男は、光の無い絶望の縁に立たされていた。
見るもの全てが灰色に、聞こえるもの全てが不協和音に、そして周囲の
人々の視線が、ねっとりとまとわりついてくるように思えてならなかった。
路傍の石はそびえ立つ絶壁であり、電車の踏切の警鐘は地獄の底からの
悲鳴であり、ましてや自身の名前を呼ばれることなど、その一字一句が
侮辱と軽蔑の唱和となって、懊悩と悔悟の連鎖に、男を引きずり込むのだった。
アルバイト先の休憩室で鼻をほじっているのを、同僚に見られてしまった。
それも、よりによって店内で一番好みのタイプであった娘に、正面から
しかと見られてしまった。
扉を開けたまま固まった彼女が、困ったような顔をして、しかし掻き
消えるような声で謝罪して、取るものだけとって急ぎ足で出て行くまでの
物音と、爆発寸前の心臓が、金床をぶったたくような音を、鼻に指を刺した
まま固まった男の鼓膜は、至極冷静に捉えていた。
『融和と訓練と指示の行き届いた職場にあって、仕事の出来る先輩』
これまで築き上げてきた、職場に於ける自身のイメージが、粉微塵に
砕けた瞬間でもあった。
男はこのような逆境に脆く、またそれを誤魔化すほどの機転も
備えてはいなかった。
そして今日、男は娘から一方的に、綽名をつけられてしまった。
『第二関節さん』
あまりにもあまりな綽名だと思ったが、誰にも言っていないようだったので
娘に感謝すると、彼女は優しく微笑むのだった、それも頬を朱に染めて。
男は、柔らかな光を帯びた誰かに、手を差し伸べられたような錯覚を覚えた。
「聖人」「神」「犯罪」