1 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :
このスレは「わかりやすい」をモットーにします。
一、二回のレスで終われるような短編小説を書いて下さい。
2つにまたがる時は、1・2などの番号をタイトルに入れてください。
批評も自由ですが、あまり熱くならないように気をつけてください。
作家「?」
編集「!」
今だ!2ゲットオォォォォ!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ (´´
∧∧ ) (´⌒(´
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ (´⌒(´⌒;;
ズザーーーーーッ
・・・・・・・・・
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄
∧∧
⊂(゚Д゚⊂⌒`つ
 ̄ ̄
5 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/23 20:24
書かせていただきます。
ちなみに5ゲット・・
小織は中学一年生で、初めて携帯を買ってもらった。
小織がはじめてしたのは、説明書など見ずに友達にメールを送ること・・
「やっほー☆ さくらちゃん♪」
♪や☆も入れてかなり現代風にしたつもりだった。
でも。
返ってきたメールは読めなかった。
ギャル文字というらしいけど・・
「・・・」
小織は黙って携帯を畳んだ。
(思いやりが足りないよ〜)
ふと、そう思った。
ギャル文字の嵐が去るまで、携帯は使えないなぁ。
文字というものがありながら・・
溜め息をついた。
ギャル文字が去るのは、いつ頃になるのだろうか?
絵文字メールの方が良かったなぁ・・
そう思った。
糞作品です。ハイ。ごめんなさい・・
あおいもギャル文字読めないよ!
あなたを石原君の花嫁と認定しまつ。
どうゆうこと??…まぁ それはどうも(^_^;)
8 :
proxy103.docomo.ne.jp:03/11/23 21:31
良スレ発見
o ○ 。 . ゜ ゚
o ゚ 。 o 。 。
o o . ゜ ゜ ○
。 ゚ o ○ o ゚ o
゜ o ゜ 。 ○
゜ ○ o o o ゜ 。
o ゜ . ○ ゜ ゜ o
_\ _ ゜ 。 。 ゜ o _ ○ ̄ ̄
○ \ o ゜ 。 / /
 ̄ ̄|__ \\ 、 。 ゜ ゚ ○//。__| ̄ ̄ ̄ ̄
∃ | | | l l ゜ ゜ 。 l l | | |○田 田
|田 | 。| | l ゜ ゜ 。 ゜ l | | | 田| o
∃○| | | |。 ゜ . .. ... .. ... . ... ...゜ . .. .. .. l |。| | | 田 田
|田 | | l‐ ..... .... ..... -| | | 田|
∃ | |○― .... o .... ○ ..... ― | | 田 田
o.... 一 .... ○ ... o .... ー- | 。
―  ̄ o ⌒  ̄ ― -
そして冬が訪れた……石原とあおい フォーエバー
10 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/23 23:19
折角なので何か書いてみては?
(^_^;)
今度ね。今日は眠いから落ちる。ノシ
12 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/24 10:03
誰か・・書いて下さい。。
それでは、某スレから出張してまいりましたわたくしが、
目の見えないスナイパーとわたくしの、四日間の恋の果てに、
スペインの三流ホテルにたどりついた時のお話をさせていただこうかしら?
14 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/24 10:40
はい。。宜しくお願いします。
解りやすく・・(汗
やっぱり、膝の裏側にフジツボがびっしり生えた男と、
ピアスの穴から白い糸の出たわたくしとの、
ベッドの下での愛のはぐくみについて話そうかしら。
16 :
松風あおい ◆qnBeHfchc. :03/11/24 10:57
別にかまいませんが、「1・2回のレスでおわれる話」にしてもらわないと困ります。分かりやすいがモットーなんで。
こっちに書けば良かったかなー。
>>あおいちゃん
酷評スレの
>>369を酷評してくり(ほとんどコピペ作業なんだけど)
>>あおいちゃん
さんきゅです。てか、ラスト一行しか書いてないのに褒められてうれしいですw
。。。田口らんぢぃ名乗ろうかな(ぉ
そうだったんですかぁo(^-^)o
面白かったデス。たくさん話を書いてくださいネ└|∵|┐
学校へはいつも、電車で登校している。
別に自転車で行こうと思えば行ける距離だけど、朝はつよくないので電車にしている。
ある日、いつものように家に帰る途中、偶然彼女と出会った。
俺は神様に感謝した。
俺は彼女に声をかけ、何気ない雑談をしながら電車に乗った。
車内は混んでなかったので、自然に彼女と一緒に座ることができた。
彼女が俺の隣にいる。今なら言える。こんな機会、滅多に無い。
俺が決意を固め、彼女の顔を見た瞬間、急に怖くなった。
この関係が崩れたらどうしよう。
二度と話すことができなくなったらどうしよう。
「友達」から1歩進むには勇気を出さなければならない。
でも・・・。
こんなに近いのに、遠い。
こんなに好きなのに、言えない。
俺は結局言えなかった。
「またね」
彼女の笑顔は、まだ鮮明に覚えている。
22 :
名無し物書き@推敲中?:03/11/25 21:18
あげ
23 :
綾瀬深桜 ◆qnBeHfchc. :03/11/27 18:38
こんです。
書き込み待ってます
24 :
名無し物書き@推敲中?:03/11/29 09:38
暁の森・・それは。
青々しい木々が生い茂り、朝焼けの時は最高に素晴らしい雰囲気の森。
朝焼けの刻、何処かに不老不死の妙薬があるという・・。
それを探しに来た少年、「アイル」
アイルは昨日の夕刻から森に入っていた。
この国の王女の「レリ」様。
しがない一探検家のアイル。
二人は実は・・・
・・・・
「雲」
「酷い親父だったよ、兄ちゃん」
遣り切れなさそうに、その男は呟いた。そろそろ還暦を迎えようかと言う年齢だろうか。
病棟の中央に位置する喫煙所の草臥れたソファーに凭れ掛かり、その男は何度も頷いた。
脂ぎった禿頭にぼんやりとした蛍光灯の灯りが反射している。
私は煙草を一本振る舞われた義理もあり、渋々と男の身の上話に付き合わされている訳
だ。担当医に止められている煙草の味は苦く、ほんの少し自己嫌悪の味がした。
その男の父親は、私の病室の斜向かいの個室に入院しており、末期の癌でもう長くは無
いそうである。若い頃は手の付けられない博打好きで、彼の母親は子育ての苦労の末に亡
くなったらしい。
「俺も死んだお袋もさ、鵜だよ、鵜!稼いだ金を全部親父に搾り取られて……」
男の愚痴は続いていた。父親が年老いて、漸く博打をする元気が無くなると途端に老人
性の痴呆症になり、やがて徘徊が始まったらしい。商店街で小売店を営む彼と細君は朝の
四時頃から起きて、徘徊する父親の面倒を交互に見たそうである。
「正直これで死んでくれると思うと、ほっとするね」
男はそう言った直ぐ後に、俺は父親の死を願う最低の倅って訳だ、と続けて自嘲気味に
笑った。男はその後も、然も可笑しそうに笑いながら父親を罵り続けた。時には捲し立て
る様に。時には焦点の合わぬ目を中空に彷徨わせ。私は聞いているのが段々と辛くなって
来たので、僅かに会釈すると立ち上がった。
「兄ちゃんはちゃんと親孝行しろよ!俺みたいな鵜じゃ無いんだから!」
男の胴間声が薄暗い廊下に響き渡り、やがてそれは深い溜め息の音に掻き消された。
明くる日の朝方、斜向かいの部屋の入り口は、パイプ枠にベージュの布が張られた衝立
で遮られており、数名の看護婦が慌ただしく出入りをしていた。その中の一人が、エンジ
ェルセット、と囁いた声を耳にして、件の父親が亡くなったのだと漸く分かった。
暫くすると衝立の陰から男が現れ、立ち尽くす私の姿に気付いて相好を崩した。
「遂に鵜飼いが死にやがった。ざまあみやがれだ!これでこっちは晴れて自由の身だ」
私は少し険の含んだ目つきで彼を睨み付けると、そのまま自分の病室に踵を返した。そ
の後、点滴を受けながらも苛々して仕方が無かった。病室の空気がやけに重く濃厚に感じ
て、喉に詰まる様な気がしたので私は点滴が終えるとその足で屋上に向かった。
鉄で出来た重い扉は軋んだ音を立てて開き、
――その先では鵜が声を押し殺して泣いていた。
あれ程父親を詰り、悪し様に罵っていた男が、屋上の柵に凭れながら小さな子供の様に
嗚咽している。その姿は今朝ほどと較べると一回りも小さくなってしまった印象だ。
どちらが本当の彼の姿なのだろう……?
私は取り留めも無くそんな事を思った。
冬の空に垂れ込める低い雲は、やがて降り出す雨を予感させるかの様に深く濃く、強い
風に流されて一時もその形状を留めてはいなかった。
ああ……そうなのだ。
その時になり私は漸く気付いた。どちらも彼の本当の姿なのだと。
今、眼前で流されてゆく雲の様に、他者の心の有り様を明確に捉える事などは何人であ
ろうと出来ない。――何人であろうと。
肩を振るわせて嗚咽する彼に僅かな嫉妬を覚えながら、私は重い扉を静かに閉めた。
そして幼少の頃に家を出て行ってしまった父親の面影を思い浮かべ、小さな溜め息を一
つ吐いた。そして思う。
――鵜と捨て猫では、どちらが幸せなのだろうか、と。
だが、答えは出なかった。流される雲の形状を明確に捉えられない様に――
(了)
27 :
名無し物書き@推敲中?:03/11/30 15:15
あらすじだけなら少し
炎天下、繁華街でカラスが死にかけている。傷口が腐敗して羽が抜け落ちている。
小さな人だかりができ、口々に汚いとか鳩だったら助けてやるだのとの感想が交わされる。
誰の目にもカラスの命が次の瞬間に途絶えても不思議に思わないという状況。
そこに黒服を着た女性が現れ、カラスに水を差し出す。飲み終えると同時に、カラスは息を
引き取る。
あっけにとられている群衆を無視して、女性は消える。やがて人だかりも消滅。
短編小説というよりも実話なんだよな。うちゅでした。
女の子、髪が長くて黒髪で、綺麗だった。
>>25,26
何か短い文章でもいろいろと人に物を考えさせることができるんですね。
書き方もうまいし。ストーリー重視じゃないのは、純文学系だから?
>>28 純文志向だからストーリー重視では無い、と言う事では無い訳でして(笑)
スレッドに載せられる長さの文章では、どうしても限られた内容になってしまうと言う
のが真相です。どんなに短い文章でも尻切れトンボになるのが嫌なので、取り敢えず落と
し所を決めておいて、余った行間に必要最低限の「描写」「説明」「台詞」など組み込ん
でいくと、どうしても物語の一場を切り取った様な展開にしかならないのです。勿論これ
は私の技量が不足している所為で、全ての方がそうであると言っている訳ではありません。
ともあれ、28さんが寄せて下さった感想の様に、読み手の方の心を僅かでも揺らす事
が出来たのであれば大変嬉しく思います。ありがとうございました。
>>11で、迂闊にも何か書くと答えてしまったので載せた次第です。
1さん、取り敢えず約束は果たしたじぇ!ノシ
どーでも良いが、好い感じで沈んで来たのだから誰か載せてくれい!
個人的に希望する人物は居るけれど、敢えて名は伏せる。
それはわたくしのことですわね。
それではわたくしが、某スレで完璧にスルーされた物語を少しばかり直してご披露いたしますわ。
『遭遇』
テムズ河のほとりに立ちのぼった薄霧は、宵の闇と供に、
やがてヴィクトリア朝風に飾られた家々の窓辺にヴェエルを被せ、
そこに零れる灯りや、あるいは街路灯の火の一つ一つを、
仄かに滲ませながら流れていく。何処か遠くをゆく紳士の足音も、
湿った煉瓦に高らかに響くことはなく、寂寥とした夜のしじまに消え去った。
冬の空気は冷たく、ホワイトチャペルの切り裂き魔のごとく、鋭く切りつけるように吹き渡る。
かの殺人鬼が跋扈したのも、この霧、この時刻、そしてこの闇の中というのなら、
肯けるのも道理であった。
マリアは画家見習という肩書きを周囲に自ら零してはいたが、二年前までは
イーストエンドの界隈に籍を置いていた娼婦の一人だった。ある日一人の画家と出会い、
彼の支援を受けながら生活することで、あの堕落した日々から抜け出すことができたのだ。
その画家の横顔を思い出すだけで、マリアの胸は熱くなる。ああ、金色にうねる髪は、
午後の柔らかな日差しを浴びた麦畑のよう、そして青い瞳は底知れぬ深夜の宝石……
その夜もマリアは彼のところへ向かう予定だった。夜風に身をかばうように南へ向かい、
暗闇の向こうにタワーブリッジの影を見る。目的の家は、河を渡った向こうにあった。
角を曲がった時だった。マリアは目の前の異様な人影に驚き、思わず立ち止まった。
小さな黒い影……それは素早くマリアの前の前に立ちはだかり、こう云った。
「ワレワレハウチュウジンダ。コレヨリ チキュウシンリャクヲ カイシスル」
「マジっ!?」
マリアは思わず口走っていた。
マリアは画家の家に駆け込んだ。
「大変よジョージ!」
「はっは! 何を慌てているんだい、マリア。ところで聞いてくれよ。
三軒隣のマッコイ爺さんが一昨日の晩に亡くなってね、僕は葬式に出向いたんだ。
ご存知の通り爺さんは稀少本のコレクターでね、棺桶の中には家族の意向で、彼のコレクションの中でも
特に高価な本が数冊入れられたんだ。家族は火葬を希望していたので、本もろとも天国にいけるという
ロマンティックな話さ! ところがなんと、葬儀屋が本をこっそり盗み出していたんだ。
それに気づいた私は彼を問い詰めた。すると彼はこう云ったんだ。
『この本を買うのに充分なだけの金額を、小切手に書いて棺桶に入れておきました』
……どうだい、なかなか素敵なジョークだろ!」
「そんなことはどうでもいいわ、ジョージ。大変なの。
異星人が攻めてきたのよ!」
「ほう! そいつはどんな?」
「こんな感じよ」
マリアは早速捕獲した異星人をテーブルの上に置いた。それはすっごいちっこくて、ふさふさとした白い体毛に覆われ、
突き出した鼻は黒々と濡れている。たぶん、鼻が乾いたら病気のしるしだろう。
「犬そっくりだな!」
「ねえ、これ飼わない?」
ご利用は計画的に
>>31-32 これ、某スレで見ました。でも完璧スルーされたとは知りませんでした。
雰囲気あるのに……何かしらレスが付いても良い文章ですよね。
これからクリスマスに向かい、ケーキ屋さんは忙しいでしょうけど頑張って下さい(笑)
今度は新作でお願いしま〜す。
34 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/20 14:25
「真珠の朝」
何のまえぶれも感じたおぼえはなかった。
ただ、いきなり目が覚めた感覚が残っている。
─あの薬品を用いると、こんなふうに目がさめるんやなあ。
ソノ子はあたまが意外と冴えていることに、ちょっとした驚きをもった。
ためしに大きく深呼吸してみる。身体中の神経がやんわりとほぐれ、それを胃
の底のあたりが受け止めて、かくまってくれている。いつのまにか滞り澱んで
いた気掛かりなものが、とつぜん晴れわたった気さえする。
朝という義務がこんなにも気楽におもえたことはなかったようにおもえた。
─ここ何年もなかったことやわ。おかしな事もあんねんなあ。
冬の日差しが仄あかく窓を染めはじめた。
ソノ子は自分のいる部屋を、まるで他人のアトリエか何かのようにキョロキ
ョロと見回してみた。すぐそばに、ソノ子の情人の久一がごろりと横になって
寝ている。いつものことだ。
「久一っちゃん」
ソノ子はそう声をかけながら、自分の頬を彼の顔へと傾けた。
息はあった。ソノ子はほっとして、横たわる久一の寝顔をあらためて見つめな
おしてみた。わずかとはいえ、蒼白さは増していたかもしれない。だが、息は
あるのだ。
「…やっぱり」。ソノ子はつぶやいた。寝ているはずの久一には聞こえもしな
い声音だった。「同じ量やったもの。死ねるわけないわ」
ソノ子は久一の薄く冷えたくちびるを、まるでクレヨンでなぞるかのように、
そっと人指指を這わせた。それは端から端まで、同様の冷たさをたもっていた。
ささやかではあっても寝息とともにあるということは、ある種のぬくもりは、
維持されているわけだ。ソノ子はそう、考えておくことにした。
彼女は男を部屋に残し、上着を羽織り、格子の玄関を出た。 (つづく)
35 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/20 14:28
─わあ、まっぶしい…!
表では近くの女房らがもう、それぞれに水を打っていた。
打たれた水には朝のはやい光りが、真珠の玉のようにコロコロと投影して、ソ
ノ子の瞳さえも映している。
─わたしらのところにも水を打ってみようかな…。
女房たちは色々と段取りがあるらしく、動きに澱みがない。ソノ子は玄関に突
っ立ったまま、彼女らの働きに眺めいるばかりだった。わたしもあんなふうに
何かかがやいて見えることのひとつくらい、やって見せたい、と彼女はおもっ
た。
そんなソノ子の耳に車のエンジンの音がとどいてきた。あまり遠くはなかった。
朝一番の車ではないかと彼女はおもった。エンジン音は彼女のからだの奥底を
急き立てるかのように、徐々に近付いてきた。
理由などなかった。
はっ、としてソノ子は寝巻きの袖につっこんでおいた白い錠剤を取り出し、そ
の数さえまったく数えないまま、すばやく、ぐいっと一息に飲み込んだ。
車は、彼女のまえを幻のように過ぎていった。
前髪に風を受けて、ソノ子はしばらくじっとしていた。前髪が彼女を、その揺
れへと誘っていた。
やがて、ふと思い出したかのように、久一の寝ている部屋へ戻っていった。
ある女房は、うしろ姿が妖精のように見えた、と後に語った。
(コンセプト=高校時代・執筆=十年前)
36 :
名無し物書き@推敲中?:03/12/20 14:52
>>34ー35
まだまだ先が長いのを途中でチョン切ったような話だなぁ…
37 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/20 15:16
>>36 読んでくださってありがとう。
いえいえ、この短編はこれ以上でもなければ、これ以下でもありません。
あえていわせてもらえば、「先が長い」というより、「ここまで」が長かった
とでもいいましょうか。
ひとつの小説の「おわり」のみを焦点として絞りこんだつもりでした。
38 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/21 21:30
「老婆と暁」1
夜も終わろうという時刻だった。しかしまだ暗い。無音の支配があちらにもこ
ちらにも垂れ込めて、人間をよせつける気配などまったくなかった。
寺院の周辺には楠や松やらが林立し、あとはほとんどが薮の茂みへ深く沈んで
いた。
濃い霧が立ち込めている。木立のあいだを生き物のようにうねうねと這いずり
這いまわり、おもむくままに膨張しては、茫々と流れていた。
寺院の参道の途中に、ひときわ巨大な楠が生えていた。遠い神話の国の大蛇が
天にむかって昇っていこうと足掻いているかのような、薄気味悪い樹容である。
無言の威圧感をもっていた。
そんな楠の脇に、小振りで古さびた祠があった。
楠が巨きすぎて、祠じたいはその陰に隠れていまっていた。
どんな神が鎮座しているのだろうか。
どんな仏が祀られているのだろうか。
たしかなことは誰にもわからなかった。たとえ寺院の僧にたずねたとしても、
確固たる返事がかえってくることは、あまり期待できそうになかった。
それほどこの祠はさびれ、まるで太古の信仰の化石ではないのかとおもわれる
ほどだ。
大蛇にも似た巨木の付属物として、それは見え隠れしていた。
39 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/21 21:49
「老婆と暁」2
わずかに薮を払う音がした。ちいさな、砂利の擦れる音だ。大楠のあたりの小
石がざらっとはじけた。鴉だった。
数羽の鴉が祠のあたりをうろついていた。嘴がリズミカルに動いている。供物
をあさっていた。
地面に落ちているのは果物だ。柿や蜜柑、餅、黄土色が半透明に見えるのは、
飴だろう。祠へ捧げる飴とは。堕胎への癒しであろうか。
餅は日を経て固まっているのだろう、鴉どもはすぐに放ってしまっていた。
柿と蜜柑はさきを争って喰い散らかされていた。
寺院の梵鐘がひくく響いてきた。
人の気配がした。
寺院のほうからではなかった。
40 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/21 22:18
「老婆と暁」3
まだ夜の終わりきらない参道にあらわれたのは、一人の老婆だった。老婆は、
濃い霧の海の中をゆらゆらと、大楠のほうへと歩いてきた。その和服姿は夜目
にも汚れており、襟あたりから想起させる肢体はがりがりに痩せ、蒼黒く、ぐ
にゃぐにゃの杖を握っていた。
だが、ゆっくりとはしていても、歩みそのものにはたしかな線が引かれていた。
ようやく老婆は、古さびれた祠にたどりついた。
ふう、と老婆の溜息があたりの霧に吸い込まれて消えた。
わずかの間、彼女はじっとたたずんでいたが、手元の杖を取り直すと、思い出
したかのようにあたりの鴉を追い払った。もっとも、あまり遠くまで追い払い
きってしまいはしないでいる。老婆はここらの鴉どものセダイコウタイさえ、
見守ってきたのだ。数羽はすぐに戻ってきて、それぞれの距離を保ちつつ、老
婆の様子を窺ってもいる。
彼女は杖を巨楠へ立てかけた。そしてぞろりと垂れた袖を思いきってまくりあ
げると、祠まわりのイタズラの痕や果物の屑やらを掃除しはじめた。道具は布
巾一枚だ。
41 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/21 22:47
「老婆と暁」4
神聖な儀式、という印象は微塵もなかった。
とはいえ、彼女の意識の内はわかりようもない。
想わせるものは、むしろ、幼い子をガッコウへ送りだすとき、肩や袖について
いる埃などを払ってやる家族の心境ではないか。ふと、そう感じた。
一方、老婆は布巾を無造作にバタバタとはたいて、しみついた埃を落とした。
飛び散った塵芥は、霧と混じり合ってもはや区別のつかないまま、境内をうね
っていく。
布巾をしまうと老婆は次に布袋を掌にのせ、いつもの供物を取り出した。この
日は蜜柑ばかりが三つだった。順々に並べて置いた。
最後には、花をやった。トルコキキョウだ。ほとんど埃まみれの祠の域で、そ
こだけが一段ばかり、ささやかに華やいで映った。老婆は手を合わせた。
唐突に、彼女のくちから言葉が漏れて出た。
「いつまで待ってたらええのんか。それも忘れてしもうたわ」
いいながら、老婆は懐から短い竹筒を取り出した。栓を抜くと、中の液体をご
くりと飲み込んだ。喉仏がその皺とともに上下している。
妙な匂いが漂うてきた。数羽の鴉どもがはやくも首を傾けている。
42 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/21 23:23
「老婆と暁」5
自前の濁り酒らしい。
老婆はふたたび愛用の杖を取り上げると、っこらしょ、と溜息が今度は白く立
ち昇っていく。それは霧に空いた穴を埋めるもう一つの霧に見える。というま
でもなく、境内のさらに奥からより一層深い霧が大きく重なって巻き込み、見
極めなどつきようもない。
老婆は参道を、来たときとは逆方向へと歩きだした。途中でもう一度、竹筒の
栓を抜いた。ぽっ…。影だけが音の正体を伝えている。
鴉がおずおずと、巨楠のそばへやってきた。あたりの様子を窺っている。
一羽の鴉が祠めがけて、すうっと闇を切った。遠慮なく供物へと羽根をばたつ
かせる。地面に降り、重油色の頭を上げる。貪欲な嘴の先に真新しい蜜柑を突
き刺している。鴉なりにあっぱれな誇りぶりにもおもえた。老婆のかげはもう
ない。
霧の色に変化が見えた。鴉の目にうっすらと光の反射もあった。
夜が明けつつあった。しかし空は鈍い。霧も去ったかと思えば、そうではなく、
次々と、層は厚い。
この朝はこのまま時雨れていきそうだった。
構想=十代半ば/執筆=十年前
43 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/22 04:27
>>38「老婆と暁」について。
著者の実家と隣合せにある寺院(栄西建立)の過去の歴史的風景をモデルとし、
小学時代の体験、芥川の「羅生門」の読後感などを折り込み、「幻想的かつ地
元密着取材型」の短編仕上げです。テーマは「小学時代の手のひら小説化」お
よび「近隣のお年寄方の様々なる信仰」の「スナップ・ショット」。
すこしでも、そうした「ひとこま」に成り得ておれば、書き手としては大満足
の小品です。
出来ましたらどなたか、コメントを寄せていただければ、ありがたく存じます。
非常に洗練された描写だと思います。が、少々諄い様にも感じました。
殆どが描写と説明だけで成り立っているために、物語としての面白さと
言う点では些か物足りないと感じました。ですが、作者が「幻想的」と
謳っている以上、そこに重点を置かれたのでしょうから、そうした意味
に於いては充分に試みは達成されている様にも思われます。
前回の作品では36さんが指摘していましたが、完結されていない文章と
言うものは、どうにも読後感にフラストレーションが溜まります。
力は充分にお持ちの様ですので、次回は起承転結、すっきりとした物語で
楽しませて頂けたらな、と思います。
しかし「ひとこま」としての表現であれば、満足のゆく仕上がりと言えるの
ではないでしょうか。今後も楽しみにしています。
掌編「慈しみ」
何故か分からないが、私はその場所を通る事を昔から避けていた様に思う。
最寄りの駅から自宅へと向かう途中にある神社の境内。
周辺には木々が鬱蒼と生い茂っている訳でも無く、特別、陰鬱な印象を受ける場所と言
う訳でも無い。そこを通れば自宅から駅までの行き来が遙かに近い事も分かっている。に
も拘わらず私はその場所を避け、わざわざ遠回りをして通勤していた。
まだ幼い頃に、その場所で殺人事件が起きた事はうっすらと記憶している。確か犯人は
捕まらなかった筈だ。
それで変質者か強盗の仕業だろうとの噂が立ち、私もそれ以来そこで遊ぶ事を母親に固
く禁じられたのだった。随分、脅かされたので、そんな事がトラウマとなって未だにその
場所を避けてしまうのだろうと現在では認識している。
そんな或る日、私は二十年振りにその境内を通る事となった。
朝寝坊をしてしまった所為だ。普段通りの道を通ったのではとても定時に間に合わない。
今日は大事な会議があるのだ。小脇に重要な書類の入った茶封筒を抱え、半ば駆け足で神
社へと向かう。鳥居を潜る時に多少の躊躇いを覚えたが今はそれ所では無かった。
境内ではランドセルを背負った少年が一人で遊んでいた。そんな光景を見て、私は幼少
の頃の自分を思い出した。生まれつき心臓が悪く、内気で友達もそう多く居なかった私は、
この場所で良く時間を潰したものだった。
大きな銀杏の木を眺めたり、本殿の側にある小さな祠の中に隠れたり――
と、そこまで思い出した所で、ぞくりと背中が粟立った。見知らぬ子供はまるであの日
の私と同じ様に祠に近付いてゆく所だ。私は軽いデジャヴーに襲われて叫んだ。
「そこに近付いちゃいけない!」
だがその時には既に、少年の小さな両手が祠の扉を開こうとしていた。そして次の瞬間
には観音開きの扉が軋んだ音を立てて開き、祠の奥から白い二本の腕が伸び出て来た。
――境内に響き渡る少年の悲鳴。
俄に湧きだした暗雲が上空を覆い、辺り一面は闇に閉ざされた。そして地の底から湧き出る様な、掠れた声。
わらわの棲家を……長きに渡って荒らした……償いを……いたせ……
細く白い指が少年の首に纏わり付き、そして締め始める。悲鳴が止み、苦しげ呼吸音が
洩れ始めると、私は弾かれた様に祠に駆け寄り跪いた。冷たい脂汗が首筋を伝い落ちる。
「や…約束を果たしに参りました!」
私の叫んだ言葉に白い手は嗤う様にゆらゆらと揺れ、今度は私の首に纏わり付いて来た。
私の記憶は完全に戻った。小学生の頃、この場所で同じ様に首を絞められた事を。毎日、
祠で遊んでいた罰が当たったのだと思った。だから心の中で懸命に願った。
(許して!お願いです!あと二十年は生きていたい!そうすれば、いつ死んでも……今
死んじゃったら、お母さんが悲しみます!)
すると何処かから見知らぬ男が現れて、白い手は彼の首を絞め始めたのだった。
――それが、今の私だったのか?
