:19.75 ID:sOAZEZiH
「五内(ごだい)為に裂く」と仰せられ、「爾(なんぢ)臣民と共に在り」と仰せらるゝ。我々は再び我々の
帰るべき唯一無二の道が拓(ひら)くるを見、我々が懐郷の歌を心の底より歌ひ上ぐるべき礎が成るのを見た。
我々はこの敗戦に対して、人間的な悲喜哀歓喜怒哀楽を超えたる感情を以てしか形容しえざるものを感ずる。
この至尊の玉音にこたへるべく、人間の絞り出す哭泣の声のいかに貧しくも小さいことか。人間の悲しみがいかに
同じ範疇を戸惑ひしてうろつくにすぎぬことか。我々はすでにヒューマニズムの不可欠の力を見たが、これによつて
超越せられたる一切の価値判断は、至尊の玉音に於て綜合せられ、その帰趨(きすう)を得るであらうと信ずる。
人間性の練磨に努めざりし者が、超人間性の愛の前に、その罪を謝することさへ忘れ果てて泣くのである。この
刹那我等はかへりみて自己が神であるのを知つたであらう。人間性はその限界の極小に於て最高最大たりうることを。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
319 :
大人の名無しさん:2011/03/05(土) 10:44:16.89 ID:sOAZEZiH
(中略)
けふ八月十九日の報道によれば、参内されたる東久邇宮に陛下は左の如く御下命あつた由承る。「国民生活を
明るくせよ。灯火管制は止めて街を明るくせよ。娯楽機関も復活させよ。親書の検閲の如きも即刻撤廃せよ」
かくの如きは未だ嘗て大御心より出でさせたまひし御命令としてその例を見ざる処である。この刹那、わが国体は
本然の相にかへり、懐かしき賀歌の時代、延喜帝醍醐帝の御代の如き君臣相和す天皇御親政の世に還つたと
拝察せられる。黎明はこゝにその最初の一閃を放つたのである。
(中略)困難なる事態より国家を救ふの力は、既に一応の教養と智識によつて冷静正鵠なる判断を得たる廿歳以上の
智識青年の内に深く畳める情熱に俟つところ最も大である。真に宇宙の秩序を秩序とする太宗の文化を建設し、
平和世界の憧憬の的たらむ祖国に尽くすべき力は、我々に俟つ。
青年の奮起、沈着、その高貴並びなき精神の保持への要請が今より急なる時はない。ますらをぶりは一旦内心に
沈潜浄化せしめられ、文化建設復興の原力として、たわやめぶりを練磨し、なよ竹のみさを持せんと力めることこそ、
わが悠久の文学史が、不断に教へるところではあるまいか。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「昭和廿年八月の記念に」より
320 :
大人の名無しさん:2011/03/08(火) 19:28:47.43 ID:PUHyyyI1
伊勢物語のやうな古典をよむと畏ろしくおもはれる。日本人にはたしかにああしたものを書きたい欲求があり、
いはゆる小説家の神経では禁忌のやうになつてゐるだけのつぴきならず怖ろしいのである。日本の古典が伊勢物語
一冊であつたら現代の小説家はみな絞(くび)れ死ぬであらう。雨月物語のやうな物語をかき、もつとあがきの
とれぬ春雨物語といふ悲痛な小説をかいた秋成が、そのあとで癇癖談を書かねばならなかつた気持がわかるのである。
(中略)伊勢物語は突端まで到りついた人間の戯文である。あの物語には人生の危機がどつさりゑがかれてゐる。
それがあれほどさりげなく書かれてゐるのがおそろしい。客観といふのでもなくましてや看過されてゐるのではない。
たゞ日本の詩文とは、句読も漢字もつかはれないべた一面の仮名文字のなかに何ら別して意識することなく
神に近い一行がはさまれてゐること、古典のいのちはかういふところにはげしく煌めいてゐること、さうして
真の詩人だけが秘されたる神の一行を書き得ること、かういふことだけを述べておけばよい。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「伊勢物語のこと」より
321 :
大人の名無しさん:2011/03/14(月) 13:04:44.51 ID:GtRwa3bN
○ 廿年十月四日夜放送のニュースによれば
米情報頒布係長、興行協会長を招いて十月興行を批判し、歌舞伎はじめ、封建的色彩強く、或ひは股旅物等
軍国主義的色彩を払拭し切れず、ポツダム宣言の趣旨に沿ふもの頗る貧困也、須(すべか)らく帰郷兵士等が
新建設にいそしむ様等を描ける新作を上演し、或ひは劇作家を動員してかゝる新作を執筆せしむべきなり、と訓示す。
嗚呼、歌舞伎より封建的色彩と軍国主義をマイナスして何が残る。米国的演劇観よりは解しがたき「技術の演劇」
として歌舞伎を見なければ、彼等によつて歌舞伎並びに歌舞伎役者は廃絶の他はなからう。宣伝演劇の悪弊は
米人御自身よく御存知の筈、演劇に対する不当な干渉は、マックス・ラインハルト等有識者の来朝を待つての後に
してほしい。
(中略)
遂に歌舞伎最後の日が来た。時事新報その他の記事に一月廿日この歴史的事実が発表された。菊五郎は云つて居る。
(中略)
菊五郎にして何といふ意気地のない信念のない役者根性、「上司の指示であれば」といふこの言葉と、日頃の
芸術家気どりとの矛盾がわからないのか。
平岡公威(三島由紀夫)20〜21歳「芝居日記」より
322 :
大人の名無しさん:2011/03/19(土) 12:12:58.92 ID:swj1jvSw
○ 森を切り拓いて一本の道をつけることは、道そのものの意義の外に与へるのみでなく、その風景、大きくは自然、
全体の意義をかへる。風景(万象)は、道の右、道の左、道の上方、道の下方といふ観念を以て新たに認識され、
再編成される。預言並びにunzeitgemaβな仕事の意味は茲(ここ)にある。預言とは、「あるがままの変革」である。
○ 人が呼んで以て無頼の放浪者といふ唯美派の詩人たちは、俗世間の真面目な人間よりも、更に更に生真面目な
存在である。いかなる荒唐に対しても真面目であるといふ融通のきかぬ道学者的な眼差を、道徳をでなく美を
守るためにもつ人々である彼等は、また真の古代人たりうる資格を恵まれた人等である。
○ 微妙なのは恋愛でなくて男女関係なのだ。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
323 :
大人の名無しさん:2011/03/19(土) 12:13:29.18 ID:swj1jvSw
○ 近代人にとつては、虚心坦懐に真情を吐露せよと命ぜられるほど苦痛なことはない。それは苛酷な殆ど
不可能な命令である。近代人は手許に多彩な百面相を用意してゐるが、そのなかのマスクの一つに、自分の
「真情」が入りこんでゐることは確かだが、おしなべてマスクと信ずることの方が却つて容易なので。即ち真情を
吐露することの困難は選択の困難にすぎない。
しかし一方確固たる「真の」マスクをかぶる者たることも近代人には不可能になりつゝある。私はむしろ古代の
壮大な二重人格を思慕する。
○ 同情について
――同情は特殊な情緒である。その情緒としての独立性に於て喜怒哀楽と対等であるとしての。
――同情は最も人間的な情緒である。
人間的なるものには人間冒涜的なるものが含まれる。神的なるものは神的なるもののみから、悪魔的なるものは
悪魔的なるもののみから形成さるゝのに。……かくて同情は、かゝるものとしての人間的なるものゝ典型である。
それは人類の最も本質的な病気であり、愛の頽廃である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
324 :
大人の名無しさん:2011/03/19(土) 12:13:58.62 ID:swj1jvSw
――同情の涙は嬉し涙と同類に数へらるべきであり、義憤と同範疇に入れらるべきではない。義憤はある道徳観念
(「正義感」その他を含む)と情緒との結合であり、その強度はこの結合の確信の強度に正比例する。偶発的な
結合をも確信が之を必然化する。かくて義憤は結合の一因子たる道徳観念の上によりも、結合の確信の上に、
より多く立つが、しかしなほ、その因子の故に価値判断の対象たりうるが、同情の涙は嬉し涙と同じく単なる
情緒間の結合であつて、何ら価値判断の対象たりえない。しかるに世間は、久しくこの「同情の涙」をば結果
あるひは結果としての行為から判断して、価値判断の対象とする底(てい)の誤謬を犯して来た。
――同情ほど偏見によつて意味づけられて来た、又意味づけられるべき情緒はない。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
325 :
大人の名無しさん:2011/03/19(土) 12:14:24.49 ID:swj1jvSw
○ 痒さには幸福に似た感情がある。一面幸福とは痒さに似たものではあるまいか。
○ いかなる兇悪な詐欺師からよりも、師から我々は欺かれやすい。しかしそれは明らかに教育の一部である。
○ 精神の知恵では女は男にはるかに劣るが、肉体の知恵では女は男をはるかに凌ぐ。
○ 天才は精神の岸辺である。
○ フリードリヒ・ニイチェの思想は要約するに次の一行を以て足る。
「我愛さず。愛せられず。我唯愛さしむ」
○ 最も強烈なる主観の持主は、また最も強烈なる客観の持主である。
○ 少年時の数々の思ひ出は怖ろしいほど悲劇化されてゐる。
何故であらうか? 形成がどうして喜劇であつてはならぬのであらうか?
○ 危険であると同時にその危険を排除するものは一家言的心理である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
326 :
大人の名無しさん:2011/03/21(月) 12:21:09.79 ID:oQ224tmd
――先づ詩人のメカニズムについて語らう。
詩人の中核にあるものは烈しい灼熱した純潔である。それは詩人たる出生に課せられた刑罰の如きものであり、
その一生を、常人には平和の休息が齎らされる老年期に於ても亦、奔情の痛みを以て貫ぬく。どこまでこの烈しい
純潔に耐へるかといふ試みが詩人の作品である。それは生涯に亘る試作の連続である。然しながら「耐へる」
(経験的ナルモノ)といふことと「試みる」(意志的ナルモノ)といふこととの苦渋にみちたこの結婚には、
本質的な悲劇が宿るであらう。こゝに特殊な形成の形態が語られてゐる。
かゝる純潔はラジウムの如きものである。恐るべき速度を以て崩壊し放射しつゝあるが、この自己破壊は鉛に
化するまで頗る長き時間を要する。詩人の営為もかくのごときものである。
詩人は自らの尾を喰つて自らの腹を肥やす蛇に似てゐる。単なる自己破壊ではない。それは形成を通して輪廻に
連なることができる。詩人の永遠性は自己自身の裡にはじまるのである。(自己自身から唐突な仕方で永遠に
つながること)
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
327 :
大人の名無しさん:2011/03/21(月) 12:21:29.31 ID:oQ224tmd
アルチュウル・ランボオが言つてゐる。
「ひとつこの純潔の度合をじつくり値踏みしてやらう」と。併し神が彼に与へた運命的な時間は、「じつくりと」
値踏みする余裕をもたせなかつた。それは西欧に於ては後年、リルケ、ヴァレリィ等によつて果たされた処の
ものである。
――更に詩人のメカニズムについて語らう。
詩人は常人の裏返し的存在である。内部に皮膚、外部に血と肉、内部に於ては抱擁、外部に於ては孤絶、その
ヒリヒリする過剰な痛覚を以て外界にさらされ、感覚を超越し、一種の痛烈無残な不感帯を形成する。内部に対しては
温柔繊細な感受性の皮膚を以て、内在的万象を抱擁し摂取し吸受し、しかも無限に与へる。この内外の相剋が
矛盾的綜合作用をなして詩人の形成に参与する。詩人の形成そのものが矛盾である。矛盾を超えて矛盾する存在である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
328 :
大人の名無しさん:2011/03/21(月) 12:21:48.61 ID:oQ224tmd
「胃」
印度古代一青年美女に恋せり。
美女傍らに熟睡せる時、仏、青年をして変形せしめ美女の口に入れしむ。内に森あり、花園あり、一宇の堂あり。
金色妙なる龕の中に金色に輝くもの安置せらる。
一尼僧出でて曰く、
こは胃也。
何万億年前の汝の胃に汝自身が惹かれ汝自身が恋する也。
いでその胃が女に宿りし来歴を語らん。
……大海をわたり……
つひに胎内に胃となつて結実せり。
即ち汝は汝自身に恋する也と。
「女死する後、
たをやかなる胃はその体内より語り出だせり、
われを忘れざれ、
何万年の後われは再び生れん、われを焼け」
○――――――――――○
「輪廻は性を転ぜしむるものでありませうか?」
「極めて容易に」と婆羅門はこたへた。「相恋する男女は共に自己が輪廻の上にかつてありし自己の証跡に
恋するものであります」
○――――――――――○
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
329 :
大人の名無しさん:2011/03/21(月) 12:22:07.55 ID:oQ224tmd
「胃」
機縁
ある旅行者が野中の一軒家に入る。
するとその中にはその外部にある一切のものがあつた。
その内部のひろさは外部(全宇宙)のひろさと同様であつた。
しかし人かへつてこれを告げるや、婆羅門は微笑んで云つた。
おまへはその中に入つたと見た時、はじめて真に現存の世界にはひつたのである。おまへが見たといふ現世と
同じ世界は、この現世そのものであつたのである。しかしはじめて機縁が、この現世とその広さを汝自身に
示したのである。この世界は一であるが、機縁なきものゝ心にある世界と、機縁あるものゝ心にある世界とに
わける時二つになる。汝は汝自身の内へ汝の第二の世界に入り得たのであると。
この世界は一にしてしかも二重である。
平岡公威(三島由紀夫)20歳「詩論その他」より
330 :
大人の名無しさん:2011/03/25(金) 16:46:59.43 ID:YxG/yC0N
中世にパロディー文学=連歌なり謡曲なりあの奇怪な古今伝授(これも私は文芸として考へたい)なりが生れて
きたのは漠然たる憧れの為ではあつたが、文芸の次の時代の生命を奪はれたところに必然に執られねばならなかつた
姿ともいへる。パロディー文芸は学問といふやうな態度を多くとらない。生活を抽象に高めて行つて極美に達して
ゐるのは古典であるが、パロディーはその抽象を生活に還元しようとする働らきだ。日本の詩人たちの隠遁は
かゝる古典の還元の一作用である。その慨きの切なさについては頃日云ふ人も多いので云はない。学といふものは
自らの生活への還元といふよりもつと遠心的なところに立つて身にかへるのを要したのは宣長の古事記伝の態度を
みればわかる。かゝるパロディー文学は大抵の場合パロディーのまゝ伝はるか又は全く別な新文学の内に融合するか
どちらかゞ普通だが、後者は門左衛門(巣林子)に一時成就するかとみえた。蓋し自ら身に行ふ戯曲は、その
本質に於てパロディー性を有するものであつたのか千本桜や嫩軍記に於ては中世の軍記物のもつ雰囲気が切ないほど
身近くゑがかれてゐた。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より
331 :
大人の名無しさん:2011/03/25(金) 16:47:20.02 ID:YxG/yC0N
(中略)
日本の歴史の上の創造即ち「むすび」は段階的なものではなく、デカダンスの次の空間から生れるものではない。
「かへる」のではなく、いはゆる復古でもない。その前によこたはるものゝ「はじめ」が次の「はじめ」を誘致する。
「をはり」は「はじめ」を誘致するのではなく、「はじめ」が常に「はじめ」につらなるのである。これは
日本風な創造であり、仏教風な輪廻思想ではない。「はじめ」の連結により歴史が形づくられるが、「をはり」と
「はじめ」は革命思想でむすびつけられるのではない。「はじめ」が「はじめ」に結びつきうるのは血の
ありがたさで血の連続なきところにはかゝる結合はうまれない。支那では「はじめ」が「はじめ」にむすびつくなど
考へられぬ。日本ではじめて天壌無窮の御神勅ははじめて意義をもつのである。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「近松半二」より
332 :
大人の名無しさん:2011/03/26(土) 11:57:33.65 ID:FifXMymc
止ることから流れることへの転身は、夢みることにとつて誕生と復活の朝であらう。すべて夢みることに先行して、
礫のやうに人をうつあの幻は、まさに転身の成就に俟つて現はれるであらう。そのとき止る存在は流れる存在と
なりきるゆゑに、止る姿に無限に近づくに従つて即ち無限に遠ざかる流れの天性から、それが、一歩一歩が可能の
おそろしい断崖である「止る」存在とは似て非なる、「永久に止る」ともいふべき存在の型式をとるときこそ、
不朽の語は、はじめて使用に価する。立ちあらはれる幻は、無辺際の可能の海の極まりつくした充実と空虚の末に、
すなはち無への無限の接近の大きな消極の頂点に、すがすがしく、暁天の星をさながらの、最高の有が輝きだす瞬間、
つと人の目や心をよぎる。さうして人は陥ちるのだ。およそ陥没のなかでもつとも聖らかな陥没、上昇のうちで
もつとも美しい陥没を。あの止ることの「可能の海」が、完全の喪失へと身を向けるときに、おそらくそこには
完全さがはじめて存在する。はじめて。しかしなほ明けやらぬ東雲におぼめきわたるであらう。永くこの陥没を、
人々は愛して来たのだ。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「夢野乃鹿」より
333 :
大人の名無しさん:2011/03/27(日) 16:10:34.96 ID:pK1zYULw
古人は国を思ふをものおもひと名付けてよんだ。それは恰かも恋情の呼び名と似てゐた。恋のものおもひは
憑かれつゝおもふことであつた。おもふために神憑りが、すなはち古里がなくてはならなかつた。おもふこそ
憑かれつゝ憧れること、春風を身にうけて、受身の身のよすがにむすぼほれた憧れをさぐることであつた。
いつも受けうる清らかな姿に古人は居た。そこに身を保つてあらたな目をつねに雲居のかなたへ馳せてゐた。
かゝる目こそ大きないのちの中にあつていのちの呼吸その身動きその手振のことごとくを共にし得る目であつた。
憑かれることに対して勇敢な、永劫新らしき目であつた。
詩のあらゆる故里への契りは、蕪村をとほしてむすばれた。私たちはけふの意味をそれのかなたに読むであらう。
私たちの存在から更に生ひ立つ鳥影を信ずるであらう。花時はやがて訪れる。私たちも亦、心もそゞろに
「待つ」人でありたい。重ねていふ、待つとは同時に、詩人の不朽のかなしみである。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「長柄堤の春――春風馬堤曲につきて」より
334 :
大人の名無しさん:2011/03/27(日) 16:11:13.63 ID:pK1zYULw
人々の関心は蝶々にも似てゐる。通ひつめる夥しい蝶に蜜といふ蜜を吸ひつくされる艶やかな大輪の花がある。
プルウストが嘗てさうであつた。――しかしこの熱烈にして気まぐれな恋人たちの訪問が途絶えると、花は一時、
疲れ果て萎え光を失つたやうにみえる。恋人たちはもう見向きもしない。花は色褪せて、花壇の翳の方にうなだれる。
果してその本質が発光作用を失くしたのであらうか? 果して豊かな蜜の井戸は涸れ果てたのか?――熱烈とは
いへないが不断に生命に向つて瞠らかれてゐる隠者の眼はある朝人気のない花壇の隅にふしぎな花の変容を
見出だして驚く。その花が嘗ての数倍も艶やかに蘇つてゐるさまを。数倍も香り高い新たな蜜に溢れてゐるさまを。
人に見られてゐないといふ秘密な喜びで、不用意な美しさを露はにしてゐるさまを。過剰が一種高貴な物憂さを
花弁に与へ、恣な光の遍満は不可思議の音楽を漲らせてゐるさまを。(別箇の生――生よりも活々とした生の
誕生が営まれたかのやうに)
平岡公威(三島由紀夫)21歳「バルダサアルの死」より
335 :
大人の名無しさん:2011/03/28(月) 11:35:04.69 ID:dxseiqT9
時代を考へることを皮相の面でするときそれは便乗に類する。便乗とはむしろ時代を考へない謂である。
