ワイが文章をちょっと詳しく評価する![32]

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831第二十五回ワイスレ杯参加作品
故郷の土を踏んだのは、高校卒業以来になる。
駅前はずいぶん様変わりしていた。人通りが殆どなく、商店街は寂れている。
市電の通りを渡る。建物が低いから空が広く見える。僕は小高い丘を目指していた。

高校の時、一学年下の女の子とつきあっていた。学校の帰り道、僕たちはいつも
丘の上にやってきた。坂道を曲がった所に、大きな柏の木があって、そこで長い間
話をした。友人のこと、学校行事のこと、先生のこと、将来の夢。僕は東京の大学へ
行き、新聞記者になりたかった。
「わざわざ東京なんか行かんでもいいじゃん」
僕が大学の話をすると、彼女は顔を曇らせた。彼女は事故で両親を失い、親戚に引き取
られていた。高校を出たら、働かなくてはならないと言っていた。
「長い休みには帰ってくるし、就職したら、一緒に東京で暮らそう」僕は冷たい彼女の
手を握り、キスをした。
僕は、第一志望の大学に合格した。
上京する日、僕たちは柏の木の洞の中へ、小さな箱を隠した。箱の中には、未来の自分
たちへの手紙を入れた。大学を卒業して、二人一緒になるときに開けよう。そんな約束
をした。勢いよく風が横切った。

銀杏並木を横に折れ、細い路地を進む。道はやがて坂になる。
酷いことをした。よくあることと言えば、それまでだ。時間と空間の隔たりは感情を
置き去りにし、僕は彼女を捨てた。いろんな女性と付き合い、別れた。僕は結局新聞
記者にはなれず、小さな物流会社に就職した。単純作業の仕事に追われる日々。疲弊し
た暮らしの中でふと、箱を思い出した。
何の根拠もなかったが、僕には自信があった。彼女はきっと待っていてくれる。上京
の日の約束を信じて。あの箱を開ければ、失った関係が再び繋がるだろう。
坂道をのぼる。自然と足は早まる。あの角を曲がれば、木が見える……はずだった。
空間にぽっかりと穴が空いていた。木は、伐り倒されていた。
勝手な幻想に取りつかれていた愚かさを、僕は笑う。
切り株に腰かけると、隔たった時の向こうに吹く風の音が聞こえた。