正直、あまり書く気ないんだが、自分でふった話題なので。
>>17 比喩を使うってのは、要はある物の上に別のものをオーバラップさせるということ。
よく少女漫画でヒロインが花背負って出てくるけど、あれも一種の比喩。
「美しい」「愛らしい」という花のイメージをヒロインに重ね合わせて演出しているわけね。
で、面白いのは比喩で何かをオーバーラップさせる際、さらにイメージをつけ加えることが
できるという点。
例えば、同じ「白い」肌をさらに比喩を使って形容したとする。
「白磁のような」肌/「白魚のような」指/「雪のような」皮膚/「マシュマロのような」頬。
これらは全部「白い」というイメージをもつ比喩だが、微妙に別のニュアンスがつけ加
わっている。(例えば「白磁」の場合、陶磁器のような硬質さや滑らかさが同時に喚起される。
場合によってはそのように形容された人物に、冷静、大人びた、整った顔立ち、美男美女という
イメージまで喚起されるかもしれない)
こういうイメージの重ね合わせは、外すと淋しいが、うまく決まると読者の心に伝わり
やすく、文章が上手く見える。ちょっと研究してみるといいかもよ。
――てな話。まあ1つネタ出したんで、後は勘弁してくれ。では。
30 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/10 21:23
>>29 >少女漫画における花
このくだりに目が醒める思いでつ。
何となくは解るけど、いざ説明となると悩むもんですな。
マジで感動しておりますた。
31 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/10 21:27
補足という程でも無いんだが、漏れの比喩はかなりの確率で理解されなかったりする(w
32 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/10 21:32
それは笑いごとではない。
33 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/10 22:46
>>1は無視して
>>29さん進行キボンヌ
比喩に関する貴重な意見だと思いまつ。
それでは、驚く、にもいろいろな比喩表現(言い換え表現含む)があって、例えば
1)目が覚める思いがする
2)開いた口が塞がらない
3)それは一瞬間脳の機能を停止させた
4)雷に打たれたように体中が震撼する
で、4)なんかは驚いたときに限らず使うけども、これらにどういうニュアンスが付加されるか、
とかいう方向にこのスレは持って行くべきですかな?
2)は呆れ驚くという意味だけど、1)は驚きよりは発見かな(汗
3)、4)だと、「驚く」と書くよりは驚きが強いのかしら。
34 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/10 23:02
文脈による
35 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/11 00:20
笑いごとだ
36 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/11 00:35
>>29さんへ。
コンデンスミルクのような肌をしていて、鼻の周りにそばかすがあった。
って昔使いました。
バカですねー、春樹の「チーズケーキの形をした僕の貧乏」の影響をモロに受けてます。
>>37 コンデンスってなくてもいくね?
まぁそうするといくらか幼稚な(比喩ガって意味でない)イメージになるけど。
39 :
名無し物書き@推敲中?:02/12/26 14:40
やはり小説は文だけで著す、自分の知識の中でいかに
レトリックを用い表現していくかに全てを賭しているだろう。
やはり文を決めそれを素人と熟練者が小説風に仕上げれば
歴然の差が出る・・・
例だが
「オッパイ」を「巨乳」・「貧乳」・「爆乳」に変えれば読者の受け止め方も変わる。
皆はどうやってそれを捻り華麗に・レトリックに文を創っていっているのか?
