氷海〜1.氷海
氷海は、長く閉ざされてきた未開の地だった。ほんの、40年前までは。
知っての通り氷海とは、大陸の最北西部、現在では十商家議会が治めるリトホーフルから北の、不毛の大地のことを言う。
その土地に面した海には、あたかも凍ったような白い海原が広がっていた。
それが氷海と呼ばれた由来である。本当に海が氷に閉ざされるのは、そこより遙か北海のことで、この氷海が凍り付いたことはない。氷海の潮は零下なのだが。
この海が、なにか強大な存在によって呪われていると主張する者も多い。
しかしそれがどのような呪いであるか調べようにも、氷海はいかなる調査も寄せ付けない。
本来は、この海のことだけを氷海と呼んだものであるらしいが、その近隣の土地も、海の呪いの影響を受けてか、常に病を呼ぶ白い風が吹き荒れ、土地には作物も育たず、怪異が跋扈した。
今では、この不毛の土地すべてが氷海と呼ばれる。
未開地のご多分に漏れず、そこは危険な場所だったのだ。
開拓者を襲うのが、ただの獣の牙や爪であったなら。
あるいは、住居を朽ちさせるのがただの風や砂であったなら、カルシャ人たちはあきらめなかったろうと思われる。
そういった障害であれば、彼らもその対処法を知っていた。
だが実際は、彼らの扱う道具が石から銅へと変わり、犬を飼い、家族の数が増えていって、彼らの力が最高潮に達した時代でさえ、氷海は人の住む土地とはならなかったのである。
200年前に、獰猛なカルシャ人たちが南部から領土を広げた商人らの軍隊に駆逐された時、アスカラナンの商会はその勢いのまま、限界を超えて北上していった。そして、そのまま氷海に没した。
教訓とされたのは、氷海に手を出すなということだった。
もとより、ほかに侵略していく土地がなかったというわけでもなく、氷海が取り立てて魅力を持っていたわけでもない。
かくして、大陸においては、氷海を地図の空白としながら、都市国家の連結が為されることとなった。
大陸にまだ有効な移動手段が確立されておらず、イシィカルリシア・ハイエンドがまだ南に遠かった時代のことである。
事情が変わったのは、先に述べた、40年前のことだった。
ティムティム・クランシーというのは有名な冒険家だが、
彼らが自分たちの知恵と力と靴の頑丈さを証明する秘境として、氷海に目をつけたことは特筆に値しない。
ティムティムとその仲間たち(彼らの名前は各地の伝説にたびたび登場するが)は、
最高の装備と計画を携えて、氷海に挑んだ。
彼らはまた例によって、20人余の荷運び夫や現地の案内人、
そしてついでに貴重な自然を犠牲にしつつ無事に生還するのだが、
今回の挑戦に限っては、遺族に支払う手当や慰謝料に頭を悩ませることはなかった。
希有なことだが、彼は冒険で益を出したのである。それも、大幅な黒字だった。
苦労がなかったわけではない。
彼らは帰還してから、ひたすらに氷海の脅威について語り続けた。
氷海の風は冷たく乾いて、触れただけで肌をひび割れさせる。
白い風によって空が覆われているため夜が長く、闇は深い。
理由は分からないが、眠ればたびたび何日も目覚めないことがある。
奥地に進めば進むほど音が響かなくなり、会話をするにも怒鳴り合う必要があった。
数日も保たずに、金属がもろくなる。特に白い金属は目に見えて劣化した。
ティムティムの数十年来のパートナーであるケラニアは、
母の形見の銀細工が指で触れるだけで粉のように砕けるのを見て、そのことを最後までこぼしていた。
ティムティムは、氷海に挑んで最も役に立った道具は、木製のものだったと主張した。
テントを設営するための穴を掘ったのも、岩陰から飛びかかってくる砂蜥蜴の頭蓋を砕いたのも、
槍の柄を折って作った棍棒だった。
彼らは夜ごと風とともに鳴り響いた死霊の声のことを訴えた。
氷海は、たとえばほかの秘境のような、無関心な自然の脅威などではない。
もっと意図的に、殺人を望む悪夢の土地だと繰り返し語った。
だが、聴衆が聞きたかったのは、そんなことではなかった……
ティムティムが氷海から持ち帰ったものは、それらの危険と釣り合う以上のものであると、
人々は考えたのだ。勇敢にして無双の強欲者として語られるティムティムが、
かの呪われた土地で発見したものは、一掴みほどもある宝石だった。
ただの宝石ではない。
それはダイヤに似ていた。しかも、原石ではなく、研磨された状態で。
どこか青みがかった透明な結晶の中に、ほのかな輝きがある。
暗がりに持ち込めば、その石は煌々と光を発してすらいた。
それだけではない。石に触れると、鈴のような小さな音が、連続して響く。
それこそ氷海の風が泣き叫ぶような、涼しく冷たく、荒涼とした美しい音色で。
アスカラナンのオークションで、この石につけられた値段は黄金貨1万枚!