平岡公威(三島由紀夫)17歳「無題(『輔仁会雑誌』編輯後記用)」より
芟夷(さんい)の詩であることは、不朽のますらをぶりとたわやめぶりのその礎を固くすること――太しく
たてる宮柱のみわぎの裔に外ならない。
平岡公威(三島由紀夫)18歳「後記(『赤絵』二号)」より
時世に敏なりといふことが詩人の特性のやうに言はれるのは滑稽で抱腹絶倒なことである。国の最高のなげかひを
共にせぬ詩人が最高の慶びにどうして侍(はべ)ることができよう。直毘をいふのはそこなのだ。だから日本こそは
古典主義即浪漫主義であるところの唯一の国である。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「古座の玉石――伊東静雄覚書」より
336 :
大人の名無しさん:2011/03/28(月) 11:35:32.77 ID:dxseiqT9
時間による超国家性は無窮の国に於ては国家性に外ならない。世界文学が時間で結ばれると真の国粋文学に一致する。
かゝる「時」の上の宣長の思想は本然的に血統となり血脈となり系譜となるものである。弁証法的思想史と全く
異つた思想を日本に於て宣明したところに宣長の世界的偉大がある。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「無題(『作文補遺』)」より
だんだんに私は文学を引き寄せるやうにしてゆきたいと思ふ。己れより乗り憑つて乗り憑りつつ清められると
云つたあり方に心ひかれる。さういふ場合の放胆さについてはもう口でいはぬはうがよいと思ふ。それは一種の
ニイチェ風な陥没であらうもしれぬが私は日本人にふさはしい手振だけをまなんでゆくほかはない。そして、
戦後の世界に於て、世界各国人が詩歌をいふとき、古今和歌集の尺度なしには語りえぬ時代がくること、それらを
私は評論としてでなく文学として物語つてゆきたい。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「跋に代へて(『花ざかりの森』)」より
337 :
大人の名無しさん:2011/03/30(水) 17:16:28.41 ID:voNTAhuW
花が咲くとは何といふ知恵のかゞやきでせう。咲くとは何といふ寂しく放胆な投身の意味。外へ擲(なげう)つことが
却つて中へ失はしめる勇気のあらはれです。内外の間に存するものをそれは捨てもせず生かしもせずきはめて
爽やかに殺さうと試みるのでした。この生命への不遜がいつか或るより大きな意味に叶つてゐることを信じ
させずには舎(お)きませんでした。(中略)
花が咲くとは運命でありませうか。花が咲くとは決心でせうか。僕にはそれがよくわかりません。まことに
荒々しい力が優に美しいものを押しゆるがしそこに震盪と困惑にみちたあまりに、憧れに近いやうな心地を
生み出すのを、人は創造とのどかによびます。運命も決心をもさういふ創造の一党だと私は信じ難かつた。
花が咲くとは風が吹き鳥がうたふやうに、あるおほきな無為から生れたもう動かしがたい痺れたやうな創造だと
僕は思ひました。決心も運命もそこでは投身そのものではなく、投身直前の、あのゆらゆらしたなつかしい虹の
時間でありました。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
338 :
大人の名無しさん:2011/03/30(水) 17:17:14.97 ID:voNTAhuW
(中略)
もう一度僕らは同じ質問をくりかへしませう。「花が咲くとは?」「なぜ花は咲く」「いかにして花は咲く」
「なんのために」質問はこのやうに微妙な変様をかさねます。ともあれ花が咲くといふこの言葉、なんといふ
なつかしい慰めにあふれた言葉でありませう。それは訪れです。それは一つの便りです。それはある確乎たる海の
訪(おとな)ひのやうなものでした。燕とぶ巷をこえ潮風にきらめく松林の梢はるかに輪廻のやうに音立てゝゐる
あの海の訪れでした。(中略)
季節をまちがへずに咲くことはよいことにちがひありません。しかし花が咲くのはそのためばかりではありません。
多くの愛恋から見離され、かずかずの哀しみを拒みながら、抱きつゞけられたひとつの約束を、みごとにいさぎよく
破ることでもありました。さうした清らかな違約は、単なる放恣ではなしに、ある与へられた回帰の命令であつた。
出発への不信からではなく、もはや浄福にまで高められた信頼からもえ出でてくる素直な拒否のしるしであつた。
花を聡明なる宇宙とよぶなら、それはかうした聡明さであらねばならなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
339 :
大人の名無しさん:2011/03/30(水) 17:17:38.60 ID:voNTAhuW
詩人は今日こそ花が咲く季節々々を呆けてうたつてゐてはならないのです。今こそよみがへる花々の歌が、
その死の意味よりして、切なく奏でられねばなりません。よみがへる日はおほきな回帰の日であつても出発の日とは
なり得ません。人々は死ぬやうにしてよみがへる。花々は枯れるごとに咲く。それはたゞ徒爾でせうか。救ひが
来る時、来るのは救ひではなくて、いつも慰め手であるやうに思はれるのです。花々の咲くのがつねに慰め手の
来訪にすぎぬのなら、なぜもつてそれは僕らのよすがになり得ませう。茲(ここ)に待つことのはかりしれない深さが、
菖蒲の園を侵す夕闇のやうに、濃まやかにあたりを籠めて下りてくるのであります。
しかし待つことについて僕らはまだいふべき力をもちません。もつと耐へ、もつと書いてからでなければ。
もつと生き、もつと苦しまねば。さうして莞爾としつゝ心はいつもあらたな悲しみに濯がれてゐることをもつと
学ばなくては。かくして詩人はいつの日も失はれたる預言の遵奉者です。この上なく直截に、「花が咲く」と
うたひうる人です。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
340 :
大人の名無しさん:2011/03/31(木) 20:12:27.58 ID:8IClEhJc
昔、燦爛たる天空へ手をさしのべて星占ひした人々が僕には羨ましさの限りでした。万物と一つにならう、
万物の嘆きと一つにならうとする豪毅な意志をもつ人よりも、彼らはむしろつゝましやかに万物を彼ら又ひいては
僕らすべてに対する示者とみる人でありました。僕らの目が万物から何ものかを示されることを信じたのです。
しかし僕らと万物の関係は、自と他の対局ではなかつた。そこにあるものはもつと秘めやかな不可思議な聨関で
ありました。万物は僕らにむかふときいつも高貴な示者であつたのです。それは同時に、僕らが「映すもの」で
あつたといふことです。のりかゝること、憑くこと、存在の本質を蝶のやうに闊達に舞ひのぼらせ、分ちながら
投身すること、それを僕らは示すと呼びました。映すことには之に反してある熱い無為のこもつた正確さが
在つたのです。憑かれながら確固として映すのが、僕らの所業でした。そのとき示者と映すものとは共に他であり
同時にまた共に自でありえたのです。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
341 :
大人の名無しさん:2011/03/31(木) 20:12:56.56 ID:8IClEhJc
(中略)
示者によつて身を見ることこそ、創造の理に外なりませんでした。星占者はかくて身を見るもの、すなはち彼らは
天への彫塑者でした。宇宙への正確な造形術を、自分の克明な手の皺のなかに、しかと弁へてゐたのでした。
彫刻の不朽なかなしみを誰よりも直截に云ひえたのは彼らであつた。示者の憤りを誰よりもよく知つてゐたのは
彼らでした。
かういふ星占者のかなしみも僕にはよくわかるやうな気持がします。宇宙に対して彫塑者の手をもつこと、
それはどんなに人間であるゆゑの悲しみにみちた事柄でせう。僕らの手がそつくり天のどこかの一隅にのこされて
しまふとき、僕らは弁証にあふれた星空を、支へきれぬほどに重たく感じるでせう。僕らには星座のやうな孤独が
降りてくるでせう。この種の孤独のなかでは、神と親しいものたらんがために、永遠に神を拒否しつゞけねば
ならぬでせう。そして一言否といふたびに僕らは千度の投身を敢てせねばならぬのです。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
342 :
大人の名無しさん:2011/03/31(木) 20:17:02.12 ID:8IClEhJc
(中略)
僕らは薔薇の花に背をむけるとき、その背の向け方から学ばねばなりません。季節がめぐるのは、――夏の最後の
光輝をつんざいて黒々とした葉につゝまれた樫が、はや初菊の薫りをはこんでくる雲のゆきかひに、荘厳に身を
ふるはす刹那のやうに――、花々の饗宴のあとに豊かな収穫の秋が訪れ、やがて連峯の頂きをめぐつて白雪の
かゞやきが日ましにひろくなつてゆくのは、一つの礼節なのであります。知恵にみちた、ふしぎなやさしさに
みちた礼節でありました。かうした礼節のひそかな正しい愛を僕らには測らう術もありませんでした。ある確かな
領域を占めてゐるのに測られぬ物事があるものです。そこでは測られると云ふさへ、可能の意味ではないのでした。
信ずるといふ尺度によつてのみ正確な度数を示して測られる物事があるものです。そのとき信ずるといふこのことは
物差でさへないのでした。触れて来るものをみなその内へとりこんでしまふやうな明澄さ。快晴の内部。僕らは
内部へ陥ちてくるものゝみを信じようとして、その内部自らのおほきな陥没について知りませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
343 :
大人の名無しさん:2011/03/31(木) 20:17:33.91 ID:8IClEhJc
礼節のまことのやさしさに僕らは盲ひであつたのです。礼節が詩人のみぶりとなるや、厳かな愛が彼らを貫いて
ながれました。運命の突端を担ひながら、彼らはめぐりゆくものに自分たちが親近にするのを感じました。
超克といふことの深いかなしみも、彼らには大らかな礼節をのぞいては考へられなかつたのです。洵に岸を
歩む人である僕らは、たえず彼岸の意識に浸つてゐます。しかし彼岸への川の超克が僕らの考へ得るすべてであるなら、
それは侘しいことではないでせうか。とりわけ川のはてに日が沈み、夕映えが水に映つて千々に砕かれた牡丹のやうに
みえるときは。……
かくて僕らは最初の言葉だけが確かであるとの誤謬に陥るのではありますまいか。その後のことばの証しは
軽んぜられて、預言のみが。その後のことばのすべてが再び最初の言葉であれ不当に要求される誤りが。――第二の
言葉であることは第三の言葉であるよりも辛いことであります。花が咲くとはむかし第一の言葉でありました。
今やそれは第二の言葉であります。むしろ第二の言葉であれと花が花自身に教へるのでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
344 :
大人の名無しさん:2011/03/31(木) 20:17:59.03 ID:8IClEhJc
星がまたゝき、葉末に露が結ばれ、萩の下かげに虫がすだくのさへ、なべては第二の言葉にならうとしてかなしんで
ゐる万物のいとなみではないでせうか。僕らにとつて生きてゆくことは宿題でも追憶でもなくなるでせう。
生きてゆくことは僕らにとつて凝視に庶幾(ちか)くなつてゆくでせう。凝視といふのが当らぬなら、凝結といふも
同じことでせう。生成としての凝結でなしに、凝結があらゆる一瞬にまつはつてゐて、間断なくそれに生の意味を
与へること。やがて僕らは斜めにとびゆく星となるために身を削がれるでせう。やがて僕は蠅のやうに物狂ほしく
宇宙の時象めがけて飛ぶでせう。それらの時象の目をさまたげ、あらゆる対象の圧殺者となるでせう。僕らは
このやうな驕慢な倫理を深く愛します。僕らは翼の遍在を信じ、それらの翼の殺戮者を信じます。あまりにも
すみやかな愛を信じ切つて、その愛のなかへ千度の投身を敢てして、なほ且つ僕らはその愛と共にゐることを
忘れるのです。共在を忘れることによつてのみ、僕らの愛は完成するのでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
345 :
大人の名無しさん:2011/04/04(月) 16:56:42.98 ID:upb3xa7r
(中略)
優れた無為、それを僕らは水や風に対して考へました。先づ僕らは風のことを夢想しました。晴天の、凪ぎつくした
海にあつても、ある距離だけ岸から離れると、そこにはいつも帆船の帆を孕ますに足り乗手の髪をなびかすに足りる
ある不朽の迅速な風が吹いてゐるといひます。その風はなまなかの生物とは関はりのない、しかも一種過敏に
失した傷つき易さをもつ非情の風でありました。なぜならその風の所在に触れそれを感じそれを耳に聞き目に見
鼻に嗅ぐ時のみでなく単にそれを知りそれを夢見るにすぎぬ時でも忽ちにしてそれ自身の本質を根底から変へて
しまふやうな存在をもつた風でした。常住である点で頑なであり、傷つき易い点で優柔であるその風は、無関心と
非情の性質に於て、却つて人間の本質と深く相触れてゐるのでした。人間存在の本質を抹殺するその風に、実(げ)に
人間の真の不在が、即ち真の本質が潜在してゐるのではなかつたでせか。そこでは微小なポジティヴに対する
無窮のネガティヴがあり、あの巨大な夜のやうに鏤められた星辰を以て僕らを深く覆うてゐました。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
346 :
大人の名無しさん:2011/04/04(月) 16:57:14.48 ID:upb3xa7r
かやうなものこそ宇宙の啓示といへ神秘なる証しといへます。そこは到達しがたい裏側であるが故に、何事にも
代へ得ざる礎の有処でした。あの烈しい実在の正統な母胎でありました。いかなる壮麗無比の夢がその風のなかで
ゑがかれようと、風は突如としてその夢を奪ひ、奪はれた夢のなかへ急速に陥ちてゆきます。激しく奔騰しながら
風は嘶きました。人間の夢のひとつひとつが風にはあらはな敵意と感じられたのです。
人間はこの風を記述するのに嘗て方法を知りませんでした。陸(をか)に揚げられるや忽ちその光輝は失はれ
華麗極まる彩色の美も死灰の色に移ろふといふあの深海魚をさながらに、人間のもつ作用の最も遥かな作用である
「知ること」に依つてすら、目にもとまらぬ迅さで風は己が様態を変へてしまふのでした。知ることを超えて
いかなる記述があり得ませうか。
深海魚のもつ美しさといへども、海底ふかく潜つてゆけぱ、目のあたり之を見ることができます。が、銀貨の
表をしてその裏を窺はしめることは不可能事でなくて何でありませう。しかもこの裏面は不動の厳めしい裏面では
ありませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
347 :
大人の名無しさん:2011/04/04(月) 16:58:05.19 ID:upb3xa7r
この風こそは人間の真の不在をひつきりなしに証ししてゐるたをやかな面差の持主でありました。東方の仏陀のやうな
幽婉さを以て、宇宙万象のときめきに美しく慄へつゞけました。おもへば烈しい実在が人間の悲劇となることも、
その実在が彼(か)の風から生れ彼の風の逆説をきらびやかに身に纏つて、扨て人間の陥没をあまりにも荘厳に
アンダラインするからでした。風は逸脱と普遍によつて、摩訶不思議な中間者となりました。媒体ではなく中間者に。
風は超えるといふことを逸脱しつゝ自由でした。超者と被超者との間を自由に往来できるのは風のみでした。
そこに於て風は手を要しませんでした。風は手をもちませんでした。
それだのに、手をもつ人間が、かやうな風の嫡子たる烈しい実在を内在する機会に遭ふとは、いかに高貴な苦悩に
みちた歓びでありませう。清らかな愛の証跡も、運命の苦しい水脈(みを)も、あまねく歌ひつくされて、ふと
物に憑かれたやうに立止るあの真昼の時刻の歓びでありました。それは人間の癒しがたい疫病ではありましたが、
その悲劇の本性に於て、人間の魂の健康に相触れるところが寡くなかつた。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
348 :
大人の名無しさん:2011/04/04(月) 16:58:38.36 ID:upb3xa7r
(中略)
風について語ることは、恰かも透視者がその霊妙な術を施し終つたあとで感ずるやうな死に庶幾(ちか)い疲労を
呼びさまします。透視者はその果てに死ぬといはれてゐます。しかしこのやうな疲労こそ人間の営為が、ある深く
美しい無為につながつてゐることの一つの証跡であり、人間の営為がかうした美しい無為を橋としてのみ現象と
実相のいづれからも逸脱し得るといふ一つの教へでありました。逸脱と遁走、――疲労はそれへの方法でした。
迅速きはまりない風に対して、彼(か)の美しい無為を持することは、巨きな古代の節制でありましたが、現代は
その代償に、死の惧れさへある疲労を負はせずには措きません。嘗て多くの船舶が憩うてゐる波止場の切岸に
立つた僕は、水面に向ひ沖に向つてこのやうに呼びかけました。水よ! 水は永遠に疲れてゐる。汝の内にいかに
強い意志が籠り、いかに烈しい決心が宿らうとも、汝自身のもつ疲労をあざむくことはできぬ。疲労は汝の属性であり、
汝も亦、疲労の属性であるからだ。永遠に疲れたるものよ。実在をたしかに支へ、支へる力の無為のために、
驕奢を保て。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
349 :
大人の名無しさん:2011/04/05(火) 11:03:50.96 ID:LWTpiQiv
(中略)
――僕は水にむかつこのやうに呼びかけました。水はそれに応へるやうにもみえなかつた。そこで僕は青い山々に
向つて、群れ飛ぶ鶴に向つて、古代の国々に沿うて流れる海峡の潮に向つて、折から数多の松笠が夕映のなかに
耀いてゐる傾ける松の森に向つて、檜の薫高い谿間に向つて同じやうに呼びかけました。万象は応へることを止め、
死にゆく神のやうに凝然とうなだれました。そのとき僕は、今もなほ僕自身が呼ぶものであることを、深く羞ぢました。
自ら宇宙の静謐の一分子であるといふ至上の愉楽は、今在る苦しみに身悶えする人間にとつて、いつかは最高に
享受されるでありませう。それまでいかにしてこの苦しみをつゞけるか。否、持続の意識が、既にその苦しみを
軽減するでせう。かゝる軽減から更に悪しきものは生れ出ても、どうして良きものが生れませう。投身と陥没が、
逸脱と遁走が、小田巻のやうに美しく輪廻せねばなりません。苦しみが将に此処にある日のことを、僕らは
祝日として歌ふべきであります。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
350 :
大人の名無しさん:2011/04/05(火) 11:04:20.21 ID:LWTpiQiv
(中略)
今日、出発の意味を真に知るために、知慧の輝きがいかなる値ひを持つべきか、僕らはくどくは云ひますまい。
出発は輪廻からの解放ではなしに、まことに美しい日のための、輪廻の祝典でありました。そこでは知慧といふ
優雅な衣裳の、繊細な褶(ひだ)のひとつひとつが、たぐひなく華麗なものとみえ、すべては驕奢の、魅はし
ふかい影にあふれてゐました。僕らは斯くして、帆や旗について考へたのです。
帆や旗について、あれらの闊(ひろ)い風について僕らは考へたのです。すべてはためくもの、はためく姿を以て
風に対するもの、さういふ存在の比喩を僕らは熱心に考へたくおもひました。人間があの仏蘭西(フランス)の
哲人の云つたやうに葦であるべきか、また今茲に語るやうに旗であり帆であるべきか、――彼の偉いなる風を
語つたのち、僕らは思惟したく考へました。なべてはためくもの、烈しい実在をば己が裏側から刻明に表現しようと
する努力。僕らはさうして僕らの裏側を、この上なく烈しいものに対する、繊巧無比な楯としました。その楯は
人を覆ひかくす世の常の楯ではありませんでした。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
351 :
