ワイが文章をちょっと詳しく評価する![37]

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913ワイスレ杯参加作品
夜の底、初めにこう表現したのは果たして誰だったか。仕事帰り待つ者もない狭いアパートを目指し、ふらふら歩く。夢もなく、成功もなく、日常に生きるというのは…。
ぼんやり形をなしては消える思考の渦を、夜の中遮るものがあった。闇に沈んだ小さな影だ。人のように見えるがいっこうに動かない。その他には鳥の一羽もみあたらない。
すれ違うにはまだ距離があり、近づくのも少し不気味だ。俺も立ち止まり観察することにした。するとあいつの声がするのに気がついた。
低く怯えた声で何やら必死に懇願しているように聞こえる。成る程電話しているのだ。また歩きだす。さっきより速足になる。等間隔に並んだ街灯があちこちの水溜りに反射して歩道を不思議に照らしていた。
夕方まで降っていた雨にどこか冷めてしまった春の陽気。こんな夜に借金の申し入れか何かか。つくづく現実世界だなと笑った。男の話は次第に熱を帯びてきていた。同時に鮮明になる。
「どういうことですか」「本当にもう何も知りません!放って置いてください」「今は娘と幸せなので」「世界のことなど…!」
世界の…と言い出したあたりで奴の鼻の穴はいっぱいに広がり、鼻毛が見えそうなほどだった。足は何事もなかったかのように通り過ぎようとしているのに目が奴を追ってしまう。
突如泣き叫ぶようなブレーキ音が響いた。慌てて前を向いた瞬間、黒光りした車がこちらに突っ込んでくるのが見えた。目を閉じ、衝撃に身を構える。すぐ後ろで爆音がした。
ガードレールにぶつかったんだと閃き、後ろを振り向くとそこにはもう誰も居なかった。いや、更に遠くへ視線をやれば背の高い男がのろまな車から速足で逃げるのが見える。
男がしゃがんでいたから、小さく見えたんだな。ぼんやり、思った。気づけば腰を抜かして辺りに鞄の中身をぶちまかしていた。その中から今日提出するつもりだった退職届を拾う。
俺は心底うんざりした気分でそれを破いた。非日常というのはあんな風に、星座のように、遠いのだ。