私は遠離る意識を懸命に奮い立たせ、慌てて逃げてゆく少年の後ろ姿を見た。ランドセ
ルの横で、当時、母が買ってくれたお守り袋が揺れている。私は刹那、微笑み、暗い奈落
の底へと落ちて行った。
祠の前にはランドセルを背負った少年の骸が転がっている。死因は突然の心臓発作であ
る。だが、その死に顔は穏やかに微笑んでいた。不思議な夢を見ていたからだ。彼は夢の
中で成長し、母親を悲しませないために幼い頃の自身を助けた。それは満足した笑顔だ。
すると、それまで開いていた祠の扉が音も無く静かに閉まった。そして雲の切れ間から
差した陽光が祠を優しく照らす。
――そこには「慈愛祠」と小さく書かれてあった。 (了)
47 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/23 06:44
>>44 わざわざご丁寧な批評を頂き、ありがとうございました。
引越時からまだ整理されていないノートやメモ等が残っております。
また折を見て、少しづつでも書き込ませてもらえればとおもいます。
48 :
名無し物書き@推敲中?:03/12/25 23:00
都内のうらびれたボロアパートの一室に海の人が帰ってきた。
坊主頭の肉付きの良い顔には幾本もの深い皺が刻み込まれていた。
年恰好は50代、しかも、真冬だというのに、ももひきにタンクトップの所々が破れたシャツ。
腹がプクンとでて、まるで妊娠した妊婦のような腹である。
海の人は四畳半一間のこのアパートに暮らしてもう、10年は経つであろう。
真冬だというのに、部屋には暖房器具が一つもない。
その代わりに火鉢が一つポツンと部屋の真中に置かれていた。
海の人は練炭でやかんで湯を沸かしていた。
1日1食のつつましい生活。白米を食べたのは何時の頃か思い出せない生活。
そして部屋の壁紙は、相変わらずピンクのハート模様である。
モーニング娘の加護亜依の幼い顔が、部屋中に飾られていた。
海の人の娯楽はテレビである。このテレビは粗大ゴミ捨て場から拾ってきた30年前の白黒テレビである。
しかも、14インチだ。
ブラウン管の世界は全て色をもたないのである。
湯が沸いたようだ。やかんから、蒸気が勢い良く噴出している。海の人はカップラーメンのビニールパックを破いた。
そして、蓋を開ける。
中にはきつねが入っていた。そう、彼はきつねうどんが好きなのである。
そのとき、大音声が部屋中を響かせた。
モーニング娘のザ・ピースが勝手に鳴り出したのだ。
世界は空間と空間との繋がりです。
そして、それらの間には必ず扉があります。
外と家の間の戸、通路と部屋の間のドア。
扉には2つの役割があります。
開くことと閉じることです。
この2つを使い分けることで、扉は扉としての役割を果たすのです。
でも、1つだけ気を付けなければいけません。
完全に開いても、完全に閉じてもいない、半分だけの扉は世界と世界を、
生者の世界と死者の世界を繋げてしまうのです。
だから半分だけの扉には気を付けなければいけません。
半分だけの扉をそのままにしておくと、
死者の世界に連れていかれてしまうかもしれませんからね。
うちのばあさんがよく言ってたこと。
小説っぽくしてみた。
それはある頃の一種の流行りだった。
別に本気で言っていたわけじゃない。
最初の最初はヒッチハイカーの一人が古い古い歌から取った冗談だった。
そいつを掲げて突っ立ってれば洒落っ気のあるドライバーは止まってくれる。
その話をどっかから聞き付けたヒッチハイカーが、
後から後からその話を試してみたわけだ。
初めの方はそれでも上手くいってたらしい。
ドライバーがどいつもこいつも懐古趣味なわけじゃない。
元ネタがわからんヤツはそれでも粋なジョークとして楽しめた。
だけどそんな馬鹿ヒッチハイカーはどんどん増えていった。
そしてどんどんどんどん馬鹿の数を増やしていった。
今やおかげでコイツは慣用句だ。
朝起きたら「early moon」
昼は皆で「good moon」
一日の締めは「bye moon」
歌のタイトルだった時代が懐かしい。
ヒッチハイクの常套句だった時代が、
ただの流行り言葉だった時代が、懐かしい。
『Fly me to the moon?』
51 :
名無し物書き@推敲中?:03/12/26 04:53
52 :
名無し物書き@推敲中?:03/12/26 15:32
陸子利子犯も身世羅身もか飾磨も子ニラ知らせ灯小生に性真美二身許世良家のすらせひこもせた
@セ氏の
背酢の灯ぜ゜りいの度背の酢小瀬ラマ世羅委も後瀬ラマはニラRAIに富「ありのままでOK」宅湯にラマ名手言う湯よイメージワークすら関間平瀬濃い須磨もニラ子身文字
背水の懲らせすら真い世羅比せ手背井関古来巻きの手゛テネハ呈すRAHの彦伊勢とのは庭けむり背里背里と膣さとし祖穂濡RAHIRI和よlt,
良い流れで来てたのに……
54 :
名無し物書き@推敲中?:03/12/27 00:57
「ありがとうと言う感謝の気持ちを込めて書きましょうね。」
先生の言葉が何度も頭の中で繰り返し響いていた。考えれば考えるほどわけが
わからなくなって、心の中がめちゃくちゃになってしまいそうだった。
だから少年は教室を飛び出した。上履きが静かな廊下に乱暴な音を立てていった。
別に授業が嫌なわけでもなかった。先生が嫌いなわけでもなかった。ただそこにある
絶対的な空白感というか、無力さというか、そういった類の物を少年は子供ながらに
感じていた。
河原沿いに広がる土手に寝転がる頃には、少年の心の中には先程のもやもやとした
感じは薄れ欠けていた。それほどまでにその日の青空は美しく、雲の白さと空の青さ
が一つの絵のように少年の目には映った。
握りしめたままだった拳をそっと広げると、赤くなった手の平の上にとても
とても短い鉛筆があった。少年はその鉛筆で土手の茶色の地面に文字を書き始めた。
書くことによって何かが変わるわけではない。でもその存在を確かに認めるための、
その存在は確かに存在しないと認めるための最初の努力だった。
少年がいなくなった教室は一時ざわめきが起こったが、先生の注意によって再び
静けさを取り戻した。少年の机には何も書かれていない白紙が一枚。教室の正面の
黒板には「おとうさん」の白い文字が大きく書かれていた。
55 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :03/12/27 06:01
>>44追伸です。
「幻想的」と申しました。さらには「透徹」・「玲瓏」といった僕なりの美意
識も込めて書いておりました。
近代日本文学の範疇で例をあげさせていただきますと、
泉鏡花、萩原朔太郎、川端康成、立原正秋、陳舜臣、水上勉、吉村昭…、とい
った流れを手本にしていたかとおもっています。とりわけ文章というよりも、
あきらかに「文体」を意識して読んでいました。そうした流れの中で、綾辻行
人らの「新本格ミステリ」なども参考にしていましたし、好みでもありました。
とはいえ、いわゆる「ホラー」「サスペンス」志向ではない、純文学としての
「幻想性」をもたせたものでした。長くなってしまい、申し訳ないです。
>>54 ほっとする文章で非常に好感が持てました。少年の或る日の一場が
過不足無く丹念に描かれており、素直な心理描写にも頷ける事が多く
朝から何か、優しい気持ちにさせられました。
次回作にも期待しています。
>>55 丁寧な補足を、ありがとうございます。
なるほど、改めて説明をされると、そんな感じですね。文体重視である
事は一読させて頂いた時点で、直ぐに気付きました。特に前半から中盤
にかけては、特にその傾向を強く感じた、と言うのが、最初に目を通し
た時の印象です。現在ではそうした幻想的な作品を描く書き手が少ない
傾向にありますが、敢えてそこにチャレンジされる作者の心意気の様な
ものも伝わって参りました。
今後も一貫したスタイルで頑張って下さい。
次回作も楽しみにしております。
人殺しの本を読んだので人殺しがしたくなった。
普通は「迷惑をかけない」とか言って何故か親を殺るらしいが、
あいにく我が家の仲は親密でないので、迷惑をかける。
最近の殺しは「迷惑をかけない」のが流行りらしいが、
俺は常識人なので、迷惑をかけないのは無理だと思った。
一番迷惑をかけないのは自分である。
よし、じゃあ、自分で自分を殺してみようと考えるが、
俺は痛いのや寒いのや不味いのが大嫌いなので、
今日のところは許してやることにした。
58 :
名無し物書き@推敲中?:04/01/01 11:05
ある日、ある科学者が、とうとうある機械を開発した。
タケコプターだ。
科学者はもちろん試運転し、実験台はもちろん彼の頭だ。
当然タケコプターは飛んだ。
飛ぶように作られたのだから、当然飛んだ。
そして、当然科学者も飛んだ。
頭だけは飛んでいった。
科学者の大切な大切な頭の中身は残っていた。
飛んでいったのは頭の皮だ。
つられて少し、首の皮一枚も飛んでいった。
その日から、タケコプターは拷問兵器になった。
それは葬式の帰りだった。
もう壮年に差し掛かっていると思しき男の人が地面に這いつくばって、
何かを探している様子だった。
「先輩、あれ……」
「何しているんだろうな。彼は」
葬式に共に参列した先輩に声を掛けると、彼女は厳しげな口調で答えた。どこか
昔の浪漫小説に出てきそうな振る舞いである。
どうするのかと思っていると彼女は大股でズカズカと男に近づいていった。彼女は
葬式だからと珍しくスカートをはいているのだが台無しである。
「ちょっと先輩……!」
私の制止の声を無視して彼女は男性に話しかけた。
「何をしているんですか?」
「探し物をしているのです。若い頃父がくれた物でね。ペーパーナイフなんだが
気の利いた彫り物のあってね。ちょっと錆が浮いちゃいるがまだまだ使えるんだ。
どこにいっちまったんだかなぁ……」
先輩はふむ、と一つ声を漏らすと「ちょっと背中を向けて頂けますか?」と言った。
男性は先輩を訝しげに見たけれどすぐにくるりと背中を向けた。
「こうですか?」
「ええ……ちょっと失礼」
先輩はそういうとハンカチを取り出して、男性の背中に突き刺さっている
ペーパーナイフの柄をくるみ一気に引き抜いた。
「ペーパーナイフというのはこれの事ですか?」
振り返った男性はその血のついたペーパーナイフを手にとると歓喜の声を上げた。
「こいつだ! 間違いない。いやありがとうありがとう!」
その瞬間、その男性の姿は掻き消えてしまった。私は急いで先輩の所まで駆け寄った。
「……あれって教授でしたよね?」
私は蒼白な顔で彼女にそう問いかけた。さっきまで参列していたのは他ならぬ教授の
葬式だったのである。そして彼は背中から刃物で刺されて殺されていた……。
「そうみたいだな。でも、なんだ。葬式というのから来てみれば結構元気そうだった
じゃないか」
私はぼそりといった彼女の言葉を聞き逃さなかった。
61 :
探し物ー訂正:04/01/01 18:27
>>60 ×葬式というのから
○葬式というから
推敲不足……すみませんですm(_ _)m
>>57さん
【最近の殺しは迷惑をかけないのが流行りらしい】
【今日のところはゆるしてやることにした】
この二つのフレーズが好きです。
【俺は常識人なので、迷惑をかけないのは無理だと思った】から【一番迷惑をかけないのは自分である】への文の繋がりが変な気がします。
>>62 ありがと。
確かにおかしい。
どっか別の板にも書いた気がするけど、コレを。
昔々、北欧にこんな伝説があった。
夜中に子供が歩いていると、赤い服を着た白髭の、
サンタクロースという名の老人に出会うことがある。
彼はその子に赤緑金銀、どれか1つを選ばせる。
赤を選べばとソリにひかれ、緑を選べばと木に吊される。
金を選ぶとベルで打たれて、銀を選ぶとトナカイにする。
伝説は伝説でしかなかったが、ある日伝説を真似た事件が起こった。
その日伝説は作り替えられ、子供たちにプレゼントをあげる新たなサンタクロースが生まれた。
しかし、トナカイになった子供の顔は今でも悲しげに歪んでいるという。
64 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/03 00:03
「夏草」1
午後十一時を少々まわっていた。
それは死体だったろうか。
たしかに身動きひとつしないまま、雑草の繁茂する地面の上に、それは完全な
と化してころがっているかにみえた。夜気を帯びた夏草の匂いが木の間を通し
て漂ってくる。Kの視界に無言の揺さぶりが加わった。
それらしきもののそばに、もう一人、男が立っている。緋色のシャツを着てい
た。呆然としている。男はこちらの気配に気付いたのか、Kのほうを振り返っ
た。
目と目とが合った、かどうか、それはわからない。なにしろ、死体らしきもの
のそばに立っている男からすれば、こちら側は、男には思いもかけぬ逆光だ。
緋色の男はKの様子を確かめようと、眩しそうに角度を変えてうかがう。早く
逃げなければという気ぜわしさに追い立てられながら。
慌てている男の表情がKの眼にははっきりと見えた。Kの背後には常夜灯の、青
白いがそれでも唯一の眼を与える、弱々しいけれど情け容赦のない、あの照ら
しがあった。音がない照射はKの背中にまわりこんでいるために、緋色の男には
まるで月蝕のごとき神々しさをもって男の動揺へ問いかけている。その燐光が
かたどる不穏な輪郭は、緋色の男にすれば、みずから輝いているわけでもない
くせに不意に人の眼を傷つけてしまう、あの認めがたい他人の財のように映る。
むろんのこと、財はKの側にあったけれども。
数秒後、そこにはもう男の姿はなく、先程と同じ死体─おそらくは─が、木の
間の茂みに横たえられてKの視界にあった。一人のKと一体の死者とが、夏草の、
むせぶような匂いに包まれて、変哲のない常夜灯の下に取り残された。 →
65 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/03 01:10
「夏草」2
翌日の夕刻、前夜の出来事がテレビニュースで流れているのをKは見た。
「第一通報者は名を名乗らずに電話を切り─」と伝えている。「容疑者本人で
ある可能性─」とも言っている。
Kは容疑者ではないが、現場で何のしなかった者としては、はたして何と呼ばれ
るべきだろうか。その場にいなかった者らの凡庸な推理を聞かされ、いささか
の滑稽と若干のひっかかりとが入り交じった不遜な笑みが湧いてくる。Kはただ
見ただけだ。緋色のシャツと、常夜灯の眩しさにいらだっていた男の顔とを。
死体はたしかにあったのかもしれないが、Kが見たときにはすでに何かが終わっ
た後だった。それからKは警察へ通報したのだ。「人が死んでいるようなのです
が」と。目撃者はいまのところ、憎まれ恐れられるべき強者として匿名希望で
なければならない。
Kはテレビを消して、煙草に火をつけた。立ちのぼる煙の向うに緋色の男の脳裏
を探ってみる。しかしそれは、自分から迷路に嵌まり込んだことを知らない、
無名の逃亡者の一塊のシルエットでしかないように思われ、それ以上のことは
知れるはずもない。煙が天井の辺りを澱ませつつ薄らいでいくとともに、男の
面影もまた存在を遠ざけていくのだ。
かわりに、こんな考えが浮かぶ。─あの常夜灯の実体は水銀の放電にすぎない。
つまりあのとき、木の間を透かし出た男の表情は約束通り青白く見えたけれど
も、実はそう見えただけで、男の顔自体が青白かったわけではないだろう。そ
してKはあの遭遇を殺人であるとみたが、もしかしたらそう見えただけで、出来
事そのものが殺人だったわけではないのかもしれない。テレビでは確かに殺人
事件として扱われていたけれども。 →
66 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/03 01:45
「夏草」3
このときKは、もしあれが純然たる殺人でなかったとしたらつまらないだろうな
と感ずるおのれの不謹慎をぼんやりと眺めていた。
それから一日が過ぎ、二日が過ぎた。
依然として第一通報者は名乗りでなかった。
捜査の焦点は被害者の人間関係にしぼられつつあった。とはいえ、金銭トラブ
ル、男女の三角関係、通り魔殺人、─ありふれた言葉の渦が、あの出来事をや
りきれないほど通りいっぺんの陳腐なものにしていきつつあると、Kにはおもえ
た。
三日前の夜にKが見た現場、そこにはもっと微妙で繊細なもの、暴虐な殺人者が
一転してうろたえる逃亡者へと変ずる一瞬の力関係の揺れがあった。人工の逆
光を背負った目撃者と、眩しげに落ちのびていく殺人者との、奇妙な無言の取
引があった。だが陳腐な憶測は、ほかでもない瞬間の駒の揺れが放っていた見
まごうなきものを、ありふれた一事件へと踏みにじってしまう。
Kは、あの殺人がまったき殺人でなく、一般に殺人事件とのみ称されるものへと
他人の手によって改変されるのをまのあたりにして、わけのわからない焦燥を
感じるのだった。いにしへの美しい彫刻が、いつのまにか、影のみを模したに
すぎぬ形骸にされてしまったのを見せられたかのように。
世間が事の顛末を知ったのは、テレビからも新聞からもこの話題が姿を消して
半月ばかりが過ぎた頃だった。
原因は当初より取り沙汰されていた金銭的な事情で、債務者側の男性が債権者
側の男性を自分の別荘に呼び出し、近くに住む両者の知人の女性宅へ徒歩で向
かう途中、公道脇の林へ引きずりこみ、絞殺した。Kが通りがかったその林は
容疑者の常の散歩コースにあたっていたらしい。男は死体運搬用にあらかじめ
盗難車を用意していたのだが、人に目撃されてしまったため仕方なく走り去っ
たという。
緋色の男の供述の一部が発表された。 →
67 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/03 02:22
「夏草」4
「人の気配がしたので振り向いたら、青白い光の輪みたいなものがこちらを見
ていて、あっ、しまった、見つかったとおもって、半分はあきらめそうになっ
てたんですが、でも、だめだ、ここで踏ん張らないとと必死で逃げました。と
ころがです、どこまで逃げても、あの青白い光の輪が頭から離れなくて…。そ
れからというもの、光を反射する円いものを見るともうパニックになっちゃい
そうで。自転車の車輪とか、鍋の蓋とか、それにあの太陽と月の忌まわしさと
きたら…。きわめつけは数カ月前に婚約者にプレゼントしたルビィの指輪が僕
の首根っこに、にゅうぅっと伸びてきたときにですね、これはひょっとしたら
手錠なんじゃないかと、やっぱりダメなんじゃないかと、もう耐えきれなくな
って、ええ、こうして自首することにしたのです」
匿名の目撃者は月蝕だったのでしょうかと、わかったようなわからないような
コメントでニュースキャスターはまとめていた。
いや、少し違う、とKはおもう。それは光ではなくて逆光だ、と彼は誰にともな
く呟いた。
現場に照らし出されたものではなく、逆にそれを照らし出し包み込んでいた、
さりげないほどの悪戯が、おもいもよらぬ問責と昼夜を分かたぬ畏怖とを曳き
連れていったのだ。そんな、ちっぽけとはいえ、まぎれもない事実が、それを
知らぬ人々にいくらかでも伝えられたことが、Kにすればわずかな救いを残して
くれたと云えないこともなかった。
あの夜の、一体の死者を介した緋色の男とKとの、つかのまの出会い。それはけ
してありふれた日常用語で語り尽くされてはならないし、そもそも語り尽くす
ことはできない。その瞬間をたしかに満たしていたはずの夏草の匂い。それを
誰よりもよく知っているのはほかでもない、あの死者であるはずなのだから。
─了─
68 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/10 23:29
「送り」1
親族が棺を取り巻いているその後ろで、正則たちは黙って葬列が出るのを見守
っていた。
さきほどから目にハンカチをあててうつむきつづけている久美子の後ろ姿を見
つめ、正則は、つい三日ほど前に久美子とかわした言葉を思い出していた。
「正則、あなたも知っているとおり、あたしのお腹の子は、健吉の子よ」
「結婚するのか、健吉と?」
「わからないわ。あたしはそうしたいと思っているけど、健吉は何ていうか」
明け方から強い風が吹いて冷え込んだ日のことだった。夕刻からまた風が強く
なりだし、翌日は一層冷え込みそうな気配をただよわせていた。やすみなく吹
きつける風をわずらわしそうに、久美子は片方の手でときおり髪の乱れを直し
ながら、そういっていた。
ところがその二日後、健吉は、久美子になんの言葉も残さないまま、帰らない
人となった。現場で作業中の事故だった。原因は横なぐりに吹きつけた突風ら
しいといわれていた。
通夜のあいだじゅう、正則には、うなだれたまま何の言葉も発しようとしない
久美子に、かけるべき言葉のひとつも見当たらずにいた。彼はただ黙って、久
美子の、肩を落とした背中を痛ましげな目で見つめている意外になかった。
久美子は後ろに正則がいることも知らないようなそぶりで、ひたすら亡くなっ
た健吉のために涙を流しつづけた。正則は死んだ健吉に、憎悪をも超えるほど
の忌わしい嫉妬の情が沸き上がってはくすぶり、また沸き上がってくる始末の
わるさに身悶えせずにはおれない自分を見い出していた。彼はもはや錆びて使
い物にならなくなった刃物に侵食されいく時間を耐えている一個の人格へと変
貌していた。
69 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/10 23:37
「送り」2
出棺の時刻がやってきた。
親族らを先頭に、数人が健吉の棺をささえた。葬列がゆっくりと動きだした。
正則たちの前を棺が過ぎていく。参列者のあいだからすすり泣きがもれた。
この日も風は強かった。健吉の眠る棺は強風にあおられながら、しかるべき位
置で待つ霊柩車の方へ進んだ。
ややあって、健吉の棺が霊柩車のうちにそっと置かれた。参列者の全員がそち
らへ最後の礼を向けた。
正則もうなだれた。
しばらくして正則が頭をあげたとき、ちょうど前にいた久美子はまだうなだれ
ていた。
そして彼女はゆっくり頭をあげると、とつぜん、正則の方を振り返った。
70 :
名無し物書き@推敲中?:04/01/11 00:08
−−−−ここまで読んだ−−−−−−
71 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 00:14
「送り」3
彼らの目と目が合った。
久美子の目は冷徹なベールそのものをまとって、黄昏の水をただよわせている。
もはやそれは涙などとよばれるべきものではなかった。仄と湧きでてはたゆとう
てみせる薄紫の泉を呈している。これ以上ないほどに黒々と墨に染まった喪服
の襟の白すぎるうなじへと、それはちろちろと深い杜の中の流れを再現して、
余すところなき透明な悲しみを細々とうねり、谷翳る奥に消えていた。
正則は目をそらしたい衝動にかられた。が、久美子の目は許さない。
彼女の視線は、夜露に濡れて仄青く這いまわる蛇の舌先のようにすうっとのび
て、正則の計算をがんじがらめに絡めとって、狂わせにくる。
正則はおのれの唾棄すべき反吐の腐臭さえ、この女には、すでに露わになって
いたことをしった。自尊心を焦がしにかかり、許しの喘ぎひとつも漏らそうも
のなら、こんどは氷の地下室を用意してくれようとする女だ。ふたりのあいだ
にあるのは、軽蔑と嫌悪、そしてあくなき憎悪がさらなる憎悪を呼びこんでや
まない耐えがたい死への試練だった。→
72 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 00:37
「送り」4
─おれのいまの奥の奥まで存分に観賞して、侮辱の愉しみに浸ってやがるな。
正則はそう思うと、こんどは逆に、彼のほうから久美子の顔を睨みつけた。
久美子は平然と目をそらした。なにごとも起こってはいないかのように。葬儀
の次第へと向き直った。正則はもう、影ですらないのか。
霊柩車の扉が閉じられた。ふたたび参列者のあいだから嗚咽がもれた。
久美子もうなだれ、微かな声をこぼしていた。強風が彼女の髪をうなじに巻き
上げる。
正則の体内に変動が迫りつつあった。抑えがたいものだ。ある種の感情だ。そ
れは兇暴なだけではなく、猛然と湧き起こり、おのれをおのれでなくさせてし
まう、あの忌わしい内なる呪詛の声だ。とっさに彼は目を閉じた。そして、こ
らえた──。
弔笛がひくく響きわたった。久美子の体内ではその音は風のように抜けていく
ばかりだったかもしれない。
健吉をのせた霊柩車が、ゆっくりと動きだした。
─了─
私は一切の躊躇いもなく殴られた。はずだった。
振り下ろされた拳を恐れ、思わず閉じてしまった目を少し開けると
先程まで私を取り囲んでいた4人の若者たちは、何故だか所々に血を流し、
地にへばり付いていた。
その彼らの代わりに目の前に立っていたのは、その若者たちと
同じくらいであろう年齢の少年だった。
手には60、70センチくらいの"血の付いた"鉄パイプを持っており、
格好は彼らと同じ、今時のもの。こんな路地裏だ。彼も彼らと同じようなもので、
どうせただの気まぐれか何かなのだろう。
――いや、動機よりも不自然なのは、それが一瞬だったという事ではないか。
「…ダスキンです」
少年は、そんなくだらない事を言いながら私に手を差し伸べた。
掃除を頼んだ覚えなど無かったが、気付くと私はいつの間にかその手を掴んでいた。
立ち上がってから、私は現状を把握しようと思ったのだが、どうしても理解できない。
頭がおかしくなっているのかもしれないが、確かに私は殴られかけていたし、
それから目を開けるまではほんの2、3秒だったことに間違いはない。
「君がやったのか?」
そうか、聞いてみるのが一番早かったのだ。それを理解するよりも、
声を出す方が先だった。少年はさも当然のようにそうだと答えた。
「俺は天使だから」
「天使だって?」
「そう。天使」
夢でも見ているのか。確かに先程の事も「天使がやりました」で全て納得できる。
当然、天使というものが存在していればの話だが。
「天使というのは、突然人の世界に降りて来て、勝手にちょっかいを出して
帰っていくやつの事か?」
路地裏に冷たい風が吹き抜ける。きっと今、私は「不思議な光景」の出演者だ。
「そんなもんだね。俺は、こいつらの一時の快感なんてそっちのけで
あんたを助けたんだ。もしかして実は私はマゾでした、なんてないよな?」
私にそう冗談を言いながら、倒れたままの若者たちを一瞥していた。
きっとまだ息はあるのだろう。そう確信できる材料など無いのだが。
「何事も、独断と偏見に満ちてるからね。それはそうと、突然人の世界に云々って
のは間違いだね」
どういう事かと聞いてみると、自分の左胸を人差し指で指した。
「俺だってバンと撃たれりゃ死ぬの。だからあんたにもさっき触ったじゃん」
「じゃあ人間という事じゃないか。自称天使か?苗字か名前が天使?」
鉄パイプを放り投げ、踵を返し言った。
「天使っつったろ?」
少年は街の方へと歩いてゆく。天使のお仕事とはこういうものだ、と言って。
確かに少年の言った事は正しかったのかもしれない。
そうでなければ如何にしてあのような不思議な声が出せようものか。
76 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 08:16
「展示会の午後」1
その展示会には、まゆみの作品も三点出品されていた。
作品をひとまわりしてみた敬郎は、ホールの隅に立って会場を見回し、まゆみ
の顔をさがした。だが彼女の姿は見あたらなかった。敬郎は、だれか知ってい
るものはいないかと、もういちど会場を見渡してみた。すると入口脇の受付の
ところで郁代が立っているのが目についた。郁代とまゆみとは短大時代の友人
どうしだった。彼女はロビーの学芸員と二言三言かわしながら、近くの絵に目
をやったりしていた。どこか手持ちぶさたにも見えた。
敬郎が近づいていくと、郁代は彼に気づいてこちらを向いた。
「来ていたのね」
「主人公がいないとはな」
敬郎は郁代をうながし、煙草の吸えるフロアへ歩いていくと、ベンチに腰をお
ろした。隣に郁代もかけた。敬郎は煙草を取り出すと、郁代の前に差し出した。
ありがとう、と郁代はいって、それを一本抜き取った。
「あいにくだが、火を切らしてるんだ」
「あたしのがあるわ」
郁代はハンドバッグから細身のガスライターを取り出した。銀の艶けしがほど
こされている。手早く敬郎の煙草に火をつけてやると、自分のくちにくわえた
煙草にもそっと火をつけた。ライターの鈍い銀色がバッグの中へストンときえ
た。
「今日はひとりで来たのか?」
「主人は朝早くからゴルフなの。得意先と出かけていったわ」
「郁代は覚えないのかい?」
「あまり関心がもてないのよ」
「あいかわらず酒の方か」
「そうね」
ロビーのあたりには高校生くらいの男女のグループがたむろしていた。郁代は
そちらの方をぼんやりと眺めながら、ゆっくり煙をはきだした。→
77 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 08:51
「展示会の午後」2
敬郎は表通りに面したウインドー越しに、まゆみの婚約者の規男が車から降り
てくるのを見た。
「馬はどうだ?」
「馬は好きよ。先週も三十九万になったわ」
「近いうちにたかりに行かせてもらうよ」
「最近は乗るほうもはじめたのよ」
「そりゃあ面白そうだな。ぜひ今度ご一緒させてくれ」
「だめよ。うちの主人、あなたには近づくなって、うるさいの」
「本当か?」
「そうとう嫌われてるみたいよ」
「よかったじゃないか。おれのことを気に入ってくれるような婿殿なら、郁代
もだんなの将来が不安で仕方ないだろうが」
「いえてるわ。よくわかってるじゃない」
車から降りた規男がロビーへ入ってきた。彼は受付でのやりとりをすませると
辺りを鷹揚なそぶりで見回した。ベンチにかけている二人に気がつくと、視線
を止めた。
「よお」
敬郎が声をかけた。規男はかれらに近づいてきた。
「ふたりとも来てくれたのか。僕ももう少し早く来ようと思ってたんだが、お
もわぬ用事が入ってしまって」
「ところで、まゆみ画伯はどうした?」
「え、来てないのか?」
「いっしょに寝てたんじゃなかったのか?」
「ちょっときいてくる」
そういって規男は受付の方へ歩いていった。その後ろ姿を眺めながら、敬郎は
煙草を灰皿に放った。彼はあくびをしながら立ちあがった。→
78 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 09:15
「展示会の午後」3
「もう行っちゃうの?」
「ああ」
「どっかに用事でも?」
「ついて来るか?」
「あたし、お腹すいちゃってるんだけど」
「うまい店を教えてやろう」
敬郎と郁代はならんで会場を出た。建物の周りには緑の植え込みがあり、茂っ
た葉が午後の光をいっぱいにあびて揺られていた。郁代はそれをまぶしそうに
見やりながら、敬郎のあとについて歩いていった。
かれらはいったんバス通りに出て、山の手の方へと歩きだした。坂道では、散
歩を楽しむ近所の年寄りや犬を連れた奥さんが、ぶらぶらと歩いては立ち止ま
り、空を見上げたりしていた。
住宅街の中にある女子高の前を過ぎると、季節の木立ちに囲まれた公園があっ
た。そこでは女子高の生徒らしき数人が、おもいおもいの緑の影に腰かけてバ
ナナロールやフレンチドッグをかじりながら、無邪気なおしゃべりに時をつい
やしていた。木漏れ日を透かして向こう側に一軒の蕎麦屋が見えた。
敬郎は郁代を蕎麦屋につれていった。周囲に小振りの青竹を配した瀟酒な店だ
った。
敬郎はざる蕎麦をたのんだ。
「あたし、何かお腹のふくれるものがいいわ」
「なら、定食がある」
敬郎は品書きを取って郁代に渡してやった。郁代は、ほうほう、などと好奇心
に満ちた声をもらしながら品書きに目を通した。けっきょく彼女はざる蕎麦と
筍御飯のセットを注文した。→
79 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 10:16
「展示会の午後」4
敬郎は熱い茶をすすりつつ、郁代の顔をみた。郁代は注文の品が来るのを待ち
ながら、窓の外の景色をみていた。そこからは公園の一角をしめる人工の池が
見渡せた。
さきほどの生徒達が岸辺に近づき、池の真ん中あたりを指差して笑いあってい
