506 :
吾輩は名無しである:2005/03/31(木) 01:34:43
8
>>504 私はぜんぜん気にならないけど(笑)
まあ、これだけ長くひとりでぐだぐだ書いてるスレッドも珍しいかもしれ
ないんで、何ヤツ? という疑問もあるのかな。
私のもっぱらは、本を読んで考えることですかね。大したことじゃないけど。
そこから滴り落ちた言葉のしずくの一部が、このスレッドに不細工なしみを
作った、それだけのことです。
>>505 批評するんですかw じゃ今から読みます。酷評OKとか言うとボコボコに
しちゃうぞ。ウソ
自由間接話法とは、フランス語のフランス語による表現形式であり、レトリック
である。言語体系の違う日本語で、その文体効果を再現させるのは難しい。
日本語は、インド・ヨーロッパ語族のように、人称が文の成分として切っても
切れない要素になっているわけではない。そもそも、文脈重視の室内言語である
日本語には、西洋語のいう主語は元々ないのだという学者さえいる。人称は、修飾語
とそう変わらない扱いを受け、付け外しが自由である。ために、語り手の位置が
しばしば不明瞭になりやすく、人称を伴わない主観的言説をゼロ人称や四人称
(こういう呼称は語弊があると思うが)と言ったりもする。自由間接話法はこれに
近いものだ。その意味で、自由間接話法的表現は、そのハイカラな名前に期待され
るほど、文体として特段目立つことはないと思われる。 それでも、うまく使えば
それなりの見栄はするので、その形を(フランス語のレクチャーなどできないので)
日本語に即して紹介しよう。
まず、自由間接話法以外の話法との違いを比べておきたい。直接話法と
間接話法の二つである。
「“これこそ私の最高傑作です”と彼は言った」
直接話法はおなじみの書き方だろう。地の文(語り)とセリフを分けて、誰が
それを言っているのかを判然とさせる。
原則、語り手は人物の発した言葉をそのまま再生しなければならない。日本語
は、くどさを避けるためもあって、往々に人称(ここでは私)を省いてしまうこと
が多い。西洋語ではなかなかそうはいかないので、人称を勝手に省くと直接話法で
はなくなってしまうのだが、そこは先に言ったように言語体系が違うので厳密に
考えなくてもよい。
「彼は、これこそ最高傑作だと言った」
間接話法は、人物のセリフを地に開くことではなく、又聞きしたことを話す
ようなものに近い。発話者の一人称が単純に省かれるのはもちろんだが、語り
手の人称と時と場所に、セリフを従属させ、ひとつの文に組み込んでしまうよう
な書き方である。
「“これこそ最高傑作だ”と彼は言った」 こう書いてもいいのだが、前後の
文脈がないのでこれでは直接話法との違いがわかりにくいだろう。日本語的には、
語り手の主語と述語の間に間接話法のセリフの部分を挟んだほうがそれらしい
構文になる。
この文体は口語から取り入れられたもので、もっとくだけた書き方をすれば、
「ねえねえ、部長ってズラなんだって、さっきそこで聞いちゃった」と、こうした
間接話法は日常会話によく使われているものである。
「これこそ最高傑作だ。作品にこめた彼の……」
これだけ見せられて、自由間接話法だと言われてもおそらくピンとこないだ
ろう。間接話法に増して、このレトリックにはここに掛かるテクストの形式と
文脈をまず要するのだ。(そこは『ボヴァリー夫人』の例を出して説明する)
間接話法と比してみれば、省略されている部分が何かすぐわかるだろう。
人称は当然として、「―と言った」という語り手の指向性が消されている。
単なる地の文となにが違うのかといえば、自由間接話法の言辞は、主観的な
思惑や感情の表明となっている点である。そして時制は現在形をとるが、と
りあえず主観的な言述になっていればいいので、疑問詞や断定の形でもかま
わない。
では、『ボヴァリー夫人』 の例を見てみよう。
『ボヴァリー夫人』 上巻83p
四年間も居を構えて 「やっと根を下ろしかかった」 頃にトストを見捨てるのは、
シャルルにとっては痛手であった。しかし必要とあらば仕方がない! 彼は妻を連
れてルアンの町へ行き旧師に会って診察を乞うた。それは神経のやまいであった。
