227 :
「海苔」「牙」「てのひら」:
大した話じゃないが……クロと出会ったのは、今のアパートに引っ越
した直後のこと。つまり、何もかもが最悪だった頃のことだ。
工場の倒産、受験失敗、失恋――夜逃げ同然に引っ越した後も、
茶の間は常に沈んでいた。それどころか、俺がいない時は、近所迷惑
をかえりみず、見苦しい夫婦喧嘩を演じているようだ。そんな、ギスギス
した空気が嫌で、俺は何かと都合をつけてはコンビニに出かけ、夜の
町をさまよい歩くようになった。
クロと出会ったのは、そんな夜の時間つぶしの最中だ。
路上にヒョイッと現れた黒い仔猫――それが「クロ」だ。野良猫なのか、
飼い猫なのかはわからない。「クロ」という味も素っ気も無い名前は、俺が
適当につけたものだ。
ただ、プライドだけは人一倍――もとい、猫一倍、強いらしい。
最初に出会った時、俺は特に理由もなく、てのひらを差し出しながらクロ
に声をかけてみた。
無視された。
近づいてみると、「シャア!」と総毛を逆立てながら威嚇してきた。いっちょ
まえに、牙を剥いてみせている。腹でも空いているのだろうか?
俺はコンビニで買った鮭のオニギリを分けてやることにした。ちゃんと海苔
を巻いてから半分に分け、差し出してみる。クロはしばらく「シャア!」と威嚇
していたが、空腹には勝てなかったらしく、道路においたオニギリの半分をく
わえて駆け去っていった。
そして、翌日――予備校に向かう道の途中で、俺はクロと再会した。
クロは「ナァ」と鳴いた。変な鳴き声だった。
俺は「ニャア」と鳴き返した。クロは「妙な声だな」と言いそうな顔つきをした。
以後、俺とクロは、顔をあわせる度に「ナァ」「ニャア」と挨拶を交わしている。
だからどうしたというわけじゃない。
まぁ……世の中、捨てたもんじゃないって、そう思っただけだ。
次は「黒猫」「レポート」「秋」で。