るのが見えた。彼女らの指の先には重箱ほどの石が枯れた光芒を落としており、
その上で一匹の亀があたまをもたげていた。亀は頭部を隆起させたまま、彼女
らの笑いにじっと耐えているかのようにも見えている。
そんな光景を眺めやりながら、郁代はだまって、うすく微笑をもらした。
「蕎麦があがったようだぞ」
「ほんとね」
敬郎は蕎麦を食いながら茶をもう一杯もらった。
郁代も茶のおかわりを頼んだ。彼女は筍御飯をくちにふくみながら、ほんとに
おいしいわね、と敬郎をみて言った。→
80 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 10:51
「展示会の午後」5
「どれどれ」
敬郎はあっというまに蕎麦を食いおえている。郁代は彼のために自分の筍御飯
をすこし、わけてやった。
「まだ家庭教師だけで食べているの?」
「先月から駅前のギター教室でクラシックギターを教えている」
「昼間は何をしているの?」
「絵画の展示会に出かけてくるぐらいだから、よほど暇なんだろう」
「まるで他人事ね。将来が心配になってくるような話だわ」
郁代は昼をおえてほっとしでもしたのか、やわらいだ口調で笑みを浮かべた。
敬郎はそんな郁代を視野の隅にいれながら、つづけた。
「この坂道のなかほどに婦人文化会館があるだろう。そこで週二回書道教室が
開かれてるんだが、この秋からは目出たくそこの講師として招かれることにな
ってる。くちだけの同情なら無用だ」
「あなた、書道まで出来たっけ?」
「ああ? 知らなかったのか。このあたりの坊主なら道でおれの顔を見かける
と、剃りたてのあたまを照りかがやかせて挨拶のひとつもよこしてくれるほど
だ。知らないのは多分、この町でお前さんくらいのものだぞ。ひょっとして郁
代、もぐりの住人じゃないだろうな」
「失礼な。どこまで本当だか…」
郁代は熱い茶をぐいと呑みこんで、ひといきついた。公園で戯れていた娘たち
はもうどこかへ行ってしまっていた。
「でも、秋からなら、あたしも出かけてみようかしら」
「手厚くもてなしてしんぜよう」
「なんだか気持ちのよくないセリフだわ」
「その反対だ。気持ちいいこと請け合いに違いない」
「考えておきましょう。どうせあたしも暇だから」
「働かないのか?」
「主人がだめだっていうのよ」→
81 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 11:27
「展示会の午後」6
敬郎と郁代は蕎麦屋を出た。そして公園に戻り、人工の池の端へ立った。
わずかな風紋が水面を渡っていく。敬郎は煙草を取り出した。郁代はわかって
いたようにライターを差し出してやった。敬郎がそれへ顔をかがめたとき、銀
の縁が午後の光を反射して、彼の頬にまぶしく斜線が引かれるのを郁代はみた。
石の上の亀はもういなかった。
敬郎と郁代はだまって岸辺をあるいた。池の緑は深い。けれどもささやかな風
紋はきらきらと明るすぎるほどに明るい。光は底なしの淵を犠牲にしてはじめ
て、輝く。
「昼間なのに、静かね」
そうつぶやくと、郁代は敬郎の肩に首をゆだねた。公園にはふたりの他に誰も
いない。郁代のブラウスに汗がにじんでいる。彼らが互いに目を合わせたとき、
くちびるはもう重なりあっていた。
煙草の味がするわ、と郁代は自嘲に似たものを感じた。
子供たちの声が近づいてきた。かれらはくちびるを離し、ふたたび水面に目を
やった。
敬郎が立ちあがった。郁代もともに立って、ブラウスの襟元を直した。→
82 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 11:48
「展示会の午後」7
かれらはだまって歩いていた。公園を出たところで、通りがかった女がひとり、
敬郎を見つけるとそっと黙礼して過ぎた。郁代は振り返って、すれちがってい
く女の背中をたしかめた。女は三十代なかばくらいに写った。
「知ってるひと?」
「ああ。ギター教室でね」
「生徒の親御さん?」
「いや、本人だ」
敬郎は前を向いたまま答えた。郁代はしばらく立ちどまって敬郎と女の後ろ姿
とを交互に見くらべた。敬郎はさっさと坂を降りていく。郁代ははたと気を取
り直すと、幾分あわてつつも彼のあとを追って坂を降りはじめた。坂の脇の植
え込みで、近所の奥さんの連れた犬が小便をしていた。敬郎は午後の青々とし
た空を見上げながら、懐かしい口笛を吹きはじめていた。
敬郎と郁代はやがて展示会場のある道へ出た。→
83 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 12:35
「展示会の午後」8
「これからどうするの?」
「古本屋にでもよっていくか」
「まゆみみは会わないの?」
「いらぬ気を起こさせないとも限らないからな」
かれらは緑の植え込み越しに、会場のウインドーの中を見た。フロアの中央に
は、パールホワイトのスーツにゴールドのチェインネックレス姿を着こなした
まゆみが、すらりと立っていた。郁代は、あっ、と声をもらすと、いそいで建
物の中へ入っていった。
まゆみは何人もの男女にかこまれて、うれしさをかくしきれないように見えた。
その少し離れたところに、まうみの婚約者の規男が立っていた。彼は、様々な
人々に取り巻かれて賛辞を受けているまゆみの様子を腕を組んで眺めつつ、誇
らしげな笑みをくちに浮かべていた。
郁代がまゆみのそばに近づいて声をかけた。ふたりの女を中心に、ひときわ華
やかな笑声が起こり、それはウインドーの外まで洩れ聞こえてきた。
そんな光景をウインドーのこちらがわで見守りながら、敬郎は、いつか彼の目
の前に近づいてきたまゆみの濡れた瞳をおもいだした。そして、フロアの真ん
中にいる彼女の眩いばかりに意志のこもった美しい頬をしばらく見ていた。
敬郎はポケットから煙草を取り出そうとした。が、火のないことを思い出して
やめた。彼は表通りの方へ向きなおった。日差しは坂道を歩いていたときより
もずいぶん強くなっていた。どこかでよく冷えた珈琲でも飲もうか、と彼は思
った。
敬郎はもう一度ロビーを見た。まゆみたちは揃ってホールの中へきえていくと
ころだった。敬郎はポケットに両手をつっこむと、植え込みのならびにそって、
バス停の方へと歩いていった。
─了─
84 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 17:31
「昼の風」1
午前のスケジュールをおえると、良司は作業服のまま外へ出る。近くの食堂で
昼飯を済まし、駅前商店街まで歩いていき、パチンコ屋の裏手にある喫茶店に
入る。昼どきはパチンコで憂さのひとつも晴らしにきたサラリーマンや近所の
主婦たちで賑わっている店だ。そこで良司はいつも食後の珈琲を取ることにし
ていた。お世辞にも落着いた雰囲気ではないが、てんでに勝手にふるまってお
れる、さばさばした肩のこらない居心地が良司は好きだった。十分ばかり何も
しないでいると、彼と同じ会社で受付をしている麗子がやってくる。彼女は良
司の隣にかけて、一緒に珈琲を飲む。それがここ四ヵ月ばかりつづいている、
かれたの日常だった。
その日、良司は銀行に用があった。銀行は大通りの角にあった。彼はいつもの
大衆食堂で昼食をとると大通りへ向かった。
パチンコ屋の前を通り過ぎて五分ばかり行くと、大通りの交差点にはいつにな
い人だかりができていた。幅広い路面が異様に渋滞している。なんだろうか。
良司はすこし不穏なものを感じつつも交差点のほうへ歩いていった。→
85 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 18:25
「昼の風」2
無数の野次馬はうかれきった蟻の群れだ。他人の血を見ることを生き甲斐のひ
とつとして、事件だと聞けば頭痛はもとより十年は若返ることも可能だ。その
中心には常にパトカーの赤い光がただならぬ空気を漂わせて点灯している。こ
のときもそうだ。自動車三台の玉突き事故だった。とはいえ、現場は凄惨をき
わめていた。先頭がセダン、次にライトバン、そして三台目はブルドーザを運
搬中の大型トラックだった。セダンとの衝突を避けようとしてライトバンが速
度を落としたところへ、急停車にはあまりにも無理のあるトラックがそのほと
んどの重量をかけて突っ込んでしまったのだろう。あいだにはさまれたライト
バンがはさみうちになったかたちでペシャンコにひしゃげているのが痛ましか
った。
良司はなにということもなく気になって、近づいた。押しつぶされてへこんだ
ライトバンには見覚えがある。もうすこし、よく確かめてみる。そのドアには
良司の勤めている会社の名が、ぐにゃぐにゃにゆがんだ字体で読み取れた。彼
は野次馬の群れを押し退けると、警官がふさいでいるキープアウトのラインを
一気に跨ぎこえた。→
86 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 18:50
「昼の風」3
「こら、入るな!」
警官が制止するのもきかず、良司は壊れたライトバンに近寄った。原形をとど
めていない。窓ガラスが砕け散り、後部の半分以上はスクラップ同然に押しつ
ぶされていた。
良司は顔をゆがめて運転席をのぞきこんだ。そこには頭から多量の血を流し、
ハンドルにつっぷしてぐったりと動かない男の姿があった。
「丈吉!」
同僚の名を呼びながら、良司は粉々になったガラスの破片が突き出している運
転席にはいろうとした。すぐさま警官が駆けよった。そして良司をうしろから
羽交い締めにして、大破した車両にもぐりこもうとする彼をひっぺがして制止
させた。
ペシャンコになった後部席からは、良司たちが午前中に加工を済ませたばかり
の製品が、ぐしゃぐしゃに砕かれて路面にこぼれ落ち、散乱していた。
すぐ近くまで救急車のサイレンが緊迫した音を放ちながら、良司の耳に近づい
てきた。→
87 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 19:16
「昼の風」4
昼どきの喫茶店は混雑していた。が、それも十二時四十分くらいまでで、それ
を過ぎると、二、三の席が空いた。麗子が会社で昼をすませて店に入ったとき
には、もう四人ほども客はいなかった。今日はすいているな、と思いながら麗
子は良司の顔を探した。
良司の姿はなかった。
どうしたんだろう? そうおもいつつも、麗子は先に珈琲を飲みながら待つこ
とにした。大通りの方では救急車の走り去る音が響いている。
まさか良司ではないだろう。彼の仕事は工場の中に限られており、車の運転は
まずない。麗子は珈琲をくちにはこびながら、ぼんやりとサイレンの音を聞い
ていた。
ドアが開いた。麗子が振り向くと、事務の仕事をしている奈穂美が入ってきた。
「なおっ」
麗子は彼女の名を呼びながら手をふってみせた。よばれた奈穂美は小さく返事
をすると、買ってきたばかりの雑誌を小脇にかかえながら麗子のかけている席
まで歩いてきた。
「良ちゃんは?」
奈穂美は笑顔を向けて麗子の隣に腰をおろした。
「待ってるんだけどね」
「どうしちゃったのかしら」
「そのうち来ると思うけど」
奈穂美は紅茶を注文した。そしてかかえてきた雑誌を膝の上にのせた。麗子が
きいた。
「なに買ったの?」
「求人雑誌」
奈穂美はすこしゆううつそうに答えた。
「奈穂美が?」
「いいえ、丈吉のためよ。このところ配達ばっかりの仕事に嫌気がさしてるら
しくてね。あたしと会ってもどことなく不機嫌だから。いっそのこと転職した
らって」→
88 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 20:04
「昼の風」5
「そうだったの? あ、でも、それもそうかもしれないわね。だって丈吉君は
工場の内勤専門でってことで採用されたんでしょ? それがいつのまにやら配
達専門の人になっちゃって。面白くない気持ちもわかる」
「そうも言ってられないとは思うんだけどね。でも、短気だから。あいつの場
合」
紅茶がきた。奈穂美はそれをひとくちすすった。
「再就職といっても、いまはどこも大変よね」
「いったんそうと決めたら、もう元には戻れない性格なのよ、彼」
麗子は珈琲をテーブルに置くと、奈穂美の横顔を見つめた。奈穂美は紅茶のカ
ップを手にとっては、またすぐ離したりを繰り返して落着かないようだった。
「雑誌、広げてみれば?」
「いいのよ。さっき店先で立ち読みしてきちゃったから」
「お昼は食べんでしょ?」
「今日は月見うどん」
「昨日もうどんって言ってなかった?」
「昨日は定食屋に入ってうどんを食べたのよ。今日は正真正銘、うどん屋のう
どん」
「ややこしいことをするのね。でも、そういう気分になっちゃうときって、た
しかにあるわ」
「あるでしょ」
麗子の珈琲は空になっていた。手持ちぶたさな感じがした。良司はどうしたの
だろう。なにげなく奈穂美の紅茶のカップに目をやった。奈穂美はカップのふ
ちを人指しゆびの先で軽くさすっていた。
「良ちゃん、おそいのね」
奈穂美がふと思い出したかのようにたずねた。麗子は奈穂美の言葉に妙なもの
を感じつつ、その顔を見返した。
「仕事が忙しいのかも」
麗子は煙草でも吸おうかとおもった。だが奈穂美が吸わないことを思い出して
やめた。麗子は水をたのんだ。→
89 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 20:38
「昼の風」6
ほぼ同時に店のドアが乱暴な音を立てて開いた。パチンコ帰りの連中だ。かた
まりをなしてどやどやと入ってきた。かれらは一番奥のボックス席を陣取ると、
くちぐちに飲み物の名を上げつらいだした。店内が急に騒がしくなった。
麗子が顔をあげて壁の時計を見た。針は午後一時にあと少しだった。
「帰ろうか」
「そうね。そうしようか」
麗子と奈穂美は連れだって店をでた。かれらは大通りの方へ歩いた。そして会
社へと戻る道で、ふたりは電柱に貼られた映画のポスターに目をとめた。奈穂
美が先に立ち止まった。
「ね、麗子、良ちゃんって映画好きだった?」
「そうね、好きでもきらいでもないでしょう。いままでに二本くらい一緒に観
に行ったけど」
「きらいじゃないのね。丈吉も映画がきらいじゃないの。だからってわけじゃ
ないけど、もしよかったら、今度あたしたち四人で一緒に映画みに行かない?」
「奈穂美たちと一緒かあ。それもいいかな。四人で観に行けばいつもとはまた
違って面白いかもしれないわね」
「ぜひそうしましょうよ。あたしたち会社にいるときって、揃って顔を合わせ
る機会がほとんどないでしょう? 忘年会とかそんなときばっかり。一度、ふ
つうの格好してるときに会ってみたいと思ってたのよ」
「いいわね。たのしそうだわ」
「ね。一緒に映画館、ゆこうよ」
「そうしましょうか」
麗子はおどけたふうに返事をした。
「丈吉の再就職っていっても、まだすこし先のことかもしれないし、そのあい
だに気分転換のつもりで」→
90 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/11 21:16
「昼の風」7
麗子と奈穂美は四人で映画に行く相談をしもって会社への角を折れた。すぐの
ところに花屋がある。
「あ、受付の花瓶」麗子が言った。「枯れそうになってたの、忘れるとこだっ
た」
「そう。ついでだから工場の方にも持っていってあげたら、どうかしら」
「それはいい考えだわ」
麗子と奈穂美とで半分づつ出しあって、花を数束買い求めた。花屋の親父はそ
れを二つに束ねなおして、白い包装紙でくるみ、ふたりに持たせてくれた。
かれらの勤める会社の看板はもう見えている。
会社の前に、警察のパトカーらしき車両が二台、止まっていた。
「何でしょう?」
奈穂美が心配そうな目を麗子に向けた。麗子は、さあ、と生返事しながら前方
のパトカーを凝視した。彼女はさっき喫茶店できいた、救急車のサイレン音を
思い浮かべた。
玄関をあわてて飛び出してくる同僚らの姿が、はっきり見えた。
麗子と奈穂美の、それまでのんびりと歩いていた足がはやまった。
大声でわめいている社員の声が窓から落ちてきていた。
花を持つふたりの爪の先に、われしらず、ちからがこもった。
束ねられた緑色の茎から水の匂いが滲みだし、あたりへと散った。
─了─
91 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 03:40
「さそり」1
朝の通勤電車でいつも向かいどおしに腰かけている男と女がいた。ある朝、女
の胸にさそりのブローチが光っているのに男は気づいた。いい男が出来たか、
と彼はおもった。
「やあ」
「おはよう」
「光ってるよ」
「そういうこと。これからはあんまり気安く声をかけないように」
「そいつはむずかしいな」
男は頭の中で、さそりの意味を慎重にさぐってみた。
一、この女に手を出してみろ、あとでかならず痛い目にあうぞ─。
二、さそりのような危険な男につかまっているから、誰かたすけてほしい─。
三、あたしの彼氏はさそり座の男─。
四、さそりの紋章の秘密結社に忠誠を誓ったふたり─。
五、小うるさい男どもを牽制するための小道具にすぎない─。
「わかったぞ」
「何よ?」
「もっと強い男を『さそっている』ということだな。それなら目の前にいるじ
ゃないか」
「あたしをわらわせたいの? 残ってるんじゃない?」
「おれがもし、あんたの彼氏だったらそんなブローチはつけさせないな。本音
をいうと、今朝のきみは昨日のきみより数段は魅力的にみえる」→
92 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 04:04
「さそり」2
「ほめているつもりなの?」
「いや、愛しているつもりだ」
女は、そのひとことがこんなときに放たれるとは、とやや慌てた。が、ここは
逆手だと思い、言葉をかえした。
「変なこといわないでよ。馬鹿にしているのね。あたしがさそりのブローチを
つけてきたのがそれほど気になる?」彼女は車窓から差し込む陽へとブローチ
を揺らして見せた。「ほら?」
「はずしてくれ、頼む」
「そんなに気になるんだったら、どうしてもっと早くからはっきり言ってくれ
なかったの」
「ちゃんと伝わってると思っていた」
「伝わっていたのは、あなたの、はしたない下心だけよ。いまとなっては」
「あした、おれからのれっきとしたプレゼントを、おくるよ。約束する。それ
にはきっと誠実さがこもっているはずだ」
「約束されてもこまるわ。なによ、あわてちゃって。物でつろうというつもり
なの?」
「打出の小槌のブローチだ。どうだ!? さそりは人を寄せつけないけど、打出
の小槌は金を呼ぶぞ」
「──勝手にして」
女はだんだん阿呆らしくなってきた。「ほんと、男ってのは…」
そして駅につくと、男を残してさっさと降りていった。
─了─
93 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 04:40
「白い午後」1
夜更けを過ぎていたが、その部屋の燈りは消えることがなかった。
午前二時になると、いつも庭の犬が遠吠えをあげるのがきこえた。
法子はベッドの中で、もう何度その遠吠えを耳にしたかしれなかった。
男はどんなときも、燈りを消そうとはしなかった。
煌々とかがやく光の下で、法子は上になり下になって、すべてを忘れることの
できる彼岸をめざした。
汗だくになって果てたあと、男はいつも煙草に火をつけた。
仄白い煙がゆらめいているのをぼうっと眺めながら、法子はやがて夢うつつの
境へと静かに漂いおちていった。
男は窓際のテーブルでひとり酒を飲んだ。
燈りが徐々に落とされ、遅い夜がその部屋を訪れる。
夜明けは近かったが、法子の眠りはまだ深かった。
紺青の中の薄明かりをたよりに、男は何もいわずに部屋を出ていく。
そうしてひとつきが過ぎたとき、法子は男に飽きている自分をふたたび見つけ
て、苦笑した。→
94 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 05:16
「白い午後」2
「和男、あなたはどうしていつも燈りをつけたままにしておくの?」
「いやなのか?」
男は二本目の煙草に火をつけながら法子の目に聞いた。
「どちらでもないわ」
「おれは好きだな。すべてを見尽くしてしまいたい自分がいるよ」
「見てどうするのよ」
「法子は見たくないのか?」
「どちらでもないわ」
「誰もみていない部屋であからさまになっている男女ほど美しいものもほかに
ないよ」
「あからさま、ね。昼間はどうなの?」
「なんだか興醒めな感じがしなくもない」
「あたしはそうは思わないわ」
「どうして? しらけないか?」
男はいぶかしげな表情をつくってみせた。
「なぜ夜じゃないといけないの。いつだっていいじゃない。あなたのいいたが
ってることは理解してるつもりよ。人間という生き物は、建前という家に棲む
動物にすぎない。そうでしょ? だったらわざわざ夜まで待たなければならな
いの? 昼夜を問わず、なまなましいくらいに理性を欠いた魅力なんていうの
も、ありはしないかしら?」
「なまなましさ、か。ようするに、ものたりないと言いたいんだな」
「ようするにね、そうよ。夜更けの動物園には飽きたってこと」
「おれは夜しかこの部屋には来れない」
「よくわかってるわ」
「どうしろというんだ」和男の声の張りに影が差しはじめた。→
95 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 05:42
「白い午後」3
「和男に飽きたわけじゃないのよ、誤解しないで。夜が、文字通り、あなたと
の夜でしかなくなったに過ぎないと思うようになっただけ。つまらなくなった
のではないの。もっと魅力が欲しくなってしまっただけ」
「ややこしい、言い訳にきこえる」
男は棚からグラスを取り出して、酒をついだ。
「ほんとうの話がややこしい言い訳にきこえる男になってしまったのね。それ
とも最初からそうだったの?」
庭から、犬の遠吠えがきこえてきた。外はいまごろ、月の光に満たされている
はずの時間だった。犬が吠えている。いまにも泣きだしそうな、長く尾を引く
情けない叫びだった。法子はわれしらず、わらいがこみあげてきた。
「昼の日なかにあたしを思い切り押し広げてみたいとは思わなくて?」
法子は自分でもうっとりするような微笑を男の中枢神経にむけて振る舞った。
和男は黙ってグラスを握りしめ、呆然と突っ立っていた。彼はもう完全に敗北
を喫していた。
夜明けが近くなって、法子は眠りについた。
彼女は男の返事をまだきいていなかった。→
96 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 08:53
「白い午後」4
あの日の午後ほど渇いていた季節を、法子はしらなかった。
川沿いの喫茶店を見つけて、彼女は中へ入った。
窓際の席がひとつ、法子のためにでもあるかのように、あいていた。
そこから望める河原は、九月の埃っぽい光に照りつけられて、ところどころ干
上がっていた。
干涸びた部分は野ざらしにされた石灰岩のくすぶれた白さをむきだし、覆う草
々は茫々とまばらで、その間隙を這う大小の翳り澱んだわずかな流れは、見捨
てられた黒曜石の鏃の欠片のごとくに残酷におもわれた。
いつもはまばゆくみずみずしいはずの瀬音も、その午後からは完全に消失して
影すら見あたらなかった。
よく冷えた珈琲が法子の喉をうるおしはしたが、干涸びた河床を眺める彼女の
目まではなんらうるおしてはくれなかった。
法子は煙草に火をつけた。渇きを一層つよめただけだった。残りの珈琲を飲み
干す。喉頭から十二指腸のあたりまでへすうっとひややかなカフェインが吸い
込まれていった。
彼女は唐突に、無数の札束が風に吹かれて舞い上がり、吹雪の中をぼろぼろに
風化してゆく滑稽無惨な光景を脳裏にありありと想い描いた。
風化したそれは粉々になって巻き散らされ、河原の白い地肌へ舞い落ちた。
それはこんどは逆風に煽られてどこかへ飛び散らされてしまい、もう見えなく
なった。
あとには、半分以上も枯れ尽くしたまばらな雑草が、埃をかぶって虚ろに揺れ
ているだけだった。
店のステレオから音楽が流れてきた。
いつから流れていたのだろう、と法子は振り返った。→
97 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 09:24
「白い午後」5
しかし、鳴りだしたはずの音楽に気づいた様子の客はひとりもいなかった。
カウンターの中ではマスターがなにくわぬ顔で皿を洗っていた。
音楽はずっと前から流れていたのかもしれない、と彼女はおもった。
ひといきついた法子は、することもなく何かを持て余し、店を出ようかどうし
ようかと迷っていると、やがて、ウインド越しに、河原から一人の男があがっ
てくるのがみえた。
河原からあがってくるものなど、いるはずはない。
たぶん、川沿いの道を歩いてきただけにすぎなかったのかもしれない。
だが法子の目には、そう映った。
たしかに男は、干上がった白い川底に刻み込まれた黒曜石の鏃の破片を裸足で
踏みつけつづけて血までも渇ききってしまった風貌で、河原をあがってきた。
それが和男を見た最初だった。
法子はようやく、待っていた物体があらわれたと感じ、いくぶん救われた気持
ちにもなった。長いあいだおのれの底に沈めておいた不可解な塊を解放して、
溜飲を下げつつ、すでにそのくちの端には薄翳る微笑を潜ませていた。
法子と和男はすこし話した。
あまり面白くない男だと、法子はおもった。
だが、男との会話など面白かろうがそうでなかろうが、べつにどうでもよかっ
た。面白い話に溺れたければ、話の面白い男をどこか他の場所で見つけるだけ
でよかった。
法子が欲した和男は、干上がった河原から這いあがってきた、渇ききっている
はずの和男だった。→
98 :
名無し物書き@推敲中?:04/01/12 10:08
100 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 14:14
「白い午後」6
渇ききっているはずの和男は、法子の望みどおり、本当に渇ききっていた。
法子にはそれがおかしかった。
和男はまっすぐに法子を見つめ、欲していた。
欲しがる和男の目がたまらなく真剣で、それがいよいよ法子をおかしがらせた。
この男は下手にしゃべってみせるより、何もくちにせず黙っている方がどれだ
けいいかわからない。
法子は和男の手の甲をさすってやりながら、そんなふうに考えた。
しばらくのあいだ、この物体が、あたしのまばゆい不謹慎につき合ってくれる
ことになるのね。
河原の草が少し揺れてみえた。かすかに風が川面を渡っているんだな、と法子
はおもった。
ふたりは連れ立って店を出た。ふたりは川沿いに歩いた。
「北はどっちになるのかしら?」
法子はよく知っていることをたずねた。
「あっちだ」
和男はそういって上流の方を指さした。
「あっちの方はもっと渇いていた?」
「もっと渇いていた」
「あなたは?」
「夜まで待つつもりだ」
「そう」
午後の光が法子の輪郭を容赦なく照らしていた。それはずっと遠くの方、法子
からは見えない場所までも、照らしつづけていくんだろうと感じた。あまり見
たくもなく知りたくもないものを、いやというほど見せつけられてしまってい
るような気がして、法子は目がくらみそうになった。→
101 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 14:42
「白い午後」7
彼女は夜を待った。
夜中にやってきて、明け方に帰る。夕刻にやってきて、深夜に帰る。男はそん
な生活を二日おきに繰り返すようになった。
「昼ひなかのあたしはどう?」
「目まいがしそうだ」
「顔色がよくないわ。以前からそんなだったの?」
「あまり食欲がない、なくなってきたみたいだ」
「あたしといると、そんなにいい?」
「だからやって来るんだろう」
和男の頬は、すでに病人のそれだった。
「夜はもう来なくてもいいわ。燈りの下ではもう完全に面白くもなんともなく
なってきたから。夜更けまで煌々と燈りをつけているなんて、ご近所に迷惑で
もあるし。また喜びでもあるし」
「このあたりには法子のような女が多いのかい?」
「そんなこときいてどうするの? それ以上の肉体の酷使はあなたには無理よ」
「お前と別れればいいだろう」
「できるの? あたしは別にかまわないけれど」
法子はくちもとに薄わらいを浮かべて和男を見た。
疲れ果てて目が落ちくぼんでいる骸骨そっくりの男の顔が、法子の嘲笑をいや
での誘っていた。
「馬鹿にしているのか」
「しているわ」
「お前は薄汚い女だ」→
102 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 15:13
「白い午後」8
「ええ、そうよ。あたしは薄汚い女だわ。あなたから見ればね。でもそれがど
うしたっていうの? その薄汚いの体に身も心もからめとられて、ついには疲
労の極地をふらふらと倒れそうになりながら、まだ御丁寧に薄汚い女の、男の
汗にまみれたベッドへお詣りにやってきてしまうのは一体だれ?」
「おれは失敗した」
「嘆きたいのね。嘆きたいときは嘆きたいだけ嘆いたほうがいいとおもうわ。
そうすれば、あなたもいま少し健全になれるかもしれないし」
「おれはもう、ここへはこないよ」
「できるかしら」
「できるとも。やってみせる」和男は大真面目な表情で言いきってみせた。
表情、か。それだけならどんなクズでも出来るものよ。大袈裟で、かえってみ
えすいているというのに…。法子はこらえようのないわらいに腹がよじれそう
なおもいがした。
「あなたはきたなくもなければ、きれいでいられそうもない。どっちつかずの
卑しさだけが、鋼鉄のカンナでさえ落しきれない垢みたいに身にしみついてい
くばかりの一塊の肉にすぎないのよ。あたしはどうかしら? あたしは自分に
とことん正直でいられるわ。その点、天使のように透明な水晶の原石のままで
生きていられるのよ。あたしのことを薄汚いというのは、逃げ出していく男だ
けだわ。つまらないたとえ話じゃなくってよ」
「帰るよ」
「どうぞ」
男は法子の部屋を出ていった。法子は窓から、男が肩を落として庭を横切って
いくみじめな姿を見おろした。庭にはまだ枝ばかりの冬の桜が数本植わってい
る。
それが和男を見た最後だった。→
103 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 16:04
「白い午後」9
降らない日がつづいていた。
新聞では、十二月に入ってからの河川の渇水状況が詳しく掲載されていた。
いつもの喫茶店には、また法子のためでもあるかのように、窓際の席がぽかん
と空いていた。
もう法子にはなんの焦りもなかった。
河原から這いあがってくる男は無数にいた。
河床は冷え枯れていたが、法子の身体は熟れきっていた。
いつも音楽がきこえた。
女たちのおしゃべりが、遠ざかっては近づいた。
石灰岩の俎板と化した河床に十二月の光はまぶしく、埃っぽく、黒曜石の破片
の黒い裂目を容赦なく差し照らしていた。
もっと残酷に照りつければいいと、法子は願った。
もっともっとあたしを照らしてくださいと、彼女は祈った。
幾人もの男たちが川の土手をのぼってきては、渇いた目で法子を見つめた。
渇いている男の目はどれもいい目をしていた。
ひたすら渇きに苛まれ、ここまでやってきた男には、ねばねばしたいやらしい
手管がなかった。
かれらの身体からは、祈りにも似た真っすぐな欲求が、赤道下の陽炎になって
ゆらゆらとたちのぼっていた。
法子はそれを、いつなんどきでも迎え入れ、神から授かった天上の声でやさし
くつつみこんでやる。そうして彼女は幾人もの男たちをふたたび埃で荒れた河
原の砂の上へと放り返してやった。骨と皮ばかりになった男の背中を二階から
眺めおろすときほど、哄笑に満ちた爽やかな一刻もなかった。→
104 :
名無し物書き@推敲中?:04/01/12 16:32
A「お前が犯人だ」
B「そうだ。私が犯人だ」
105 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 16:33
「白い午後」10
渇いた世界からは性懲りもなく、何人もの別の男があがってきては去っていっ
た。白く枯れきったあの河床には、噂話というものがないのだろうか?
