第五部 想いは想いだけじゃない
「もう起きなさい。朝ご飯できるわよー!!」
僕はいつのまにか眠りについていたらしい。
母さんに部屋の外から半ばイライラしたような声で呼びかけれ、
僕はようやく目を覚ました。
瞳の焦点がぼやけたまま、しばらくの間、天井を眺めてみる。
ようやく薄目を開け、寝起きで腫れぼったくなった瞼を指で擦りながら
外を眺めると、窓の外からはすでに陽光が射し込んでいるのが見える。
目覚まし時計にボーッと目線を移すと時計の針は既に8時を示していた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
しばらく僕はそのまま寝転がった姿勢で、
昨日の夜中に行われた秘め事が
もしかして夢ではなかったのだろうかと考えていた。。
ゆっくりとベッドから上体を起こしてボーッとしながら更にその事を考える。
本当にあれは、まるで夢のワンシーンだった様なそんな気がした。
まだ現実感が全く伴って来ていない。
僕はようやく体を動かしながらパラリと布団をまくり上げ、
そーっとシーツを見ると、ちょうど腰の辺りに染みのようなモノが出来ている。
ガサガサと体を這わせてそこを触ってみると、
確かにカピカピとした妙な感触が、寝ぼけたその指を通して感じられた。
まさにそれこそが、昨日行われた行為の疑いならぬ証拠を示していた。
確かに昨日、僕と裕子姉さんは結ばれた。
その時、胸の辺りから何かが大きく込みあげてくるのを僕は感じた。
その思いはあまりにも嬉しさに満ち溢れたものであった反面、
そもそもオナニーを目撃されて、
あんな事になってしまったという、気恥ずかしさも加わって、
まだ寝ぼけている頭の中がグチャグチャに混乱した。
だが、やっぱり素直に嬉しい。思わず、つい顔がニヤけてしまう。
僕は思わず枕を抱き締めながら、一人で布団の中でモダモダしてみる。
けれども裕子姉さんは今日、京都に帰って行ってしまう。
嬉しさを感じたのもつかの間、猛烈な寂しさが今度は胸を強く締め付ける。
僕は頭の中に色んな思いが渦巻き、交錯しているまま、
ベッドからおもむろに立ち上がり、部屋を後にして階段を下りて行った。
既に朝食の準備はあらかた終わっているらしい。
味噌汁の匂いがぷーんと廊下に漂っている。
居間の戸を開けて中に入ると、
台所では母さんと裕子姉さんが既に朝食の支度を行っていた。
裕子姉さんは、もちろん昨夜あった出来事など微塵も感じさせずに
ごく普通にエプロンを身につけて、普通に卵焼きを皿によそっていた。
「おはよう」
父は既に食卓に座っていて、新聞を読みながら僕に挨拶をした。
「おはよう」
僕も挨拶を返すと、いつも通り父の横の椅子に座った。
別にそれがありふれた日常なのだが、今日は何故か若干照れくさい。
昨夜の出来事によって、
僕自身少し大人の仲間入りをしたような気がして、
なんだかばつが悪くて、自らの頬をポリポリと掻いてみた。
「あら、やっと起きたの。なんだか眠そうねえ。目も腫れぼったいし。」
母さんは食卓に食器をカチャカチャと運びながら、僕に言った。
まさか僕は、昨夜ああいう事がありまして朝方まで眠れなかったなんて、
そんな事は言える訳もなく、ただ黙って腫れぼったい目を擦っていた。
「なんか、夜遅くまで勉強してたみたいですよ。頑張り屋さんやから」
裕子姉さんが台所の方から、僕をニヤっと笑いつけながらそう言った。
朝食の準備が出来上がると、母さんは父の向かい側にいつものように座り、
裕子姉さんも僕の向かい側に腰掛けた。
いつもの様に食卓にはおかずが並び、母さんはご飯をよそっていて、
父は相変わらず新聞を広げてなにやら読んでいる。
裕子姉さんはというと、うーんと手を上に伸ばして伸びをしていたが、
別段昨日と何も変わらない様子でいるように見えた。
パジャマ姿で、メイクもまるでしておらず、いかにも日常の朝といった趣だ。
