このように、
我々の日常に深く根ざしているあり、
つまり、我々はこの問題を わからない とし、
解決しないなら、(我々が直視しないなら)
永延に不履行のままで
我々は
この問題を持って、この問題のために
いつ、何時も「仕方ない」として
死に行くことを
認めなければならない。
我々は いわば
死の承認をしているのである。
ここから先は、厳しいものとなっていきます。
決して、自分のことだとは考えないでください。
あなたが、身につまされる必要はありません。
こういう考え方を、認識をする必要がある、だけです。
耳をふさいで、読んでください。
それでも耳が痛くなり始めたら、
すぐに読むのをやめてください。
それは誤解です。
あなたを苦しめることになるのは、
私の意図しているものではありません。
いやー、救いと助けの矛盾に悩まされていましが、
ゲーデルの不完全性定理によって、
意味はわかりませんが、癒やされた感じです。
カウンターをもらい受け、目が覚めます。
不完全ではなく、一本化できている。
少し毛色が違いますが、こんな人がいたことに、
さき(将来)にも希望がもてます。
むろん逆の証明をされると数学会が困ったように
別の方法を模索することになり、多くの人が困るでしょう。
しかし、結果的に、人の目を覚ますものになるのは違いないです。
「 − 正義をつらぬいていないからこそ、生き延びている − 」
↑ は
正義をつらぬけば、
「 同じ、強制的な死の圧力が働く 」
ということです。
同じとは:、AuwiのLevi と カルネアデスの板を掴む者、であり
正義をつらぬいた途端、この両者は、即死します。
※
(そう言えば、
プリーモ自身も、著作で「溺れるものと救われるもの」
を書いていたんですね。評論らしいのですが、
当事者でしか生めない説得力はあると思います。
しかし当事者であるがゆえに陥るもの、語れ得ないものがある
それは、その時代の当事者は、時代の真っ只中いる自分を
その位置を正確に把握できない、のではないか?と言うことです。
彼にできたこととは、救いの方法を、我々に伝えることです。
彼だけがその方法を知っています。
あの限定状態の中、生き延びたわけですから。
むろん、現実には第三者によって助けられ、救出されています。
彼は普通気づいてはならないことに気づけた一人であり、
しかしまた、当事者であるがゆえにその気づいたことさえ
気づけない状態にいるはずです。
彼にあの時代と自身を振り返ることはとてもとても難しいことなのです。
振り返れば、身がもげてしまうでしょう。
鏡なしでは、自分の背中をみることはできません
当事者でないと、わからないこと、誤解を生んでしまう恐れなど伴うのですが、
当事者の気持ちと乖離するなど、もういいかげん、そんなとこで遊んでいるわけにはいかないわけです。
つまり、時代の当事者でない、その時代に生きなかった我々だけが振り返ることができます。
できるはずなのです。
そろそろ、そんな時代に入っている気がします)
>811 で言いたかったことは、
まず、限定状態での 正義の履行 は不可能ということです。
それは、履行すれば、現実に その者に死が、即、与えられます。
ここでの正義の履行は直接、死ぬこと、なのです。
これを理解してもらうと、次に、このことが、
我々に ひるがえってきます。
@「 正義をつらぬいていないからこそ、生き延びている 」
そして、
A「 その不履行の正義の裏側では、(代わりに、誰かが苦しみ、傷つき、助からないで)別の者が死んでいる 」
このふたつは、限定状態だけでなく、我々の日常の現実でも同じです。
恐ろしい事に、なんら変わらず適用できます。
つまり、日常にいる我々は、
正義をつらぬいても 死にはしない ということです。
むろん、我々は正義を履行できる場所にいるわけです。
そこにあって、あえてそれをなぜか?しないわけです。
