125 :
名無し物書き@推敲中?:2009/01/29(木) 22:56:53
重くても軽くてもOK 活字中毒
>>125 完結できるかどうかわかりませんが、投下してみます。
夢の続き
男と女はその漁村の駅を出るとその日宿泊することになっている旅館へと向かった。
男が電車の中で観た夢の中で歩いたとおり、大きな屋敷の前をとおり過ぎて
坂を下り、市場の建物の横をとおり過ぎて歩いてゆくと、五分ほどで砂浜に辿りついた。
砂浜から続く斜面に沿った細い路地を上ってゆくと、ほどなくその日の宿に到着した。
「ようこそお越し下さいました」
旅館の女将と従業員が、ふたりを着物姿で出迎えた。
男と女がとおされたのは二階の、海に面した部屋だった。
「どうぞごゆっくり」
お茶を淹れて、茶菓子を出すと女将はふすまを閉めて階下へ降りていった。
男の名は仲村史朗、女の名は初村文江といい、三週間後に結婚式を挙げて、
入籍する予定だった。
女将の出してくれたお茶を飲み終えると、文江は、
「泳ぎに行ってくる」
と、史朗に告げて水着に着替え、ビーチサンダルをつっかけると砂浜へと向かった。
史朗は文江を見送ると、窓辺のテーブルセットの椅子に腰かけてしばらくの間
文庫本を読んでいたが、ほどなくうとうととしはじめて、テーブルの上に本を
置くと、すぐに眠りに落ちていった。
眠りに落ちた史朗に、夢の中で誰かが話しかけてきた。
「おにいさん……あっしです」
「おにいさん……あっしです」
「どなたですか」
「気がついてくれなすったね。あっしです。カンイチです。小料理屋の店員ですよ」
「やれやれ、悪夢の続きですか……何か私にご用ですか」
夢の中で史朗が目を開けると、カンイチが向かい合わせで椅子に腰かけて、
史朗の方を笑顔で見ていた。
「御無事でなによりでした」
「無事も何も夢の中の話でしょうに。馬鹿馬鹿しい。それともまだ何か御用ですか」
「いえね。大した用事ではないのですが、あっしの話を聞いていただけませんか」
「何の話ですか」
「いえね。あっしの生い立ちとでも申しましょうか」
「私がそれを聞いて、どうなるというんですか」
「それがおにいさん。あなたにも大いに関係のあるお話でして……」
「身に憶えはないですがね」
「ええ、そうでしょうとも。なにしろおにいさんが生まれるよりもずっと前のお話ですからね」
「そんな昔の話が私にどうかかわりがあると……おもしろい。そういうことであれば聞きましょう」
「ありがてえ。それではあっしが生まれる前、時代は大正のおわりの頃からお話をさせていただきます」
「どうぞ」
大正の終わり……この漁村に鉄道が開通して間もない頃、この村の網元の三女にふみという娘がおりました。
その当時、歳は十八。
大変な器量よしで、縁談が絶えなかったそうでございます。
その、ふみという娘が十八の夏、とうとう縁談がまとまりまして、
隣村の豊かな農家に嫁ぐことが決まってからの話でございます。
八月のはじめですからちょうど今くらいの次期でしょうか。開通
したばかりの鉄道を利用して、ひとりの男がこの漁村に降り立ちました。
その男の名前は、磯村仁。髪は短く刈り上げ、やたら光る眼でまわりにいる者を
誰彼構わず威嚇する――いわゆる入墨者でございました。
この磯村という男、何生にもわたって人を殺め、今生でも都会で人ひとりを
殺めたあと、この漁村に逃げてきたところでした。
この村にも「荒くれ」といわれる者はおりましたが、この磯村という男には
誰ひとり手出しのできる者はおりませんでした。
おかしな話ですが、この磯村という男も、その日、この宿のこの部屋に泊まった
そうでございます。
ちょうどその晩のことでございます。
網元の娘、ふみは親が止めるのも聞かず、陽が暮れてからひとりで砂浜へ散歩に出かけました。
そして、ちょうどその頃、磯村も酔いを醒ましに砂浜に散歩に出ておりました。
「……こんばんは……」
「おやまあ。これは驚きだ」
ふみが足早に磯村の脇をとおり過ぎようとしたとき、磯村はふみの腕をつかみました。
「なにをするだ」
「こいつは上玉だ。ちょうどいい。冥土のみやげ話ができるってもんだ。こっちに来いや」
磯村はいやがるふみを引っ張って、岩場の方へ連れていきました。
それから約一時間後、ふみは岩場の陰で気を失っておりましたが、「オーイ、オーイ」
という声で目を覚ましました。磯村の姿はすでになく、ふみの着物の前ははだけられた
ままでした。ふみは起き上がると急いで着物を直して、砂浜の方へ歩いてゆきました。
あまたの提灯が砂浜の上を行き交っている様子が目にはいったそうです。
自分の身に何が起こったのかを悟り、再び気を失いそうになったとき、ふみの
目の前に提灯の灯りが飛び込んできました。
提灯の持ち主は網元の下男の三郎という者でした。
「いたぞー。お嬢様が、いたぞー」
三郎はふみを見るなりそう叫んだそうです。すると、砂浜の上のあまたの提灯が
一斉に向きを変えてこちらへ向かってくるのが見えて、ふみは再び気を失いました。