法子という女がいるよ。
いつも河床を見つめているよ。
いや、そうして実はなにかを仕掛けているのかもしれないね。
いちど遊びに行っておいで。
白く渇いた川底に、干涸びた黒曜石の裂目を踏んで、風がかさかさ鳴く中を。
そうよ。あたしはいつもここにいるわ。
渇ききった季節がやってくるわ。
ところどころ、水は流れの行先をうばわれる。河床がむきだしになる。干涸び
た黒い宝石が裂目をあらわにする。午後の太陽がすべてを照らす。
男たちはその渇きに我慢がならなくなる。法子めがけて雑草をかきわけ、土手
をよじのぼってくる。
どうぞ。いらっしゃい…。
満たされぬ男を半殺しにして月の下に放り出すことこそ、あたしの典雅な趣味
なの。
もっと強く照りつけられなさい。
もっと残酷に焦がされてしまいなさい。
十二月の埃に白く渇いてしまった河床が、あなたたちの生まれ故郷。
そして還ってゆくべきところ。
あなたの季節は渇いているけど、あたしの身体はこんなにも潤っている。
どちらにしようかな。天の神様のいうとおり…。
さあ、選んでみましょうよ。→
106 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 17:02
「白い午後」11
「どこへ行くの?」
「すこし、外へ」
「まだ暗いわ」
「仕事さ」
「わらわせるわ」
「昨日の昼間から、ずっとここだ」
「もうあなたの席なんてないにちがいないわ」
「行くだけ行ってみる」
「医者へ、でしょ?」
「うん?」
「さっき、あなたの白濁液をたしかめてみたの。妙に濃い血が混じっていたわ
よ。美しかったわ」
「な、何だと!?」
「紅白の吹き流しを獣の牙でぎいっと引き裂いてしまった後の端切れみたいだ
った」
男はあわてて外へ飛び出していった。
まだどこの医者も開いてないわよ、と法子は背後からわざわざ声をかけてやっ
た。
法子はいつものように窓から庭を見おろした。
コートをひっかけながら庭をあたふたと横切っていく男を、冬桜が見送ってい
る。
法子はもう一度、ベッドに入った。
彼女は午後の喫茶店からの光景をおもい起こしていた。→
107 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/12 17:21
「白い午後」12
法子の知らないうちに、和男は死んでいた。
和男は死ぬまぎわまで法子のことを呪っていた。
和男は法子を呪っていたが、法子はまったく呪われてなどいなかった。
法子は呪われていることを知らなかったし、和男が死んだことも知らなかった。
和男は死のまぎわまで法子のことを覚えていた。
法子は和男がいたことすら、どうでもよかった。
結局、法子のなかの和男は河原にころがっていた石ころでしかなく、忘れられ
たいまとなっては、もう石ころですらなかった。
ある日の午後、なにものもなさそうな、枯れて白茶けた河床の埃のなかで、黒
曜石が干涸び散乱し、その破片の裂目が陽を燦々とあびて風にみがかれていた。
─了─
108 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 03:50
「十年」1
名古屋で足留めをくうことになった。季節はずれの大雪が中部から北陸地方を
襲ったのだった。富山での明日の予定は一日延期されることになった。暢気な
取引先だから特にあわててもいないのだろう。仕事が延びてかえって喜んでい
るかもしれない。彼はそう考えながら、今夜の宿の手続きを済ませた。
夕食にはまだ早かった。彼は荷物をコインロッカーに預け、駅を出た。
名古屋は彼にはなつかしい町だった。彼は学生時代の四年間をこの町ですごし
ていた。卒業して十年以上になるが、町の地理は今もよくおぼえていた。
彼は当時の仲間達と雑談にふけっていた喫茶店を見つけて入り、珈琲をのんだ。
ウインド越しに見える町の様子はだいぶんかわっていた。しかし彼は学生の頃
の記憶を鮮明に思い起こすことができた。彼の中で、それは色あせずに残って
いた。
とりわけ仲間らとよく行ったバーのことは、忘れられないものだった。店のマ
マはとびきりの麗人だった。彼らのアイドルだった。週に数度はみんなで押し
かけた。二日と開けずに通っているものもいた。シラフでは到底はなしかけら
れないから、そとで一杯ひっかけて身体をゆすり、度胸をつけてバーのドアを
押すのだった。ママも彼らを歓迎した。ほとんどまったく儲けにはならないが、
彼らのもっている罪のなさそうな若さが店内にもたらしてくれる、ある種の雰
囲気を彼女は愛してくれているようだった。
彼は喫茶店を出た。そして南へ足を向けた。→
109 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 04:32
「十年」2
いくつかの横町を折れた。まだ陽は残っていた。じきに沈むだろう─。そう思
いながら、もう一つの角をまがった。その先に「オカリナ」という文字の看板
が夕日を背にしてかかっているのが見えた。狭いけれどなごやかな店内を、彼
は思い出した。
ママは彼のことをおぼえてくれていた。彼は感激した。くわえて、ママが当時
とかわらぬ麗人であったことが何より嬉しかった。彼はカウンターに腰かけ、
ビールをたのんだ。
時間は早かったけれど、店にはもう客がいた。まだ十九か二十歳くらいの三人
組だった。ここらあたりの学生なのだろう。友人の噂話で盛り上がっているよ
うだった。彼らの飲んではしゃぐ姿に、十年以上前の彼とどこか共通のものが
感じられた。
彼らもママが目あてなのだろうか。まさか。と、彼が胸のうちで苦笑している
と、カウンターの奥から若い女が一人、あらわれた。いましがた化粧をおえた
ばかりの様子だ。一瞬、彼は目をみはった。十年以上前のママと瓜二つの顔立
ちをしていた。いや、それ以上かもしれない。かつてのママよりは幾分、線の
細さがあった。そして切れ長の目にはやや神経質そうな翳りが漂っている。端
正だった。学生達の声が低くなった。
「いらっしゃいませ」
学生達のほうは完全に無視された。女は真っすぐに彼の前にきて立った。彼は
意味がわからないまま、やあ、と妙な返事をかえした。
「娘よ」
ママがわらいながら誇らしげに紹介した。→
なんか日記みたいだな。
111 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 05:04
「十年」3
彼はしばらくその娘の顔を、まじまじとみつめてしまった。が、ようやく思い
出した。十年前、娘はまだ十歳になるかならないかの少女だった。
「夕方ごろになると、いつもきまって青い鞄を下げてソロバン教室に通ってい
た、あのオカッパの女の子…」
「そう、あのオカッパの女の子」
「本当に?」
「いつもあなたたちとは入れ違いだったわ」
「そう。そうだったよ」
「すこしは成長しましたかしら?」
「立派すぎて酔いも醒めるほどだ」
十年前の娘はニッコリほほえんだ。彼女は彼のグラスに目をやった。グラスは
空だ。彼女は手際よくビール瓶をとると、空のグラスを上手にみたした。
「丁寧なんだね」
「神経質っていわれるわ」
「ちゃんとしてるんだよ」
「ちゃんとしたいのよ、仕草とか」
ママに呼ばれて彼女は奥の冷蔵庫のほうへ行った。彼はそのあとを目で追った。
端正な姿勢はママと変わらなかった。母とその娘との、しばしば見かける後姿
だ。しかしそのあいだには、たしかに十年の隔たりがあるはずだった。彼はそ
のことがふと気にかかった。
彼女は冷蔵庫の前に立つと、何か思い出したかのように彼のほうを振り返った。
彼はなんだか視すえられた気がして、無言でかえした。すると彼女はまたニッ
コリと笑った。彼はほっとしてグラスのビールを喉に流し込んだ。そしてウイ
スキイの水割りをたのんだ。→
112 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 05:40
「十年」4
彼女は水割りと、母親から受け取ったピーナッツを運んできた。
「昔、学生だった?」
「そう、学生だった」
「あたし、いま、ピチピチの学生よ」
「おれ、いま、しがないサラリーマン」
彼はピーナッツをくちに放りこんだ。彼女もピーナッツをひとつ、くちに入れ
た。
「あたしの彼氏も学生なんだ」
「そいつは素晴らしい」
彼は水割りのグラスをひとくちなめた。彼女は彼の様子をなんということもな
く、見ていた。
「みんなは彼のことを左翼だっていってるわ」
「サヨクって?」
「右翼とか左翼とかの」
「その左翼のことか」
「でも彼はそうじゃないっていってる」
「どういうことだい?」
「そういうもんじゃないんだって」
「ふうん」
彼にはわからない話だった。彼女にはわかっていることなのだろうか。水割り
のグラスをゆすってみる。
「このあいだね、ケガしてかえってきたの」
彼女の切れ長の目がさっきよりもわずかに、細くなった。
「左翼ってケガするものなのかって、そのとき思ったわ。それで今度はケガし
ないように気をつけてねって言ったの。そしたらそれから、ケガはしなくなっ
たわ。面白いわね」
「そんなもんかね」
彼は残りの水割りをひといきに飲み干した。彼にはわかるようなわからないよう
な話だった。微光を放ちつつもその糸のありかがどうしてもひっかかってこな
い、高みにある蜘蛛の巣から洩れてくる言葉の断片におもえた。→
113 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 06:09
「十年」5
彼は彼女の目を見た。次にその手さばきの様に感心した。そして水の中へ吸い
込まれていくかのように、動きに無駄を感じさせない彼女の姿全体をいつくし
んでいた。あとは酒があれば彼には充分だった。
「でもね、それからの彼って何だか少しつまらなくなってきたわ」
「どうしたんだろうな」
いかにも彼ならではのいい加減な返事が出てしまっていた。彼は目の前の動く
絵画に見とれていた。
突然、絵画が真っすぐ彼の目をのぞき込んできて、言った。
「あなたも昔はそうだったんじゃないの?
思いがけない質問だった。彼は狼狽した。だが過去のことは過去のことだ。す
くなくとも彼にとってはそうでしかなかった。この十年の月日は結構長かった
のかもしれない。
しばらくして、答えた。
「何年も前のことだ。しかもだ、いうほどたいしたものでもなかった」
彼女は自分の問いがもたらした男の態度の変化に、われながら感心していた。
そしてつづけた。「もう十年もすれば、あたしの彼氏も今のあなたのようにな
るのかしら?」
「だったらどうだい?」
彼は落ち着きを取り戻しながら、きいた。
「まあまあってとこね」
彼はあきれて女の顔をじいっと見た。女は真面目な表情をしていた。彼は彼女
の切れ長の目をにらんでやった。すると彼女もにらみかえしてきた。秒針の音
が心音かと思われたほど、ふたりはにらみあっていた。とうとう男のほうが折
れた。ちいさく、負けたよ、と漏らした。女は目を細めてわらった。→
114 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/14 06:31
「十年」6
彼はもう一度水割りをもらい、ひといきに飲み干した。
彼女はそれをだまって見守っていた。彼は空けたグラスをカウンターに置いた。
木の厚みと冷えた硝子とが、ことりと節を打った。
「また来るよ」
そう言い残して、彼は「オカリナ」を出た。すでに陽は落ちていた。
店を出るとき、ママが娘に買物をいいつけている声が途中まで聞こえた。
彼は彼女が出てくるのを横町の角で待った。ほかにもいくつか、酒場の看板が
灯りはじめていた。
「オカリナ」のドアが開いた。娘の姿が見えた。娘は彼の姿を見つけると、ゆ
っくりと近づいてきた。彼は歩いてくる彼女をぼうっと見てつったっていた。
またおれは、このバーへ通うことになるのかもしれない。それは十年以前と何
らかわりのない風景を想い描かせるにたりた。
彼女は彼のすぐ前まできて立ち止まった。切れ長の目がやけに涼しく映った。
彼女がいった。
「おまちどうさま」
─了─
115 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 10:40
「五月」1
男たちが数人、無造作な音を立てて店にはいってきた。彼らは何が面白いのか、
これみよがしの野放図な声でげらげら笑っていた。
店内にいた祐吉は、ちらっとそちらのほうを見た。彼は窓際の席に腰かけて珈
琲をのんでいた。
男らは店の真ん中の円テーブルに陣取った。彼らは皆、同様のデザインをほど
こしたトレーナーにスラックス姿だった。そばのテーブルにいた二人の男女が
気まずくうつむいた。
─いなや奴らだ。祐吉は舌打ちした。男たちの一人が彼のほうを振り向いた。
祐吉は男を無視し、窓の外の街路樹を眺めていた。振り向いた男は気のせいだ
とおもったのか、仲間らとの雑談にもどった。
男は何か腑におちない様子で、もう一度祐吉を見た。祐吉は相変わらず外の景
色を愉しみながら、煙草の煙をゆるゆるとくゆらせていた。ポプラの葉が午後
の陽光にふるえ輝いていた。
男は釈然としないまま話に戻り、隣にかけている仲間に隠語のようなものをぼ
そぼそとささやいていた。→
116 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 11:18
「五月」2
祐吉は珈琲を飲みほして立ち上がった。彼は店の電話で久子を呼び出した。
久子は、これから図書館に用事があると答えた。祐吉は、おれもそうだといっ
た。じゃあ、一緒に図書館に行きましょう、と久子はいった。彼らは駅前で待
ち合わせることにした。駅前のロータリーで、久子が祐吉を車で拾ってくれる
ことになった。彼は了解した。
祐吉はさっさと勘定を済ませると、店を出た。
出しなに、さっきの男が彼の足音に耳をすませているのがわかった。ごもごも
とひとりごとをくちにしているようだったが、よく聞きとれなかった。それで
も男の目の奥に、すでに陰湿ないらだちが座っているのを、彼は視界の隅にと
らえていた。それはねばついた粘液質をしていた。祐吉は気に止めるふうもな
く、知らぬ顔ですませておいた。
五月の街路樹はポプラだけではない。細い川だけれど、流れにそって様々な緑
がたのしめるように工夫されてあった。それらはポプラからの木漏れ日と水音
とのあいだで惜しみなく風とたわむれていた。
彼はそんな川沿いを駅のほうへと歩きだした。→
117 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 12:14
「五月」3
駅についてから、祐吉は二十分待った。久子は現れなかった。彼は駅の売店で
缶ビールを買った。そして構内のベンチに腰をおろした。
三十分が過ぎた。このところ何もすることがない彼はもう、人に待たされるこ
とに慣れてきていた。
祐吉は都市の点景としてのポプラをきれいだとおもった。自然の中のポプラと
いうものを彼は知らなかった。しかし彼は、街路樹にされたポプラも美しくは
ないかと考えていた。あくまで自然を愛する人はそれをとんでもない間違いだ
といって悲しむだろう。祐吉も自然が嫌いなわけでは決してない。だが、その
一方で、都会のど真ん中に生きることになった草木をも肯定していた。はから
ずも排気ガスの渦中に整然と持ち込まれた樹木だったわけだろう。人間様のほ
うがポプラの世界に割り込んだことははっきりしている。都会に晒されたポプ
ラはいうまでもなく瑕ついているに違いない。とはいえ、ポプラの気持ちはわ
からない。すくなくとも樹木の側から人間にそんな同情を乞う理由など、さら
さらないのだ、と彼はおもってもいた。その証拠に、おれのほうが彼らに癒さ
れていはしないか。
「街路樹といえばポプラ。ポプラといえば街路樹。いや、もう少し変化があっ
てもいいだろうに」祐吉はつぶやいた。前を喪服を着てぶくぶくに肥えた中年
女が、露骨にいぶかしげな顔をして通りすぎた。
四十分がたった。祐吉は二本目の缶ビールを開けた。駅の時計が午後四時を告
げた。彼はあくびをした。
ふとロータリーに見覚えのあるベンツがすべりこんできた。久子の車だった。
祐吉は残りのビールをひといきで喉に流しこむと、空缶をゴミ箱へ捨てた。
「ごめんなさい、遅くなって。待っててくれてたのね、よかった。聞いて」
祐吉は無言で久子をみた。彼女はグレイのスーツを着ていた。→
118 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 18:46
「父さんが帰ってきちゃったの。予定が早くなったらしくて。明日また朝はや
く出なくちゃいけないらしいのだけれど、今晩はうちに泊るんですって」久子
はつづけた。「スーパーで自分のお惣菜だけは買って帰ってきたんだけど、白
い御飯はちゃんと炊かないと承知しないのよ。母さんはお友達と出かけたまま
帰ってなくて。それであたし、今、御飯をかしてきたところなのよ。ごめんね、
こんなに時間くっちゃって」
「おかげで酒と友達になってしまった」
祐吉は久子の車に目をやった。西日がベンツの白いボディに淡く照りかかって
いる。祐吉は腰をあげ、ベンチからベンツの助手席へと移動した。たいそうな
出世だ、と彼はいった。
久子は運転席に乗り込むとすぐに車を図書館の方角へ向けた。久子のハンドル
さばきはなかなかのものだ。夕風をきってベンツはスピードを上げた。街路樹
の連なりにそって澱みなくカーブをまがって行く。フロントガラスからの陽光
が予想もしない綾を織りなして二人の上を次々と通り過ぎていった。
近くの大型スーパーの駐車場へ、久子は車を入れた。二人はそこから歩いた。
遊歩道で何人かの子供達がはしゃいでいた。久子はかれらに微笑をむけた。
「ところで親父さんは元気にされてるのかい?」
「え、ええ。おかげさまでとっても。まだまだ現役だって張り切ってるわ」
久子は目を細めながら答えた。祐吉はそれだけ聞くと、煙草をとりだして火を
つけた。
「また晩酌のお相手など勤めさせていただきたいもんだ」
「だめよ。あなたたち、変に気が合うんですもの。こないだみたいに歌いださ
れては、たまったものじゃないわ。あたしや母さんが眠れなくなるでしょ」
久子は真顔でいった。父さんも、もう少し歳を考えてほしいものだわ、と彼女
はこころもちうつむき加減でつぶやいた。祐吉はそうくちにする久子の横顔を
見るともなく見ていた。
あいにく図書館は閉まっていた。かれらは正門の前で立ちつくした。→
119 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 19:18
「どうしちゃったのかしら」
「こっちに何か書いてある」
図書館ご利用の皆様へ
ただいま当館は改装工事中の為、閉館致しております。
ご利用される皆様には大変ご迷惑をおかけ致し申し訳ありません。
この秋からさらにご利用しやすくなる当館にご期待下さいませ。
なお、閉館期間は下記の通りです。お間違えのないようよろしくお願い致しま
す。
閉館期間
五月二日〜八月三十一日
万歳図書館
「そうきたか」
「ぜんぜん知らなかったわ」
「知っていたら、のこのこ出かけてくるわけないだろう」
久子は憮然としていた。→
120 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 19:20
「いそぐことだったのか?」
「別に。例の読書会の資料さがしよ」
「まだやっていたのか」
「結構面白いのよ。つづけていると」
久子は月に一度、学生時代の仲間達と読書会をもっていた。それぞれが最近読ん
だ本について、いろんな意見を交わし合う。祐吉にいわせれば、おそらく品評
会と言うだろう。どちらかといえば気ままな茶飲み会の色が濃いことは確かだ。
それでも時折、専門的な話題で真剣になれる。そんなときのために、あらかじ
め資料を準備しておくこともあった。メンバーのほとんどは久子の国文科時代
の同窓のものらだ。場所は久子の家の離れを使っていた。
しかし、こんな時期になんで、と急な気がしなくもなかった。
気を取り直して彼女はいった。
「あなたにも是非いちど、参加してもらいたいわ」
「酒は出るのか?」
「父さんのがあるわ」
「親父さんのコレクションは立派なものだ。あれをかたっぱしからいただける
のかい?」
「かたっぱしというわけにはいかないでしょうけど…」
「是非いちど、頼んでみてくれ」
「頼むだけならね」
かれらはスーパーの駐車場までひきかえした。子供達はもういなかった。西日
の色が濃くなっていた。→
121 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 20:29
歩きながら、久子はいつかのことを思い返していた。
それは久子がはじめて自分の家に祐吉を連れてきた日のことだ。
彼女は、自分の両親に祐吉を紹介した。ともに夕食をすませ、酒になった。
久子の父は焼物の収集を趣味にしていた。祐吉も焼物に関心をもっていた。
酒が入ると、久子の父は気に入りの器を取り出して祐吉にみせた。祐吉は取り
出された器を掌にとり、褒めた。祐吉は素直に久子の父の好みに共感した。祐
吉は敬意を表して父の杯に酒をそそいだ。父もまた祐吉の杯を充たした。かれ
らは酒を酌交わした。久子はその光景をとてもほほえましく思った。
翌日、彼女は父に呼ばれた。
「いい男じゃないか」
「ありがとう、お父さん。でも、普通のお友達よ」
「そうかな」
「変な仲じゃないわ」
「そんなこと聞いてるんじゃない」
「……」
「どうおもってるんだ?」
「いい人よ」
「いいのはわかってるつもりだ」
「…父さん、気が早すぎるわ」
久子はそういって、部屋を出ようとした。すると久子の母が廊下で立ち聞きし
ているのとぶつかった。
「母さん!」
彼女の母はきびすを返して居間のほうに走りさった。久子は自分の部屋へ戻る
と、椅子にかけて落ち着こうとした。が、いきおい余ったために椅子の脚が机
の脚にひっかかってしまった。久子は自分に腹を立てた。
祐吉はただ単なる異性の友達に過ぎないじゃないの! かれが普段は何をやっ
てるのかとか、大学ではどうだったのかとか、聞くことならもっと他にあるじ
ゃない。いや、そんなことより、なんで今あたしが興奮しなきゃならないの?
ばかばかしいわ。子供っぽいわ。その腹立ちは、自分でもうまくコントロール
出来そうにないものだった。→
122 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/15 20:30
とはいえ、久子はそのときの父の言葉がうれしくもあった。心の中で、彼女は
父に感謝していた。それが去年の暮れのことだった。
「久子、おい、どうかしたか?」
祐吉の声に久子はわれに帰った。そして、はたと周囲を見回した。自分はスー
パーの駐車場に立っていた。ガードマンが交通整理をしながら、ふたりのほう
を見ていた。
「ご、ごめんなさい」
「なんであやまるんだ?」
祐吉が不思議がった。久子はあわててベンツのキーを取り出した。
かれらは車内におさまった。久子がエンジンをふかした。ベンツは駐車場をす
べりだした。
──あれから半年になるんだわ。久子はふりかえった。→
123 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 05:36
いま、何くわぬ顔で助手席にふかぶかとかけている祐吉。この得体の知れぬ気
性の持ち主。あたしはもう何度、この男と夢をみたことだろう。父はそのこと
に気がついていただろうか。久子は街路樹を横目にしながら右にハンドルをき
った。しばらくは直線がつづくはずの道へ出た。祐吉はポケットから煙草を出
して火をつけた。
久子は学生のころからよく外泊した。友人の家に泊めてもらうのだと、セリフ
はほとんど決まっておなじだった。父は、わかった、気をつけるんだぞと答え
ながら笑っていた。彼女は自由気ままだった。そうしてのびのびと恋愛を楽し
んだ。
父が、あたしと祐吉とのことに気付いているのは、ほぼ間違いない。久子は上
手く言葉にできないながらも、そう確信めいたものを感じた。
「おいっ、久子、危ない!」
祐吉がわめいた。久子はハッとした。目の前に一本の電柱がせまっていた。
彼女はとっさにブレーキを踏み、おもいきりハンドルをきった。→
124 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 06:16
後輪が大きくスリップした。タイヤが悲鳴を上げる。通行人が立ち止まり、横
すべりになっていくベンツを見守った。ゴムの焦げる臭いが漂った。
車が止まった。電柱までわずか何センチも残っていないほどだった。祐吉は窓
から顔を出して電柱とのすきまをよく確かめた。かれらのうしろから後続車の
クラクションが響いた。
「だいじょうぶかしら」
「なんとかな」
「あぶないところだったわ」
「それはこっちのセリフだ。何を考えてたんだ」
「ごめんなさい。ぼうっとしてたの」
久子は頭を下げてあやまると、車をバックさせていったん深呼吸した。慎重に
車道へ戻し、ゆっくりアクセルを踏んだ。見た目にもなさけない様子でベンツ
がのろのろと動きだした。祐吉はもう一本、煙草を取り出した。火をつける前
に、彼も深呼吸した。→
125 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 06:43
しばらくして元気を取り戻した久子が、こんどはしっかり前に気を配りつつ祐
吉にいった。
「ねえ、例の読書会、ほんとうにいちど参加してみない?」
祐吉は煙草の火を消して言った。
「おれが行くとむちゃくちゃになってしまうぞ」
「おどかさないでよ。飲んで暴れるわけでもないでしょうに」
「いや、わからんぞ。内容にもよるからな」
祐吉はどこか不敵な笑みを浮かべた。
「へえ、あたしたちのレベルでは面白くないってわけ?」
「レベルの問題じゃない。モラルの問題だ」
「堅いこというのね」
「いや、おれは文学のことになると急に兇暴になってくるんだ。自分でもよく
わからないが」
「変な人ね」
「変な人だ」
「でも、面白いわ」
「何が?」
「ぜひ参加してほしいわ。あたしはそういう人を待っていたの。だって今の会
の仲間ははっきりいってあなたとは違うわ。れっきとしたふつうのお友達よ。
だからなのかな、くちにすることもありきたりで、どこかものたりなくなって
きたの、じつは。お酒が入っていても同じようなことをいっているわ。同じこ
とをいって、同じことをしてる」
「それでいいじゃないか。そういう会なんだろ?」
久子はすこし黙った。駅前広場が見えた。彼女はゆっくりとブレーキを踏んだ。
「祐吉、あなた、どこかであたしのこと馬鹿にしていない?」→
126 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 07:27
ロータリーに入ったベンツが停車した。すぐわきに、さっきまでながながと祐
吉が待たされていたベンチが見えた。
「ここで降りればいいんだな」ふたたびベンチへ格下げだ、と祐吉は思った。
「本当は一緒にいたいけど、家で父さんが待っているから」
「そうだった。親父さんがきみを待っているんだった。ところで、親父さんは
きみの母さんのことは待ってないのかい?」
「お母さん、今夜はおそくなるとおもうわ」
祐吉は頭をかかえた。「おれはいったい、なにがしたいために久子を誘ったん
だ」かれらはしばらく黙りこんでいた。
「…ねえ、一緒にうちへ来ない?」
「いまさっき、だめだといってたな」
「気がかわったのよ。うちで一緒に晩ごはんをいただきましょう」
「今夜は学生時代の恩師から超一流フランス料理店のディナーに招かれている
んだが」祐吉はもったいぶってひと呼吸置くと、つづけた。
「久子がそういうのなら、たいへん残念だが仕方がない。フランス料理は断る
ことにしよう。きみのうちに行くよ」
「なんなら、こっちはお断り申しあげてもよくってよ」
「それにはおよぶまい。きみの親父さんの洋酒のコレクションには、立派なブ
ランデーが山とあったはずだ。今夜はそいつで我慢させてもらうことにしよう」
「あきれたセリフだわ」
「わきみ運転のおわびだ」
「あ、忘れるところだった」久子はおどけて、ちいさく笑顔をみせた。
降ろされるはずの祐吉を乗せたまま、ベンツが発進した。西日があかく、町を
染めていた。すずめのさえずりが頭上を飛んでいた。→
127 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 08:31
久子の家までは三分とかからなかった。
「四分三十九秒だ」
「何よそれ?」
「駅からここまでの所用時間だ。ただし久子の車を使った場合のことだが」
「計っていたのね。さっき遅れた仕返しのつもり?」
「そんな残酷な男じゃないさ」
久子は玄関のドアを開けると祐吉を先に通した。「車を車庫に入れてくるから、
あがって待っていて」そういってもういちど運転席にもどった。
祐吉は大きな声で、お邪魔します、といって玄関を上がった。返事はなかった。
彼はもう一度、大声を出してみた。またしても返事はない。
妙な気配を感じた彼は、かまわず廊下を中へ進んだ。
居間をのぞいた。誰もいなかった。祐吉は時代劇のまねをして、たれかある!?