転地させねばならない。
過去形文が、客観的リアリズムを支えるひとつの文体、ニュアンスであること
は前に述べた。それは、語り手を物語に介入させないための自覚的形式である。
『ボヴァリー夫人』のテクストは、ほとんどが過去形で占められている。
フローベールは 「文体だけが事物を見る絶対的な方法なのです」 と言うくらい、
文体にこだわった作家であった。彼は自由間接話法を使って、瞬間的に文章を流れを
滑らせ、語り手と人物の位置を曖昧なうちに同化させることに成功する。
「しかし必要とあらば仕方がない!」と言うのは、文脈からしてシャルルの心理と
読めるが、セリフは地に開いており、シャルルを指向させる語を語り手は示さない。
では、これは神の視点を持つ語り手の、つまりはロマン派的な作者=神の叫びなの
だろうか。いや、ロマン主義者はたぶん、こんな手の込んだやり方はしない。もっと
堂々と物語のなかで熱弁を振るうであろう。
『ボヴァリー夫人』 の語り手は、物語から一定の距離を保ち、その位置取りを決し
て崩さない。語り手は、現在形で自らを明々と照らし出してしまうようなヘマはしな
いのだ。じゃあ、これはやっぱりシャルルの……、という循環論に陥ってしまいそう
になる。
日本語でこれを読む者にとって、このレトリックの違和感はほとんどないのではなか
ろうか。どちらともとれる二声的な文体を、なにか特殊な表現をしているとは感じない
だろう。人称が付随的であることで、いわば自由直接間接話法とでもいうような文体上
の拡がりを、日本語は常に内在させているのである。
フローベールの手筋に学ぶなら、まずは文脈をしっかり作ること。そして
自由間接話法にあたる言辞を、作中人物の主観と重なる形で織り込むこと。
文はあまり長くないほうがいいだろう。連続使用はさらに控えなければなら
ない。現在形は、語り語られるものをいま・ここの場に指向させるニュアンス
を作り出すので、それが連続すればどうしてもあからさまな語り手の思弁に
なってしまう。三人称の神様が、臆面もなくべらべらと物語に闖入してくる
体裁とは、やはり技術として一線を引いておかなければなるまい。
語り手のささやかな声と人物の心理が、そこはかとなく一緒に響く、そんな
繊細さが欲しい。
例の最後の一文も自由間接話法ですね。なんとなくどういうものかわかりました?
三人称形式の小説だと、知らず知らずこういう文体になる可能性はあると思います。
語り手は人物の心理を代弁する以外、説教を垂れたり、感情的にわめいては
いけないという文体上の抑制をかけないと、自由間接話法のずれが活きない
ですからね。最初から、それこそ自由に書きたい、そんな煩わしい形式なんて
知らない、という小説ならこの技術は意味のないものだと思います。
これまでは、比較的スタンダードな小説の書き方を前提にしていましたが、
次はちょっとアバンギャルドなスタイルを取り上げてみようかと考えています。
では、またそのうちに。
今日初めてこのスレをハケーンし、少しずつ読んでますが泣きそうなくらい為になりますね。感謝感激です
自由間接話法というのは今ではあたりまえの手法だが、
ということは、
フローベール以前の作家、バルザックやスタンダールにはそういう手法は使われていなかった。
少なくとも一般的ではなかった、ということですね。
このスレは後で編集して永久保存。
真面目な話、本にして欲しい
>>517 そうですね、フローベール以前にも、自由間接話法を使う作家なり作品は
あったのですが、小説でこのレトリックを効果的に使ったのは、彼が最初だと
言われています。今では「自由間接話法」 は文法として理解されていますが、
文法は20世紀半ばから本格的に研究されだした新しい学問ですから、当時は
あくまで文体、語りの表現法のひとつという意識だったでしょう。
小説は直叙でなければならない。この理想の追求から、フローベールは自由
間接話法に新たな可能性を見出したのかもしれません。まあ、ここらへんの
むずかしい話は、フランス文学史とその書き言葉(エクリチュール)の変遷に
ついての知識(当然フランス語をマスターして)を要するので、私の限界をは