翌日の昼近くになってふみが目を覚ましますと、隣の部屋から両親の話し声が
聞こえてきたそうです。
「……でも……お前さん……あちらのご主人に頭を下げてなんとかならんものかね」
「ふみはもう傷もんだ……いまさらどうしようもねえ。……縁談はあきらめるしか、ねえ」
「でも……お前さん……」
「他に、どうしようがあるか」
「でも……あの子が不憫で……」
「昨日の晩、腕さ折ってでも外に出るのを止めるべきだった」
「ふみは……ふみは……どうするんですか」
「勘当するしか、ねえ」
「そんな……」
そこでふみの父親――網元の中山尋八は右手にひとつの匕首(あいくち)を持って
ふみの部屋のふすまを開けて中に入ってきたそうです。
135 :
名無し物書き@推敲中?:2009/02/04(水) 00:23:33
「ふみ、目が覚めたか……気分はどうだ……」
「おとっつあん……大丈夫です……」
「お前がおった岩場にこれが落ちていた」
中山尋八はふみに匕首を見せたそうです。
「『日の出屋』に泊まっておった客のものらしい……」
「……そのお客さんは……」
「始発の汽車で、町のほうへ戻ったらしい」
「そうですか……」
「ふみや」
「はい」
「お前には辛いことかもしれんが、今度の縁談は……破談だ」
「そうですか……」
「そして……今日から海辺の空き家がお前の家になる。食事を済ませたらこの家
を出ていきなさい。わかったね」
「……はい……」
「トミ子が毎日食事を持っていく。それから、この匕首を持って行きなさい……」
「はい……」
ふみはその日から居を変え、海辺の、小屋のある粗末な家にひとりで住むことに
なりました。
そして……ふみを手込めにした磯村仁は……始発の電車で都会へ戻り、それからすぐに殺め
られました。
後日、警察がこの旅館『日の出屋』までやってきて、その話が網元の耳まで届いたそうです。
しかし話はこれで終わりません。ふみは磯村仁の子供を身籠り、磯村の話を聞いた
村の「荒くれ」どもが騒ぎはじめたからです。
――余所者にお嬢様が手込めにされたそうな……。
――どこのどいつだ……俺がぶっ殺してやる……。
――町からやってきた、磯村という男だそうな。
――この間うろついていた、目の光る男か。
――畜生、あんときに殺しておくんだった。
――磯村は、町に戻って殺められたそうな。
――しかしこのままじゃ、中山の旦那の顔が立たねえ……。
――どうするよ……。
「荒くれ」どもの出した結論は恐ろしいものでした。
毎年、夏のその日に、ふみが磯村に手込めにされた岩場の方へ余所者の若い女が泳いで
ゆくことがあれば、これを手込めにして、そのあと漁船で沖へ運び、おもりをつけて海の
底へ沈める――。
信じられますかね。余所者であるということだけで、何もしていない女に手をかけると
いう。自分たちの身内がそうされたから、余所者に何をしてもいいという考えで彼らは
そう決めたのです。そして、村の「荒くれ」の元締が翌日網元――中山尋八のところへ
顔を出してその旨告げたそうです。中山尋八は、元締の話を黙って聞いて、「よし」とも
「やめろ」とも言わず帰したそうです。
時は昭和へと変わり、その翌年の五月五日のことです。村中を鯉のぼりが彩る中
ふみは元気な男児を出産しました。
赤ん坊の名前は、懇意にしていた村唯一の寺――快雲寺といいます――そこの
住職のお坊さんにつけてもらったそうです。
「『貫一』という名前はどうじゃろうか」
「中山……貫一。好い名前ですね……由来をお聞かせ下さい」
「古人の言葉に『我が道は一以てこれを貫く』とある……ここで『一』とは内なる
まごころにそむかぬこと……どうやらこの児はとてつもない業を背負って生まれて
きたようじゃ……これからどのような困難が待ち構えておることやら……」
「『我が道は一以てこれを貫く』ですか……わかりました。住職さんの仰るとおり
『貫一』と名付けましょう。きっと立派な子に育て上げます」
そうです。もうお分かりのことと思いますが、ふみの産み落とした男児――中山
貫一はほかならぬあっしのことでございます。
ふみ――私の母は一体どのような気持ちであっしを生んだことでしょう。母が一体
何をしたというのでしょう。ただ、あの日の晩に夜風にあたりに散歩に出たという
だけで、運悪くたまたま都会から来ていた入墨者になぐさみものにされて人生狂わされ
ちまった。
あっしが物心ついてこのかた、母から嫌な顔をされたことは一度たりともありません
でした。そして母の口からあっしの父親、磯村仁という男について話を聞くことも
ありませんでした。あっしが磯村のことを聞いたのは村人の口からでした。
村人たちは磯村のことを『鬼』と呼び、あっしは『鬼の子』として扱われました。
そして年が経つにつれて死んでしまった磯村のことはだんだんと忘れ去られ、生きて
いる『鬼の子』だけが取り残されることとなりました。
物心ついてからは、快雲寺だけがあっしの遊び場となりました。それも、他の子どもたち
は庭で遊ぶのに、あっしだけは御御堂の中で同い年の美代という寺の娘と阿弥陀様の見守る
