『信仰心』
さて、クリスチャンネタが続きましたが、読者の方には、もう一日だけその話題にお付
き合い頂いて締め括りにしたいと思います。(明日からは少し軽いので行きますのでw)
私と言う人間が節操なくカトリック及びプロテスタント系の教会に頻繁に訪れた事は前
述した通りだが、実際にはそれだけで無く、「ものみの塔聖書冊子教会(所謂、エホバの
証人)」の方とも三年間程、親交があった。「エホバの証人」と聞くと、過去に話題にな
りマスコミにも叩かれた輸血拒否問題等々、クリスチャンと言うよりも寧ろカルト的なイ
メージを強く抱いている人間も少なくないと思う。実際にローマカトリック教会からも、
「統一教会」や「モルモン教」と並び、三大偽キリスト教などと非難されている。
事前に神父さんや牧師さんから、そうした情報を仕入れていた事から、私もそうしたイ
メージを「エホバの証人」には強く覚えていた。だから現在の住居に引っ越して来た折に、
初めてその女性(多分五十歳前後くらいだと思う)が布教活動(彼女等は、奉仕と呼ぶら
しい)のために訪ねて来た時にも、「無信心なもので」と言いながら冊子を二冊受け取っ
ただけで追い返してしまった様に記憶している。所が彼女は粘り強い根気で、こちらが休
日になると冊子を届けに来て、時候の挨拶や、こちらの体調面を気遣う優しい言葉を掛け
てくれる。そこでいつしか情にほだされて、訪問される度に玄関先で立ち話を交わす様に
なった。時に彼女は聖書を広げて様々な教えを説いたり、愛や信仰に対する真摯な質問を
私に投げ掛けたりしたものだが、こちらも信仰心こそ無いものの知識だけはあるので、そ
の質問に対してかなり辛辣で遠慮の無い答えを返していた様に思う。早い所、入信する意
志の無い事を悟って貰いたかったからである。所が彼女の訪問は終わらない。一ヶ月に二
度ないし三度は必ず訪れる。最初の頃は、聖書はお持ちですか、などと聖書の購入を勧め
られたりしたが、こちらが既に聖書を持っている事を告げると、それ以上、強引に勧める
様な事はしなかった。
信仰をお持ちで無いのにご立派な心掛けですね、と言う彼女の感想に、「ええ、世界一
のベストセラーですから」と皮肉で返していた事が今になって悔やまれる。当初の私は彼
女が「エホバの証人」であると言うだけで色眼鏡で見て、間違った判断を下していたのだ
と思う。と言うのも、或る日にきっぱりと、「何度も説明しました様に僕には信仰心と言
うものがありませんので、幾ら来て頂いた所で、あなたの時間が無駄になってしまうと思
います」と告げたにも拘わらず、入信などしなくても良いですから、と彼女は微笑むのだ。
そうして、自分はそうしたエホバの言葉を伝えて歩いているだけですから、と満足そうに
頷くのだ。そう言われてしまっては返す言葉が無い。
そうしてその後も彼女は一定の間隔を置いて我が家の玄関先に現れ、いつの間にか私も
彼女に打ち解ける様になり、長い時には玄関先で二時間近く話し込んでいた事もある。ど
んな議論に於いても、彼女の意見の中核は終始、聖書の教えを基本とした一定の倫理に司
られている訳だが、無神論者のこちらはその意見に対して哲学や仏教の考え方を絡めて反
証して行こうとする訳だから、否が応でも話は長くなる。それでもそうした行為が無意味
に思えれば、どちらかが席を立った筈だから、多分、互いに議論を愉しんでいたのだと思
う。時に彼女は私との議論に打ち負かされ、次に来る時までにあなたを納得させられる様
に勉強し直して参ります、と言い、次に見えた時には、わたしの拙い言葉では真意が伝わ
ないと思いますからこの本を読んで見て下さい、などと言いながら分厚い本を私に渡した
りした。かと思えば私の方が「この本は面白いですよ」などと言いながら、神学の本など
を貸して、言わば歳の離れた友人同士の様な関係になった訳である。
だから最後の一年くらいは宗教の話は殆どしないで、長い病に臥している彼女のお嬢さ
んの話や優しいご主人の話を聴かされて、こちらも滅多にしない様な昔話を交えて互いの
心の機微に触れ合ったものだった。
そうして今年の七月下旬、「がんばります」が中断されていた頃の事だ。
いつもの様に朝の八時半頃に彼女は私の自宅に見えて、互いに人間の道徳心について一
頻り話をした後に、私の胸中に、ふと「がんばります」に書いてあったtinaさんの言葉が
浮かんだ。だから、その事を彼女に振ってみた。
「実は僕の知っている人で、その人は過去にボランティア活動をされていたんですけど…
…その人はボランティアをしながら逆に、『ボランティアを受けたのはむしろわたしの方』
だった、と言うんですよね。僕はその気持ちが凄く良く分かる気がするんですよ」
そんな私の言葉に彼女は暫し考え込み、やがて微笑みながら答えた。
「仰る通りですね。だから……わたしもこうして皆さんを救おうと奉仕して歩いている訳
ですけれど、逆に皆さんの方に、わたしが救われているのかも知れませんね。本当にそう
思います」
そんな彼女の言葉に私は大いに頷き、また、そんな言葉に彼女の信仰心の厚さを垣間見
た気がした。これからも彼女の話が聴きたいな、と思った。カトリックもプロテスタント
もエホバの証人も無い。窮屈な戒律や教義の違いに縛られない、無信心な私に取っては相
手の人間性こそが全てだからだ。が、その直ぐ後に寂しい報告を聞かされる事になった。
彼女は八月一杯でご主人の田舎へ帰られるそうなのだ。ご主人が定年を迎えた事と、病に
臥すお嬢さんの容態を考えての事らしい。八月に最後のお別れの挨拶に参ります、そう言
って彼女は帰って行った。そして八月の中旬に彼女は再び訪れ、
「あなたは信仰心が無いといつも仰っていましたけど、あなたは心に磁石を持っています
よ。聖書など学ばなくとも、生まれながらに人の道を踏み外さない方向を示す磁石を心に
持って生まれて来る者がいるのです。ヤハ(エホバの意)もそれを認めています。あなた
は、そう言う人なのでしょう」
多分に社交辞令的な意味合いもあったのだろうが、そんな有り難い言葉を最後に頂戴し
た。私の方は最後に本音を言った。
「今ですから打ち明けますけど、きっぱりと入信する意志が無い事を告げた後、△△さん
はもう絶対に来ないと思っていました。それでも熱心に聖書の教えを説きに見える△△さ
んを見て、ああ、この人の信仰心は本物だな、と……若輩の分際で生意気ですけど、本当
にそう思いました」
彼女は口元に手をやると心底可笑しそうに笑い、わたしは試されていたんですね、と言
って私の肩をぴしゃりと叩いた。そして私は学んだ。聖書の教えを頑なに信じ、自問しな
がらも精一杯努力をして神と共に生きてゆこうとする者は、すべからくクリスチャンなの
だ、と。そこにカトリックだから、プロテスタントだから、エホバの証人だから、などと
言う分け隔てを行うのは人間の方だけで、神と言うものが真実いるならば、敬虔なクリス
チャン全てをお救いになられるに違い無い。そんな風に思った。
喧しい蝉時雨の降り注ぐ坂道を、黒いワンピース姿の彼女がゆっくりと下りてゆく。急
勾配の坂下は陽炎に揺らめき、何故だか、その先には彼女の焦がれる千年王国が待ってい
ている様な気がして、私は微笑みながら踵を返した……。 (了)