るかに突破します(笑)。もっと詳しく知りたい方は、自分でお勉強してね。
例えば、バルザックの 『ゴリオ爺さん』 の書き出しの一部を見ましょうか。
――とはいってもこのドラマが始まる1819年には、そこにひとりの気の毒な娘が寄宿
していた。悲壮文学のはやる今日このごろ、むやみやたらと誤用され酷使されたために、
ドラマという言葉がどんなにか信用を失ったとはいえ、ここではやはり、それを使わな
いわけにはゆかない。この物語が、言葉の真の意味で演劇的だからというのではない。
だがこの一巻の物語を読み終えたときには、《都の城壁の内でも外でも》 〔訳注 パリ
でも地方でも、の意〕、読者はいくばくかの涙を流すかもしれないのだ。
なんと自信満々でエラソーな語り手でしょう(笑)。これでは自由間接話法
なんて霞んで問題になりませんね。
バルザックは、1834年にこの作品を執筆し始めています。、この約二十年後に
『ボヴァーリー夫人』 が登場するわけです。ほぼ同時代と言ってよいでしょう。
フローベールの文体がいかに革新的であったか、近代リアリズム小説の旗頭とさ
れるのも当然かと思います。
>>518 少しでもなにか糧になるものがあったら、書き手として幸いです。
>>519 本になる程の内容じゃないですよw 巷には、私なんかより、もっとちゃんと
した知識理解を持って書かれた本がたくさんある、はずです。それに、只で読め
る、書ける。この気楽さがあったから、まあ、ここまでなんとか続いたのかもし
れません。
一応、主要な小説技術について書きたいことは書いたから、あとは各自応用
なり選別なりして自分の血肉としてください。もちろん、ここで解説したものが
技術のすべてではありませんし、技術以外にも、書くことの楽しさや苦しみに、
取り組んでいってもらえたらと思います。
本当に乙カレ様でした
525 :
吾輩は名無しである:2005/04/13(水) 12:39:33
y
526 :
吾輩は名無しである:2005/05/11(水) 11:40:10
7
三島由紀夫の 『永すぎた春』 を読んでみようか。
おもむろにこう切り出すと、見えざる磁力でこれはもう三島の伝説(人生)を
取りあげるのかしらという予感が、読者の心の一隅に湧き立つかもしれない。
三島のテクストは、彼の身体性と固く結びついているかのようにみえる。
だから、作品を通して三島の乳首を想像してみたくもなる。そのような魅力が
あるのを認めないわけにはいかないし、アノことについて考えると、人はつい
饒舌になってしまう。
しかして三島由紀夫はまたムクムクと再生産され、私たちの前によみがえる。
三島が構築したそういう目論見に、私は与したくない。と表明したら、ひとは
それを意気地なしと嘲笑い、または無能な気取り屋がよくとる態度だと卑怯者
扱い、されるだろうか。そんな政治的な気づかいをここでする必要はないのだ
けれど、愉快ならざることに当の私、どうやら意気地なんぞすっかりかかとが
潰れてしまっているし、無能めと言われれば、すみません。気取ってんなよと
聞こえれば、ハイ気をつけます。といった按配でどうもホメられる様子にない。
まあそんなことは、当たり前田の糞でもくらえであって、はなから居直っている
のである。
なにやら中身の薄さを糊塗する手並みをみすぼらしく実演しているみたいだが、
しかしこれも字数を稼ぐためのちょっぴりセコくて実用的なテクといえばテクで
はある。自己言及的冗長性。でれでれ書き流しても芸無しであるから、味付けに
こくのあるエスプリやまろやかなユーモア、スパイシーな諷刺などを少々加える
が吉。
で、なんの話をしていたのか(書いてる本人も)よく分からなくなるという
オマケつき。
…予告するだけなら、はじめの一行で足りてるわけでして、え、肝心の
解説はまた今度でございます。
『永すぎた春』、暇があったら読んでみてください。昨今流行の純愛もの
であります。
では、これにて失礼。
529 :
名無し物書き@推敲中?:2005/06/01(水) 18:39:46
「ウィスキー」という映画をやっている
南米ウルグアイの映画で、東京国際映画祭で賞を獲った。
あの映画は文学的には、どうなんだ?
