あなたの文章真面目に酷評しますPart64

このエントリーをはてなブックマークに追加
112テクスト論と酷評スレについて 1/5
 テクスト論。触りぐらいしか知らないけれど腑に落ちる考え方だな。

 創作やってたこれまでの経験の中で、何となく書いた表現、ストーリー展開に特別の意味を持たれて解釈されたことって
ない?
「あるところを取り上げて褒められた・批判されたんだけど、ぶっちゃけ自分そんなつもりで書いてないんだけれど。なん
となくだし」というやつ。
 作者が言うんだから、彼らの解釈は間違ってるのかな。それとも誤解されるように書いた作者自身が下手だったのかな。
「作者は、伝えたいことをきちんと文章で読者に伝えられなければならない」と定めたときには、誤解されるように書いた
作者が悪いと言えるね。一方で、「読者は作者の伝えたいことを正確に理解しなければならない」と定めたときは、理解力
が無い読者が悪いと結論付けることもできるだろう。けれど、ここで言いたいことはそのどちらが正しいのか間違っている
のかではなくて、そこから一度、離れて考えてみようじゃないかということ。
 作者がどう解説しようとも、出来上がった小説そのもの、中身自体は変わらない。逆に読者がいくら後書きで解説したと
ころで、当たり前だけれど小説の文章が書き直されるわけでもない。
 小説という名の文章作品は、後付けで誰がどのように主張したところで、作品が書き換えられることはなく、文章作品が
ただそこに存在しているのみなのだ。ただ在る文章作品は、偶然にしろ誤解にしろ多様な解釈が可能であって、それと同時
に作者本人の言うような解釈も可能ってことだね。
 繰り返しになるけれど「読んで、だからどう思った」のプロセスを考えてみよう。まず文章作品が存在していて、それを
読んだ各人が、論理的か感覚的か、あるいは無意識的に『解釈』した上で、だからどう思ったに到達するんだ。
 この『解釈』の過程は、当たり前だけれど各々の読者の頭の中身に属していることだから、人それぞれ、同じ人だとして
もその時の状態に左右される。
113テクスト論と酷評スレについて 2/5:2008/08/06(水) 01:03:20
 リンゴを目の前に置かれて、腹が減っているときなら美味そうに見えるし、満腹のときならなんとも思わないし、リンゴ
がそもそも嫌いなら人なら不味そうに思うだろうし、絵や写真に興味のある人ならば味から離れて、リンゴの形や色につい
て思うかもしれない。作った人は、このリンゴはどこどこの木のどの枝の、と苦労を振り返るかもしれないし、今年の天候
を考慮して工夫して育てて、こういう味がするはずだから絶対に美味い。と思うかも知れない。だけれども誰が何と言おう
と、目の前のリンゴはそのリンゴでしかない。たとえ作り手がどのように見ていようが、存在しているリンゴそのものは何
も変わることがない。
 リンゴと同様に、文章作品そのものもまた作者の解釈から切り離されて、ただ存在しているものなのだ。こう、考えるこ
とで作者が最高傑作だといくら熱弁を振るおうが、多数の読者にとっては駄作だった、というズレを説明することもできる
だろうし、読者うけ、ジャンルのメインターゲットになっている読者ニーズを想定し、流行などのマーケティング的な見方
で作品を評価することの意味の説明もできるだろう。また、作者が自分の書き上げた文章について、自分では分からないか
ら客観的な意見を求め、それを取捨選択してフィードバックする一連の行為、酷評スレの存在意義も説明することだってで
きるだろう。
 筆者が不眠不休で魂を込めようが鼻糞ほじりながら書こうが、文学賞作家が書こうがそこらの素人が書こうが、結果とし
て存在しているのは、産み落とされた文字の集合、文章作品のみなのだ。
 だから、作品の価値とは、創作の過程で決まるものではなく、読者が作品に与えるものなのだ。評価とは目の前に置かれ
た文章作品(テクスト)を読み解く読者一人一人の、内なる知的活動の結果だから、文章作品の価値を判断することとは、
読者各々の中での創造とも言える。
 「目の前に一つの小説があります。これを読んでこの小説は何かを答えてください」
と数人に訊ねたときに、帰ってくる答えには彼らの各々、これまでの実体験、雰囲気、行間、哲学的暗喩、あるいは既存の
小説との比較等々、読み手のとして彼ら自身を投影した物が生じている。小説の見方、小説を価値付けるプロセス。ここに
読者という存在は欠かせない。
114テクスト論と酷評スレについて 3/5:2008/08/06(水) 01:04:59
 小説を価値付ける行為そのものはあくまで読者の個人に属している物、作り手の意志から放れた物としたときに、感想批
評はここで正しい、間違っているというものから解放される。
 読者の代表的な意見を的確に指摘した物、他の人が思いも寄らない高度な思索が展開された物、切れ味のある解釈はそれ
だけで価値がある。この視点からみると感想や批評も一つの表現物としての価値が生じるといえる。このとき感想批評の善
し悪しとは、評者の解釈を言語化して展開し、他者を納得させられるかどうかが注目点で、評価の結論そのものではないの
だ。批判的な感想批評はより難しさを伴う。内容批判に到っては、一度自らが作品をどう捉えたかの妥当性が問われるので、
単なる根拠の無い批判から
 例えば村上春樹の「風の声を聴け」には良い解釈はあれど、『正しい』解釈があるのか?という話かもしれない。