小説の技術を語るスレです。
(^^)
(^^)
42 :
名無し物書き@推敲中?:03/01/31 10:48
OK,OK,OK,OK,OK
∧_∧
∧_∧ (´<_` ) 流石だよな俺ら
( ´_ゝ`) / ⌒i
/ \ | |
/ / ̄ ̄ ̄ ̄/ |
__(__ニつ/ FMV / .| .|____
\/____/ (u ⊃
昔アニメで表現されるようなチーズを
想像させるような論理展開はだめなんですね。
お酒のつまみででてくる生白子のような肌
というのは実は気持ちわるいのですね。
申し訳程度の装飾表現も事柄を知っているということが
前提でなければ比喩にならない。
そして比喩はときとして事柄のパロディである。
(パロディはもともと風刺表現であった。)
その事柄を説明するパート比喩表現のパート
ワンパターンとめりはりのさは導入のわずらわしさを
読み手にたいしては排除し推敲した文章にするべきである。
(小学校 国語)
「もとより硬いことばになってしまった」
44 :
名無し物書き@推敲中?:03/02/17 11:30
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
46 :
名無し物書き@推敲中?:03/05/07 12:59
age
47 :
名無し物書き@推敲中?:03/05/10 17:03
紋切り型辞典スレをアゲる。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
(^^)
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
54 :
名無し物書き@推敲中?:03/09/17 03:10
55 :
名無し物書き@推敲中?:04/01/29 07:20
保守
56 :
名無し物書き@推敲中?:04/02/05 11:37
cc
57 :
名無し物書き@推敲中?:04/02/05 12:11
言語のイメージに頼って、自分の文章で華美さを表すのをサボってるのが
最近のヴィジュアル系バンド
以前は詞の内容で世界観を構築していたバンドもいたのに
今はそれっぽい単語のパッチワークで、借り物の世界観だし
58 :
吾輩は名無しである:04/03/26 13:08
rtu
ある言葉の周辺を巡るのに熱中している。
それは「死」であることがほとんどだ。
死という言葉の周りを巡って遊ぶのはなんと官能的なのだろうか。
死を弄ぶ気分になる。
ただ一言「死」と書いて死ぬのはよほど純粋な詩人だけだろう。
それは詩人の背後にあった「忍び寄る死」に気付いただけであって、
小説家の欲するところの死ではない。
小説家の目指すところは、一般人を「殺す」ことである。
僕は過去に3回死んだ。
一回目は漱石先生に殺された。猫と一緒に死んだ。
二回目は太宰に殺された。没落していく貴族階級とともに緩慢な死を迎えた。
三度目はサリンジャーに殺された。シーモアと一緒に自殺した。
人を殺せる小説は存在する。
そしてそれはナイフで人を刺すような、安易な芸術ではない。
魂そのものを滅ぼすような、絶対的な死をもたらすのが小説なのだ。
ではどうやったら読者を殺せるのであろうか。
簡単に言って3つの方法があると思う。
1、強く主人公に同化せしめ、しかる後に主人公を殺す。
2、死を予感させる主人公たちに共感せしめる。
3、自殺したくなるような無常観を演出する。
なぜこの3つかといえば、自分の体験がこの3つでしかないからである。
ほかの方法を僕は知らない。
1は漱石先生の「猫」であり、2は太宰の「斜陽」であり、
3はサリンジャーの「バナナフィッシュにうってつけの日」である。
共通するのは無常観だと思う。そして無常観が色濃く支配しているのが現代である。
そのなかでも日本人の中にはびこる無常観への憧れは強い。
日本人はいつもどこかで「死」に憧れているとも言える。
読むという行為が小説の本体なのだと痛感する。
作者の思いは文章という形で固まるが、
それを解きほぐし、思いに戻し、感じ取るのは読者の仕事だからである。
作者に出来ることは、注意深く誘導を続けることだけであって、
読み方に強制はできない。。
どんなに思いを込めても、届かなければ意味がない。
これは読んでもらうための小説だ。
例え思いは届かなくても、こう書かねばウソになる。
これは書くための小説だ。