>永すぎた春
ですか……。
何をどういうふうに論じるのか楽しみですね。
はぁ、遅々として進まず。作品の全体を解説しようってのがまず無謀
なのかも(身の程を知れ) 書くこといっぱいあるし(言い訳言い訳)
>>529 一応私に訊いてるのかな。
どうなんだ? と言われても、観てないのでなんとも申し上げられません。
ウィスキーって接客スマイル法、ウルグアイにもあるんだ。へぇ、と無駄知識
がひとつ増えました。
文学的にどうかというより、映画としてどうなのか。面白い感想などありま
したら、お聞かせください。
永すぎた解説、そんな予感をはらみつつ 入梅。
どうも、リニューアルしたドラえもんがけっこうお気に入りの◆YgQRHAJqRA です。
この間、コーヒー牛乳に当たって悶絶しました。腐りかけてたのかなぁ。
水寫便(すいしゃべん)、なんて熟語を使う機会はそうそうあるもんじゃない
んですが、ゴロピー状態になって、これぞ水寫便! て感じでしたw
近年まれにみるはげしい腹痛で、全然笑いごとじゃなかったけど。吐いたら
楽になって、大事にならずひと安心。気温が上がってくると気をつけなくては
いけませんね。
尾籠(びろう)な話でゴメンナサイ。
やっとこさまとまったのでUPです。でも、完全じゃない…。
――『永すぎた春』とポストモダン的なるもの ――
『永すぎた春』 は青春恋愛譚である。三島特有のアフォリズムや比喩が小気味
よく、また話もわかりやすくドラマ的で、純文学というよりは俗受けを狙った娯楽
小説、という見方にさして異論はない。実際この小説は俗受けしたので、単行本
の上梓から半年もたたないうちに映画化された。
それに、ウブなお嬢さんが電車のなかで読まれても、恥ずかしい思いをしなく
て済むように書かれている。まちがっても、「百子は郁雄のたくましいペニスを
小さな口で……」 なんて表現や場面は出てこないから、となりの客に覗き読み
されても安心だ。さすがは三島である(ちょっと違うか)。
しかし本当にさすがというべきは、作品を通俗(飯の種)と割り切って書き捨て
ない三島の文学者としての矜持であり、『永すぎた春』 にはその文学的なカラクリ
がしっかりと仕組まれてある。
話は単純だ。主筋は、主人公である宝部郁雄(いくお)と木田百子(ももこ)
の、婚約→結婚の道程を語るものである。このプロットだけを与えて、なにか
小説を書けというと、どうだろう、春樹的な 「僕」 が出てきてうだうだセン
チメントするのが現代的にイケてる書き方でなのであろうか。
ロマンスとセンチメンタルは飽きられたことのない 「通俗」 の強力な武器で
あるから、そこに飛びつくのは至極まっとうな感性であろう。それを卑しみ馬鹿に
してきた 「純文」 が凋落して、それこそ黄昏たことを言いだすのも面白いとい
うかあわれな話だけれども、書けることと同時に読めることの能力が文学である
ならば、通俗でありながら文学であることはなんら矛盾しない。
うだうだもいいが、恋愛小説に物語の機能をしっかり持たせてやると素直な読者
はもっと喜ぶにちがいない。それは、愛の試練という甘美な響き。
主人公たちにとって、敵や障害、つまり郁雄と百子の信頼関係や結婚を邪魔
する者たちがいてはじめて、物語にサスペンスが生まれる。私たちの実人生に
おいては、なるべく波風を立てないよう社会秩序に従うのが賢い生き方であろう
が、しばしばそれが 「退屈」 にみえてしまうのも確かである。退屈を紛らす
ために小説を読んで、いっそう退屈が増進するはめになってはやるせない。
娯楽(ゲーム)に敵はつきものなのだ。
ここで主要な役者を並べてみよう。
宝部郁雄:T大法学部のまじめな学生。お坊ちゃん。
木田百子:古書店の看板娘。元気ハツラツ。
宝部夫人:郁雄の母。通称、無敵不沈戦艦。
宮内 :郁雄と同じT大の友人。28歳、妻子有り。
吉沢 :郁雄の友人。影のある男前。
本城つた子:都会気取りの艶女。画家。
木田東一郎:百子の兄。通称、雲の上人。
木田一哉:百子の従兄。詐欺師。
浅香さん:看護婦。東一郎にみそめられるが……。
浅香つた:浅香さんの母。貧乏という病。
「幸福」 のプロットをぶち壊しにする危機、これを惹起させるのが、一哉・
