久々にきてみりゃ、佐原まだいるじゃんw
そして約束だった文芸誌の評論は一切無しか。
もしかしたら佐原はホントにバカなんじゃなくて、
一連のレスは釣りなんじゃないかとも思うよ。
朝日新聞今朝の朝刊文化面に於いて東浩紀が意見を述べている。
最初に断って置くが私は犯人に同情はしても、むしろそれ故に厳罰に処すべきであると考える。
東の論旨を辿って思うのはその分析が余りに単純で既成概念どころか
巷のゴシップ程度の認識によって語ったに過ぎず無用な世論のアジテーションにしかなっていないという事だ。
東は私より五歳年下だが、批評家がここまで軽薄で本来務まる訳がない。
東の言う通り犯人は幼稚で未熟である。誰が見ても当然のことを長々と述べても無意味だ。
自身の視点と事件の核心に迫る分析が皆無である。
佐原はPCで執筆してんの? 普段は原稿用紙?
上は秋葉原無差別殺傷事件についての記事である。
週刊文春を買った。あのさ。髪の毛染めるのやめようよ。四十一にもなってさ。もっと遥かに年取って白髪だらけならともかくだな。
ちょっとカメラ意識し過ぎたかもね。
太ったなー。
PCを使えない状態にあるのでケータイから書き込んでいます。原稿は手書きで万年筆で書いています。ボールペンや鉛筆より格段に楽で清書をするときは
特に違いが出ますし万年筆で書いた文字は美しいです。
私はどちらかというと悪筆で稚拙な字を書きますが。
>>956 そうなんだ。ありがとう。
万年筆いいよね。今人から貰った安いのしかなくて、そのうちパイロットの742あたり買おうかなと思ってる。
原稿用紙に書ける人はちょっと尊敬するわ。
佐原に餌をあたえるなよ。
それから、佐原は約束を守って2ちゃんから出て行きたまえ
同人誌に参加した八年前に当時の編集長だった私の親より年長の男性から
「出来れば原稿用紙の方がいいな。生原稿として後に残るから」と新参者には勿体無いような励ましの言葉を頂きました。だから今は手書きに戻っています。
初心に立ち返る為にもその方が遥かにいいです。
二十九歳で朝日新人文学賞に二百枚を書いて応募した
時はボールペンで書きました。
清書をするとき指が痛くて仕方がなかった。今では大切な思い出です。
大抵のインテリはフロイトを読むだろう。何と言っても古い理論であり色々な観点からその不備を指摘することが出来る。
だがその欠点を差し引いても尚問題としてフロイトが示しているものがあるのだ。
現代社会とそこに生きる人々が自覚せざるを得ない業と矛盾、そして狂気である。
同時代を生きる人々が共有する認識がある。それは単なる常識ではなく、常識の上に形作られるものだ。
その共通項を軸として人間社会は動いている。
その中で流派が形成される。
小説家は生来が独り狼だ。
日本は村社会と言われるが、社会に責任をおっ被せる遥か以前にそれは我々個々人ひとりひとりに問われる問題だ。
確かにもたれあいで責任観念が無い。ごまかしてばかりだ。
神との対話が海外では共有される認識として存在する。
人々は孤独で追い詰められていると同時に確固たる自我構造を持ち、独立しているのだ。
田辺聖子さんはあのお年になられて未だにスヌーピーのぬいぐるみと会話がお出来のようだが
戦争が始まった当時は学生だったのか。「小説みたいなことが本当にあるんやわ」とお思いになったらしい。
私の場合だとそれは現実であった所が違う。
フリーターという言葉は二十年ばかり前に出てきたが、そうした人々は実は人類の歴史が始まって以来、いたので文学青年の半数はそうした人々で占められていただろう。
現代フリーター事情というものがある。正社員になってもボーナスを期待出来なくなって十数年が経っている。
そんな中でワーキング・プアが生まれたのだ。
更にニートなる言葉まで生まれる背景にはやはり第二次世界大戦と広島長崎の原爆投下が遠因であるとしか言えないのではないか。加えて核戦争と局地戦からくる不安がある。
現代の局地戦は兵器の質が違う。必然的にそれは日常生活を脅かすに充分である。
そうした時代を背景とする世界での言論、文学とは何か。
現代の迷妄はどこにその起源を求めるべきか。
年下の友人に聞いた所では言論が力を持っていたのは昭和二十年代までであるという。
ジャズ・バーのママさんで私よりずっと年上の人が二年程前に
「(小説を書く)仕事の方はやってるんですか」
と訊いて来た。既にその頃から私の実力を認めて下さっていた。
現実認識が深まって来てもいる。
お前、どの国でニートって言葉が生まれたか知ってる?