下で遊びました。
学校に上がる歳になると、普段は笑顔を絶やすことのなかった母が珍しく神妙な顔をして
あっしに言い含めました。
「貫一や、これからお前はいろいろなつらい目に遭うかもしれない……でも、何をされても、
何を言われても決して仕返しをしてはならねえよ。いいね」
あっしがこくりと頷きますと、母は、
「よし、いい子だ」
と、言って、いつもどおりの笑顔に戻り、あっしもつられて笑顔になりました。
学校へ上がると、あっしは当然のことのように苛められました。
まず、登下校の時に石ころを投げつけられない日はありませんでした。
授業っていうんで、席に着くと、後ろの席の奴が悪さをしてくる。そしてそれに
構っていると教師は後ろの席の奴ではなく、あっしのことを叱りました。
休み時間には教室でひとりぼっちでいることがあたり前のこととなり、いつしか
あっしは、世の中こんなものだと思うようになっていきました。
でも、そんな暮らしの中でもひとつだけ嬉しいことがあったんです。
自分に悪さが仕掛けられたり教師から叱られたり、廊下に水の入ったバケツを
持って立たされていたりする度に、お寺にいるはずの阿弥陀様があっしの頭の中
に浮かんできて、笑いかけてくださったんです。
阿弥陀様はただ笑うだけで何も仰いませんでしたが、あっしは阿弥陀様が自分の
頭の中に来てくれるだけで嬉しかった。
そして寺の娘の美代だけはあっしに優しくしてくれました。
小学校四年の時のことでした。いつものように学校からひとりで歩いて帰っていると、
いつものように石ころを投げつけられました。そして、その時ちょうどそこに居合わせた
美代があっしのことをかばってくれたんです。
「お前ら、貫一が何をしたっていうだ」
「女はすっこんでろ」
「いいや、すっこんでいられねえ」
「こいつは『鬼の子』だあ。おめえ、『鬼の子』にひいきするか。それならお前も
『お寺の子』じゃなくて『鬼の子』だ」
「おめえら、よく見ろ。この貫一のどこに角が生えているっていうだ。鬼っていう
のは、おめえ、角を生やしているもんだべ。ちがうか。おらの言っていることは
ちがうか」
「角はねえけど……鬼の子だ……うちのかあちゃんが言ってた……」
「ばかこくでねえ。鬼の子がどうやってお寺で遊べるかね。おめえらは庭でしか
遊んでねえけど、おらたちは阿弥陀様の下で遊んでいるべ。貫一が鬼の子だったら
とっくに阿弥陀様に追い出されているってもんだ」
いつも石ころを投げつけてきたう子供のうちのひとりが小さな声で言いました。
「……んだ……」
「貫一は『鬼の子』でねえ」
その日を境に、学校での苛めはうそのようにぷつりと止みました。
小学校を卒業し、当時の義務教育を終えたあっしは駅の近くにあった小料理
屋で丁稚として働き始めました。
小料理屋の主人は、愛想のいい、優しい人で、あっしによくしてくれました。
村人の多くがあっしのことをけがらわしいものでも扱うようにあしらう中、小
料理屋の主人と奥さんだけはあっしのことを、あたかも実の子でもあるかのよ
うに扱ってくれたんです。
このご夫婦には子供がいなかったからなのか、それ以上の理由があったのか
はあっしにはわかりませんでした。
主人は、一年ほどするとあっしに魚の仕入れから捌き方まで丁寧に教えてく
れました。
142 :
名無し物書き@推敲中?:2009/02/12(木) 00:13:55
物心ついたころから、毎年八月のはじめのある日になると、あっしは決まっ
て快雲寺に二晩預けられました。
不思議なことに、住職に連れられて家へ帰ると母はいつもやつれた顔で眠っ
ていたものです。
小料理屋の丁稚として働きはじめてからというもの、毎年母にそのことを問
いつめておりましたが何も教えてもらえませんでした。
小学校を卒業してから三年後に、母はあっしを連れて、快雲寺の側にある小
さな空家に引っ越しました。
そしてその年からは、八月のはじめにあっしが快雲寺に預けられることはな
くなったのです。
あっしが十七のときのことです。
夏のある日のこと、「荒くれ」と呼ばれていた男がひとり酔っぱらって、小料
理屋にやってきました。
「酒をくれ」
「おにいさん、もう店仕舞いの時間だよ。一杯飲んだら帰っておくれ」
男はカウンターの席に座ると、おかみさんが出したお銚子から直接口に酒を
流し込んで、すぐに酔いつぶれて眠ってしまいました。
「あらあ、しょうがないねえ。貫一、済まないけれどこのおにいさんを家まで
連れていっておくれ。今日は店仕舞いはいいからさ」
男の家は、あっしと母が以前住んでいた家の近くにありました。
八月のはじめのその夜、男をかついでその家の近くに差しかかったときに、
女の人の悲鳴が聞こえてきたような気がしました。
後ろからは「おーい、カンイチ」と、小料理屋の店主があっしを呼ぶ声が聞
こえてきましたが、あっしは道端に男を寝かせると、悲鳴が聞こえてきた、以
前住んでいた家に走って向かいました。
声の主は見たことのない若い女の人で、その家の小屋の中では地獄絵図が繰
り広げられておりました。
