話題を変えよう。褒めてくれ。
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黄ばんだ死肌にさくりと執刀が食い込んでいった。
刃の動きとともに皮膚が縦に裂け、黄ばんだ脂肪が姿を現した。
今年の夏は、酷く暑い。
日射し避けに立てかけられた簾の隙間を、夏の炎天が容赦なく照りつけてくる。。
風はあるのがせめてもの救いだろう。いくら拭き清められ、僧侶に手厚く回向されて
いたとしても、死体は死体だ。当たり前のように死臭を伴う。しかも、この暑さでは死
体が傷むのも当然はやい。だから、風があるだけまだましなのだと――
幸次郎は、他人事のように思った。いや、無理やりそう考えようとしたのだ。でなけ
れば、腑分けの現場などに立ち会えるものではない。もう、さきほどから、胸の奥で胃
の腑が他人のものにでもなったような吐き気が暴れている。それを辛うじて堪えている。
だが、
「肝の臓――」
そう言って執刀を取る壮年の医者が赤黒い臓物を指差したとき、幸次郎の努力はむな
しく終わった。耐えられず、幸次郎は後ろを向いて吐いた。
吐き気の強さとは裏腹に、たいしたものは出てこなかった。せいぜい黄色の胃液が
少々出ただけである。そもそも、吐く物もなかった。空腹であること自体忘れていたが、
幸次郎は今朝から何も食べていない。
ようやくえずきが収まったとき、幸次郎は背中に集まる冷たい視線に気がついた。
解剖は中断され、他の立会い人の目が幸次郎に苦い表情を向けている。口には出さな
いが、場違いな人間がいることを苦々しく思っているのがありありとわかる。
京都粟田口――
処刑場である。
ここで、ときおり腑分け――解剖――が行われる。死罪人の身体を使って、その中身
を観察するのだ。人間の中身を見れば、その仕組みがわかる。それが医術の向上に役立
つのだということだ。
昔は、腑分けなど許されるものでは無かった。だが、三十年ほどまえに宮中のお抱え
医師だった山脇東洋がこの粟田口で最初の解剖を行っていらい、京都の町奉行所も随分
と物分りがよくなっていた。願い出れば、簡単ではないものの、官許が出ることが多い
ということだ。
解剖されるのは大抵が罪人で、死罪になった者もいれば、獄死した者もいる。圧倒的
に男が多いが、まれに女もいた。今日は、その珍しい女の獄死人であるらしい。
冷たい視線があい変わらず注がれている。
身を竦めながらも、幸次郎はある期待を抱いていた。席をはずせと言われるのを待っ
ていたのだ。そうすれば、この場を逃れることができる。
だが、場は無言のままだった。誰も、幸次郎に去れとは言わない。
ここで、十人を超えるの人間が死体を囲んでいた。むろん、医者とその弟子が大部分
であるが、他の人間もいる。一人は、奉行所から目付けとして派遣された役人。もっと
も、腑分けの現場など見たくもないのか、距離を置いてしきりに汗を拭いている。
それから、処刑に携わるはずだった獄舎の首切り役人もいる。こちらの方は、職が職
だけに落ち着いたものだった。腑分けも初めてではなく、以前にも一度立ち会ったこと
があるといっていた。たしか、その場合は自分の手で処刑した罪人で、そのまま成り行
きのように見届け人になったのだという。今回は、医者の方からの要求で首の付いてい
る死体ということで獄死した死刑囚が選ばれたのであるが、見届け人の方は変わらず首
切り役人に回ってきたということだった。
見届け役の首切り役のほかには、死体を運んできた小者が二人。やはり、現場に立ち
会う気がないのか、離れた場所で所在無く座っている、
役人達とは別に、医師でない職のものが二人いる。
ともに、同じ職業だった。そして、二人のうち一人が幸次郎なのだ。
その職というのは、
絵師――である。
たとえ腑分けをしても、そのようすを言葉を尽くして解説しただけではどうにもなら
ない。百聞一見に如かずで、後世に残そうと思えば、当然絵が要る。だが、医者が書く
絵は当たり前にように下手だった。だから、こうして絵師が呼ばれる。
いつまでも四つんばいになって地面を見つめているわけにもいかず、よろよろと立ち
上がった。暑さとまだ多分に残っている吐き気のために、立ちくらみがした。幸次郎は
それでも、なんとか一礼して、不手際をわびた。
医者達の視線は相変わらず厳しいままだ。幸次郎は、医者の中から要求されるのを待
たずに、この場を去しようとした。それが、双方のために良いはずだった。
が、辞去の言葉を告げようと直前、正面にいる壮年の男から淡々とした声が出た。
「最初はこんなものさ。腑分けとなれば医者の弟子だって、青ざめている。ましてや、
ひとの内臓なんか見たこともない絵師ならなおさらなことだ」
男は左手に絵筆を持っている。
幸次郎とは別に、もう一人呼ばれた絵師だった。
月代を剃らず、総髪にしたままの髪を無造作に束ね、がっしりとした身体つきは線の
細さを感じさせない。絵師というより、周りの医者の一人と言われたほうが似合ってい
る。いや、むしろのその泰然さとあいまって、武芸者というのが一番似合っているかも
しれない。
たしか名は聞いたはずだが、覚えていない。どちらにしても、幸次郎同様に名の売れ
ていない絵師らしい。ただ、こういう状況にありながらも堂々としているのは、たいし
たものだと思う。