ワイが文章をちょっと詳しく評価する![29]

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503第二十四回ワイスレ杯参加作品
世界はこのうえなく平和だった。数ヶ月前までの戦火に包まれ、皆が憎み合い殺し合っていたのが嘘のようだ。
民族、国家、宗教…、様々な対立が錯綜し滅亡寸前だった人類を調停神が救ったのだ。
調停神のおかげで人びとは憎悪から解放され、かわりに心は無垢の愛で満たされた。
たとえば、ほら、あの青年。巨大なキャリーバッグを引いた女性に駆け寄って、手をさしのべている若者、
かつて名を馳せた殺戮者だったとは到底思われない。そう、誰彼構わず傷つけ殺すことを快楽としていたのはもはや昔、
現在は純朴な青年へと変貌を遂げたのだ。そんな彼の夢はただ一つ、調停神の足元に跪き、
人類を憎悪の悪夢から目ざめさせ、博愛という真理へと導いてくれたことに対する、限りない感謝の念を伝えることだという。
「お手伝いしましょう」明朗で快活な声。「いえ、だいじょうぶですから」戸惑う女に青年はまっさらな微笑みを向ける。
「遠慮は無用です。このあたりはとりわけ足場が悪いですからね」青年はキャリーバッグの持ち手を掴む。
女の掌が汗ばんでいたせいだろうか、持ち手は不気味なほどぬめりとしていた。
さぞ大変だったことだろう。青年は力強く歩き出す。荷は思ったより重いが、人助けの喜びに満ちて足どりは軽い。
「足元に気をつけて。まだ爆撃の跡が残っていますから」
青年は女の方へと振り返る、と、そのあまりの美貌にしばし陶然とする。
なんという美しさだろう。この世のものとは思えぬ。まるで女神のような…。
女に見とれたせいで、道のくぼみに足を取られてしまった。慌てて態勢を整えようとするがさらにバランスを崩し、
荷物もろとも路肩に倒れ込んでしまう。
キャリーバッグの蝶番が壊れ、なかからどす黒い靄がもうもうと湧き上がる。
この世の終わりのように女が叫ぶ。「なんということ! ようやく取り除いた世界中の憎悪が…!」
靄のなか、青年の瞳に暗い光が宿る。と、突如猛然と女に躍りかかった。女を殴り倒し蹴り上げその顔を踏みつける。
「おおおおお!」飢えに飢えた猛獣さながらのおそるべき咆哮。青年は血走った目を剥き涎を撒き散らし、血と肉の塊を残してあらたな獲物を求め駆け出してゆく。
やがてあちらこちらから火の手が上がる。ほうぼうから怒号が、銃声が、ミサイルの音が、爆発音が響き渡って…。
そして世界は、ふたたび夢から目をさます。