「いただきます。」
カチャカチャと音を立てながら、皆、朝食を取り始める。
父もようやく新聞をバサリと閉じて、箸をつけ始めた。
僕はというと、明らかに寝不足のために進まない箸で、
ほうれん草のお浸しなどを少しずつ摘んでは口に進めていた。
どうしても向かいに座っている裕子姉さんの事が、
気になって気になって仕方が無い。
箸を進めながらも、チラチラと僕の視線は裕子姉さんの方に集中してしまう。
裕子姉さんはそんな僕の様子に気づいたらしく、
一瞬だけ僕の瞳を見つめて、口をモグモグさせながらニッコリ笑い、
テーブルの下に投げ出されている僕の足をコツンと一回優しく突ついた。
その後は、僕の視線からスッと目線を外して、
「ホントこの漬け物オイシイわあ。
帰ったら絶対作ってみよ。」
なんていつも通りの会話を母さんと始めてしまった。
それ以降、僕とはけして目線を会わせてもくれない。
僕はその後も取り立ててうまく裕子姉さんと話す事が出来ず、
黙って黙々と箸を進めていた。
「ごちそうさまでした。
はあ、おいしかったわあ。
でも、今日がこのご飯食べるのが最後だなんて哀しいわあ。
はあ〜、また明日から一人でご飯作って食べなあかんなんて。
ホンマ、叔母さんを一緒に京都にさらって行きたいわあ。」
そういって裕子姉さんは母さんと一緒にケタケタと笑っていた。
そうだ、裕子姉さんは京都で一人暮らしをしているんだった。
裕子姉さんのお母さんは、
彼女が小さな頃に亡くなってしまったと聞いているし、
育ててくれたお父さん、つまり僕にとっては叔父さんとなるその人も
数年前に亡くなってしまっている。
それ以来、裕子姉さんは旧家の一軒家で一人暮らしをしているらしかった。
そうだ、それなら………
一瞬、パッと脳味噌の奥っちょの方で、ある閃きが走り、
その野望が一気に頭の中を大きく支配した。
そうだ…。そうすれば…、裕子姉さんと…。
短絡的に思いついた閃きではあったが、
若い僕を突き動かす、この大きな衝動は止める事が出来なかった。
僕はその計画を実行する為には、どうすればいいのかを考えながら、
ぼーっと箸の動きを止めていると、
「どうしたん。そんなボーっとして。なんか食欲ないみたいやなあ。
あんま寝てないんちゃうか?
ホンマ大丈夫?」
あまりに僕がほけーっとしていた為に、
裕子姉さんが心配そうに声を掛けてきた。
「う、うん。大丈夫。ごちそうさま。」
僕は裕子姉さんにそう言うと、
黙って居間を出て、階段を駆け上がって自分の部屋に戻って行く。
裕子姉さんはちょっと心配そうに僕を見つめていた。
部屋に入ると僕は、ベッドにドサッと体を横たえると
再びさまざまな想いが脳裏に溢れ出してくる。
僕は裕子姉さんが好きだ。好きで好きでたまらない。
裕子姉さんにとっては僕の存在なんて、
まるでただのガキにしか映らないのかも知れないけれど、
それでも僕は裕子姉さんが好きだ。
こんな感情を持ったのは、生まれて初めてだ。
もうこの激情は、自分でも止める事が出来ない。
裕子姉さんの側にいたい…。
そんな思いを胸に抱きながら、僕はベッドからムクリと起き出して、
さっき思いついた計画が、どうすれば実行できるかどうか考えていた。
もう、心の内は決まっていた。
後はじっくりと計画を立て、それを遂行するだけだ。
親はもちろん反対するだろう。きっと相当な抵抗があるはずだ。
でも、この気持ちを止められない以上、きっと説得してみせる。
そして裕子姉さんも説得してみせる…。
「コンコン」
部屋をノックする音が聞こえる。
「開いてるよ。」
僕が返事をすると、ドアが開いて、裕子姉さんが部屋に入って来る。
どうやら朝食の後かたづけをしていたらしく、
水仕事で濡れて若干赤みを帯びている手を、
身につけているエプロンでゴシゴシと拭いながら、
僕の側に近づいてきた。
「どうしたん?
