あなたの文章、無理して誉めます

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325創作論・序
創作論を何故僕は書くのか、というところからまず始めたいと思います。
そもそも僕にしても「コラムなんて書くくらいなら小説をあげたらどうだ」と本当に思うんですが、別に書いていないわけではないのです。
しかしながら、ここに来て自分がやりたいことが最近になり手詰まりになって来たようなのです。
何を書くにしろ、これは誰かの模倣ではないのか、これは僕が書く意味のあるものなのか、
こんなものが果して本当に面白いのか、様々な憶測で悩んでいるのです。
ですから、以前から暖めていた創作論を実際に着手し、自分自身の活路を見出す為にもここでまとめて置こうかな、と思ったのです。
この創作論は主にJOJO広重氏のコラム、灰野敬二氏のインタビュー、保坂和志氏の「書きあぐねている人のための小説作法」などから導き出したもので、
僕が様々な作品を楽しむときに「何故これは良いのであろうか」と考えに沿って裏付けられたものです。(ただし、自分なりの意見が多いことをご了承下さい。
そうでなければただの著作権侵害ですし)これが誰かの役に立つかどうかはわかりませんし、これを読んでも意味のない人もいるでしょうけれど、
例え創作という分野に身を置かない人でも芸術と言うものの意味を理解する手助けにはなるのではないかと考えています。
326創作論その1:04/06/29 10:12
芸術とは何か、という話題からです。これを理解するか否かは大きな違いだと思うので、まずはここからさせてください。
芸術という言葉を一口に言っても色々なものをさすわけですが、しかし、
芸術と言うものの本質を指すものは結局同じ考え方であると思います。それは、自分の目で見るか、否かということ。
こんな例え話があります。芸術家と普通の人が絵を描くときの違う点というのは、花を描いたとして、芸術家は「花」の絵を描くけれども、
普通の人は「花の絵」を描くということです。これがどう言うことかわかるでしょうか?すなわち、花の絵とはこういうものであると普通の人は事前にしっているわけです。
花であろうとなんであろうと、絵はこういうものだ、こういう風なものはこうなのだ、という描き方をするのです。それは花を描写してるのではなく、
一度自分の中で描くと言う行為の為に誰もがするフィルタリングを行い、そして描いているのです。ですが、絵は自由であり、見たままが全てとは限りません。
そこが芸術家と普通の人の違いなのです。そこに時間の概念を感じ、どうにか時空の流れが感じられるように絵を描こうと思う人が居たっていいでしょうし、
花から生きる逞しさを感じるので生命を感じる絵にする人だっているでしょう。また、極一部を拡大して描く人も居れば、隅のちょこんと描く人も居るでしょう。それは自由なのです。
こういった姿勢は捻くれていると思われがちですが、本来的にはそうではありません。全ての分野で芸術があったからこそ今のエンターテイメントはあるのです。
今やアートの代表的な手法とも言えるキュビズムも、多少、エンターテイメントの様相を負い始めているのではないかと言う気もします。
327創作論その2:04/06/29 10:12
基本的に、芸術をするということは現在二通りのやり方があるように思えます。一つは、常に速くあること。どういうことか?
速い、という表現は灰野氏が良く使われるのですが、これはつまりテンポを速くすることだとか流行の最先端に居るとか、そういうことではないのです。
常に、開拓者であるということです。どういう形状であれ、今までになかったものを作り出すことは創作の本質であり、
そのことを「どうすれば面白いのか?」「どうすれば格好いいのか?」「どうすれば凄いのか?」「どうすれば新しいのか?」等、根本的などうすれば?を追求すること。
そして考えること。それは常に、凄いのです。どういった音であれ、文体であれ、今までに無ければそれは追求する価値があるのだから。それは新たな価値を呼び、意味ががある。
それが速いということであり、凄いということ。そもそもそれが「らしさ」を産むのであって、他の誰かがしているかもしれないことをわざわざ自分がやることに意味はあるのかな、と思ってしまう。
だったら徹底的に自分らしさを追及すればいいのだけれど、それをしないのが商業であり、それが表面上で流動しているものなんです。
古典を読め、と言う人が居ますがそれは当たり前で、古典は商業作品や現在の複雑な作品と違って純化されたものが多いのです。だからその価値の意味がわかる。
今は純化している作品を提示出来る人はほとんど居ないですからね。時代が、純化させるのか。それはわかりませんが。
328創作論その3:04/06/29 10:13
以前の凄さ、速さを追求する以外のもう一つの創作法はというと、これはもう等身大に描く、ということです。
一人で聴いていて、「あぁ、なんだかいいなぁ」って思うもの。そういった本質があるものは、等身大だからこそなんです。
ピーターアイヴァースの声がいつでも聴いていて悲しくなるのは、 T.REXやボブディランが楽しい歌を歌っていても何かこう悲しい、
そういうものが等身大というものにはあるように思います。自分を凄く見せようとするのは作為であり、それでは駄目なのです。