氷海石と名付けられたこの魅惑の石の由来を、都中の人々が騒然と噂した。
なぜ、秘境にこのような宝石があったのか? 海賊が隠した財宝か?
異国の鳥が落としたものか? はたまたティムティム・クランシーの狂言か?
当の冒険家は(次なる秘境へと挑む準備を整えながら)、ただこう語るのみ。
「それは大地に落ちていた。隠されもせず、守り手もなく、ただ足下に転がっていた」
人々は狂乱した。そして、この事件が、吐息ひそめ街とも呼ばれるリトホーフルの発祥と、
そして氷海への入植へとつながっていくのである。
−序−
火の、最も暗い先端が、なによりも鋭いのだと賢人は言った。
いや……言ったのは、スノウリの殺し屋どもだったか? まあどちらでも大差はない。
そうではないかね?若いお方。
おっと、それほど若くもないか。この我が輩の話を聞こうという御仁だ。
レザーサラストの大戦については、知っているだろう? 四千年も前のことだったと伝える語り部もいる。
四千年前に、戦争などと文化的なものをこなすだけの文明があったのかどうかは知らんがね。
正しいところは誰も知らない。歴史なんぞというものはそんなもんさ。
どっちみち、いつの時代だろうと同じこった。
いつだって、弱い猿どもは寄り集まって、やれどっちの集まりのほうが人数が多いだの、なんだのと張り合うんだ。
争いのなかった時代なんてもんはない。
弱鬼と大食獣、神と悪魔、雨と大地、国と国、なにとなにが戦おうと、死ぬのは猿どもさ。
さて、客人、おたくの聞きたいことというのを、我が輩に伝えるがいい。
知っていれば答えよう。
心当たりがなけりゃ、まあ……地下の書庫を何週間かぶらつく許可くらいはくれてやるさ。
ただし火気は厳禁だ。
なぁに案内は赤目がしてくれる。客人の目が闇に弱かろうと問題ない。
さて。聞きたいのは、シクラット・ウォールの閉鎖大陸のことか? それとも氷海の神秘かね?
光の空へと至る術? 全方世界の門は閉ざされて久しいが、すり抜ける手だてがないこともない。
知識とは、複雑な形をした容器を満たす水みたいなもんだ。
どんな鍵穴にだって、ぴたりとはまる! おっとこいつは、階下で馬鹿騒ぎをしとる弟子どもが、
よく肥えたマダムたちを口説く手品の口上とはちと違う。我が輩を誰だと思っている?
おやまあ! 全知識の解放者、ガンバンワロウンの名をご存じないか?
いいかね客人。我が輩は自分の偉大さをことさらに言い立てるような、無粋な輩とは違う。
とはいえ言っておかねばならん。
全方世界のあらゆる門を開き、その隅々まで探し回ったところで、誰もが口をそろえてこう言うだろう。
「ああ、そのことはガンバンワロウンに聞くがいいさ」とな!
こいつは、今期の我が輩の標語にしようかとも思っとる。
できれば感想などお聞かせ願いたいものだがな?