大人の名無しさん:2011/04/05(火) 11:04:45.28 ID:LWTpiQiv
(中略)
人間の所謂発見とは? 寓話はいつでも教訓の私生児です。即ち人間が為し得る発見は、あらゆる場合、宇宙の
どこかにすでに完成されてゐるもの――すでに完全な形に用意されてゐるものの模写にすぎないのでした。発見は
完成の端緒であるといふ言葉は、また、完成は発見の端緒であると、神秘な口調で言ひ直すことができる筈でした。
「完全に」――この言ひ方は時空を超えた言ひ方であるのでした。在るとは在つて了つたといふことであり
在るであらうといふことでした。そして同時に、不在の意味が極度に神聖視される筈でした。完全存在が完全不在の
高貴な雛型となる筈でした。その場所では、本物も偽物も模写も同じなのではありませんか? 贋金つくりは
正銘の金貨をいやでも作るのではありませんか。偽物も本物も全く同価値ではないのですか。
では何故いふのです。正真の「永遠の青空」などと。あれは冗談ですか。却々(なかなか)以て、人間はこれ以上
真面目な物言ひはできぬ筈です。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
352 :
大人の名無しさん:2011/04/06(水) 20:04:51.98 ID:F/yNdmJE
なぜなら右のやうな完全さが人間界で通用するとは人間の可能性を予め殺すものであり、可能喪失の足場に於てこそ
一番高い建築がなされ得るからです。一番高い建築とは、即ち人間の死でありました。
この得難くまた得易い秀麗な建築。それについて語ることは又更に大いなるものについて語ることでもあります。
そしてその建築の哀切な高さについて。
可能性を放棄するとき人間の身丈は嘗て見ざるほど高くなるであらう。その高さは深部の明澄とすらもはや
無縁なものであるだらう。しかしどこか脆弱な高さである。僕らはそれに気附いて戦慄しました。
死といふものが、あの物質の老朽のやうに、一刻々々が予兆にも触れられざる潔癖な緩さに満ちたものだつたら。
海に沈む日のやうに、蒼褪めた死神の頬をも染めて止まない赫奕たる幻光を放つものだつたら。頽落する宮殿のやうに、
時間の秩序を徐々に濁らせ、つひには別箇の瑰麗な秩序へと凝結させる性質のものだつたら。又は、地上に落ちる
流星のやうに、ある高貴な衝動が無為にかゞやいた一本の弧にまで浄化されるのであつたら。――それはよいであらう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
353 :
大人の名無しさん:2011/04/06(水) 20:05:30.31 ID:F/yNdmJE
しかし人間の死は、人間の死は何か別のものです。残された意志と云つたやうなもの。地球がもつ頽唐の感情を
奪去つたやうな一つの意志。最後の征服意志。時空の中絶をも奪はうとする一つの意志が、あるひは死への熱情となり、
あるひは不死への願望となるのでした。そして時にはそれが、人間に対して死自身がもつ不変の意志とも、全く
一致することさへあるのでした。そのみかけからの共謀も、戦慄に価する脆さをば、打破るわけにはゆかなかつた。
可能性の放棄といふ気高い英雄的行為。その高さが意志によつて脆くされるのであらうか。意志といふ白蟻が、
塔の高さを毀つのであらうか。否、むしろあの高さは意志様態であつた。意志の暗示のてだてであつた。たゞ
可能性の放棄は意志ではなかつた。可能性は意志の原形であつたから。ではそこにいかなる造形術が企てられたの
でしたか。僕らの原始のいかなるデフォルメーションがなされたのでしたか。それは言ひ難いことの限りでありませう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
354 :
大人の名無しさん:2011/04/06(水) 20:06:13.08 ID:F/yNdmJE
(中略)
「待つ」、それはどんなに贅沢な約束であり悔恨でさへありませう。待つといふ刹那を信ずるために、今までの
人類の歴史はひたすらにめぐりつゞけてきたのではないのか。その美しさは放心と等しく、その謐けさ寧らかさは
不屈な魂の距離であつた。このやうな距離にぬれながら、かつてなきさはやかな背信を不断に投げつゞけて
くれるのは、あなたではなかつたか。――僕らは畢竟かくして二人称へとかへるでありませう。僕らの本然の故郷、
その二人称の場所にこそ、僕らの勇気が、僕らの愚行が、甲斐なきことの純潔さを以て、乾き、また乾かされ、
たんぽゝの綿のやうに飛翔(といふより盈溢)を待つでありませう。その花蔭は、花々の密度にひしめき、海よりも
なほ色濃く、今や可能の微風の内に、最初の戦慄を伝へてくるであらう。場所の不易、場所の不朽が、今こそ僕らを
飛翔させるであらう。百万の王国の名にも値ひせぬ僕らの政治が、昼の間は、貝殻のやうに快晴の希臘を映し、
甘美な埃を夢みず、あらゆる立法の又とない出帆の契りのため、千代かけてサン・サルヴァドルたらんと念ずるで
ありませう。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「廃墟の朝」より
355 :
大人の名無しさん:2011/04/10(日) 11:54:07.79 ID:Wj+s0UI6
少年がすることの出来る――そしてひとり少年のみがすることのできる世界的事業は、おもふに恋愛と不良化の
二つであらう。恋愛のなかへは、祖国への恋愛や、一少女への恋愛や、臈(らふ)たけた有夫の婦人への恋愛などが
はひる。また、不良化とは、稚心を去る暴力手段である。暴力といふこのことだつて既に、生の過食からうまれて
くる一つの美しい憲法に他ならない。稚心を去る少年たちは、まづ可能性の海の瑰麗な潮風になぶられる。
神が人間の悲しみに無縁であると感ずるのは若さのもつ酷薄であらう。しかし神は拒否せぬ存在である。神は
否定せぬ。
平岡公威(三島由紀夫)19歳「檀一雄『花筐』――覚書」より
童話とは人間の最も純粋な告白に他ならないのである。
平岡公威(三島由紀夫)21歳「川端氏の『抒情歌』について」より
無秩序が文学に愛されるのは、文学そのものが秩序の化身だからだ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「恋する男」より
356 :
大人の名無しさん:2011/04/10(日) 11:54:32.17 ID:Wj+s0UI6
わが国中世の隠者文学や、西洋のアベラアルとエロイーズの精神愛などは肉体から精神へのいたましい堕落と
思はれる。精神が肉体の純粋を模倣しようとしてゐる。宗教に於ては「基督のまねび」それは愛においても肉体の
まねびであつた。近代以後さらにその精神の純粋すら失はれて今日見るやうな世界の悲劇のかずかずが眼前にある。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「精神の不純」より
われわれが築くべき次代の駘蕩たる文化も亦、古い時代の駘蕩たる文化の残した生ける証拠を基ゐにして築かれる。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「沢村宗十郎について」より
芸術が純粋であればあるほどその分野をこえて他の分野と交流しお互に高めあふものである。演劇的批判にしか
耐へないものは却つて純粋に演劇的ですらないのである。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「宗十郎覚書」より
357 :
大人の名無しさん:2011/04/10(日) 11:55:06.03 ID:Wj+s0UI6
小説の世界では、上手であることが第一の正義である。ドストエフスキーもジッドもリラダンも、先づ上手だから
正義なのである。下手なものは、千万言の理論の正不正とは別に、悪である。われわれ若い者は下手なるがゆゑに
悪である。
凡てにわかり合はうといふことがおそろしいほど欠けてゐる時代である。お互がわからないことを誇る悲しい
時代である。なまじつかわかり合はうとすれば自分の体に傷がつくことを知つてゐるからだ。もうすこしバカに
ならうではないか。そしてよいものをよいと言はうではないか
平岡公威(三島由紀夫)22歳「上手と正義(舟橋聖一『鵞毛』評)」より
来年といふ領域は海のやうだ。僕の海への憧れは実はあこがれといふやうなものではない。それは僕の慾情だ。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「一九四八年への慾情」より
358 :
大人の名無しさん:2011/04/13(水) 12:45:27.05 ID:nI4PrFYw
「子供らしくない部分」を除いたら「子供らしさ」もまた存在しえないことを、先生方は考へてみたことが
あるのかと思ふ。大人が真似ることのできるのはいはゆる「子供らしさ」だけであり、子供の中の「子供らしくない
部分」は決して大人には真似られない部分であると私には思はれるが、もしそれが事実なら、大人のいふ「童心」は
大人の自己陶酔にすぎないであらう。子供は先生たちとちぐはぐな場所で、小悪魔のやうに跳んだりはねたりして
ゐるだらう。
私は私自身を押し流さうとする少年期の羞恥から身を守るために、共にその羞恥に責め立てられる人を師として
求めた。しかるに学校の先生たちには羞恥なんかなかつた。彼らは少年たちの羞恥に、医師の態度で接しようと
身構へるのだつた。ところが羞恥を治すためにこれほど拙ない方法は考へられない。生理的には羞恥の、心理的には
自己嫌悪の少年期における目ざめは、それ自身病気ではなくて、自己が自己自身の医師であることの自覚に
他ならないからだ。
三島由紀夫「師弟」より
359 :
大人の名無しさん:2011/04/13(水) 12:46:20.87 ID:nI4PrFYw
大学新聞にはとにかく野生がほしい。野生なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚ならしい。
三島由紀夫「野生を持て――新聞に望む」より
「後悔せぬこと」――これはいかなる時代にも「最後の者」たる自覚をもつ人のみが抱きうる決心である。
浅間しい戦後文学の一系列が、ほしいまま跳梁を示してゐるなかに、最後の者、最後の貴族の生みえたまことの
芸術が、失はれた星の壮麗を復活させようとする決心に、後悔はありえない。
三島由紀夫「跋(坊城俊民著「末裔」)」より
理想は狂熱に、合理主義は打算に、食慾はお腹下しに、真面目は頑迷に、遊び好きは自堕落に、意地悪は
ヒステリーに紙一重の美徳でありますから、その紙一重を破らぬためには、やはり清潔な秩序の精神が、
まばゆいほど真白なエプロンが、いつもあなたがたの生活のシンボルであつてほしいと思ひます。
三島由紀夫「女学生よ白いエプロンの如くあれ」より
360 :
大人の名無しさん:2011/04/13(水) 12:49:52.77 ID:nI4PrFYw
あらゆる芸術作品は完結されない美であるが、もし万一完結されるときそれは犯罪となるのである。
犯罪、殊に殺人のやうな行為には、創造のもつ本質的な超倫理性の醜さが見られ、犯人は人間の登場すべからざる
「事実」の領域へ足を踏み入れたことによつて罰せられるのだ。だからあらゆる犯罪者の信条には、何かきはめて
健康なものがある。
三島由紀夫「画家の犯罪――Pen, Pencil and Poison の再現」より
衒気(げんき)のなかでいちばんいやなものが無智を衒(てら)ふことだ。
三島由紀夫「戦後観客的随想――『ああ荒野』について」より
人間の道徳とは、実に単純な問題、行為の二者択一の問題なのです。善悪や正不正は選択後の問題にすぎません。
道徳とはいつの場合も行為なんです。
自意識が強いから愛せないなんて子供じみた世迷ひ言で、愛さないから自意識がだぶついてくるだけのことです。
三島由紀夫「一青年の道徳的判断」より
361 :
大人の名無しさん:2011/04/13(水) 12:50:28.33 ID:nI4PrFYw
真の技術といふものはそれ自身一つの感動なのである。そこではもはや伝達の意識は失はれる。俳優が一個の
機械になる。人形劇や仮面劇との差は、この無限の無内容を内に秘めた人間の肉体の或る実在的な内容に
すぎなくなる。それが顔であり面であり、姿であり、柄であり、景容であるのである。そこではじめて「典型」が
成就される。
歌舞伎とは魑魅魍魎の世界である。その美は「まじもの」の美でなければならず、その醜さには悪魔的な蠱惑が
なければならない。
三島由紀夫「中村芝翫論」より
物語は古典となるにしたがつて、夢みられた人生の原型になり、また、人生よりももつと確実な生の原型に
なるのである。
それはまだ人生の手前にゐる人には、夢の総称になり、いくらかでも人生を生きたといふことのできる人に
とつては、その追憶の確証になつた。
その後現実感の見失はれる不安な時代には、源氏物語は、なほかつ必ずどこかに存在すると信じられてゐる
「現実」の呼名になつた。その「現実」の象徴になつた。そしてそれこそは古典の本来の職分なのである。
三島由紀夫「源氏物語紀行――『舟橋源氏』のことなど」より
362 :
大人の名無しさん:2011/04/13(水) 12:50:54.71 ID:nI4PrFYw
創作のよろこびと同様、批評のよろこびも、私にとつては美と真実の発見のおどろきを述べることにすぎない。
私が自分の好きな書物について、何故それが好きかといふことを綿々とのべるのは、私の快楽なのである。
三島由紀夫「戸板康二氏の『歌舞伎の周囲』」より
そもそも作品以外のどこに作者の本音があるだらう。附け加へた言葉は整形手術のやうなものである。鼻のひくい
おかめ面の作品を書いておいて、「作者の言葉」で整形手術的言辞を弄する。神の与へた容貌の一部の変改は、
自然の調和をやぶつて、もつとをかしなものにしてしまふにきまつてゐる。いきほひ舞台を見てゐても、むりに
高くした鼻ばかり目について、顔全体が見えなくなる。せつかく粋な目もとの持主が、不自然に盛り上げた鼻の
おかげで、相殺されてしまふ。かさねがさねも整形手術は施すまじきことである。
三島由紀夫「作者の言葉(『灯台』初演について)」より
363 :
大人の名無しさん:2011/04/16(土) 10:57:31.64 ID:RDYqQoUi
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
これつぽつちの空想も叶へられない日本にゐて、「先生」なんかになりたくなし。
三島由紀夫「作家の日記」より
私の詩に伏字が入る! 何といふ光栄だらう。何といふ素晴らしい幸運だらう。
三島由紀夫「伏字」より
364 :
大人の名無しさん:2011/04/16(土) 10:57:52.81 ID:RDYqQoUi
作家はどんな環境とも偶然にぶつかるものではない。
三島由紀夫「面識のない大岡昇平氏」より
理想主義者はきまつてはにかみやだ。
三島由紀夫「武田泰淳の近作」より
簡潔とは十語を削つて五語にすることではない。いざといふ場合の収斂作用をつねに忘れない平静な日常が、
散文の簡潔さであらう。
三島由紀夫「『元帥』について」より
伝説や神話では、説話が個人によつて導かれるよりも、むしろ説話が個人を導くのであつて、もともとその個人は
説話の主題の体現にふさはしい資格において選ばれてゐるのである。
己れを滅ぼすものを信じること、これは宿命に手だすけすることによつて宿命を暗殺する方法である。宿命に
手だすけする代償として、宿命を信じる義務を免かれる行き方である。浪漫主義者の生活の理念は、ともすると
この種の免罪符をもつてゐる。
三島由紀夫「檀一雄の悲哀」より
365 :
大人の名無しさん:2011/04/18(月) 10:48:02.06 ID:n1LTy8n6
小説のヒーローまたはヒロインは、必然的に作者自身またはその反映なのである。ボヴァリイ夫人は私だ、と
フロベェルがいつたといふ話は、耳にタコのできるほどくりかへされる噂である。同時に、雪子は私だ、と
潤一郎はいふであらう。雪子は作者の全美学体系の結晶であり、これに捧げられた作者自身の自己放棄の反映である。
三島由紀夫「世界のどこかの隅に――私の描きたい女性」より
主人公や女主人公とウマが合ふか合はないかで、その小説が好きになるかならないかは、半ば決つてしまふ。
三島由紀夫「私の好きな作中人物――希臘から現代までの中に」より
君の考へが僕の考へに似てゐるから握手しようといふほど愚劣なことはない。それは野合といふものである。
われわれの考へは偶発的に、あるひは偶然の合致によつて似、一致するのではなく、また、体系の諸部分の
類似性によつて似るのではない。われわれの考へは似るべくして似る。それは何ら連帯ではなく、共同の主義
及至は理想でもない。
三島由紀夫「新古典派」より
366 :
大人の名無しさん:2011/04/18(月) 10:48:39.26 ID:n1LTy8n6
小説家には自分の気のつかない悪癖が一つぐらゐなければならぬ。気がついてゐては、それは悪でも背徳でもなく、
何か八百長の悪業、却つてうすぼんやりした善行に近づいてしまふ。
三島由紀夫「ジイドの『背徳者』」より
われわれが孤独だといふ前提は何の意味もない。生れるときも一人であり、死ぬときも一人だといふ前提は、
宗教が利用するのを常とする原始的な恐怖しか惹き起さない。ところがわれわれの生は本質的に孤独の前提を
もたないのである。誕生と死の間にはさまれる生は、かかる存在論的な孤独とは別箇のものである。
三島由紀夫「『異邦人』――カミュ作」より
愛慾の空しさなどといふものは、人間が演ずると、奇妙な、時には奇怪なものになりがちである。文学としての
「輪舞」は、何の説明がなくても、作者のシニシズムが納得されるが、映画の「輪舞」は、肝腎の役者たちが
生身の愛慾の場面を演じ、その限りで、肉慾そのものの誠実さのはうが、強く前面に押し出されざるをえない。
三島由紀夫「映画『輪舞(ロンド)』のこと」より
367 :
大人の名無しさん:2011/04/19(火) 17:11:24.75 ID:bBYmAFWH
「ざつくばらん」といふ奴も、男の世界の虚栄心の一つだ。
人間は自分一人でゐるときでさへ、自分に対して気取りを忘れない。
つとめて虚心坦懐に、呑気に、こだはりなく、誠実に、たのもしく振舞ふこと、ケチだと思はれないこと。
男の虚栄心は、虚栄心がないやうに見せかけることである。なぜなら虚栄心は女性的なもので、男は名誉心や
面子に従つて行動してゐるつもりであるから、「男の一分が立たねえ」などと云ふときには、云つてゐる御当人は
微塵も虚栄から出た啖呵とは思つてゐない。
古い社会では、男の虚栄心が公的に是認され、公的な意味をつけられてゐた。封建時代の武士の体面や名前といふ
ものがそれである。男性の虚栄心に公的な意味をつけておくことは、社会の秩序の維持のために、大へん有利でも
あるし、安全でもある。金縛りよりもずつと上乗な手段である。
三島由紀夫「虚栄について」より
368 :
大人の名無しさん:2011/04/19(火) 17:11:49.34 ID:bBYmAFWH
老夫妻の間の友情のやうなものは、友情のもつとも美しい芸術品である。
一面からいへば友情と恋愛を峻別することは愚かな話で、もしかすると友情と恋愛とは同一の生理学的基礎に
立つものかもしれない。
長い間続く親友同志の間には、必ず、外貌あるひは精神の、両性的対象がある。
三島由紀夫「女の友情について」より
大体イヴニングを着てダンサーに見えない女は、日本人では、よほどの気品と育ちのよさの備はつた女か、
それともよほどのおばあさんかどちらかである。
三島由紀夫「高原ホテル」より
私はまだ酒に情熱を抱くにいたらない。時々仕事の疲労から必要に迫られて呑むことがある。趣味はある場合は
必要不可欠のものである。しかし必要と情熱とは同じものではない。私の酒が趣味の域にとどまつてゐる所以であらう。
三島由紀夫「趣味的の酒」より
女の美しさといふものは一国の文化の化身に他ならず、女性は必ずしも文化の創造者ではないが、男性によつて
完成された文化を体現するのに最適の素質を備へてゐる。
三島由紀夫「映画『処女オリヴィア』」より
369 :
大人の名無しさん:2011/04/21(木) 16:03:32.00 ID:cyhbRm+z