読み方に強制ができないように、書き方にも強制はできないと感じる。
書くための小説が、意図したように読んでもらえない。
そこには大きくわけて二つの要因が有るように思う。
1、 書き手の力不足
2、 読み手の力不足
書くための小説の難しいところは、この評価基準のあいまいさではないかと思う。
読んでもらうための小説は「分からない」と言われたところで終了である。
目的を果たしてないのだから、これは駄文と言われてもしかたがない。
だが、書くための小説において、表現の全ては、
書き手のなかである必然性を持って選択されたはずであって、
それが読み手にとって「分からない」表現だった、というのははたして
よくないことなのだろうか?書き手がよくないのか、読み手がよくないのか。
ひどくあいまいである。
自分の目指すところを自覚しておかねばならないだろう。
読んでもらうための小説は、どこまでも「分かってもらう」ために、
自分のエゴは削らねばならない。自分はどこまでも消えていかねばならない。
書くための小説に、単純な上達法はない。
強いて言えば、論争が必要だ。表現の選択の必然性に関する論争だ。
なぜその言葉でなくてはならなかったのか、それをきちんと説明できることが、
書くための小説を非難されたときの反論の礎になる。
それの無い反論は、ただの自己満足とみなされても仕方あるまい。
だが、きちんとした根拠のある話なら、いったんは聞かねばならない。
それができないときは、その読み手の力不足だと断じてよかろう。
どうやら難しいのは、読む力のはかり方である。
このくらいは読み取れるだろう、と読者の力を推し量りながら書くのである。
あまりにあけすけではならぬ。
それはいわゆる「オヤジ」が、風呂上りにブリーフ一丁で歩き回るがごとしである。
包み隠してこそ、華のある奥行きが得られるのだ。
だが、あまりに隠しても魅力が無い。
身持ちの固すぎる女は男性に人気が無いように思う。どこか分かりやすい態度が要る。
時に胸元をちらりとあけ、男の視線を引き込み、
そうかと思えば背中を見せてつれなくする。
時に女の前で弱音を吐き、女心を引き込み、
そうかと思えば強気にふるまう。
このわかり安さと、自分なりのこだわりの両立。そこが目指す場所ではないだろうか。
>>59 訂正
> そしてそれはナイフで人を刺すような、安易な芸術ではない。
> 魂そのものを滅ぼすような、絶対的な死をもたらすのが小説なのだ。
そしてそれはナイフで人を刺し、「芸術だ」と抜かすような、
安易で考えの足りないものではない。
肉体を生かされたまま魂を滅ぼされるような、
死に限りなく近づく体験をもたらすのが、優れた小説なのだ。
63 :
名無し物書き@推敲中?:04/05/30 09:47
メロウな小説だぜ
5/30
ひとことで何かを表すのは難しい。
だが頭のあまりよろしくない人が、頭のそこそこ良い人と論戦する時には
非常に有効な手段となる。
なぜならば、頭のあまりよろしくない人は、言葉の意味を単一的に捉えて
まったくわがままに振り回せるからである。
頭のそこそこ良い人というのは、どうしても言葉の持つ揺れを考えてしまうので、
自分の吐く言葉が、自分に疑問を投げかけてくる。
そして、この言葉はこういう解釈もできるな、と気付いてしまうのだ。
結果、そこそこ頭の良い人は、自分をからかいにきた頭のあまりよろしくない人と、
そこそこ頭の良い自分との両方を敵にまわして、うんうん汗を流すことになる。
頭のあまりよろしくない人にとってこれは非常に好都合だ。
第一に、自分はさほど労力を使わずにすむ。
第二に、頭のそこそこ良い人の苦悩など理解できないのであるから、
自分が発した言葉が相手を悩ませているように見え、空虚ではあるが優越感にひたれる。
その優越感がまた次の浅薄な一言を生む。そしてその軽い一言が、また頭のそこそこ良
い人の心を悩ますのだ。
時にはわざわざ頭のそこそこ良い人が、頭のあまりよろしくない人の言葉の断片から、
真実を言い当ててやることもある。頭のあまりよろしくない人は、その真実の言葉を見て、
自分の気持ちが明確になる。ここで礼のひとつも欲しいところだが、そこは頭のあまりよ
ろしくない人のやることというのは怪奇なもので、それみたことか、私の気持ちがやっと
わかったか、と逆に怒られてしまうのである。やるせない。
>>63などが意味不明な断言の良い例であろう。
”メロウ”という言葉を一体どのような意味で用いたいのかすら不明である。
