パウロ、最後のカウンセリングから大分時間が経った。ブレニオの湖の畔にある家を買う為に手付金を払ったすぐ後だったから、
もう一年が経つ訳だ。でも君は僕のセラピストであると同時に友人でもあるし、知っておいて欲しいこともあってこの手紙を書いている。
僕はここしばらく、自分の本分に立ち返って制作に没頭していた。自分で設えた大きなキャンバスを、湖が見渡せるアトリエに据えて、
冬至の満月を沈めた様な銀色の水面や、そこに映った、並行世界の景色の様に滲んで揺れる山々を描いていた。
それに筆を握っていれば、孤独や喪失感を紛らわすことが出来ると思って。
そうなんだ、エマと僕は別れた。僕らはまたうまくやれるはずだった。
こんなにも美しい自然を独占しながら、また出会った頃の様に寄り添って暮らせるだろうと思っていた。
けれど、すぐに僕たちの関係はぎくしゃくし始め、最後にはヒステリックな叫び声と罵声が飛び交う、惨めな別れが待っていた。
パウロ、絵は殆ど仕上がった。構図を支配する湖は神秘的でどこまでも深くて、時間さえ超越した様に佇んでいる。伝統的で、しかも現代的な絵だ。
でも不思議なんだ、パウロ。水面に、僕は決して描いていないのに、人の形をした影が知らない間に浮かび上がるんだ。
そして何度絵の具を塗り重ねても、気がつくとまた現れている。そうだ、それは間違いなくエマだ。
これをどうにかしなければ、絵は完成しない。
エマは初めからこの家を買うのに反対だった。ミラノまで車で3時間もかかると言って。でも結局、僕が押し切った。
この家は美しいし、エマには精神の安定が、街の喧噪から離れた場所で、静かに生活する必要があったんだ。街には心を乱すものが多すぎる。
特にあの、発音の難しいアラビア風の名前を持つ男から、彼女を引き離さなければいけなかった。でも何もかも無駄だった。
僕はエマを愛していた。今でも愛している。僕にキスする唇も、僕を罵る唇も、僕を見つめていた瞳も、
虚空に見開かれた瞳も、僕の隣で眠る彼女も、湖の底に眠る彼女も、みんな僕のものだ。
パウロ、僕はありったけのペトロールをキャンバスに浴びせかけた。この手紙を投函したら、エマが気に入っていた蝋燭で火を付けるつもりだ。
君にも見てもらいたいよ。ほら、キャンバスの湖の上で彼女が微笑んでいる。