つた子・吉沢・浅香つた、の四人である。そしてなにより、二人(郁雄と百子)
の 「生殺与奪権」 を握っているのが郁雄の母、宝部夫人であり、この小さな
神話(物語)における気まぐれな神人は、援助と災難を同時にもたらす裁定者
でもある。唯一、二人にとって利害を入れない味方となってくれるのが、人生
経験豊富な宮内だ。
敵と味方と超越者。
こうして物語の構図を開いてみれば、まさに古典的ともいうべき三極構造が
現れる。別種のパターンとして三角関係のドラマが奥様方を魅了するように、
三 は物語の定番的構造である(『ずっこけ三人組』 『三銃士』 『三国志』等)
大体においてカッチリした物語というのは、こういう構造に支えられている。
それは別段珍しくないうん蓄だが、こういう構造分析をやるとキリがないので
やらない。
三島劇場の開幕はここからだ。
では、物語の筋を追いつつ小説の深部をさぐっていこう。
最初の危機は、二人(郁雄と百子)の婚約がやっと決まってめでたいと喜んで
いる矢先、百子の従兄である木田一哉が詐欺の現行犯でタイホされ、新聞の三面
記事にさらされる。これを目にした宝部夫人は青ざめるやら真っ赤になるやら。
『だから言わないこっちゃないんだ。私のカンは正しいんだ。だからあんな家の
娘と婚約なんかさせるべきじゃなかったんだ』 とすっかり冠を曲げてしまう。
仮にも上流階級である宝部家が、犯罪者を抱える家とねんごろになるなんて、
末おそろしい。とにかく、平身低頭なにか申し開きがあるものと思っていたら、
木田のご夫婦はずいぶんとのんきに構えてるんだからあきれちゃう。おまけに、
一哉(とかいうゴロツキ)をかばう百子の態度ったらなんなの、えらい神経に
さわるわ(私を殺す気かしら)。郁雄のためにも、こんな恥知らずな嫁をもらう
わけにはいかない、絶対にっ。
ところが、折り悪く、婦人の良人の弟(役人)が汚職で摘発。新聞の一面を
デカデカと 「宝部」 の文字で飾ってしまう。一哉の件など比較にならない身内の
とんだ面汚しに、宝部夫人はあっさり手の平を返して(こういう羞恥心には鈍感
らしく)百子と仲直りを図る。
《「―― 丁度オアイコなのよ」
と夫人はいとも軽やかに言った。》
僥倖、郁雄の知らぬ間に事の破局は避けられたものの、宝部夫人のこの性格が
のちに大きく災いする因子であることを、読者に印象付けるのであった。
次なる危機は郁雄に降りかかる。
彼は若いくせに古風な貞操観にこだわる青年で、また、大学の卒業が結婚の
条件ということもあって、婚約期間中は百子(もちろん処女)と 「アレ」 は
しないぞ、勉強優先でがんばるぞ、と決意する。なかなか見上げた心意気であ
る。とはいっても若い男子、やっぱり溜まるものは溜まるわけで、アッチの
処理はどうなしているんだろう、なんて余計な心配をしてしまうところへ
つた子登場。
あたくし、田舎っぺを相手にするような安い女じゃなくてよ。
という感じの、いかんにも都会の洗練された女を演じるつた子にとって、郁雄
みたいな坊やを手玉に取ることなど朝飯前である。
で、
『この娘〔百子〕はどうあっても、結婚まで大事にしておかなければならない。
指一本触れてはならない。僕のやるべきことは、早くつた子の体を知った上で、
一日も早く、百子のために、つた子を捨てることだ。よし! そう決めたぞ』
とまあ、女性を擬物化して新品と中古品のそれと同じ扱いをしようと、およそ
T大生らしからぬ短絡的な結論を導くわけだが、さすがにちょっと不安になって
親友の宮内に相談を持ちかける。彼は28歳で妻子があり、学生の身分でいったい
どうやって生活しているのかしら、なんて疑問もわいてくるけれど、とにかくも、
人生の場数で宮内には一日の長がある。
「君のやり方は、回避しながら深入りしてゆく典型的な例だから、危なくて見
ちゃおれんね」
まあ、別につた子とやりたきゃやればいいさ。俺の女じゃないし。だが、それ
ではなにも知らない百子さんが不憫でもある。どうやら、この世間知らずのお坊
ちゃんには、人生の修羅場をくぐり抜ける儀式が必要らしい。
つた子を 「知る」 ために、夜、そぼふる雨のなか彼女のアパートを訪れる