メロウには柔らかな感触がある。やさしさと甘さが、弱い光のイメージで包まれている。
”小説”と言っているがどこに小説があったのだろうか。
”だぜ”という語尾を用いてわざわざ会話調にしたのはなぜなのだろうか。
全く謎にみちた書き込みである。あるいは誤爆であろうか、と犬のクソをつつきながら
首をかしげている気分である。
さて、このような意味不明断言系犬のクソには、こちらも意味など考えず、
脊髄あたりに任せた反応をしてやるのが良い。
言葉に奥深い響きとか持たせても無駄である。彼らの耳にはどうせとどかない。
直球で適当に放り出すのがコツである。
「
>>63 メロウな脳だな」
なんてスカスカな言葉であろうかと嫌気がさすが、これで良い。どうせ読みはしないのだ。
おそらく頭のよろしくない人というのは、文章の頭と尻しか見ていない。
ついたての向こうにカバの頭が見えていて、そのカバの尻に食いついた虎の尻が、つい
たての反対側から出ているのを見れば、大変だ、カバの顔した虎がいると騒ぎ、別の頭の
あまりよろしくない人がそれを聞きつけて、バカを言うな、アレは虎の尻したカバだ、と
よりデカイ声で騒ぐ、そんなやり方で発言しているのだ。
それならばいっそ、頭と尻がひと目で見渡せる文章を書いてやるのが親切というものだ。
「
>>63の脳はメロウっぽい」
よりバカっぽくなった。いい感じである。
いわれの無い侮辱も入れてみる。
「
>>63の母はメロウ」
「
>>63の脳はメロンパン入れ(銀)」
「
>>63は足が短い」
どうにも無意味で疲れない。
適当に吐き出すだけだから楽なものだ。案外おもしろい。手遊びには丁度いい。
真面目な話に割り込んでくる頭のあまりよろしくない人に困ったら、ぜひ試して欲しい。
5/31
書いていると、自分が偉くなったような気がする。
この気持ちは邪魔であるし、よりどころでもある。
なにか書かなければならないときに、
自分を矮小なものだと思っていてはならない。
卑屈な文章は読んでいて惨めな気分になる。
卑屈な感性が自分にも忍び込んできて、
いつの間にか自分まで卑屈な人間になったような気分になる。
それはまるでヤクザ映画を見終わった人が(略)
どうせなら偉くなったような気分になって書きたいものだ。
だが必ず傍に道化を置いておかねばならない。
自分の言葉を揶揄してくれる道化が必要だ。
行き過ぎた発言を諌め、場を平らに戻すのだ。
できれば敵も欲しい。これはできれば自分の外に欲しい。
貶しあうだけの敵なら要らない。殺伐とするだけで楽しみがない。
文章を戦わせあえるようなライバルが欲しいと思う。
自分よりもほんの少しだけ上手いと思える人がいい。
相手があまりに下手だとお愛想が必要になるし、
あまりにすごすぎると、言えることが無くなってしまうから。
お互いに実力を見せあわないと、意見の交換はできないのだと思う。
相手の実力を分かっていないと、苦言というものは心にとどかない。
それは先に頭に届く。そして、理性で押さえつけたうえで心に届く。
いちど自分のフィルターを通してうけとる苦言は、すこし歪んでいる。
苦言をなるほどな、と素直に受け取るには、まず相手を尊敬しなくてはならない。
僕は意固地なので、人を尊敬するにはまず技をみせてもらうことが必要だ。
なるほど、と思ったうえででないと意見を聞く気になれない。
だから批評の文章は偉そうになるわけだが、
これは本当に偉いのではないかもしれない。
文章の作者や、読者の心に届かせるために偉そうに振舞っているのかもしれない。
ここで批評者には分岐点がある。
1、自分の真の能力は隠し、偉そうな雰囲気をまとうのに苦心する。
2、自分もまた作者となって、書く能力を高める。
2が望ましいと思うのだが、なかなか難しい。悩む。書くのはやはり難しい。
批評をもらう作者さんの心を理解するのには役に立つが、
どう書くのが「良い」のかがどんどん分からなくなる。
「良い」と思っていた書き方が、たとえば文豪の劣化コピーに過ぎないことに気付く。
呆然として、せめて読む能力は磨こうという逃げをうつ。
だがこの最後の砦、読む能力こそは、批評を書く上で絶対に必要な能力だ。
これを欠いた批評は、批評ではない。「感想文」にすぎないのだ。
感想文は心にとどかない。まず頭にとどく。なんでそう読むのだ、と思う。
こう思って書いたのに、と反感を覚える。
つまり、作者の意図を理解していない批判は、どうしても的外れなものになる。
