さようなら、と言って歩き去る彼女を、あの時僕は見送ることしかできなかった。
僕らは山奥のコミュニティで出会った。世間に馴染めなかったり、社会から弾き出された人間の集うコミ
ュニティ。いくつかのロッジが立ち並ぶ、できあいの村みたいな場所。僕はウェブエンジニアとして外から
細々とした仕事を貰って収入を得ている。芸術の才に恵まれた者も多い。彼女の場合は絵だった。
二年前僕がやって来たとき、彼女は言った。世の中と喧嘩をして、逃げ出したの。彼女は戦うだけの強さ
を持った女性だった。あなたは? 僕は戦うこともせず逃げ出した臆病者だった。
僕らの性格はあまり似てはいなかったし、どちらかというと正反対に近かったが、不思議と波長があった。
部屋は別々にあてがわれていたが、どちらかの部屋で一晩を過ごすこともあった。
あの日の朝、僕が彼女の去り際に立ち会えたのは偶然に他ならない。陽は既に昇っていたが普段ならまだ
眠っている時間だった。偶々何か外で物音がしたとか、ショッキングな夢を見たとか、そういう些細な理由
で目を覚まし、窓の外に彼女の姿を目にしたのだった。僕は慌てて飛び出し、大きなバッグを引いて敷地を
出ようとする彼女を呼び止めた。
ここを出るの、と彼女は言った。どうして。行かなきゃいけないから。急すぎる。ごめんなさい。
彼女の生活全てを満載した白いバッグに日差しが照り返っていた。暑い一日になりそうだった。もう戻ら
ないのか? と僕は聞いた。決意の眼差しで彼女は頷く。僕も――と言いかけてその後が続かなかった。言
い出せなかった。彼女は儚げに笑って、あなたはここに居て、と言った。あなたが確かにここに居ると思っ
たら、頑張れるから。
あの時無理やりにでも付いて行っていれば、未来は変わっていたのだろうか。
先日、彼女が死んだと知らされた。いつ、どこで、死因は。全てわからない。ただ死んだらしいとだけ告
げられた。僕は確かめなければならない。彼女に何があったのか。彼女はなぜ死ななければいけなかったの
か。本当に死んだのか。それを知ることだけが目的になった。そして僕は部屋を出た。彼女と違い身一つだ。
売れる物は売って残りは処分した。顔を上げ、彼女の辿った道に踏み出す。