(1)故郷を離れて旅に出る
すべての冒険物語は、主人公が住みなれた故郷を離れて旅に出ることで始まる。
「指輪」では、平和なホビット村からの出発だ。
「オズ」では、カンザスの農場生活に厭き厭き(あきあき)したドロシーが、
竜巻で虹の彼方に飛ばされる。
ハリーは、紅の汽車に乗ってホグワーツ魔法学校に旅立つ。
日常生活には、冒険もロマンもない。
冒険には日常からの脱出が必要であり、それが旅だ。
「指輪」や「ハリー・ポッター」のように日本文化とは異質の物語が日本で受入れられるようになったのは、
現実世界の困難が増したために、そこから脱出したいという欲求が日本でも強まったからだろうか?
旅の目的は、指輪である。
北欧の指輪伝説によれば、指輪は世界を支配し、同時に破滅に導く。
指輪保持者は全能であり、同時に死へと呪われる
(ただし、「指輪物語」の場合には、指輪の探求でなく、指輪の棄却が目的である)。
主人公は、旅の途中で数々の不思議に出会う。
世界は神秘に満ちている。
だから、旅は世界の秘密の探求といってもよい。
(2)仲間が加わる
一人旅は面白くない。
またストーリーの発展も制約される。
そこで必ず道連れが現われる。
実際、指輪物語第 1 巻のタイトルは、「旅の仲間」(The Fellowship of the Rings)だ。
仲間は、知(ガンダルフ)と勇気(アラゴルン)を象徴する。
オズの場合には、それらが裏返しの形で示される。
すなわち、知の欠如(かかし)、勇気の欠如(ライオン)、そして心の欠如(ブリキ男)だ
(スターウオーズも同じだが、欠如性は強調されない)。
仲間の素性は、最初は必ずしも明らかにされない。
Strider と名のって現われるアラゴルンは、じつは未来の王である。
(3)敵が現われる
これは、仲間に対立する概念であり、悪の象徴だ。
「指輪」では、ナズグルという小悪や、サウロンという巨悪が登場する。
「オズ」では、魔女が敵になる。
敵は主人公とその仲間の目的達成を妨害し、主人公は絶体絶命の危機に陥る。
(4)最終戦争で勝利を収める
小競り合いのすえ、最終的に覇者を決するための世界戦争が行なわれる。
「指輪物語」の最終戦争は指輪大戦争であり、クライマックスはペレノール野の会戦だ。
王が悲劇的な死を遂げる。英雄が現われ、その意外な素性が明らかになる。
ここに登場してナズグルに絶望的な闘いを挑むデルンヘルムは、じつはエオウイン姫だ。
「オズ」の場合は、魔女の城での決戦が最終戦争である。
「ストーカー」がアンチ・クライマックス映画になっているのは、敵が明確な形であらわれず
(強いていえば、敵は自分の心の中にある)、したがって明確な最終戦争がないためだ。
(5)故郷へ帰還する
主人公は戦後の国に留まることを要請されるが、それを断って故郷に帰る。
日常への帰還だ。しかし、主人公と世界のどちらかが変わる。
どちらが変わるかは、「指輪」と「オズ」で大いに違う。
ここに、作者の世界観が現われている。
「オズ」では、故郷は変わらなかったが、主人公が成長した。
「家ほど素晴らしいところはない」というアメリカ的倫理観は、実に分かりやすい。
「指輪」は、これ以上残酷なものは考えられないような結末になる。
主人公が冒険を続けている間に、牧歌的だった故郷は工業化してしまうのである。
主人公は変貌した故郷に迎えられず、外の世界に去る(映画では、一体どうなるのだろう?)。