これ(皮肉〈シニスム〉)が大抵のものを凡庸と滑稽に墜してしまふのは、十九世紀の科学的実証主義にもとづく
自然主義以来の習慣である。私は自意識の病ひを自然主義の亡霊だと考へてゐる。すべてを見てしまつたと
思ひ込んだ人間の迷蒙だと考へてゐる。あらゆる悲哀の裏に滑稽の要素を剔出するのはこの迷蒙の作用である。
いきほひ感情は無力なものになり、情熱は衰へ、何かしらあいまいな不透明なものになり終つた。愛さうとして
愛しえぬ苦悩が地獄の定義だとドストエフスキーは長老ゾシマにいはせたが、近代病のもつとも簡明な定義も
またこれである。
(中略)
悲劇は強引な形式への意慾を、悲哀そのものが近代性から継子扱ひをされるにつれてますます強められ、おのづから
近代性への反抗精神を内包するにいたる。それは近代性の奥底から生み出された古典主義である。喜劇は近代を
のりこえる力がない。(中略)偉大な感情を、情熱を、復活せねばならぬ。それなしには諷刺は冷却の作用を
しかもたないだらう。
三島由紀夫「悲劇の在処」より
370 :
大人の名無しさん:2011/04/21(木) 16:03:52.68 ID:cyhbRm+z
人の思惑に気をつかふ日本人は、滅多に「私は天才です」などと云へないものだから、天才たちの博引旁捜で
自己陶酔を味はふが、ヨーロッパの芸術家はもつと無邪気に「私は天才です」と吹聴してゐる。自我といふものは
ナイーヴでなければ意味をなさない。
日本の新劇から教壇臭、教訓臭、優等生臭、インテリ的肝つ玉の小ささ、さういふものが完全に払拭されないと
芝居が面白くならない。そのためにはもつと歌舞伎を見習ふがよいのである。演劇とはスキャンダルだ。
後進国の例にもれず、芸術性と啓蒙性がいたるところで混同されてゐる例は、戦時中の御用文学にあらはれ、
今日また平和運動と文学とのあいまいな関聯を皆がつきとめないで甲論乙駁してゐる情景に見られるのである。
フランスの深夜叢書にイデオロギーにとらはれずに多くの文学者が参加したのは、結局その根本的なイデエが、
政治的権力の恣意に対する芸術の純粋性擁護にあつたからだと思はれる。
三島由紀夫「戯曲を書きたがる小説書きのノート」より
371 :
大人の名無しさん:2011/04/22(金) 19:57:33.68 ID:wAFCgQKB
芸術はすべて何らかの意味で、その扱つてゐる素材に対する批評である。判断であり、選択である。小説の中に
出てくる人間批評だの文明批評だのといふのは末の問題で、小説も芸術である(といふ前提には異論があらうが)
以上、創作衝動がまづ素材にぶつかつて感じる抵抗がなければならない。
文体をもたない批評は文体を批評する資格がなく、文体をもつた批評は(小林秀雄氏のやうに)芸術作品になつて
しまふ。なぜかといふと文体をもつかぎり、批評は創造に無限に近づくからである。多くの批評家は、言葉の
記録的機能を以て表現的機能を批評するといふ矛盾を平気で犯してゐるのである。
小説を総体として見るときに、批評家は読者の恣意の代表者として、それをどう解釈しようと勝手であるが、
技術を問題にしはじめたら最後、彼ははなはだ倫理的な問題をはなはだ無道徳な立場で扱ふといふ宿命を避けがたい。
理解力は性格を分解させる。理解することは多くの場合不毛な結果をしか生まず、愛は断じて理解ではない。(中略)
芸術家の才能には、理解力を滅殺する或る生理作用がたえず働いてゐる必要があるやうに思はれる。
三島由紀夫「批評家に小説がわかるか」より
372 :
大人の名無しさん:2011/04/22(金) 19:58:07.04 ID:wAFCgQKB
パリ人はもともと、外国人をみんな田舎者だと思ふ中華思想をもつてゐる。
パリへのあこがれは、小説家へのあこがれのやうなもので、およそ実物に接してみて興ざめのする人種は、
小説家に及ぶものはないやうに、パリへあこがれて出かけるのは丁度小説を読んでゐるだけで満足せずに、
わざわざ小説家の御面相を拝みにゆく読者同様である。パリはつまり、芸術の台所なのである。おもては観光客
目あてに美々しく装うてゐるが、これほど台所的都会はないことに気づくだらう。パリのみみつちさは崇高な
芸術の生れる温床であり、パリの卑しさは芸術の高貴の実体なのである。私はよい芸術が、パリ市民の俗悪に
反抗して生れるから、パリが逆説的に温床だといつてゐるのではない。トーマス・マンもいふやうに、芸術とは
何かきはめていかがはしいものであり、丁度日本の家のやうに床の間のうしろに便所があるやうな、さういふ構造を
宿命的に持つてゐる。これを如実に体現してみせた都会がパリであるから、その独創性はまことに珍重に値ひする。
三島由紀夫「パリにほれず」より
373 :
大人の名無しさん:2011/04/24(日) 10:45:58.42 ID:cXTxKAuP
詩とは何か? それはむつかしい問題ですが、最も純粋であつてもつとも受動的なもの、思考と行為との窮極の堺、
むしろ行為に近いもの、と云つてよい。「受動的な純粋行為」などといふものがありうるか? 言葉といふものは
ふしぎなもので、言葉は能動的であり、濫用されればされるほど、行為から遠ざかる、といふ矛盾した作用を
もつてゐる。近代の小説の宿命は、この矛盾の上に築かれてゐるのですが、詩は言葉をもつとも行為に近づけた
ものである。従つて、言葉の表現機能としては極度に受動的にならざるをえない。かういふ詩の演劇的表出は、
行為を極度に受動的に表現することによつて、逆に言葉による詩の表現に近づけることができる。簡単に言つて
しまへば、詩は対話では表現できぬ。詩は孤独な行為によつてしか表現できぬ。しかも、その行為は、詩における
言葉と同様に、極度に節約されたものでなければならぬ。言葉が純粋行為に近づくに従つていや増す受動性を、
最高度に帯びてゐなければならぬ。お能の動きは、見事にこの要請に叶つてをります。
三島由紀夫「『班女』拝見」より
374 :
大人の名無しさん:2011/04/24(日) 10:46:16.42 ID:cXTxKAuP
殿下は、一方日本の風土から生じ、一方敗戦国の国際的地位から生じる幾多の虚偽と必要悪とに目ざめつつ、
それらを併呑して動じない強さを持たれることを、宿命となさつたのである。偽悪者たることは易しく、反抗者たり
否定者たることはむしろたやすいが、あらゆる外面的内面的要求に飜弄されず、自身のもつとも蔑視するものに
万全を尽くすことは、人間として無意味なことではない。「最高の偽善者」とはさういふことであり、物事が
決して簡単につまらなくなつたりしてしまはない人のことである。
殿下の持つてをられる自由は、われわれよりはるかに乏しいが、人間は自由を与へられれば与へられるほど
幸福になるとは限らないことは、終戦後の日本を見て、殿下にもよく御承知であらう。殿下は人間がいつも
夢みてゐる、自由の逆説としての幸福を生きてをられるので、いかに御自身を不幸と思はれるときがあつても、
御自身を多くの人間が考へてゐる幸福といふ逆説だとお考へになつて、いつも晴朗な態度を持しておいでになる
ことが肝要である。
三島由紀夫「最高の偽善者として――皇太子殿下への手紙」より
375 :
大人の名無しさん:2011/04/29(金) 15:12:05.24 ID:OByJmEec
なぜ自分が作家にならざるを得ないかをためしてみる最もよい方法は、作品以外のいろいろの実生活の分野で活動し、
その結果どの活動分野でも自分がそこに合はないといふ事がはつきりしてから作家になつておそくない。
小説家はまづ第一にしつかりした頭をつくる事が第一、みだれない正確な、そしていたづらに抽象的でない、
はつきりした生活のうらづけのある事が必要である。何もかもむやみに悲しくて、センチメンタルにしか物事を
見られないのは小説家としても脆弱である。
バルザックは毎日十八時間小説を書いた。本当は小説といふものはさういふふうにしてかくものである。詩のやうに
ぼんやりインスピレーションのくるのを待つてゐるものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が
小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかはりないと思ふ。
なまけものはどこに行つても駄目なのである。
三島由紀夫「作家を志す人々の為に」より
376 :
大人の名無しさん:2011/04/29(金) 15:12:30.10 ID:OByJmEec
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より
377 :
大人の名無しさん:2011/04/29(金) 15:12:50.64 ID:OByJmEec
男にとつて、仕事は宿命です。
純粋な女の恋には、野心がありません。もし野心をもつたら、恋に打算が加はつて醜くなります。
それに、人を愛しながら野心を満足させることは、女の場合できないのです。女性においては、純粋な恋ほど、
野心から遠ざかります。
こゝに男の恋と女の恋の違ひがあるのです。男性の場合は、仕事に対する情熱――野心と、恋愛とが常にぶつかり
合ふのです。
野心をもたないやうな男は、情熱のない男です。(中略)情熱のない男、エネルギーの少い男性には、どんなに
閑があつても、ほんたうの恋愛はできません。
女は、恋のために、男の仕事を邪魔してはなりません。
(中略)一たん男が仕事に情熱を打ち込んだら、女性は放つておくこと。そんなときの男性は、子供が新しい
おもちやに夢中になつてゐるやうに、決して浮気をしません。
男性を仕事に熱中させることです。こんなときに男から仕事をとり上げてしまつたら、男は仕事を邪魔しない女性と
恋愛をするやうになります。
三島由紀夫「男は恋愛だけに熱中できるか?」より
378 :
大人の名無しさん:2011/05/01(日) 12:28:45.39 ID:7Z6bRc+q
青年といふものは、少年よりはるかに素直なものである。
三島由紀夫「死せる若き天才ラディゲの文学と映画『肉体の悪魔』に対する私の観察」より
若い女性の「芸術」かぶれには、いかにもユーモアがなく、何が困るといつて、昔の長唄やお茶の稽古事のやうな
稽古事の謙虚さを失くして、ただむやみに飛んだり跳ねたりすれば、それが芸術だと思ひこんでゐるらしいことである。
芸術とは忍耐の要る退屈な稽古事なのだ。そしてそれ以外に、芸術への道はないのである。
三島由紀夫「芸術ばやり――風俗時評」より
ヨーロッパの人文主義が築いた文化の根本的欠陥が、現代ヨーロッパのいたましい病患をなし「人間的なもの」の
最後の救済のために、人々は政治に狂奔してゐる。殿下が見られるあまりにも政治的なヨーロッパは、デカダンスに
陥つた西欧文化の自己表現なのである。文化といふものの最悪の表現形態が政治なのだ。ギボンのローマ帝国衰亡史を
繙かれれば、殿下は文化的創造力を失つた偉大な民族が、巨大な政治の生産者に堕した様相を読まれるであらう。
三島由紀夫「愉しき御航海を――皇太子殿下へ」より
379 :
大人の名無しさん:2011/05/01(日) 12:29:08.91 ID:7Z6bRc+q
すべての芸術家は、自分の持つて生れた資質を十全に生かすと共にそれを殺すところに発展がある。
三島由紀夫「歌右衛門丈へ」より
文士などといふ人種ほど、我慢ならぬものはない。ああいふ虫ケラどもが、愚にもつかぬヨタ話を書きちらし、
一方では軟派が安逸奢侈の生活を勤め、一方では左翼文士が斜視的社会観を養つて、日本再建をマイナスすること
ばかり狂奔してゐる。
若造の純文学文士がしきりに呼号する「時代の不安」だの、「実存」(こんな日本語があるものか)だの、
「カソリシズムかコミュニズムか」だの、青年を迷はすバカバカしいお題目は、私にいはせれば悉く文士の
不健康な生活の生んだ妄想だと思はれるのである。
三島由紀夫「蔵相就任の思ひ出――ボクは大蔵大臣」より
義理人情に酔ふやくざと等しく、もつとも行為の世界に適した男は、「感性的人間」なのだ。日本的感性に素直に
従ふ男は勇猛果敢になり、素直に従ふ女は貞淑な働き者になる。
三島由紀夫「宮崎清隆『憲兵』『続憲兵』」より
380 :
大人の名無しさん:2011/05/02(月) 19:55:18.20 ID:D8IrDI1M
この世で最も怖ろしい孤独は、道徳的孤独であるやうに私には思はれる。
良心といふ言葉は、あいまいな用語である。もしくは人為的な用語である。良心以前に、人の心を苛むものが
どこかにあるのだ。
三島由紀夫「道徳と孤独」より
文化の本当の肉体的浸透力とは、表現不可能の領域をしてすら、おのづから表現の形態をとるにいたらしめる、
さういふ力なのだ。世界を裏返しにしてみせ、所与の存在が、ことごとく表現力を以て歩む出すことなのだ。
爛熟した文化は、知性の化物を生むだけではない。それは野獣をも生むのである。
三島由紀夫「ジャン・ジュネ」より
その苦悩によつて惚れられる小説家は数多いが、その青春によつて惚れられる小説家は稀有である。
三島由紀夫「『ラディゲ全集』について」より
愛情の裏附のある鋭い批評ほど、本当の批評はありません。さういふ批評は、そして、すぐれた読者にしか
できないので、はじめから冷たい批評の物差で物を読む人からは生れません。
三島由紀夫「作品を忘れないで……人生の教師ではない私――読者へのてがみ」より
381 :
大人の名無しさん:2011/05/02(月) 19:55:56.77 ID:D8IrDI1M
男といふものは、もしかすると通念に反して、弱い、脆い、はかないものかもしれないので、男たちを支へて
鼓舞するために、男性の美徳といふ枷が発明されてゐたのかもしれないのである。さうして正直なところ、女は
男よりも少なからずバカであるから、卑劣や嫉妬やウソつきや怯惰などの人間の弱点を、無意識に軽々しく露出し、
しかも「女はかよわいもの」といふ金科玉条を楯にとつて、人間全体の寛恕を要求して来たのかもしれない。
三島由紀夫「男といふものは」より
恥多き思ひ出は、またたのしい思ひ出でもある。
三島由紀夫「『恥』」より
私は自分の顔をさう好きではない。しかし大きらひだと云つては嘘になる。自分の顔を大きらひだといふ奴は、
よほど己惚れのつよい奴だ。自分の顔と折合いをつけながら、だんだんに年をとつてゆくのは賢明な方法である。
六千か七十になれば、いい顔だと云つてくれる人も現はれるだらう。
三島由紀夫「私の顔」より
382 :
大人の名無しさん:2011/05/02(月) 19:56:20.18 ID:D8IrDI1M
文学とは、青年らしくない卑怯な仕業だ、といふ意識が、いつも私の心の片隅にあつた。本当の青年だつたら、
矛盾と不正に誠実に激昂して、殺されるか、自殺するか、すべきなのだ。
青年だけがおのれの個性の劇を誠実に演じることができる。
青年期が空白な役割にすぎぬといふ思ひは、私から去らない。芸術家にとつて本当に重要な時期は、少年期、
それよりもさらに、幼年期であらう。
肉体の若さと精神の若さとが、或る種の植物の花と葉のやうに、決して同時にあらはれないものだと考へる私は、
青年における精神を、形成過程に在るものとして以外は、高く評価しないのである。肉体が衰へなくては、
本当の精神は生れて来ないのだ。私はもつぱら「知的青春」なるものにうつつを抜かしてゐる青年に抱く嫌悪は
ここから生じる。
三島由紀夫「空白の役割」より
383 :
大人の名無しさん:2011/05/02(月) 19:56:45.26 ID:D8IrDI1M
今日の時代では、青年の役割はすでに死に絶え、青年の世界は廃滅し、しかも古代希臘のやうに、老年の智恵に
青年が静かに耳傾けるやうな時代も、再びやつて来ない。孤独が今日の青年の置かれた状況であつて、青年の役割は
そこにしかない。それに誠実に直面して、そこから何ものかを掘り出して来ること以外にはない。
今日の時代では、自分の青春の特権に酔つてゐるやうな青年は、まるきり空つぽで見どころがなく、青春の特権などを
信じない青年だけが、誠実で見どころがあり、且つ青年の役割に忠実だといへるであらう。
さう思ふ一方、私にはやはり少年期の夢想が残つてゐて、アメリカ留学の一念にかられて、鱶のゐる海をハワイへ
泳ぎついた単純な青年などよりも、アジヤの風雲に乗じて一ト働きをし、時代に一つの青年の役割を確立するやうな、
さういふ豪放な若者の出てくるのを、待望する気持が失せない。
やはり青年のためにだけ在り、青年に本当にふさはしい世界は、行動の世界しかないからである。
三島由紀夫「空白の役割」より
384 :
大人の名無しさん:2011/05/03(火) 20:23:13.88 ID:AxiHJW7L
諷刺は人を刺し、おのれを刺す。
精神と精神との共分母にくらべれば、顔と顔との、単に目口鼻などといふ共分母は、それが全く機能的な意味を
しか想起させない、いかに稀薄な、いかに小さなものであらうか。われわれが、お互ひにどんなに共感し
共鳴しようと、相手の顔はわれわれの精神の外側にあり、われわれ自身の顔はといふと、共感した精神のなかに
没してしまつて、あたかも存在しないかのやうであり、そこでこれに反して相手の顔は、いかにも存在を堂々と
主張してゐる不公平なものに思はれる。相手の顔に対する、われわれの要請は果てしれない。
だが、要するに、私は顔といふものを信じる。明晰さを愛する人間は、顔を、肉体を、目に見えるままの素面を
信じることに落ちつくものだ。といふのも、最後の謎、最後の神秘は、そこにしかないからだ。
絶対的な誠実といふものはない。一つの誠実、個別的な誠実があるだけだ。
三島由紀夫「福田恆存氏の顔」より
385 :
大人の名無しさん:2011/05/03(火) 20:23:45.99 ID:AxiHJW7L
役者の好き嫌ひは、友達にも肌の合ふ人と合はない人があるやうなものです。
美しい花を咲かせるためには塵芥が要る如く、芸術は多く汚い所から生れるものです。
三島由紀夫「好きな芝居、好きな役者――歌舞伎と私」より
歌舞伎はよく生き永らへてゐる。内容が古びても、文体だけによつて小説が生き永らへるやうに、歌舞伎の
スタイルだけは、おそらく不死であらう。
様式こそ、見かけの内容よりもつと深いものを訴へかけてゐる。
三島由紀夫「芸術時評」より
「潮騒」における思春期の設定は小説の道具にすぎず、私は人間の思春期なんか、別に重大に変へてゐない。
あの小説で私の書きたかつたのは、小説の登場人物から「個性」といふものを全く取去つた架空の人間像であつて、
そのためにわざわざ、遠い小島へ話をもつてゆき、年齢もとりわけ少年期の人物を選んだわけである。それなら
何故子供を書かないか? 冗談ではない。子供は少年よりもずつと個性的な存在なのである。
三島由紀夫「映画の中の思春期」より
386 :
大人の名無しさん:2011/05/05(木) 20:43:26.78 ID:INacXvyo
中年や老人の奇癖は滑稽で時には風趣もあるが、未熟な青年の奇癖といふものは、醜く、わざとらしくなりがちだ。
三島由紀夫「あとがき(『若人よ蘇れ』)」より
われわれのふだんの会話を注意してきいてゐれば、すこし頭のよい人間は、物事を整理して喋つてゐる。筋道を立て、
簡潔に喋ることが、社会生活の第一条件といふべきである。心理的な会話なんて、さうたんとはない。頭のわるい
女だの、甘い抒情的な男に限つて、廻りくどい会話をするものである。
三島由紀夫「『若人よ蘇れ』について」より
人間のやることは残酷である。鳥羽の真珠島で、真珠の肉を手術して、人工の核を押し込むところを見たが、
玲瓏(れいろう)たる真珠ができるまでの貝の苦痛が、まざまざと想像された。このごろ流行のダムも、この規模を
大きくしたやうなものである。ダム工事の行はれる地点は、大てい純潔な自然で、風光は極めて美しい。その
自然の肉に、コンクリートと鉄の異物が押し込まれ、自然の永い苦痛がはじまる。
三島由紀夫「『沈める滝』について」より
387 :
大人の名無しさん:2011/05/05(木) 20:43:47.59 ID:INacXvyo
外国の話は、その外国へ行つた人とだけ話題にすべきものだと思ふ。いはば共通の女の思ひ出を語るやうに
語るべきもので、人に吹聴したら早速キザになるのだ。
三島由紀夫「外遊精算書」より
ランボオとは、体験としてしか語られないある存在らしい。
絶対の無垢といふ、わかりやすいものを前にして、これほど仰々しい言葉の行列を並べてみせる、ミラア及び
西洋人といふものを、私はどうも鬱陶しく思ふ。この評論こそは、ランボオの呪つた文明的錯雑そのものではないか?