作者の「意図」は理解しつつ「方法」に批判を加えるのが良い書き方だ。
時には「意図」自体を批判することもあるが、
そのためには「元の意図」を正しく読まねばならない。
できれば「良い批評」を書いてみたいものだ。
偉そうな雰囲気まとって、読みに自信をもって、書く能力にもチョコット自信をもって。
6/1
狂気には凄みがなくてはならないのだと思った。
理性の喪失、理屈のすっぽ抜けた行動だけでは、白痴になってしまう。
そこに暗い凄みが加わって、狂気になる。
凄みとはなんだろう。単純に考えれば怖さだろうか。
檻の向こうのライオンには凄みがある。
怖さが即凄みならば、牙も爪を備えた前足も、
こちらには絶対に届かないのであるから、怖くはないわけで、
それなら凄みを感じることはないはずだろう。
だが確かに凄みを感じる。
あの牙が僕の喉笛に食い込み、爪が肩をひきさく。ぞっとする。
と、こう考えて気がついた。つまり、凄みは想像力の中にあるのではないか。
ライオンはなんだか檻を破れるような気がする。ライオンが破らなくても、
地震とか、トラックが突っ込んでくるとか(笑)とういうアクシデントはありうる。
そして解き放たれたライオンは、多分普通の人には手に負えない。
そうなってしまったライオンは凄みを捨て、恐怖をまとう。
凄みのある文章ってのはつまり、背景が深く大きいものなのだろう。
そしてそこに「いったんそうなってしまったら、どうしようもない」という
危機感が充満しているのだ。絶対的な恐怖となる可能性、それが凄みだ。
あたかもライオンの檻の前に立ったものが、想像を豊かにし、
半笑顔でおののくように、文章の前の読者を、半笑いで凍りつかせてみたい。
6/2
もはや駄作などない、と思った。いや、これでは乱暴すぎる。
正確には、形式で判断できる駄作は無い、だろうか。
視点の枠組みもゆるくなり、一章のなかで視点が変わってもOK。
妙な記号を使ってもOK。考えてみれば横書きの小説というのも
とっくの昔に出ていた。それは確か論文の形を借りた小説だった。
結局は中身が問題、という基本に戻るのだな。
どんな形で書かれていようが、中身が有ればOK。
しかしまてよ。
どんなに良い中身でも、伝わるように書かれなくては意味がない。
伝わらなかった中身は無いのと同じ。
形式というのは、いわば作者と読者の契約書のようなものだ。
こういう書き方はこう思って欲しいってことですよ、と。
みょうちくりんな書き方はそれを無視した行為だ。駄目じゃん。
形式の崩壊はどう考えれば良いのかという悩みが戻ってきた。
大体が「正当性」もしくは「斬新さ」を考えて書かれたものなのだろう。
ある程度、読みの力があるものが読んで、なるほどこれはこう
書かねばならなかったな、と納得させる、あるいは、おお、こういう表現も
あったかと唸らせる。これらを目指しているのだろう。
これまた乱暴だが、むかしむかし、読者層と言えば知的階級だった。
難しいことに考え込むのが好きな、ヒマな人たちが本を読んでいた。
だから細かい読み込みを要求するような作品が受けた。あっさり読める
ものなんか、大衆のものだ、と小バカにしていたのである。
ドストエフスキーとか、読んでも読んでも本筋が見えない。
分析して、やっとうすぼんやり主張が見えてくる。
それも真の主張か怪しい。当然読み方についての議論が交わされる。
また、そういう文章のあり方自体についても議論が交わされただろう。
ただし、参加するのはあくまで知的階級だけだった。
今は違う。ほぼ全員が文字を読めるし、本は高級なものではなくなった。
当然読者層も変わった。「正当性」や「斬新性」の基準が変わった。
「読める」者も「読めない」者もみんなが文学に口をだすようになった。
作家たちは、そんな読者層にも分かる物を書かねばやっていけない。
同時に、難しいことを考える人たちも満足させなければならない。
なんとも難儀なアクロバットである。
だから見た目軽薄な文章にする。分かりやすくて、簡単に見えるように。
ところが、そのわかりやすさの背後に「何か」が仕掛けてある。
深読みが好きな読者層はそこに喜んでいる。
さて問題なのは、浅い部分しか見えないままに作家に憧れてしまった人間だ。
ああ、これでいいなら自分にも書ける、となんとなく書いてみる。
なんとなくいいように見える。周りのひとに見せても、なんとなくいいんじゃない?
と評価が返ってくる。ネットに書いてみる。これまたなんとなくいいんじゃない?
