あなたの文章真面目に酷評します Part34

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>>746 
>それほど、読むのが辛くなるほど暗いでしょうか?
読むのが辛いってことではないんです。なお、暗い=悪いという話ではもちろんありません。
以下は長くてくどい話です。先に謝っておきます。ごめんなさい。

「俺」は大学に入って一人暮しをはじめて「ここ五日間ほど誰とも会話を交わしていな」いような淋しく、
人恋しい生活をしている。しかし天涯孤独なわけでもなく、家族とケンカ別れしているわけでもない。
妹はやたらに明るいから、他の家族もなにか問題をかかえて不幸のどん底にいるわけでもあるまい。
つまりは客観的環境としてはごく普通の生活だ。金に不自由しているようでもない。
人によっては「あー、せいせいする」と解放感を楽しむ者もいるだろう。しかし「俺」はそうではない。
なぜか、といえばそういう性格(キャラ)だからとしか言いようがない。
以下便宜的に暗いキャラと謂う。
念のためにいえば話の中身(設定、ストーリー)自体が暗いのではない。あくまでも「俺」のキャラだ。

なぜ「俺」は暗いキャラなのか。「あらすじ」を読んだうえでいえば話の展開上はその必要はない。明る
く能天気な男が変な花屋に入りこんで、であっても展開に不都合はない(雰囲気はもちろん変るが)。
ではなぜなのか。
作者がそう書きたかったから、である。
ではなぜ作者はそう書きたかったのか。
そこに作者の「思い入れ」があるのだろう。作者と「俺」との距離はきわめて近いと見る。作者は「俺」
を突き放してもいないし客観視もしていない。作者≒「俺」と言ってよい。
763743 2/2:2006/04/23(日) 21:32:00
さてここで2種類の楽しみ、すなわち「わが身につまされる」楽しみと「われを忘れる」楽しみについて
考えたい。
大雑把に言って、「泣けた」とかいう場合が「わが身につまされる」楽しみで「面白かった」というのが
「われを忘れる」楽しみである。
小説では作者と等身大の主人公を通して「わが身につまされる」楽しみを味わうということはある。
一部の私小説が典型例だ。作者≒「俺」ということから、この作品もそれに近い構造を持っている。
しかし、ゲームで、である。
それで743に書いた「プレイする側からすると、どうなんだろか?」という疑問にたどり着く。
暗いキャラの主人公にすることでゲームにおいて「わが身につまされる」楽しみが得られるのだろうか?
そもそもゲームをする人は「わが身につまされる」楽しみを求めているのだろうか?
あるいは、暗いキャラの主人公にすることで「われを忘れる」楽しみが増すのだろうか?

「プレイする側からすると、どうなんだろか?」と書いたのはこういうわけでした。