聞きたいことがあれば聞くが良い。我が輩は言葉を高く売りつけるつもりはない。
真実を語る者は、それが語られる価値というものをよく知っているというわけさ。
そいつを黄金で汚すような罪を誰が犯すものか? よく覚えておくのだな。
言葉を求めて請求書を見せられたなら、そいつは嘘だ。嘘しか語らん。
さてと客人。そろそろガンバンワロウンに真実を語らせておくれ……
氷海〜2.氷海の剣士
「エルス。今日はまた随分とのんびりしてるじゃないか?」
実際は、それほど遅くもない時間だったが、老人に逆らっても意味のないことだ。
彼女は顔を上げると、苦笑しながらうなずいた。
「そうかもね」
ゴンカタンは、街でも最古の住人のひとりだった。
なにしろ、リトホーフルの開拓にかかわったというのだから、並大抵の古さではない。
エルスは顔を上げる前に苦笑を隠して、なんとかその宿の主人に対し、
従順に見えてくれるであろう媚びた笑顔を作ってみせた。
老人というのは頑固なものであるし、ついでに繊細なものでもある。
機嫌を損ねるに容易く、直すのに苦労し、しかもなんの益もない。
彼の経営する宿が、この街に唯一のものであるというわけではない。
吐息ひそめ街、リトホーフルは、大陸で有数の都市などと比べれば確かに見劣りするものの、
それでも商街道でちょくちょく見かける小都市とは違う。
十商家議会によって運営される市政は、公明正大ではないが、少なくとも公平だった。
富む者には富む者なりの公平。
貧しき者には貧しき者なりの公平。
そして、彼女のような人間にも、それなりの公平を約束してくれている。
(……彼らの思い通りに働けばの話だけど)
と、付け足す。余計なことだと分かってはいたが。
とまれ、街はこの数十年で、かなりの発展を遂げていた。
「なにを食べる?」
朝食をここで摂るのは決まり事だった。
窓の外を見やると、一晩降り続いたらしい雪で、表は一面埋め尽くされている。
冷えるのも無理ないことよね。
小さくつぶやきながら、老人に告げる。
「暖かいものがいいわ」
「冷たいものなんぞ置いとらん」
頑固な口調は相変わらずだが、老人が、今朝からずっと、そう聞かれたがっていたことは疑いなかった。
厨房からはスパイスの利いたスープの香りがしていたし、この冷え込みでは、胃袋に火の塊を流し込めるのはありがたい。
老人は自信たっぷりにうなずくと、
「本当を言えば、お前さんがなにを欲しがっているのか、聞かんでも分かる。そこに座ってろ。わしに任せておけ」
そう言って、厨房の中に消えていく。
エルス・ショットは嘆息して、一番近くのテーブルについた。
朝食は嬉しかったが、急いで出なければならない。
彼女の雇い主はそれほど気が長いほうとは言えず、約束の時間は差し迫っていた。
そのために、部屋から武装してきたのだが、ゴンカタンがそういったことを察してくれると期待しても仕方がない。
そもそも彼に言わせれば、こんな仕事はできる限り早いうちにやめてしまえというところだろう。
確かに長く続けたいとも思わないが。
椅子に腰を下ろす前に、マントを下ろして、剣帯から長剣を外す。
剣をマントにくるんで、同じテーブルの隣の椅子に立てかけてから、彼女はようやく席に着いた。
氷海では、金属製の武器など役には立たない。
ものの数時間で腐食し、砂と化してしまう。
だが、それでも人の住む街があれば、そこには争いがあり、武装した戦士が必要とされた。
リトホーフルは、氷海に最も近い都市である。
氷海とその沿岸でしか得ることのできない希少な宝石「氷海石」の採取のみで発達した、開拓人たちの街。
それだけにその利権に、街の支配者たちは神経質となる。
リトホーフルの支配者。
つまり、開拓の出資者となった十の商家、十商家議会である。
いかに氷海に近いほうが採取には有利といっても、人間が住める環境には自ずと限度があった。
結局のところリトホーフルは、氷海の怪異が及ばない、ぎりぎりの境界線に位置している。
氷海石を集めてきた採取隊が荷を下ろし、整理して取り引きする。
