1 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :
文学とは、小説とは、ひとりよがりのものじゃねえし、それじゃいけねえんだ。
読み手を想定して書かれたものでなくちゃ、だめだ。
そこで小説を書く前に当たって、どんな読み手を想定するかが問題だし、そのことで、どんな文体でどんな作風で、どんなものを書けばいいのかがすべて決まってくる、
狙いも定まってくるわけだ。その読み手にどういうインパクトを与えるか、それを追求できるわけであって、
小説を書く前に、いちばん、重要で、最初にやらなければならない作業、それはどんな読み手を想像しているのかだ。
そこでわたしはこのスレで、そんな最高の読み手とはどんな人種か、どんな読み手を選ぶことが有益なことかを、探していきたいと思う。
その読み手、その読み手がどういう環境で生きている人間かを特定していこうというのだ。
そして、その人物がたまたま、もし、その書かれた文章を読んだとして、
その時に、たとえそれが一人であったとしても、一人の人間にたいして、なんらかのメッセージを伝えることができるということの、喜びを、感じれること、それが、
文章を書くにあたって、書き手にとって、それが、励みにもなれば、書く動機として十分になりうる、ことであるだろうし、
それだけなんだ、結局は。書くという行為に意義があるとすれば。だから、どういう層を想定するのか、そこをはじめに模索していきたい。
読み手を意識するのは大切だと思うし、
カウパー全開のひとりよがりは恥ずかしいことだとも思うが、
文学のひとつの在りかたとして、普遍性ってのは重要な要素なんじゃないの?
「小説とは結局のところ読んでもらいたい誰かに宛てた手紙である」
って感じのことを誰かが言っていたが、
ある意味ではそれももっともだと思う。
最近の文学なんてデリヘルのDMみたいなもんだから。
でも、なんつうか
手紙を出す友人探しをするなんてことはあほらしいということだと思う。
それは前提の前提であって、
譬えるなら、草野球の対戦相手がいなくてこまってます
ってのと大差ないのでは。。。
罧原堤が言ってるのは手紙を出す友人像を模索するということじゃないか?
読み手を想定するのは結構だが、それは各作品について個別に検討されるべきであるはずだ。
こういうスレを立てて模索すること自体普遍的読者を要求していることになってしまう。
それでいいのか?
言いたいことはよくわかるが、手段としてはどうかな。
5 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 03:55:33
誰でもいいから俺の書いたものを読め、読んでほしい、まあそれは、誰一人として読んでくれなさそうな状況であれば、そう考えてもおかしくはないが、
その読んでくれたやつが宅間守のような人物だったりすると、嬉しくないんじゃないだろうか。ましてや宅間守だけではなく殺人犯たちにやけに受けたとしても不本意じゃないのだろうか。
それによって殺人犯たちが投獄中に仏教の教えに目覚めて自分のした犯罪について深く反省するのと同じような効果を、自分の書いた小説によってもたらすことができたとしても、
そんなことは書いてる段階では考えてもいなかったことで、殺人犯なんかは嫌いだしそんなやつらはどうでもいいと考えているなら、
殺人犯たちから寄せられる賞賛の声というようなものも迷惑に感じるのじゃないだろうか。ましてや次に書く作品にもそのようなものを求められたりしたらいやだろう。
それは小中学生に好んで読まれるってのも同じようにいやなこと何じゃないかな。はじめから児童文学を狙って書いてるなら嬉しいんだろうが。そうでないのなら、
次に書く作品も小中学生に好まれる内容にしないといけなくなる、ような、精神状態に書く前に、追い込まれる、というか。
多くの人に読んでもらいたいってのはあるだろうけど、それが誰でもいいってことになると、やっぱだめなんだろうし、
やっぱ、あの人に読んでもらいたいっていうのが理想だろう。もしその人が読んでくれなくて、結果として誰一人として読まないことになろうとも。
誰かに当てた手紙というのもそうで、小説なんてのは自分をさらけ出す面もあるし、まあ、ストーリーを作る楽しさもあるが、そのストーリーで楽しませたい誰かというのもいるだろうし、
誰かに当てた手紙を誰でもいいから読んでほしいってことにはならないし、たとえばそれが熱烈なラブレターであったとして、その手紙を開封されずに返送されたとしても、
ある意味、そっちのほうがましで、本意じゃないのか。
その手紙を小中学生が勝手に開けてわいわい騒いで、「おまえの手紙おもしろかったから、もっと書け」と言われてるようなもんじゃないのかな、所詮、大勢からの賞賛と言うものは。