映画の頭文字を繋いで作った単語だから英語圏かもしくは日本でしょう。
映画?
英語の間違い。
英語だったら、なんで「日本でしょう」となるんだよ。
つうか、約束守って出てけよ
小説家にとって美人がその芸術の創作動機になるという事はあるのだろう。
小説家自身が美男美女である必要はないし、そんなことはむしろ稀だ。
従って小説家は恋しても決まって振られている場合が多いだろう。
ある新聞記事の抜粋
「彼女が欲しい」と思い、好きな女の子に声をかけたが相手にされなかったとする。
その男性は「自分の顔がおかしいからだ」と考え、
「世の中の女は男を顔で判断する嫌なやつらだ」と決め付ける。
そのままにしておくと思考がエスカレートする。早めに正すことが大事。
正せるんだな?
"You've got brain.Yes you have"
「お利口さんだからな君は。頭を使うんだね。頭を」
ダシール・ハメット「マルタの鷹」
上のスペードの台詞はボガートが映画で言ったのを思い出して書いた。
聴き取りが正確かどうか、文法に誤りが無いかどうかはわからない。
ここ一年以上の間、下手をすれば二年間過労で倒れるのではないかと恐れている。
そんな事も分からない親や医師は本当の馬鹿かと思わざるを得ない。
秋葉原で起きた無差別殺傷事件の犯人である二十五歳の青年は両親に対する不服の感情を
ネットでぶちまけている。
親が世間に自慢したいから完璧に育てたのだ、と。
彼の気違いじみた苦悩が私には理解することが出来る。
偽善を激しく憎んだ。自殺行為に近いほど己に厳しかった。
上のスペードが言った台詞は原本を見る"You got brains.Yes you have"
だった。
偽善者乃至偽善的な人々が世の大多数を占める。
完全に誤魔化しから逃れることが出来、自ら自分を真面目だと言い切ることが出来、完璧な人間はというものはこの世に存在しない。
そんな世間の愚かしさを拱手傍観するしか能の無い人々が百人中九十九人なのであり、
そんな中で真面目な人間は孤立せざるを得ない。
その証拠に国会中継を見てみたまえ。彼らの内でどれだけの本物がいるか。
最近私が考える際にそのよすがとしているのは様々な物事を
比較対照することである。個々の人間、その人々が生きた時代、性の違い、国の違い、バックグラウンドの違い、その他ありとあらゆる違いを微細な点に至るまで
比べて観察し、考えるのである。
比較する事によって分析を行い、物事の本質を明らかにする。
そうした思考が可能になるには人生経験が必要である。
比較する事によって分析を行い、物事の本質を明らかにする。
そうした思考が可能になるには人生経験が必要である。
元気だな。うらやましいよ。
この間近所のロック・バーで騒いだ女の子は三十代半ばだと思うが「新宿鮫」を読んでいて
「めっちゃ面白いねん」
と言っていた。
江戸川乱歩も休筆期間がその作家人生で頻繁にあった。
書く人間が休筆するのは余程の理由がなくてはならない。
親世代の言うことを真に受けてはいけない理由が他にもある。
高度成長期は日本に限らず世界中の人間がかなりな自信過剰に陥っていた。
彼らは二十一世紀の文明に対し、途方もなく大きな夢を抱いた。
単なる夢ではない。実現可能なビジョンとして持っていた。
ところが、二十一世紀になってもそのビジョンの半分も実現されることはなかったし、恐らくこれから後も大した変化は期待できないのだ。
神話は崩壊した。自然科学の方法を応用した自然主義リアリズムもまた、その説得力を失ったのだ。諸君。
学生運動を派手にやった所謂団塊の世代は戦後の生まれである。
かなり甘やかされて育った世代だと言うことが出来る。彼らの認識もまた、疑ってかからねばならない。
団塊の世代は我々の世代の親より一回り程下である。我々の世代はその更に一回り下だ。
如何なる認識も疑ってかかる必要があるのが諸君にはお分かりの筈である。
ごく単純に、当たり前に考えを進めてみよう。
好景気の後には不景気が来る。
高度成長期は鰻登りであった日本経済は八十年代に入って停滞し始めるが戦前の不景気と異なっているのは
そもそもの経済基盤が戦後の復興によって揺るがなくなっていたという事実だ。しかも仕事は無くなる一方であり、やがてニート、フリーターが大量に生み出されワーキング・プアが生まれた。
格差社会の出現である。
「勝ち組」「負け組」という軽薄な区分が出来上がった。
ケータイの変換でも出すことが出来る。
下北沢に散歩しに来ている。
1000 :
名無し物書き@推敲中?:2008/06/18(水) 13:59:46
あ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。