台所から望むベランダ越しの風景が、そう悪くもないと思い始めたのはいつの頃だったろうか。
芳醇な香りを放つ珈琲豆を、強火で熱したフライパンの上でさらさらと転がした汗だくの私は、半ば空想に耽るような思いで窓の外を眺めた。
潮の香りが風に乗ってやってくる我が住まいからは、夏を色濃く引き写した空と海、それと、私が長年忌み嫌ってきた例の存在を目にする事ができる。
それは坂だ。数年前、地方開発のあおりを受けて設置された、山沿いに走る醜いコンクリートの道路。
まるい山の外周に沿って蛇行するコンクリートの道路が、私の家から望むことのできる風景の、その左側を著しく穢していた。
道路が設置されるまで、そこには海と山があっただけだったのだ。
抜けるような海の青と生い茂った広葉樹林の緑が、その二つをもって美しいコントラストを描いていたというのに、
どこぞの木っ端役人がいらぬ世話を焼いたのか、いまそこにはぎらぎらと日光を反射するコンクリートの黒と、興ざめしそうなガードレールの白が混じっている。
集落の人間たちは「これで移動が楽になった」と皺だらけの面を破顔させたが、私にとってはいらぬ世話以外の何物でもなかった。
私にとってこの景色は、人の手が入り込まない"動く絵画"だった。
寄せては引いていく緩やかな波模様。聞こえてくるわずかな潮騒。波風が揺らす広葉樹林のさざめき、蝉の声――。
この"絵画"には、"生命の複雑さ"が交錯していた。単調なようでありながら、同じ構図になることなど絶対にあり得ない景色。私はそこに、美を見いだしていたのだ。
だがしかし、いまとなってはなんとまあ穢されてしまったことだろうか。この"絵画"に人の営みが描かれるようになって、美しさが急激に損なわれてしまった気がする。
排気ガスをまき散らして通り過ぎていく車、場違いなボディスーツで疾走するロードバイカー。
あの道路だけでなく、そこを通っていくものさえ、なにもかもこの景色から浮いていて、ちぐはぐなように思える。
この景色は醜い。あの坂が憎い。あんな道路など、無くなってしまえばいい。珈琲豆を煎りながら景色を眺める度に、心の中でそう罵っていた。
あの日、白いワンピースに身を包んだ、勝ち気で生意気な彼女を目にするまでは――。
フライパンの上の珈琲豆が、ばちっ、と爆ぜてかぐわしい香りをあたりに拡散させた。
「しまった」慌ててコンロの火を止め、から煎りでチャフを飛び散らせる。ちょっと煎りすぎてしまったかもしれない。
次いで、皮が充分に飛んだのを確認した私は、ザルに移した珈琲豆を振って冷却作業に入った。
一分かそこらで触れられる温度まで冷めた珈琲豆は、少し焦げてしまっているようだった。
やっちまった。これではハイローストだ。
豆の銘柄的に、このくらいの方が風味が効いて美味いのだが、彼女はミディアムローストがお好みで、ちょっとでも焦がすとすぐ眉をつり上げる。
額に浮かぶ汗を肩にかけたタオルで拭った私は、彼女から下される審判を頭の中で思い描いて、震えがくる思いで台所から望む景色に視線を戻した。
果たしてそこには、潮風に麦わら帽子をさらわれないよう鐔を両手で押さえ込んだ彼女が、いつもの白いワンピースで坂を下っている姿がある。
やれやれ。また今日も怒られるんだろうな。
恐れも期待もないまぜにした複雑な感情が、私の胸中で渦を巻いていた。
だがしかし、遠い坂の上から私の姿を見つけたらしい彼女が、私に向かって大きく手を振っているのを視認して、恐れなど残滓も残さず吹き飛んでいくのがわかる。
あの坂は醜いが、この景色を下ってやってくる彼女は、とても美しい。この風景も、それほど悪くはないのかもしれない。
いつものように、怒られる恐怖よりも彼女と会える期待の方が勝った私は、心地よく鼓動する心臓の音を確かめて、彼女のために煎った珈琲豆をミルに投入した。
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お題間違えたのはマジですまんかった