※(このスコトマを破ることはとても恐いです。
きちんと言葉にして、我々が理解することはが必要でしょうが
もしあらためて言葉として認識させられるとなった場合、その事実に
どうしようもなく希望がもてなくなってしまうのでは?、という気がします)
言ってる自分がつらいわけですが、
残念なことに
これが、いまある私達、我々の救いとされるものです。
日々の日常のいそがしさに、
救いを、いや、命を 見落としてしまっている。
そんな哀しさが浮かび上がってきます。
「 正義によって死んではならず、救いによって犠牲になってはならない 」
逆に言えば、
正義によって死ぬことはなく、
救いによって犠牲にはならない。
本来は、こうあるべきものである、はずです。
Levi、彼の死が重いのは、
≪第一≫に
上記にあるような我々が、彼の敵になったということです。
彼に向かって「 仕方がなかった 」、「 仕方ない 」という言葉を連呼するとき、
@とAを背景に、我々の存在が浮き彫りになるからです。
彼は正義を履行できない場所で生き残り、
彼は、いまこそ、正義を履行しようとします。
しかし、彼に、こう、思わせた。
「 ここも 同じか 」 と
なんとも皮肉なわけです。
しかし、これだけでは彼は、くじかれることはなかったのでは?と思います。
こうした敵、その絶望に対して、すでに十二分な免疫がついていたはずです。
問題は第二の要因です。
≪第二≫に
【 彼自身、「 仕方なかった 」
にかわるものを持ちあわせてはいなかった 】、のです。
解放された彼も、これは同じで、
それに気づいた瞬間、
彼もまた、我々の一員となり、
敵となった。
@ 彼はAuwiで正義を履行できなかった。(むろん、不可能です)
A 彼は第三者に助け出されている。
自らを助くうたわけではない。(救出されるそれまでは、方法は別として自らを助くうていたわけです)
誰かを助けたわけでもない(@ができないのだから、これは不可能です。しかし他者を助ける何か別の方法があるのならば別となります)
これを理解するならば、いや、してしまうと
【 彼自身、「 仕方なかった 」にかわるものを持ちあわせてはいなかった 】、
が導き出されしまい、
彼は、いま正義を履行しようとしている(彼、)自らの敵となる。
ここで狂いが生じ軋み始め、何もできない無力感に襲われるわけです。
あらゆる抵抗力が失われます。
誰を責めれば良いのでしょうか?
もちろん彼を責めるわけにはいきません。
もはや、彼の存在は、自らが生き残るというよりは、
彼は我々を生かそうとしていた。
我々(人類)の希望だったのです。
同一性障害、
ふと、この言葉が浮かんできます。
誰もが、多重に抱え込んでいる障害ですが、
これは軽いものはなく、どれも重いものばかりで、
彼の場合、なんと言ったらいいか、
聖同一性障害、らしきものに陥ったのじゃないか、
という気がします。
ここは、見逃せないもの、となっています。
というわけで、次からは
「 天は 自ら助く者を 助く 」
ここから、日常の我々へとシフトさせ、
「 助かり続ける 我々とは、何者か? 」
を読み解いていきます。
ここは救いと助けの相互の矛盾を観る事になります。
頭がこんがらがります。
しかしここでの第一の本題となっています。
− 天は 自ら助く者を 助く −
わかりやすく言えば、
− 天は何もしない、我々を助けはしない −
ということですね。
改めて、言われなくてもこんなことは誰でも知っていることですね。
私達は日々、自らを助けているわけですから、
生き延びているわけです。
こうして、皆 今現在に至(ってい)るわけですね。
どのように自らを助くうたかは、今は度外視します。
我々は、今 皆 助かっているわけです。(死んではいないという意味で)
あや? 天は助けるのか? 自ら助く者を?