郁雄。戸口にメモ。
「一寸(ちょっと)買物に出てきます。カギはドアの下にかくしてあります。
中で待っていらしてね」
ひとり部屋に上がって帰りを待つ。…低く流れるラジオの音楽。意匠を凝らし
たアトリエの調度。重くたちこめる香水の匂い。郁雄は、手もなく甘いわなに捕ら
われ、長椅子(ソファ)に寝そべってぼんやりとまどろんでいた。
ノック。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、つた子ではなく、宮内と百子であった。
郁雄ははねおきた。
恋人がほかの女の部屋にいる。悪夢のような現実に、百子は 「帰って……私
と一緒に帰って」 そう言うのが精一杯で、郁雄の顔を見ることもできない。
郁雄としてもこれは目が覚めるような悪夢であった。
「対決するんだよ。裁判をやらかそうと思って、俺はやって来たんだ。人間と
人間とは、かち合わせてみなきゃ、何も判らん。おとなしくつた子の帰りを待ち
たまえ」 と宮内。
もはや言い逃れのできない状況に、郁雄は従うしかなかった。
ほどなくしてつた子が帰ってくる。予想外の面子に迎えられ、神妙にしている
百子を認めたつた子は、どうやらとんだ茶番に巻き込まれたらしいと、気がささ
くれてくる。
「でも私、郁雄さんとはまだ何でもなくってよ」 「大変な大芝居なのね」
(百子をとるか、つた子をとるか)「サイコロで決める?」
百子とつた子に挟まれて、郁雄の惨めさはいかばかりか、ざまあないのである。
それでも、小説としてドロ沼の愛憎劇を描こうというものではないから、フィアン
セである百子が裏切られるような急展開はない。このあと、つた子が椅子に掛け
てあった百子のレインコートをはたき落とす場面で、奇妙にあっけない決着をみる。
「レインコートをお拾いなさい」
「お友だちがいると勇気が出るのね」
「お拾いなさい」
「御自分で拾ったらいいんだわ」
宮内が、レインコートが山場だったというように、このやり取りに決定的な
決別があらわれているのだが、それを説明するには少し話をさかのぼってみな
ければならない。そもそも、どうして郁雄はつた子に惹かれたのか。魔が差し
た、火遊びが過ぎたなどというほがらかな理由で片づけるわけにはいかないのだ。
どこからか仕入れたジェンダー(性差)の観念を装備して、一個の女を自認
するつた子は、素朴自然主義的な百子とは対蹠的な空間に身をおいている。
服飾と美容に金をかけ、高雅な趣味を持ち、そしてなんとも近づきがたいオーラ
を発散して並みの男どもをたじろがせる。お高くとまるのはいいけど、気づいて
みればオールドミスに入りかけ…。たしかにそれは、都会のハレやかな舞台に昇って
自らを広告する女の成りゆきとでもいうもので、いかにも今日、「負け犬」 と称さ
れるポジションである。
「そうね。はじめ思想や主義を作るのは男の人でしょうね。何しろ男はヒマだ
から。―― でもその思想や主義をもちつづけるのは女なのよ。女はものもちが
いいんですもの。それに女同士では、義理も人情もないから、友達づきあいなんて
ことを考えないですむもの」
つた子のこの考えには、むしろ女性らしい卑屈さがにじみ出ている。
同姓とうまく、仲よくつき合えない性格があり、かといって数多の男との浮名
を流すような尻軽女にもなれない。彼女にとって男は、部下や生徒のような位
にあるのが望ましく、決して自分より強い男とは関係を持ちたがらない。バカで
威張りくさった男は、つた子の芸術的感性にそぐわないのである。その点、年下
で優男の郁雄は、理想のパートナーと映る。
どうにも高飛車で気取屋のつた子に郁雄は辟易するところもあるのだが、「内
心重々反省しながら、多少好い気持ちでないこともな」 く、「少々呆れたけれ
ども、面白くないこともな」 いし、「つた子の声には―― 百子の抒情的な声とは
ちがった、柑橘(かんきつ)類の豊かさと甘さがあっ」 て、終いには 「つた子の
電話を待つことが郁雄の日課に」 までなるのだから、まんざらでもないのである。
そして、「思わず」 二度ほどデートをして、くちびるまで許している。キスく
らい 「何でもなくってよ」?