6 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 03:58:13
そんなことが書き続けるモチベーションになりうるとはとうてい思えないんだ。
7 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 04:04:20
むろん、自分が書いた糞駄文を、誰であろうとも、それを、面白いと思ってくれたと言うのはありがたいことであって、
感謝しなければならないことだろうとは思うが、
ある種、特定されてしまった誰かに対して今度は書くことになり、今度は、その誰か宛に、愛してもいない人に対してまた、熱烈なラブレターを書いたところで、しらじらしいものとなり、
そんなものは、「面白くなくなってきてるよ」っていわれる羽目になって、書き手読み手双方にとってなんらの意味も持たないことになっていくのではないだろうか。
8 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 04:15:50
大江健三郎が書いてたが、『結局は小説と言うものは私はこんな経験をしましたよってのを書くということだ』みたいなことを。
ただそれを誰に向かって書くんだって。不特定多数でいいのか。不特定多数に対して書く以外道はないのか。ないのなら仕方ないが。
それしかないのなら、不特定多数にむけて書き続けるということができないということは作家の資質がないということになり、俺は才能がない、という結論になるが、
まあそれも不特定多数に向けていうだけのことなのかという問題もあるが、「私はこんなセックスをしましたよ」とか、いう必要ないだろう別に。
それが万人にむけて発信するだけの価値がある情報なら、不特定多数にむかって投げつけてもいいのだろうが、大江の言ってる事はそういうことじゃないだろう。
9 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 04:46:38
ふりむいてもらいたいというか、ふりむいてもらいたかったというか。それは、なんというか、自殺する前に、壁に、『うらみます』とか書いて死ぬようなもんで。
それを不特定多数の誰でもいい、「誰でも良かった」とかいうのは、ふざけるなというか、なにいってんだお前はってことだろ。
それは無考えすぎてさあ、そんな何も考えてないやつに、考えながら書くことなんてできるわけないし、小説なんてのは考えながら書くもんだから、いろいろ。
そうじゃなけりゃ感覚だけで書くしかなくて、それは他人に向かって書いてることにはならないな。他人に向かって書かない限り、評価されないし、評価されるとしても感覚を評価されるだえけで、
小説を評価されたわけじゃないし、感覚だけだとそうそう枚数膨らまないし、枚数ふくらまなきゃ、やってけないわけでしょ、文筆家として。感覚なんてのも、小説だけにむかってくるもんじゃないし、
小説かいてて気持ちいいって、右脳か左脳が気持ちいいって、いう、その気持ちよさだって毎日得られるもんじゃないし、小便してたりうんこしてたりジュース飲んでたりそういう日常でよくすることと同じレベルの感覚だから、
すぐ得られるもんだから、苦労して短編書いたところでその満足感というやつなんてのも、我慢した挙句にするうんこぐらいの達成感しかないだろうから。
一生そんなことしながら永遠に作家志望でいいってのならそれでいいんだろうけど、そんなのは休憩時間まで我慢してた小便を出す程度のことであって、自己満足だね、誰かに向けて出すわけじゃないから、我慢してた小便をある特定の誰かにむけてひっかけるなら、
そこでそのかけられた人とかけた自分との間に、なんらかの関係ができるわけだから。それはそれで「誰でも良かった」ただかけたかったって話だと、そこには関係はないんじゃないかな。関係をもとうとしてないから誰でも言い訳で、
あの娘にかけたかった、あの娘のことが気になってたっていうなら、そこに人間と人間との"ふれあい"があるわけだよ。コミュニケーションというかな、ちょっかいを出して気を引こうとしてるわけだよ。自分が求める対象であるところの他者に向かって。
それが「誰でも良かった」のなら自分の感情にしか目を向けてない、自分本位なだけの行動なんだよ。そんなものは。
10 :
罧原堤 ◆AFOWrff8aY :2008/06/13(金) 04:49:46
誰でもいいふりむいてくれとか、「女ならだれでもいい」とか、それは違うだろっていいたいんだよ。
普通にいいことを言っているな。急にまじめになってどうしたんだ。