三島由紀夫「文明的錯雑そのもの――ヘンリ・ミラア作 小西茂也訳『ランボオ論』」より
いくら名だたる野球選手でも、水泳の名手でも、ゲーテの名も知らず、万葉集の何たるかも知らないでは一人前とは
いへますまい。私はそれと正反対の状況にありました。小説こそいくらか書いたが、肉体的には、レベル以下
ほとんどゼロでした。これでは一人前とはいへますまい。
三島由紀夫「信仰に似た運動――告知板」より
388 :
大人の名無しさん:2011/05/05(木) 20:44:34.96 ID:INacXvyo
作者が自分の目で人生を眺め、人生がどうしてもかういふ風にしか見えないといふ場所に立つて書くのが、
要するに小説のリアリズムと呼ばれるべきである。
三島由紀夫「解説(川端康成『舞姫』)」より
私にとつての一つの宿命は、私が、「正当な論敵」の中にしか、本当の友を見出すことができない、といふ性癖を
もつてゐることである。
三島由紀夫「黛氏のこと」より
あらゆる年齢の、腐りやすい果実のやうな真実は、たとへそのもぎ方が拙劣で、果実をこはすやうな破目になつても、
とにかくもいでみなければわかるものではない。
死に急ぎの見本は特攻隊だが、それと同じ程度に、「生き急ぎ」もパセティックで美しいのだ。
三島由紀夫「はしがき(『十代作家作品集』)」より
芝居はイデェだ。
イデェなくして、何のドラマツルギーぞや。何の舞台技巧ぞや。何の職人的作劇経験ぞや。
人間の現在の行為は、ことごとく無駄ではない。そのうちの、未来に対して有効な行為だけが有効なのではない。
三島由紀夫「ドラマに於ける未来」より
389 :
大人の名無しさん:2011/05/05(木) 20:45:13.04 ID:INacXvyo
男性が持つてゐる特長で、女性にたえて見られぬものは、ユーモアである。
ユーモアとは、ともすれば男性の気弱な楯、男同士の社会の相互防衛の手段かもしれないのである。
三島由紀夫「長島さんのこと――あるひは現代アマゾン頌」より
芸術家が自分の美徳に殉ずることは、悪徳に殉ずることと同じくらいに、云ひやすくして行ひ難いことだ。
われわれは、恥かしながら、みんな宙ぶらりんのところで生きてゐる。
死の予感の中で、死のむかうの転生の物語を書く。芸術家が真に自由なのはこの瞬間なのである。
三島由紀夫「加藤道夫氏のこと」より
表現の見地から見れば、食欲や飲酒欲は、エロや涙より、はるかに高尚な対象なのである。なぜなら、物を
食ひたかつたり、酒をのみたかつたりすれば、本を読むより実物を得るはうがたやすく、かういふ充たされやすい
欲望を、言葉で表現するといふことは、ティーターン的大業ではないか。
三島由紀夫「誨楽の書――吉田健一氏『酒に呑まれた頭』」より
390 :
大人の名無しさん:2011/05/06(金) 11:23:26.52 ID:s7AHuqUX
人間は好奇心だけで、人間を見に行くことだつてある。
三島由紀夫「奥野健男著『太宰治論』評」より
小説は芸術のなかでも最もクリチシズムの強いものだ。
三島由紀夫「文芸批評のあり方――志賀直哉氏の一文への反響」より
神を信じる、あるひは信じないことと、神を持たないといふことは、おのおの別の次元、別の範疇に於ける
出来事なのである。従つてそこには同一次元上の対立といふものはありえない。
神を持つ人種と、神を持たぬ人種との間に横たはる深淵は、芸術を以てしては越えられぬ。それを越えうるものは
信仰だけである。(日本古昔の耶蘇教殉教者を見よ)。
信仰にとつては、黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。神があるだけである。芸術にとつては
黄いろい人白い人といふ色彩論が何の値打があるか。人間があるだけである。アメリカの黒人問題を扱つた小説は、
すべて具象的で、人間的である。
三島由紀夫「小説的色彩論――遠藤周作『白い人・黄色い人』」より
391 :
大人の名無しさん:2011/05/06(金) 11:23:46.87 ID:s7AHuqUX
芝居の世界に住む人の、合言葉的生活感情は、あるときは卑屈な役者根性になり、あるときは観客に対する
思ひ上つた指導者意識になる。正反対のやうに見えるこの二つのものは、実は同じ根から生れたものである。
本当の玄人といふものは、世間一般の言葉を使つて、世間の人間と同じ顔をして、それでゐて玄人なのである。
三島由紀夫「無題『新劇』扉のことば」より
大体私はオペラをばからしい芸術だと考へてゐる。オペラの舞台といふものは、外国で見たつて、多少、正気の
沙汰ではない。しかし何んともいへない魅力のあるもので、正宗白鳥氏流にいふと、一種の痴呆芸術の絶大な
魅力を持つてゐる。
三島由紀夫「『卒塔婆小町』について」より
今日、伝統といふ言葉は、ほとんど一種のスキャンダルに化した。
どんな時代が来ようと、己れを高く持するといふことは、気持のよいことである。
三島由紀夫「藤島泰輔『孤独の人』序」より
392 :
大人の名無しさん:2011/05/07(土) 16:55:11.64 ID:G/OBy2ij
風俗といふやつは、仮名遣ひなどと同様、むやみに改めぬがよろしい。新仮名論者の進歩派たちも、羽田の
見送りさわぎでは日本的風俗を守つてゐるのが奥床しい。
三島由紀夫「きのふけふ 羽田広場」より
母親に母の日を忘れさすこと、これ親孝行の最たるものといへようか。
三島由紀夫「きのふけふ 母の日」より
国の裁判権の問題は、その国の威信にかかはる重大な問題である。
三島由紀夫「きのふけふ マリア・ルーズ号事件」より
現実はいつも矛盾してゐるのだし、となりのラジオがやかましいと非難しながら、やはり家にだつてラジオの
一台は必要だといふことはありうる。
三島由紀夫「きのふける 両岸主義」より
辺幅を飾らないのは結構だが、どこまでも威厳といふものは必要だ。ことに西洋人は、東洋人独特の神秘的な
威厳といふものに弱いのである。
日本はここでアジア後進国にならつて、もう少し威厳とものわかりのわるさを発揮できないものであらうか。
ものわかりのよすぎる日本人はもう沢山。
三島由紀夫「きのふけふ 威厳」より
393 :
大人の名無しさん:2011/05/07(土) 16:55:34.79 ID:G/OBy2ij
人生では、一番誠実ぶつてゐる人が一番ずるいといふ状況によくぶつかります。一番ずるさうにしてゐる人が、
実は仕事の上で一番誠実である場合もたくさんあります。
私は、人間といふものは子どものときから老人に至るまで、その年齢々々のずるさを頑固に持つてゐるものだと
考へてゐます。子どもには恐るべき子どものずるさがあります。気ちがひにすら気ちがひのずるさがあります。
ほんたうの誠実さといふものは自分のずるさをも容認しません。自分がはたして誠実であるかどうかについても
たえず疑つてをります。
人間の肉体はそれが酷使されるときに実にさはやかな喜びをもたらすといふフシギな感じを持つてゐます。
それと同時に精神が生き生きしてまゐります。深刻にものを考へがちな人はとにかく戸外に出て駈けずり
まはらなければいけません。しかし、駈けずりまはつて、スポーツばかりやつて、まつたく精神を使はなくなつて
しまふのもまた奇形であります。
三島由紀夫「青春の倦怠」より
394 :
大人の名無しさん:2011/05/08(日) 21:07:45.20 ID:2QDR3iUb
感覚に訴へないものは古びることがない。
三島由紀夫「鴎外の短編小説」より
私は次のやうに考へてゐる。肉体的健康の透明な意識こそ、制作に必要なものであつて、それがなければ、
小説家は人間性の暗い深淵に下りてゆく勇気を持てないだらうと。
小説家は人間の心の井戸掘り人足のやうなものである。井戸から上つて来たときには、日光を浴びなければならぬ。
体を動かし、思ひきり新鮮な空気を呼吸しなければならぬ。
三島由紀夫「文学とスポーツ」より
われわれはいかに精神世界に生きても、肉体は一種の物質である以上、そのサビをとらなければ、精神活動も
サビつきがちになることを忘れてゐる。
三島由紀夫「体操と文明――浜田靖一著『図説徒手体操』」より
知的なものは、たえず対極的なものに身をさらしてゐないと衰弱する。自己を具体化し肉化する力を失ふのである。
私がスポーツに求めてゐるのは、さまざまな精神の鮮明な形象であるらしい。
三島由紀夫「ボクシングと小説」より
395 :
大人の名無しさん:2011/05/08(日) 21:08:07.67 ID:2QDR3iUb
清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい負ひ目として現はれるので
なければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人
といふものには、私は頭から信用が置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、
そのために苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。
古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは人間生活を
よりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、暗黒の
血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、
一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。
三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」より
396 :
大人の名無しさん:2011/05/11(水) 11:39:08.25 ID:c+2rdCdD
神島は忘れがたい島である。のちに映画のロケーションに行つた人も、この島を大そう懐しんでゐる。人情は素朴で
強情で、なかなかプライドが強くて、都会を軽蔑してゐるところが気に入つた。地方へ行つて、地方的劣等感に
会ふほどイヤなものはない。
三島由紀夫「『潮騒』のこと」より
オペラといふものには懐しい故郷のやうな感じがするのである。さうして、大体、オペラの筋の荒唐無稽さとか
不自然さとかといふものは、我々は歌舞伎に慣れてゐるからさほど驚きもしない。
この間のわけのわからない京劇などよりも、私はよほど感動した。さうして隣国でありながら京劇がわからないで
オペラはわかるといふことは、不幸なことのやうでもあるが、京劇のやうなわからないものをわかる振りを
するインテリの一部の傾向は、私には無邪気さを欠いてゐるやうに思はれる。
三島由紀夫「盛りあがりのすばらしさ」より
397 :
大人の名無しさん:2011/05/11(水) 11:39:29.94 ID:c+2rdCdD
詩人の魂だけが歴史を創造するのである。
三島由紀夫「日本的湿潤性へのアンチ・テーゼ――山本健吉氏『古典と現代文学』」より
オルフェは誰であつてもよい。ただ彼は詩に恋すればいいのだ。日本語では妙なことに詩と死は同じ仮名である。
オルフェは詩に恋し、死神は神の詩であり、オルフェの女房は詩に嫉妬する。それでいいのだ。
三島由紀夫「元禄版『オルフェ』について」より
われわれが美しいと思ふものには、みんな危険な性質がある。温和な、やさしい、典雅な美しさに満足して
ゐられればそれに越したことはないのだが、それで満足してゐるやうな人は、どこか落伍者的素質をもつて
ゐるといつていい。
三島由紀夫「美しきもの」より
地震なるものに厳密な周期律も発展性もないやうに、文壇崩壊論にも、さういふものはない。
近代小説なるものは、日本的私小説であつてはならない。
近代小説には思想が、少なくとも主体的なライトモティーフがなければならぬ。
小説は面白くなくてはならないのである。
三島由紀夫「文壇崩壊論の是非」より
398 :
大人の名無しさん:2011/05/11(水) 11:44:49.70 ID:c+2rdCdD
美人が八十何歳まで生きてしまつたり、醜男が二十二歳で死んだりする。まことに人生はままならないもので、
生きてゐる人間は多かれ少なかれ喜劇的である。
三島由紀夫「夭折の資格に生きた男――ジェームス・ディーン現象」より
小説でも、絵でも、ピアノでも芸事はすべてさうだがボクシングもさうだと思はれるのは、練習は必ず毎日
やらなければならぬといふことである。
三島由紀夫「ボクシング・ベビー」より
画家と同様、作家にも純然たる模写時代模倣時代、があつてよいので、どうせ模倣するなら外国の一流の作家の
模倣と一ト目でわかるやうな、無邪気な、エネルギッシュな失敗作がズラリと並んでゐてほしい。
運動の基本や練習の要領については、先輩の忠告が何より実になる筈だが、文学だつて、少なくとも初歩的な
段階では、スポーツと同じ激しい日々の訓練を経なければものにならないのである。
三島由紀夫「学習院大学の文学」より
399 :
大人の名無しさん:2011/05/11(水) 11:45:42.32 ID:c+2rdCdD
歴史の欠点は、起つたことは書いてあるが、起らなかつたことは書いてないことである。そこにもろもろの小説家、
劇作家、詩人など、インチキな手合のつけ込むスキがあるのだ。
三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より
恋が障碍によつてますます募るものなら、老年こそ最大の障碍である筈だが、そもそも恋は青春の感情と
考へられてゐるのであるから、老人の恋とは、恋の逆説である。
三島由紀夫「作者の言葉(『綾の鼓』)」より
かういふ箇所(自然描写)で長所を見せる堀(辰雄)氏は、氏自身の志向してゐたフランス近代の心理作家よりも、
北欧の、たとへばヤコブセンのやうな作家に近づいてゐる。人は自ら似せようと思ふものには、なかなか似ない
ものである。
三島由紀夫「現代小説は古典たり得るか 『菜穂子』修正意見」より
あまりに強度の愛が、実在の恋人を超えてしまふといふことはありうる。
三島由紀夫「班女について」より
400 :
大人の名無しさん:2011/05/12(木) 10:55:16.49 ID:5CFqTPuN
はじめからをはりまで主人公が喜び通しの長編小説などといふものは、気違ひでなければ書けない。
三島由紀夫「文字通り“欣快”」より
花柳界ではいまだに奇妙な迷信がある。不景気のときは黄色の着物がはやり、また矢羽根の着物がはやりだすと
戦争が近づいてゐるといふことがいはれてゐる。(中略)
かうした慣習や迷信は、女性が無意識に流行に従ひ、無意識に美しい着物を着るときに、無意識のうちに同時に
時代の隠れた動向を体現しようとしてゐることを示すものである。女の人の髪形や、洋服の形の変遷も馬鹿には
できない。そこには時代精神の、ある隠された要求が動いてゐるかもしれないのである。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 小社会の根底にひそむもの」より
男性の突出物は、実に滑稽な存在であるが、それをかうまで滑稽にしたのはあまりに隠蔽する習慣がつきすぎた
ためであらう。
三島由紀夫「私の見た日本の小社会 全裸の世界」より
401 :
大人の名無しさん:2011/05/12(木) 10:55:39.10 ID:5CFqTPuN
大衆に迎合して、大衆のコムプレックスに触れぬやうにビクビクして作られた喜劇などは、喜劇の部類に
入らぬことを銘記すべきである。
三島由紀夫「八月十五夜の茶屋」より
怖くて固苦しい先生ほど、後年になつて懐かしく、いやに甘くて学生におもねるやうな先生ほど、早く印象が
薄れるのは、教育といふものの奇妙な逆説であらう。
三島由紀夫「ドイツ語の思ひ出」より
詩人とは、自分の青春に殉ずるものである。青春の形骸を一生引きずつてゆくものである。詩人的な生き方とは、
短命にあれ、長寿にあれ、結局、青春と共に滅びることである。
小説家の人生は、自分の青春に殉ぜず、それを克服し、脱却したところからはじまる。ゲーテがウェルテルを
書いて、自殺を免かれたところからはじまる。
三島由紀夫「佐藤春夫氏についてのメモ」より
402 :
大人の名無しさん:2011/05/12(木) 10:56:23.56 ID:5CFqTPuN
「いづれ春永に」といふ中世以来のあいさつには、あの春日のさし入つた空白のなかでまた顔を合はせませう、
といふ気分があるのだらう。愛情も、好悪も、あらゆる人間的感情が一応ご破算になる。さういふ空間を、
早春の一日に設定した人間のたくらみは、私にも少しはわかる。
三島由紀夫「いづれ春永に」より
ゲエテがかつて「東洋に憧れるとはいかに西欧的なことであらう」と申しましたが、これを逆に申しますと
「西欧に憧れるとはいかに東洋的なことであらう」ともいへるのです。
他への関心、他の文化、他の芸術への関心を含めて、他者への関心ほど人間を永久に若々しくさせるものはありません。
三島由紀夫「日本文壇の現状と西洋文学との関係――ミシガン大学における講演」より
芸術家が芸術と生活をキチンと仕分けることは、想像以上の難事である。芸術家は、その生活までも芸術に
引つぱりこまれる危険にいつも直面してゐる。
三島由紀夫「谷桃子さんのこと」より
403 :
大人の名無しさん:2011/05/17(火) 11:23:42.04 ID:WP8iWOAI
よく見てごらんなさい。「薔」といふ字は薔薇の複雑な花びらの形そのままだし、「薇」といふ字はその葉つぱ
みたいに見えるではないか。
三島由紀夫「薔薇と海賊について」より
表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔薇といふ字をじつと見つめてゐてごらん。薔の字は、
幾重にも内側へ包み畳んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるやうに出来てゐる。
この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。
三島由紀夫「あとがき(『薔薇と海賊』)」より
世界が虚妄だ、といふのは一つの観点であつて、世界は薔薇だ、と言ひ直すことだつてできる。しかしこんな
言ひ直しはなかなか通じない。目に見える薔薇といふ花があり、それがどこの庭にも咲き、誰もよく見てゐるのに、
それでも「世界は薔薇だ」といへば、キチガヒだと思はれ、「世界は虚妄だ」といへば、すらすら受け入れられて、
あまつさへ哲学者としての尊敬すら受ける。こいつは全く不合理だ。虚妄なんて花はどこにも咲いてやしない。
三島由紀夫「『薔薇と海賊』について」より
404 :
大人の名無しさん:2011/05/17(火) 11:24:05.47 ID:WP8iWOAI
米国中西部の人は、昔の京都の人のやうに、魚は中毒ると決めてゐて子供のときから食べない習性がついて
ゐるらしく、ニューヨークに住んでも魚(海老さへも)を頑として食はない人がずいぶんゐる。生れてから
肉しか食べたことがないといふのは、人生の半分を知らないやうなものだ。
三島由紀夫「紐育レストラン案内」より
女が自然を敵にまはす瞬間には、どんな流血も許される。彼女の全存在が罪と化したのであるから。
三島由紀夫「『イエルマ』礼讃」より
自信といふものは妙なもので、本当に自信のない人間は、器用なことしかできないのである。
三島由紀夫「武田泰淳氏の『媒酌人は帰らない』について」より
大体、作家的才能は母親固着から生まれるといふのが私の説である。
人生が最悪の事態から最善の事態にひつくり返つたときのおそろしい歓喜といふものは、人の人生観を一変させる
ものを持つてゐる。
三島由紀夫「母を語る――私の最上の読者」より
405 :
大人の名無しさん:2011/05/17(火) 11:24:26.03 ID:WP8iWOAI
退屈な人間は狂人に似てゐる。
三島由紀夫「大岡昇平著『作家の日記』」より
もし空想科学映画狂を子供らしい悪趣味と仮定するなら、私は大体において、実生活においても完全に「良い
趣味」を持してゐる芸術家といふやつは、眉唾物だと思つてゐます。
どう考へても、空飛ぶ円盤が存在するといふことは、東山さんの絵や小生の小説が存在するのと同じ程度には、
確実なことではないでせうか。又もし空飛ぶ円盤の存在があやしげだといふのなら、この世における絵や小説の
存在もあやしげになるのではありますまいか。
三島由紀夫「『子供つぽい悪趣味』讃――知友交歓」より
悪の定義は、無限軌道をゆく知性の無道徳性から生れてをり、知性の本来的宿命的特質が、極限の形をとると、
おのづから悪の相貌を帯びるのである。
三島由紀夫「人間理性と悪――マルキ・ド・サド著 澁澤龍彦訳『悲惨物語』」より
人が愛され尽した果てに求めることは、恐れられることだ。
三島由紀夫「芥川比呂志の『マクベス』」より
406 :
大人の名無しさん:2011/05/26(木) 10:56:54.68 ID:Uvn1Nn7n
風俗は滑稽に見えたときおしまひであり、美は珍奇からはじまつて滑稽で終る。つまり新鮮な美学の発展期には、
人々はグロテスクな不快な印象を与へられますが、それが次第に一般化するにしたがつて、平均美の標準と見られ、
古くなるにしたがつて古ぼけた滑稽なものと見られて行きます。
形容詞は文章のうちで最も古びやすいものと言はれてゐます。なぜなら、形容詞は作家の感覚や個性と最も
密着してゐるからであります。(中略)しかし形容詞は文学の華でもあり、青春でもありまして、豪華な
はなやかな文体は形容詞を抜きにしては考へられません。
文章の不思議は、大急ぎで書かれた文章がかならずしもスピードを感じさせず、非常にスピーディな文章と
見えるものが、実は苦心惨憺の末に長い時間をかけて作られたものであることであります。
ユーモアと冷静さと、男性的勇気とは、いつも車の両輪のやうに相伴ふもので、ユーモアとは理知のもつとも
なごやかな形式なのであります。
三島由紀夫「文章読本」より
407 :
大人の名無しさん:2011/05/26(木) 10:57:18.78 ID:Uvn1Nn7n
富士山も、空から火口を直下に眺めれば、そんなに秀麗と云ふわけには行かない。しかし現実といふものは、
いろんな面を持つてゐる。火口を眺め下ろした富士の像は、現実暴露かもしれないが、麓から仰いだ秀麗な
富士の姿も、あくまで現実の一面であり一部である。夢や理想や美や楽天主義も、やはり現実の一面であり
一部であるのだ。
古代ギリシャ人は、小さな国に住み、バランスある思考を持ち、真の現実主義をわがものにしてゐた。われわれは
厖大な大国よりも、発狂しやすくない素質を持つてゐることを、感謝しなければならない。世界の静かな中心であれ。
三島由紀夫「世界の静かな中心であれ」より
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。たとへば、祭りのミコシを
かついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。われわれに本当に興味のある話題といふ
ものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない話ほど、心をあたたかく、席をなごやかに
するものはない。
三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
408 :
大人の名無しさん:2011/05/30(月) 16:11:36.04 ID:cWX+XnkG
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
政敵に対する公然たる非難には、さはやかなものがある。
人間、生きてゐる以上、敵があるのは当然なことで、その敵が、はつきりした人間の形をもち、人間の顔を
もつてゐる政治家といふ人種は幸福である。こんな幸福さはかれらの単純な人相にもあらはれてゐる。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より
アクセサリーも、ロカビリー娘みたいに、時と場所とをわきまへず、金ピカのとがつたやつをジャラジャラ
つけすぎると、交通の危険といふこともありうるのである。
お祭りもお祝ひもいいが、大事な開通当日の一日駅長といふのは、どう考へても本末転倒のやうに思はれる。