なんか元気ないやんか。
やっぱり昨日の事、なんか気にしてるんか?」
裕子姉さんは心配そうに僕の顔を覗き込みながら言った。
「ううん…。別に大丈夫。
それより…、それより、
あの…ちょっと裕子姉さんに言いたい事があるんだけど、いいかな…」
僕は、裕子姉さんの瞳から視線を真っ直ぐ逸らさずに言った。
「ええよ。どうしたん、そんな改まっちゃって。」
若干の沈黙と緊張した空気が部屋の中を支配する。
僕は決意を固め、呼吸を荒げながら、
「俺…、俺…裕子姉さんの事が好きだ。」
僕はとうとう裕子姉さんに告白をした。
女性に告白といった行為をしたのはもちろんこれが初めてだ。
心臓がバクバクと音を立てているのが感じられた。
そして、まるで時間が止まってしまったかの様な感覚に襲われる。
この告白を聞いた裕子姉さんは、ベッドに座っている僕のすぐ横に、
ちょうど同じ目線になるくらいの高さにしゃがみこんで、
僕の瞳を真摯に見つめながら語り始めた。
「……ありがとう。…告白されるなんて思っても見なかったワ。
…でもな。
でもな…、昨日あんな事があって気持ちが高ぶっている時に、
そんな事言ったらアカンわ。
それはきっと錯覚や。勘違いしたらアカンでえ…。
………
今日、どうせウチは帰ってまうし、またしばらく合う事も無いやろから
大丈夫やと思うけど、アンタは変なトコで妙に純やからウチ心配やで。
錯覚と恋愛は違うモンやで、多分。
そんな事より、今は勉強しっかりして、受験がんばらな。
でも、正直嬉しいよ。年下のこんなカワイイ子に告白されるなんて。
ウチもアンタの事…スキやで…。
でも思い出は、思い出としてそっと胸にしまっといた方がエエよ。
とにかく今はアンタにとっては受験を頑張るのが一番や。
その他の事は二番でええんちゃうかな。
その後でええんちゃうかな。
そう思うで。
わかった?」
裕子姉さんは右手をそっと僕の肩に添えて、ポンポンと肩を叩くと、
心の底から溢れてくる様な優しい笑みを浮かべて
決して瞳から視線を反らさずに、しばらくじっと微笑みかけてくれた。
そして息をふぅーっと一つ吐いた後、すっと立ち上がり、
「化粧して準備できたら、もうすぐ起つわ。
お見送りくらいしてや。」
そう言って、裕子姉さんは僕の部屋を後にした。
僕はそのまましばらく呆然としていた。
思い出は、思い出としてそっと胸にしまっといた方がいい。
さっきのその言葉が脳裏にぼやりと浮かんできた。
でも、でも僕は、それでは決して納得が出来ない。
今の自分には到底納得が出来る訳がなかった。
僕の胸の奥底から激しくズンズンと突き上げてくるこの想いは止められない。
やっぱり、どうしても裕子姉さんが好きだ。
裕子姉さんの言葉を聞いて、逆に僕は冷静になった所もあり、
先程から考えていた計画を絶対に実行する事を固く決意した。
今から志望校を変え、京都の高校を受験して、絶対合格する。
そうすれば裕子姉さんの近くに居られる事が出来る。
親さえ巧く説得出来れば、居候をさせてもらえるかも知れない。
裕子姉さんもウチの親から懇願されればNOとは言えないだろう。
それがいかに無謀な計画である事は自分自身でも良く解っていたが、
僕はもう、止まらない…。
「いやあ、ホントに長い間お世話になってもうて、