天然ミスリード乙ですね。これはあとでと回収します。
「おまえは、助かっているなぁー」と
他人に言う場合、相手を馬鹿にもし、ほめもする微妙な言葉ですが、
本人(相手)が、助かっている理由を知らない、気づいていない、
時に使いますね。
(いろいろ応用できますが、結構失礼ですので、気の知れた人でないと使えません。
また意味が通じず真剣に聞き返してくる人もいますので使わない方が良いですね)
まぁ、とにかく、私達はなんやかんや言っても、
今まで生きているということは、ずっと、
「助かり続けている」ことと同義なわけですね。
では、何から、助かっているのでしょうか?
むろん、死からですが
我々は知らず知らずのうちに
「 何かに 」
気づかないことによって、助かり続けているわけです。
それを獲得しています。
レービーは (あわれにも) 生き残りました
その生き延びた方法、仕方があります。
それをレービー自ら知る必要があり、
それを我々に伝える義務生じ、ならばむろん伝えなければなりません。
彼だけが、助かり方を知っている(はずだ)からです。
ここではあえて、救い方(救いの方法)という言葉を使わず、助かり方という言い方を使っています。
この言葉の違いが、とても重要となってきます。
むろん、我々が彼に求める、求めていたのは、救い方(救いの方法)であるわけですが。
>811 によって、
正義をつらぬいたからではなく、
正義を裏切るからこそ、生き延びられる
ことを私達はもう、知っています。
自分の意思に反することが、
自らを生かす(ことになる)からです。
しかし我々は日常の中でこれと似たことをしています。
なんら現実離れしたものでもないのです。
結論から言うのもなんですが、
プレーリは、正義を貫いたから、死んだといえます。
しかし、このことは >815 に反します。
本来、彼が我々が獲得するはずだった生が、逆に奪われ失われています。
この憤りをどこへ、我々はもっていけばいいのでしょうか?
はぁ〜〜〜ぁ、
イリ(ッ)クスが生まれやがったので、
そこまで(彼に)行く前に、なるべく箇条書き風味で、簡潔に進めてゆきたいと思ってます。
説明不足をお許しくださいね。
@気づけないことが、助かり続けることになり、
それが救いにつながっているだけに 他ならない
ただし、知ること、気づくことは、
助かり続けることができないことを意味する。
(ここが、不完全性定理、二律背反)
気づくこと と 気づかないこと
この両者は同時に成立できない。
気づけば気づくほど、救いは失われていく
という矛盾である。
気づくことは、
気づかないことを救うが、
気づいたことは、
その気づかなかった者を殺す。
つまり、気づいていないことは、
その者を最初から救っており
それで(気づかぬ救いで) その者が死んでも、
それに死ぬまで気づかなければ、彼を救ったことになる。
しかし、助かり続けることは救いではない。
ただの盲目、難聴(感覚の麻痺の意味合い)なだけで、
目の前の自己の死も他者の死も気づかない。
恐怖を死の寸前の手前まで気づかないという意味で救われている、
というわけだからである。
つまり、気づかないことによって、うまいこと自己だけの死を切り抜けているにすぎない。
その間、他者は死んでいる。
不在者の問題。
たとえば、私が、あなたが死んでも、どこかで、地球で新たな人の生命が生まれ、意識が芽生え、展開する。
すると、それは人間の意識であり、そのあなたの意識とその意識は、その意味合いでは同一である。
何者も他者とは言えなくなる。
意識として同一である。
つまり これは 魂の否定である。
もし、新たな生命が、生きることに苦しんだりすれば、それは人の意識が苦しんでいることとなり、
つまり(死んでいるが)あなたが生きていたと同じ(人の意識)が苦しむのと同じである。
これはどういうことかというと、
あなたはすでに死んでいる。
しかし新たな生命(人の意識)があなたと同じことで苦しむとすると
永遠に同じことで、我々(人の意識)が苦しむことになるわけである。
前世紀で、何も解決されていなければ、
人の意識は、こうして永遠に苦しむことになる。
なぜなら、人の意識というのは、
誰でも 同一だからである。
むろん、あなたの意識ではない。
しかし、純粋な 人の意識である。
あなたにも、わたしにも、なり得る意識である。(ニヤッ)
誰にでもなり得る。
朝目覚める、あるいは夜目覚める
その刹那、瞬間は、誰でもない。
ただ、肉体や環境や状況が違うのであり、
(人の意識)は変わらない、同一となる。
その同一に気づかず、あるいは忘れ、我々は殺しあう。
つまり表象にあらわれる自己の意識が、他者を区分し、排除する。
それは人である意識を排除したことになる。
これらは、意識の服 であり
いくらでも着替えられる。
しかし、どれに着替えても、
その瞬間から、服はやぶけ、肌けていく。
もはや この時点で、どれが
自己の意識であるのか、我々は混乱する。
肉体、体、という服を、剥いだとき、
我々は、他者と自己の意識の違いがどこにあるのか見い出せなくなる。
Dにおい、味、風や空気が心地よい、あるいは悪いなどは、、
すべては外的要因によっている、それを 私たちが考えているわけではない。
人当たりがいい、悪いとか、いい人とか悪いとかいうのは
ある規定のうちにあるうちだけである。
それはすべて肉体を通している。
5感を通して、肉体が感ずるところである。
我々の意識とは関係ない。
何だこのスレ?
