武徳会とは?

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1名無しさん@お腹いっぱい。
・平井稔氏を合気道の師範に選出
・中村日出男氏を空手道の師範に選出
・澤井健一氏が柔道の練習をした
・甲野善紀氏の祖父が設立に関与
2名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/26(月) 13:43
武徳会って名前の組織って、幾つかなかった?
3:2001/02/26(月) 13:50
>>2
ええ!ここでは大日本武徳会というものが京都に武徳殿という道場を持っていたという認識で書いています。
そこから間違っているのでしょうか。
4名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/26(月) 15:00
私の知っている範囲。
大日本武徳会の初代会長は武神館初見先生の師匠故高松寿嗣翁。
ここの剣道会は明治の本物の剣豪が集まって技の体系をつくった
そこには体当たりとか脛打ちなんてのもあった。
でも、戦後GHQにより武徳会は解散。
(たしか、昔の秘伝に書いてあった)

今も武徳会という会派は現存するが昔のとは違らしい。
5名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/26(月) 15:10
>>4
解散した武徳会がいわゆる武徳会ですよね。
戦後のものはなんなんでしょう???情報ありがとうございます。
6名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/26(月) 17:17
>>5
 終戦後GHQに解散させられましたが、その後復活しています。京都に武徳殿あり。
 玄制流武徳会という団体がありますが、これは土佐邦彦師範の空手流派。
7名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/26(月) 17:34
>>6
たびたびすいません。今言う武徳会錬士何段というのは、戦前の武徳会の段位に準じているということですね。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/27(火) 10:59
そうです。因みに柔道は二十年くらい前まで段位を出していたはずですが、
講道館に統一され、学連とともに廃止されました。
わたしは高体連黒帯ですが、今は無段です。
9名無しさん@お腹いっぱい。:2001/02/27(火) 11:39
>>8
丁寧にどうもありがとうございます。
武徳会には武道の段位の水準を揃えようという意図もあった様に聞いているのですが、
それにしても段が引き継がれないのは残念ですね。
109:2001/02/27(火) 12:05
丁寧→ご丁寧
頭を打ちすぎて謙譲語と丁寧語の区別が付かなくなってしまった。
11居合のセトさん:2001/02/27(火) 13:11
大日本武徳会の初代会長は設立当時の京都府知事、渡邊千秋氏です。
明治28年四月十七日、発起人総会を開き、満場一致で会長を選出、
副会長に伯爵、壬生基修氏を決定して会の成立を見ました。
言出しっぺの創始者は鳥海弘毅氏です。
28年が桓武天皇の千百年祭に合わせて大極典を作り、演武祭を奉納
する事により、尚武の意識を高揚させようと26年に地鎮祭を行い
ましたが、当初一般大衆の理解を得られず、演武祭の話は流れました。
現在の武徳殿建設には当時の金で5万円くらい必要だったそうです。
当初会員は60名程だったそうで、まったく足りなかったものを
小西新右衛門氏が一万円程出したとの事。
小西新右衛門氏は伊丹の小西酒造の当主で修武館を開いていました。
武士の世でなくなった為に大変になった武芸者を保護し、若者や子供
には無償でお稽古させてあげていたそうです。
第二次大戦の敗戦も武道の危機ではありましたが、実はもっと大きな
危機が明治維新だったと言えます。社会構造の根底からの変革で
したので。幸運にも日清、日露の状況が尚武の雰囲気を後押しして
くれた為、士族の教育を受けた人達が多く生きている時代に復興が
かなったのだとも言えます。
この社会情勢の変化によって武徳会は全国に広がり、会員も一万人を
超えたことで財政的にも好転していったそうです。
会の発足前には第百十一銀行の頭取であった辻重義氏も発起人であった
関係から創始者が個人で借財してまかないました。
後々には段位の水準云云もあったかも知れませんが、一番最初の意図は
我国の武道の再興という使命感に尽きると思います。
第二次大戦の敗戦で解散。武道専門学校の解体は二年後くらいだった
と思います。最後の校長である鈴鹿先生が私財を投げ打って職員に
金を持たせたと聞いています。
戦後、武徳会の名称を用いている団体は一切上記の武徳会とは
関係ありません。
12名無しさん@お腹いっぱい。
>>4 へ

もっともらしく、ウソを書くな。
インチキ忍者の師匠のインチキ貧乏人が、
どうして武徳会の初代会長なんだよ?
豆腐の角に頭をぶつけろ。