「めぐみ先生」
伊集院達彦(いじゅういんたつひこ、10才)
その時、僕は小学4年生だった。
やんちゃな性格で、友達は多くて、学校は楽しくて、給食のカレーが好きで。
そして、それ以上に僕はめぐみ先生が大好きだったんだ。
「田中めぐみ」
きれいに丁寧にゆっくりと、黒板に書かれた字。それがその先生の名前だった。
「田中めぐみと言います。先生になって5年目。担任を受け持つのは、みんなが初めてです。
みんなと一緒に先生も勉強していくつもりなので、どうぞよろしくお願いします」
そう言って、めぐみ先生はペコリと頭を下げた。
そして、顔を上げて、ニコリと笑ったんだ。
そのペコリ&ニコリに僕はやられた。
10歳の僕だけど、僕はめぐみ先生に一目惚れしてしまったんだ。
「それではみんな、何か質問はあるかな?」
めぐみ先生のその言葉に、まってましたとばかりに女子が質問した。
「先生は恋人はいるんですかー?」
めぐみ先生は照れたように笑う。ニコリニコリ。
「実は優しい旦那さんがいます。結婚してるんですよー。
旦那さんの名字が田中で、田中めぐみになったんです。
前は、山田という名前だったので、山田めぐみでした。」
「あんまり変わんねーじゃん」と、とある男子が
言って、クラスのみんなはどっと笑った。
「そうねえ。山田めぐみって単純な名前が嫌で、
でも結婚しても単純な名前になっちゃいました。
あ、でも、単純な名前のほうがみんなに覚えてもらいやすいかな?
私も頑張ってみんなの名前を早く覚えるので、よろしくね」
そういって、めぐみ先生は、またまたペコリ&ニコリ。
和やかな教室の中、僕だけがふて腐れていた。
「僕と結婚すれば、伊集院って難しい名字だったのに」
今思えば、本当に本当に幼い愛情表現だった。
でも、同時の僕はそうすることしか出来なかった。
「好きな子をいじめたくなるのが、小学生男子の愛情表現」
なんて言葉があるが、そう、その通りだった。
僕はめぐみ先生が好きで、だからこそ、いじめたくなった。
幸い、僕は、ガキ大将と言わないまでも、そこそこ人望のある
やんちゃなキャラだった。だから、目立った行動もお手の物。
授業中も、やんちゃな行動で、めぐみ先生を困らせた。
そんな時、めぐみ先生は、眉毛を寄せて、ちょっと頬を膨らませたあとこう言う。
「もー、どうして伊集院くんは先生にいじわるするかなあ」
そう言って、めぐみ先生はおおげさに溜息をつく。
そしたら僕は言うんだ。
「でも先生も、まんざらでもないって感じだよね」
めぐみ先生は目を見開いて、
「まんざらでもないって、伊集院君、そんな言葉よく知ってるわね」
「いや、僕こう見えても読書家なんだよね」
実際僕は読書家で、言葉を知っていて、事実、他の男子なんかよりずっと知識が豊富だった。
そのはずだったんだ。
僕がめぐみ先生をしょっちゅういじめるもんだから、
他の男子も調子に乗ることがあった。
そんな時僕は、それとなく、その男子を注意して、めぐみ先生をフォローしてあげた。
めぐみ先生をいじめていいのは、僕だけだ。
めぐみ先生と僕には、ちょっとした信頼関係がある。
僕はこの小学校を卒業するまで、めぐみ先生とはおしゃべりが出来る。
そのはずだったんだ。
「サンキュー?」
その言葉を最初に聞いたとき、「ありがとう?」と思ってしまった僕は
まだまだやっぱり子供だったんだろうか。
めぐみ先生はニコリニコリとしながら、ゆっくり喋る。
「産休。先生ね、子供が出来たの。だから、子供を生む前と
生んだ後にお休みをもらうの。」
そうだ。めぐみ先生は結婚してたんだっけ。
なんだかすっかり忘れてた。
それで?いつ戻ってくるの?いつ?
「そうねえ…」
その日の給食は美味しくなかった。
めぐみ先生と会えない時期が、来るなんて。
秋も冬も会えないなんて。
そんな給食時間に、男子のひとりがにやにやと言った。
「めぐみちゃんって、孕んだんだろー?」
とある女子が言う。
「孕んだ、って何ー?」
「お前、そんな言葉もしらないのー?」
僕はそんな会話を聞きながらぼんやりしていた。
僕はだれよりも言葉を知っていて、知識があって、
でも、めぐみ先生には旦那さんがいて、
めぐみ先生は孕んで、
めぐみ先生は学校に来なくなるのだ。
いやだいやだ。
嫌だと思ったんだ。
めぐみ先生はやさしい。
僕がどんないじわるをしても、
めぐみ先生はいつも笑って許してくれた。
めぐみ先生は、僕の前ではいつも笑顔だ。
めぐみ先生は、僕のことがきっと旦那さんよりも好きなのだと思う。
その日の5時間目は習字だった。
先週は「太陽」先々週は「希望」そして、今週は「流星」
つまらない言葉を、黙々と書きながら、僕は、まだぐるぐると嫌な気持ちを抱えていた。
胸のあたりが、ぎゅーっとなる。
暗いような苦しい気持ちが増えていく。
その時、僕は、急にひらめいた。めぐみ先生に対する、新しい、いじわるだ。
「めぐみ先生ー」
僕は書いたばかりの習字を手に持って、めぐみ先生の元に駆け寄った。
「先生、みてください」
「あらー、伊集院君、早いわねえ」
「あ、でも、ちょっと字を間違えちゃったかも」
そう言って僕は密かににやにやした。
僕からめぐみ先生に手渡された、習字用紙に書いてある言葉は。「流星」ではなく、
「流産」
だった。
その文字を見たときの、めぐみ先生の顔は今でも忘れられない。
めぐみ先生の顔から、すっと表情が消え、その視線は、まっすぐに僕を見つめた。
そして、次の瞬間、全くの迷いも無く…
パァン!!
めぐみ先生の右手は、僕の頬を打った。
「やっていいことと、悪いことがあるのが分からないのかな?」
そう言って、先生は僕をすっと見た。
それは、大人が子供を見る目じゃ、無かった。
どうして、どうして、先生は、僕をそんな目で見るんだろう?
僕が何をしたっていうんだろう?
僕は万引きをしたわけじゃない、遅刻をしてもいない、
給食を残してすらいないのに、どうして。
僕は読書家で、言葉を知っていて、事実、他の男子なんかよりずっと知識が豊富だった。
そのはずだったんだ。
なんでも分かってるはずだったのに、どうして。
「めぐみせんせ…あの…」
めぐみ先生は、僕からは目を逸らし、硬直しっぱなしのクラスのみんなに向かって言った。
「気にしないで、みんな、お習字を続けて。」
そして、泣き出しそうな僕に囁いた。
「伊集院くん、人の痛みが分かる大人になってね。」
次の瞬間、めぐみ先生はニコリニコリと笑った。
いつものめぐみ先生が戻った。
それからの日々は穏やかに過ぎて行った。
ただひとつ、予想外だったことは、めぐみ先生の産休中に、僕の父の転勤が決まり、
僕は引っ越してしまったということ。
めぐみ先生と二度と会うことはなかった。
今、大人になって僕は思う。
あの時、僕がしてしまったこと。
妊娠中の妻が、僕に話しかけてくる。
「ねえ、何ぼーっとしてるの?」
「え、いや、なんでもない。色々思い出してただけ…だよ。」
めぐみ先生、ごめんなさい。
---------------
終。