純文学とか滅びた方がいいと思うけど
つまらんし
とりあえず
こいつはゲーデルの不完全定理を全く理解してないのに
適当に名前だけ使ってるということはわかった
我々は、五感、で感じ取ったものを
一度、肉体を通して、言葉に翻訳する。
実体ではなく、言葉という無機物に変換、翻訳している。
ここに相手に、(あるいは自己に、)伝えるという絶望的なまでの(実存在との)乖離がある。
しかし、言葉が(に)絶望的に理解を求めようとする。
国々で言葉が違うのは、言葉はどんなもの(発音)(文字の形)でも何語でもかまわない、ということ。
そこは確かなものではない。意味は言葉なしにある。
世界(宇宙)の翻訳。
>828
滅んでないが、それに近い瀕死の状態と思う。
>829
つい、俺式定義で 定理とつけてしまいました。
二律背反はしっくりこない、何か違うので。
不完全性だけで意味は通ると思います。
狂い と お狂い(聖人=救いにつながる者)の違い。(ここは文学が担っていますね)
>821のあと、以降に、書き込みしようと思っていたものです。
しかし、誰が彼を責められるだろうか。裁けるだろうか。
これはカルネデアスの板と同義である。
人はこれを裁くことはできない。
いまだにである。
我々の理解、思考をはるかに超える。
カルネデアスの板の皮肉なところ、いや悲しいところは、
たちまちにして、人間性、倫理、宗教、神、愛、絆、文化、etc
ありとあらえるものが、崩壊するところである。
足元から崩れ、誰もそこに立っていられなくなる。
我々を支えるモノがなくなってしまうところである。
裁くどころではない、
どう考えても判断できない。
そのため、神の手にゆだねる。
そのため、我々は紀元前からいままで何も考えず、何もしなかったのである。
そして今も何もしない、いや、できないのである。
我々には、本当のところ、何も「 − ない − 」という証明でもある。
つまり、我々は、その存在を知っていながらも、人の手から離し
イコール、
野放しにするのである。
>821のあと、以降に、書き込みしようと思っていたものです。
×プレーリ ○プリーモ OK? 愛称?
★ではプリーモは、何に正義をつらぬいたのか?
@ に対して?
A 我々 に対して?
B 死んでしまった同志 に対して?
C 世界 に対して?
D に対して?
E 秩序、摂理 に対して?
・
・
・
∞ これらすべてに対して?
★また何に殺されて死んだのか?
@我々に?
A自分に?
Bそれ以外に?
★なぜ、誰も助けれなかったのか? 助けるものがいなかったのか?
@・・・
いや、あるいはこれを・・・救われたというのか・・・?
これらはまだ私には答えられません。
これは、彼を地上に落とすことができない理由のひとつであるのかどうなのか?