宅間が読むのはいいだろう。
宅間が読んで、感動して、通り魔をやめるようなものを書こうとするのは、
いいんじゃないだろうか。おれは割とそういうの書こうとしてるかもな。
個人的には、書き手は読み手を選べない、という考え。
腕の良いシェフが客を待っていても、食欲のない人間や他に食べたいもの
が決まっている人間は絶対に満足しないと思うから。
だけど、『読み手を想定して書かれたものでなくちゃ、だめだ。』という前提で
話を進めていくのも面白いね。考えると意外と深い。
どの層に向けて小説を書くのが最良か、と言われれば俺は学生層(13〜22才まで)を狙うと答えると思う。
本から最も影響を受けた時代。ひとそれぞれだと思うが、俺は中学から大学卒業までに得た価値観や思想と
いうのは根強く残っている気がする。その世代にガツンとパンチ食らわすような作品書いてみたい。言うは易く行うは難しなんだけどさ。
ただ、自分が学生の時に読んで感銘した小説が学生を対象に書かれたものであったかといわれれば、そうではなかったと思う。
本業の作家は、小説を書き終えたあと自己満足して終わるのだろうか。それとも別の何かを考えているのだろうか。
その先、読者への影響等を少なからず考えているのだろうか。
いろんな小説から影響を受けたにも関わらず俺は書き上げた後自己満足して終わっている気がする。
だからいつまでも進歩しない作家志望なのかもしれないと自信喪失中。
こうやって勘違いをいかにも模範っぽく語っている時点でつくづく俺は作家に向いていないと思うよ。
ストレートに疑問を探究している罧原氏のメッセージのほうがガツンとくるもんだね。
影ながら応援してるよ。
読者の影響は考えていると思うよ。
近代的な啓蒙みたいな感じになっちゃうけど。
ライトノベルとかはちょっと違うかもだけど。
というか、社会に与えたい効果から逆算して小説を作るべきと言うか。
『社会に与えたい効果から逆算して小説を作るべき』に同意。
スレの趣旨から外れてしまうが、テーマとか主張とか訴えたいものを決めるのが一番先だと俺は思ってる。
少し逸れるけど勘弁ね
何かで読んだ本で三島由紀夫のエピソードを思い出した。
同性愛者であった三島は市ヶ谷の自衛隊本部で隊員に向けて演説した際、
「それでも男か」という台詞を多用していたらしい。
本の中では、件の台詞は隊員に対してではなく、自分自身に「俺は男か」と問いていた
のではないか、と書かれていた。
小説を書くときに、訴えたいものがあって自分なりに導いた答えを結論として
書いてしまいがちだけど決して答えを書く必要はないのかもしれない。
また、作者が答えを導いていなくとも、作者の葛藤や疑問のまま小説に織り交ぜて読者に
問いかけるのもありなのかもしれないとも思った。
要するに伝えたいことを書きすぎることはよくないということ。
読者が考える余地を残すテクニックも必要かもしれないと読書して気付いた。
テーマありきだと思う。それが決まれば読み手を想定して書き換えることは可能じゃなかろうか。
と、偉そうに語ったけれど、ラノベ議論だったら無視してくれ。
17 :
名無し物書き@推敲中?:2008/06/13(金) 16:06:32
ラノベー上げ
18 :
名無し物書き@推敲中?:2008/06/13(金) 16:57:03
>読者が考える余地を残すテクニック
>>16 試験の問題をつくるんじゃないんだからさ。もっと肩の力抜けば。
20 :
名無し物書き@推敲中?:2008/06/14(土) 01:36:21
標的はできるだけ多数の同調者を募ること
試験問題とは違うので多くの人に認められる
こと
21 :
名無し物書き@推敲中?:2008/06/14(土) 12:24:17
標的は多くの読者
標的は10層ある内の下から2番層。狙い撃ち。
三島に関しては久世光彦が老いが怖かったのじゃないかと推理していた
面白いじゃないか…後を追って川端が老いた身を恥じたとも言えるしな
24 :
名無し物書き@推敲中?:2008/11/22(土) 00:01:07
俺は掲示板からの嫌がらせを2年間我慢した
おまえも負け惜しみを止めてから2年間は我慢しなければならない
おまえは時間の概念が無い。だから今の状態ですぐ俺が赦すと思っている
そうはいかん。2年かどうかは分からないが俺が飽きるまでは書く
だが飽きない。なぜか? おまえが踊って飽きさせないからな
25 :
名無し物書き@推敲中?:2008/11/22(土) 00:39:06
何もしてないのにドロボウの濡れ衣着せられて、その上好きな女を取られたら、
どうする。殺してもいいと思うか? 小説の主人公の話だけど……
読者を想定した時点で感動はなくなるんじゃないかな?