久々に楽しかったです。
叔父さん、叔母さん、ホントに有り難うございました。」
裕子姉さんが玄関先で親に挨拶をしている。
僕はまだ自分の部屋でボーッと外を眺めていた。
「おーい、裕子が帰るぞ。なにしてんだ。降りてこい。」
階段の下から父の大きな声が聞こえる。
僕はゆっくりと階段を下りて、玄関先に向かった。
裕子姉さんは、アノ時と同じように濃緑のコーデュロイスーツを身に付け、、
玄関でちょうどブーツを履きかけているところだった。
そして、僕が姿を現したのに気づくと、
「おっ、受験青年。
勉強頑張りや。アンタなら絶対合格するでえ。
姉さんが保証したる。」
弾けるような笑顔で僕に語りかける。
「でも勉強の間には、たまには息抜きするんやでえ。」
そういって、裕子姉さんはペロッと舌を出しながら僕にニヤッと笑いかけた。
「裕子姉さん…。有り難う。ホントに有り難う。」
僕はそう言って、裕子姉さんを見つめた。
裕子姉さんも僕の瞳を見つめ返してくれる。
「それじゃ、本当にお世話になりました。
是非また遊びに来させてもらいます。
だって、もっと叔母さんに料理教えてもらわなアカンし。」
そう言うと裕子姉さんは、ニッコリ笑って我が家の玄関を後にした。
僕はその後ろ姿をしばらくじっと眺めていたが、
寂しくて、とても寂しくて涙が思わずこぼれそうになる。
そしてそれを必死に堪える。
でも大丈夫だ。僕には秘策がある。
僕はまだ言い足りない言葉を伝えるために、
玄関のスニーカーをつっかけて走り出し、
まだそれほど遠くない裕子姉さんの後ろ姿に迫っていった。
それに気づいた裕子姉さんが振り返る。
「あれ?どうしたん?
ウチなんか忘れ物でもした?」
急に走って追いかけてきた僕の姿にびっくりしたのか、
裕子姉さんの表情は、まるでキョトンとしていて、
僕はその耳元に顔をすっと近づけて、
そっと囁いた。
「さっきの愛の告白は、あっさり振られちゃったけど、
絶対…、
絶対に諦めないからね。」
裕子姉さんは手を鼻の辺りに当てて急にクスクス笑いだした。
そしていかにも冗談ぽく戯けた感じで僕に言った。
「ええよ〜。何回でもチャレンジしてみい〜。
そのうちホンキになってアンタを離さへんようになるかもしれへんで〜」
アハハと笑っているそんな裕子姉さんに向かって、
僕は、わざと思わせぶりな表情を浮かべて言った。
「もう少ししたら、いやが上にも一杯チャレンジ出来るようになるはずだよ。
楽しみに待っててよ。
じゃあ…。」
僕は裕子姉さんのほっぺたにチュッと唇を当てて、そして軽く手を振った。
裕子姉さんは、僕が何をいわんとしているのか
全く分からない様子でキョトンとしていた。
それから裕子姉さんは、
なんだか良く判らないといったいぶかしげな顔をして、
首を傾げながら僕に手を振り、
再び振り返って歩みを進めていった。
「じゃあねー。ありがとうー、裕子姉さん。」
僕がその後ろ姿に向かって大きな声で叫ぶと、
裕子姉さんは振り向かずにその歩みを進めたまま、
右手を上におもいっきり上げて、僕に分かる様に大きく手を振ってくれた。
僕はその姿が見えなくなるまで、
裕子姉さんの後ろ姿をずっと見つめ続けていた。
もう、僕に迷いはない。
第五部 想いは想いだけじゃない 終