まったく関係ないのかもしれません。
ただ、なにかが、不在なのは確かで
そのことには気づきます。
ざぁ〜っと、目に留まるものを抜いてみました。
次からはイリクスがお相手します。
こいつは、ほんとに、嫌〜〜〜なヤツです。
手なづけるには、かなりの辛抱が必要そうです。
助け はいつも犠牲がともなう。
救い にはなれない。
人を殺してしまうかもしれない
可能性を克服していない。
救いとは、この不可能の前提である。
救えないということの裏返しであり、
救わない という意思表示。
#あぁ、台無しですね
現(実存)在 → これから消えゆくもの
識(無実)現 → これから立ちあらわれるもの
どう立ちのぼってくるか
我々はわかっていない。
つまり、使い方をわかっていない。
面白そうだから理解したいが難しくて理解できない。
でも読んでるよ。
★宦官の問題。
これは 竿 を取るのと 睾丸 を取る二種類があるとかないとか?
両方取るだけないのですね。
しかしこの話に信憑性はありません。グクれば出てくるでしょうが。
つまらない問題かもしれません、この問題はそれで解決したことにしています。
★孤島に一人、生まれ、一人、死ぬ者 の存在
彼にはここで云う 救い は適用できません。
なぜなのか? ずっ〜と長いあいだ、もやもやとしてわかりませんでした。
これはイリクスが解決します。
イリクスは問題のすべてをなぜそうなるのか、という理由を
なんなく説明します。解決するのではありませんが・・・
彼の説明はかなり一方的にも聞こえますが、しかし頷くしかありません。
こちらには、その理由さえわからず、説明できないのですから。
なるべくなら、ここで先に問題の列挙をしておいて、
彼がそれを説明するにあたって、皆で検証、反証してみたいところです。
しかし、このように切りがないので、できれば
問題を思い出したら途中でAKITEを挟みたいと思います。
>838さん、>827から見ると私たちは、(考えても、思ってもいない)らしいです。
まして理解などした所でどうしようもない、
そんなこと(理解)は(思ってもいない)こと(前提)からして、不可能だとしているようです。
いやらしいですね。このあたりからイリクスが顔を出し入れしてきてます。
次からは、本当に 「哲学の本能」としてイリクスを登場させますね。
ではでは。
哲学が先にあって、文学をクリエイトするのか?
文学が先にあって、哲学をクリエイトするのか?
それともどっちでもいいのか?
そもそも、それでいったい何がしたいのですか?
とこのスレと関係あるような、ないような事を言ってはじめたいなと思います。
さて、「哲学(知性)の本能」と私が勝手に表題してかかげ、
イリクスの言葉を紹介していくわけですが、
んっ、アレ待てよ、
そもそも本能が、いわゆる哲学たり得るのか?
という疑問がその前にありますね。
しかし、まぁ、いままでも、哲学的とは言えるようなシロモノでもないので、
気にせず、やっていきます。
そこで、本能を使っていくにあたり、
何か入りやすい導入部を頭に思い浮かべていましたが、
いつになく、またぞろ忘れてしまいましたので
またいきなりですが、イリクスの言葉から入りたいと思います。
― 我々は 人に対して 限りない、闘争本能を もったのである
人は それを 背負ったのです ―
イリクスの言葉の始まりはここではありません。
しかし、まず、皆に考えてもらいたいのです。
それは、なぜなのか???