とお褒めの言葉をもらう。もしくは形式を非難される。
違うのだ。小説の本体はその向こう側にある。なんとなくの向こうが文学だ。
なぜにこの言葉なのか、とこだわってみて、初めて見える世界がある。
大体の小説家はイジワルでヒネクレ者だと思う。自分の気持ちを正直に書く
ヤツはあんましいない。もしも文章中に気持ちの告白があったとしたら、
その裏を読むべきなのだ。一流とよばれる作家達の登場人物が軽薄に見えたら、
その軽薄さの裏を読めということだ。
で、俺を含む素人の文章はそこんとこが浅い。深読みに耐えない。
この浅さはなんでだろうと分析してみると、「浅い人間像を書こう」という作者が
ぴろお〜ん、とすぐに顔を出す。これでは駄目だ。仕掛け、タネがみえみえだ。
できれば、剥いても剥いてもタネのみえない文章を書いてみたい。
それはタマネギのような文章だと言える。
まとまっているときは確かに「たまねぎ」だという意味をもっているのだが、
ばらばらにするとただの断片になってしまう。どこにもタネは無い。
残るのは涙とたまねぎの香りである。
サルに手渡して、涙流しながらばらばらに剥くのを、ニヤニヤ笑って見ている
ような、そんな気分になってみたい。
-+-
6/3
血液検査をした。針が刺さるところをじっと見ていた。
真空の試験官に、血が吸いだされるのもじっと見ていた。
気持ち悪くなってしまった。でも同時にチョット気もちよかった。
献血が好きな人がたまにいるが、あの気持ちはこれだろうか。
体の一部分が破壊される気持ちよさなのだろうか。
すすんで針とか刺されたがる人がたまにいるが、
俺にはマゾッ気などないはず。多分。いやほんとだって。検査と言うのは
一部の性的嗜好とちがって、針を刺されるのは本来の目的ではない。
痛みは目的のための代償。痛いのだけれど自分のためである。
だから痛みが気持ちいいのである。つまり自己愛の変形。
献血の気持ちよさもこれか。病人やけが人のために血液を提供する。
自分は今良いことをしている。そのための痛みである。
殉教者の気分なのかもしれない。他者への愛であり、究極の自己愛でもある。
みんなのために針を刺される私って、なんてステキなのかしら、と。
この気持ちをさらに、古の時代の生贄や人柱に拡張できないだろうか。
現在でも、インディアンの一部族には、自分達が太陽を動かしていると
信じている者達がいるらしい。それが彼らにとっての真実である。
ある閉ざされた共同体の中で育ったものには、その共同体の中の真実
しかない。今日のような「速い」情報の媒体がなかった遠い過去において、
その傾向は一掃顕著であったろう。
生贄が世界を救うという観念が真実である共同体で育った人間にとって、
生贄になることは、恐怖とあこがれの対象だったのではないだろうか。
丁度我々が献血に行くのを渋るような感じ。
「いやー、生贄ねえ。世界救うのはいいけど、やっぱ痛いのいやだし」
とかいう会話があったかもしれない。
などと妄想しつつ、左ひじ内側の注射針の痕をながめる昼下がりであった。
にしても、検査のためとはいえ、針を刺されるのはやっぱり痛い。
自分のためとは言え、痛いのはいやだから、
3本の行列の先を覗き込んで、なるたけ上手そうな看護婦さんを選んだ。
針を刺すのに上手い下手は確実にあるからね。
おんなじ目的を果たせるのなら、苦痛は少ないほうがいい。
自分のためとはいえ、検査のために肉を切られてはかなわない。
なるたけ痛くない方法で目的を達したほうがいい。
相手を痛めつけるために針を刺すのは間違ってる。
そんな看護婦、俺はゼッタイにいやだ。
……まぁ相性はあるわけで、痛めつけられるのが好きなひとと、
痛めつけるのがすきな看護婦が検査という目的のために出会えたら、
もう刺激は得られるわ、検査はできるわ、独身どうしだったら、
運命の出会いになって、幸せな結婚しちゃったりするかもしれん。
どうか末永くお幸せに。
針跡一つで妄想は続く。検査結果、良好だといいなぁ。
-+-
むかし読んだマンガのなかの、大好きな台詞を突然思い出した。
オリジナルの文章は忘れたが、その意味は心に残っている。
「まずは大きく何でも吸収しなさい。それから纏めていきなさい」
「ひとつの完成形で固まっちまってるから、そこで留まっている」