115テクスト論と酷評スレについて 4/5:2008/08/06(水) 01:06:03
 テクスト論から見たときにこのスレの指摘はどのような役割をもつのだろうか。
 テクストから読者の中にイメージが生成される。素直な文章ならば、その生成は楽に行える。いわゆる5W1H等も読者の中
の物語生成をどれだけ助けるかということになる。 テクスト内の記述で時系列、空間的に辻褄が合っていなければ、読者
の中で生成された物語は破壊されてしまうし、比喩表現、堅さ、柔らかさの言葉選びと言った文体も読者のイメージ生成に
影響を与える。加えて、場面の雰囲気、速度感、心情の流れ、こうした物を読者に上手に生成させるテクストかどうかまで
問われることだろう。
 それができているテクストは良いテクストだと言え、できてないテクストは悪いテクストだ。このような切り口でテクス
トを評価することが『あなたの文章真面目に酷評します』という批評、指摘なのだ。
 読者のイメージ生成を困難にする悪文、単語の誤用、重言、主語−述語関係からの視点のぶれ、理解不能な比喩、テクス
ト内の矛盾。これは比較的センテンス単独の問題で、このスレでの多く指摘はここに留まる。単純な校正で、悪く言えばつ
まらない揚げ足を取りの指摘とも言える。
 独り善がりに進んでいく展開、描写の過不足、濃淡、より突っ込んで文体選択、テクスト中のストーリー構成そのものに
も指摘が及ぶ。後者になるほど、評者のテクスト理解が深い部分に及ぶ。このため筆者のテクスト理解と評者のテクスト理
解が離れていく自由度が強くなるので、内容に踏み込めば踏み込むほど、評者は己の理解の合理性を説く必要がある。この
テクストは、多くの読者にとってみればつまりこういうことだからと、評者のテクスト理解の妥当性を展開し、その土台の
上に結果としての指摘があるものが良い評になる。筆者と評者のテクスト理解が一致せず、土台となる説得性が弱ければ、
単なるつまる/つまらない、好き/嫌いの感想に加えて一方的な押しつけを迫る結果にもなるので注意を要する。こうした
踏み込んだ指摘はテクストの方向性の修正で、悪く言えば誰の文章かはき違えた指摘とも言える。

 これらの特徴を踏まえて、批評者が善良な批評者でありたいとするならば、自分のテクスト理解が絶対な物ではない、と
心に留めつつも真面目に酷評に勤めるべきだろう。
116テクスト論と酷評スレについて 5/5:2008/08/06(水) 01:07:52
 最後に。
 今どき持論を持ちながら他者と意見のやり取りする場があって、能動的に理解したいと思い立てば、満足する理解にたど
り着くまでネット検索するのが当たり前のご時世だ。そうした環境下において、ののの氏は言う。
『これじゃ小説という芸術は、雪の結晶や自然の山並みを人が美しいと思うのと変わらなくなるんだが』
 氏がこの意見に到るのは、これすなわちテクスト論という見方を完全に拒絶しているからだろう。従ってここであれこれ
と俺が述べたところで、氏の考え方が揺らぐことはないし、たとえ議論を試みても平行線だとは思う。
 ただ、場に投じられた主張に対して、一つの批判意見になり得るだろうから、この文章は無意味にはならないだろう。と
いうことで蛇足気味になったが終わりたい。



以上です。日本語的にどうか、論点すり替え等の誤魔化し、展開、分かりやすさ、等
酷評お願いします。