街には商人や細工屋、輸送のための商隊などがひっきりなしに出入りしていた。
そして、それらを狙う野盗なども。
無論、街中にも危険はある。
特に、密輸や盗掘は絶えない犯罪だった。
それらに対抗するため、商人も武装する。
つまりは、腕の立つ用心棒をひとりでも多く得ようとする。
特に十商家は、互いの水面下での反目もあって、最高の腕を持った戦士を慢性的に欲していた。
時には、それらお抱えの傭兵の決闘で以て、問題の解決をはかることもある。
そして、これはごくまれなことではあるが、決闘ではなく暗闘、
あるいは決戦ということも、リトホーフルの歴史の中では行われてきたことだった。
特に有名となったのは、十商家の中でも有数の力を持っていたリスキス家の、最も強力な戦士であった、エルス・ショットである。
彼女の出生は知られていない。
当時のリスキス家の当主イセラクの庶子であったとも囁かれたが、両者の顔を見比べた者はことごとく、噂は噂だったとため息をついたという。
主に商隊の護衛を務め、彼女の剣にかかった野盗の数は二百を下らなかったと記録にはある。
最も有名な逸話はエレラビル家との決闘に関するものだが、彼女にしてみれば退屈な戦闘記録のひとつに過ぎなかったかもしれない。
イセラク・リスキスはことのほか彼女を大切に扱い、特に氷海へは近寄らせなかった。
他家との決闘も、彼女が確実に勝てるであろうと踏んだ相手でなければ応じなかったという可能性は高い。
彼女は数年ほどで氷海の表舞台から姿を消したが、氷海の人々はいまだに彼女こそが、氷海最強の剣士であると信じて疑わない。
実際、エルス・ショットの実力は偽ではなかっただろう。
血を見ることを嫌い、野盗たちが「うっかり」彼女の護衛する商隊に襲いかかってきたりしないよう、エルスはイセラクに、これ見よがしの護衛隊を組織させた。
彼女自身も、遠目にも自分と分かるよう、派手な真紅のマントと帽子を被り、野盗を威嚇したという。
それでも愚かにも、風評を真に受けなかった者たちは存在した。
その場合、彼女の剣は容赦を知らなかった。
彼女自身が(そしてイセラクが)わざと流した噂と、それを裏付ける戦果によって、エルス・ショットの名前はリトホーフルで揺るぎないものとなった。
現在、氷海で最強を目指す荒くれ者たちは、派手なマントと帽子、そして腰に下げた一振りの剣といった出で立ちで『氷海の剣士』を名乗る。
そして、街の入り口に、商隊の旅を守護する者として建てられた、伝説的な剣士の像を見上げてその鍔を鳴らし、
自分にもその名に相応しい加護を与えてくれと祈るのである。
701 :
名無し物書き@推敲中?:01/12/09 16:53
おもしろ。続ききぼーん。
702 :
上の奴、面白:01/12/09 17:31
少年漫画板で2ちゃんネタ用のライトノベルを晒している
人がいるけど
どっちかと言うとここで晒すべきだよね。
一区切りついたら、穴に投稿してみれや。
氷海〜3.吐息ひそめ街
吐息ひそめ街とも呼ばれるリトホーフルが、その異名の通り静かな都市だというわけではない。
商人の街。喧噪はむしろ絶えない。
街は商人たちによって統治されている。
一握りの、有力な豪商による合議。
あるいは、見せかけだけの合議だとしても。
彼らは互いの息の根を止めたりはしない。
街を収める力を維持するためには、身内の首を絞め合うことにも限界があると分かっているからだ。
街は、高い壁に囲まれている。
それは、魔性の跋扈する氷海に最も近い都市として、必要な防御だった。
少なくとも、市壁は数十年にわたって脅威を退けてきたし、
市民が怖じ気づいて逃げ出さないためにも一役買っている。
名高い氷海の剣士たちに守られていても、
人々は怯えるものであるし、事実、住民はいまだ、氷海を征してはいないのだから。
リトホーフルには、大陸そのものがある。誰もがそう言う。
この街にはあらゆるものがある。商人が物を集め、人を集め、そして学問をも集めた。
かの《断崖の図書館》から招いたという魔法使いセキエンスは、この街で二十年以上、私塾を続けてきている。
