週末、金曜の昼下がり。都会の喧騒が消え失せた宝石のような時間。オフィス・ビルの
壁面のガラスが夏の初めの空と雲と光を映している。
仕事は午前中にすべて片づけた。仕事もプライヴェートもすべては順調で、なにひとつ
思いわずらうことはない。これから日曜の夜にベッドにもぐりこむまで、夏の始まりにふさ
わしいとびきりの時間をすごせる幸福で、心は夏の雨上がりの空のように晴々としていた。
オープン・テラスのテーブルの上に読みはじめたばかりのアーウィン・ショーの短編集を
置き、ウェイターが注文を取りにやってくるのを待つ。通りに目をやると、クレープデシン
やコットンリネンやピケやコードレーンやシアサッカーの夏服に身を包んだ女たちがややあ
ごを突き出して歩いている。どの女たちの顔をみても週末の夜のお愉しみを目前に美し
く健康的で、適度にエロティックで、いきいきとしている。「いい週末を。」と思わず声をか
けたくなる。
澄んだ空気。
にこ毛のような陽の光。
そして、夏服を着た女たち。
これから日が暮れるまでの数時間を自由に贅沢にすごそう。気持ちはさらに浮き立ってく
る。
(To be continued)
「クルヴァジェをクラッシュ・アイスに注いで、それをエヴィアン・ウォーターで割ったものを。」
新米のウェイターが怪訝な表情を浮かべたので、私は伝票とボールペンを受け取り、
注文を記した。新米ウェイター君に、安堵とともに爽やかな笑顔が戻る。
薄手の大きな丸いグラスを琥珀色の液体が満たしている。グラスの淵に鼻を近づけ、
芳醇馥郁たる葡萄の精の香りを愉しんでからひと息で半分ほど飲んだ。爽やかで、しか
も豊かな味だ。決して上等とはいえないボーズのコンパクト・スピーカーから、ジューン・
クリスティの『サムシング・クール』が聴こえはじめる。夏の初めの空と雲をみる。流れゆく
ひとかけらの雲が、遠い昔に私を通りすぎていった女たちの顔にみえる。さらにクルヴァ
ジェをもう1杯。動悸がたかまる。
その昔、いつでもどこでも、『サムシング・クール』を口ずさんでいた女の子がいた。彼女
は冷凍室の中でさえ、「なにか冷たいものをおねがい。」と言いそうだった。彼女の名前
は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。背筋を冷たい汗が一筋、流れ落ちる。
(To be continued)
ソニー・クラーク『クール・ストラッティン』のジャケット写真みたいに魅惑的な脚線美をい
つも誇らしげに見せびらかす女もいた。彼女が自信たっぷりに気取って街を歩くと、男た
ちは立ち止まり、慌てて振り返り、そして、遠ざかる彼女の後姿と脚線美を溜息まじりに
見送ったものだ。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。軽い眩暈に夏
の初めの街が揺れる。
「マイルス・ディヴィスは嫌いだけど、『クールの誕生』は好き。」と言いながらLPレコード
を乱暴にターンテーブルにのせる女もいた。私は彼女の手荒さに辟易したものだ。彼女
の名前は? 思い出せない。クルヴァジェをもう1杯。グラスを持つ右手が震えだす。
初めてみにいった『グレート・ギャツビー』で意気投合し、「あなたがギャツビー、わたし
がデイジー。そうすれば二人の復讐と幸福と享楽と放埓は完結するのよ。」と言って、熱
烈なキスをプレゼントしてくれた女もいた。彼女の名前は? 思い出せない。クルヴァジェ
をもう1杯。全身が泡立ちはじめた。
彼女たちの毒を含んだ矢が次々と飛んでくる。その毒矢は決して的を外すことはない。
しかも、彼女たちのすべては遠い記憶の淡い桃色の雲の中に隠れていて姿をみせるこ
とはない。心の中にみるみる黒い雲が湧き上がってくる。寒気さえ感じる。初めの頃の浮
き立つような気分はとうに消え失せていた。
(To be continued)
街が黄昏はじめた頃、やっと彼女は現れた。淡い水色のクレープデシンのドレスに身を
包んで。彼女のあたたかくやわらかな笑顔だけがいまの私を彼女のいる世界に引き戻し
てくれる。そう思い、私は心の底から安心し、彼女に感謝した。
「あなたと初めてみにいった映画、おぼえてる?」と彼女は突然言った。
「ごめん。忘れちゃったよ。きみとは映画ばかりみてるから。」
「『グレート・ギャツビー』よ。」
「まさか。」
「本当だってば。初めてのデートで、初めての映画ですもの。忘れたりするもんですか。」
私は立ち上がり、もう何杯目なのかさえわからなくなってしまったクルヴァジェを毒杯で
もあおるような気分で飲み干し、夏服を着た女たちが涼しげな表情を浮かべて行き交う
街の中へ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、一人で漕ぎ出していった。
(The Last Tycoon)