とさらに大きな声をあげた。物音ひとつ、かえってはこない。
祐吉は久子の父親の書斎まできた。書斎には灯りがともっている。ドアもあい
たまんまだ。すぐに中へ飛び込んだ。そこで彼の足はいきなり止まってしまっ
た。そこには普段着のカーディガンを羽織ったすがたで、久子の父親が倒れて
いた。→
128 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 09:28
「どうしたの、父さんは?」久子がもう廊下をそばまできていた。
彼女は、祐吉の背中ごしに書斎をのぞきこんだ。祐吉が止めるひまもなかった。
「きゃああ……!」
「救急車だ。電話はどっちだ!?」
祐吉は走った。久子は倒れている父にかけよった。つっぷした格好でぴくりと
もしない。
かたわらでウイスキイグラスが砕けて散っていた。机の上にはボトルが一本、
そして久子には見覚えのある錠剤のシートがのっていた。それは白色の睡眠薬
で、どうしても眠れないときにと、医師から処方されていたものだった。
ワンシートが十錠。かさねて、もうワンシート。すべて抜殻になって照明の下
に眩い光沢を放っていた。ひといきに飲んだとすれば二十錠だ。まさか…。
「お父さん!」
久子は父にしがみついて何度もその名を呼びかけた。だが彼女の父からはもう
返事ひとつ返ってこなかった。
もどっていた祐吉が久子の肩をだいた。久子は祐吉の胸にすがって泣きじゃく
った。救急車の近づいてくる音が聞こえた。→
129 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 10:15
─壁がややすすけた白い廊下で、祐吉は顔をあげた。真っ赤に泣きはらした久
子がヒールの音をさせて彼のほうへ歩いてきた。こつこつとそれは廊下を静か
にこだました。彼女はようやく泣き止んだようだった。病院の時計は午後八時
を回っていた。
「もうすぐ母さんが来てくれるわ」
「そうか。しっかりするんだ」
祐吉にはそれ以上のことは何もいえなかった。彼は頭の中で自分で自分を問う
ていた。
…おれは普段から超然とした生き方をめざしてきた。事実、そうもしてきたつ
もりだった。とはいえ、こんなとき、肝心のとき、まさになんの役にも立って
はいない。なぜそうした生き方を選んだのか。おれはそのわけを自分でわかっ
ていて、しかもそれからは目をそむけてきた。なによりの証拠は、今、おれが
この場を一刻もはやく去りたがっていることだ。はたから見れば、けしてそう
は映らないだろう。しかしいまのおれにはそれが限界だ。
祐吉はおのれの卑劣ぶりに呆れるおもいだった。
おれにできることといえば久子に言葉をかけてやることだけだ。そしてそれす
ら成功しているかどうか、まったく定かではない。おれが情けないのか、それ
とも言葉がくだらないのか。おれにはそんなこともわからない。おそらく両方
かもしれない。では、いまの久子を救える人間がいたとして、それが出来る言
葉が果たしてあるのか。それもおれにはあてがない。もしできるとすれば、そ
れは久子の親父だけだ。しかもその手段は永遠に断たれた─。
祐吉はふらふらと立ちあがった。彼はすすけた白い廊下を階段のほうへ向かっ
た。うしろから久子の声が追いかけてきた。
「あまり飲み過ぎないでね。実は父も…」そこで久子の声は途切れた。嗄れた
声だった。祐吉はそれを振り切って階段を下りた。→
130 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 11:27
病院を出た祐吉はタクシーを拾った。駅の裏手の小路にある酒場のまえでタク
シーをおりた。彼はドアを開けて中に入った。よく知っているバーテンが、い
らっしゃいと丁寧に迎えた。
「アイリッシュ。ボトルでくれ」
察しのはやいバーテンは静かに注文に応じた。
祐吉は独酌でグラスをかさねた。彼の気に入りのグラスは底のあついオールド
タイプで、いっぱいについだとしても相当の量にはなる。祐吉はこぼれんばか
りにどぼどぼとついだ。他の客達があっけにとられている。
祐吉はおもう。もともとは水だからな。ただ、この琥珀色に染まるまでのあい
だに、人は自分が生きてきた年月よりも深く、追いこされてしまってるんだ。
この水に、な。
祐吉の脳裏をきょうの出来事がやつぎばやに浮かんでは消えていった。
久子の笑顔をおもった。だがそれはすぐに絶望的な泣き声と化した。そして、
あの書斎の光景。おれの目はいったいどこをどう見てきたというのだ。
黙るしかなかった。もういちどなみなみとグラスを満たすと、ぐいぐい一息に
腹の中へ流し込んだ。喉仏が怒気をおびて上下していた。
そのとき、酒場のドアが無造作な音を立ててあいた。
数人の男たちが野卑なわらいを上げながら、わがもの顔ではいってきた。
男らは三人だった。かれらは一様に派手な上着をはおり、ラメ入りのスラック
ス姿だった。客たちは沈黙した。バーテンの頬がひきつった。→
131 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 12:45
男たちは奥のボックス席に目をやった。席は詰まっていた。かれらのうちの一
人が苦々しげに舌打ちした。ボックス席の客らは気まずさの極を呈している。
男たちはゆっくりとあたりを睥倪した。
「よう、おれたちの席はどこだい?」どこか酔いのまわっているような声だっ
た。
そこで祐吉ははじめて男たちに反応した。というより、その声に、だった。
酒の酔いじゃないな─。祐吉はそうした聞き分けには長けていた。耳で読むと
でもいったほうがいい。それは久子の国文の師をも瞠目させたことがあった。
種を明かせばどうということはない。毎日かかさず音楽に耳を傾けてきた結果
にすぎなかった。
…あのヤクだな。わらわせやがる。おまけにジャリとおんなじ入れ方で喰って
きてる。亡国の輩とは、まさにこいつらのことをいうのだろう。お隣の国の悲
惨きわまりない歴史すら欠片ほども知らないやつらだ。
「おいバーテン!」めったの冷静さを失わないバーテンも、このときばかりは
飛び上がった。
「ナポレオンを持ってこい!」嗄れた声が命じた。あとの二人も下等なわらい
をわらっている。
「カメレオンの間違いじゃないのか」祐吉の落着きはらった声が低く漂うた。
彼は手にしていた分厚いグラスをすうっとかれらのほうへ向けると、そのまま
手を離した。水晶は砕け散り、琥珀の露がフロアにゆるゆると広がった。
「ナポレオンというのは」祐吉はいつもの祐吉にもどっていた。「ブランデー
のある種の等級のことをいうんだ。まちがってもおまえたちが軽々しくくちに
すべき言葉ではまったくない」
こんどは男たちが黙り込む番だった。祐吉は平然とかれらの視線を受け止めた。
「表へ出ろ」嗄れ声が、つぶやいた。
店内には怯えきった酔客とバーテンとが残された。→
132 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 13:52
その道路は、最終電車には間に合わせようかという会社員らで賑わっていた。
そんな彼らのそばで、いきなり怒声がぶちまけられた。彼らは酔眼をしばたた
いて辺りを見回した。路上に、四人の男が対峙していた。
三人は一見してそれとわかるチンピラともゴロツキともつかない格好で、高ら
かな罵声をところせましとまき散らしていた。かれらとむきあっているもう一
人の男はまだ若く、三十代前半くらいに見えた。彼は声を立てず、慎重に三人
との間合いをはかっているようだった。心持ち、重心を低くもって構えていた。
あっという間にひとだかりが出来た。中には終電の時間を気にしつつ腕時計を
ちらちらさせているものもいた。
先に手を出したのは誰もが予想したように、もっとも派手な格好の男だった。
妙な雄叫びをあげて男は飛びかかった。まではよかったが、地面に足をとられ
てしまい、何もしないうちにころんだ。野次馬らの失笑が漏れた。嗄れ声の男
が観衆にむかって、じゃかましい! と一喝した。かれらは沈黙した。
そのときだった。若い男が地面を蹴った。彼はわきめもふらず一直線に嗄れ声
に踊りかかった。彼の拳が嗄れ声の顔面をものの見事にヒットした。間髪いれ
ず、こんどは男の下腹部を蹴りあげる。嗄れ声はうめきをこらえきれずに地面
にかがみこんだ。野次馬からいっせいに歓声があがった。
最後の一人が挽回不可能な劣勢をさとって、くるりと背をむけた。若いほうの
男にしてみればあとは後ろから一押ししてやるだけでよかった。背中から蹴り
をいれられた男はそのまま道路脇のドブ溝へ転落した。チャプ、と音がした。
しかし嗄れ声はかれらのうちではリーダーらしく、あくまでも立ち上がって再
び襲ってきた。憎悪で血走り、薬で濁りきったその目は、全身をしたたる呪い
そのもの、昼間のダミ声の男だった。
あの野郎だったか。祐吉はとっさの判断でいったん身をかわした。
こいつとはしっかりと決着をつけておかねばならない。→
133 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 15:17
そう考えた瞬間、視界からダミ声が消えた。
しまった! いまごろになって回ってきやがった。おもえば、久子に付き合っ
ていたあいだ、食うべきものも食っていなかった。神経も疲れていた。それを
酒だけで癒そうとしてハメをはずしていた。
─不覚だったか。
祐吉がふらついたのを狙いすまして、ダミ声の渾身の一撃がふってわいた。
祐吉の前歯が三本とも夜空めがけてふっ飛んだ。目の前がぐらぐらした。ダミ
声はさすがに手慣れていた。こんどは祐吉の急所を蹴り上げた。祐吉は息をつ
まらせた。動きの止まった祐吉の後頭部に、だめ押しの手刀が打ち下ろされた。
彼の膝は崩れた。
ようやくサイレンの音が聞こえた。
三人組はそれぞれに息を吹きかえして、さっさとずらかろうとしていた。
が、酔った観衆にはばまれて上手く逃れられそうになかった。
祐吉は気力をふりしぼって頭をもたげた。足元には血だまりがみえる。
馬鹿どもがやっさもっさしているうちだ。彼はおのれの血が曲がりくねってい
く先に原色をぴかぴかさせている酒場の看板をとらえた。
阿呆ども、もう少し、阿呆なままでいてくれ。
祐吉は看板を持ち上げた。観衆の側からは見えている。だが三人には見えない。
ゆっくり近づく。
さあて、と。→
134 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/16 16:08
ふらつく足元を逆に利用して、祐吉は自分の身体がたおれていくにまかせた。
まずは大将から。彼はこれを喧嘩の鉄則だとおもっていた。よし。
あそこだ─。
ぐしゃ。
ダミ声の脳天で火の花が咲いた。電光がむき出しになって、ダミ声の頭上をぴか
ぴかと照らしている。観衆のあいだからひときわ大きな歓声が上がった。
もう誰も終電のことなど忘れてしまっていた。
あと二人だ。
と、そのとき、かけつけた警官が割って入った。
祐吉らは数人の警官に羽交い締めにされた。
残りの男ふたりが、離せ離せとわめいた。ところが彼らの足はおとなしく引き
づられていく。つづきなど本当はやる気がないのだ。
それをたしかめると祐吉は、勝った、とおもった。
とはいえ、なんとむなしい勝利だろうとも感じた。
おれはいったい、何をむきになっているのだろう。彼は狂おしさに身を焦がれ
るおもいがした。これほどむなしい喧嘩もほかにないようにおもえた。
星が見えた。
観衆のざわめきが去っていった。
祐吉は警官にもたれかかりながら、久子のことを思い出した。彼女の笑みが浮
かんだ。次にそれは泣き顔にかわった。そして久子の父親の背中がよぎった。
祐吉はパトカーに押し込まれた。ガラス越しに夜空が映った。再び、星が見え
た。パトカーが動きだした。
そのとき彼は、久子の声がどこか遠くのほうから聞こえ、また去っていくよう
な気がした。
─了─
135 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/17 16:48
「邂逅」
横断歩道で、信吾は、信号が青にかわるのを待っていた。すぐそばに電柱が立
っている。彼のちょうど目の高さほごに、一枚のビラが貼付けてあった。
?。ステキな恋人を見つけちゃえ!
信吾はその一行を読むともなくぼんやりと読んだ。やや丸いゴチック体が、こ
のたぐいのチラシにありがちなマンネリズムにはまりきっている。信吾は朝か
ら憂うつになった。
信吾のとなりに中年のオバサンが堂々たる風情でならんだ。主婦としての気を
みなぎらせてあまりあった。朝市がえりなのだろう、買物かごから葱がつきで
ている。オバサンは信吾の視線の先をすばやくとらえると、自分もその一行へ
と目を向けた。
?。ステキな恋人を見つけちゃえ!
一読後、オバサンはおもむろに振り返った。信吾はあわただしく目をそらすと
わざと大袈裟な咳払いをひとつ、オバサンに仕返して、前に向き直った。
信号は赤のままだ。そのはるかむこうにはとてつもなく大きな青い空がみえる。
信吾は少しばかり、落着きを取り戻した。
そこへこんどは一台の自転車が近づいてきた。信吾の左に止まった。自転車に
乗っているのは、信吾とほぼ同じ年格好の若い女だった。女の羽織っている上
着が風に揺れ、ほんのわずかに信吾の左腕をかすった。
はなれようか、と信吾は一瞬かんがえた。女もそうおもったふうだった。が、
信吾は脈拍の上昇を自覚しながらも、あえてそのままにしておくことにした。
すると女のほうもそのままにして、知らぬ顔をみせた。信吾は息がつまりそう
になった。内心の興奮をさとられてはいけないと、はやる気持ちを抑えにおさ
え、周囲を眺めるふりのまま自転車の女の横顔をちらとうかがった。なんと、
女のほうも信吾の顔をちらっと見ていた。
かれらの目と目が合ってしまった。→
136 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/17 17:43
きわどかった。
信吾と女は互いの目の奥にほとんど同じ心情を読み合ってしまった。
かれらはあわてて目をそらした。二人はあらぬほうへ視線を飛ばした。
信号がようやく、青になった。
朝市がえりのオバサンがおもむろに渡りはじめた。
信吾も、歩きだすよりほかなかった。彼はやけにもったいをつけて横断
歩道を前にすすんだ。ほぼ同時に自転車もゆっくりと動きだした。見た
目にもあまり気のすすまないような、どことなくのらりくらりとした運
転だった。信吾の言葉を待っているのは明らかにおもえた。
かれらは横断歩道を渡りきった。自転車はまだ、迷っているかのような
速度だ。
信吾は頬を紅潮させて窒息せんばかりに緊張した。ところが彼にはとっ
さにかけるべき言葉をうしなっていた。
やがて若い女は仕方なく自転車のスピードを上げていった。彼を追いこ
していくとき、彼女の胸がかいまみえた。信吾はそれだけで、不思議と
癒されるものを感じた。かれたの距離はみるみるまに広がった。去って
いく自転車を見送りながら、信吾は深いため息をついた。→
137 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/17 18:28
ひとつきにたった千円の小遣いだけでは、女を誘う勇気すら湧いてこな
い─。
実は、彼はまだ、地元の小学校に通う六年生の児童だった。
やっぱりまだ若すぎるぜ、おれもあの子も─。
信吾は追いこされていくときにはからずも見てしまった、彼女の胸の薄
く翳りに閉ざされていく谷間を思い出した。そのちいさなふくらみは、
ある一定の厚みと形とで微妙に仕上げられた上着によって隠されていた。
紺色の制服には長方形の名札がリズミカルにゆれている。
学校名はまごうかたなかった。
信吾の通っている小学校だ。
買物かごを下げたオバサンの後ろを、彼はふてくされた面持ちであるい
た。さっき見たビラの一文をおもった。
?。ステキな恋人を見つけちゃえ!
信吾にはその、ありきたりきわまりないゴチック体が、なぜか途方もな
くむなしく、いやらしく、乏しいもののように感じられ、嫌だと思った。
おれはまだまだ青いのかもしれない。
そんなことを考えながら、信吾は背中のランドセルを背負いなおした。
─了─
138 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/18 14:09
「家庭教師」
大学に残ることになった年の五月、夕子は、家庭教師のアルバイトをはじめた。
生徒は地元の公立高校に通う、この春に二年生になったばかりの娘だった。娘
の家は夕子の大学からバスでわずか二駅、歩いてもよいほどだったので、大学
院でいくつかの講義に顔を出したあと、軽い食事をとり、そのまま娘の家に向
かった。月曜と水曜に英語、金曜には古文を教えていた。
夕子のアルバイトは大学院での担当教授からの紹介だった。国文科の鴨長とい
う名の教授で、声がかかったのは夕子の大学院進学がきまった去年の暮れごろ
のことだった。鴨長はいった。
「上京にわたくしの姉が住んでおりましてね」
「はい、存じております」
「姉にはその孫がおりまして」
「はあ」
「この夏十七歳になるかわいらしい娘なのですがね。それがもう姉にしてみれ
ば目の中にいれても痛くもかゆくもないという─」
「それは結構なことで」
夕子とはまた別の大学の国文科を志望している、との話だった。彼女が娘とは
じめて顔を合わせたのが四月の末、鴨長自身とその姉、それに娘の母の立ち会
いで、五月の連休明けからの授業がきまった。→
139 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/18 15:48
熱心なのは鴨長の姉、つまり娘の祖母のほうで、母親はむしろ淡々として口数
が少なかった。娘の名は由美子といった。母に似て口数が少なく、色の白い、
どちらかといえばおとなしい感じがした。
あたしの高二の頃とは大違いだわ─。
由美子は祖母がまくしたてる大袈裟でにぎやかな教育論には目を細めて静かに
耳を傾けるだけだろう、自分からは何も主張せず、大人たちの話がおわるのを
だまってまっていた。これがもし六年前の自分だったらまったくちがっていた
だろう、と夕子はおもった。彼女にとっては誰にも邪魔されたくなどない高校
二年だった。
夕子には週三度の家庭教師がぜんぜん苦痛に感じられなかった。由美子は、夕
子のいうとおりに予習し、復習し、模擬試験では理想的な成績を上げてきて、
祖母たちをよろこばせた。夕子は祖母からたいそう感謝された。
「弟の申したとおりでございますわね」
「いえいえ」
「本当に、わかい娘を教えるのがお上手な先生ですわ」
「とんでもございません」
夕子がいなくとも一人でじゅうぶんやっていける娘なのに、あたしが褒められ
るのもおかしなはなしだわ─。彼女は、そばでそんなやりとりを聞いている由
美子の横顔を見つめてそうおもった。→
140 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/18 18:15
テストのたびに理想的な点数を取ってかえってくること以外に、実はもうひと
つ、夕子の楽しみは勉強のあとのお茶の時間だった。
午後八時四十五分きっちりには、由美子の部屋をノックする音がして、紅茶と
ケーキを盆に載せた由美子の母親が顔を出した。母親はふたりのために菓子を
おくといつも、夕子に簡単なねぎらいの言葉のみを残して、そっと部屋を出た。
面倒なやりとりを省いた、そんな母の気持ちだけの思いやりが、かえって夕子
にはありがたかった。
「先生、こっちのケーキのほうが大きいわよ」
「うん? よく見るとそうかなあ」
「こっちにしたら?」
「由美ちゃんは?」
「あたし、そっちの小さいほうでいい」
「ほんとにいいの? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
夕子は甘いものには人一倍めのないほうだった。つき合いがはじまってすぐに
それを見抜いた由美子は、いっけん同じにしか見えない二個のケーキを慎重に
見比べると、大きなほうを夕子にすすめてくれるのが常だった。かれらは一緒
にケーキをつまみ、お互いの学生生活のことなどを話しながら、しばし華やい
だひとときを過ごした。夕子はケーキをつまむ由美子の仕草を見ながら、家庭
教師というのもけっこういいものだわ、と思った。
夏がおわるころ、夕子が学部生だったときから付き合っていた幹彦からの電話
の内容がおかしくなってきた。幹彦は、夕子とおなじ鴨長のゼミで知りあった。
彼は大学を出てすぐ、市内の製薬会社に勤めた。五ヵ月ほどが過ぎていただろ
うか。
「そうね。あまり外には出ないわね。ほとんど用事もないから」
「だろうな」
何気なさそうな幹彦のあいづちには、あきらかな棘の触手が殻を喰い破り、内
側から抉られた暗い隙間からじんわりと漏れだしてきていた。
揺るがせにできそうにない侮蔑を感じとっていた夕子だったが、あえてそのま
ま男の挑発にまかせていた。仕方のないことだと、卒業前から覚悟はしていた
つもりだった。→
141 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/20 09:47
学部三年の春だった。鴨長の教室ではじめて出会った幹彦は、夕子からみれば
まだほんの子供にうつっていた。中学、高校そしてこれまでわがまま奔放が許
されてきた夕子だった。一年間の浪人生活でしばらくの我慢を要求されたとは
いえ、根っからの遊び人を自負していた彼女には、大学にはいってからようや
く遊びをつまみだしたかのような幹彦など、まだまだ青い新参者にみえた。そ
れが二十歳を過ぎたころから夕子は急におとなしくなり、次第に自分の目指す
古典の世界へと足をむけていくようになった。単に仲間どうしが集まって騒ぐ
ばかりの遊びには愛想が尽きた。
ところが幹彦のほうはそんな夕子とは対象的に、二十歳を過ぎたころから本格
的にめざめていったように映った。そればかりか、よく見ていると、幹彦の遊
びというのは、夕子がおもっていたものとは違っていた。ぜんぜん違っていた
のだ。幹彦の遊びは夕子がそれまで謳歌してきていた遊びのたぐいではなかっ
た。大学生のものではない。そう気付いたのは、夕子が鴨長について古典の専
門家として大学に残る決心を固めたころのことだ。
幹彦は本来、夕子の手におえる相手などではなかった。幹彦ははじめから、夕
子がこれから進もうとしている古典の世界の住人だった。源氏や世阿弥、漢詩
などをひと渡り学んできたとき、はたとそれに気づいた。幹彦の遊びとは、夕
子がこれから学ぼうとしている世界をすでに通過してきた男のものだった。→
142 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/20 09:47
はじめての挫折。夕子が見下していたのではなくて、夕子は見下されていたの
だ。幹彦は新古今にでてくるあの松の葉の露の匂いをしっている。夕子にはそ
のことに気がつかなかっただけのことにすぎない。幹彦と出会った日から、彼
にはそれが見えていたろう。うかつだった。全学二万人といわれている名門私
大のなかで、幹彦だけがやたらに目立って浮いている感じがして夕子にはそれ
が気になりもし、またおかしくもあった。自分の領域にはほど遠いものだと決
めつけていたのは、夕子たち二万人のほうで、本当のところは、夕子を筆頭に
幹彦の目には残りの一九九九九人のほうが浮いて写っていたわけだった。
そして話が合わなくなった、のではなくて、会話そのものが最初から成立して
いなかったのかもしれない。ただ、そのことに気づいているものがいたとすれ
ば、ひとり鴨長だけではなかったか。→
143 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/20 10:59
自然のなりゆきには逆らえないというけれど、次元の違いもまた同じことだ。
それいらい、夕子はもう、幹彦からどんなふうに言われようと、耐えるしかな
かった。夕子はそれまでの遊びを止めた。身体はいうことをきいてくれなかっ
たが、気持ちはもう違っていた。彼女はそんな二人の自分をどうするわけでも
なく、彼は彼だ、あたしはあたしだと、線を引くことにしていた。
その線は色を持っていた。だが夕子はそれをみることから身を切り離していた。
なぜならその色は、夕子自身できめたものだからだ。つまり落ちた側からは落
とされた色にみえ、落とした側からはそのへんの石ころと混じりあっていて判
別さえつきそうにない色をたたえていた。時の流れでさえも、おそらくは追い
つくことができない。それは過去の色だった。
「で、なんの用なの、きょうは」
「ああ、実は相談があるんだが。仕事のことでね。まあ、愚痴みたいなもんだ」
「そう」
「聞いてくれるかい?」
「いいわよ」
「ありがとう。じゃあ明日、駅前のチャランポランで午後二時に」
「わかったわ」
夕子は受話器を置くと、小さくためいきをついた。読みかけの小説に戻ろうと
して、ふと、いまさっきの幹彦の言葉に、それまでにはなかったはずのひっか
かりをおぼえた。→
144 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/20 11:01
愚痴? 幹彦が? どうして…。
彼女は本をおくと、ステレオのスイッチをいれた。FMが流れた。夕子には耳な
れないサウンドだった。切り替えようかともおもったけれど、由美子との話題
にはなるかもしれないと考えなおしてそのまま流しておくことにした。ヴォリ
ュームをすこし、しぼった。
机のスタンドを消して部屋のあかりだけにすると、由美子の祖母から贈られた
灰皿を取出して床に置いた。灰皿は小振りで、薄紫がかった乳白色の硝子でで
きていた。夕子は煙草に火を付けてステレオの前に座り込んだ。
あの幹彦が、「愚痴」だって? 何だろうとおもった。しばらく考えてみた。
ステレオから流れる曲がかわった。
夕子はそっと、薄わらいにも似たものがくちの端にうかんでくるのに自分でも
気づいた。
幹彦がはいった製薬会社は名実ともに日本でも三本の指に入る大企業だった。
彼はそこの宣伝部に配属されていたはずだ。幹彦をのぞくと、新入社員はすべ
て国立大の出身だと聞いていた。
幹彦はそこで、負けていた。
夕子にはそんな様子が、もくもくと湧きあがる夏雲のごとく、想像できた。→
145 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/22 15:03
あくる日の午後、夕子が研究棟の廊下を歩いていると、うしろから呼びとめら
れた。鴨長だった。彼は昼の講義を終えたところで、これから喫茶店で休もう
かとおもっていたところだといった。
「ごいっしょしませんか」
「はい、よろこんで」
夕子は鴨長とともに大学近くの喫茶店へ歩いていった。
鴨長の選んだ店は、大学前の通りからは反対の、山の手の側にあった。
大通りに面した店は昼時はどこもいっぱいになる。落ち着いた話などできはし
ない。グループでやってくるものらが多く、中にはただ単なる縄張り争いでも
しに来たとしか思えない、大声を張り上げて作り話のひとつもたいそうに披露
して見せては他のグループを静まりかえらせてげらげら笑っているものらもい
た。そうして彼らが去ったあとには、いいしれぬ虚しさだけが店内に残ってい
た。
鴨長が案内してくれた店は夕子が知らない店だった。見渡すと、学生たちの姿
はほとんどなく、いちばん奥のテーブルには夕子の知っている経済学部の助教
授がひとりで茶を飲みながら漫画をよんでいた。
照明はやや暗かったが、外の木々から洩れてくる陽の光がそれをおぎなってあ
まりあった。
夕子たちはサンドイッチと熱い珈琲のセットをたのんだ。→
146 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/22 15:04
鴨長が聞いた。
「あのう、由美子のことなんですが」
「あ、はい」
「姉はまあ、あのような性格です。あなたならもう、よく把握されているとは
おもいますが」おずおずと語りだした。
「え、ええ。まあ、そうですね。とても教育熱心な方でらして、びっくり…」
「とても、とおっしゃるのは、いったいどれくらい」
「わたしなどが下手に教える必要なんてないくらいに、という意味ですけれど」
「何か、お気にめさないことでもしましたか、由美子が」
「いいえ、そんな意味ではありませんわ。正直に申し上げてすごく優秀でらっ
しゃるので、教える側としては、こんなに楽をさせていただいてホントにいい
のかななんておもってしまって」夕子は鴨長の前では世辞でも何でもなく、素
直に言葉が出てくるのだった。「立場としましては、わたし、なんだか申し訳
ない気持ちになるくらいでして」授業ののちの菓子のひとときほど生きていて
よかったとおもえることはない、とまではさすがにくちには出来なかったが。
鴨長は安心したようにほほえみを見せた。彼は置かれたばかりの珈琲カップを
とって、少しだけミルクをたらした。かき混ぜはしない。ただゆらゆらとカッ
プを揺すってミルクが絵を描きはじめるままにまかせておく。
黒地に白の不可思議な模様がにょろにょろと浮かんでは姿をかえていく。湯気
に霞むそれにしばらく、鴨長は見入っている。いつもの癖かもしれないわ。そ
う、夕子はおもった。
ひとくち珈琲をすすったあと、鴨長はふうっと息をついた。その半分は溜息だ
ったが、夕子にはそこまでのことはわからなかった。ただ彼女の返事にいくら
かの安堵をえてくれたのだとかんがえた。夕子も珈琲をすすった。彼女はブラ
ックだった。煎り立ての黒さに染まった香りが、すうっと喉をおちていくとき
の独特の芳しい時間はなにものにもかえがたいものだった。
鴨長がおもむろに話しはじめた。
「あの娘は─」
窓の景色に目をやりながら、鴨長は由美子のことをゆっくりと語りだした。→