あっしはわけがわからなくなりながらも、必死でその『地獄絵図』を止めさ
せようとしましたが、後ろから誰かに殴られて、気絶してしまいました。
後頭部ににぶい痛みを感じて起き上がると、あっしは砂浜の上に寝っ転が
っていて、波の音が女の人のすすり泣く声のように感じられました。
「目が覚めたか」
声の主は小料理屋の店主で、神妙な顔をしてあっしの方を見ておりました。弱
い月の光に照らされたその顔がいやまして寂しげに感じられたのはあっしの気
のせいだったのでしょうか。
「おやじさん……」
「貫一……」
「あっ」
あっしは先ほど目にした『地獄絵図』のことを思い出して、小屋の方へ向お
うとしましたが、店主に足をひっかけられて、砂の上につっぷしてしまいまし
た。
「よせ……お前ではどうにもならねえ」
店主の……おやじさんの顔つきは厳しいものになっておりました。
146 :
名無し物書き@推敲中?:2009/02/18(水) 00:36:45
「なんであんなむごいことを」
「貫一……今の戦争が続けばおめえにも来年は赤紙がくる……もう一人前の大
人だ」
「はい……」
時は太平洋戦争のまっただ中でございました。
「おめえの父親は余所者だ……おめえのオフクロさんはさっきお前が見た女の
人と同じような目に遭うた……」
「そんな……」
「それに、おめえが観た地獄の沙汰は……網元も黙認しているって噂だ……」
「網元が……だったら余計黙ってみていられねえっ」
あっしが起き上がろうとすると、おやじさん――店主――に殴りつけられま
した。
「おめえの……出る幕でねえっ」
おやじさんは泣いておりました。あっしはどうすることもできず、ただ泣き
ながら、
「ちくしょう、ちくしょう」と声をあげて拳で砂を叩いておりました。
家に帰りつくと、母は仏壇の前で読経をしておりました。あっしに気づいた
母は読経を止めて、あっしの方へ向き直りました。
あっしが泣き顔を隠すようにしてぷいと横を向きますと、母は、
「貫一、こっちへ来なさい」
と、ひと言言いました。
あっしが母の側へ行きますと、母も泣いておりました。
「おめえを決して、ひとりにはしねえよ」
そう言うと、再び仏壇の方へ向き直り、読経をはじめました。
そのとき、あっしは何故あっしが夏の決まった日に快雲寺に預けられていた
か、母が何故やつれた顔で眠りこけていたか、母がどのような思いであっしを
生み、育ててきたか、全てを悟りました。
あっしは赤ん坊のように思いっきり母にむしゃぶりついて泣きたい気持ちで
したが、黙って後ろで正坐すると母と一緒に読経を始めました。
その翌日、網元の旦那――あっしの実の祖父――中山尋八が小料理屋へやっ
て参りました。
「いらっしゃい……中山の旦那」
中山尋八がこの店へやってくることは、店主にとっても意外な出来事であっ
たようです。
「何か、儂が来てはいかん理由でもあるかな」
「いえ、とんでもねえ。貫一」
「へい」
あっしが中山尋八に付け出しとお銚子を出しますと、彼は黙って吞みはじめ
ました。
「刺身を」
「へい」
母親が勘当された身であることから、『おじいちゃん』とは呼べないものの、
中山尋八とあっしに血のつながりがあることは当時すでに知っておりました。
149 :
名無し物書き@推敲中?:2009/02/24(火) 11:28:00
中山尋八は、お銚子を一本追加して、鯛の刺身を平らげますと、こう言って
店を立ち去りました。
「『鬼』の味がした……」
あっしは黙って、すっかり空っぽになった器を取り上げて、カウンターの中
へ戻り、洗いはじめました。中山尋八が刺身を食べた皿の上には大根のツマひ
とかけらとして残っておりませんでした。
あっしには不思議でなりませんでした。この小料理屋にはいろいろなお客が
いらっしゃいますが、必ず料理を食べ残さずに帰ってゆくお客は三人しかいな
かった。
ひとりはあっしの祖父、中山尋八、そして村でただひとりの弁護士の足立先
生、あとは快雲寺の住職――この三人だけでした。
そしてその日から、中山尋八は、三日と空けずにこの店にやってきては、あ
っしの作ったお造りなどを食べて、
「『鬼』の味がした」
と、言い残しては帰ってゆくのでした。
あっしが十八の夏、とうとう赤紙が送られてきました。
出征の日、駅に見送りにきてくれたのは寺の娘の美代――美代は美しい娘に
成長しておりました。そして母親のふみのふたりだけでした。
「貫一」
「はい」
「……」
母は神妙な顔をして、二の句を告げることができずにおりました。
――必ず生きて帰ってくるのだよ。
あっしには、母の言いたいことはすぐにわかりましたので、笑顔で答えまし
た。
「なんも……心配いらねえよ」
美代が雑嚢(ざつのう)の中から一枚の布きれを取り出してあっしに渡して
くれました。
「あれ、これは……」
「千人針。おらが縫ったんだ……」
「美代……」
「『虎は千里走って千里を戻る』って言うだ。貫一もおらも寅年生まれだ……
貫一……本物の虎になって、きっと、きっともどって来るだよ」