ということを、ですね。
これは一番初めを結ぶ、イリクスの強烈な一言です。
なぜに?なにが? どうして?強烈なのか
ということを、まず考えてみてほしいのです。
― 我々は 人に対して 限りのない、闘争本能を もったのである
人は それを 背負ったのです ―
あンれ〜「の」がヌケてました。
ではでは。
本能: この自然界の考えた科学といえる。
自然が変化したから、生物が変化したのか
生物が変化したから、、自然が変化したのか、
という問題。無論、大きな意味で前者である。
しかし、自然の環境変化によって生物もまた変化し、
いまでは、自然の一部として生物は生存している。
我々はその自然の中のもの(種)、そして一人である。
つまり、生物は環境それに応じて、能動的に変化している。
しかし、それなのにそれが今も昔も我々の意思によって、
能動的に変化することができないため、
そういう意味では、少しの自由もないといえる。
いわえる、多くの方が言う、進化である。
我々の意思は、その権限がない。
我々は我々の意思によって、我々の意思を支配しているのではなく、
支配されている。我々が思考するということは、
その支配を受けるということである。
その意味では、我々は本当の意味で自由を行使したことは一度もないだろう。
自由を行使できるのは我々ではない。
しかも、その自由を行使できるモノは、
我々の意思にまったく反する場合がある。
我々が、絶対拒否しているのに、それをする、せざるを得ない
と判断するときである。無論嫌がっているが、
わたしの感じていることなのか、どうなのかも、疑問が残る。
なぜなら、ここにおいては私という概念がもともとない、からだ。
それが発動するのは、ただ、私たちを生かすためだけである。
そこに倫理は存在しない。ためである。(本来的矛盾律)
安定した自然の中においては、生物が生物に対しても、対応し変化し始めた。
ここからである。
そして倫理がこうした自然の中で、不自然にも生まれてきたということは、
我々は、その可能性を少なからず信じてよいのである。
むろん、倫理をつかさどる理性は、本能の、思考の一部である。
しかし倫理も本能の一部であるならば、それが本能の中心となり得る可能性をほんの少し持っている、
ということでもある。
これはほとんど不可能であるということでもある。(生物学、脳の機構からみても)
しかし、その方法を我々は手に入れなければならない。
どうにかして、手に入れようというのである。
本能とは、変化の残り、かす である。
リピートしているに過ぎない。
*とても抽象的ですが、これから具体的になっていきます。
ちなみに、イリクスも私も
倫理、それをつかさどる理性はまったく信じてはいません。
我々は悦楽や欲望を満たそうとしているのではなく、
過去の本能を満たそうとしているのであり、
現在を満たしていない。
我々には善や悪を考える礎は、まったくないのであり、
その善や悪を考えるより前に考えなくてはならないものがある。
本能である。
これは、生きるのに最善を目指す。
我々にとって、これは最悪を目指すことである。
(この悪とは我々人類が(おもい)えがく悪である)
おもいきり、原始的なまでに、簡略化してみると、こんな感じになるのかな?
(#番外)
そしてならば、本能に逆らえば、すべて理性的で、倫理となるのか? という疑問が立ち
理性で行動を制限しているが、それは自然界に対して正しいのか?
犬は、凶暴さをみしていたのに、あるとき、何の訓練も受けず、
吠えなくなることがある。凶暴さのかけらもなくなり、まるで、そこに人以上の、ある了解があるような、
穏やかさが流れる。
これは、何性なのか、もし理性とするならば、
いったい、なにが人間足らしめているのか?