147 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/26 03:46
「まだ小学生の頃でしたか」心臓の手術をしたことがあるのだ、と鴨長はいっ
た。
「幼いころからあまり元気のない子でした」
十歳になったばかりのとき、心房細動との診断を受けた。ある種の不正脈に分
類されるものだと医師はいった。心電図の所見だけではなく、あらためて検査
した上で早期の手術が決定された。再検査じたいが、周囲の目には手術ではな
いかと映るほど大がかりなものだった。彼女は約一年間、入院した。
のちにもとの小学校へ戻ったが、激しいスポーツはだめで、休日などは以前に
も増して、家にこもりがちになった。
そんな由美子が入院していたとき、鴨長はいくども彼女の病室を訪れてやった。
「わらわれるかもしれませんが」
鴨長はつづけた。
「わたしに出来ることといえば、実にかぎられていました」
肩書きこそ、このとおり世間からみれば、あるいは立派なものかもしれないが、
結局はなんのやくにも立ちはしない。鴨長は子守唄がわりに古典の本をよんで
きかせてやった。おとぎ草子なら、と鴨長はおもっていた。いま、この子にき
かせてやったところで一体なんになろう。なんにもならない。そんなことは彼
自身よくわかっていた。だが、きっといつかは…。彼には彼なりの信念があっ
た。とうぜん周囲の目には偏屈に見えた。由美子の家族からは、そんな古典な
んてカビくさいものを病室に持ち込んで、縁起でもない、かえって子供が哀れ
におもえてくるではないか。そう、しかられた。けれど鴨長はそれをやめなか
った。由美子はまるでお経でも聞くかのように、あおしろい顔で、ベッドにも
たれながらぼうっと耳をかたむけていた。そうして鴨長の朗読がつづくなかで
やがて由美子はうつらうつらしだすのだった。すると鴨長は本を置き、しずか
に寝息をたてはじめた由美子の肩にそっと毛布をかけてやった。
「すきとおるような白い肌をしているでしょう」
「お母さんゆずりかとおもってましたわ」
「母親もそうなのですよ」→
148 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/01/31 16:10
鴨長は外の景色を眺めて言った。夕子もそれにつられて窓の外へ目をやった。
夏の終わりの午後の光があたりを照らしている。小高い山を切り開いて作られ
た住宅街が通りのむこうへと広がっていた。夕子はおもった。あたしに見えて
いるこの風景は、ただ気持ちのいい景色にすぎず、鴨長のそれとは違うのだと。
どれほど違うのだろう。鴨長の見てきたものと、夕子がいま見ているものと。
詮索の無意味を知りつつも、そんな想いが夕子から離れてはくれなかった。
買物帰りだろう、スーパーのナイロン袋を下げた女達がガラス越しに通りすぎ
ていくのが見える。学生らもちらほらと歩いていたが、手持ちぶさたそうにぶ
らぶらしていた。
「夕子さん?」
「あっ、はい」
夕子が気をとられているあいだに、鴨長はすでに夕子のほうに向きなおってい
た。つられて従ったはずだった。とはいえ、観察しているのは夕子のほうだろ
う。なのにいつもこうだ。鴨長は不思議な男だと、つくづく思わされるのは、
こんなときだった。
「すこし、話が重くなってしまったかもしれませんね」
「え、いえ、とんでもないです。かえって、先にうかがっておいたほうが」
夕子の知っている学生が表通りを歩いてきた。ウインドの中の夕子と鴨長とを
見つけると、なにか珍妙な物体のひとつも発見したかのような目でニヤニヤと
含みわらいを見せて過ぎた。
次の日曜日、駅前の喫茶店チャランポランは、正午すぎから混み出していた。
ほとんど満席だったので、夕子は自動販売機の缶珈琲でいったん喉の乾きをい
やした。そしてしばらく時間をつぶそうと本屋を見つけてはいった。→
149 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/12 19:26
ふたたび店に戻ったとき、たまたま奥のテーブルがあいていた。夕子はそこに
腰をおろして腕時計をみた。午後二時ちょうどだった。
五分ばかりすると幹彦がやってきた。
幹彦は、わるいわるい、といいながら奥の席へやってきた。くちではそう言い
ながらも遅れてくるのが当然でもあるかのような顔をしている。夕子の目には
そう映った。
夕子にすれば、きっちり時間通りにやってきて指定の場所で待っている自分の
方がおかしいのだろうか、と疑問に感じてしまった。いくぶん不機嫌な気もし
たが、それが顔に出てしまうな彼女ではなかった。
「バスが遅れてしまったんだ。例のやつさ」
「そう。だったら仕方ないわね」
めずらしく混んでるじゃないか、と言いもって幹彦は夕子と向き合って椅子に
かけた。休みの日のはずなのに幹彦はなぜかスーツ姿だった。休日出勤だった
のかしら、と夕子はおもった。が、どうもそんなふうには見えなかった。彼は
いつも使っている仕事用のかばんを持っていない。セカンドバッグすら手にし
ていない。幹彦は手ぶらだった。
「これから、ちょっと別の用事があるんだ」
鷹揚に背もたれを使い、彼は言った。言葉にも態度にも、かすかに、にやけた
ものが幹彦をとりまいている。夕子はたぶん、錯覚かもしれないが、自分がわ
らわれているおもいにとらわれた。幹彦はどこか安心できない調子のよさを身
に付けつつあるなあ。そう、夕子はおもった。→
150 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/12 20:01
幹彦の調子のよさにホイホイとついていくのは馬鹿らしいけれど、ついていか
なければかえってわらわれてしまう。そんな脅迫観念を抱かせてしまうところ
が彼の口調にはあった。夕子からこれまでの気安さが薄れていき、徐々に身構
えていくのが自分でもよくわかった。学生時代には、すくなくとも幹彦の前で
は感じたことのない本能的なものだった。あえておもいかえせば、まだ彼女が
派手な遊びにうつつを抜かしていた十九、二十歳のころ、ずっと年上の男から
受けたことのある油断できない警戒心をいだかせる印象と似ているといえば、
いえなくもなかった。
幹彦もそんな年齢になったのか─。いや、なりつつあるのか。
そういう男になるとはこれまで考えたこともなくはなかった。ところがいざ目
の前にしてみると、ごく当り前のようでもあり、さして驚くにはあたらないこ
とのようにもおもえてきた。
そう考えると、夕子には幹彦のいう「用事」の意味がおのずとわかる気がした。
彼女はそれには触れないことにした。すると幹彦は、夕子が「用事」にまった
く触れてこないことが不満のようでもあり、また反面、すくわれたような顔を
見せもした。わずか数分もないやりとりのうちに、夕子は幹彦のことを、つま
らない男になりさがった、と見切りをつけてしまっていた。いったんそう見切
ってしまうと、もうこの男と同席している自分自身に耐えられそうになくなっ
てきた。→
151 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/12 20:02
「スーツ姿がとても似合うようになってきたわね」
「ありがとう。自分でも気にいっているんだ」
「ぜんぜん不自然じゃなくなっているわ。このあいだまでのジーンズ姿がとて
つもなく子供っぽいくらい」
「いろいろあるんだ。勤めだすと」
幹彦はそう言って、煙草に火をつけた。ライターが照らした男の頬に苦笑いが
うかんでいる。夕子にはそれが、どういうわけか、故意につくって見せている
かのようでとんでもなく気障におもえた。きみにはわからないことさ、とでも
無言のうちにつぶやかれたようで、夕子は、これは侮辱だと感じた。しかし、
一方では、そんなふうになっている幹彦の立場もまたまったくわからなくもな
いのだ。そうはおもいながら、考えてみても夕子には夕子なりの根があった。
彼女はいちど魅力を感じなくなった男には一切の未練も残らない性格だった。
「あたしはあたしの用事を調整してから、ここへ来たの」→
152 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/25 06:20
「そうだったのか」
おもえば、前に会ったのはたしか七月のなかばごろだった。あれから二か月ち
かくがたっている。立場の違ってしまったものどうし、この時間の経過は想い
のほか、互いの距離に深い斜線をはさみ込んでしまっていた。
店の時計が午後二時四十五分を指している。
かれらはチャランポランを出て別々の方向へとわかれ去っていた。三十分をと
もにすることがなかったことになる。別れ話ではなかったが、事実上それも同
じだった。こうなることは、このあいだの電話であきらかにわかっていたはず
のことだ。夕子には心構えが出来ていた。→
153 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/25 06:21
バス通りを私鉄駅の方へと幹彦はきえていった。それを一瞥して、夕子はもう
一度本屋へ入った。受験参考書のコーナーの前に立って、「高校上級」と書か
れた英文解釈の問題集を一冊手に取ってみた。背表紙は青かった。彼女はしば
らくそれをぱらぱらとめくって中身をみた。次に黄色い背表紙のものを取り出
した。しばらくそれを眺めていたのち、彼女は結局、青い方の問題集に決めた。
それを持って今度は文庫のコーナーへむかった。
夕子はここ三日間かけてある長篇小説の上巻と中巻とを読みおえていた。だが
一緒に買ったのはその二冊だけで、そのときは下巻だけが棚からぬけていた。
ところがこの日は下巻のみがおいてあり、上と中だけがなかった。この本屋の
店員は一体どういう品揃えのしかたを学んでいるのだろう、と彼女の不信の翳
りが眉をふとかすめた。とはいえ夕子自身にとっては何の不都合もないことだ
ったから、別に腹も立たない。ただ、ほかの客がこまるだろうな、とは考えた。
夕子は問題集と文庫との払いをすませ、そこを出た。夕日がきれいだった。彼
女はバス停のほうへ歩いた。→
154 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/26 23:01
バス停から三十メートルも離れてはいないところで、夕子は足をとめた。
下校中の高校生らの中に由美子がいた。由美子はバス停のすぐそばをジーパン
に白いブラウス姿で立っていた。彼女の隣には、身長190センチはあろうか
という長身の男子生徒がおり、二人で何か話しあっているようだった。
由美子は背の高い男の顔を見上げながら無邪気にわらっていた。夕子にはまっ
たく気づく様子もない。男の顔を見上げて笑う由美子のあごの線を、午後の日
差しがくっきりと縁取って自在な陰陽をえがいている。夕子にはそれが、白く
精巧な磁器に写し出された、みずみずしい渓流を遊ぶ若鮎のように見えた。
バスが来た。他の生徒らにまじって、由美子は男と一緒に乗り込んだ。
夕子は目を細めてそのバスの番号を確かめた。それは夕子も乗らなければなら
ないバスだった。→
155 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/02/26 23:02
彼女は一台、見送ることにした。
由美子たちを乗せたバスはすぐに、夕子のそばを通過しようと近づいてきた。
彼女はとっさにバスに背を向け、商店のウインドをのぞきこんだ。骨董屋のウ
インドで、なかにいる老人と目が合った。夕子は熱心さをよそおうと、老人も
熱心にこちらを見返してきた。
バスが通り過ぎていった。
夕子は思いもよらず、ほっとした。
われにかえった彼女は、なんで自分ともあろうものが高校生の恋愛を目撃した
くらいで慌てなければならないのか、と恥ずかしいおもいにとらわれた。そし
て誰にともなく咳払いをひとつすると、次のバスを待つためにベンチの方へ歩
いた。腕時計を見た。あと十五分ほどあった。彼女はさっき買ったばかりの文
庫本を取り出した。→
156 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/01 03:48
由美子たちを乗せたバスは駅前でほとんどの乗客をいれかえると、ふたたび動
きだした。ゆっくりと速度を上げていく窓の景色をみるともなく、男のほうが
由美子に話しかけた。
「さっき、骨董屋の店先を熱心にのぞきこんでる若い女の人がいたぜ」
「ふうん。あのバス停の近くの?」
「そうさ。ひどく熱心そうだったな。若いのにめずらしいなとおもった」
「骨董屋さんか。それと若いこととどう関係があるのかわからないけれど、最
近ではそういう趣味の人も少しづつ増えてはいるんじゃない?」
「そういえば由美子の習ってる家庭教師の先生も、大学院では古典なんて研究
してんだろ?」
「そんな意味で言うなら、まったく骨董品じゃないとおもうけどな」
「なんだかカビ臭い話しさ。みんなくちにはしないけれどな」
「カビ臭いだなんて。わかってないやつだわ、あなたも」
「怒るなよ」
「先生は素敵な女性よ。あたしもあんな風な大学生になれればと思うような」
「へえ、そんなに素敵な人なのかい? おれもいちど、会ってみたい気がする
な」
「相手にされないわよ、きっと。古典をカビ臭いなんて言ってるようじゃ。見
込みゼロだわ」
「えらくきついな」
「想像力に創造力でしょ。理解や洞察の深さとか。いろいろ必要な気がするわ、
教わればおそわるほど。読みなんかは、まるで自分そのまんまが机の上に露呈
されてる感じよ。生きてる鏡みたい。こわいんだから」
バスは大通りを抜けて交差点にさしかかった。左へ折れて橋をわたると、山の
手方面へと進んだ。その先には萩で知られた寺院がある。それはいまが見ごろ
のはずだった。→
157 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 00:01
翌日、夕子は朝から頭痛がしていた。風邪だろうと思い、解熱薬をのんでしば
らく横になっていた。午前中ずっとそうしていると痛みはおさまってきた。午
後の講義からは差し支えなさそうな感じがした。ゼミのあとは家庭教師の日で
もあった。
講義のあと、友人達と茶に出かけた。夕子は、このあいだ鴨長に教えてもらっ
た喫茶店にみなを誘った。
「ここ、鴨長さんがよく来てらっしゃるお店じゃなかったっけ」
「知っていたの?」
「あたしも一度ご一緒させてもらったことがあるわ」
「そうだったの」
「学部生の頃は表通りの方でわいわいやるのが楽しかったけどね」
青葉の木の下をくぐって店のドアを開けた。軽くベルの音がした。彼女らは窓
辺の席にかけた。陽の光がテーブルの木目をそよいでいる。
「週末の蕪村、覚えてる?」
「居酒屋の?」
「あそこはすごかったね。月に一度は救急車が来ていたっけ」
「蕪村って、店名がよかったわ」
「いかにも、ね。男の酒場って感じで。あたしも時々、誘われて行ったわ」
「倒れた女子学生を男子が大丈夫かとか何とか叫びながら自分までふらふらに
なってあちこち触ってるのね。見ず知らずの男までが大丈夫かっ! て」
「あはは。お前らの頭こそ大丈夫か? って感じだったわ」
「それにしてもよく、あの中におれたなあと。いま思うと、つくづく」
「さいきん衰弱がはげしいのよ、あたしたち」
「枯れてゆく季節なのよ。じわじわと。これからはその妙味を味わう方向が試
されていくんだから。でも、あんまりしみじみしてしまうと、かえって教授の
方が心配されるかも」
「枯れる一方では変化がね。春夏秋冬を適当に織りまぜてみたら?」
「つくっちゃうのね、周囲とは余り関係なく。面白いかも。でもねえ」
「うん、見破るやつも出てくるでしょうけど。うちのゼミ周辺にはいないと思
うわ」
夕子はふたたび頭痛がしてきた。彼女はそこで紅茶だけ飲みほすと、友人達を
残して席を立つことにした。→
158 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 00:02
「わるいんだけど」
「家庭教師だったね」
「時間はあるんだけど、すこし具合が」
「無理しないほうがいいわよ」
ありがとう、といい残し、夕子はそこを出た。
大学前まで出るとバスに乗り、由美子の家の最寄駅で下りた。近くのうどん屋
に入ってかやく御飯定食を頼んだ。食欲はまだあまりなかった。だが無理にで
も全部たいらげてしまうと、持ってきていた風邪薬を二錠、コップの水でのど
に流し込んだ。しばらく椅子にかけたままじっとしていると、いつもの元気が
戻ってきたような気がした。
夕子はかばんの中から青い背表紙の問題集を取り出した。タイトルには「精錬
精鋭精解の英文解釈・全面改新決定版」とある。精の字が三つもならび、そう
とう馬力を要する問題集であるぞといわんばかりの威容を誇っている。著者名
は大山春男となっていて、夕子は何だか大丈夫か? という気がしなくもなか
った。最初の長文のいくつかにさっと目を通すと、彼女はそれをかばんにしま
った。
うどん屋を出た夕子は、今度はその向かいの喫茶店で時間をつぶすことにした。
そこで、昨日買った小説の下巻を読み終えてしまおうと考えた。
由美子の部屋に入ったのは午後七時十分前ほどだ。常にすれば五分くらい早か
ったかもしれない。いつもより五分も早く現れた夕子を見て、由美子はややあ
わてた様子だった。→
159 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 06:08
「いま、ちょっと電話に出てたとこだったんです」
聞かれてもいない質問に由美子は答えていた。夕子は直感で、相手は昨日見た
長身の彼だなと思った。
「前のおさらいがすんだら、新しい問題集にかかるわね」
「ええ、まだつづくんですかあ?」
「あたりまえじゃないの」
二人は姉妹のように話しながら由美子の部屋へ入った。
時計が八時半をまわったころ、夕子は手元に置いた問題集の青い背表紙に、ぼ
んやりと輪郭の揺らぎを感じた。ページをめくると、細かなアルファベットが
二重にぶれて見えている。これはいけないと彼女は思った。それでも勉強後の
お茶だけは何としてもいただいて帰らねば、と考えなおし、ふんばることにし
た。
この日も由美子は母親がだしてくれた二つのケーキを見比べて、大きい方の皿
を夕子の前へさっと置いてくれた。
生地を生クリームでつつみ、甘栗をのせただけのシンプルなショートだった。
由美子は、いただきます、とだけ言うと、熱い紅茶をひとくちすすり、ケーキ
に銀色のフォークを傾けて丁寧に端の方から少しづつくずした。たっぷり盛ら
れた生クリームから数層の生地が肌を見せ、層と層との間から少量のラズベリ
ーがしたたり、生クリームにちいさな窪みをつくった。→
160 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 06:10
あたしがこの子の年頃には、かまわず栗から突き刺して口に放り込んでいたも
もだわ─。
夕子が見ていると、由美子はきょとんとした顔で言った。
「召し上がらないんですか?」
「ううん。いただくわ。ちょっとね、見とれちゃったの」
「まあ、先生。そんなふうにおっしゃったら、なんか恥ずかしいわ」
陶器のような白い肌に薄い朱がぽっと浮かんだ。
─透きとおるような白い肌をしているでしょう。
このまえ喫茶店で鴨長から聞かされた話を夕子は思い出した。彼女はケーキを
つつき、紅茶を飲んだ。ふたたび、彼女の視界がくらっときた。こめかみのあ
たりを指でさぐった。
「先生、どうしたの?」
夕子はしまった、と思った。生徒の前で見せる仕草ではなかった。
心配そうな目で由美子は夕子の顔をのぞきこんだ。やや傾けた由美子の首筋が、
夕子の目にぼうっと映った。→
161 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 06:36
「先生?」
「あ、ごめんごめん。大丈夫よ。風邪でもひいちゃったのかな」
由美子の首筋の白さが、熱に揺れる夕子の目には、いまにも溶けていきそうな
蝋燭が描くしたたりを想わせた。ついさっきまでは勉強にまぎれて気がつかな
かったのか。いや、単に熱のせいかもしれない。
夕子は軽く咳払いして、いったん姿勢をしゃんと持ち直そうとした。その両脇
を由美子の、まだ幼さの残るかにみえている腕がすうっと伸びてきて、彼女を
ささえてくれた。→
162 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 06:54
「いいわ」
夕子は由美子を手でさえぎった。由美子の動きを止めた。傾けたうなじがその
まま空中に停止した。
ぼうっとかすみそうになる目で、夕子は由美子の肌の露出している部分をじっ
と見つめた。ただ単に白いばかりではない、その陰影を。
そんなふうに見ると、陶器の肌はまるで百合の花びらにも映る。いっぽうでは、
それこそ雨後のなめくじに似ていなくもない。
ささやかな壊れ物であるべき陶器の肌のどこかに、夕子はある陰影を、誰かの
くちびるの這ったあとをさがしていた。
由美子にそれが通じたわけもなかったのに、すこしばかり首をすぼめ、彼女は
うつむいて見せた。
─了─
163 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 22:05
「結婚祝い」
「誰からだ?」
「冴子さんたちじゃない?」
「なんだ」
「なんだはないでしょ。あなたと同じ課の同僚なのに」
法子はそういうと、包みの紐を解いて中を開けてみた。木箱に五つ揃えの小鉢
セットがおさまっていた。小鉢はふちのまるい青白色をしていた。法子はその
ひとつを手に取り出してみた。
「ちょうどよかったじゃない? あたしたち、まだ食器類が揃ってなかったか
ら。特にこういうちょっぴり見栄えがするのがさ」
法子は手に取った小鉢をしげしげと眺めまわして、うんうんとうなづいてみせ
た。彼女はそれを夫の高次に手渡すと、木箱の中の説明書と重なって、法子た
ちへのメッセージが入っているのに気が付いた。
文面はごく普通のどこにでもありそうな祝辞だった。法子はそれをもう一度、
読み返した。やや右肩上がりのくせのある達筆で書かれている。法子はその字
に見覚えがあった。
冴子さんの字だわ─。→
164 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/07 22:06
職場で見なれている文字に、法子はしばらく目を落した。そして、冴子さんか
らよ、といいながら高次にメッセージを見せた。彼は何気ない様子でそれに目
を通した。読みながら高次は、メッセージを書いたのが誰だとも、誰の字かわ
かるか、とも言わなかった。
「もう少し面白みのあることがいえないもんかな、うちの課は」
ただそうつぶやくと、何くわぬ顔で、メッセージが書かれた紙を法子の手に返
した。彼女はもう一度その文字をよく点検する目で見直すと、紙を元のように
折りたたんで木箱に戻した。
やがて高次が、青白色の陶器をいじくりまわしながら、いい色だ、とひとこと
いった。そうして彼はその小鉢を法子に返した。法子はそれを手の中で一周さ
せてみた。
「あなた好みの色ね」
そういって、法子は青白色の陶器を木箱に戻した。
まもなくかれらは、次の祝いの品に話題を移した。→
165 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 03:45
その日の夕刻、法子は晩ごはんの仕度に、さっそく冴子たちからの小鉢を使っ
た。法子は茄子の輪切りをたっぷりの油で炒めて小鉢に盛り、葱のみじん切り
をちらして醤油を落した。それは高次の好物でもあった。高次は法子の料理の
腕をほめてくれた。もともとは、その作り方を教えてくれたのは高次である。
彼が彼の料理を自分でほめているようなものだ。しかし法子のうれしさに嘘は
なかった。
「音楽でもつけましょうか」
「そうだな」
法子は居間のステレオを付けに立った。空になっていたはずのカセットデッキ
にテープが入っている。高次のしわざかと思い、カセットのスイッチを入れた。
ひと呼吸おいてイントロが流れた。法子がまったく知らない曲だった。
「どうしたの、このテープ?」
「課の人間にもらったんだ」
高次はただそういっただけで、誰からもらったとも、誰からもらったかわかる
か、とも言わなかった。どの課なのかも具体的にはくちにしなかった。二人が
勤めている会社には全部で二十九の課があった。
「あなたの好きそうな感じの曲ね」
「そうかな」
高次は茄子炒めをつつきながら、あいまいに応えた。そうして手元の赤ワイン
を素早く引き寄せると、いつもの器用な手付きで栓を抜いた。その音が、おそ
らく、後に出てくるだろう法子からの問いを完全にシャットアウトしてしまっ
た。→
166 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 03:46
祝いの品はあくる日にも届いた。法子が同僚からもらってきたもので、彼女は
それを高次の前で開けた。包みの中はまたもや木箱だったが、ふたをとると、
出てきたのは小ぶりの花器だった。深い焦げ色が磨き込まれて鈍い光を点々と
放っている。
「鉄、か。よく見つけてきたもんだ」
「あかるい花を入れるとバランスいいとおもわない?」
「もっともだ」
その木箱にも説明書とともにメッセージがそえられていた。法子は先に目を通
してから高次に見せた。墨痕あざやかな堂々たる筆運びである。文面はどこか
の例文のまる写しではあったが。
「またもやありきたりな文章だな。うちの会社の社員というのはどうしてこう
も型にはまった連中ばかりなんだ」高次は苦笑いをもらして言った。
書体は明らかに男のものだった。法子の課でデスクを並べている妻子持ちで、
たしか書道五段の免状を持つ、貫禄ばかりが売り物の五十男だった。課の者ら
は男の書の腕前を見込んで書かせたのだろう。
「法子の好みの書体だな」
と、ひとこと加えて、それを法子の手に戻した。→
167 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 05:09
その日もまた、夕食には昨晩つかった小鉢を夕子はためしてみた。太目の葱を
湯通しして一旦冷ましたものに白味噌を溶いたドレッシングをたらし、盛って
みた。これは昨夜とちがい、法子の好物だった。青白い鉢に葱の白をのせた時、
けして鮮烈とはいいがたいが、和して同じない淡い色の対照に目が吸われた。
「コントラストにもいろいろあるさ。あざやかだったらよいとは一概にはね」
高次がいつか言っていた言葉が、法子の脳天にまざまざとよみがえってきた。
彼女は気持ちを切り替えて、高次に言った。
「ある人からのメッセージだといってカセットテープをもらってきてあるの」
法子は会社の帰りがけに友人の順子から手渡されたテープをデッキに入れた。
順子のくちぶりでは、どうも個人的な頼まれもののような感じだった。だが法
子は高次にかくしごとはしたくなかった。彼女は思いきってデッキのスイッチ
を押した。→
168 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/08 05:10
高次は葱のサラダをつまみあげながら、スピーカーに耳を傾けた。法子も箸を
つかいつつテープの音に耳を澄ませた。メッセージが流れだした。男の声だっ
た。
法子はどきっ、としてデッキを止めようかと思わず身をのりだした。
高次が箸をとめてスピーカーの方を振り向いた。
かれらがよく知っている男性の声が、力強く、ゆっくりと二人に語りかけた。
「これからは、いやこれからこそ、いろいろあるだろうとおもう。しかし、君
達のことだ。僕はなんら心配などしてはいない。それはこれまでの君達の実績
が立派に証明している。今後も、二人共に、仲良く、喧嘩もたまにはいいだろ
う。それを隠さずにきたことが皆からの評価として僕のところまで届いた。社
長などと肩書きこそ大層なものだが、うちのせがれはまだまだ若い。どうか、
君達の厚味ある経験を活かし、せがれを社会人という名にふさわしい社長にし
てやっていただきたい。最後になって申し訳ない。高次君そして法子君。ご結
婚、おめでとう。これからも、どうか、幸せであってください」
それはかれらが勤めている会社々長の父、引退してなお、真の背骨を持つ男と
業界で畏怖されている、まぎれもない創業の人の声だった。
─了─
ツマンネ
170 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 01:40
「おこりんぼ」
「わからないな。おれがお前を誘ったとき、どうして来なかったんだ」
「どうして行かなきゃならなかったの」
「あのとき一緒に来ていたら、いまごろこんな話などせずにすんでいたはずだ
よ」
「行きたかったけれど、ほかに用事があったの。知ってたはずよ」
「知っていたよ。知っていてわざと誘ったんだ。誘わずにはおれなかった」
「でも、あのときには、あなたにそれほどの気持ちがあっただなんて、ぜんぜ
んわからなかったわ。そんなふうには見えなかった。だからあたしは別にいい
だろうくらいの軽い気持ちであなたをそこに残していっただけなの。好きでな
かったわけでもなければ、どうしても他の都合を優先させたいとまで考えてそ
うしたわけではなかったのよ。あなたの気持ちがそれほどまでのものだったの
なら、どうしてそうだと、はっきり言ってくれなかったの? ちゃんと言って
くれていたら、あのときならさしたる問題もなく、あたしとあなたとの間柄は
ずっとスムーズにいっていたはずよ。あたしにもそれなりの心構えというもの
があったわ。なのにあなたは何一つはっきりとは言わずにただ何となく誘って
みただけだとでもいうふうな態度しか取らなかったじゃない。ちゃんと言わな
かったあなたにも責任があるわ。どうしてしっかり伝えてくれなかったの?