自衛隊が山下清氏を一日空将補として招いたときにも、いひしれぬ、人をバカにした感じを抱かされたのは、
私一人ではあるまいが「名士」とか「人気者」とかいふものも、一個の社会人であつて、社会的無責任の象徴には
なりえない。このごろでは、いはゆる「名士」が、社会的責任を免かれたがつてゐる人たちの、哀れな身代り人形に
されてゐる場合が少なくないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 アクセサリー」より
409 :
大人の名無しさん:2011/05/30(月) 16:12:12.44 ID:cWX+XnkG
プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な人間の演ずる人間劇と
考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、
歴史を動かし、歴史をつくり上げる。
三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する反乱といふ言葉は、何だか妙で、
ひつかかるのだが、共産主義の立場からいへば、ハンガリーの動乱は反乱の部類で、ユーゴのは、成功して何とか
ナアナアでやつてゐるから、反乱の汚名をそそいだといふのだらう。
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんで
しまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より
410 :
大人の名無しさん:2011/05/30(月) 16:12:39.07 ID:cWX+XnkG
文士の締切苦は昔から喧伝されてゐるが、(中略)芸術的良心なんぞとは、なんの関係もない話なのである。
しかし芝居となると、事は一そう深刻であつて、台本が間に合はなくて、ガタガタの初日を出す、などといふ醜態は、
世界中捜したつて、日本以外にはありはしない。このはうの締切は、守らなければ、直接お客にひどい損失を与へ、
お客をバカにすることになるのであるから、事は俳優だけの被害にとどまらない。
三島由紀夫「憂楽帳 締切」より
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。この間の訪ソで曲りなりにも成功を収めた
マクミラン英首相などは、時には屈辱をもおそれぬ「柔軟な政治力」を持つてゐるが、ダレス氏は概して
強面一点張だつた。強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが民主主義の政治家として
本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。
三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より
411 :
大人の名無しさん:2011/05/30(月) 16:13:02.58 ID:cWX+XnkG
実際マス・ゲームといふのは壮麗であつて、豪華大レビューのフィナーレといへども、これには到底敵すべくもない。
一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしかに
圧倒的な美である。これは疑ひやうのない美で、これを美しいと思はないのは、よほどヘンクツな人間である。
ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずかういふ体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつての
ナチスの体操映画や、ソ連や中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思はないものはメクラであつて、
ファッショや共産主義といへばなんでもかでも醜く見えてしまふ人は不幸である。
人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の
余地がない。
――しかしである。
この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加はらなくたつて立派に出せるので、この種の美が、
彼らの専売物であるわけではないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 集団美」より
412 :
大人の名無しさん:2011/05/31(火) 10:50:01.64 ID:4zYdYh+I
一体文学的生活とは、伝統的に、孤独と閑暇の産物である。孤独も閑暇もないところに文学的交遊がある筈もなく、
いはゆる文学バアにおける文士の交歓なども、今ではビジネスマンのくつろぎと大差ない。
仕事の時間は要するに厳密に仕事をする時間であり「文学的」でも何でもない。これはいはば、パリの流行の
服を着るアメリカの金持女性が「流行的」であるのと、その流行を作るパリのデザイナー自身は、かくべつ
流行的でないのとの関係に似たものだ。私に終局的に必要なのは文学であつて「文学的」な事柄ではない。
三島由紀夫「わが非文学的生活」より
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることが
できたのだ。人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない
現代とは、思へば不安な時代である。
三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より
413 :
大人の名無しさん:2011/05/31(火) 10:50:28.80 ID:4zYdYh+I
たえず自己から遁走しようとする傾向は、少年のものだ。自分といふものを密室の中へとぢこめておいて、
そこから不断に遁走しようとする傾向は少年のものだ。青年は自分と一緒に放浪するものである。
現代少年は、ただ抽象的な青春の論理によつて傷つき、滅亡するといふ悲劇しか知らず、かくて自分の内在的な
論理に飽きるときには、外からの具体的な滅亡の力を夢みる。
戦争中の少年たちが「聖戦」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出したやうに、現代の少年たちは、これと逆な
操作を辿つて、「悪」の信仰のうちに自己破壊の機会を見出す。悪とは、青春そのものの構造の、どうのがれ
やうもない退屈な論理性から、少年たちを解放する力なのである。
三島由紀夫「春日井建氏の歌」より
簡素、単純、素朴の領域なら、西洋が逆立ちしたつて、東洋にかなふわけはないのである。
三島由紀夫「オウナーの弁――三島由紀夫邸のもめごと」より
414 :
大人の名無しさん:2011/05/31(火) 19:40:49.35 ID:ya7x/cYU
石原さんがボディービルで死んだってさ
因みに34サイでゴールドジム五年いってる
415 :
大人の名無しさん:2011/06/02(木) 12:17:57.76 ID:Qm3sbPI3
私は球戯一般を好まない。直接に打つたりたたいたり、ぢかな手ごたへのあるものでないと興がわかない。
見るスポーツもさうである。芸術にしろスポーツにしろ、社会の一般的に許容しないところのものが、芸術であり
スポーツであるが故に許される、といふのが私の興味の焦点だ。やたらに人を打つたりたたいたりすることは、
ボクシングや剣道以外の社会生活では、社会通念上許容されないことである。そこが面白い。
三島由紀夫「余暇善用――楽しみとしての精神主義」より
守勢に立つ側の辛さ、追はれる者の辛さからは、容易ならぬ狡智が生れる。追つてゆく人間は、知恵を身に
つけることができぬ。追つてゆくことで一杯だから。
しかし「老巧」などといふ言葉は、スポーツの世界では不吉な言葉で、それはいつかきつと「若さ」に敗れる日が
来るのである。
三島由紀夫「追ふ者追はれる者――ペレス・米倉戦観戦記」より
416 :
大人の名無しさん:2011/06/02(木) 12:18:21.58 ID:Qm3sbPI3
一つの時代は、時代を代表する俳優を持つべきである。
俳優とは、極言すれば、時代の個性そのものなのである。
この世には情熱に似た憂鬱もあり、憂鬱に似た情熱もある。
三島由紀夫「六世中村歌右衛門序説」より
現代は奇怪な時代である。やさしい抒情やほのかな夢に心を慰めてゐる人たちをも、私は決して咎めないが、
現代といふ奇怪な炎のなかへ、われとわが手をつつこんで、その烈しい火傷の痛みに、真の時代の詩的感動を
発見するやうな人たちのはうを、私はもつともつと愛する。古典派と前衛派は、このやうな地点で、めぐり会ふ
のである。なぜなら生存の恐怖の物凄さにおいて、現代人は、古代人とほぼ似寄りのところに居り、その恐怖の
造型が、古典的造型へゆくか、前衛的造型へゆくかは、おそらくチャンスのちがひでしかない。
三島由紀夫「推薦の辞(650 EXPERIENCE の会)」より
417 :
大人の名無しさん:2011/06/02(木) 12:18:57.00 ID:Qm3sbPI3
すぐれた俳優は、見事な舟板みたいなもので、自分の演じたいろんな役柄の影響によつて、たくさんの船虫に
蝕まれたあとをもつてゐるが、それがそのまま、世にも面白い舟板塀になつて、風雅な住ひを飾るのだ。
俳優といふものは、ひまはりの花がいつも太陽のはうへ顔を向けてゐるやうに、観客席のはうへ顔を向けて
ゐるものであつて、観客席から見るときに、その一等美しい、しかも一等真実な姿がつかめるとも云へる。
三島由紀夫「俳優といふ素材」より
大体、適度な運動などといふものは、甘い考へであつて、運動をやるなら、少し過激に、少し無理にやらなければ、
運動をやる意味がないのである。
完全な自由といふものも退屈なものである。
三島由紀夫「三島由紀夫の生活ダイジェスト」より
犬が人間にかみつくのではニュースにならない。人間が犬にかみつけばニュースになる。ぼくら小説家は、
いつも犬が人間にかみつくことに、かみついてゐるわけだ。
映画俳優は極度にオブジェである。
映画の匂ひをかいだり、少しでもその世界に足をふみ入れた人間には、なにか毒がある。
三島由紀夫「ぼくはオブジェになりたい」より
419 :
大人の名無しさん:2011/06/09(木) 22:58:51.16 ID:kf6OR6dL
日本の歴史で、と言つてわるければ、日本人の心の歴史で、最初の意想外な事件がおこつたのはいつだらうか。
古事記をひろげてみよう。(中略)
神話の世界では、背理と奇蹟は日常茶飯事だ。朝おきてなぜ「おはやう」と言ふのかと訊ねても甲斐がないやうに、
なぜ高天原から独神がうまれ男女の神があらはれ、なぜ天の沼矛で海の塩をかきまはしたら島ができたか、と
たづねても意味のないことである。現代人はそれを凡て生殖の比喩として理解する。天の沼矛とはもちろん、
バッカスの祭に必要なあるもののことだと信じて疑はない。それはそれでよい。意想外の事件でないといふことが
わかればそれでよい。だが古代人は、おそらくかういふ背理を比喩だとして合理化することはなかつたであらう。
背理は背理のままで自然だつたであらう。さうでなければ、なぜかういふ天の沼矛その他の奇蹟が語られたあとで、
その奇蹟と同じ内容である一行為を、男女の最初の交はりとして、露はに語つてゐるのかわからなくなる。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
420 :
大人の名無しさん:2011/06/09(木) 22:59:50.90 ID:kf6OR6dL
それはただ強調するために伏線を引くといふ近代的手法のみなもとではあるまい。神話の最初の一節として、
ある異常な、非人間的な静けさが必要だつたのである。どんな奇蹟もそこでは意想外でないやうな、真昼の静謐が
必要だつたのである。そのためには聴き手の心にも、あらゆる奇蹟を奇蹟のまま、(比喩としてでなく)、何ら
意想外なものを感じずにうけとる能力がなければならない。逆説めくが、天の沼矛は賜物の比喩ではないのである。
現代人にはこの最初の二節を読む能力がなくなつてゐるのかもしれない。
(中略)
日本人の心の歴史で最初の意想外な事件がおこつたのはそのあとだつた。それは奇蹟ではなかつた。奇蹟なら
すでに意想外ではない。何かまちがひらしく見えるものだつた。ともすれば妖神のいたづららしく思はれるもの
だつた。しかし妖神のいたづらといふやうなものではない。それは人間から来た最初の蹉跌であつたのである。
神の力がすこしもまじつてゐない最初の事件がおこつたのである。人間がはじめてその「あやまち」によつて
神に与つたのである。これを意想外と言はなくて何と言はう。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
421 :
大人の名無しさん:2011/06/09(木) 23:00:19.68 ID:kf6OR6dL
(中略)
人も知るやうに、最初の合歓からは水蛭子といふ不具がうまれた。二神は天上に一旦かへつて天つ神の命をうけ
占ひをする。すると「女が先に言つたのがよくなかつた、又降りて、やりなほせ」と神示がある。二神は再び
天の御柱をめぐりなほし、今度は男神から先に「あなにやしえをとめを」と言つたあとで夫婦の交はりがなされた
ために、次々と健やかな島々神々が生れたのであつた。
少くともこの挿話は神話的にどんな意味があるのだらう。私は学説がそれをどう説いてゐるかしらない。しかし
古事記のどこを見ても、(それをよくなかつたと神示がいふだけで)、このふとしたあやまちが神か魔神かの
しわざであつたとは書いてない。神がそれをとめることができたとも書いてない。神はただ暗に非難めいたものを
人間になげかけるだけである。「やりなほせ」と言ふだけだ。人間のこのあやまちの動機には何もふれてゐない。
まるでそれにふれることを怖れてでもゐるかのやうに。
神の間でもタブウがあつたのかもしれない。人間らしいものの奥底にそのタブウがひそむのを神は見たにちがひない。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
422 :
大人の名無しさん:2011/06/13(月) 21:05:21.90 ID:JBYp38dU
(中略)最初の言葉は上気した花嫁の古代の桃のやうな唇からさきに洩れた。「あなにやしえをとこを」と。
――何故こんなことになつたのだらう。何故こんなありうべからざることが起つたのだらう。(とにかく
「ありうべからざること」に人間性の最初のあらはれが見られたといふこの神話は甚だ象徴的で且つ皮肉である)
――天つ神たちは一方ならず動揺したにちがひない。信仰といふものがあつたとすれば、その信仰が深い地鳴りを
伴つてゆれ出すのを感じたにちがひない。しかし彼らがおぼえたのは愕きや憤りばかりではけつしてなかつた。
彼らは畏怖を感じた。人間が人間のままで神に与つたこのへんな瞬間に対する故しれぬ畏怖を。人間がこれからも
永遠にこんな妙な方法で瞬時に神に与つてしまふことをくりかへすであらうといふ畏怖を。――それは天つ神たちに
むずかゆいやうな痛みを与へたであらう。彼らはこの得体のしれぬ胸の痛みをもてあましたであらう。人間が
繁殖しつづけるかぎり神の胸からとり去られることのないこの痛みを。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
423 :
大人の名無しさん:2011/06/13(月) 21:05:53.70 ID:JBYp38dU
神はいくたびか、おそらくは数千回・数万回も、このそこはかとない痛みの復活に出会はねばならなかつた。
地上で相聞の交はされるたびごとに出会はねばならなかつた。
その最初の機会であつたところの「人間から来た最初の蹉跌」に、日本の詩歌のひめやかな源流を見ることは
不当だらうか。相聞歌の発祥を見ることはあやまりだらうか。「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」
といふ至上の呼び交はしが、偶々人間から来た最初のあやまちであつたといふこの神話ほど、相聞の世界の妙諦に
触れ、その世界の豊饒と溢美を暗示し、その世界の悲劇を隈なく物語つてゐるものがあるだらうか。数千年に
わたつて相聞歌が人々の心にもたらした不安・をののき・よろこび・悲哀・苦悩のことごとくは、この一瞬の
不吉で美しい呼び交はしから流れて来てゐはしないだらうか。
相聞歌は永久に同じモチーフのくりかへしである。鶯が鶯をよぶのである。夜の薔薇のしげみのなかで、一ト声
愛らしく、二羽の小鳥がよびかはすのである。この最初の発声が過ちであつたとは、何といふ例へやうのない
美しさだらう。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
424 :
大人の名無しさん:2011/06/17(金) 13:01:18.77 ID:bC771rok
いざなみの命・日本の最初の花嫁は、倫理も思想も悲哀さへも知らなかつた。彼女はただ神のまにまに自在に
行動しうる筈であつた。さういふ少女の口からほとばしつた意想外な喜びの呼び声が、天地の秩序をかへるほどの
力をもつてゐたことは想像にかたくない。神話によれば、花婿にはいくらか思想に似たものがあつたやうに
記されてゐる。事後になつて、「女人を言先だちてふさはず」と愚痴をこぼしたのは、花婿のはうであつたから
である。しかしその花婿にしてからが、「あなにやしえをとこを」といふ呼び声に接したとき、一語もさし
はさまずに、「あなにやしえをとめを」と即座に呼びかへした。この呼び交はしは一つの言葉のやうであつた。
片々でとぎれることはできなかつた。第一の言葉がをはるかをはらぬかに、谺よりもはやく、第二の言葉が
つづけられたのである。丁度西洋中世の古拙な絵画中の人物が口からその発した言葉のしるされてゐる白い帯を
放射してゐるやうに、二人はたちまち二人のあひだの空間に、左右から迫持になつた美しい言葉の穹窿を築いた。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
425 :
大人の名無しさん:2011/06/17(金) 13:01:51.45 ID:bC771rok
その刹那から、言葉はもはや二人だけのものではなく、世界のものとなつた。その時から二人は言葉を失つて、
ただ顔を見合はせてゐるほかはなかつたのだ。なるほど花嫁の目にうつつてゐる花婿は、ただ一人のますらを、
ただ一人の美しい男性であり、花婿が目のあたり見てゐる新妻は、この世にただ一人の美しい女性であつたであらう。
しかし無残にも、二人は人間の真率な歌ひ交はしをはじめたあとでは、もはや天上の曇りない至福の生活から
別れねばならなかつた。あたかもその証しのやうに、二人の合歓のゆくてには、人間の最初の非運、「不具の子を
生むこと」が待ちかまへてゐたのである。その後の歴史にかずしれずくりかへされた相聞歌のやりとりで、これに
似なかつたものが一つでもあつたらうか。この人間に作りうるもつともうつくしいものである魂の呼びあふ歌が、
うたはれると同時に失はれるのを人々は見なかつたらうか。
三島由紀夫「相聞歌の源流」より
426 :
大人の名無しさん:2011/06/17(金) 13:02:29.47 ID:bC771rok
人間同志、愛する者同志がこんなにはげしく呼び合つてはならないらしい。そんな風にして呼び合ふのは何か
不吉なことにちがひない。神の胸にそれほどしげしげと痛みを与へてはならなかつた。この美しい最初のあやまちに
人間は人間最初の「不具の児」を賭けさせられたが、それ以後、相聞歌のために払はれた多くの精神のいけにへは
ますます数をましますます人の肩に重くのしかかつた。人は相聞のためにおそろしい代価を払はねばならなかつた。
ある限りの不幸を予知せねばならなかつた。この単純な使ひ古されたモチーフを歌ひ交はす、唯その事のために。
相聞歌は人間が突端に立つときのもつともはげしい危機の歌となつたのである。そのあとでかならず二人は
言葉を失ひ顔見合はせ、二人の最美の刹那が二人の顔のうへにもえつき、一握の黒い灰を残して消え去るのを
見たのである。それでもなほこりずまに、男女は呼び合はねばならなかつた。
三島由紀夫23歳「相聞歌の源流」より
427 :
大人の名無しさん:2011/06/17(金) 13:45:06.91 ID:4OZdPl66
三島由紀夫なら「坊ちゃん」がいいな
428 :
大人の名無しさん:2011/06/25(土) 19:27:44.58 ID:9DmKCR0l
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の生きてゐる時代を
「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。その呼びかけは、時代の理想主義的な思想と対蹠的な
ものとなるところの、いはば「もう一つの・暗黒の理想主義」から発せられる叫びである。あらゆる改革者には
深い絶望がつきまとふ。しかし改革者は絶望を言はないのである。絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な
力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の根絶に向けられてゐるからである。一方、暗黒の理想主義から
発せられる「悪時代」といふ呼びかけも絶望をいはない。絶望はおそらく自明の理、当然の前提で、いふに値ひ
しないからである。この一点で両者は、第三者には理解しえないフリー・メイソン的な親密な目くばせをする。
より良き時代を用意するための準備段階として、現代は理想主義者にとつては完全な悪時代ではありえない。
何らかの意味で上昇しつゝある段階である。しかしかういふ可能性において一時代を見てゐる人間は、その時代を
全的に生きてゐるとはいへない。
三島由紀夫「美しき時代」より
429 :
大人の名無しさん:2011/06/25(土) 19:28:18.91 ID:9DmKCR0l
是認は非歴史的な見地で行はれる。この種の是認が一種の生の放棄を意味することは見易い道理である。また一方、
現代を悪時代と規定する人間は、否定を通しての生き方においてもなほ、その時代を全的に生きてゐるとはいへない。
なぜならこの否定は、「悪時代」と呼びかける根拠それ自身を否定することはなく、当然の前提である絶望は、
その実決して否定によつて現実的なものにまで持ち来されないからである。ここにもまた放棄がありそれは
前者の放棄と同種のものである。
この間にあつて、「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようと
する欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。
なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く
必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によつて現代が必然化されてをり、いひかへれば、
絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。
三島由紀夫「美しき時代」より
430 :
大人の名無しさん:2011/06/25(土) 19:28:51.42 ID:9DmKCR0l
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通して、生の一面である。決定論的な
前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
終戦後の思想界のおほよその傾向は、以上の三つに分類されるやうである。理想主義はヒューマニズムの立場であり、
絶望主義はその偶然性によつてヒューマニズムを乗り越えようとする立場であり、あとに残る一つのものは
純然たる反ヒューマニズムの立場である。第一のものが宗教的傾向との間に次第に協調をみせ、第二のものが