と、まぁ、疑問は切りがありませんね。
なるべく疑問系はやめときます。
これらの疑問、その解答的なものはイリクスがのちに全体として長ったらしく説明するでしょうから。
― 我々は 人に対して 限りない、闘争本能を もったのである
人は それを 背負ったのです ―
次からは、この初まりに戻りたいと思います。
これまでの書き込みは、混乱を招くだけのものだったかもしれません。
― 我々は 人に対して 限りのない、闘争本能を もったのである
人は それを 背負ったのです ―
また 「の」がヌケてました。
さて、始めるまえに、現時点でのイリクスへの感想は、
「イリクス、お前、どこまで行っちゃうの? 」という感じです。
私としては、説明ではなく、解決方法を模索してもらいたいのですが、
「なんか、逆に近いこと、やってない? 」感じで、
はぁ〜と納得もし、ほーと感心もして
うれしくもあるわけですが、悲しくもある状態です。
地球の生物界、そのピラミッドの頂点に立ち
我々は、天敵がなく、
闘争する必要がない。
しかし、いつ、その天敵が現れるかも知れず、
その名残をすぐには捨てれず、使うことをやめれない(リピートする)ために
同じ種→人間に対して、適用した。
そのリピートされる闘争本能のやり場を失い、
我々は、その矛先を、
我々、人に 向けたのである。
人と人の間にヒエラルキーを新たに誕生させ、
それをおこなわせる。
なるほど、動物のテリトリーの本能として、
同種でも争う場合がある。
それは次の生命を生むためのテリトリーである。
人間以上の新たな天敵があらわれれば、我々は
(この不自然に強化された本能を使い)、手を取りあって、戦うだろう。
しかし、もはや、それはなく、
我々は、人に対して限りのない、闘争本能をもったのである
人は、それを背負ったのである。
#うぅ〜ん、
この本能との契約により、
我々は人でなく? 何になった? というのでしょう
我々は頂点に立ち、
自由(を得たの)ではなく、目的を失ったのだ。
かつての本能をいつまでも引きずり、
それによって生きてるとし、我々は自ら(人間)を定義づけた。
人間は人間を駆逐する。
その本能だけをもって、ただ生きている。
それを不可解だと知りつつ、生の実感とする。
我々の知性も、闘争する本能で(に基づき)成り立っている。
善と悪の対角線上に、この本能が乗っかっている。
リンゴの皮を切るナイフが、人の肉を切るナイフへと変わるとき、
人は、たまたま彼がリンゴの皮をむいているとき、そこへ通りすがったんだ。
というだろう。確かにそのとおりだろう。
だから仕方ないんだ、と言うだろう。
我々はそこに逃げ込む。
しかしそれが我々自身の凶器、知性の凶器である(ことを知らない)。
我々はあくなき闘争本能の上で踊り続ける。
それをイリクスは
我々は生まれながらして、無実(の罪)を背負っている
というのである。
本能が指示し、しかし行うのは我々である。(#ここが問題ですね)
我々は彼らの道具である。
(#うぅ〜ん、つまり、
我々の意思でなくとも、行うのは我々である
ということが言いたいですね、イリクスは)
動物の場合は、
我々の眼にどんな残虐な行為をみせたとしても
動物を裁判所に呼んで、
いちいちその行為を問うてみる者はいない。裁かれることはない。
彼らは野生であり、それが自然の姿であるからだ。
しかし、人間は理性の恩恵を受けているとする。
それが、完全であり、あらがえることがすでに前提である。
しかし我々は本当にあらがえているか?
ではなぜ、裁判所は存在する?
もし、あらがえないとするならば、
そこに何の罪があるというのか?
何を裁くのか?
その判断を、問うことができても、答えるものがいない。
その中で誰にその答えを問うのだ。
何に責任があるというのか?
我々がその本能を利用し(て)、使うときだけ、
同義的問題が発生する。
つまり、逆に、本能を道具として我々が使うとき、
表象の意識 = 自分、自己のために使うとき、である。
つまり、本来的本能を満たしている、
時ではないときである。
しかし、人間は、
本来的本能と表象の意識との区別がしづらくなっている。
つかなくなっていると言ってもいい。
それは、我々は、我々を人間をえさとし、
本来的闘争本能を、同種の人に適用したからだ。
そうして
人間から、えさを、つまり富を、奪うからである。
#この富とはあらゆる富を含む、命も絶対として含む。
つまり、正当に、本来的に、本能が満たされていない。
人から奪うのはもっとも手っ取り早く、効率がよい。
あらゆる富を、一から作るには膨大な手間と時間がかかる。
これは一見、本能により近い。
いかにも本能に似ている。
だが決定的に違う。
それは、本能は、生命全体と種自体を考えている点である。
そのために、我々を変える