ワイが文章をちょっと詳しく評価する![29]

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601第二十四回ワイスレ杯参加作品
その女がホームレスなのだと誰もが気づき始めたのは、女の髪が脂で固まりかけた頃だった。
女は自分が入れそうなくらい大きなキャリーバッグを重そうに引いて、
時折、邪魔にならない場所でパソコンを開いてブツブツと呟いたり、バラしてはまた組み上げたりしていた。
大手ハイテク企業の本社ビルが林立するオフィス街で、薄汚れた女の黄色いジャージは異様に浮いていた。
「どうせ、どっかの研究所で潰されたメンヘル女だろ」
「上司とデキて捨てられたらしいぜ」
「うろついてるルートからするとスパテクあたりかな」

残暑の厳しい日だった。
自販機の前で冷たい缶コーヒーを片手に額の汗を拭っていたスパテク社開発課長の細馬大祐は、
いきなり噂のホームレスに名前を呼びかけられてうろたえた。大祐は女に心当たりはなかった。
見なかったことにしようと歩きかけたとき、剥がれた舗装に足を取られて女が盛大に転んだ。
大祐はしかたなく女の手を取って起き上がらせると、人の波を避けて歩道の端に寄せた。
「キミ、大丈夫?」
「やっと見つけた」女は大祐の顔と社章を見つめながら放心したように呟いた。女はまだ若かった。
女は何も言わずにいくつかの数式を書いたメモをいそいそと大祐に渡すと、
「覚えたら焼き捨てて。さあ、目立たないように早く行って」と囁いた。
腑に落ちないながらも、これ以上あらぬ噂を立てられないように大祐は女の言葉に従った。
振り返りながら遠ざかっていく大祐の向こうから、すぐにひとりの男が女に近づいてきた。
それに気付いて満面の笑みを浮かべた女は、男に飛びついて「細馬くん!待ってたよお」と叫んだ。

「ご無事でなによりです、先生」
「ここに落っこちてから目立たないようにずっとホームレスしてたの。死ぬほどお風呂入りたいわ」
「もうずいぶん目立ってますよ、先生」笑いながらそう言うと、細馬は大きなキャリーバッグに目をやった。
「二十一世紀で次元ビーコンを組んだら、やっぱりこのサイズになっちゃいますよね」と楽しげに言った。
「細馬くんのご先祖が優秀な人でよかった。でないとあたしこの時代で死んじゃうとこだったよ」
「先生のヒントのおかげです。でも過去を変えちゃっていいんですか?」
「いいのよ、未来なんて誰にも無限にあるんだから」そして二人は音もなく未来へと消えた。