「生の哲学」に由来してゐることはとうに興味を惹く事実である。第三のものはまだ確乎たる立場を持つてゐるとは
いへない。私は現在の最も若い青年層の間にある漠たる虚無的な傾向といはれるものをこれに包括したのである。
私自身の思考も最もこれに隣接してゐるにちがひない。
三島由紀夫「美しき時代」より
431 :
大人の名無しさん:2011/06/25(土) 19:29:25.86 ID:9DmKCR0l
それは理想主義がさうであるやうな意味において、すなはち生の放棄といふ意味において、虚無的であるにすぎない。
この暗黒の理想主義は、一定の理想像を信ぜぬほどに純粋なのである。しかも彼は懐疑に逃避するでもない。
懐疑の偶発的な構造が、彼の置かれた環境の偶発性に溶解されてしまふ懐疑がないために、普通いはれる意味での
信仰もありえない。すこぶる日常的な、生理的ですらある絶望が彼を支配し、彼の偶発的な環境が、彼の生を
運命化するのである。今自ら生きつつある時代を「悪時代」と呼ぶこと、それは彼のうちの何ものをもジャスティファイするわけではない。
彼には現代が良くなりつつある時代であるといふ理念的な確信に生きることができず、さりとて当然の前提である
絶望を偶然化してそれによつて没理想的に生きようとすることもできないので、彼は自己の生のただ一つの
確証として「悪い時代だ」と呟きを洩らすのである。
三島由紀夫23歳「美しき時代」より
432 :
大人の名無しさん:2011/07/04(月) 10:31:50.06 ID:QlOQHmeR
新しい人間と新しい倫理とは別のものではないのである。倫理とは彼の翼にすぎぬ。倫理とは彼の生きる方法だ。
方法なしに生きる場合に無倫理と云はれる。しかし厳密な意味での無倫理といふものはない。生そのものが内在的に
一つの方法を負うてゐるからだ。生きようとする時、彼の智慧は既に生きる方法を知つてゐるからである。しかし
単なる「生きようとする意志」――これだけはどうにもならぬ。方法喪失症が意志の美名でよばれてゐる。
これこそ無倫理だ。そして生の擬態にすぎぬそれが、今でも生そのものと間違へられてゐる。
*
新しい人間と倫理の模索は、或る「原型」の模索を意味してゐるらしい。ゲエテにおいては、それは宇宙の内在
といふやうな原型の模索であつた。それは自我を小宇宙(ミクロコスモス)とする欲求だつた。日本の中世に
おいては、彼の芸術のひろがりに直に接する地点として、もつとも星空に近い場所が、隠者の草庵が選ばれた。
作家が企業家を兼業しようと、大学教授を兼ねようと、この事情にはかはりはない。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
433 :
大人の名無しさん:2011/07/04(月) 10:32:32.16 ID:QlOQHmeR
作家がとりうる「新しい道」といふものはなく、彼がなりうる「新しい人間」といふものはない。彼が意図するのは
原型だけだ。原型の模索が芸術家にとつての凡てである。原型の能ふかぎり正確な能ふかぎり忠実な再現、
それが彼のもつ倫理の新しさに他ならぬ。
「新しい人間と新しい倫理」は芸術作品の中にしかありえないのである。しかも作品の中にあらはれた新しい
人間像は、きはめて正確な程度にまで到達された作者の原型の模写に他ならず、各人各様のその到達の方法は、
人間の歴史と共に古いのである。
原型とは芸術家のもつとも非芸術的な欲求の象徴と言つてよいかもしれぬ。原型における芸術家は完全な意味での
「被造物」に化身する。そこには、古代の壁面や紙草に書かれた稚拙な絵画が、その芸術的衝動の源泉を、
「死」に見出だしたのと相似た消息が見られるのである。あらゆる創らうとする欲求の根底の力が、創らうと
する欲求と反対の力なのである。いかなる鋳像も鋳型を求めるのだ。それなしには彼の再生と繁殖はありえず、
しかもそれとの合一の瞬間に彼の存在も亦失はれるところのあの鋳型を。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
434 :
大人の名無しさん:2011/07/04(月) 10:36:40.98 ID:QlOQHmeR
*
単に金儲けの目的で文学をはじめようとする青年たちがゐる。これは全く新しい型だ。君たちの動機の純粋を
私は嘉する。「金のため」――ああ何といふ美しい金科玉条、何といふ見事な大義名分だ。私たちの動機は
それほど純粋ではない。もつと気恥かしい、口に出すのも面伏せな欲求がこんがらかつて私たちを文学へ駆り
立てた。だが私たちだけに言へる種類の皮肉もあるのである。
「金のためだつて! そんな美しい目的のためには文学なんて勿体ない。私たちは原稿の代償として金を受取るとき、
いつも不当な好遇と敬意とを居心地わるく感じなければならないのです。蹴飛ばされる覚悟でゐたのがやさしく
撫でられた狂犬のやうにして」
*
こいつをうまく両手に捌かうといふ人たちがゐる。一方で出版業その他、一方で芸術。――これも一つの新しい型だ。
しかしその時彼の生活の投影する場所がなくなつてしまふ。両方から等分の照明で照らされた板のやうに。
そこで彼の二重性はその架空の(影なき)二重性のなかで(中略)彼にあの「原型」への意慾(非芸術的な意慾)が
失はれる。彼は「芸術愛好家」になる。
三島由紀夫「反時代的な芸術家」より
435 :
大人の名無しさん:2011/07/10(日) 23:10:45.12 ID:5oWZ39Jj
若い世代は、代々、その特有な時代病を看板にして次々と登場して来たのであつた。彼らは一生のうちには必ず
癒つて行つた。(と言つても、カルシウムの摂取で病竃を固めてしまつただけのことだが)しかしここに不治の病を
持つた一世代が登場したとしたら、事態はおそらく今までの繰り返しではすまないだらう。その不治の病の名は
「健康」と言ふのであつた。
(中略)
われわれの世代を「傷ついた世代」と呼ぶことは誤りである。虚無のどす黒い膿をしたたらす傷口が精神の上に
与へられるためには、もうすこし退屈な時代に生きなければならない。退屈がなければ、心の傷痍は存在しない。
戦争は決して私たちに精神の傷を与へはしなかつた。
のみならず私たちの皮膚を強靭にした。面の皮もだが、おしなべて私たちの皮膚だけを強靭にした。傷つかぬ魂が
強靭な皮膚に包まれてゐるのである。不死身に似てゐる。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
436 :
大人の名無しさん:2011/07/10(日) 23:11:35.49 ID:5oWZ39Jj
(中略)
「芸術」といふあの気恥かしい言葉を、とりわけ作家・批評家にとつてはタブウであるらしいあの言葉を、
臆面もなくしやあしやあと素面で口にするといふ芸当は、われわれ面の皮の厚い世代が草始することになるだらう。
作家は含羞から、批評家は世故から、芸術だの芸術家だのといふ言葉をたやすく口にしなかつた。彼らは素朴な
観念といふものが人を裸かにすることを怖れるあまり、却つてその裏を掻いて、素朴な観念ほど人間の本然の
裸身を偽るものはないといふ教説を流布させた。
「芸術」とは人類がその具象化された精神活動に、それに用ひられた「手」を記念するために与へた最も素朴な
観念である。しかしこの言葉はタブウになると、それは「生」とか「生活」とか「社会」とか「思想」とかいふ
さまざまな言替の言葉で代置された。これらの言葉で人は裸かになりえたか。なりえない。何故なら彼等は
これらの言葉が、この場合、代置としてのみ意味を持たらしめてゐることに気附いてゐないのだから。それに
気附きつつそれに依つた真の選ばれた個性は、日本ではわづかに二三を数へるのみである。
三島由紀夫「重症者の兇器」より
437 :
大人の名無しさん:2011/07/10(日) 23:12:08.45 ID:5oWZ39Jj
私はそのやうな選ばれた人々のみが歩みうる道に自分がふさはしいとする自信をもたない。だから傷つかない魂と
強靭な皮膚の力を借りて、「芸術」といふこの素朴な観念を信じ、それをいはゆる「生活」よりも一段と高所に置く。
だからまた、芸術とは私にとつて私の自我の他者である。私は人の噂をするやうに芸術の名を呼ぶ。それといふのも、
人が自分を語らうとして嘘の泥沼に踏込んでゆき、人の噂や悪口をいふはづみに却つて赤裸々な自己を露呈する
ことのあるあの精神の逆作用を逆用して、自我を語らんがために他者としての芸術の名を呼びつづけるのだ。
これは、西洋中世のお伽噺で、魔法使を射殺するには彼自身の姿を狙つては甲斐なく、彼より二三歩離れた林檎の
樹を狙ふとき必ず彼の体に矢を射込むことができるといふ秘伝の模倣でもあるのである。――端的に言へば、
私はかう考へる。(きはめて素朴に考へたい)生活よりも高次なものとして考へられた文学のみが、生活の真の
意味を明かにしてくれるのだ、と。
三島由紀夫23歳「重症者の兇器」より
438 :
大人の名無しさん:2011/07/17(日) 23:54:16.19 ID:lQA7HlBb
人間は結局、前以て自分を選ぶものだ。(中略)批評といふものが本質的に自己を選択する能力だと考へると、
批評こそ創造だと言ひ出したワイルドは、彼自身の運命を創造した人間のやうに思はれる。
逆説はその場のがれにこそなれ、本当の言ひのがれにはなりえない。逆説家は逆説で自分を追ひつめ、どどの
つまりは自分自身から言ひのがれの権利をのこらず剥奪してしまふのである。逆説家がしばしばいちばん誠実な
人間であるのはこのためだ。逆説家がいちばん神に触れやすいのもこの地点だ。神は人間の最後の言ひのがれであり、
逆説とは、もしかすると神への捷径だ。(中略)
さまざまな論者がワイルドの逆説のいづれかに引つかかつてゐる。ジイドでさへが。
大作家ではない、併し大生活家だ。
ジイドはワイルドの回想の主題をここに置いたが、その根拠は、ワイルド自身の苦々しい自己弁護にみちた逆説、
「私は自分の天才のすべてを生活に注いだが、作品には自分の才能しか用ひなかつた」といふ逆説に係つてゐる。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
439 :
大人の名無しさん:2011/07/17(日) 23:54:48.92 ID:lQA7HlBb
天才(ジェニー)。才能(タラン)。誰がそれを分割することができよう。ジイドは勿論そのことをよく知つてゐた。
そこでワイルドが用法の錯誤と言ひくるめるこの二つの薬品を、ジイドは本質の錯誤と考へて分類した。ジイドは
正直にワイルドの作品に才能をしか見なかつた。しかし私は思ふのだが、ワイルドの悲劇は、この逆説のうちなる
逆説の誠実さにあるのではなからうか。分割したとたんにそのいづれでもなくなるやうな精妙な化合物を、
切れ味みごとに分割しようとして果さなかつた悲劇が。
才能とは決して不完全な天才のことではない。才能と天才は別の元素だ。それにもかかはらず、われわれは
ワイルドの作品のいたるところに不完全な天才を見出だすのである。いはば「ドリアン・グレイの画像」は才能の
足跡で踏みくたされた泥濘だ。しかしその足跡のなかの一対が、天使の足跡でないと誰が言へよう。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
440 :
大人の名無しさん:2011/08/03(水) 10:08:47.40 ID:vl/gdmf3
(中略)
苦痛は一種のドラマである。人がその欲しないものへ赴くためには、丁度子供が歯医者へゆく御褒美に菓子を
せびるやうに、虚栄心をせびらずにはゐられない。虚栄心はこのドラマの舞台であつて、ワイルドにとつては、
彼の道徳の苗床でもあつたやうに思はれる。
つくづく思ふのだが、ワイルドは悲劇役者として上の部でななかつた。生活の信条としての彼の悲劇への志向は、
浪漫主義詩人のボヘミアン・ライフの卵の殻を背負つてゐた。悲劇の節度も礼譲も、悲劇をして壮麗ならしめる
抑制の苦悩もなかつた。をかしなことだ。彼は数ある苦痛のうち、「抑制の苦痛」だけを知らなかつたのである。
牢獄がはじめて外部からそれを彼に教へた。
「彼の耽美主義はなにか痙攣のやうなものであつた」とホフマンスタールが書いてゐる。ホフマンスタールは
ワイルドの悲壮な戦慄を、現実の復讐を挑戦しつづける男の現実からうける脅威と見てゐる。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
441 :
大人の名無しさん:2011/08/03(水) 10:09:17.99 ID:vl/gdmf3
(中略)
オスカア・ワイルドはまづもつて卑俗(と謂つてもよからう)な成功の毒に中(あた)つた。それが彼をして
半ばは虚栄心、半ばは持ち前の真摯誠実から、(この二つは彼にとつては同じものだ)、すすんで嫌はれ者の
光栄に憧れさせた。社会はある男を葬り去らうとまで激昂する瞬間に、もつともその男を愛してゐるもので、
これは嫉妬ぶかい女と社会とがよく似てゐる点である。軽業師は観客の興味を要求することに飽き、つひには
恐怖を要求することに苦心を重ねて、死とすれすれな場所に身を挺する。彼が死ぬ。それはもはや椿事だ。
綱渡り師の墜死は、芸当から単なる事件への、おそろしい失墜である。イギリス社会にはとりわけイギリス特産の、
醜聞といふ「死」の一つの様式があつたので、綱渡り師がこの危険に誘惑を感じない筈はないのであつた。
ボオドレエルがカソリシズムの苦悩の教義に照らして眺めた「醜の美」を、すでに人々は何らの痛痒を感ぜずに
炉辺で享楽しはじめてゐたために、人々に嫌はれるためには、むしろ身自ら癩病に罹患する必要があつた。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
442 :
大人の名無しさん:2011/08/13(土) 09:30:25.52 ID:jvXAL9vz
(中略)
生活とは決して独創的でありえない何ものかだ。ホフマンスタールの忠告にもかかはらず、しかし運命のみが
独創的でありうる。キリストが独創的だつたのは、彼の生活のためではなく、磔刑といふ運命のためだ。もうひとつ
立入つた言ひ方をすると、生活に独創的な外見を与へるのは運命といふものの排列の独創性にすぎない。
(中略)
虚栄心を軽蔑してはならない。世の中には壮烈きはまる虚栄心もあるのである。ワイルドの虚栄心は、受難劇の
民衆が、血が流れるまで胸を叩きつづけるあの受苦の虚栄に似てゐたやうに思はれる。何故さうするか。それが
その男にとつての、ともかく最高度と考へられる表現だからである。ワイルドが彼の詩に、彼の戯曲に、彼の
小説に選択する言葉は、かうした最高度の虚栄であつた。人間の心が通じ合ふための唯一の言葉である音楽を、
師ウォルタア・ペイタアにならつて、芸術の形式上の典型と呼んだワイルドは、また芸術の感情上の典型を俳優に
見出だした。
三島由紀夫「オスカア・ワイルド論」より
443 :
大人の名無しさん:2011/08/13(土) 09:31:11.41 ID:jvXAL9vz
音楽は詐術ではない。しかし俳優は最高の詐術であり、アーティフィシャルなものの最上である。それは人間の
言葉である台詞が無上の信頼の友を見出だす分野である。
文学者の簡明な定義を私は考へるのだが、それは人間の言葉が絶対に通じ合はぬといふ確信をもちながら、
しかも人間の言葉に一生を託する人種である。この脆弱な観念を信じなければならぬ以上、文学者は懐疑主義者に
なりきれない天分をもつてゐる。
(中略)
ワイルドはその逆説によつて近代をとびこえて中世の悲哀に達した。イロニカルな作家はバネをもつてゐる人形の
やうに、あの世紀末の近代から跳躍することができた。彼は十九世紀と二十世紀の二つの扇をつなぐ要の年に
世を去つた。彼は今も異邦人だ。だから今も新しい。ただワイルドの悪ふざけは一向気にならないのに、彼の
生まじめは、もう律儀でなくなつた世界からうるさがられる。誰ももう生まじめなワイルドは相手にすまい。
あんなに自分にこだはりすぎた男の生涯を見物する暇がもう世界にはない。
三島由紀夫25歳「オスカア・ワイルド論」より
444 :
大人の名無しさん:2011/08/17(水) 23:52:53.69 ID:rz8xGvcY
僕はどこにゐてもその場に相応しくない人間であるやうに思はれる。どこへ出掛けても僕といふ人間が、あるべきで
ない処にゐる存在のやうに思はれる。(中略)これは驕つた嘆きといふものだらうか。かういふ嘆きに低迷して
ゐるのは、僕の心構へが甘いからだらうか。真の芸術家は招かれざる客の嘆きを繰り返すべきではあるまい。
彼はむしろ自ら客を招くべきであらう。自分の立脚点をわきまへ、そこに立つて主人役たるべきであらう。
とはいへ、この居心地のわるさが多くの場合僕の作品の生れる契機となつてゐる。僕は偶々口に入つた異物に
対する不快よりも先に、口に入れられた異物自身の不快を知つてゐる。このことは却つて、ある時代に生きる
人々の不幸を知るより先に、ある時代それ自身の持つ不幸を直感せしめる捷径である。少くとも僕はさう信じたい。
――僕を招かれざる客として遇する時間と場所の更に奥・更に彼方に存するものと僕は不幸を頒ち合ひ、頒ち
合ふことによつて親近感を得ようと欲しもする。
平岡公威(三島由紀夫)「招かれざる客」より
445 :
大人の名無しさん:2011/08/17(水) 23:54:41.78 ID:rz8xGvcY
今我々がそれと対決を迫られてゐる戦後の茫々たる無秩序は、我々の好悪・理論・道徳的信念のよく左右しうる
ところではない。解釈は可能であり、依然として解決は不可能である。たゞ僕は招かれざる客としてかう直感する
自由をもつてゐる。「無秩序自身にとつて無秩序は不幸であるに相違ない」と。僕は時代が自身に不幸を
課したのだと思ふ。
そしてまた人間がこの期に及んでも抱いて離さないナルチスムスの凄惨さを考へる。人間は己が病毒を指摘される
ことによつても容易に己惚れる。この弱味につけこむ者が喝采を博するのは当然なことである。人間を人間から
放逐すること以外に、よき治療法は残されてゐないのではないかとさへ思はれる。それといふのも僕は戦争時代に
人間が人間を見失つたとは考へてゐないからだ。戦争時代には人は今よりももつと切なく、人間といふ最愛の者の
消息にひたすら耳を澄ましてゐたと知つてゐるからだ。
平岡公威(三島由紀夫)「招かれざる客」より
446 :
大人の名無しさん:2011/08/18(木) 00:32:59.24 ID:fuxw2VuO
然しナルチスムスの昂進は、地上に嘗てないほど孤独が繁殖してゆくのと正比例するやうである。ナルチスムスの
考察は孤独の考察に帰着するやうである。そのためにも僕は招かれざる客の冷め果てた目が自分に備はつてくるまで
待ちたいと念(ねが)ふ。その目を養ひ育てることが当為ではなくて義務だと感ずる。僕はその時人間関係を
フラスコの中、真空状態の中にとぢこめてみたい。心理の化学変化をしらべ、元素の周期律表のやうな、心理の
様式化と象徴化を完成したい。人間を一旦孤独といふ元素に還元し、いかに複雑微妙な結合を示す時も、その
元素の姿を見失はぬやうにしたい。かうして抽象化された熱情が、熱情本来の属性を悉く備へながら、たとへば
乾板の上に定着された焔の一瞬の姿のやうな、もはや身動きならぬ形をとるのが見たい。定着は、いひかへれば
表現は、瞬時の出来事であるべきである。何ものもとらへぬ瞬間と凡てをとらへる瞬間とは、同一の瞬間である筈だ。
物そのものでもなく固化した標本でもない生(芸術の対象としての)は、かうしてとらへられる他はない。
平岡公威(三島由紀夫)「招かれざる客」より
447 :
大人の名無しさん:2011/08/18(木) 00:33:51.22 ID:fuxw2VuO
(中略)(僕が好んで戯曲を読むのも)人間の孤独と、対話の絶望的な不可能とをあれほど直截に感じさせる型式は
ないからである。言葉による表現といふ行為もかくて一の戯曲的行為に他ならないとすれば文学は戯曲にその
一つの典型を見出すことができる。偉大なる戯曲がさうであるやうに、偉大な文学も亦、独白に他ならぬ。
ゲエテが「諸々の山頂に、安息ぞ在る」といふあの詩句をキッケルハーンの頂に書きしるした時、彼は独白者の
運命を予覚したのであつたらう。
しかしいかに孤独が深くとも、表現の力は自分の作品ひいては自分の存在が何ものかに叶つてゐると信ずることから
生れて来る。自由そのものの使命感である。では僕の使命は何か。僕を強ひて死にまで引摺つてゆくものが
それだとしか僕には言へない。そのものに対して僕がつねに無力でありただそれを待つことが出来るだけだとすれば、
その待つこと、その心設(こころまう)け自体が僕の使命だと言ふ外はあるまい。僕の使命は用意することである。
平岡公威(三島由紀夫)22歳「招かれざる客」より
448 :
大人の名無しさん:2011/09/02(金) 18:21:08.66 ID:JjiWXsQ+
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。
技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。
三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より
449 :
大人の名無しさん:2011/09/02(金) 18:22:08.42 ID:JjiWXsQ+
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。
三島由紀夫27歳「遠視眼の旅人 大衆の触角」より
450 :
大人の名無しさん:2011/09/09(金) 11:23:11.45 ID:eLy0oJIn
オルテガの史観は、所与の事実をそのまま歴史とはみとめない。(中略)
これは結局、キリスト教徒の歴史観のうちにあらはれた世代の観念である。世代を媒体にして、歴史的事実が
形成されるといふ世代論である。
私たちは歴史といふものを、必ずしもさういふ風に考へてゐない。太平洋戦争は、ともかく事件であつた。
その全部がこのやうな唯心論的史観で説明されようとは思はれぬ。あの戦争の核心には、われわれのうけとり方が
どうあらうと不変の、何かカチンとした、とてつもない「物」があつた。その「物」がわれわれの頭にのしかかつてゐた。
その物は不感で、こちらをまで、不感にしてしまつてゐた。
(中略)
今の三十代は、特攻隊のもつとも多く出た世代であるが、特攻隊の歴史感覚と、オルテガ流の「理念のなかに
おける再体験の試み」といふ歴史感覚ほど、相隔たること遠いものはない。
私には、今も、戦争体験はオルテガ流に甦つては来ない。特攻隊は歴史の中に突入し、埋もれた。われわれは
偶然生き残つて、歴史の外に取り残された。私は歴史の外にある自分の存在理由をたづねて、今日に及んだのである。
三島由紀夫31歳「歴史の外に自分をたづねて――三十代の処生」より
451 :
大人の名無しさん:2011/09/16(金) 23:13:23.77 ID:0TcN9mUe
デボラ・カーといふ女優は、つくづく良い女優だ。この映画では映画で役者の芸をゆつくり詳細に見てゐる余裕を
味はつて、デュヴィヴィエのやうに監督一人えらがつてゐるやうな作品とちがつて、こつちのはうがよほど
人間的だと思つた。私は「映画的だからよい」といふ映画批評家の常套句が一向呑み込めず、とにかく人間が
寄つてたかつて作る映画が人間くさくなくてはおかしいと思ふはうである。
三島由紀夫「『情事の終り』」より
私立探偵の息子役の子供に、ほとんど一語も喋らせてゐないのは賢明だ。子役の喋る映画が私は大きらひだ。
子役には決して喋らせてはならない、といふ私の持論が証明されて愉快である。
三島由紀夫「『情事の終り』10の指摘」より
452 :
大人の名無しさん:2011/10/01(土) 12:19:46.38 ID:vkFpnoU1
試写会の雰囲気といふものはあまり好きでない。ふだんはちつとも笑はないくせに、オリジナル版だつたりすると、
わざと面白さうに笑つたりする。皆より早く見られるのと、必ず坐つてみられるのと、この二つが試写会の利点で、
入場料を倹約したやうな気にはなれない。芝居だつてさうで、入場料を自分で払つてみれば、つまらない芝居も
