「ミセス・テイラー、どちらまで?」彼女が立ち止まり左手の甲で汗を拭う仕草が五度目を数えた所で僕は堪りかねて声を掛けた。
彼女は信じられない物でも見た様に目を丸くして、「あの丘まで」とそう言った。『あの丘』と言えば『あの丘』しかない。随分と距離
が有る。しかも彼女は自分の体重の半分ほどは有ろうかというスーツケースを引きずっていた。丘までは麦畑に挟まれたあぜ道
を只管進むしかない。当然、舗装なんてされている筈も無い。僕は無言で彼女のスーツケースを右手から引ったくり、彼女の前を
進んだ。
道程を半分程残した辺りで彼女が口を開いた。「ここに来るまでに何人かとすれ違ったけれど、薄情なものね。知らない顔じゃな
いのに。紳士と呼べそうなのは貴方ぐらいだったわ」
僕は頭にきて彼女を怒鳴りつけた。「紳士的でないというのは貴方の旦那の事を言うんだ。ここらの土地は全てミスタ・テイラーの
物だった。にも拘わらずこの辺りでは誰も彼の事を尊敬してはいない。貴方の事も同様にです。今や貴方が未亡人になったとはい
えね」「知ってるわ、そんな事」と彼女は吐き捨てる様に呟いた。「私だってこの村で生まれたのよ」
それから暫らく僕らは口を利かずに黙々と歩き続けた。丘を登りきる頃には日差しも幾分弱まっていた。頂上で彼女が開いたスー
ツケースの中には折畳み式の自転車が入っていた。それを組み上げると僕の顔を見上げて「ねぇ、パット」と僕の名前を呼んだ。
「後ろに乗せて」
僕は黙って頷いて、彼女を乗せて自転車で丘を駆け降りた。その短い間、風や太陽や風景の全ての境目が無くなった。全てが一つ
になって僕らを包み、あの日の空気や息遣いを運んで来た。気付いた時には僕らは地面に寝ころんでいた。全てがあの時と同じだった。
「また、ここに住めばいい。やり直せる」と僕は彼女に言った。でも彼女は首を振って「無理よ」と言って立ち上がった。「人は変わるものよ。
私、彼を愛してたもの。変わらないのは思い出だけ」
「アイリーン」と僕は彼女の名前を呼んだ。彼女は少しだけ振り返り、「ありがとう、パット。最後に逢えてよかった」とそう言って僕の前から
去って行った。僕はうまくさよならを言う事も、彼女の後姿を見る事も出来ずに、ただずっと空を見上げていた。
夜風の冷たさがいつも通りに秋が来ることを教えてくれた。