日本一のインターネット巨大掲示板にある「創作文芸」
という作家志望者の集まるカテゴリがある。
「創作文芸」にて文章の投稿をするスレッドは、どれもがたいてい荒れる。
その原因ははっきりしている。「ド素人が偉そうに批評している」この一言に尽きる。
ここでいう"ド素人"とは、文学作品や新書、哲学や心理学等の
専門書などは読まずに、読むものといえばせいぜい漫画や雑誌や、一昔前には
ジュニア小説と呼ばれていた"ライトノベル"ぐらいで、文学の醍醐味である
メッセージ性をおび、文語を用い、卓越した比喩や、豊富な語彙を使った
作品を、その文体からして、毛嫌いする知的レベルの低い、そのくせに
「作家になりたい」という厚顔無恥な輩のことである。
この"ド素人"どもときたら、重厚なテーマや文語をひどく嫌う。
"ド素人"どもは優れた文章を読解することが困難なのか、感情や五感の情報を
緻密に描写して、比喩も使ってある本格的なものを「読む気しない」と
言い、罵詈雑言を書き連ね、インターネット掲示板の中で嘲笑を意味する
「藁」や「w」や「プ」や「プゲラゲラ」などを書いて、作品と作者を冒涜するのである。
さらに、自分の読書量が少ないために読解力が無いことに無自覚で
優れた文章を「読みにくい」「つまらない」「センスが無い」などと
言い放ち貶めるのである。"ド素人"が優れた本格的な文章をこのように嫌う理由は
あるいは、自分の能力の無さを突きつけられたように感じて逆上しているのやもしれぬ。
彼らは「俺にはこんな文章、逆立ちしたって出てこねぇ!ちくしょう!うらやましい
ねたましい!こんにも上手い文章を書かなきゃ作家になれないって言うのかよぉ!どんなに
考えても、そんな文章作れねぇよ!」という思いが頭に浮かびそうになるたび
顔をしかめながら、その思いを掻き消すようにブルブルと激しく首を振り、その後で
「よくもこんな惨めな気持ちにさせやがって!」と逆上し、鼻の両側の筋肉に力を
入れたいやらしい笑みを浮かべながら、力を込めてキーを打ち
目を見開いて、必死になって優れた文章を書く作者を貶めているとも考えられる。
そのような"ド素人"どもに対して「作家になりたければ、もっと文学をたくさん読め」
という書き込みもよく見るのだが、彼らはかたくなに文学を読むことをしない。
「読みたくないけれど書きたい」というのは理解に苦しむが、それはそれで自由である。
しかし、本を読まないものに、文章の良し悪しはわからない。
少なくとも己の読書量の少なさとそれによる読解力の不足を謙虚に自覚して
他人の投稿した文章を静かに読んでいれば良いのだが、読解力の無さに無自覚で
いっちょうまえに批評家を気取って優れた文章を「読みにくい」の一言で
辻斬りのように一刀両断に切り捨てるのである。
「創作文芸」には「あなたの文章真面目に酷評します」というスレッドがある。
これが実に不毛なやりとりをしている掲示板である。
先に述べた"ド素人"どもが我が物顔でやりたい放題のさばっている伏魔殿である。
私が「創作文芸」に初めて来たとき、作家志望者が集まる掲示板なら
皆、たくさん本を読んでいるものだと思っていた。だが事実は違った。
本を読まないくせに本を書きたいという者。本を読まないくせに優れたの文章にケチを
つけているもの達であふれていた。
私は「創作文芸」を知る前に、一冊の本を読んだ。
それは小説家志望者に向けて書かれたいわゆるハウツー本の類ではあるが、ああしろ、こうしろ
ああしてはいけない、こうしてはいけないといった指示は最小限で、小説家であり
また、何人もの教え子を小説家デビューさせた実績のある著者が、悪文をリライトして
比較検証するという書き方をされている優れた指導書であった。著者が書いたものと
原文を読比べると、あきらかに表現力の違いがわかるのだ。原文には無い視界や身体感覚や
感情がきちんと描かれていて、それが比喩も交えており、実に響きのいい文章に書き換えてあった。
私はそれを「創作文芸」に期待したのである。
「作家志望者なら基本的な読書をきちんとして、読解力も備えているだろう。
それならあの本のように、参考になるやりとりができるに違いない」と考えた。
ところがそれは間違いであった。
多くの「作家志望者」が、本が好きなわけでも、世にうったえたいことがある訳でもなく
賞をとって有名になってちやほやされたいという動機や、ベストセラーを書いてお金持ちになりたい
という愚かな考えの持ち主が多かった。 有名な賞を十代の女の子が受賞したことや、ブームになって
爆発的にヒットした恋愛小説が出たことが、愚かな"ド素人"どもに「作家になりたい」という言葉を