美代が頭巾の中で顔を赤らめているのにあっしは気がつきました。あっしは
千人針を受け取ると、背嚢(はいのう)に仕舞って汽車に乗り込みました。
駅舎の数か所で『万歳』の声が響く中、あっしはひとり、車中の人となりま
した。
入隊してからのことは、よく憶えておりません。
憶えていることといえば、上官によく殴られたことと、それから船に乗せられ
て南の島へ連れていかれたことです。
あっしは人を殺めました。それも数え切れないくらい。
しかし、またしても阿弥陀様が頭の中に現れてきました。その時の阿弥陀様
は寂しげな顔をしておいででした。あっしは人ひとりを殺めるたびに心の中で
手を合わせました。頭の中の阿弥陀様も手を合わせておいででした。
美代の縫ってくれた千人針のお陰でしょうか、あっしは一年あまりで日本へ
帰ることができました。
152 :
名無し物書き@推敲中?:2009/03/01(日) 23:32:11
出征して村に戻って来ることができたものはあっしも含めてわずか三人でした。
遺骨すら戻ってこない人がほとんどでした。
あっしは再び、駅前の小料理屋で、今度は丁稚ではなく二番手として働きは
じめました。
そしてあっしが出征から戻ってきて間もなくのこと、中山尋八が店を訪れま
した。そのときの中山尋八はなぜか上機嫌でした。
「『鬼』が戻ってきたと聞いて、やってきた」
あっしが黙ってお銚子とお造りをカウンターの上に置きますと、中山尋八はぐ
い吞みをもうひとつくれと言い、あっしが出しますとそれに酒を注いで黙って
あっしの前に置きました。
店主はその様子を見て、
「貫一……」
あっしに目配せをしてきました。
「へい」
あっしは返事をすると、笑みを浮かべてあっしの方を見ている中山尋八に、
「ありがたく、ちょうだいします」
と、言って、ぐい呑みから酒を飲みました。すると、
「いい、呑みっぷりだ」
そう言いながら中山尋八は自分のぐい呑みを差し出してきましたので、あっしは
「失礼します」
と、言ってその中に酒を注ぎました。
酒を飲み干しますと中山尋八は、
「何人殺したんだ」
と、いきなり訊いてきました。
「……すみませんね。憶えていねえもんで……」
中山尋八は、
「所詮は鬼の子、殺しなんぞ飯を食うのとおなじようなものか。なあ、ご主人」
ひとり言とのようにそう言うと、黙ってお造りを食べはじめました。
あっしはやはり不思議でなりませんでした。
何が不思議だったのかというと、中山尋八の食事の仕方です。あっしが出征
する前と変わらず、その日も中山尋八は何ひとつ食べ残すことなく、店をあと
にしました。
あっしが食事の仕方に関心を持つのには理由がありました。
常々店主から、
「中山の旦那、足立先生、快雲寺の住職は、大事なお客さんだ」
店仕舞いのときなどにたびたびそう聞いていたからです。あっしが、なぜです
かと訊き返すと、
「そりゃ、おめぇ、食事の仕方を見ればわかるってもんだ。あのお三方はこれ
まで食べ残しをしたことがあるめえ」
「ああ、皿を洗うときに楽ですからね」
店主は笑うと、
「そうでねえ。あのお三方は、下々まで目の届いた、出来た方達だということ
だ」
「へえ、そうなんですか」
そうした話を店主から聞いていたから、あっしには中山尋八が何故あっしに
辛くあたるのかが不思議でなりませんでした。
弁護士の足立先生、快雲寺の住職はあっしを大事に扱ってくれる数少ないお
客さんだったから、店主の話が出鱈目だとは思えなかったからです。
155 :
名無し物書き@推敲中?:2009/03/06(金) 15:41:24
その年の秋のお彼岸のこと、店が休みの日に家におりますと、母から頼まれ
ごとをされました。
「おはぎを作ったから、悪いけど、貫一、快雲寺の住職さんに持っていってお
くれ」
あっしが快雲寺へ行きますと、住職は法事のために出かけており、美代がひ
とりで留守番をしておりました。
「ちょっと、寄っていかねえか」
おはぎの礼を述べたあと、美代が誘ってきました。
美代はあっしをお御堂へ連れていきました。
お茶を淹れたあと、母が持たせたおはぎの中からふたつづつ三つの皿に取り
分けますと、ひとつを阿弥陀様に、それからもうひとつをあっしに、最後のひ
と皿を自分で取りました。皿を渡されたときにかすかに触れた美代の指がとて
も柔らかく、温かかったのを憶えております。
「貫一のかあちゃんは、料理がうまいな」
あっしが黙って照れ笑いを浮かべていると、美代は言いました。
「今度はおらがおはぎを作るから、海の見える丘で食べねえか」
「住職さんにしかられちまうよ」
「そんなわけはねえべ」
あっしはおはぎを食べてお茶を飲むと、そそくさと帰りました。そのとき、
あっしは美代があっしのことをからかって軽口を叩いた――そう思っておりま
したが、その翌週の休みの日に、美代はおはぎと水筒に詰めたお茶を持ってうちに
やって参りました。
快雲寺の上にある、村の共同墓地のさらに上にある丘の上に、あっしは美代
に導かれるままにやって参りました。彼岸花の紅色が鮮やかに秋の陽に映えて
