ワイが文章をちょっと詳しく評価する![7]

このエントリーをはてなブックマークに追加

 古い戦友の命日。私は戦友との思い出がぎっしり詰まった酒場に足を運んだ。20年ぶ
りだ。戦友は探偵で、腕っぷしはめっぽう強いが泣き虫で、酔いどれの誇り高き男で、運
に見放されていて、美人に目がないくせに女にはからきし弱く、「いつかゴビ砂漠のど真
ん中で究極のマティーニを飲む。そして、死ぬ。」が口ぐせで、ネイビーの、ペンシル・ス
トライプのダブル・ブレステッドのスーツしか着ない男だった。救いは彼が律儀で不器用
で無愛想なうえに、ウソがへたくそなことだった。

「究極のマティーニを。古い友情を終わらせたいんだ。」と私は言った。ニッカーボッカー・
ホテルの名物バーテンダー、マルティーニ・エ・ロッシーニは黙ってうなずいた。

 きれいに霜のついたバカラのカクテル・グラスの名品、「ロング・グッバイ」が目の前に
置かれた。ホンジュラス・マホガニーの一枚板のカウンターの上でロング・グッバイが静
かに息づいている。彼女が私に別れを告げるころには、私は彼女を何度も何度も抱きし
め、唇を寄せ、5粒ばかりの涙を彼女の中に落としているにちがいない。そして、したた
かに酔いどれるのだ。今夜はそんな気分だ。誇りの類はとっくの昔に行方不明なのだ
し、いまさら酔いどれたところで胸を痛めてくれる愛しい女もいない。かつての愛しい女
は「さよなら」のひと言さえ残さずに金持ちの年寄りの愛人になった。それでいい。すこぶ
るつきのクールさだ。こちらはクールなタフ・ガイなんだ。勝負は互角という寸法である。

(つづく)

 それにしても、よりにもよって、「長いさよなら」とはな。「さよならは短い死だ。」と言いつ
づけた探偵は強くもなれず、生きていくための資格を手に入れることさえできないまま本
牧の路地裏で冷たい肉の塊になって死んだ。もう20年になる。探偵のことはときどき思
いだすが、いつもというわけではない。

「友よ、マイ・プライベート・アイズよ。あんたは死に、おれは生きながらえ、偉大な眠りに
はとんと御無沙汰だ。不眠はもう10年もつづいている。あんた同様、おれはいまだに強く
もなれず、やさしさの意味すらわからないでいる。なんてマイ・フーリッシュ・ハートな人
生なんだろうな。笑ってくれ。」

 私が遠い日の友との思い出に耽っているさなかに、馬鹿笑いしながら若いカップルが
やってきた。男はコークハイを注文し(コークハイだって!?)、女はテキーラ・サンライズを
注文した。マルティーニ・エ・ロッシーニは眉を一瞬しかめ、ため息をひとつ、小さくつい
た。

(つづく)
 女の顔を見ると虫酸が走った。他人の手帳を盗み見ることにひとかけらの呵責も感じな
い魂のいやしさのたぐいが顔にあらわれていた。おまけに、使っている香水は濃厚なうえ
に動物的なにおいで甘ったるかった。第一、明らかに分量が多すぎる。香水のシャワーで
も浴びてきたのかと尋ねたくなるほどだ。ここは場末の安キャバレーではない。ここは何
人もの本物の酒飲み、一流の酔いどれが巣立っていった酒場なんだ。ある種の人々に
とっては聖地でさえある。香水女は臆面もなくそれらを蹂躙しようとしている。押さえよう
のない激しく強い怒りがこみあげてきた。

 おまえは店のすべての酒の香りを台無しにする気か? この店にある酒は、いくつもの季
節を樽の中でやりすごし、ときに天使に分け前を分捕られ、蒸留という名の試練をくぐり
抜け、磨きに磨かれて、やっと陽の目を見たんだぞ! 女の首根っこをつかまえて、そう叱
り飛ばしたかったが、我慢した。

 香水女の指は太く短く、金輪際ナイフとフォークを使った食事をともにしたくないタイプ
の人物だった。いや、ナイフとフォークを使った食事だけではない。女が私の半径50
メートル以内にいるだけで、私は確実に食欲を失う。この広い宇宙には、テーブル・マ
ナー以前の輩が確かに存在することを私はこのとき初めて知った。私の知る世界、生き
てきた日々、失った時間や友情や愛をことごとく踏みにじり、台無しにするおぞましい力を
その若い女は持っていた。めまいさえ感じたとき、マルティーニ・エ・ロッシーニが毅然と
した態度で言い放った。

「申し訳ございません。現在、当店はエクストラ・ドライ・タイムでございます。ウルトラ・
スーパー・エクストラ・ドライ・マティーニか、少々お時間が早すぎますが、ギムレットなら
御用意できます。コークハイは元町の信濃屋さんの真裏に、当店よりずっといい、お若い
方向けの店がありますから、そちらへどうぞ。」

(つづく)