吐かせることになってしまったものと思われる。
私は「あなたの文章真面目に酷評します」を、その前進の前進、「行き場のない作品発表スレッド」の
頃から見てきたが、不毛なやりとりが続けられているのである。明らかな悪文も、良い文章も
「批評家」が、ちまちまと文節や文章の端々をいじっているだけであったり
「批評家」が「ダラダラと長い、簡潔に書け!」「比喩なんかいらん!削れ!」
「つまらない読む気しない」と言っているものには、感情や、五感の情報が緻密に描写されており
臨場感のある文章であることがたびたびあった。
また反対に「批評家」が「読みやすい」と言っているものは、小学生の作文のような稚拙で陳腐で
表現力が著しく欠けているものが多かった。
根本的に間違っている。ちまちまと文節や語尾や単語をいじっても何にもならない。
創作に必要なのは感性であり、ひらめきである。そのひらめきを導き出す指導が必要なのだ。
それには書く方も批評する方も、基本的な読書をしていなければ話にならない。
物語を書くということは、空想を文字に変換するということである。
空想を文字に変換するには、まず前提として、文字で書かれた物語を読み、文字を空想に
変換する作業に慣れていなければできないことなのだ。
物語も言葉の組立も、感覚から興すものだ。意識の外側にある無意識の世界から、間欠泉のように
吹き出し、ほとばしって出てくるものだ。神からの啓示のような錯覚さえ覚えるものだ。
空想の世界では色も形も視覚も聴覚も嗅覚も味覚も触覚も、そして感情もすべて再現できるのだ。
自分の感情だけでなく、自分の中の他人のしぐさや表情や感情や言葉も空想するのだ。
空想のスイッチが入ると、キーボードを打ちながらでも、意識は半ば吹っ飛んだ状態になる。
空想の世界の様々なものが現れ、それらにはみな色があり、においもあり、それらを触ると感触を感じ
また人物が様々な表情で、様々な言動をし、ドラマが始まるのだ。そしてそれらを細かく観察して
文字におこすというのが、感覚的に一番近い表現に思える。
勿論、自分で空想するのだが、空想しているのは自分であって自分で無いような感覚がある。
「我思う、故に我あり」とデカルトは言ったが、その意識の上での「我」とは違うもの
脳の、食欲、性欲、物欲などの欲求をつかさどる部分。あるいは心臓を動かし、胃や腸を働かせ
病気の時には、体の不調を感じさせる人間の生命を維持している部分―――そのようなところから
空想はやってくるように思える。
そして"ド素人"どもは、このような感覚に共感を示すことはできない。
彼らはそうやって書いていないし、そうやって読んでもいない。意識と無意識の橋渡しができないのだ。
そしてこの感覚的な部分が理解できないものには物語はつくれないのだ。
この感覚的な部分が理解できないものは、仕組みを分解し分析すればおもしろい物語がつくれると
思っている。「創作文芸」の中で「起承転結は必要か」という議論があったが
ここで「起承転結は必要ない」と主張するものがいる。彼らいわく「小説を『起』『承』『転』
『結』の順序で並べて、きっちり四分割してもだめだ」という。これは起承転結の定義を勘違いしている。
起承転結とはそういうことではない。起承転結の『起』とは物語の始まり。起承転結の『承』とは
物語の全体の起源となる事件や事故あるいは行動。起承転結の『転』とは物語の終盤に向かう
きっかけとなる出来事や価値観の転換など。起承転結の『結』とは物語の結末。
起承転結とはそれだけのことだ。必要ではあるが、これは物語をつくるときに特に意識することでは無い。
おもしろい物語には必ず起承転結があるからだ。「起承転結は必要」というのは『起』『承』『転』
『結』の順にきっちり四つに分けるという意味では無い。二重三重に複線を絡ませたり、ミステリーや
ホラーに恋愛の要素をからめたり、小さな山場をいくつもつくったりをしても良い。
感性とひらめきの思うままに作り出し、結果としてその物語がおもしろければ、そこには起承転結がある。
作家志望者の中にはこうした技術的なことに非常にこだわり、このようなことを教えるのは
ライバルを強くするかもしれないから危険と考えるものもいるようだが、私はそうは思わない。
技術的に物語のしくみを分解して、テクニックを覚えようとしても、それだけでは
おもしろいものは造れない。それを教えられてできる人は、遅かれ早かれ教えられなくてもできるし
できない人は教わっても、つまらないものしかできない。技術論には創造性は無い。
理屈でなく、感性から持ってこなければおもしろい物語はつくれないのだ。