恐らくは近隣で、リトホーフル以上に高度な儀式呪術を学べる場所はないだろうし、また実際、氷海よりも興味深い実験対象も多くはなかろう。
儀式呪術は、たとえばイシィカルリシア・ハイエンドにあるという精霊使いのような、劇的な効力を望むことはできないにせよ、
学習することで誰もが扱えるという利便性は、商人たちがなによりも望むものだった。
わがままな使用人に対して「ほかに代わりはいる」と言える権利というのは、彼らにとっては手放しがたい。
儀式呪術のようなささやかな力が、氷海の力にどれだけ抗し得るのか、それについて老セキエンスは、しごく真面目にこう答える。
「わしが君に与えることのできる力というのは、本を一冊読む時間をわしに贈与する代償として、
その知識を要約してわしが君に与える、そういったものだ。
君は一生をすべてわしに進呈することもできる。
なるほど。わしは君の一生を要約して伝えてやろう。
つまりは無駄を省くだけで、なにも得をしない。
それが魔法というものだ。
魔法の力だけで氷海を手なずけることなど、あり得ん話さな」
また、リトホーフルの中心部には、十商家議会の議事堂と並んで、厳めしい神殿の姿がある。
アスカラナンから4年の任期で派遣される司祭は、議会と対等の発言権を有し、また求められる。
結局のところリトホーフルは、アスカラナンの持っている財力からは抜け出せないというわけだった。
もっともこれは、一夜にしてすべてを失う可能性すらある氷海の都市としては、最低限の保険といえるかもしれない。
神殿には、やはりアスカラナンの狂戦士たち、つまりは神殿警衛兵たちが待機しており、
これと十商家が持つ氷海警備隊、そして傭兵たちが、リトホーフルの全戦力だった。
これは決して十分な兵力ではないが、逆にその程度の軍隊と戦って出す損害ほどにも、
この都市の価値が認められていないということでもある。
近隣諸国は、この都市を攻めるくらいならば、アスカラナンを攻め落とすだろう。
アスカラナンの神殿を領土下におけば、自動的に、リトホーフルも手に入れるのと同じことになる。
わざわざ氷海に軍を近づける愚を犯す必要はない。
控えめに言っても大陸でも有数の豊かな都市であるリトホーフルが、
永きにわたって自治を守れてきた理由は、その程度のことでしかなかった。
リトホーフルは、いつも危険とともにある。
その狭間で、息を殺してじっとしている。自らの腹の中に貯まる、財の奏でる音を聞きながら。
吐息ひそめ街という名が、そのためについたというわけではないだろうが……
氷海〜4.氷海の怪異(1)
盾を削る爪の鋭さは、間違いなく鋼に劣るものではなかっただろう。
エルスは口の端に浮かんだ笑みの苦みを味わいながら、独りごちた。
まったく――こっちは、鋼が使えないっていうのに!
それでも樫の板を組み合わせたその盾は、必要とあれば斧の一撃を真正面から受け止めることもできたであろうし、
彼女に言わせれば、そんな愚鈍な真似をせずとも、最も鋭い刃の軌跡を受け流すのは簡単なことだった。
だが、それでも今対峙しているその敵の振りかざした爪は容易くその盾の厚みを削り取り、受け流すどころか引き剥がすこともできそうにない。
ほんの二回だった。たったそれだけの接触で……
(認めるしかないわけね)
彼女は舌打ちして、覚悟を決めていた。
踏ん張っていた足の位置を微妙にずらして、全身の力を柔軟に抜く。一瞬のことだが。
盾を手放し、後方に飛ぶ。同時に、巨大な爪が樫でできた盾を骨組みから砕き割った。
それを見据えて、右手に構えていた木剣を、両手に持ち直す
凍えるような氷海の風の中にあって、浮かんだ脂汗が弾けて視界の中に散った。
「……手を貸そうか?」
「黙ってなさい」
背後から聞こえてきた声に、即答する。エルスは振り返らないまま、その声を発した男の顔を思い浮かべた――どんな表情を浮かべているだろう?
気にならないといえば嘘になる。
心配? 不安? 嘲り? 皮肉? 愛情? 友情?