そして、そういう等身大であろうとすることは、不思議といいものができる。いいものが出来るし、聴いていてこれ以上無いほどの説得力がある。
だからそんなぽんぽんと飽きられるようなことがないのです。それこそが、作品の本質になるのだから。
そもそも私達の人生というのは誰もが違い、それはそれでどれでも見る価値が本来はあるのです。
でも、それでもその価値を高める為に我々は誠実に生きねばならないのだと思います。自分の主張を持ち、
物事についてきちんと考え、反省し、正しいと思うことを貫くこと。別に海外で暮らしたことがあろうがなかろうが、
特殊な職業に就こうが就くまいが、モノの見方さえ良ければ、人に伝えれるものはできると思いますし。
何故なら、その作品を受ける人間だって普通の世界に生きているのだから。だからこそ、普通とちょっと違う世界だけでも十分過ぎるほど価値のあるものは産まれるのです。
329創作論その4:04/06/29 10:14
世の中の多くの物語はオチがあって、最初は説明があって、泣ける部分があって、そういう部分がより引き立つように全体が構成されていて、とまぁ、要するに構成のお話。
音楽でもそうだけれど、世の中の人は大して音楽もお話も好きではないし、何かを考えて生きているわけでもないのだから、
わかりやすいお話やサビのメロディーが綺麗だったりすると大喜びする。わざわざ脳みそを使わなくてもわかるからだ。
しかし芸術っつうものはそう言う浅いモノではなく、もしかすると人生を変えかねない何かがあるのだと思う。そしてそういうものが、構成などというもので縛られるのは何かおかしい。
昔、音楽家はそう考え、フリージャズを造りフリーミュージックを造り、リズムもメロディーも解体し、クセナキスは作者から音階さえ解き放とうとしたわけです。芸術とは即ち制度との闘い。
文章でもそうで、作為まみれの文章というのはまぁ軽く読む分には悪くないのだけれど、
その文章が心の何処かに残ると言う事はないんじゃ無いかと思う(ノンフィクションでも、結局は作為的に選んでるわけでそれがどこで作為が入るかということの違いでしかない)。
そういう事に気付いた作家が保坂和志で、彼の書く文章にはオチもヤマも無い。1行1行が勝負であり、だからこそ何度読んでも面白いわけで、
文学がミステリーやラノベと違うのはそう言う部分にあるんじゃないかと思う。
それは別に「既に面白いストーリーというものはパターン化されてしまったから」とか、そういう事ではないような気がする。
そして、ならば何故作家やミュージシャンはそういう、一歩間違えば「なら砂嵐を聴けばいいし、なら他人のつまらない日記を読めばいい」という事になるのをする必要があるのかと言えば、
きっと彼らにしか伝えれないものが作品にはあるからだと思う。だから高橋源一郎は「普通とはちょっとだけ、ほんのちょっとだけ離れた世界」と文学を評したのだ。その距離感がわかることが、
創作人としては重要ではないのだろうか。
330創作論その6:04/06/29 10:17
ここからは、所謂テーマだとか題材だとか、そういう作品の内奥に潜むエレメントのようなものについて話を進めることにしますが、
これらは酷く個人的な「創作論」であるので、余り真面目に捕らえ過ぎないほうがいいように思います。
つまり、「○○がこういっていたから僕も○○をする」、では余りに短絡的に思えるのです。
実際のところ、僕自身が尊敬するような人であっても、どうしてもその考えは賛同できない、行き過ぎではないのか、と疑ってしまう部分も実際に多いわけです。
ですから、どちらかというと思考のプロセスとも言える部分を参考にして頂けたらどうであろうか、と僕は考えています。
さて、今回は恋愛とか青春とかそういうのについてのお話。結論から言うと、僕は絶対描かない人です、そういうのは。
青春が何らかの人間の真実の側面を捉えているだとか、恋愛が人の激情を曝け出す最も優れた手段であるとか、色々な話は聞きますし、
恋愛の無い話なんてリアルに欠けるなどとも聞きますが、だからと言ってもやはり書きたいとは全然思えない。
男と女が出てきて、都合主義だろうが巧い辻褄が合おうが、別にそういった事に関係なく、恋愛というものが作品で描かれる必要性を余り感じない、という一端もあるわけです。
…自分でもちょっと話の筋道に奇異を感じるので、まずは初めに告白してしまいますが、恋愛や青春に、嫉妬しているのかもしれません。
331創作論6:04/06/29 10:26
つまり自分の人生において、青春だとか恋愛だとか、そういう若く瑞々しい経験をしたことが無い、という圧倒的な人としての不備があるように思えるのです。
そうしてそういう段階を追って成長した自分は、当然の事ながら正当に成長し、青春や恋愛を謳歌している人々に劣等感を持っています。これは決定的でしょう。
そういう人間は、まず「果たして恋愛が描かれるべきであろうか」と疑いを持つわけで、そうやって育った僕に言わせれば恋愛だと青春だのは描く必要の無いものと考えるのです。
恋愛というものはそもそも文学的ではない行為のように思えて止まないのです。そんなこと言いつつ、我々の身近には恋愛小説や恋愛の文学が溢れており、
むしろ恋愛の要素がまるで存在しないという状況はほとんど無いのに。だのに、そのようなことを言うのはなぜか?