どうしていまごろになってこんな話が出てきてしまうの? あたしはこんなこ
とで足踏みしてしまいたくはないの。もう、あなたは、あたしの世界とは切れ
た場所にいるのよ。これほど目の前で会話を交わしている今もね。それが、ど
うしてこんな土壇場になってあなたのようなひとが登場してくるわけよ?」
「さきに聞いてきたのは佐和子の方じゃないか。佐和子が勝手におれを登場さ
せてしまっているんだ」
「それよ、腹が立つのは。形の上ではそうなってしまうということが」
「何が腹立つんだよ」
「あなたの、いいかげんだった態度じゃないの」→
171 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 01:42
佐和子は繰り返した。
「新吉、どうしてあのとき、誘うなら誘うで、もっとしっかり引っ張ってくれ
なかったのよ。あたしはついうっかりとあなたをほったらかしてしまったわ。
こんなことになるなら、あのときもっと、こっちの方からあなたのことをつな
ぎとめておけばよかった。もうどうあがいたって、だめなものはだめよ。あた
しには歴とした婚約者がいるし、新吉には佳奈子がいるわ。よく考えたら、実
にどうでもいい組み合わせだと思うわ」
佐和子は、もうお手上げ、という仕草を見せながら、空を振仰いだ。
新吉は佐和子の横顔をじっと見つめていたが、やがて川面に目をやって溜息を
ついた。
かれらの頭上をすずめが行き交い、さえずっていた。
「もう決まってしまったわ。この十月の末よ」→
172 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 03:09
新吉はポケットから煙草を取り出した。
「吸うかい?」
「いいわ」
新吉は一人で煙草に火を付けた。煙が風に吹かれ、佐和子の鼻先をかすめてい
った。
「あたし、いまね、あなたが生きているという事実が限りなく迷惑な気がして
いるわ」
「おれもだ。佐和子がこんな近くにいるということに耐えきれる自信がない。
息がつまりそうだ」
「こんなふうにしてしまったのは、あなたよ」
「おれはあのとき、誘っても乗ってこない佐和子をみて、なかば以上もあきら
めてしまった。あとがないとは予想していた。加えて、誘わずにいられない自
分なんだということも、よく承知していたはずだった。なのに、おれはあれ以
上強く言うことが出来なかった」
「あたしは待っていたのに」
「用事があると言ったじゃないか」
「ほいほい乗っていけたとでも思って?」→
173 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 03:10
「おれは苦しんでいたんだ。いまになって佐和子がやはり、あのときのおれの
気持ちを確かめておきたいから今日こうして会って話してくれと言ってきたと
き、おれはとたんに、思い出した。用事があると言ってさっさと行ってしまっ
た佐和子の後姿をね。なんだか、いてもたってもいられなくなった。だから、
本当のことをつい、くちに出してしまった。そうしたら佐和子は怒り出した。
当然といえば当然だと思う。なぜ今になってそんなことを言い出すのか。どう
してあのときはっきりとそう言ってくれなかったのかと。佐和子の言うとおり
だ。きみの方から連絡してきたとはいえ、ふたたび、気持ちを乱させるような
ことを言い出しているのは、確かにおれの方だろう」
「あなたの方よ。あたしはあなたを見るたびに、ここんとこ、苦い想いばかり
味わっているわ。どうしてくれるの。もう、あたし、結婚してしまうのよ。も
う、決まっちゃってるのよ。決めたんです」
佐和子の口調がかわった。
「いっそのこと、お前なんか嫌いだと、言ってくれればよかったのよ。つい、
くちにしてしまっただなんて、いくら好きだなんて言われたって、ははは。う
れしくもなんともないんです。混乱してしまうじゃないの。大混乱よ。大迷惑
だわ」
佐和子の目に不思議な光が宿りはじめた。一方からは悲しみに映り、もう一方
からは笑いにも見える。そんな陰影が波打ち出していた。
頭上を行き交っていたすずめが、土手をいっせいに川面へとすべっていった。
すずめたちは、あっという間もなく向こう岸へたどりつき、ひと呼吸おいたか
とおもうと、もういちど高く舞い上がった。→
174 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 04:14
「あなたなんて呼び出さなければよかった。おまけに、来てはいけなかったの
よ、あなたは。そうしてあたしは金輪際、きっぱり忘れるということが出来る
はずだった」
佐和子の声は彼女の輪郭に、すこしづつ能面の風貌を帯びさせつつあった。
「しかし」、と新吉が言った。「もう、来てしまったし、言ってしまった。佐
和子も聞いただろう。おれは君がよその男と結婚してしまうことが、とてつも
なく苛立たしい。正直な気持ちだ。呪わしいんだ。できることなら、いまここ
で、おれの手で佐和子の首を締め上げて殺してしまいたいくらいなんだ」
「あたしもあなたを絞め殺してあげたいわ。あなたの意気地なしのせいで、こ
んなに取り乱してしまうなんて、それをあなたに見られてしまって、あたしの
今の気持ち、わからないはずはないわね。生きていられないほど恥ずかしいと
いうことなんです。馬鹿がもう一匹の馬鹿を呼んできて、どちらが真実の馬鹿
であるかなんて、そんな話をしているわけよ。眉間に感情の皺などという、あ
あ、これ以上の瑕があると思っているの?」→
175 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 04:15
「じゃあ、結婚するな」
「いまになって言うなっていうのよ」
「遅くはないはずだ」
「残念ね。それにやめる気はさらさらないわ。あなたのような意気地なしの言
葉に動かされて、自分で決めた結婚を取り止めてしまうほど、あたしは情け深
い女ではないの。取り乱したあたしこそ、どうかしているのよ。腹が立つのは
そんな自分になの。それとあなた、さっき言ったでしょう? よその男ってい
う言い草。今後は特に気を付けてもらいたいわ」
「取り付くしまがない」
「バチが当ったんでしょ。一人で受けなさいよ。なんであたしまでが一緒に苦
しんであげなくてはいけないのかしら? 相手にそう感じさせてる時点で、失
格なのよ。無理を言えば何とかなるとでも考えたの? あんまりなめないでほ
しいもんだわ。消えてください、もう」
佐和子は新吉を残し、ひとりで土手の道を歩き出した。新吉は佐和子になにか
言いたげな動作を見せた。佐和子は見えていないふりのまま、歩く速度を上げ
た。新吉の諦めが完全なものになっていくのが、佐和子にはわかる気がした。
佐和子はそこで、一度、ふりかえった。→
176 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 05:48
新吉の動きは止まっていた。新吉の心情までが止まっているはずはなかった。
それを見て佐和子は、どこか周回遅れの過去が行き場をなくした陽炎のように
ゆらめいているのを感じた。
「呼び出してわるかったわ。そこで止まって。もう、あたしはあたしです」
そういうと佐和子はふたたび歩き出した。新吉は土手の石も同然だった。佐和
子からすれば、形だけでも石に見えるのなら彼にとってはよいことだと思った。
気持ちの揺れなど、さしあたりは外見で殺しておけばいいことだ。そのくらい
の作業なら、いまの新吉にだってやって出来ないことではないと彼女は思った。
さらに、そう自分にも言い聞かせた。
追ってこない男。呼び出しには応じるが、追ってくることは出来ない男。
土手を歩きながら佐和子は考えた。追ってこないのなら、引くこともしない。
最初からしない。そんな新吉だったら、話はずいぶん違ったものになっていた
だろうと。
対岸の空を舞っていたすずめたちは、いつの間にか上流めざして飛び立ってい
た。佐和子は知らぬ間に自分の目に涙があふれそうになっているのに気付いた。
感情などという、泥まみれの池に囲い込んで封印してしまいたい穢らわしい態
度がまだおのれの中にある。それは今後の自分の生活の中では、一刻も早く、
処刑し去ってしまわねばならない何物かだった。→
177 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/12 05:48
佐和子は彼女自身を想像の中で磔にしてみた。輝きこそしないけれど、芒洋と
くすんでもいない。なによりもそんな想像を直視できるところまでくることが
出来ている自分に、ちょっとした微笑さえ振る舞ってやりたい気がした。そう
思うと彼女はもう普段の装いのまま、新吉の知りようのない佐和子に戻ってい
た。
午後の日差しが川面をまばゆく照らしている。彼女はそれをとても爽やかだと
感じた。やがて佐和子は鼻唄の一つもくちずさんでいた。それに気付くと同時
に小さな笑いがこみあげてきた。佐和子はあまりのおかしさにこらえきれなく
なって、笑いをこらえつつその場にうづくまった。
新吉はたぶん、まださっきの場所で煙草を吹かしているのだろう。いつまでも
どっちつかずなんだわ、と密かにつぶやいた。彼は彼の輪郭をはっきりさせる
ことが、なによりも怖いんだわ。新吉はもうしばらく、逃げつづけることだろ
う。でもそれは、彼のせいではないんだわ。だって輪郭をはっきりさせるだな
んて、言葉の使い様を低く見積っている彼には出来ないこと。自分の不可能な
ことにおびえまわっているなんて、それこそが新吉らしさなのかもしれない。
刀の使い方を知らない男が、いくら盾ばかり並べてみても、かなしいだけ。
佐和子は土手の先に二つの川がまじわって大河になる点に設けられた堰を見た。
底知れない濁流が悠々と方向を変え、大きく迂回していくところだ。そこから
先はほとんど曲がりくねることなく、海へ達している。海は碧い。が、まだこ
こは泥まみれで、逆にいえば、そこでこそ佐和子に課せられた何かがあった。
陽をうけた川面は、濁流は濁流なりのきらめきを放ちながら風紋さえ浮かべて
いる。佐和子は誰にともなく、ひとりごとをくちにした。
「人を殺すのに、銃器の一つもいるとでも思っていたのかしら。彼」
─了─
178 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 05:29
「香の女」
女は酒の店をやめて下着の店につとめた。次に下着の店をやめて花の店を手伝
うことにした。花の店にあきてきたころ、彼女は香の店につとめだした。ほと
んど趣味できめた店だったが、香の店は思いのほか繁盛しており忙しく、その
ぶんつとめがいはあった。
香の匂いに誘われて、店にはさまざまな女たちが出入りしていた。女たちに入
り混じって、幾人かの男たちもやって来た。それらの男たちはもともと香を求
めてやってくる客たちもいれば、そうでないものらもいた。そうでないものら
は、香の匂いに誘われてやって来た女たちの匂いに吊られてやって来た。なか
には、両方ともいえる男までがいた。そのうちわかってきたのは、おそらく、
どちらの男たちも両方であって、終始一貫して完全にどちらか一方などという
男などここにも存在しないということだった。ただ程度の差や立ち居振る舞い
にちがいがあったにすぎない。→
179 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 05:31
香の店は香の匂いに満ちていたが、それ以上に女の声に満ちていた。それは幾
つもの層を成していた。彼女にはそれが子供の頃に読んだ孫悟空が乗る金東雲
の挿し絵に思えるときがあった。常に店内をぐるぐると巡っており、いろんな
からまり方をしては目には見えない色模様を変幻自在に描いていた。たまたま
風神と雷神とがかち合わせたりもした。男の匂いは、彼女が出るまでもなく、
さきに香みずからが何らの音ひとつ立てず纏い付き、ほんの爪先ばかりを残し
てさらりと消し去ってくれた。女たちはそうした残香にさえ敏感に反応した。
おのおのがそれぞれの香りを選び終えるころ、女たちはそれまでよりも遥かに
神々しく振舞い、誘われた男たちを畏怖と煩悩の果てへと導いた。
迷いはじめた男たちを受け入れるのも追い払うのも、彼女らには思いのままだ
った。→
180 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 06:10
雨の日も風の日も雪の日も、もちろん晴れの日も、日照りの日であれ、同じこ
とだった。目に映っている光景のみがちがって見えていただけだった。
香の店にふらふらと迷い込んだ男たちは、あいもかわらず、受け入れられたり
追い払われたりを飽くことなき仁義のごとく、繰り返していた。
陰影と薫香とが醸し上げ、紡ぎ出す、妄想のような絵は、次第に彼女のなかで
現実を反転させ、からくり画のような生温い店内の様相のほうが本当は現実に
近いものなのではないかと感じるようにもなっていた。
ともかくそこは、香の女の城であり、香りが太陽や月や水にとってかわる、陽
の当る暗がりでもあった。
三年が過ぎたとき、彼女はその店を辞した。そして生れ故郷の、海の見える町
へと帰っていった。→
181 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 06:11
「三年くらいいたかしら」
美子は珈琲をすこしすすって答えた。
「香の店、か」
「そう」
「はやっていたのか」
「まあね」
「ここは潮の香りがするよ。それに腐った魚の匂いも」
「そうね」
「犬や猫の匂いもある。ノラだがな」
「ええ、たしかに」
「濁酒や吐瀉物の匂いなんかは年中だ」
「それは仕方がないでしょう」
「男の汗の匂いもな」
「きらいじゃないけど」
「知ってる」
そういうと燐次は煙草の火を付けた。
「吸うかい?」
「ええ、いただくわ」
美子は燐次から煙草をうけとると、セカンドバッグから自分のライターを取り
出して火を付けた。美子のくちからゆるゆると煙が洩れた。→
182 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 07:52
「燐次、大学院には今もかよっているの?」
「ああ、仕事をしながらな」
燐次は煙を吐きだしながらこたえた。店の天井あたりまで紫煙がもくもくと立
ちのぼった。まるで煙突だと美子はおもった。
「大学院って、のんびりしているの?」
「のんびりしているな。おれの性には合ってる。たまらなく合っているな」
「仕事は何をしているの?」
「幸吉の店の手伝いさ」
「それはアルバイトっていうんじゃない」
「ドイツ語ではそうともいうかな」
「屁理屈ともいうんじゃない?」
燐次はもう一度、腹一杯にした煙を天井へ吹き上げた。今度はそれが、ずいぶ
ん昔に見た記憶のあるマッコウ鯨の潮吹きをおもわせた。
「何の保証もないからな。幸吉が死んでしまえば、それで終わりだ」
親父、音楽がとまってるよ。と燐次はカウンターへ首を向けてマスターにいっ
た。マスターはカウンターの奥で海老フライを揚げている最中だった。
「すまねえな、燐次。レコードを取り替えてくれないか。いま、手が離せない
んだ」
「たいそうな御馳走なんだろうね、たぶん」
「うるさい。フライってのは無心でかからないと危険だろうが。いやなら食う
な。もっとも手数料はきっちりいただくが」
マスターは燐次の目をにらみつけると、さっさと海老フライに戻った。フライ
の揚がる香ばしい匂いが美子の鼻をくすぐった。今朝あがったばかりの海老、
新鮮な玉子、小麦粉はブレンドで、油は何だろう。パン粉はたぶん、駅前のス
ーパーのもの。油は…。→
183 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/13 07:53
美子がそんなことを考えているうちに、カウンターでは燐次が棚にずらり並ん
だレコードをあれこれと物色していた。しばらくして油の音がかわったような
気がした。同時に、二十年代のジャズがいきなりスピーカーをふるわせた。
「どうだ?」
「なんだかウキウキしてきたわ。突然だけど」
「昼間はこんな感じでいいだろ」
「こら燐次、ここはパレードの会場じゃないんだからな。ふざけるのはよして
もらおう」
揚ったばかりの海老フライを皿に取り分けながら、マスターは苦い顔を見せた。
「いつも演歌ばかりじゃないか。せめて陽の高いうちはこういうのをがんがん
流してみてもいいだろ?」
「余計なお世話だ。お客はご近所の主婦がメインなんだ。美子ちゃんならわか
ってくれるはずだっての。いろいろ経験してきたんだ、目を見ればわかるさ。
なあ」
「え、ええ。マスターにはマスターのお考えがあるはずよ」
「そうなんだよ。さすがは都会で学んできただけの配慮があるよ。聡明だ。と
もかくだな、お客のおしゃべりの邪魔になっちゃいけないんだ」
「そんなことだから、ここの常連の話題には、だれそれができたの別れたのと
湿っぽいのがやたらに多いんだよ」
「お前、そんなこと知ってるのか? よっぽど暇なんだな」
マスターは適当に話をそらすと、燐次と美子のテーブルに海老フライ定食を並
べた。
いただきます、と美子はうれしそうにいい、にこにこしながら揚げ立てのフラ
イを頬張った。→
184 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 04:34
チリリン─、ドアが開いた。帽子をかぶった男がノッソリと入ってきた。三人
は同時にドアのほうを見た。
「やあ、美子。ひさしぶりだなあ」
幸吉だった。燐次がアルバイトをしている店の主人だ。彼は早くに亡くなった
父のあとを継いで竹細工の営業をやっていた。品物じたいは手先の器用な燐次
が、もっぱら担当するようになっていた。同級生の間柄は気安くもあったが、
主人と使用人という関係が出来上がっていくとともに、ただ言葉ばかりが空転
しているような時間が割込んできていた。葛藤といえばいえた。しかしそれが
かえって二人を大人にしていくのだという実感がかれらを支えてもいた。
「なんだなんだ、えらく景気のいい音楽がかかってるじゃないか」
幸吉は美子の隣にかけながら帽子をとった。
「かわってないなあ、やっぱり。都会に出ても、変にすれた感じが全然しない
な。きれいだよ、美子は」
「ありがとう。うれしいわ。あいかわらずやさしいのね。幸吉は」
それにくらべて、と露骨なまなざしで美子は燐次を見た。
「燐次ったら、腐った魚がどうとか、吐瀉物がどうだのって。会っていきなり
よ。それが話題なの」
「はあ? お前ら、そんな話をしてたのか? いったい何のことだ」ざっくば
らんで気さくな幸吉はマスターを見て、いつもの、という仕草をした。マスタ
ーは珈琲カップをひとつ、棚から取り出した。燐次がくちをひらいた。
「何でもない。お前にはわからない次元の話だ」
燐次は紫煙をふかしながら答えた。どこかふてぶてしいものを、美子は感じと
った。さっきまでのマッコウ鯨の潮吹きと似てはいるが、似ているというだけ
のことで、わずかであってもちがうものはちがう。美子はそれを、香の店で何
度か味わったことがあった。だがそのときはあくまでも店員としてのことだ。
「ははあ、わかったぞ。学問だな。それならおれには関係ないよ。燐次の専門
だ。ところで美子、燐次から聞いてくれてるとはおもうけど」→
185 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 04:35
「もちろんよ。なんだかわるい気がしてくるくらい。パーティだなんて、本当
に」
「あたりまえさ。三年ぶりだ、三年ぶり」
「楽しみにしているわ。法子たちも来てくれるんだとか」
「法子に夏美、俊一も来るよ。なにせ、やりての美子のご帰還だからな。土産
話もうんとあるだろうし。みな、楽しみだと言ってた」
「あんまり期待しないで。緊張しちゃうじゃない」
「そういわれると、ますます期待してしまうのが人間の性というもんだ」
「お前の性だろうが」
燐次が唐突に話の腰を折った。だが悪意はまったく感じられない。これくらいの会
話なら、いつものことなんだろうと美子はすこしほっとした。でも、と美子は
思う。この会話はいまのところ、いわばたわいのない素人漫才のようなものだ。
しかしこれがつづくとどうなるんだろう。二人の男のあいだに、どんな色の時
間が流れはじめるんだろう。美子はそのつづきを、彼等の知らないどこかから
のぞいてみたいような気にふと、とらわれた。
幸吉は出された珈琲をぐっとひといきに喉に流し込んだ。
「これから買い出しに行ってくるよ」
そういうと、さっき脱いだばかりの帽子をつかんで立ち、ずかずかと店を出て
いった。幸吉のきっぷのいい背中を見送りながら、美子はドアのベルを聞いた。
チリリン─。幸吉が残したベルの音は、どこかなつかしい風鈴の音を思わせた。→
186 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 06:19
「彼ってぜんぜんかわってないわね。いつ会ってもとても元気そう」
「あかるいだけが取り柄だ」
「いいじゃない。あなたとは正反対だわ。あたし好きよ」
「おれがか?」
「馬鹿。幸吉よ。こちらの心を楽しませてくれるわ。楽しいもの」
「おれも楽しくさせてやったじゃないか。なんともいえないいいリズムだ」
「レコードじゃないの。楽しいのは」
「人の気分をスムーズに変えてやれるような音を選ぶのも才能の一つだ」
「自画自賛ね。あきれちゃうわ」
「あきれついでにひとつ、話しておいてやろう」
カチッ。カウンターの中でちいさな音がした。
「なに、たいしたことじゃないさ」燐次は平然とつづけた。
「なんなの?」
「おれは結婚することになったよ。この九月だ」
燐次は煙草を灰皿に押し付けると、ようやく箸を割り、海老フライをつつきだ
した。美子はふいに黙り込んだ。そうして燐次の箸の動きをみつめた。レコー
ドは終っていた。マスターはあわてたように別のレコードを引っ張りだすと、
これまたあわてて針をおとした。ターンテーブルが息を吹き返した。歌ものだ
った。五十年代の女の声がスピーカーからとろりとこぼれてきた。何か訴えか
けた気なけだるさを帯びていた。どこの国の言葉だろう。燐次の知らない言語
だった。ジャズに南米の民族音楽をふりかけて日本の田植え歌をかけ合わせた
ような珍妙なメロディだ。燐次はマスターの気転に先をこされた。すでに美子
は笑いをこらえていた。空気がかわった。
仕方がない。しかし、言っておいたほうがよいのだ。マスターにはわるいが、
と燐次は思いきって口調をきりかえることにした。→
187 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 06:20
「勝手に町を出ていった女のことなど、もう忘れた」
「とつぜん何をいいだすのよ。うそでしょ?」
「嘘は疲れる。嘘を付く理由もない。おれは捨てられたわけだ。捨てられた男
がどこでだれと何をしようが、美子が気にすることではないはずだが」
「捨てたなんて。捨ててなんていないわ。それよりそんな言い方、よしてよ」
「捨てられた本人がそういってるんだから、たぶん確かだ。お前はおれを捨て
た。おれはお前に捨てられた。お前は立派な女になってかえって来た。そして
おれは、お前以外のほかの女と結婚する。なんてわかりやすい論理だ。気持ち
が晴ればれとしてこないか?」
「おい、燐次!」
何もこんなところで、しかもそんな言い方はないだろう。マスターがカウンタ
ーをのりこえて二人のあいだに割って入った。
「わるいがね、親父、いやマスター。あんたも知ってるとおり、おれは紳士で
もなければ、ましてや淑女でもない。ただのお客だ。だからというわけではな
いが、気取りすまして不必要なほどの寛大さで女を許すことなんて出来るわけ
ないだろう。やさしく話しかけてやることは出来てもね。見てのとおりさ」
「そんな言い方はないとおもうわ。マスターに対しても失礼よ。いくら」
「あってはいけないのか」
「それにあたし、これからはずっとこの町にいるつもりよ」
「気のすむまでいればいいじゃないか。手後れって知ってるか」
「早い遅いの問題じゃないとおもうけれど」
「心配せずとも、美子にはさっきの幸吉がいるじゃないか。あいつはほんとに
いい男だよ。おれが保証する」
「そんな問題でもないはずだわ」
美子はおもわずくちびるをかんだ。何がどうなっているのか、自分でもわから
なくなってきていた。→
188 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 08:23
「美子。よく聞いてくれ。幸吉はずっと前からお前さんのことが好きだったん
だよ。知ってたはずだ。よくわかってたはずだ。いまでもあいつの枕カバーに
はでっかい字で美子と書いてあってな、しばしば涎でべちゃべちゃになってる
んだ。まあ、どこにでもあるような話なんだが。部屋の壁にはこれまたでっか
い写真が巨大な額に収められて飾ってある。金縁の額にな。それをあいつは、
ご丁寧にも毎朝ぴかぴかになるまで磨き上げて、そうして仕事に出るんだ。お
れはそんな幸吉の変人ぶりを黙って眺めてるだけなんだ。寝惚けまなこでな。
なんだかおかしな光景だとはおもわないか? おれの目にはなんだかね、お前
さんが世界の真ん中でただただ突っ立ってるだけの宿命を負わされた女に見え
るんだな。そのまわりを幸吉やなんかがぐるぐるまわってるんだ。ぐるぐるま
わってるうちに、幸吉はいつのまにか人間ではなくなっていきそうな感じがす
るんだな。ともかくあいつはお前さんのわがままに何ひとつ言わず、ひたすら
待っていた。お前さんも、これからこの町で生きていくというのなら、相手は
あの男だけだ。幸吉だけだ。おれは切実にそう思うよ。他に男はいるけれども、
お前さんの相棒にはなれないよ。どう思う?」→
189 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 08:25
燐次はみそ汁を音を立てて飲み込むと、ごちそうさん、と空の皿に向かってい
った。「そうして、もし美子が幸吉と一緒になれば」
美子はじっと耳を澄ませて聞いている。
「美子は店主の奥さん、店主夫人ということになる。おれはただ単なる使用人
だ。幸吉は営業で走りまわっている。いそがしい身だ。おれは一日中、仕事部
屋にいるか、大学院から山ほどもある本を持って帰ってきては、そこらへんに
横になって読んだり書いたりしてるだけだ。わかるかい? この意味が」
「おい、燐次!」
「そんな大声ださなくったって、ちゃんと聞こえてますよって」
「おれの店でそれ以上の態度は許さねえ」
「真っ昼間から誰とできたとか実はどうのとか、ああいう連中はいいのかい」
「な、なんだとお」
「美子、わかったか。たしかに今の美子には香にふさわしい雰囲気が漂ってい
るよ。いや漂うどころか、しっかり血肉と化してる。お世辞抜きに綺麗だと思
う。なんだかこっちの頭がくらみそうなくらいだ。でもな、三年程とはいえ、
それだけ離れていた女だ。香の匂いもいいけれど、男の匂いも相当なものだ。
おれにはそれが、よくわかる気がするよ。これがたとえ逆の立場だったとした
ら、どうだ。聡明なお前さんのことだ。おれのことを許せたとおもうか」
そういいきると、燐次は勘定を置き、席を立った。美子はあっけにとられて燐
次の顔を見上げた。こんなふうな直撃だったとは、美子自身にも予想できてい
なかった。ともかく何か言わなければ、と彼女はわれにかえった。くちをつい
て出てきたのは、あまりにも惨めな、ありふれた言葉ばかりだった。
「あたしをおいていくの」
「おいていったのはお前さんだよ」→
190 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 10:16
「どうしてひとこと、相談してくれなかったの? それが筋じゃないの?」
「筋? なにをいまさら、と言うことも出来る。笑わせるな、と言うことも」
「相手は誰なの?」
「今夜、パーティで会えるはずだ」
「ええ!? あたしたちの仲間のひとりなの?」
「そういうことらしいな」
「ね、いったい誰よ!?」
燐次はそれ以上なにも言わなかった。
彼はドアの方へ歩いていった。もう音楽はやんでいた。彼はドアノブに手をか
けた。
「今夜、また」
燐次は表に出た。通りには風に乗って海が香っていた。午後の強い光が照らし
つけている坂道を、燐次は山の手の方へとのぼっていった。
「なんて奴だ! 美子ちゃん、気にするな。ああいう物言いしか出来ない奴だ
とは、思わなかったよ。見そこなった」
マスターはこめかみに怒気を脈打たせて燐次の皿を下げると、それを乱暴に洗
い出した。
坂道をのぼっていく燐次の背中を、美子は放心したまま沈黙で見送っていた。
その日の午後は過ぎていくのが長かった。本当はもっと短いのかもしれなかっ
たけれど、そわそわと落着かない美子には、時間がそれこそ鉄アレイでも引き
ずらされている虚しい拷問と何らかわるところがなかった。時計の秒針がまる
で、檻を揺れて打たれる梵鐘それじたいに見えた。→
191 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/14 10:17
燐次の相手とは誰なんだろう。
法子だろうか、それとも夏美だろうか。もしかしたら昼間に幸吉がくちにした
以外の誰かかもしれない。彼女は昔の仲間達の顔を次々と思い出してみては、
あれかこれかと燐次のそれと重ね合わせてみた。そのうち、疲れがきた。
美子の部屋はまだ明るいはずなのに、明るさを押し返し、ぶ厚い衣で行く先を
霞がけてしまう脳髄の渦にずるずると嵌まり込みかけてしまっていた。
そうしてついに、疲れの限界が訪れたころ、彼女の中で、彼女の足元で、鉄の