はたしてそれは百子とって何でもないことであろうか? きょう自分とキスした
恋人のくちびるが、きのうはちがう女のものだったと知って。
郁雄には不満があった。
自分の露わな嫉妬のほむらが、百子の頬を幸福に火照らせる。しかしそれが
彼の自尊心に火傷を負わせるのだ。年下の女性に対して、人間的な小ささや弱さ
を見せたくないと思うのは、男性の正直な心理であろう。けれども郁雄は、どう
も武張った男になれない。百子の前で、男としての理想と現実がきしみ、うまく
歯車が回らなくなる。
口には出せないが、精神的に、百子も弱いところを自分に見せて欲しかった。
それで 「オアイコ」 になれるのに、百子は負けん気が強すぎて嫉妬のしの字も
見せないのである。
つた子の前では、少なくとも精神的な矯飾にわずらうことのない安堵があるに
違いなかった。端的に、楽なのである。
「僕がだらしないことから起こった事なんです」 と郁雄が言うとおり、男とし
てだらしなくいられる場所(つた子)に惑溺したかった、それは百子に対してなに
か当てつけたいという、それ自体女々しい底意から生じたのである。
受動的な立場に甘んじることの快楽。つた子の部屋で待つ郁雄の姿に、それがよく
あらわれている。フロイト的解釈をすれば、部屋とは女性器のシンボルである。
そしてそのなかで郁雄は、いきり 「立つ」 のでなく逆に弛緩して長椅子に 「横た
わって」 しまう。これは男としてつた子を抱くというより、むしろつた子に抱かれる
ために待っているといったほうが正しい。郁雄は、はからずも娼夫≠ノ堕している。
場面はまた宮内と百子の奇襲を受けたところへと戻る。
とっさに長椅子から身を起こしたのは、懸命な動作といえよう。あわてて男の
本能を起動させる。百子の存在自体が、郁雄をそう使嗾(しそう)するのだ。
結果としてそれが、「レインコートをお拾いなさい」 という、丁寧だが明確な
命令、つた子にしてみればもっともいまわしい男の虚勢を招いたのである。
そして、「郁雄は“立ち上がって”、百子の草色のレインコートを拾いあげた」
ことで、「自分の裡(うち)の強さを、力を、突然感じ」、つた子の希望は潰える
のである。
展開からしてつた子をなんだか悪女のように捉える向きもあるかもしれないが、
決して人のいい郁雄をおもちゃにしようと下衆な心算から彼に近づいたのではな
かった。恋敵を一方的に悪者に仕立てるのは凡手である。
「忘れてください」
都合のいい男の決まり文句に、つた子ははじめて見せる女らしい微笑みで、
「おぼえていてよ。私、いつまでも」
ポツリともれた本心を、しかしすぐさま打ち消すように、
「もう一寸大人になってから又来るんだわね」
と、冷たく突き放す。そういう強がりにしがみつかなければ、つた子はその場に
くず折れて郁雄を苦しめることもできたのに。
とかく 「人工的」 と三島の小説は揶揄されるが、どうしてつた子の陰影の
つけ方は秀逸である。いつも澄ましていて、あまり笑うことのないつた子が、
最後に、心中もっともつらいシーンであえて見せる微笑み。しかもそれをこと
さらに表現しようとする臭みやクドさがなく、三島らしからぬ? ゆかしい筆致
は見事と言うほかない。
この一件のあと、
「彼女が発見したのは、郁雄の弁明しようのない弱さ、彼自身がいつもそれと
戦って、それをひた隠しにして来た弱さに他ならなかった。自分の恋人を弱者だ
と感じることくらい、女にとってゾッとすることがあるだろうか!」
と語り手は思弁する。古きを守る、古書店の意識のなかで育った百子が感じた
弱さとはなにか。百子は怖れ、つた子は受け入れた弱さの本質とは。
ここで私は、小説のテクストから、文化・社会の背景へと視線を伸ばす。なにも
弱い男というのは郁雄だけに限った話ではないだろう。ここに語られている弱さ
というものが、ポストモダン的な時代を予兆するなかで書かれていることに目を
向けてみよう。
この物語の時代背景は、昭和30年代(1955)の初めごろとみていいだろう。
つまり、小説の執筆時期とリンクしている。敗戦の荒廃から十年余り、はや日本は
平和のぬるま湯につかりはじめていた。
「もはや戦後ではない」 という名文句は、昭和31年の経済白書に記されたもの
である。同31年には、若者の風俗をあけすけに描いた問題作、『太陽の季節』(石原
慎太郎)が芥川賞を受賞し、文学の不可逆的地滑りが起こる。
週刊誌が続々と創刊され、昭和33年には東京タワーと言う巨大なペニスが都心にそそ
り立ち、やがてそこから、良識の人をして低俗と卑下される番組が全国に垂れ流される