とくに印象深いのはこの二つだ。
そのマンガは拳法もので、日本人の主人公は、最終的に中国まで行って、
拳法の真髄をつかんで帰ってくるというストーリーだった。
主人公の少年は、八極拳という拳法が好きで、そればっかり練習していた。
そしたら、それだけでは勝てない敵が出てきちゃった。しかもその強いのと、
命がけで決闘するはめになる。
そこで、主人公は練習してきた八極拳をいったん捨て、太極拳を練習する。
そして、なんとか勝利するのである。
ご都合主義なのはアレだが(笑)言ってることが良いと思いませんか。
自分の好むところでガチガチに固まると、己に限界を作ってしまう、という
エピソードなんだと思うんですね。
斬新だな、と思ったのが、主人公が使う拳法を変えちゃうところ。
普通のマンガだったら、主人公のパーソナリティの一部である得意技を
変えちゃうってなかなかやらないんじゃないか。
あんた八極拳使いやなかったん、という突っ込みを入れる気にならないのは
上記の台詞が効いていたからだろう。主人公に欠けているナントカいう技法を、
太極拳が補った。決して主人公の根本は変わっていない、
あくまで八極拳使いが弱点を補うための太極拳なんですね。
「まずは大きく何でも吸収しなさい。それから纏めていきなさい」
「ひとつの完成形で固まっちまってるから、そこで留まっている」
うん。やっぱなんだか良い。
-+-
本を読むには、細部に視線を注ぎ、細かな部分を嘗め回すようでなければならない。
まず、その本を作り上げている風味の詳細を丹念に吟味する。その後でなら、戯けた
一般論を述べるのは、一向にかまわない
―― ウラジミール・ナボコフ ――
いい言葉だと思う。読者がこのような姿勢で読むところを想像しながら書くのは愉しい。
この言葉に込められた意図に気付いてくれるかな、とかこの連結に気付いてくれるかな、
とか、仕掛けをほどこすのは、ひとえに読者に愉しんで欲しいからである。
読者の楽しみは作家の楽しみでもある。作者は自分の作品をもっともよく判る読者である。
自分で読んでまず楽しくなければ駄目だろう。ナボコフの言葉のように読んでくれる読者に
とってさえ、作品は基本的に分からないものだから、100の楽しみを込めた作品の、
10が伝わればいいほうなのだ。ほじくり返してもらえれば恩の字。それで50伝わるかどう
か。読者を100愉しまそうと思ったら、自分は1000愉しんでいなくてはならないってことだ。
考えてみれば、これは逆に、作品の書き方のひとつに、伝わらなくても良いからとにかく
大量にサービスを叩き込め、ってのがあることを示している。
まるでマシンガンの一斉掃射のように、そのなかの数発があたればOKという考え方だ。
でも闇雲に撃つだけではやっぱし芸がない。
そこで、その弾幕を誘導につかう手はどうだろう。読者を一方向に追い込んでおいて、
とどめの一発は狙い済まして撃ち込む方法は良いかもしれない。
ただ残念なのは、弾幕の中でも全く平気で歩いちゃう人が居るってことなんだな。
戦車の中に住んでるような人に、マシンガンで売っても煩いだけなんだろう。
戦車砲弾が飛んできて、はじめて「きたきた!」って思うんだろうなぁ。
個人的に好みとするイメージでいうなら、地味に物音や人影で誘導して、ナイフの一刺しで
止めをさすような感じが好きなんでさらに効き目がうすい。とても難しい。
物音だけではびびってくれないタフな読者はとても多いのだ。
ちった反応しろよ、と言いたくなる(笑)
結局話は堂々めぐり。永遠のテーマなんですね。
ナボコフさんも「読まれ方」で相当悩んだと思うのであった。
ロリータとか、相当な数の人から妙な読まれ方されたと思うし(笑)
的外れな意見にへこみまくったかもしれない。んで、冒頭の言葉が出てきたと。
偉大な作家の気持ちがチョコット分かったような気分にひたるのって気持ちよい(アホ
やはり、どこにも基準なんて無いのであった。
面白けりゃOK、という合言葉はこの辺からも補強される。作家は自由なのだ。
好きに書けばいい。
開き直りと反省の間をいったりきたり。そりゃノイローゼにもなるわな。ウヒャヒャ。
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