いたことを憶えております。そして、美代も唇に紅を差しており、彼岸花と同
じように鮮やかな色をしておりました。
「ここらで、いいべ」
あっしが家から持ってきたゴザを広げますと、ふたりしてその上に座りました。
あっしは差し出してきた美代の手からおそるおそるおはぎを取りますと、海
を眺めながら食べました。
「いい、天気だべ」
美代がそう言ったきり、ふたりともしばらくの間押し黙って海を眺めておりました。
ふいにあっしは出征するときに美代から貰った千人針の礼を述べていなかっ
たことを思いだしました。
「美代。無事に戦地から帰って来られたのもおめえのおかげだ……」
「なんでだ」
「あの、千人針……あのおかげで無事に帰って来られたような気がする」
あっしがそう言いますと美代はうっすらと涙をうかべて、
「貫一が出征してから、おらは毎日阿弥陀様にお祈りしていたんだ」
「そうか……」
「でも、おらも、貫一にお礼言わなくちゃならねえ」
「なんで」
「昔、お御堂の蝋燭立てをおらが壊して、おらの代わりに貫一が叱られたこと
があったべ……あの時のお礼言っていなかった」
「ああ、そうだったなあ」
「それと、お御堂にお供えされていたお菓子を食べた時も、貫一が代わりに叱
られてくれたべ……」
「ああ、そういうこともあったなあ。あ、ひょうとして今日のおはぎはそのと
きのお礼だべ」
すると美代は顔を赤らめて俯きました。
「そうでねえ……」
159 :
名無し物書き@推敲中?:2009/03/18(水) 01:59:00
ふいに美代はあっしの方に向き直ると、
「貫一……おらの作ったおはぎ、うまかったか」
そう訊いてきました。
「……うん。おらのおふくろのと同じぐらい……いいや、それよりうまかったべ」
「そうか……」
美代はしばらくの間押し黙って俯くと、
「貫一……おらの作ったおはぎ、一生食いたくねえか」
そう訊いてきました。そのときのあっしは、深い考えもなしに、
「ああ、こんなうまいおはぎだったら、毎日食っても飽きねえ」
美代は呆れた顔をして、笑うと、再び顔を赤らめて、
「そういう意味ではねえ」
と、言いました。
「じゃあ、どういう意味だあ」
美代は、黙ってそそくさと帰り支度をすると、
「今日は帰るべ」
と、言いました。
そして、その翌週からあっしの休日には、美代は弁当などをこさえてあっし
の家へやって来るのでした。
160 :
名無し物書き@推敲中?:2009/03/27(金) 06:23:21
あっしは幸せでした。あるいはそのときには気がついていなかったのかも知
れませんが、毎週の休みの日には美代の作った料理を食べながら美代と他愛の
ない話をするのがあっしの日常となり、あっしはなんの疑問も持たず美代との
逢い引きを楽しんでおりました。
春になり、丘の上に菜の花が咲き誇る季節になりますと、美代が神妙な顔を
して訊いてきました。
「貫一」
「なんだべ」
「貫一は……好きなひとはいるのか……」
その言葉を聞いて、あっしはいきなり頭を殴られたような気がしました。あ
っしは困りました。答えようがなかったからです。
ひとりは寺の娘――もうひとりは『鬼の子』――どう考えても、美代とあっ
しの釣り合いが取れるはずがない……。それまでのあっしは、美代が厚意から、
そして幼なじみの付き合いの延長としてあっしを誘ってくれているものとばか
り思っており、美代と付き合う……そしてその延長に……そんなことは、及び
もつかないものと思っていたからです。あっしは逆に美代に訊き返すことでそ
の問いかけをはぐらかそうとしました。
「美代は……どうなんだ」
美代は俯くことなく、顔を赤らめることもなく、あっしのほうに向き直り、
両目をまっすぐに見つめると、話を切り出しました。
「実は、きのう、とうちゃんに話したんだ」
「なにを」
「貫一、おめえと一緒になってもいいかっていう話をしたんだ」
あっしは声を立てて笑いました。
「貫一、なにがおかしいべ」
「美代、おらをからかうにも、ほどがあるっていうもんだべ」
「からかってなんか、いねえ」
「うそだあ」
「……とうちゃんは、貫一ならいいって言ってくれたべ……あとは貫一、おめえ
がいいって言ってくれたら……」
あっしは頭を抱えたくなりました。
「いいもなにも……美代……おれはどうしたらいいかわからねえ」
「おらのことは、嫌いか」
「いいや……好きだあ……」
「じゃあ、なんも問題ねえべ。話を進めても、いいな」
そう告げると美代はあと片付けをして、意気揚々と帰っていきました。
美代はぼーっと突っ立っているあっしに向かって、
「貫一、また来週な」
手を振りながらそれだけ告げると快雲寺の方へ降りていきました。
163 :
名無し物書き@推敲中?:2009/04/08(水) 12:06:46
結局、あっしはわけがわからぬまま、美代と婚約する運びとなりました。
実際のところ、あっしはなんの実感もわかないまま、その年の七月の終わり、
梅雨が明けた頃に三三九度を交わし、美代と所帯を持つようになりました。