だが、それを確かめることはできない。理由はふたつ。ひとつはプライド。
そしてもうひとつは、一瞬でも目をそらせば、眼前の脅威に対処することができなくなる。
それは、怪物と呼ばれる領域の住人だった。
踏み込めば、怪物領域。そこにある、明確な脅威。
それには爪があった。
人の鍛える鋼よりも強靱で、鋭い爪が。
その爪を、さらに破壊的な筋力で振るい、そして眼球では捕らえきれない速度と正確さで打ち込んでくる。
氷海の白い風。その中にたたずむ、漆黒の姿。
その外貌から意味をうかがおうにも、そこにあるのは冷たい眼がふたつだけ。
丸い瞳がただ無言でこちらの姿を映している。
人よりも巨大で、人よりも素速く、飽きず、隙もなく、硬い。
認めるしかないのだ。それが、人間よりも強力な存在であるということを。
(逆世界の聖人……黒騎士)
それは、そう呼ばれていた。命名者は――誰だったのか。
思い出せない記憶についてはすぐに思考から押し流し、エルスは自分に分かることへ集中した。
木剣の柄を強く握りしめる。人間相手なら、力を抜くよう意識するところだった。が、この場合はこれでいい。
(相手は人間ではないものね……)
人間なら――正確な動作さえ心がけておけば――剣で撫でるだけでも内臓をむき出しにできる。
が、この相手にはそれでは通じない。
力の限り打ち込まなければ傷をつけることもできまい。
盾がなくなった今、次の打ち込みで息の根を止めなければ、そのままこちらが殺される。
盾もなく、そして剣を攻撃に使うのだとすれば、敵の爪を防ぐ手段がない。
久しぶりの氷海は、相変わらず血をたぎらせるどころか、
逆に自分に血潮が流れていることをすら忘れさせる、慟哭の地のままだった。
人間に、無意味な試練を与えるだけの、悪夢の地。
その見返りがあったとして、なんだというのだ? ここに人の力を越えた存在がいる。
それを踏み越え、人の手に余る富が手に入ったとして、それはなんなのだ?
自分に殺された何人もの山賊というのは、こういった気分だったのか。
彼らにとって、自分が人生の最終試練であったのか、単に獲物を取り損ねただけなのか。
分かりはしないし、なにより彼ら自身にとって、どうでもいいことなのだろうが。
「そうとも言えない」
背後の男は、いつものように心を読んで言ってくる。
「君は逃げてはいけない。そうだろう? エルス・ショット……氷海の剣士」
大きなお世話だ。まさしく。
彼女はきっぱりと無視すると、腰を落として一瞬に備えた。
怪物の動きはまったく読めない――気がついた時には、自分の頭が、
頭だけが地面に転がって敵を見上げている、などということにもなりかねない。
集中しなければならなかった。目だけではなく、肌で、心で。
彼女は息を吐いた。
氷の風と、自らの吐息とが混じるその中に、己の意思と、感覚と、感情と生きるすべてが溶け出すのを思う。
死にはしない。死ぬわけにはいかない。
氷海の怪人を前にして、彼女は自分のすべてを剣に賭ける覚悟だけを、静かに固めた。
不思議なことではあった。
(今までなにひとつ……自分では決めてこられなかったわたしなのにね)
その覚悟だけは、悩む余地すらなく、そのことが心地よくもあった。
★
それを天使と呼ぶのは、誰にとっても抵抗があったに違いない。
高次のものからの遣い。
だから賢者は、それを聖人と呼びつつも、逆向きにせざるを得なかったのだ。
賢者は悲しみをこめて、こう名付けた――黒衣の騎士。逆傷の聖人と。
放浪の賢者ガンバンワロウンは、詩人ではなかった。
洒落者ですらなかっただろう。
故にそれは、彼の頑固な悲しみとしか言えない。
彼は氷海に現れる怪物……現在確認されているところでは12人存在するというその怪人を見て、即座に悟ったのかもしれない。
氷海の意味を。この呪われた地の存在する理由を。
彼らが何者なのか。
そのことについて、賢者は多くを語らなかった。
ただ賢者はそれを、騎士だと告げた。
怪物領域から来訪した騎士。
地図の空白に巣くう脅威。