面白く見られるものである。
三島由紀夫「私の洋画経歴」より
453 :
大人の名無しさん:2011/10/11(火) 14:54:49.18 ID:X84+pbSf
映画も芸術の一種と仮定すると、人間の芸術的感受性が、映画のおかげで低下するといふものでもないので、
むしろこのごろの若い人は、われわれが少年時代に、小説の耽溺に際して働らかせた分量の感受性を、映画に
向けてゐるとも云へるのであるから、十代のお客だつて、たとひ小学生のお客だつて、ジャリなどと呼んで甘く
見るべきではない。このあひだ「恋人たち」のカットに積極的に賛成したといはれる某映画批評家などより、
かういふジャリのはうが、よつぽどコンモン・センスに富んでゐる筈だ。
三島由紀夫「映画見るべからず」より
454 :
大人の名無しさん:2011/10/27(木) 22:18:47.17 ID:hi5TQLVc
。
455 :
大人の名無しさん:2011/11/02(水) 11:41:25.51 ID:nwam9j6R
少年の最初の時期は、異性愛的なものと同性愛的なものが、非常に混在してをります。
私にもごたぶんに漏れず赤紙が来ましたが、即日帰郷になつて帰つて以来、ぱつたり忘れたやうに、もう二度と
来ませんでした。(中略)それはいつまで待つても来ない恋文のやうなもので、しかしいつ訪れるかわからないの
でした。来るのをおそれながら、みな何となくその赤紙を待つような気持ちにもなつてゐました。
窓外の雨にぬれた田園の景色をながめながら、何もかも見をさめだといふ気がしてゐました。あんな不思議な感情は、
今の若い人は知るまいと思ひます。もう負けるにきまつてゐるこの戦争は、おそらく日本国民の全滅をもつて
終るだらうし、目の前にあるものは惨たんたる破局だけ、要するに死だけでありました。ですから何を見るにも
見をさめといふ気がしたし、ある楽しみを味はつても、それは最後の味だと思ふのでした。ですから感覚は
生き生きとし、つまらない事物にも、それを見ることに喜びを感じ、ちやうど雨季に入りかけた木々の緑の
したたりも、実に新鮮に目に映るのでした。
三島由紀夫「わが思春期」より
456 :
大人の名無しさん:2011/11/02(水) 11:43:13.31 ID:nwam9j6R
童心を失つた人とは、自分の思春期までの人生を、ただ子供のばかばかしい無経験なことと考へて、それを
すつかり捨て去り、おとなの散文的な、世俗的な、実は一段とつまらない人生の方にばかり目を向けてゐる人の
ことを言ふのです。
ある年齢の表現は、一見どんな自堕落な行動と見えるものの中でも、その年齢の特有の羞恥心、純情、かはいらしい
無垢な態度、さういふものをひそめてゐるものです。十八歳で六十歳の老人になることはどんなことをしても
できないのです。
その年齢の真実といふものが、人生の最も美しいみのりなのです。みのりは七十歳、八十歳になつてだけできて
くるものではありません。十七歳には十七歳のみのりがあり、十八歳にも十八歳のみのりがあります。
性や愛に関する事柄は、結局百万巻の書物によるよりも、一人の人間から学ぶことが多いのです。われわれの
異性に関する知識は異性のことを書いたたくさんの書物や映画よりも、たつた一人の異性から学ぶことが多いのです。
三島由紀夫「わが思春期」より
457 :
大人の名無しさん:2011/11/08(火) 04:14:00.40 ID:3cVp1eat
458 :
大人の名無しさん:2011/11/09(水) 08:31:49.34 ID:NHORpLmh
いいだももにいつも負けていた三島由紀夫
459 :
大人の名無しさん:2011/11/09(水) 18:52:31.08 ID:PPEpqaBb
昨日日本酒飲みながら金閣寺読んだ
460 :
大人の名無しさん:2011/11/21(月) 15:31:28.40 ID:tQi/qbYD
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは後退的であると思ひ込んで
ゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。又、進歩主義者の民族主義が、目前の
政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この
民族主義は東南アジアでは怖るべき力になる。
多くのアジア後進諸国は、未開拓の豊富な天然資源をもち、将来国内市場が拡張されれば、日本のやうな高度に
海外市場に依存した危険な経済に進まずともよい利点がある。或る国は経済の多角化に成功し、或る国は単一生産に
とどまりながらも、相互の経済協力が必須のものとなつて来てゐるのである。
資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、必ず政策の成功があり、
政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。
三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より
461 :
大人の名無しさん:2011/11/27(日) 23:31:57.90 ID:4j+d1a2E
ちやうど舞台の夜空に描きこまれたキラキラする金絵具の星のやうな、安つぽいロマンスこそ女の心を永久に
惹きつけるものだ。
三島由紀夫「『からっ風野郎』の情婦論」より
462 :
大人の名無しさん:2011/11/27(日) 23:35:34.97 ID:4j+d1a2E
ある点から見れば、歌舞伎役者は貞淑な日本の妻達に似てゐる。彼女らは夫の専横なしつけに対して従順を装ひ、
忍従の美徳を衒つてゐながら、とどのつまりは何事も彼女等の望む通りの結果を得るのである。彼等歌舞伎役者も
また然り。そのやうにして彼等は伝統の芸術にたゆみない生命を与へ、彼等によつてのみそれは生き続け、
成長し続ける。
三島由紀夫「『俳優即演出家の演劇』としての歌舞伎」より
どんな芸術でも、根本には危機の意識があることは疑ひを容れまい。原始芸術にはこの危機が、自然に対する
畏怖の形でなまなましく現はれてゐたり、あるひはその反対に、自然を呪伏するための極端な様式化になつて
現はれてゐたりする。
三島由紀夫「危機の舞踊」より
日本の芸能界では、憎まれたら最後、せつかくもつてゐる能力も発揮できなくなるおそれがある。
三島由紀夫「現代女優論――越路吹雪」より
463 :
大人の名無しさん:2011/12/05(月) 22:15:43.88 ID:ZeoQud6k
現代ジャーナリズムが商業的に避(よ)けて通るやうな問題にこそ、最も緊急な現代的問題がひそむ。
三島由紀夫「『侃侃諤諤』を駁す――交友断片」より
464 :
大人の名無しさん:2011/12/05(月) 22:18:15.32 ID:ZeoQud6k
処女作とは、文学と人生の両方にいちばん深く足をつつこんでゐる。だから、それを書いたあとの感想は、
人生的感想によく似て来るのです。
三島由紀夫「『未青年』出版記念会祝辞」より
実業人と文士のちがふところは、実業人は現実に徹しなければならないのだが、小説家はこの世の現実のほかの
もう一つの現実を信じなければならぬといふことにあるのだらう。
そのもう一つの現実をどうやつて作り出すかといふと、その原料になるものは、やはり少年時代の甘美な
「文学へのあこがれ」しかない。その原料自体は、お粗末で無力なものであるが、それを精錬し、鍛へ、徐々に
厚く鞏固に織り成して、はじめはフハフハした靄にすぎぬものから、鉄も及ばぬ強靭な織物を作り出さねば
ならない。「人生は夢で織られてゐる」とシェークスピアも言ふ。その夢の原料は、やはり少年時代に、つまりは
あの汚ない、埃だらけの文芸部室にあつたと思ふのである。
三島由紀夫「夢の原料」より
465 :
大人の名無しさん:2011/12/17(土) 20:11:52.80 ID:ltCx3h6u
決して人に欺されないことを信条にする自尊心は、十重二十重の垣を身のまはりにめぐらす。
目がいつもよく利きすぎて物事に醒めてゐる人の座興や諧謔といふものは、ふつうでは厭味なものだ。
三島由紀夫「友情と考証」より
苦痛は厳密に肉体的なものである。
肉体は知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く、
滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にも
かかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に
行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。
三島由紀夫「石原慎太郎氏の諸作品」より
人間は心の中に深い井戸みたいなものを持つてるでしよ。その井戸の中におりていくには、それ相応の体力が
なきやだめだと思ふ。
三島由紀夫「新劇人の貧弱な体格への警告(NHK『朝の訪問』)」より
466 :
大人の名無しさん:2012/01/04(水) 16:43:42.90 ID:x9mH7HKq
あけおめ
金閣寺と仮面の告白は読んだな
文章をわざと解りにくくしていて、それが高尚だと勘違いしている感があったので敬遠した
まあ俺は間違いなく三島氏よりは頭は悪いけどさ
思想云々を抜きに小説作品、という意味での一番はサド公爵夫人じゃないの?
468 :
大人の名無しさん:2012/01/05(木) 17:26:03.44 ID:yht2fsd5
花ざかりの森や中世に於ける一殺人常習者の遺せる(ryとかは読んだ?
>>468 読んでないっす
実家にあった全集にそんなタイトルあったかな?
武者小路実篤とか志賀直哉とか森鴎外等の日本文学集というのにハマってた時代に感じたことだよー
サド公爵夫人と言ったのは一般の人が目を向けるは、まずそういうインパクトある題名からじゃないのかなぁと思ったから
花と中世、読む機会を探してみるよ
読んだ後にこのスレがまだあれば感想を書いてみたいね^^
471 :
大人の名無しさん:2012/01/30(月) 23:02:19.87 ID:prLeLDD4
足るを知る人間なんか誰一人ゐないのが社会で、それでこそ社会は生成発展するのである。
実際、空虚な目標であれ、目標をめざして努力する過程にしか人間の幸福が存在しないとすれば、よほどぐうたらな
息子でない限り、学校の勉強や入試を通じて、苛酷な生存競争に立ちまじつてゆくことを選ぶにちがひない。
知力に、意志力に、体力が加はれば、どんな分野でも鬼に金棒だが、この三者の調和をとることがいかに困難で
あるかは、父自身がよく味はつてきたことなのだ。
男としての自覚を持つために、肉体的勇気が必要である。これも父自身が永年考へてきたことである。男は
どんな職業についても、根本に膂力の自信を持つてゐなくてはならない。なぜなら世間は知的エリートだけで
動いてゐるのではなく、無知な人間に対して優越性を証明するのは、肉体的な力と勇気だけだからだ。
三島由紀夫「小説家の息子」より
472 :
大人の名無しさん:2012/02/11(土) 16:25:17.20 ID:fgJhYFHC
映像はいつも映画作家の意志に屈服するとは限らぬことは、言葉がいつも小説家の意志に屈服するとは限らぬと
同じである。映像も言葉も、たえず作家を裏切る。
われわれの古典文学では、紅葉(もみぢ)や桜は、血潮や死のメタフォアである。民族の深層意識に深く
しみついたこのメタフォアは、生理的恐怖に美的形式を課する訓練を数百年に亘つてつづけて来たので、歴史の
変遷は、ただこの観念聯合の秤のどちらかに、重みをかけることでバランスを保つてきた。戦争中のやうに
多すぎる血潮や死の時代には、人々の心は紅葉や桜に傾き、伝統的な美的形象で、直接の生理的恐怖を消化した。
今日のやうに泰平の時代には、秤が逆に傾いて、血潮や死自体に、観念的美的形象を与へがちになるのは、
当然なことである。かういふことは近代輸入品のヒューマニズムなどで解決する問題ではない。
三島由紀夫「残酷美について」より
473 :
大人の名無しさん:2012/02/18(土) 22:36:06.10 ID:6fn9+BD/
雅子の涙の豊富なことは、本当に愕くのほかはない。どの瞬間も、同じ水圧、同じ水量を
割ることがないのである。明男は疲れて、目を落して、椅子に立てかけた自分の雨傘の末を見た。
古風なタイルのモザイクの床に、傘の末から黒つぽい雨水が小さな水溜りを作つてゐた。
明男はそれも、雅子の涙のやうな気がした。
彼は突然、勘定書をつかんで立上つた。
一見、大噴柱は、水の作り成した彫塑のやうに、きちんと身じまひを正して、静止して
ゐるかのやうである。しかし目を凝らすと、その柱のなかに、たえず下方から上方へ
馳せ昇つてゆく透明な運動の霊が見える。それは一つの棒状の空間を、下から上へ凄い速度で
順々に充たしてゆき、一瞬毎に、今欠けたものを補つて、たえず同じ充実を保つてゐる。
それは結局天の高みで挫折することがわかつてゐるのだが、こんなにたえまのない挫折を
支へてゐる力の持続は、すばらしい。
三島由紀夫「雨のなかの噴水」より
474 :
大人の名無しさん:2012/02/18(土) 22:37:21.46 ID:6fn9+BD/
人間が或る限度以上に物事を究めようとするときに、つひにはその人間と対象とのあひだに
一種の相互転換が起り、人間は異形に化するのかもしれない。
時代がどうあらうと、社会がどうあらうと、美しい景色を見て美しい歌を作れ、といふ考へを
支へるには、女なら門院のやうな富と権勢、男なら梃でも動かない強い思想、といふものが
必要なのではないだらうか。
人間の醜い慾の争ひをこえてまで顕現する美は、あるひは勝利者の側にはあらはれず、
敗北者や滅びゆく者の側にだけこつそりと姿を現はすのかもしれない。
誰の身の上にも、その人間にふさはしい事件しか起らない。
三島由紀夫「三熊野詣」より
475 :
大人の名無しさん:2012/02/18(土) 22:37:53.39 ID:6fn9+BD/
大体無教育な人間にむかつても、相手に準じて程度を下げた会話をしないといふ私の流儀は、
人から厭味に思はれたことも屡々だが、私は私で自分の流儀の正しさを信じてゐる。
それは却つて相手の胸襟を容易に披かせ、その中に思ひがけない共通の知識を発見させて
喜ばせることもできるのだ。
三島由紀夫「月澹荘綺譚」より
477 :
大人の名無しさん:2012/02/28(火) 08:37:02.96 ID:bZuAkeK3
皆さんは、右翼なんですか?ネトウヨ??三島由紀夫って、右翼ですよね?
「剣」が何気に一番好き
市川雷蔵で映画化もされたよね
479 :
大人の名無しさん:2012/03/14(水) 23:00:17.27 ID:6Kx6dNfI
。
480 :
大人の名無しさん:2012/04/24(火) 09:57:26.43 ID:In1g2pWx
反抗したり、軽蔑したり、時には自己嫌悪にかられたりする、柔かい心、感じ易い心は
みな捨てる。廉恥の心は持ちつづけてゐるべきだが、うぢうぢした羞恥心などはみな捨てる。
「……したい」などといふ心はみな捨てる。その代りに、「……すべきだ」といふことを
自分の基本原理にする。さうだ、本当にさうすべきだ。
生活のあらゆるものを剣に集中する。剣はひとつの、集中した澄んだ力の鋭い結晶だ。
精神と肉体が、とぎすまされて、光りの束をなして凝つたときに、それはおのづから
剣の形をとるのだ。
三島由紀夫「剣」より
481 :
大人の名無しさん:2012/05/17(木) 18:25:54.78 ID:jAQd0rSq
」
482 :
大人の名無しさん:2012/06/27(水) 06:42:57.80 ID:yaskW29Y
【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】
483 :
大人の名無しさん:2012/06/29(金) 15:54:13.13 ID:k8NvN7NZ
アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。
【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。
484 :
大人の名無しさん:2012/06/29(金) 23:25:38.23 ID:k8NvN7NZ
485 :
大人の名無しさん:2012/07/19(木) 11:03:42.94 ID:fDC3AboH
少女の軽蔑は、四十女の軽蔑よりももつと苛酷なものである。
三島由紀夫「純白の夜」より
三島由紀夫…ゲイ
だから同じ同性愛者だったオスカー・ワイルドにも
>>438-443のように特別な興味を持ったのだろう
487 :
大人の名無しさん:2012/07/25(水) 11:52:43.82 ID:4vlBjT79
貞潔は吝嗇の一種であることを免かれない。
三島由紀夫「青の時代」より
488 :
大人の名無しさん:2012/07/26(木) 17:22:31.74 ID:oqLiADYz
それは吝嗇の聖らかさ、修女の聖れかさ、閉ざされた部屋に堆積した埃の聖らかさ、水底の石に
まとはりついた苔の聖らかさ、聖者の衣服にたまつた垢の聖らかさである。清潔は必ずしも
神聖さの条件ではないからである。
三島由紀夫「青の時代」より
489 :
大人の名無しさん:2012/07/30(月) 20:21:07.96 ID:sfdJJzpk
背の伸びるときには肥ることも忘れないでほしいな。日本は地震の多い国だから、摩天楼みないな人間は
みんな倒れてしまふのだ。
三島由紀夫「青の時代」より
490 :
大人の名無しさん:2012/07/30(月) 20:22:07.04 ID:sfdJJzpk
背の伸びるときには肥ることも忘れないでほしいな。日本は地震の多い国だから、摩天楼みたいな人間は
みんな倒れてしまふのだ。
三島由紀夫「青の時代」より
491 :
大人の名無しさん:2012/08/25(土) 12:45:13.67 ID:BVTtQEOR
そのうち僕もステキな娘をもらつて、結婚しようかと思ふけれど、そのためにあれやこれやするのが
面倒でね。どうして牛乳配達が牛乳ビンを置いてくみたいに、お嫁さんを配達してくれないんだらう。
三島由紀夫「三島由紀夫のレター教室」より
493 :
大人の名無しさん:2012/09/02(日) 10:00:01.88 ID:XF+n6yO3
別れが精神的な死を意味する以上、肉体の死は、むしろ反対のものを意味する筈だ。
三島由紀夫「肉体の学校」より
494 :
大人の名無しさん:2012/10/11(木) 17:43:30.30 ID:il23tlT/
若いうちはね、城所さん、自分のために女を蹂躙できます。三十をすぎると、さうさう
自分ばかりにかまけてもゐられず、女の身になつて考へてやる気にもなるんです。本当の
残酷さはそれからはじまるのですよ。
青年といふものは決して残酷になどなることはできません。
三島由紀夫「沈める滝」より
495 :
大人の名無しさん:2012/10/11(木) 19:35:56.93 ID:9KSO0BPq
・金閣寺
・美神
496 :
大人の名無しさん:2012/10/30(火) 11:35:58.68 ID:5HRNHSf3
火事場見物は誰しも好きなものだが、道路で見るより物干で見てゐるはうが高級だとはいへない
のである。
三島由紀夫「愛の渇き」より
497 :
大人の名無しさん:2012/11/02(金) 16:26:35.15 ID:ml6srTK8
唐突な愚直さがたまたま核心を射る場合がある。
速度を失ふと共に失はれがちな真実があるもので、まはつてゐる最中の独楽にしかあらはれぬ
虹のいろを、真実の色彩ではないといふ理由はない。
三島由紀夫「青の時代」より
498 :
大人の名無しさん:2013/01/22(火) 19:31:57.29 ID:NsblrK0T
自分の洋服にどんなネクタイが似合ふのか見当のつかない客に、決して押しつけがましくなく、しかし
確信と誠意を以て、似合ひのネクタイを押しつけるのが、売子の秘訣である。
三島由紀夫「S・O・S」より
499 :
大人の名無しさん:2013/02/13(水) 11:16:19.61 ID:kHYJWsNv
%
500三島
501 :
大人の名無しさん:2013/02/26(火) 06:06:43.66 ID:Zxly1Grt
よを!(・∀・)ノ
502 :
大人の名無しさん:2013/03/08(金) 23:00:57.92 ID:24qkAbxv
死といふやつは、当り籖(くじ)のやうに身をひそめてゐるんです。
三島由紀夫「大障碍」より
503 :
大人の名無しさん:2013/04/30(火) 22:31:04.21 ID:i6iUG2O7
‥
504 :
大人の名無しさん:2013/07/03(水) NY:AN:NY.AN ID:uPYrFI64
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
505 :
大人の名無しさん:2013/07/06(土) NY:AN:NY.AN ID:zvap9spE
506 :
大人の名無しさん:2013/07/23(火) NY:AN:NY.AN ID:PRi8+ePO
「女神」かな。
507 :
大人の名無しさん:2013/07/26(金) NY:AN:NY.AN ID:9pZWLM6m
ちょっと文章がとっつきにくいが慣れてくれば
508 :
大人の名無しさん:2013/08/22(木) NY:AN:NY.AN ID:OAvqUqm2
509 :
大人の名無しさん:2013/08/26(月) NY:AN:NY.AN ID:vbyWBZYz
金閣寺
510 :
大人の名無しさん:2013/09/27(金) 22:33:16.96 ID:OyeypjV+
細雪
511 :
大人の名無しさん:2013/10/03(木) 03:25:25.56 ID:HwG5aBhT
わが友ヒトラー 。派閥争いの渦中で中道とは何かを悩む、
そう言う意味で今の職場の直属の経営者がヒトラーに見えるときがある。
■黙殺された野村総研の『テレビを消せばエアコンの1.7倍節電』報告
http://www.news-postseven.com/archives/20110810_28053.html 「こまめに電灯を消そう」「エアコンの設定温度を28度に」
テレビのワイドショーでは、様々な節電方法が連日紹介されている。その一方で、黙殺され続けている
「一番効果的な節電方法」がある。それはズバリ「テレビを消すこと」だ。
興味深いデータがある。野村総合研究所が4月15日に発表した『家庭における節電対策の推進』なるレポート。
注目したいのは「主な節電対策を講じた場合の1軒あたりの期待節電量」という試算だ。
これによれば、エアコン1台を止めることで期待できる節電効果(1時間あたりの消費電力)は130ワット。
一方、液晶テレビを1台消すと220ワットとなる。単純に比較しても、テレビを消す節電効果は、エアコンの約1.7倍にもなるということだ。
この夏、エアコンを使わずに熱中症で亡くなる人が続出しているにもかかわらず
「テレビを消す」という選択肢を国民に知らせないテレビ局は社会の公器といえるのか。
自分たちにとって「不都合な真実」を隠しつつ、今日もテレビはつまらない番組を垂れ流し続けている。
■新聞購読を止めてみる?年間約5万円の節約に
なんとなくダラダラと購読し続けてしまう新聞・・・テレビ欄やスポーツ欄くらいは見るし、近くのお店の
チラシは入っているし、たまには興味のある特集記事が掲載されていたり・・・
「契約の更新のときも、なんとなくサインしてしまっていませんか?」
メジャーな全国紙を朝刊・夕刊のセットで購読すると「月額約4,000円、年間で5万円近い出費」となります。
また、毎日出る読み終わった新聞をまとめて捨てるのも意外と小さな手間に。さあ、思い切って新聞購読を止めてみませんか?
「浮いたお金と時間を、より有効的に活用」することで、人生が変わるかもしれません。
513 :
大人の名無しさん:
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