憶えている限りにおいて、そのときがあっしの人生の中で一番幸せなときで
ございました。物心がついてからというもの、あっしの人生の中で所帯を持つ
などということは想像もしたことがございませんでした。
父親を知らなかったあっしにとって、家庭で『主』というものがどのように振る
舞うべきかわからない中、美代はよく尽くしてくれました。しかし、そのあっしの
新婚生活も、二十日ともたなかったのでございます。
その年の八月のある日のことです。
夕方頃、小料理屋には、弁護士の足立先生がやってきて、あっしに祝い袋を
くれました。
あっしはそのお礼と言って、心を込めて鯛のお造りを作って差し上げました。
「腕を上げたなあ、貫一。お前が丁稚だったころがウソみてえだな」
「ありがとうございます」
陽が暮れてから小一時間ほど経ったころ、ひとりの若い男が小料理屋に飛び
込んできました。その男の顔はこころなしか蒼ざめておりました。あっしの方
を一瞥しますと、その男は足立先生の隣に腰かけました。
足立先生が男に声をかけました。
「おにいさん、ひとりかね」
「ええ、そうです」
「よく、ひとりでこんな町に来なすったね」
「いえ、ふたりで来たのですが……」
「ほう、それでお連れさんは……」
男の話を聞いたあっしと店主はみるみるうちに顔色が変わっていったにちが
いありません。話を聞き終えると、足立先生は申し訳なさそうに言いました。
「……それはお気の毒に」
それから先は……おにいさん、あなたが先ほど夢の中で見たとおりですよ。
あっしは、その男とお連れの女の人を助け出して駅前に差しかかったところ
で、中山尋八に呼び止められました。
そのときのあっしは、くやしくて、くやしくて……。
祖父の力を使えば、荒くれ――その当時はほとんど戦死して、村中でもふた
りしか残っておりませんでした――その荒くれたちの凶行を止めさせることも
できたはずなのに……。
そして、母のこともあります。なんの落ち度もない母を、あっしとふたりき
りにさせていたこと。
中山尋八に呼び止められたとき、あっしは一瞬おびえましたが、許せない―
―そんな気持ちの方が勝りました。そのとき、あっしは美代と所帯を持つと
きに母から、「お守りだ」と言われて渡された匕首を懐に持っておりました。
あっしは頭に血がのぼったままで、全身で中山尋八に向かっていきました。
屋敷の中に入ると、中山尋八は笑っておりました。あっしは思いました――
この期に及んでまだコケにするつもりか――と。
母の、そしてこれまでなぐさみものにされて海に捨てられたすべての女の
人たちのために、あっしは目をつぶると懐から取り出した匕首で中山尋八の腹
を突きました。
「ううっ」
するとどうでしょう。あっしが目を開けてみると、中山尋八は優しい笑みを
浮かべながら、あっしの両肩に手を添えておりました。
「うわーっ」
あっしは思わず大声を上げ、その声は周囲に響き渡りました。
「貫一や」
「……旦那……」
「旦那じゃ、ねえ……じいちゃんと、呼んでくれんか」
「……」
「貫一、ようやってくれた」
「えっ」
「万が一にもお前が儂を殺めることがあれば、毎年行われてきた『凶行』をや
めるよう、『荒くれ』の元締と賭けをした……金輪際、夏に余所からいらした女
の人が殺められることは、ねえ」
「ええっ」
「儂の目は間違っておらんかった……」
「……じいちゃん……」
「貫一……。儂の力が足らんばかりに、このようなことになってすまんかったな
……」
「……じいちゃん……」
「これから先は足立先生を頼るがいい。これから、何十年か苦労することになる
が……これしか方法はなかった……貫一……お前は儂の自慢の孫じゃ……」
それだけ告げると、中山尋八――じいちゃん――は、目を閉じて事切れました。
気がつくと、中山尋八の着物はたっぷりと血を吸っており、いつの間にか屋敷
の中から出てきていた叔父があっしの側に立って、うなだれておりました。
その翌日、警察署内にある面会室で、あっしは足立先生と話をしました。
足立先生は、美代と母からの手紙を預かってきておりました。
あっしは足立先生の顔を見て、祖父の言った『足立先生を頼るがいい』という
言葉を思い出し、先生がすべてを祖父から聞いていた――そんな気がしました。
あっしに言い渡された判決は『無期懲役』でした。
収監されてから二十年後――桜の咲く頃、あっしは刑務所から仮釈放されました。
二十年ほどの間に、この国の風景はおどろくほど変わっておりました。汽車は
すでに走っておらず、あっしは電車に揺られて故郷の漁村へ帰りました。
家の前に立つと、
「ばあちゃん、かあちゃん、行ってくるよ」
と、いう声が聞こえてきました。家の引き戸ががらっと開くと、白い割烹着に
身を包んだ青年が出てきて、あっしの姿を認めると会釈して、足早に立ち去りました。
青年――あっしの息子と入れ代わりにおそるおそる引き戸を開けますと、美代が
驚いた表情であっしを迎え入れました。
「おまえさん……」
目の前の湯呑みの中からはお茶が湯気を立てておりました。