どの分野にしろ優れた作品が持っているリアリティの要素って技術は最低限で実体験からしか生まれてこないと思う。
それは結局作家が自分の中から、若しくは外界に起こった事を自分というフィルターを通して発現できているからなんだとオモウノヨ
絶対的主観の中で作業しているのにそこに他人の評価を考え出すと、陳腐なものしかできないと思う。
結局プロであろうがアマであろうが自分の為に創るのが原点だし1番良いと思うお。
27 :
名無し物書き@推敲中?:2008/12/06(土) 17:12:08
このスレでダラダラ長ったらしい糞文書いてる奴らの文章を誰か要約してくれ
30 :
名無し物書き@推敲中?:2009/07/20(月) 18:00:38
>このスレでダラダラ長ったらしい糞文書いてる奴らの文章を誰か要約してくれ
「理想的な読者とはどんなものか」じゃね?
創作するに当たって自己欲求からくる創作意欲で何かを文章化するのではなく
始めに読者ありきで、そこにピンポイントに作品をおさめていく方法や手法を
示しているじゃないかと思う、前者はひとりよがりになりやすい、後者は定形に陥りやすい
というリスクは抱えているもののある意味、有用であると
>>1は伝えたいんじゃないかな
その仮説を念頭におき理想の読者像を想定する
そしてその想定された人物を詮索する
該当する人物を絞りだし何らかのアクションをとる
書き手としてはそのような読み手に物を読んでもらって意見や感想を述べてもらうということは
何よりの大きな意義になったり意味になったりするのではないか、と文中で
>>1は示しているように思う
ゲーム業界と似ていて
製作者側の言い分とユーザーの言い分は噛み合わないけど
理想のユーザーさえいれば製作者側としては都合が良い、というのは一理ある
ただしそれが文学的なものでも応用できるかどうかと言えば・・・
俺は難しい事は良くわからんが、昔読んだ小説に「〜の君へ」とか書いてあるのを見ると、少し嬉しくなった覚えがある。
そして今でも。
誰かが大切な人を思って、贈り物のような気持ちで書いたんだな、とか想像して。
周りの評価なんか二の次。勿論、独りよがりにならないように、一度書いた物は時間を置いて内容を忘れた頃に読んでみる。そうやって地道に書いた努力の結晶を、読んでもらいたい人に贈る気持ちで世に出す。
例えその人に読んで貰えなくてもな。
俺はそれで十分だ。
そんな感覚を忘れないように、俺は書いていきたい。趣味で執筆程度の人間がこんな事を言うのは場違いかもしれんがな。
32 :
無名草子さん :2009/07/20(月) 18:50:52
文学は、年々酷くなってるような気がする。
一昔前は、まだ少しは周りを見ていたが、
近頃は、そうした行為自体をしないのが通だと思ってる。
そう言う勘違いが、文学をおかしくした。
33 :
名無し物書き@推敲中?:
プロとアマチュアとの差かもしれん
古代はそれこそプロアマに差が無かった
今じゃ二極化してもっぱら生産者と消費者だろ?
これじゃあ見解の相違も起きるわけだよ、なにせジャンルを
牽引される訳だからね、消費者はそれを黙って見ていればいい
出されたものを見て、評価して、やれ文学はとか、やれ近代はおかしいだの
言ってるだけでいい、情報とメディアに流されて時の人を気取っているだけで良い