…恋愛という行為は、酷く本能的な行動だからです。つまり、動物達からの進化の経緯によって必然として生まれた感性だから。
馬鹿か、と想いでしょうが、文学や芸術の作り出す世界は、これまでに無かった世界の筈です。僕は、恋愛小説というものは、この世に一冊でいいのではないか、と主張します。
芸術は世界を作るのです。もともとあったものを再生しているのではないのです。そういう意味において、既に完成された感情であり、みなが当然通るであろう千差万別の恋愛劇を、
文学や芸術といった単位がわざわざ介入する必要性に疑問を感じています。ある種において、馬鹿げた考えですがね。
そもそも恋愛に然程、魅力を感じないというのもどうしてもあるのです。我々が10代や20代前半に感じる恋愛に対する考え方は、どうしたって恣意的な現象というよりは、
予定調和的行為というバックグラウンドの存在が頭にあるとしか思えない場合がほとんどではないか、と考えます。そういった予定調和の世界を描く気にも、どうしてもなれない。

332創作論6:04/06/29 10:27
男が女を見れば即恋愛に発展すると考えてしまう予定が、僕にはうすら寒くて仕様が無い。
青春における考察においては、「セカイ系」という言葉が最も適しているでしょうか。おおよそ我々が考える「如何にも深みのある世界」を、
青春や内向的思考がこの日本で担い始めたのは、所謂「エヴァンゲリオン以降」のような気がします。一般的に言う「ひとりよがり」ですね。
三島由紀夫は確か、「青春の間、我々は個人の世界が全てである錯覚に陥る」という趣旨の言葉を残していました。まさに、セカイ系の芯を得た言葉でしょう。
このひとりよがりから逃れつつも、セカイ系の深みを残すために、今までの作家達はさまざまな努力をし、「複数の視座を用意することで、ひとりよがりに客観性を持たせる」という解決策を編み出しました。
これを最初にやってのけたのが、ドストエフスキーであり、日本でこれをあからさまにやったのが、村上春樹です。村上春樹の作品は、長編において、大体が2つ以上の視座からで話が進んでいきます。
これにより、ひとりよがりに思える進行であっても、二つの共通部分が深みを保たせ、ひとりよがりな部分がむしろ広がりへと変化するわけです。
なるほど、石川洵が「壁をのけたドストエフスキー」と言ってのけたのは、これであったか… と思うと、確かにこれで全てが解決したように思いもします。
しかし僕は納得できない。先に述べたように、このような思考に抵抗感がある上に、真実とは、そんな部分にあるのではないのではないか、と思うからです。
人間の精神世界というものにあてはめるために人間の精神世界を展開するというやり方が、どうしても短絡的に思えて仕方ありません。
それは文学か?芸術か?どうしても疑ってしまうのです。だから、僕はセカイ系が「人間の核心をついている」というように思える作りになっているのを見るのが、酷く不快でたまりません。
我々が考える深みが、錯覚されているように思います。もし、この精神的世界に人々の真を見出す力があるとすれば、それは言葉が真を表現していることに他ならないのではないか…と。
だからこそ、僕は心象風景というものに惹かれるわけです。僕が、「文学・芸術を言葉で表すのは絶対に不可能だ」と述べるのは、このあたりに理由がありそうだと考えています。