「お若い方向けの店」とマルティーニ・エ・ロッシーニが言ったところで、私はあやうく吹き
出しそうになった。「お若い方」を「馬鹿者」と言い換えればジグソー・パズルの完成であ
る。シュレディンガー・キャットを見つけだすよりむずかしそうなジグソー・パズルの本当
の完成はもうすぐだった。

 マルティーニ・エ・ロッシーニは息をいったん引き取った。香水女はショッキング・ピンク
のハイヒールの踵を床にせわしなく打ちつけた。苛立っている。ざまあない。ここはおまえ
たちのような無作法者が来るところではない。マルティーニ・エ・ロッシーニは仕上げにか
かった。

「テキーラ・サンライズはカリブ海のニュー・プロビデンス島経由でアカプルコ・ゴールド・
コーストに出張中です。滞在先は年端もいかない少年少女をかどわかすことで悪名高い
ホテル・ザ・ローリング・ストーンズと聞き及んでおります。したがいまして、どうぞお引き
取りください。次にお越しの際はフレグランスは控え目に。清楚で上品な香りのもの、た
とえばジャン・パトゥの JOY かオー・デ・ジバンシー、ミス・ディオールあたりをお勧めいた
します。それとこれは秘密情報ですが、今夜あたりから、大声でしゃべったり馬鹿笑いす
ると島流しになるそうですよ。お気をつけください。」

 マルティーニ・エ・ロッシーニが言うと、若い男は未練たらしく女々しい舌打ちをし、香水
女は手持ちのうちでもっとも悪意と憎悪と愚劣が盛り込まれた笑顔を見せ、さっさとマル
ティーニ・エ・ロッシーニにさよならを告げた。そう、マルティーニ・エ・ロッシーニが言うと
おり、いまこの時間、黄昏と闇の狭間の時刻、世界中のすべての酒場は一日のうちの
もっとも聖なる時間、エクストラ・ドライ・タイムを迎えているのだ。聖なる時間を迎えて
いる酒場は無礼無作法なうえに甘ったれた恋愛ごっこにかまける者の相手はできないの
だ。無礼無作法なうえに甘ったれた恋愛ごっこに興じる愚か者どもに供するグラスはひと
つもないし、注ぐ酒は1滴たりともない。世界はそんなふうにできあがっているのである。

(つづく)

「お待たせいたしました。当店自慢のウルトラ・スーパー・エクストラ・ドライ・マティーニで
ございます。」

 マルティーニ・エ・ロッシーニは言い、ロング・グッバイの横に屈強な牛喰いどもが好む
酒、ビーフィーター・ロンドン・ジン47度の扁平な瓶を置いた。鮮紅色の衣装をまとった
牛喰いがこちらを睨みつける。

「ありがとう。ある探偵と飲み明かした夜以来だよ。ウルトラ・スーパー・エクストラ・ドラ
イ・マティーニは。」
「承知しております。この街は惜しい人を失いました。もう20年になりますね。」
「おぼえていてくれたんだね。」
「ほかのことは全部忘れてしまいましたがね。」
「いい奴は死んだ奴だというのはいまも変わらない。」
「まったくそのとおりです。ところで、お客様。警官にさよならをする手段は掃いて捨てるほ
どもありますが、友情を終わらせる方法はこの世界にはございませんよ。」
「わかってるさ。」

 マルティーニ・エ・ロッシーニは答えるかわりに、マッキントッシュの古い真空管アンプリ
ファイアーMC275のヴォリュームを少しだけ上げた。1949年10月14日N.Y.C.ダウン
ビートのエラ・フィッツジェラルドが『As Time Goes By』を囁くように歌いはじめた。

 霧は深く、時はいくらでも好きなだけ過ぎていくが、夜はまだ始まったばかりだ。もちろ
ん、ギムレットにも早くはない。やがて、古い友との友情の日々を思う長い夜がやってく
る。急ぐ理由はなにひとつない。時は過ぎゆくままにさせておけばいいし、霧は深いまま
でいい。酒も傾ける盃もたんまりある。おまけに、「究極のマティーニ」を知る伝説のバー
テンダーは目の前でグラスを磨いている。これ以上の贅沢は世界への宣戦布告も同然
である。

(つづく)

 私は2杯目の「究極のマティーニ」を注文した。伝説のバーテンダー、マルティーニ・エ・
ロッシーニは黙ってうなずき、きれいに霜のついたロング・グッバイに静かにビーフィー
ター・ロンドン・ジンを注ぎながら、「これはわたくしから天国のご友人に。」と言ってグラス
を私のほうへ滑らせた。

 マルティーニ・エ・ロッシーニの目からグラスに小さなダイヤモンドがひと粒こぼれ落ちた
ような気がしたが、それはたぶん、気のせいだ。本物のプロフェッショナルはそんなヘマ
を犯したりしない。究極のマティーニがかすかにしょっぱかったのも、やはり気のせいに
ちがいない。長い夜にはいろいろなことがあるものと相場は決まっている。

 友よ。マイ・プライベート・アイズよ。今宵、酔いどれの月はグレープフルーツのように丸
く、遠い。再会までにいったい何杯の「究極のマティーニ」を飲み干し、いったい何回、酔
いどれの月を見上げればいいんだ? 友よーーー。

(Here's Looking at You, Kids!)