スティーヴン・キングの『小説作法』を読むのなら、あわせてディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』を読んだほうがいいですね。
私は、斎藤美奈子の『文章読本さん江』というのを読みました。この本によると、日本で出版されている数々の「文章読本」(小説の書き方本のようなもの)でおこなわれている「静かなる抗争」がわかります。
谷崎潤一郎にはじまり、三島由紀夫、丸谷才一、井上ひさし、ほかに大学教授、新聞記者OBなども交えて、それぞれの文章読本の中で戦っているんですね。
どういうことかというと、文章読本を出すとき必ず、それまでに出版されている文章読本のたぐいを参考にして、そこにあった考え方にたいして、賛成なり、異を唱えたりしているのです。
立証はできませんが、私は、スティーヴン・キングの『小説作法』はクーンツの『ベストセラー小説の書き方』にたいして異を唱える形で書かれているように思えます。クーンツは完全にプロット重視ですね。
クーンツはキングを認めてはいるのですが、たまにおかしなミスをするなどといってやや小馬鹿にしている箇所があるんです。それでカチンと来て反プロット的なことを書いているようにも思えます。
でも、よくよく読んでみると、キングもプロットが不必要だとは書いていないし、むしろ本質的にはクーンツと同じような気もしますね。
私もプロットは大事だと思っています。
参考までに、ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』からの抜粋した文章を載せます。
世の中にプロットのない小説ほどおかしなものはない。なんといってもプロットは小説の最大必要条件のひとつである。
本当に才能のある(あるいは本当に狂気の持った)作家の手にかかれば、プロットのない小説も実験小説の一種になりうるかもしれないし、作家によっては、それが効果的な手法となり、たまには、読むに耐えるものになることがあるかもしれない。
が、それが小説の古典的定義に当てはまらない以上、決して小説と呼ぶことはできない。
ときたま、プロットのすべてを、登場人物たちの動くままにまかせるべきだと信じている批評家やもの書きに出くわすことがある。
この理論によれば、あらかじめ用意されたプロットなどというものは、どれも不自然のきわみということになり、作家にとって望ましいのは、ただひたすら登場人物たちの進んでゆく方向に、ストーリーを方向づけていくことであるというのだ。
どこやらあいまいなこの方法に従えば、より「自然」なプロットが得られるというのだ。
ばかげた話である。
ディーン・R・クーンツ『ベストセラー小説の書き方』からの抜粋
書き進むうちに登場人物たちがあまりにもいきいきとして魅力的になってきたために、作家があらかじめ用意したプロットや小説全体の流れを、主人公たちの成長や変化に従って、変更する気になることがしばしばあるというのは事実だ。
プロの小説家ならだれもが、こういううきうきするような経験を味わっている。しかし、作家が登場人物に小説の方向や狙いや内容のすべてをまかせてしまえば、必ずみじめな結果に終わる。
(中略)もしも作家が登場人物たちに全権をゆだねてしまったら、知性という冷静で確実な案内人なしに、作品を書くことになる。
その結果は、現実の世界に起こる多くのできごとと変わらぬ、形も意味もない小説ができあがり、そんな小説が多くの読者をがっかりさせるのは目に見えている。
(中略)
娯楽的価値を高尚なメッセージとやらよりも低く見ることは、やめたほうがいい。
もしも君がいやしくも人気作家になろうというつもりなら、プロットにそれなりの敬意をはらわなければならない。せめて読者がはらっている程度の敬意ははらってもらいたい。