であろう。そして、俗臭ふんぷんたる世相を揶揄して、「一億総白痴化」 なるコピーが
登場するのもこの時期である。いよいよ大量消費と情報化の波が社会を洗い始めたので
あった。
もう男たちは、銃を手に、あるいは爆弾を抱えて、死にに行かなくてもよいのである。
日の雨と爆撃に脅えることもない。貧しくとも、明日への望みが、夢が、人々の心に灯った。
時代は変わったのだ。男の仕事は、戦争から金儲けにシフトする。そこで男は、郁雄の
セリフを借りて言えば、「公然と許されすぎている」 のだ。弱さが。
男たち強さの脅迫から開放され、モラトリアムとなってあふれ出た。今日に続くポスト
モダンの萌芽がここにある。昭和30年過ぎは、その兆候が次第に表面化してきた時期で
あったろう。
強い力(組織のコード)が頽勢し、弱い力(私的なコード)の優位を得て新た
な文化がその相貌を現した。それがおおむね戦後の文化的な時代の流れである。
絶対的な他者(神・父・天皇・死者等)を解体してきた近代とその後(ポスト)
のよるべとして、人は、「自分自身」 を信じて生きていく、という再帰的自己像
のあやふやな仮構に他者―中心のモデルを求めるようになるだろう。このメタ
フィクショナル(自己言及的・決定不可能的)な戯れの果てに、オタク系文化に
顕著にみられる並列世界が現じてくる。
それは、東浩紀の分析を拝借すれば、データベース化した、カスタマイズ可能な
断片的中心(萌え)だけを持ち歩き、総体的中心(理念)を必要としない文化の
形態である。(くわしくは『動物化するポストモダン』)
この観点からもう一度テクストを読む。
まず結婚の裁量が家から個へ、自由恋愛がそれなりに尊重される社会風土なし
にこの物語は成立しない。女性の横恋慕を可能にするのも、社会的ヒエラルキー
(強い力)が個人を縛りつけることができなくなったためである。
「私だって―― 本当に好きだった初恋の人がありましたのよ。でも―― 親の
決めた人のところへ来てしまいましたの」 と語る宝部夫人は当然、戦前の
「強い力」 の信奉者として現代(昭和30年)とのギャップを作中にもたらす。
ポストモダンのひとつの特徴は、それまでの文化・制度・観念の上下関係を
パスティッシュ(ごた混ぜ)に平準化してしまうことである。この小説もそのよう
な磁場の上に立っているのだ。
百子を選ぶか、つた子を選ぶか。
実はそこには、読者の目に見えていないだけで、単純なルート選択のカーソル
しか用意されていない。第一、つた子の部屋を訪ねたのも、宮内の助言があって
のことで、郁雄は主体性もなくほとんどその場の流れでやって来ている。本来
あるべき精神の葛藤や苦悶が、ここでは無効化されてしまっている。むしろ直接的
な苦悶を引き受けるのは主人公ではなく、周りの人間(百子であり、つた子であり、
後で出てくる東一郎や浅香さん)であって、主人公はただそれをシミュレーション
するにすぎない。それがポストモダン的なるものの、(村上春樹などにも通じる)
空疎さや弱さではないか。
郁雄は、レインコートというちょっとしたきっかけ(フラグ)で、百子を選んだ
と言ってもいいくらいで、(オススメではないけれど)場合によってはつた子でも
いいという程度の、ある意味ゲーム的な 「対決」 をしただけであった。この場面
に、おそらくは宮内が想像していたであろう、もっと逼迫した人間の緊張感が希薄
なのは、郁雄のなかにもはや他者を背景とした倫理の葛藤(格闘)がないためで
ある(例えば『こころ』(漱石)のKや先生のような)。
極端な話、幼児性愛も調教陵辱も、萌えるか萌えないかのちがいにすぎず、単
なる要素(パーツ)として受容されてしまえば、それは内面や社会の問題として、
齟齬として自己の深部(システム)へ還元されないであろう。ただ皮相な差異だけ
に、感心が留まる。つまるところ、郁雄の欲動はオタク系文化と同質の平面を共有
している、と言いたい。
『永すぎた春』 のもつ軽妙な娯楽性は、駘蕩(たいとう)たるポストモダニティ
から発しているといえ、半世紀を経て、この小説は風化すどころかより現代的になった
のである。そこを批判的に捉えるかどうかは、読者の考え方に任せたい。
これで半分です。ドラえも〜ん、と泣きつくのび太の心持にちかいんだけど、
残りもそのうち書く予定でいます。では
乙です。
555 :
吾輩は名無しである:
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