「お努め、ご苦労様でした」
美代と母は、あっしのことを笑顔で迎えてくれましたが、あっしは逆に気持ちが
落ち着きませんでした。
「あの、青年は……」
「あなたの息子ですよ。寛太と名付けました。『寛大の寛』に『太い』と書きます」
「そうか……」
「小料理屋のご主人が、あなたが帰ってきたら隠居して、店を継いでもらうって……」
「ご主人が……」
「親子で仲良く店を切り盛りしていってくれって……そうおっしゃっていましたよ」
「そうか」
しかし寛太――あっしの息子は、あっしと口をきこうとはしませんでした。
あっしは翌日から一番手として小料理屋で働きはじめましたが、寛太は仕事の
上での会話以外はあっしと言葉を交わすことは決してありませんでした。
ある日のこと、お店が休みの日の午後にあっしは祖父――中山尋八の墓参り
に行きました。ちょうど美代と逢い引きをしていたあの丘の下にある共同墓地
です。
墓の前で手を合わせたとき、丘の方から誰かが言い争う声が聞こえてきました。
あっしは急いで丘の方へ向かいました。
丘の上では見知らぬ男が、寛太――息子の胸ぐらを掴み、威嚇しておりました。
その近くでは娘――寛太の恋人と思われる娘が叫んでおりました。『誰か、誰か』
と……。
結局、寛太は男に殴られて気絶してしまい、その男が娘に手をかけようとした
とき、あっしは後ろから男を殴りつけました。
こちらの方を振り向いた男の顔を見て、あっしは思わず息を飲みました。
男は若い頃のあっしに瓜二つの顔をしていたからです。
あっしはその男ともみ合いになりました。二、三発殴られて二、三発殴り
返したと思います。
気がつくと男のうめき声が聞こえ、あっしの手は血まみれになっておりました。
祖父の墓参のついでに、墓に供えて帰ろうと思って持ってきていた匕首を懐
に持ったままだったあっしは、男と組み合っているうちにそれで男の腹を突いて
いたようです。男は倒れてそのままうずくまりました。
呆然として立っているあっしの横で寛太がうめきながら身を起こしたのと同時に
銃声が響き、胸を撃たれたあっしはその場に倒れました。
男はそのまま事切れました。
「おやじ」
寛太が撃たれたあっしに駆け寄ってきました。
「寛太……これを、俺の墓に……一緒に……」
あっしは最後の力を振り絞って、寛太に匕首を渡しました。
「おやじーっ」
おにいさん、あっしの話はこれだけです。
この旅館、『日の出屋』の少し上に快雲寺という寺が、その上に村の共同墓地
があり、あっしの墓があります。
最後にあっしの法名をお伝えしておきましょう。
『釋貫』です。
お休みのところ失礼しました。
「ちょっと、待ってくれ。今の話が私とどう関わりがあると……」
「それは、おにいさん。すぐにわかることですよ……この村を一回りすればね」
史朗は目を覚ました。部屋の中では文江が海水浴から戻ってきており、タオル
で濡れた髪を拭いていた。
不意に、史朗の中で、今しがた夢の中で見た貫一の母『ふみ』の顔と文江の顔が
重なった。
「どうしたの、変な顔をして……」
「……いや、なんでもない……ちょっと散歩に出てくる」
頭の中が混乱した状態で、寺――快雲寺の横をとおり、坂を上って共同墓地の
中に入って行くと、一基の墓標が史朗の目についた。墓標の正面には『南無阿弥陀仏』
と彫り込まれており、その横には『釋貫』と刻まれていた。
墓標の前にしゃがんで手を合わせると、史朗は丘の上に上がった。
一匹の野良犬がうろうろしていた。
丘の上でひとり佇んでいると頭の中に夢の中で見た光景が生々しく蘇ってきた。
いたたまれなくなった史朗は逃げるようにして駅に向かうと、やはり夢の中で見た
小料理屋がぽつんと建っていた。
店の中へ入ると、歳はとっているものの、明らかに夢の中で見た青年――貫一の
息子の寛太とおぼしき男がカウンターの中にいた。
「いらっしゃい」
「酒を……」
「へい。少々お待ちを……」
史朗が小料理屋で酒を飲んでいるうちに、陽が落ちて、辺りが暗くなりはじめた。
174 :
名無し物書き@推敲中?:
酒に酔った史朗がふらふらと海辺の方へ歩いてゆくと、先ほど丘の上にいた
野良犬がいた。史朗の姿を認めた野良犬は史朗に向かって吠えはじめた。
犬の鳴き声を聞いた野犬が何匹も集まってきて、史朗は囲まれてじわじわと
海の方に追いつめられた。史朗が海の中に両膝まで浸かったとき、いきなり潮の
流れに足を取られて倒れ、そのまま離岸流に運ばれて沖の方に流された。
沖の方に流されて行く史朗の目に無数の点が映った。それは次第に大きくなり、
無数の人魚が史朗に向かってくる様子が目に映った。人魚の顔がはっきりと見えた
とき、それが、この漁村で犠牲になった女たちのものだと史朗は悟り、自分が
何者であるかを悟った。
人魚の姿が鮫の姿に変わった瞬間、史朗の体中に痛みが走った。
史朗の右手の人差し指が千切れて宙に飛んだ。
ちょうど海面の上を飛んできた一羽のカモメがその人差し指をくちばしにくわえて、
血で染めたような赤い月に向かって飛び去って行った。
了