孝之にとって洋子は目を離せない存在だ。
『世間知らずなところもありますけど、よろしくお願いします』
あれは祖母が運営する下宿に彼女が入居した日のことだった。
最初は謙遜なのかと思った。さらりとした翆髪に整った笑顔の持ち主にそう言われ、奥ゆかしいどこかの令嬢を想起させたものだ。
孝之の推測は正鵠を射ていた。そして彼女の言葉は謙遜などではなく、本物の世間知らずであることもすぐに判明した。
幸い本人が世間とのズレに悩んでおり、彼女の現状に危機感を抱いた両親の思惑もあって遠縁の祖母の下での暮らしを始めたのだそうだ。
日々奮闘する彼女の姿は好まく映るが、空回り気味で何をしでかすか分からない。だから目を離せないのだった。
あれから半年が経過した今でも孝之は洋子に振り回されていた。
放課後、孝之は高校の校門を出たところで洋子を見かけた。
十月にしては夏を思わせる暑さの中、未だ舗装が追いつかない道を薄手のワンピース姿の洋子がこちらに歩いてくる。妙に大きなキャリーバッグを引きながらゆっくりと。
「洋子さん。こんな時季に旅行ですか?」
「……あ、孝之くんだ。ごきげんよう」
キャリーバッグに気を取られていたのだろうか。孝之に気付いていなかったらしい。
孝之の姿を確認すると、すっかり見慣れた柔らかな笑顔とそれに似合いの声が返ってきた。
「で、今日はどちらへ? 大学にそれは要らないですよね。まさか、その格好でキノコ狩りですか?」
山際にある孝之の通う高校の向こうには山しかない。
額の汗をぬぐう彼女に訊いてみると、孝之には予想を大きく裏切る答えが返ってくる。
「ううん。スーパーでお野菜が詰め放題なんですって。だから――」
「……それに詰めようと思ったわけですか」
「いいアイディアでしょ」
巨大な旅行鞄を指差す孝之に、洋子が誇らしげな表情を向ける。
「スーパーはこっちじゃありませんよ。それに鞄はルール違反です」
きょとんとする洋子から鞄を取り上げると、孝之は歩き出す。
最近、やっと包丁が使えるようになったと喜んでいた彼女だったが、方向音痴だけは治らないような予感がする。
気付かれないようにと苦笑する。孝之は存外、洋子に振り回されるこんな日常を気に入っていた。いつまでも続けばいいのに、とも。