291 :
「奇蹟」「自転車」「鮭」:
「勝てるわけねぇだろ、俺に。無理だね、絶対。奇蹟でも起こらない限りな」
兄と同級とはいえ、大柄な真一とでは、まるで大熊と子犬の喧嘩であった。
玄関先に立った、顔中、体中傷だらけの僕を見て、母は怒ることを忘れて、しばらく目を丸くしたまま立ち尽くしていた。
その夜、同じ部屋に寝ている兄とは一度も目を合わせなかった。兄のほうでも意識しているらしく、向うを向いたまま、蒲団にくるまっていた。
翌朝早く、僕は独りで学校に行った。体中の痛みは昨日よりも増したように思えたけれど、ここで休んだら、また真一達に馬鹿にされると思うと、悔しくて、文字通り歯を食いしばりながら歩いていった。
ふと、気配を感じ、振り返ると、自転車に跨った兄がすぐ後ろにいた。
「乗れ。のっけってってやる」
「いいよ。学校に自転車なんか乗ってったら、怒られるだろ」
「いいから乗れ」いつにない兄の強い口調に、僕はいわれるまま荷台に跨った。
ぐいぐいと自転車をこぐ兄の後ろで、僕は何だか照れくさいような気持ちだった。
そして、今更ながらに歯の間に挟まった焼き鮭が気になりだしてきた。
次は「漱石」「のぞみ」「観覧車」で。