鎖がいつのまにか消えているのに気付いた。
なんて阿呆らしいことなの。気付いたこととは、自分自身の性格についてだっ
た。めちゃめちゃ損な性格だわ。
部屋はもとの部屋に戻っていた。そろそろ出かける仕度にかかる時間だと、時
計が静かに告げている。美子は海の見える町へ帰ってきて、ようやく、あとか
ら遅れて帰ってきた自分と一つになれたと感じた。
もっと楽しめばいいんだわ。
─了─
192 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/18 10:46
「よこがお」
この夏、知子は市内にある広告会社をやめた。短大を出てすぐに勤めた会社で、
彼女はそこで三年間、広告文案の仕事をしていた。
無職に戻ったとはいえ、とたんに暇になりはしなかった。八、九、十月と三か
月のあいだ、知子はほとんど家におり、母にかわって掃除や洗濯、食事の用意
といった家事労働にせいを出した。家のことはだいたい午前中にすませてしま
い、昼の時間は、むかし習っていたクラシックギターを玩具がわりにつまびい
た。ときには市内の繁華街まで出かけて書店をのぞいたり洋服の買物を楽しん
だりした。
知子は、ゴミの日の朝はいつもより早くに目を醒ました。そして家中のゴミを
手早くひとつにまとめて指定の場所に放りにいく。ときどきノラ犬と目が合う
ことがあったが、ノラの目の奥に、自分のいまの境遇を見ることはわかりきっ
ているかのような気がしてさっさと台所に戻り、よく手を洗うと、家族の朝食
の仕度にかかった。知子の母はこれまで、ゴミ出しの朝が苦痛で仕方がないと
いつも愚痴っていたし、おまけに朝寝坊だった。結果的に二回分のゴミを貯め
込んで異臭を放っていることさえままあった。一度などは、前日の夜中にこっ
そりと出しに行ったのをご近所の口やかましい奥さんに現場をおさえられ、こ
っぴどく叱られたことがあった。→
193 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/18 10:47
知子が母のかわりをやるようになってから、母は面倒な朝の不機嫌から解かれ
ることになり、娘のことをやたらにほめるようになった。多少わざとらしいほ
めかただったが、知子はなかばしらけつつもけして悪い気はしなかった。とき
どき涎を漫然と垂らしたまま無防備そのものの寝顔で枕を抱いている母をみる
と、知子はまだ幼い子供でも見てやっているかのような微笑ましい気持ちにな
るのだった。
十一月になった。いつものように台所で朝食の後片付けをしていると、居間か
ら母の声が聞こえてきた。
「ねえ、知子。洗物をすませて一服したら、わるいけど魚庄さんで鰤をみてき
てくれないかい?」
「いいけど、何で?」
「今晩のおかずにするのよ」
居間のテレビではちょうど料理番組が終るところだった。
「ちゃんとさばいてきてもらってね」
「わかったわ」
知子は手っとり早く片付けを終えると、番茶を一杯だけのんだ。そして普段着
のまま玄関を出た。見上げると、雲ひとつない晴天だった。→
194 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 01:01
魚庄は、住宅地を私鉄駅へと抜ける一本道の途中にあった。知子が勤めていた
ときは駅まであっさりと自転車で飛ばしていた。勤めをやめた今はそんな必要
もない。彼女は歩くことにした。
空色のジーンズに白のトレーナー。いたってシンプルな組み合わせだった。い
つも同じものを着ているようにも見えるので、同姓の知人達にはセンスがない
かのようにいうものも中にはいた。じつはカーディガンだったりブラウスだっ
たり、色にせよ、象牙、乳白、スカイグレーだったりしたのだが、おおざっぱ
な連中にはそんなことは目に入らないだろうし、説明などしてやる必要もない
のでほうっておいた。ただわかる者はそれとなく理解を仕草などで示してくれ
たし、なにより、めざといのは異性の中にいる幾つかの目だった。とはいえ、
こちらから何らかのアピールはしていないつもりだった。それは見る側の取り
ようだと考えていた。
整然と区画された道を何度か折れ、駅への一本道にさしかかる家の庭から山茶
花が桃色の花を開いて彼女の方を見ていた。→
195 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 01:02
もうしばらく行くと魚庄がある。親子三人で切り回している魚屋で、仕入れは親父
が、店頭で景気よく売りさばくのは女房が、注文を受けた品を包丁でおろすの
が、一人息子の龍一の役目だった。
他の客にまじって知子が姿を見せると、龍一の母はすばやく知子を見つけて声
をかけた。
「いらっしゃい、ともちゃん! いつも元気そうだね。今日は鯛かい? 平目
かい? 槍烏賊の刺身なんてどうだい!?」
「こんにちは。おばさんの方こそいつもお元気そうで何よりだわ」
「あたしゃそれだけが取り柄だからね」
と言いながら奥の居間へと目をやった。居間の方では既に煙草を吹かしている
親父があぐらをかいてテレビを見ている。おれの仕事はおわったとでもいいた
げな背中だ。
「鰤をいただくわ。これにしようかな。三枚におろしてもらえます?」
「はいよ、鰤ね! 鰤だって、おい龍一! さばいておくれ」
包丁をつかっていた龍一がこちらを向いた。
「なんだ、知子か」
「なんだはないでしょ」
「鰤でいいのかい? アンコウなんかもあるぜ」
「鰤でいいの。これ、お願いします」
知子の指先に、青みがかって陽の光をなめらかに帯びた鰤がじっと横になって
待っている。→
196 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 03:16
龍一は、知子とは中学時代の同級生だった。そのころ、ふたりはそれほど親し
いわけでもなかったが、家が近いことと互いの子供が同い年であること、その
他もろもろのなんやかんやで、龍一の母と知子の母とは馬が合い、連れ立って
カラオケに出かけたりもしていた。そのために龍一と知子とはあまり話などし
ないにもかかわらず、互いの家の内状に精通してしまっていた。いまでも道で
ばったり出会ったりすると、何だかとてつもなく恥ずかしい思いをさせられな
がらではあるが、他の友人達とは別の意味で、気やすく相談事なども話し合え
る相手だった。
魚をさばく龍一の手つきは見事だった。
あっという間もなく三枚になった鰤をナイロンの袋にいれてもらい、知子は勘
定を払った。
ありがとう、と言ってナイロン袋を受け取るとき、彼女は店の中にひっこんだ
龍一を見た。彼はこちらに横顔をみせて、あなごの骨を熱心に抜いている最中
だった。知子はそれを見ながら、相変わらず堅い表情だなと思った。気やすく
話せる相手だったけれど、いつもそれだけで終ってしまうことのある相手でも
あった。しゃべっているときは気さくで、互いのこともよく知ってはいるのに
なぜか、ここからは踏み込んではこないという、目には見えない線を自分で引
いてしまい、いったんそれが横顔にあらわれると、もうとりつくしまもない感
じを与えていた。
もしかしたら母親どおしがいらぬことをぺちゃくちゃとしゃべり合ったのかも
しれなかった。もしそうだったのなら、それはそれで龍一のくちからはっきり
言ってくれればよいことだった。ところが彼はいつもおかしな冗談口を叩いて
はごまかしているばかりで、知子が気にとめておきたいと思うことには触れて
こようともせずにいた。ただ単に不器用なだけなのだということにまでは想い
いたらないのが、知子の死角だった。あまりにも近過ぎて自分から死角を作って
しまっていたのだろうか。→
197 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/19 03:18
魚をさばく手つきはあんなにも鮮やかなのに─。
知子は龍一の母ににっこり挨拶を残して、魚庄を出た。彼女が空けたところに
はすぐ別の客がぐいっと身を入れてきて、店先は人でいっぱいになった。魚屋
は朝から繁盛していた。
知子が離れていくとき、龍一は手を休めて知子の背中を目で追っていた。龍一
をそばで見ると、見ようによっては穴のあくほど見つめているようにも思える。
スリムの青と、ぴったりウエストのところで絞りのきいたふっくらしたトレー
ナーの白とが、龍一から仕事を忘れさせている。
「こら、龍一! 何をよそ見してんだい!」
母が、ぼけっとして女の後姿を追っている愚息を一喝した。龍一はどきりとし
た。なぜなら母は客の相手をしている。こちらには完全に背中を向けているは
ずだったからだ。わが母ながら、鋭い。うしろにも目が付いてるんだな。切っ
ても切りようのない目というものかな。
「お前のようなぼんくらには─」母はそこで、いったん言葉を止めた。
「さっさと仕事しな、仕事だよ。さあ!」
龍一は憮然としつつ、ふたたび、あなごの骨抜きにかかり直した。
客の誰かが鰤をくれと言った。もう一人の客も鰤だった。なんでだろう。龍一
の母は奥の居間で煙草を吹かしている亭主の方を見た。しばらくして彼女はこ
の現象がテレビのせいだということに思い当った。と同時に、知子の母のこと
がかすかに脳裏をよぎった。→
198 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 12:04
雲ひとつない空は午後もかわらなかった。
仕立上がった服を受け取りに市内の百貨店に出るという母を玄関で見送ると、
知子は自分の部屋に戻り、クラシックギターを手にとった。
ここ数日、手にしていない。いちど固まりかけていた左手の指先が、ふたたび
やわらかく戻りはじめていた。もとに戻った指先でベースラインを押さえてい
くのは、じつに骨の折れる作業だった。ガット弦ではなくフォークギター用の
ものを張っていた。指にはこたえる。だがそのぶん、本番でガットに張り替え
たときのなめらかさは、まるでふるさとにかえってきたかのような安堵を与え
てくれるのだった。
じわじわと人指し指から痛みがつたわってきた。
ずぶとい弦に指をすべらせてぐっと押さえ込むとき、知子は泣き出しそうにな
る。情けない気もするが、いちどもとのやわらかさにまでほうっておくとこう
いうことになる。それでも一時間は我慢していた。
薬指の先がふやけて押さえる力が限界にきたとき、彼女はさっぱりしない表情
でギターを壁に立てかけた。そしてベッドに横になった。知子は窓を通して、
雲ひとつない青い空を見上げた。窓の外では、抜けるような十一月の凛気が、
どこまでもつづいていた。
それから二日が過ぎた日の夜、知子のもとに一人の女の訃報がとどいた。
その日は二日前とはうってかわって、空は朝からはっきりしない煙雨だった。
夕刻を過ぎても止みそうな気配を見せなかった。→
199 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 12:05
知子のもとに連絡をくれたのは魚庄の一人息子である龍一だった。死んだのは
かれらの中学時代の同級生の雪江という女だった。
「交通事故らしい」
龍一の声は沈んでいた。男とドライブに出かけた帰りだったようだと説明して
くれた。男は即死、雪江は二日間生死の境をさまよったすえ、三日目の朝早く
に息をひきとったと、龍一は言った。
「それが今朝のことだ。今晩が通夜で、あすの午前十時から葬儀の予定だと聞
いてる」
知子は受話器を手に、亡くなった雪江というかつての同級生のことを思い返し
ていた。
雪江は小柄でおとなしい、切れ長の目が印象的な娘だった。元気がないという
ような感じではないが、どこか独特の風情をもっていて、あまりはしゃいだり
しない、落着いた雰囲気を漂わせていた。知子はギター教室で何度か顔を合わ
せたことがある。当時は知子のほうが上級のクラスで、雪江はまだ初級の教則
本を手にしていた。一年半ほどそこにいて、ある程度弾けるようになってきた
ところで知子は教室をやめてしまった。けれども雪江はつづけていた。中学を
出てから雪江に会うことはなかったが、うわさでは、それからもずっと熱心に
教室にかよっているということは、知子も耳にしていた。
雪江は死の前日、もしかしてギターを弾いていただろうか。たぶん弾いていた
にちがいない。車にも積んでいったのだろう。知子はクラシックギターをつま
びく、きゃしゃで切れ長の目をした二十三歳の女の陽炎を想像した。→
200 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 13:52
「明日のあさ九時半に駅前で待ち合わせよう。法子や貴男ともその時間に落ち
合うことになってる」
「わかったわ」
受話器を置くと、知子の耳に外の雨の音がきこえてきた。
部屋に戻った知子の目に、壁に立てかけたままのギターが映った。彼女はしば
らく、立ったままそれを見つめていた。雨の音は強くもなり、また弱くもなっ
た。そのうちそのなかに、雪江のつまびくギターの音色がかさなってくるよう
な気がした。
知子は自分のギターを手にとった。しかし、二日前の練習のおかげで指先が腫
れており、弦を押さえるとそれこそ飛び上がるほどの痛みが走り、とても弾け
たものではなかった。仕方なく彼女は手にしたギターをさっさと壁に戻した。
ギターはふたたび、ただ単なる壁飾りへとおさまった。
知子はタンスを開け、あした着ていくための喪服の手触りをたしかめた。
雨はやまず、夜どおし降りつづいていた。雨があがったのは、翌日の朝、知子
が出かける直前になってだった。屋外にはまだ湿り気が残っている。帰りには
冷えてきそうな空の色だった。
知子は鏡台の前に腰かけ、渋めの化粧をほどこした。そのぶん薄紅にはやや紫
がかったものを自分にしかわからないくらいにほんのりとつかった。眉のライ
ンを慎重に引く。こころもち細く引いた。
すると知子の目に、急に雪江のあの切れ長の目が浮かんできた。知子はすこし、
ひやりとした。
そうして濃紺のセカンドバッグをとって家を出た。住宅地には午前の光が残り
の露を照らしてきらきらとまぶしかった。山茶花の花びらは一晩じゅう雨に打
たれたあと、まだ乾ききらずにこちらをむいていた。→
201 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/03/22 13:53
知子は駅で待っているはずの龍一のことを考えた。龍一は今日も例の堅い横顔
を見せて幹事に徹するつもりなのだろうか。路面を行く人の影いがい、青空の
下で一つに重ね合わせることが出来るのは、喪服をおいてほかにないというの
に。
そうおもうと自分の不謹慎ぶりばかりが際立ってくるようでもあった。とはい
え、そうした不謹慎を呼び込んだのは、まぎれもなく雪江の死だ。彼女の、透
明すぎた生き方とその死なのだ。誠実さが喪の色を介して知子の体をつきうご
かしていることは、もはや否定のしようもなかった。
雨あがりの十一月の空を見上げながら、知子はおもった。
いちどギターの話でももちかけてみようかしら。もういちど、やりなおしてみ
たいんだけどって。あの、ぶっきらぼうな横顔にむかって。通じなければ、あ
きらめるだけだわ。そうでないと、これから会いに行く、白と黒との陰翳をた
たえているはずの雪江の遺影に、合わせる顔がなくなってしまう。
ほんとうに、魚をさばくのはとっても上手なのだけれど…。
まだ濡れている歩道に、昨夜散った木の葉が、ぺたりとはりついて動かなかっ
た。
─了─
202 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:26
「土曜の午後」
法子は駅の北口に降り立ち、広場を見て呆然とした。
そこには友人の名未子が同級生の幸吉と一緒にベンチに腰掛け、仲よさそうに
話していた。法子はすこしむっとした。そして噴水のほうへ目をそらせた。
すると噴水をかこむ煉瓦のブロックに、女子ハンドボール部の由美が、男子ハ
ンドボール部の次郎とともに肩を並べてハンバーガーをかじっていた。二人は
それぞれの部のキャプテンをつとめている。笑いがおこるたびに互いの口から
バーガーの粉がぶはっと飛び散った。かれらは周囲のことになどてんで無頓着
で、自分たちだけの午後を楽しみ、はしゃいでいるように見えた。
だからうちのハンドはいつも負けてばかりいるのだ、と法子は憮然と考えた。
さらに法子は駅前の喫茶店のウインドをのぞいてみた。セピア色がかったウイ
ンド越しにうつったのは、世界史のクラスで彼女の右に席を並べている男子生
徒と、彼女の左に席のある女子生徒だった。二人はテーブルをはさんで一つの
グラスでつながっていた。斜めに折れた二本のストローから黒い液体が交互に
吸い上げられている。
知らなかったわ。あたしは邪魔者だったのね。
─ここは通れない。
法子はみんなに見つからないうちにと、降りてきた階段をふたたび引き返した。
こめかみには彼女自身には見えない青筋が、いくつか浮き出て脈打っていた。→
203 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:27
法子は駅の構内を横切って、南口へと出た。こちらの出入口には広場はなかっ
たが、すぐ前に本屋があり、その店先ではたいてい数人の高校生が週刊誌をと
っかえひっかえしながら、なにやらこそこそとたむろしていた。いつものそん
な光景を横目に通り過ぎようとしたとき、法子は店内に生徒会長の正義が雑誌
をめくっているのが見えた。そこで足をとめたとき、彼女のうしろから、彼女
をはねとばさんばかりの勢いで階段を駆け降りてきた女がいた。副会長の美子
だった。美子は正義を見つけると、泥棒猫のような身のこなしで正義にかけよ
った。
「待った?」
「いや、ぼくもいま来たところさ」
「そう、よかった。お昼はどうしようか」
「今日は河原の公園に行かないかい。すこし歩くけれど、いい店を見つけたん
だ」
「ほんとうに!? ぜひそうしましょう。生徒会長じきじきの、おすすめの、新
しいお店なのね。光栄ですわ」
かれらは目と目で互いに間合いをあわせると、さっさと書店をあとにした。
これだから、うちの生徒会というのはがたがたなのよ。なにもかも一部の指導
教師のいいなりの、ただ単なるいい子ちゃんで。そのうえ二人して同じ国立を
狙おうなどと、このあたしをさしおいて、こざかしいわ。ああいうのが将来の
犯罪者になるのよ。でなければ政治家か。いずれにしてもちがうのは名前だけ
なんだわ。
ぜんぜん面白くない、という憮然たる冷めた目で法子は歩きだした。
曲り角で、もういちど、法子は立ち止まった。絵画部の理沙をはじめ、茶道部
の梨花や蘭、そうしてそれらをとりまく男子らが団体で待ち合わせている。法
子はげっと思った。かれらはどこかへ出かけるつもりなのか。そんな予定は聞
いていない。とすれば、なんとなく惰性できまっただけの合コンなのだろう。
絵画部の理沙がこちらをふりかえった。法子はおもわず、物かげにかくれた。
なぜかくれなければならないのか。法子は自分に腹が立った。→
204 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:29
「いま、見なかった?」
「何を」
「たしか、法子だったような」
「ほんとか? 誰もいないぞ」
「人ちがいかしら」
「錯覚だろ。理沙の描く絵みたいな」
「なんですって」
「まあ、法子ならもっと目立つはずさ。あいつには妙な存在感があるから」
「そうね。でも、やっぱり法子だったような」
「だから人ちがいだって。あいつはおれたちのことなんて、相手にしてないよ」
「そうかなあ。相手にされてないんでしょう、おれたちではなくて、あなたが」
「な、なんだとお」
「さっき、おかしなこと言わなかった?」
それきりかれらは法子のことはくちにしなかった。そしてすぐ、どこかへ繰り
出す相談に戻った。くちぐちに言いたいことを言いたいままに、わいわい騒い
で、その場を占拠していた。
─ここも通れない。
法子はくちびるを噛んだ。ほんのり紅潮した頬をひくひくとひきつらせつつ、
もういちど、階段まで引き返し、とうとう改札口の前まで戻ってきてしまった。
われながら馬鹿なことをやっているな、とは思う。こんなことを気にしている
時間がどれほど無駄なことなのかということも、よくわかっているつもりだ。
なのに、どうして自分はいま、ここで、さも人待ち顔をしなければいけないの
だろう。法子は、今日に限ってどうかしている、と自分で自分を呪った。
改札口からは様々な人間が吐き出されてきていた。
だれもが法子の立ち姿を見てはいるはずだった。すくなくとも、法子は改札を
出るとき、その先に立っている何人かの人物を常に品定めしている。だからこ
そ可能な話題で校内は満ちているのではなかったか。法子はそんな世間にどこ
となく怒りとも悲しみともつかないものを見ることがあった。とはいっても、
それがいったいなんなのか、彼女は考えることはあっても、いっぽうで、そう
したことが面倒でもあり、また考えてわかるようなことではないだろうとおも
っていた。→
205 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:30
しばらくすると、黒の詰襟を着たひときわ背の高い高校生が、何くわぬ顔で改
札を通って出てきた。法子は、あっとおもった。それは彼女の幼馴染みで、彼
女の家の近くに住んでいる道信だった。法子が声をかけると、道信は一瞬だれ
だというような顔で周囲をきょろきょろと見まわした。
「道信じゃないの。偶然ね」
法子は彼を見てにっこりとほほえみかけた。
「何しているんだ、こんなところで」
いぶかしげな表情で道信は法子を見た。
「だれか待ってるのか?」
「いいえ、すこしぼうっとしていただけ。疲れてるのかな」
「いつもとあんまりかわらんようだけどな」
「そうかしら。気のせいね、たぶん。これから帰り?」
「見ればわかるだろう。法子はどこかへ出かけるのかい?」
「ううん。別に。よかったら一緒に帰らない?」
「そうだな。かまないよ。近所だしな」
かれらは連れ立って北口の階段を降りた。広場は土曜の午後の日差しが、うら
らかな光をやわらかにちりばめ、あちこちをきらきらと照らしあげていた。陽
と影との輪郭の鮮明さがひときわ目にしみた。→
206 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:32
広場にはさっきからの二人組がまだ幾つか残っていた。法子は広場の真ん中を
できるかぎりゆっくり歩こうと思い、歩道を先に立ってさっさと横切ろうとし
ている道信のそでをぐいぐいと引っ張った。
「なにをするんだよ」
「あわてなくてもいいじゃない、土曜日なんだから。時間は充分にあるはずよ。
ゆっくり歩きましょう、ゆっくりとね」
法子は喫茶店のウインドの前を通り過ぎるとき、ちらっと中を見た。世界史の
クラスの二人がまだいるのを確かめると、道信の腕をぐっとつかんでウインド
の方へ振り向かせ、わけもなく大きな声で笑ってみせた。
道信はいぶかしげに法子をみた。
「どうしたんだ、急に。お前、ちょっとおかしいぞ」
「あら、どうして? とっても素敵じゃない?」
「何を言ってるんだ。お前、だいぶんおかしいな」
「そうかしら。だって土曜のお昼なんだもの。なんだかうきうきしてきちゃっ
て」
「そういえば」広場でいちゃついていたあの連中は、と道信はようやく気付い
た。電車の中でたまに見かける、法子と同じ高校の男女らだ。→
207 :
白鑞金 ◆XQOqpD8gDY :04/04/01 15:33
「どこかで見かけたやつらだと思ったら、法子のところの生徒じゃないのか?」
「そうだったかしら? あたし、ぜんぜん気付かなかったけど」
「ははあ、そういうわけだったか」
「何をにやにやしているのよ」
「とぼけなくてもいいさ。じつに手のこんだ芝居だ」
「なんのこと? ぜんぜんわからないわ」
「いや、よくわかるよ。そうやって全力でとぼければとぼけるほど」
「いやらしいわらいはやめてよね。不潔に思われちゃうじゃないの」
大通りを折れたところで、法子は道信を喫茶店にさそった。
「珈琲だけなら」
「お昼はどうしたの?」
「学校前の蕎麦屋でくってきた」
二人はビルの階段を上って、窓から通りが見渡せる二階の店に入った。
昼時で店内は混んでいた。が、窓際のテーブルの客が四人、食事を終えてこれ
から立とうかどうしようかと迷っている様子だった。法子はそちらにむけて、
あからさまな咳払いをひとつしてみせた。
「おいおい、そんな真似はよせ」
「あなたがもうすこし、びしっとしていればね」
テーブルが空いた。二人はその席に腰をおろし、珈琲と海老ピラフ、サンドイ
ッチをたのんだ。しばらくして、注文の品が並んだ。道信もつまんでよ、と言
いながら法子はサンドイッチの皿をテーブルの真ん中へ動かした。→
208 :
名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:49
「どこかで見かけたやつらだと思ったら、法子のところの生徒じゃないのか?」
「そうだったかしら? あたし、ぜんぜん気付かなかったけど」
「ははあ、そういうわけだったか」
「何をにやにやしているのよ」
「とぼけなくてもいいさ。じつに手のこんだ芝居だ」
「なんのこと? ぜんぜんわからないわ」
「いや、よくわかるよ。そうやって全力でとぼければとぼけるほど」
「いやらしいわらいはやめてよね。不潔に思われちゃうじゃないの」
大通りを折れたところで、法子は道信を喫茶店にさそった。
「珈琲だけなら」
「お昼はどうしたの?」
「学校前の蕎麦屋でくってきた」
二人はビルの階段を上って、窓から通りが見渡せる二階の店に入った。
昼時で店内は混んでいた。が、窓際のテーブルの客が四人、食事を終えてこれ
から立とうかどうしようかと迷っている様子だった。法子はそちらにむけて、
あからさまな咳払いをひとつしてみせた。
209 :
名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:50
知子のもとに連絡をくれたのは魚庄の一人息子である龍一だった。死んだのは
かれらの中学時代の同級生の雪江という女だった。
「交通事故らしい」
龍一の声は沈んでいた。男とドライブに出かけた帰りだったようだと説明して
くれた。男は即死、雪江は二日間生死の境をさまよったすえ、三日目の朝早く
に息をひきとったと、龍一は言った。
「それが今朝のことだ。今晩が通夜で、あすの午前十時から葬儀の予定だと聞
いてる」
知子は受話器を手に、亡くなった雪江というかつての同級生のことを思い返し
ていた。
雪江は小柄でおとなしい、切れ長の目が印象的な娘だった。元気がないという
ような感じではないが、どこか独特の風情をもっていて、あまりはしゃいだり
しない、落着いた雰囲気を漂わせていた。知子はギター教室で何度か顔を合わ
せたことがある。当時は知子のほうが上級のクラスで、雪江はまだ初級の教則
本を手にしていた。一年半ほどそこにいて、ある程度弾けるようになってきた
ところで知子は教室をやめてしまった。けれども雪江はつづけていた。中学を
210 :
名無し物書き@推敲中?:04/04/01 15:52
「明日のあさ九時半に駅前で待ち合わせよう。法子や貴男ともその時間に落ち
合うことになってる」
「わかったわ」
受話器を置くと、知子の耳に外の雨の音がきこえてきた。
部屋に戻った知子の目に、壁に立てかけたままのギターが映った。彼女はしば
らく、立ったままそれを見つめていた。雨の音は強くもなり、また弱くもなっ
た。そのうちそのなかに、雪江のつまびくギターの音色がかさなってくるよう
な気がした。
知子は自分のギターを手にとった。しかし、二日前の練習のおかげで指先が腫
れており、弦を押さえるとそれこそ飛び上がるほどの痛みが走り、とても弾け
たものではなかった。仕方なく彼女は手にしたギターをさっさと壁に戻した。
ギターはふたたび、ただ単なる壁飾りへとおさまった。
知子はタンスを開け、あした着ていくための喪服の手触りをたしかめた。
雨はやまず、夜どおし降りつづいていた。雨があがったのは、翌日の朝、知子
が出かける直前になってだった。屋外にはまだ湿り気が残っている。帰りには
冷えてきそうな空の色だった。
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
211 :
名無し物書き@推敲中?:04/04/19 18:39
おまいら新潮文庫の「極短小説」って読んだ?
213 :
名無し物書き@推敲中?:04/05/16 21:22
保守しておきます
オレは主人公だ!
名前はヒミツだ!
カツヤクしたぜ!
だからオワリだ!
あなたの取って置きの話、ここでしか書けないオカルト話を書き込んで下さい。
このスレのためにこしらえたネタでも構いません。ただし、「ネタ」であるとばれない事が重要。
どの話がもっとも面白く、興味深かったかを最後に投票し、話を書きこんでくれた
人を称えましょう。良質なネタ職人を称えましょう。
話が書き込まれたら、お礼と感想や質問を。
どの話が書き込んだ者の作ったネタで、どの話がネタのつもりではなく書いたものか
当てる・見破れる人は、話の人気投票のときにそれを書いてください。
たくさん当てたら称えられるかも。
ネタ職人さんは、投票の結果発表のあと、カミングアウトしてください。
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/occult/1084781958/l50 オカルトな短編大募集!
216 :
名無し物書き@推敲中?:04/05/29 07:23
保守
217 :
名無し物書き@推敲中?:
ペンは剣よりも強し